はてなキーワード: エマとは
言っておくけれど、有権者の半分程度は男性。この人達の支持無しにフェミニズムは進まないのよ。
はてな界隈で見るフェミを見ていると、男性を敵に回しているようにしか思えないのよね。
この前なんて差別はマイノリティが対象の場合にしか認定されない、
であるので男性に対する不当な扱いは差別ではない、みたいな事言ってるヤツがいた。
もしそうならば、男性への不当な扱いが差別と認定されないなら、
男性に対する不当な扱いやりたい放題ウェーイじゃねーの?と思った。
彼らがフェミを叩き潰そうとする強力な動機になり得ると思うのだが。
自分は女性差別に反対だし、この前のどっかの医大で女性の受験者が不当に落とされていた件に関しては、
ただ日本のフェミは、そんな女性差別に反対の自分のような男性を取り込めるようなフェミの運動になっているようには思えない。
上野のような知的誠実さに欠けた人間よりも、もっとちゃんとした人を先頭に据えた方がいいと思う。
例えばエマ・ワトソンは女性だけでなく、男性もジェンダー・ステレオタイプから自由になってよいという主張をしている。
女性に性的役割を押し付けるのが女性差別なら、男性に性的役割を押し付けるのも男性差別になる。
この点においてエマの主張は非常に筋が通っている。
この考え方であったら、自分も支持する。
とか抜かしている。しかも一人や二人じゃなく一派閥は築いている。
この程度では日本のフェミニズムは遅れて当たり前のように思う。
ただその大きな原因の一つは日本のあまりにも自己の利益しか見えてない幼稚すぎるフェミの主張だと思う。
これが男性の反感を激しく買っているのだ。
昨日、ようやく弦ちゃんwith心ちゃんを倒して御子様を楽にしてあげてエンディングをみましたのでレビューしますわね。
自信のブログでおやりなさいですって?
わたくしのツイッタアーにネタバレを極度に嫌ってネタバレ防止を強要してくる人が7人ほどいるから無理ですわね。
これは色んな所でいわれていますわね。ソウルシリーズの感覚でやると痛い目みますわよ。
まず、武器は基本的に刀一本ですわね。いわゆる直剣モーションで扱いやすく、壁を斬った音は完全にソウルシリーズのソレですわね。
忍具というスリケン(飛び道具)、バンガサ(盾)などもありますが、形代というMPを使うのであまり頼りにしすぎると痛い目をみますわね。
大きく違うのが敵を倒す方法でしてよ。
ソウルシリーズは相手のHPを減らせば敵を倒せる仕組みですけど、SEKIROは相手に忍殺アクションをすることでも倒すことができますわ。
忍殺に成功すればどんだけHPがあろうがHPがなくなりますわ。しかしボスはHPがだいたい2ゲージあるので1回目は不意打ちの忍殺で減らせても2回目はガチでやる必要がありますわね。
でも、大体は忍殺が決め手になりましてよ。ボスを忍殺で仕留めて画面にデカデカと「忍殺➖Shinobi Execution➖」って出るともう気が狂うほど気持ち良いのですわ。
話が逸れましたが、相手の体制を崩すことでも忍殺はできますの。体制を崩すためには「体幹」とよばれるゲージを貯める必要がありますわね。
「体幹」は、相手に攻撃を当てる、相手に攻撃をガードさせる、相手を踏みつける、相手の攻撃を弾く、相手の攻撃を見切ることで増やしていけますわ。
主人公の狼ちゃんの刀はクッソ雑魚いですのでHPをへらすことは困難でも、「弾く」「見切る」「踏みつける」の3つの防御手段でこの体幹ゲージを貯めることは容易いですの。
ブラッドボーンの「リゲイン」が「攻撃による防御」とすると、SEKIROの「体幹」は「防御による攻撃」ともいえますわね。防御をうまくできるほど相手を追い詰めることが可能ですのよ。
かといって攻撃をせず防御に徹すればいいのかといわれるとそうではなくて、体幹ゲージは時間が立てば回復しますの。相手の攻撃を待ってる間に稼いだ分が無駄になることもありますから、相手の隙にこちらも攻撃して体幹ゲージを回復させないようにしないといつまで立っても倒せませんわ。(1つのタイプのボスを除いて)
