はてなキーワード: ウェブとは
私の友人に市議会議員がいる。彼は日本某産党員としてかねがね活動していて、ある時、周囲から「某市の市議会議員になってくれ」と頼まれ、立候補することになった。
彼には実家の和菓子屋を継ぐという責任があった。このまま行けば二代目として間もなく家業を継ぐ、という頃であった。だけど、彼はそもそも「こんなレールに乗った人生でいいのか」とかねがね疑問に思っていたらしい。
立候補に際しての決起集会において彼は「『このままでいいのか、何か始めなければ』という悶々とした思いがあって、今回思い切って立候補した」と言っていた。約一年半前「レールに乗った人生は嫌だ」とたった数ヶ月で大学を辞めて起業を企図した石田某を思い出す人もいるだろう。
彼が家業を継がずに選挙に出ると聞いて、例外なく誰もが驚いた。息子が跡取りになることを想定して事業計画を推進していた両親もいきなりの事に驚愕しただろう。彼は少し前に「一緒にやっていこう」と友人を会社に入社させており、その友人も驚いたに違いない。彼を跡取りとして会社が存続するものだと思っていた数多くの社員も驚いた。ローンで家を買ってしまった社員もいた。
選挙に出ると決まってから彼はその政治思想を喧伝するようになった。人が変わったようだった。例えば「選挙で棄権するなんてもったいないですよ」とタクシー運転手に説教をし、「是非とも次の選挙では日本某産党に投票してよね」と友人たちに触れ回り、与党たる自由民主党に投票したという者に対しては「某産党にしか未来はないよ。それは誤った選択だよ」と諭した。
投票日が来た。若さもあって彼は2位で当選した。任期は4年である。
議員になって1ヶ月後、彼は言った。「やー、本当にやりたかったことって、これじゃなかったみたいなんだよね。何で選挙になんて出たんだろう」
議員になって半年後、彼は言った。「議員なんてもうやりたくない。○○市にいるのが恥ずかしいよ」
議員になって1年後、彼は言った。「金は超貯まるよ。ボーナスも出るし。でもなぁ、議員になんてなるんじゃなかった。某産党になんてもう全然興味がない。隕石でも落ちて地球が滅べばいいのに」
彼には議員としてのウェブサイトがありフェイスブックも開設しているけれど、ウェブ上で熱心に情報を発信したのは議員になって初めの1ヶ月だけで、それ以降は殆ど更新していない。飽きてしまったようだ。従って、政治家としての彼の活動を知ろうにも有権者には何の手立てもない。
私たちがここから学ぶべきことはたくさんあるけれど、集約すれば「議員に『転職』する候補者に投票してはいけない」ということである。
要するに彼は「選挙に出てみたかった」のであり、「政治家になりたかった」のではないのである。にも関わらず、当該者が当選してしまったらその後数年間、何のプランもイデオロギーもなく衝動で立候補、たまたま当選した暁に「議員になんてなるんじゃなかった」なんて宣う者のために税金から多額の給与が支払われる(法外な額のボーナス、議員年金まである)。「なんとなく」議員になった者が行き着く先は、某仁多議員のように「なんとなく」無責任に突然辞めるか、某今井議員のように「なんとなく」不倫に陥る(可能性が大いにしてある)。そういう者に私たちは税金を生活費として渡してはいけない。
突然辞職したり不倫に走ったりしなくとも、「なんとなく」議員になった者が突然に政治に目覚める、なんてことは決してない。「なんとなく」代議士になった者は、その衝動の度合いが凄まじかったとしてもそれは単なる衝動であり、結局は「なんとなく」議員としての期間をやる気のないサラリーマンさながらにやり過ごすことになる。それでもサラリーマンはやる気がない・生産性が低いとみなされれば常時監視している上司に叱責されるが、代議士は不祥事でも起こさない限り叱責されることはない。「なんとなく」で金が貰える職業は代議士以外にない。
比較すれば、特に、フリーランスという働き方は自らの人的資本を全力で金融資本に変換する作業を日々行っている。だけど、代議士には生産性はないのであり、税金という金が空から毎月降ってくる。私はフリーランスの対義語はサラリーマンではなく、代議士であると考えている。