つまり相手の動きを見ながらの「攻撃」「弾く(ガード)」「見切る(回避)」「踏みつける(ジャンプ)」の4択がこのゲームの基礎ですわ。そこに回数制限のある忍具も加わり自分が苦手な部分をカバーすることもできましてよ。(例えば見切るのが苦手な人は霧カラスという反撃技で無理やり攻撃を交わして攻撃につなげることも可能でしてよ。わたくしは後半ずっとこの霧カラス頼りでしたわね。)
それ故にソウルシリーズのようないろんな武器、いろんなビルドで他の人と全く違う自分流の戦い方みたいなのはできませんわ。
SEKIROは基本的に人型が相手ですの。もちろん、動物や魑魅魍魎も数体でてくるのでそちらを期待する人も大丈夫ですけど、基本は人型ですわ。
弦ちゃんはCVが多分津田健次郎さんなんですけど、声質と相まって野望に燃える俺に似たイケメンでかっこいいですわ。心ちゃんは弦ちゃんのお爺さんなんですけど、酒飲みでジッとしていられない性格の好々爺で国思いですわ。
でも、そんな二人は終盤に主人公の狼と戦うわけですけども、これがもう、「弦ちゃんと心ちゃんすき…」と心酔した状態を打ち砕いてきてムカつくほど強いですの。
コントローラー握りながら「クソ範囲やめろカス」「出し得ばっかするな死ね」「侍のくせに忍者と正面からやりあえとかバカか」「キチガイ一族が」「その力で内府軍とやりあえやカス」「気持ち悪いんだよそのディレイ」「スタッフの性格の悪さが滲み出ている」と叫びながらやっていましたのよ。
でも、だんだんやり方を覚えていくと弦ちゃんに関しては9割ぐらいでノーダメ突破できるようになっていって「弦一郎はもう余裕」となり「一心も一回目は余裕」となり「一心の2回目も結構いい感じ」となり、3時間かけて打倒したましたの。
その時にもう一度「弦ちゃんと心ちゃん、ありがとう」という気持ちが湧いてきましたのよ。特に心ちゃんの潔さは自分が年老いても(老いませんが)持ちたいですわね。
他のボスも大凡そうですわ。打倒した時に「ありがとう」となりますの。
でも、獅子猿(1段階目)と梟と蛇の眼と七本槍と怨嗟の鬼は許せませんわ。こいつらは一生嫌いだと思いますわよ。
ここまで書いておいてなんですけど、そこまで好きじゃありませんわ。
というのも、やっぱり私はソウルシリーズを求めてしまっていたのが原因ですわね。
新しいゲームが出た時、なるべく前情報を仕入れないようにしているのですが、私はソウルシリーズをやる時の初見は刺剣+魔法と決めていますの。(これはデモンズソウルで最初に貴族を選んだことに起因していましてよ。)
動き自体は刺剣のそれでしたけど、やっぱりあらゆる状況に対応できるキャラが好きですのよ。
100%私側の問題で自分勝手ですけど、やっぱりソウルシリーズと思ってやっていると印象がどんどん悪くなりましてよ。
また、配置が練られているの練られていないのかよくわかりませんわね。
ボスや強敵自体のバランスはかなりよく練られているとおもいますの。
でも、倒さなくていい強敵がいる場面ではほぼ高低差を利用できるようになっていますの。だからわかってくるとまずそれを探してしまいがちですの。
まぁあまりマゾゲーにしたくないという気持ちがフロムにもあったのかもしれませんわね。あくまでもステルスアクションなのですから。
でも、やらしすぎる配置が多いのも事実でしてよ。広範囲探索しないといけない所に対策必須の中ボスが出てきたり、中ボスの周りに雑魚敵を多く配置してきたりはいじわるがすぎるとおもいましたの。そういう背景もあって、まずは中ボスを出し抜こうとしてしまい中ボスの印象が薄くなってしまうのは仕方がない事かもしれませんわね。
後はフロムにしてはキャラにクセがなさ過ぎる、というのが感想でしてよ。
世の中が戦乱だから仕方がないのかも知れませんが、自分の欲望のために動くというキャラが弦ちゃん以外いなくて物足りない感がありましてよ。
どのNPCも狼を高く評価してくれますし、騙そう・利用しようなんて思ってるキャラはいませんの。いや、一人いたような気がしますが、最後に狂ってしまったのでちょっとかわいそうでしてよ。
心ちゃんサイドのストーリー補完がもっとあれば、もしかしたらエマや御子の裏側が知れるかもしれませんわね。これはDLCに期待ですわ。
ゲーム自体は綺麗なグラフィック、そこまでストレスのないロード時間、オフラインゆえのメニュー画面で時間停止など丁寧に作り込まれていて、
日本っぽい舞台でチャンバラがやりたいプレイヤーにはかなりオススメできますわね。
とりあえずトロコンまではしたいとおもいますし、ストーリー気になりますからDLCやりますが、例えばSEKIRO2が出たら買うかは微妙ですわね。
本来は被害を受けた当事者への共感を伴った義憤によって分母を大きくする事で加害側への責任のサイズを正当にしそこに個人に納まらない社会においての蔑視的観念の影響が認められるなら啓発としての批判的働きも含めというような概念で本当は消費できない存在をそのように扱うことへの糾弾的皮肉的意味合いを持った言葉なのに今では性的な消費という言葉を拡大解釈させて女性という概念への被害を叫ぶ事で属する自身をも直接的被害者としてカウントさせ正当化させるための単なる利己的なツールと化してもきているようで辟易する
加害者に責任や制裁を求めるのも当事者である被害を受けた女性によりも集塊した個々の怒りに対して望むような傾向が見られるし主観の域を出ない個人的感想の主語を"女性"とすり替え同調を誘う事での自己正当化また溜飲を下げるための手段や非難のための免罪符としても使い勝手良く氾濫してしまって意味性としてはむしろ正当性が削がれていっているように思うしそこに危うさも覚える
その言葉は多くを包含する女性という概念の下で主観的なものに左右される消費への定義を振るうものであるのに消費という単語が持つ即物的な客観性を含んだ印象のためにさもそこに共通する絶対的な基準が存在するかのような錯覚を起こさせ個々に主観を反映させたそれを自身の正当性の担保としたならそこに齟齬や違和は当然生まれるし実際見ていると女性間でさえ性的価値観の差や意識差においてその寛容さ奔放さを自身との相違でもって本来は違って当然で双方が尊重し合うべきものであるあくまで相対的なものでしかないそれを性の消費へ加担しおもねるものだというような非難へ繋げていて(エマワトソンのトップレス写真問題が分かりやすい)それは女性が選択できる性的自由度の幅を狭めるようなもので全体主義的というかほんとどうなってんのというきもちになる
それは加害者としてファンタジーと現実の区別がつかない人間だけでなくその性的対象にも原因を求める痴漢の自衛論的な発想でそんなものでも"被害を受ける女性性"を盾にすれば正当性を伴ったあまりに大きすぎる分母の代弁者として振る舞えるそんな客観的正当性を欠くような類の安易な乱用が許されるガバガバな現状はともすればそのまま安易に女性性が消費できるものだと定義認識されかねずそれはいわゆる二次元のキャラクターなんかに対して更に顕著で代弁し得る被害者がいない分自身がその対象を受け入れられない不快に感じたそれを消費されているとして被害を主張し嫌悪不快感の赴くまま狭く特殊な世界の性的な意図や人によってはポジティブな性的さと捉える類のまた場合によってはそんな意図自体端から無いようなものにまでその責任を取らせるため拳を振り上げ本来は絵や漫画に限らず性的なまたは偏った視点による都合のいい理想像としてそのために用意されたもの次いでそれらへの一方的な性的な視点と現実の女性は全くの別物で前者に後者を反映させる事はあってもその逆は原則的に無いとすべきところをむしろ進んで混同を招くかのようにそこに消費できる女性性が存在しているまたその性的な偏った視点が消費され得る現実の女性性を含むものとするそれこそ現実に生きる女性への冒涜でそれは特殊嗜好やそこへ向けた性的娯楽表現で社会における女性男性を定義するような性的玩具に女性性を認め性的な消費だと言うような話でその辺の誰かが言ったおっぱいエロいって発言が胸を象徴としての性的な興味の個人的な発露なのかフェティシズムとしての限定的な性的嗜好によるものなのか対象のポジティブな性的魅力の客観的優位性を語るものなのかそれとも女性を性的な消費物としてしか捉えていない事での無意識の発言かなんて場合によっては当人にも分からないのに性的さや性的な魅力へ惹かれるそれ自体を消費だとするそれは傲慢以外何なんだという話でものの区別がつかないのかと思う