結論。私たちは議員に「転職」する候補者に投票してはいけない。私たちが真面目にひいひい言いながら働いているのが馬鹿みたいだ。あなたが過去に投票した候補者も、もしかしたら議員に「転職」した者のうちの一人かもしれない。今頃、「議員になんてなるんじゃなかった」なんて愚痴をこぼしながら何の仕事もせず、空から降ってくる税金を懐に収め、あまつさえ不倫でもしているかもしれないのだ。
いくつもURLをのせることができないのでh抜きなの許せ
進撃の無職〜父親が認知症!介護地獄編〜ttp://neet3.hatenablog.jp/
タイトルどおりだ
根室記念館ttp://nyalra.hatenablog.com/
こいつ知ってるの多いかもな。無職同士のシェアハウスの話は面白かった
借金地獄な人生だけど自業自得ttp://www.kotetsu.work/archive
哀れにもfxで金を失っていまったやつ
ニート気質な僕の生きる道ttp://www.luckyman01.com/
競馬と漫画と将棋が三大栄養素ttp://daiouoka.hatenablog.com/
無職なのに競馬やってる危機感ないやつ。ウェブマンガに詳しそう
29歳童貞ニートの暗中模索ttp://shiawase-neet.hatenablog.com/
わざわざメキシコのヤれるとこいってもヤラないいくじなし
あさえ がんばるttp://www.moriasae.com/
メンヘラ臭
という記事があったのですが、多分これはORICONのデータが元になっていると思いますが、日本全国の全ての書店売上ということではなく、ある程度の範囲でのデータでしかありません。あくまでも参考数値でしかないので、個人的には出版社・レーベルが発表する公称部数の情報の方が気になっています。
この公称部数ですが、細かく公式ページや発売された帯に記載されている情報などをチェックしないと、確認するのが結構難しいです。最近の2chライトノベル板の発行部数スレの主流はORICONのデータの方で、公称部数の情報はほとんど報告されていない傾向にあります。なので意外と公称部数の情報をウェブだけで探すのは難しいです。
公称部数の情報が定期的に更新され、かつまとまっているページは余りなく、「ラノベニュースオンライン」のところが昨今のでは一番まとまっていて更新頻度も高めだと思います。
ただし見ていると、「なろう系」と呼ばれる作品の部数情報が少ないような気がします。なので自分で実際に軽く調べてみようということになり、本屋に行って確認しました。2017年9月28日に近所の本屋で帯の情報を確認したものが基本の情報となっています。プラスしてウェブに載っていた情報もいつくか見つけたのでそれらも足しています。
ちなみに重版などにより帯が変わったりしても、本屋によっては店頭在庫があるのですぐに新しい帯のついたものが並んでいるというわけではありません。なので自分が確認したものよりも新しい帯に変わり、情報が更新されている可能性もあります。
また自分の記載ミスなどの可能性もあるので、あくまでも参考情報として見てください。
文字数が多かった為か一気にアップロードできなかったので、レーベルごとに言及する形で分けました。
あと正確に言えば「小説家になろう」とは別になりますが、同じWeb小説の「アルファポリス」の掲載作品も情報して載せようと思ったのですが、本屋で調べたりしたところ「アルファポリス」は他の出版社と違い、異常なまでに部数情報が充実していたので、六分割になりました。
昔とある作品の製作委員会に身を置いていたことがあるので、思い出を書く。
製作委員会というのは「製作」をする人たちの集まりであって「制作」をする人の集まりではない。
私も最初ここの違いが全く分からなかったが、中に入ってようやく理解した。
つまり、「その作品を作るためにお金を出した人たちの集まり」であって
原作者や監督や声優や脚本家が集まっているところではないのである。
(このへんがネット上では未だにけっこう誤解されている気がする。)
これは良いとか悪いとかいう話ではなく、カネのために集まった組織なのだから当然の話である。