私はそれこそそんな身勝手に"女性が消費される"なんて言葉が使い回されるそれに"女性という概念が利用され消費されている"という気持ちになる(皮肉)
いや実際性的なものに限らずそんな類の感情にまで体よく使えるそれこそ消費という言葉の現状へ思う事でもある
言葉自体を使う事被害を訴える事共感や怒りそれ自体や社会の在り様を問う事疑問を持つ事嫌悪感や不快感その苛立ちをどうにかしたいという気持ち許容しかねる性的価値観や被害者がいなくても"女の子"とされるものの後ろにいる人間への非難めいた感情やその影響への懸念やそれを示す事それが問題なんでも悪いわけでもなくそれが本当に正当性のあるものかそのマイナス感情は自分に帰結するものではないかその対象が個人的なものかまた属するグループの特徴か社会に反映され得るもの社会を反映したものかを考える必要を欠かせたまま通用させてしまいかねないその責任感の無さからの軽率さでお手軽にやってしまえるそこが言葉の持つ重さに対してあまりにもに思えるしそれが招く扱う内容や巻き込むものの影響のサイズを考えればそんな程度に扱えるものではないはずなのにと考えてしまう
個人的にはそれが気に入らないものを非難排除する印籠または虎の威を借る狐的使われ方だとしてかわいさややわらかさみたいなものを弱さだと前提として定義してその上で"弱い女性"を理想化している事での消費という捉え方での使われ方が無意識に男性性への優位的価値基準に基づく無責任さを見るようで本当に恣意的で独善的できらいだし理想像の偏重さへの抗議の意としてそれが言われる事もあってでもそれは他を貶めて相対的に優位さを確保するやり方でその度そんな事に問答無用で総意として私が女性という性で巻き込まれまた使い方如何でその責任まで勝手に負わされることになるその不当で理不尽なガバガバさがほんとうにほんとうにきらい
そしてきらいだけどそれは個人の意見でそれに異を唱え打ち捨てたいと思う人もいるように本来性別のようにグループにおける総意とは"個人的に""私は"の集約であって集約されるという過程を飛ばして個人が主観で代弁できるようなものじゃなくするべきでもなくまた次いでその中に見られるあくまで問題解決への手段である問題提起とその周知を自尊心を満たすための個人の目的としてとやってそのためにと短絡的に対象を大きくとり優生学的に貶し相対的また絶対的優越に浸りそれを自己肯定感へ繋げ反芻するその姿は痴漢や他の性的被害に対して女性への蔑視的思想でもって心無い人間によって見られるようなそれでもあり持ち出す内容やその是非倫理性は違っていてもそれ以前に同じ事をしているというその影響は個人でなく"女性"の代弁としてやるには確実にあってそうしてしまう事で女性の言葉"としての説得力が失われていき実際そういう観念でもって本当に総意の力が必要とされている場でもその説得力の有無をこちらへ突き付けるような人間が少なからずいるその事も恐ろしいしその必要な人のための必要な場のためにも代弁者とするなら個人的な部分をこえたところでの危機意識は持つべきものだと思う
個人として何を思うのもどんな価値観を持つのもそれを発表するのも基本自由ではあるけど少なくとも女性というだけでなく大きな枠で多くを巻き込む事になる上で代表として語るならその自覚はあるのかそれがどこから来たものかそこに客観性が含まれるか主観とは区別できているか自論であるなら自身でそうだと理解しているかそれを示せているかのひとつくらい考えて使うべきだと思う
本当にひとつでも十分なのにと思う
というような事を消費という言葉を見る度思って胸焼けを起こすので文字に起こした
提言とかでさえない
そいつがフェミを名乗った以上、そいつはフェミニストであり、そしてそれを掣肘する真っ当なフェミなど一人たりともいなかった。
てか、「真のフェミニスト」とは?