■どんな人がいるのか/どんなことを考えているのか
会議に出席するのは、出資社(出版社とか、TV局とか、広告代理店とか、製作費を出す会社)から送られてくる、各担当者だ。
いろんな会社から、いろんな人が出て来て、異業種交流会みたいで、けっこう面白い。
そして、ここがポイントだと思うのだけど、この会議に出席してくるのは、必ずしも映像業界に詳しい人間ばかりではない。
彼ら(そして私もそうだったが)のミッションは2つ。
1.出資金以上のリターンを持ち帰ってくること
2.本業へ良い影響があるように、動き回ること
1つ目は分かりやすいと思う。株買って儲けようとするのと同じだ。投資だ。
でも、それ以上に、各社担当者にとって大切なのは、2つ目なのである。
例えば、広告代理店。
彼らが委員会に出資するのは、「その作品の広告の仕事が欲しいから」 以外には無い。
仮にその作品が映画だったら、映画のTVCMだけで何億円という発注を獲得できるのである。
それ以外にも、新聞・雑誌・交通広告・ウェブ広告・・・いくらでも仕事は降ってくる。
例えば、出版社。
出版社が参加している場合は、原作の出版元であることがほとんどである。
彼らが委員会に出資するのは、「原作がバカみたいに売れまくる事」を期待すること以外に無い。
そのための宣伝費と思えば、映像化する際の出資なんて大したことは無い
そもそも作品性なんてものは、監督や制作側の担当領域なので、製作委員会の担当社員からすれば、自分たちでどうにかできるわけでもない。
だから、 2つ目の目的=自社の利益になりそうなこと の達成ばかりに力を入れ始める。
■どんどん仲が悪くなる
各社が2つ目の目的を達成しようとすると、どうしてもバラバラな動きになる。
それぞれ目指すところ(=自社の利益)が違うからだ。当たり前だけど。
2社だけなら良いが、委員会はたいてい5社6社は当たり前。
ということで、担当者の仕事は「複数社間の利害調整」がメインになる というカラクリである。
■個人的な思い出
自分の経験からすると、他社の担当者とケンカしていたか、ケンカの仲裁をしていた思い出しかない。
何がめんどいって、「みんな業界が違う」 ので、企業文化どころか、業界文化が違う。
「こんなこと当たり前だろ」が各社バラバラなので、話がとにかく合わない。
それが一番面倒だった。
まず共通言語を作るところから始めるのが正しいんだろうけど、正直そんな時間はないので
出版社と広告代理店とTV局(この3つは大抵どの作品にもいると思う)の人たちの文化がとにかく古すぎて、いっつもイライラしていた思い出がある。いわゆるギョーカイ人側の人たちですね。
会社の人と話せば5秒で終わる話が、なんやかんやで1か月かかるなんてザラである。
ただ、いろいろな業界のお作法などが垣間見れたのは面白かったと言えば面白かった。
普通の会社にいながら、ギョーカイ人と触れ合える経験なんてあまり無いし。
スキルとしては、複数社間の利害調整能力というものが身についたと思う。大抵のケンカは仲裁できるようになった。
当然のことながら、映像に関する知識はあんまり身についていない。
自分は下っ端だったし、作品が成功するかなんてのは比較的どうでもよくて、目の前の仕事をこなすのに精いっぱいだったのが正直なところ。
だから、ネットで製作委員会方式が諸悪の根源扱いされるのも無理はないな、とは思う。
でも、本当に映像を作ってる人たち(監督とか)は、こうした状況を理解した上で、うまく利用してやろうという人もたまにいて、そういう人はどんどん有名になっていった。
今は全く違う仕事をしているので、最近どうなっているのかも知らないけど、
ケモノなんとか の騒動があったので、思い出して書いてみました。
(ケモノなんとか は見てません)
~~~
こんな糞記事にコメントしてくれた方、ありがとうございます。
>だけど「複雑な力学が働いてるから、たつきが善というわけでは無いぞ」と言いたいのかな、と思った。
もちろんたくさんの人に愛される作品を作った人という点では善だと思いますが、組織の中でどう見られるかは別の話なのですよね。悲しいかな・・・
>「いわゆるギョーカイ人側の人たち」の考え方が古いのは何が原因なんだろう?
やはり比較的、伝統的な手法を重視しますよね。これは別に製作委員会がどうこう、という話ではないと思いますが。
過去の成功体験に人間というのは縛られてしまうものなのだな、ということです。
立場も分かるので、ボロクソに叩くほどのことでもないと思っています。うまく操作してあげればそれでよいのです。ある意味わかりやすい人たちです。
まさに、ですね。普通こうした問題は事前に根回しがされるので、可視化されることは少ないと思うのですが、このパターンは珍しいですよね(だから騒がれているのだと思いますが)
ただ、その手前で十分に調整がなされたかどうかは分かりませんが、監督のツイートは説明不足過ぎるがゆえに事態を悪化させただけで、窮状を訴えるには良い手段ではなかった、と感じています。
いずれにせよ、調整がうまい人がいるかいないか は委員会運営には重要な要素ですね。
>これを敷衍すると、出版利権のカドカワが同人とか一枚絵とかウチ通さずに出してんじゃねーぞ、全部抜かせろって話?
そのへんは作品によって契約内容が違うので、外からはなんとも言えないところかと・・・
ただ、この業界頭悪い人しかいないので(汗)、契約なんてあってないようなものでして・・・今どうなのかは知りませんが。
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最近は、制作会社自身が出資するケースも増えてきていると聞きます。個人的には良い傾向かと思います。
ただ、最後は出資比率のパワーバランスになるので、常任理事国入りできなければあまり意味ない・・・というのもあるかも。
それこそディズニーじゃないけど、制作側でも札束で関係者を引っ叩ける存在が生まれると良いですね・・・
これはね、自分自身も含めてそうだと思っています。ほんと自分はバカなんで・・・残念ですが・・・!
自分のことはさておき、頭が良いことがアドバンテージになりにくいんです。
頭が良いかは二の次で(もちろん良いにこしたことはないですが)、そんなことよりとにかく「運がいい奴」が残る場所だなー、と個人的には思います。
逆に言うと、みんながディスりがちな「学歴社会」ではないので、それはそれで居心地が良い人もいるかも?
半分ぐらい当たってます笑
というか、逆に言うと「制作」の領域が神格化されすぎていて、現場の忙しい人は業務上何もタッチできないんですよね・・・
良く言えば分業化、なのかもしれませんが。
だから、よっぽど個人的に好きじゃない限り、興味もなかったです。
実際にものづくりにも参加できていたら、全然違ったんじゃないかな、と思いますが。どうなんでしょうか。
>ケンカ
ケンカ と書きましたが、ケンカするほど仲が良い というのは全くその通りで、意外と「現場に近い者同士」は、会社が違っても強い連帯感が生まれがちだと思います笑
会社同士はケンカしてても、現場の担当者同士はちゃーんと仲良くしています。
ある意味、「なんか知らんけど偉いっぽい人達」という共通敵が生まれるので、超連帯しやすいです!
だから、仕事で嫌なことも納得いかないことも沢山あったけど、それ以上に楽しいこともたくさんありましたよ!