さぞ立派なんだろうなーどんな人だろうなー
著名なフェミは「都合の悪いエビデンスは隠す」宣言の上野とか「全てのセックスはレイプ」マッキノン、「美味しいところは欲しいけど男並みの責任はヤダ」のロクサーヌゲイ、言行不一致の無責任ペテン師エマワトソンなど錚々たる顔ぶれ。
まともなフェミなんているんかなー
女性差別の被害の事例は「本当かどうか分からない」とか言うくせに、自分は電話でしゃべっただけの相手の自称を信じるんだ?
ダブスタ~!
というのは冗談として、君らの行い、それも影ではなく大っぴらにやってる行いが誰にも見られてないと思ってんの?
結局、実際にあるものを無理やり「ない」ことにしようとするから、理屈がめちゃくちゃになるんだよね~。自分の願望に合わせて理屈を立てても絶対上手くいかないよ。
実際にないものを「ある」ことにするからエビデンス一つあげられない。
ブーメランですね。
ネットやニュースで見る女性差別の体験談、たしかに嘘が混じる可能性はあるけど、具体的に書いてる人もいっぱいいるし、あれだけよく聞くたくさんの話が全部作り話とも言えないでしょ。
嘘はどれだけ具体的に作っても嘘。
嘘は億並べても兆並べても嘘。
あ、「そんなによく聞かないし具体的でもない」とか言うのやめてね。あなたに見えてない世界がありすぎるのはもう分かったから。「あなたには見えないのね、ふ~ん」としか返せないから。
見えてるよ。
毎回手を変え品を変え、なぜか筋書きだけはそんなに変わらない嘘の山。
毎回物証一つあげられない。
むしろ、「自分は『フェミを電話で名乗る人』に嫌がらせされた」ってすごい狭い範囲の体験だけで、フェミ憎しだけならまだしも、女性差別全体まで見えなくなったって方が信じられないわ。
己に対する攻撃者を憎むのは当たり前だろ。
昨今ネットでラディカルすぎるフェミニストが目につくことが増えてきたので、もしかして日本ではフェミニズムって言う言葉は悪い意味で広がりすぎているのかもしれないと思ってるので、自分が把握している範囲で歴史を紐解きつつまとめてみようと思う。
まず、フェミニズムはあくまで「女性の地位向上」が目的として出てきた運動なのはまぁ言葉の通りだよね。男性の地位が高く、女性には発言の自由が認められていない状況をなんとかしようね、というのがフェミニズムの始まり。
だから、フェニミストが声を上げるたびに「じゃあ男性の権利は剥奪される一方で良いのか!」という反論を目にするんだけど、「語源としてフェミニズム」から見た時に、フェミニズムは女性の地位向上が目的なわけで、こういう反論はトンチンカンだとは思います。
ちなみに、男性の地位向上を目指す運動は「マスキュリズム」と呼ばれていたのですが、思ったよりはこの活動は流行らなかったです。
マスキュリズムの考え方はとても良いものだと私も考えます。離婚の際、子供の親権は女性に有利すぎるだとか、そういう女性優遇は確かに存在しますから。
ただ、マスキュリズムが流行らなかったのはマスキュリズムは実質的には「反フェミニズム運動」にしかなれなかった、というところが大きいんですよね。
「フェミニズムなんて活動が出てきたからそれまで保たれていた男女の均衡が崩れたんだ」なんていう言説が出てくるくらいで、はたから見ても「既得権益を守りたい男の言い訳やん」って部分が結構あったわけです。
「女性の地位向上」を目指す古いフェミニズムは、根本的に「そもそも性で地位を区切ろうとしている」ことからは思想的に抜け出せないので、定期的に「女性とは何か」という定義をして、フェミニズムの運動の対象とするかどうかを更新しています。
1960年代は、レズビアンのことを「自らを男性に同一化して女性を愛する女性」ということで、「レズビアンは女性ではない」と定義してレズビアンは排斥されてきた過去もあります。
その後、逆方向に振り切って、「レズビアン・フェミニスト(男性がいない社会を作りたい、ラディカルフェミニストの一派)」なんかが出てきたりもしています
いずれにせよ、フェミニズムは女性の地位向上、果ては男女平等を目指す活動であるはずが、同時に女性とは何かという定義を更新し続けてきたわけです。
ところが、「じゃあLGBTQADを全て男性/女性に切り分けて定義するのか?」となってくると旧来の「女性の地位向上」という枠では立ち行かなくなってきたんですよね。
そこで、現在は「ジェンダー平等」がもっぱら議論のテーブルに上がっているように感じています。
特にリベラルなフェミニストは既に女性の地位向上というよりはジェンダー平等の方を目指しているのでは?
ジェンダー平等という言葉は、「男性/女性/それ以外全て」の性差を撤廃しようという活動なので、男女平等とは異なる概念です。
SDGsのゴールの一つにも名言されてますしね、ジェンダー平等。
特に有名なのは国連も賛同しているHeForShe活動でしょうか。
元々、2014年のエマワトソンの演説では性差の撤廃を述べながら、HeForSheの活動そのものは「フェミニズムは女性だけの問題じゃないから男性も一緒に話し合おう」と言うにとどめていたのですが、2016年頃から「そもそもフェミニズムって女性の地位向上目指してるっぽく見えるし、ちゃんとジェンダー平等を目指そう」って活動に切り替えています。
ただ、ここで気になるのは、エマワトソンの演説と安倍総理の演説の違いです。
エマワトソン演説ではかなり丁寧に「ジェンダー平等」という言葉を選んでいて、「男性も女性も他の性も大変だよね、だからお互い性でくくらない方法を考えようね」と述べているのに対して、当時の総理の演説では、「女性の人権向上」だけがお題目になっていました。
日本にとってのHeForSheの運動は、「ジェンダー平等」ではなくて「女性の地位向上」から変わっていない、ということです。
まぁ、HeForSheも英語の語義的には「女性のために男性は立ち上がれよ」って感じの意味なので、ジェンダー平等を掲げるつもりなら活動の名前も変えたらよかったのでは、と思わなくもないですが。誤解している日本人もかなりの数いるのでは。
ジェンダー平等と日本の考えの差異はエマワトソンのYouTubeの話と安倍総理のレポートの内容を見比べると「マジか」って思うと思います。
http://japan.unwomen.org/ja/news-and-events/in-focus/heforshe
http://japan.unwomen.org/ja/partnerships/japan-commitment
いえ、もちろんSDGsのゴール5だって「ジェンダー平等を達成し、女性の権利向上を」って言っているし、政治的なアプローチとしては未だに「女性の地位向上」をしないとダメってのが現状なのは世界的に見ても間違いないんですけど。
ということで、日本ではまだ「ジェンダー平等」よりも「女性の地位向上」の方がフェミニズムに求められている、というのが現状だと思います。
特にネットを眺めていると、本当にジェンダー平等を目指そうとしているフェミニストっているのか疑問を感じてしまうくらいに、ミサンドリー(男性嫌悪)が蔓延っているように感じています。
確かに、先述したレズビアン・フェミニストに代表されるような急進派のフェミニストは国内外問わずミサンドリー(男性嫌悪)をあからさまにしている人もおり、エマワトソンとかが頑張ってるのに未だに「フェミニスト→ラディカルフェミニスト→ミサンドリー→男性の敵」という理解がされているようにも思います。
日本でも「ポリコレ棒」という表現がありますが、それも上述のようなラディカルなフェミニスト(あるいはマスキュリスト)によって生まれた極端な例の叩き合いでしょう。
こうなると、そろそろ「フェミニスト」って言葉自体、あまり良い意味を持たなくなってしまったなぁ、と悲しくなっています。
例えば「右翼」にとっての「ネトウヨ」や「左翼」にとっての「ネトサ」のように、「極端な人を切り離す言葉」があれば良かったのですが、フェミニストはそれ自体が極端な人を表すレッテルになってしまっていて、今の日本でジェンダー平等を目指そうとする動きに、フェミニストやフェミニズムっていう言葉がノイズになってしまっているように感じます。
今回のトランスジェンダー(MtF/男性から女性に性転換した人)への強烈な差別だって、フェミニストの中には「生まれが男性であればそれは女性と認めない」という人が一定数いて、しかもそういう人が自分こそがフェミニストだとふるまっているから地獄になっているように感じます。
「ラディカルフェミニスト」って言葉が長いのでレッテルとしてあんまり良くないんですよね。ミサンドリストって言うのもなんかうーん、という感じです。
ということで、「ジェンダー平等を目指す人」ってのは本当は沢山いますし、フェミニストの中にもそういう人はたくさんいます。
ただ、もう、そういう人たちは少なくとも日本では「フェミニスト」を名乗ってもあまり得はないと思うので、なんかもっとかっこいい肩書を考えてください。
「論理の通じないモンスター」の話は別ツリーだよ。これは「無用の男性攻撃を全くせず、首尾一貫して論理的で差別用語に頼らない「真のフェミニスト」」の話。
そう言われると確かに上野もエマ子も『真のフェミニスト』とは言えないなあ…。
でも元増田の言う様に、「本物のフェミニストなどいない」というのは極論だと思うし、どこかにはいると思いたい…。
確かに挙げろと言われると心当たりは無いんだがw
少なくとも悪目立ちしてる人間の属性を一括で叩くという行動をしているだけで元増田は自らが批判する『フェミニスト』と同じ轍を踏んでいると思う。
よし、こう考えよう!
俺は基本的には男女平等にも男女同権にもジェンダーロールからの脱却にも賛成だが、それに絡めた議論で男を(勿論女も)不等に叩く事はしないし、意図してデータを曲げることもない。
実は俺こそが真のフェミニストだったんだよ!
一対一の「議論」ならいいかもしれんが、上野は「社会学者」を名乗って血税で研究してる。
そんな奴が、その無駄にある影響力を湾曲した研究という形で振り回すのが悪以外のなんだと思ってる?
確かにエマはジェンダーロールの恩恵を得る立場だ。でも当の本人が要らない言ってるんだから、
下々の俺たちが頑張ってジェンダーロールを無くしてエマからその恩恵を剥奪してやるんだ!って考えればガッツが湧いてこないか?
湧いてこない。
奴は「自分が受けてる恩恵は死んでもなくさない」という保証のもと、弱者を嘲笑ってる。
そんな奴の思惑に乗る理由がない
「ジェンダーステレオタイプ」という物差しを捨てろ捨てろというが、それに代わる物差しを用意できてない。
自分だけは従前の物差しを使い続けながら、庶民が右往左往するのを眺めようとしてるだけ。
色々書いたが、上野もハマ子も『論理の通じないモンスター』からは程遠いと思った(逆に話が分かるからこそ質が悪いのじゃないか?と少し思ったのは内緒だ)。
「論理の通じないモンスター」の話は別ツリーだよ。これは「無用の男性攻撃を全くせず、首尾一貫して論理的で差別用語に頼らない「真のフェミニスト」」の話。
「都合の悪いデータは隠す」だけでも十分アウト。
それそんなに悪い事かねえ?いや勿論「都合の悪いデータは隠す。それが悪い事だとは思わない。」って言っちゃうのはどうかと思うけどさ。
自分に都合の良いようにデータを用いるってのは多かれ少なかれ、意識無意識を問わず誰でも行いがちだと思うけどね。そもそも論敵にデータを依存するってのが間違いだと思う。なんなら上野に不利なデータをこちらが突き付けてやったらええんや。
確かにエマはジェンダーロールの恩恵を得る立場だ。でも当の本人が要らない言ってるんだから、下々の俺たちが頑張ってジェンダーロールを無くしてエマからその恩恵を剥奪してやるんだ!って考えればガッツが湧いてこないか?
というかエマの言う『ジェンダーステレオタイプ』が無くなることで恩恵を得られるのはむしろ弱者男女だろう。
色々書いたが、上野もハマ子も『論理の通じないモンスター』からは程遠いと思った(逆に話が分かるからこそ質が悪いのじゃないか?と少し思ったのは内緒だ)。