あそこの検索結果は、ウェブでみていてもおかしすぎて笑える^^;
1ページ目では46件だった結果が、2ページ目になるといきなり900件に変わったりしておじさんびっくりだよ。
当時は学生。ちょっとしたドキュメンタリー番組で3日に渡って取材を受けた。本名も出ていた。
ただその内容は今となってはあまり人に見てほしくない自分の内面に関する悩みを吐くもので、当時は幼かったなと今となっては思える。
いわゆる黒歴史を本名と一緒にしてテレビで流してしまったのである。
番組は終了していて公式サイトは既に削除されているものの、当時放送を観た視聴者のブログ、SNS、2ちゃんねるのスレッドが数々出てくる。
少しぞっとしてしまった。
今後も変わることの無い本名であるため、一生当時の残骸が自分の看板のように検索結果について来るのか。
もちろん私自身の人に見せても恥ずかしくない活動内容も検索結果に出てくる。
本名で検索するとそれらよりも先にかつての放送の内容が出てくる。
件数としては活動内容2件に対して、かつての放送の記載のあるリンクが6件出てくる。
私がその放送に出たのはたしかに事実であって、今後消えないものだ。
しかし、当時とは比べようもない経験をし、新しい家族を得て、覚悟をもって生きている。
なのに私は今後も誰かにどのような人間か調べられる際にまずその放送のイメージが最初に刷り込まれるのだろうか。
さらに私は最近本名で活動することが多くなった。今後ますます増えるだろう。
過去の自分を否定するわけではないけれど、10年前のそのような内容が現在の自分を代表するかのように振る舞うのは少し、心外だ。
削除を求めるのは過去を受け入れられない懐の小さい人間だとも思っていた。
ただ、今後の私の人生がそのイメージひとつで誤解されるのはいやなのだ。
消したいわけではないが、大っぴらに公開したままにしておくのは違うと感じる。
具体例を書かないとなんの事だかという話な気がしたので書いてしまうと「四谷快談」か「陽だまりの彼女」を読んでいてこういう気分になった。四谷怪談はウェブマンガで無料で読める(リンク )。陽だまりの彼女は市販の小説。勧めるわけじゃあないから読んでがっかりしても知らん。
#### 以下ネタバレ注意
正確に言うとタイトルは少し誤りで、ハッピーエンドだと思い込んで読み進めていると最後の最後でどんでん返しが起こってバッドエンドだったとか、あるいは最後の最後で鬱になってそこから好転せずにそのまま終了みたいなのに残念だなあと。もちろん逆もあるかも。
物語って2種類あると思っていて、1つはどういう結末か全く読めないもの。もう1つは読めちゃうもの。少年漫画とかラブコメとかは後者がほとんどなのでは無いかと。
で、上で挙げた2つの作品はハッピーエンドだと(後者だと)思っていたのに裏切った作品ね。まあお前が勝手に勘違いしただけだろという結論になってしまえばこの話は全くの無意味になってしまうのだけれど、そこら辺も他の人の意見聞きたい。
誤解されたら困るのだけれど私はそういう結末が嫌いなんじゃなくてハッピーエンドだと思わせるレールを敷いていて、最後の最後でレールをぺらぺらーっと剥がしきって、かつそこに説得力が無いのが読んでいてがっかりする(この文章がそうでない事を祈る)。それが作品の途中であればともかくラストのラストでこれをぶち込んでくると「は?」ってなってしまう(この文章がそうでない事を祈る)。四谷快談に関して、少なくとも私は本当に最後の最後までそういう結末になるとは思わなかった。それが何故なのかはうまく説明できない。もちろんラストの直前まで読んでそう思ったわけだけれど、タイトルであったり絵柄であったりの要素はアルだろうと思っている。けど、読んだら私と同じような思いになるのでは無いかと。後半から鬱の話はあったけれどそれが話の中心だとは思っていなくて基本は「快談」だと思っていたから、だから最後まで読んではしごを外された気分。
絵柄とかキャラクターは大変好みだったから非常に残念。何がしたかったのって思ってしまう。切なさを出したくてああなってしまったのかな?。あるいは鬱エンドにしたかったという説もあって、それはどうしてそう思ったのかというと四谷快談を読んだ後に作者のpixivやブクログを読んで鬱な話がお好きなのかなと思ったからだ。あと個人的には「打ち切り説」と「そろそろ終わらせたかった説」もある。
陽だまりの彼女に関してはちゃんと読んだのが数年前だからもしかしたら違ったか、あるいは的外れだったかもしれない。四谷怪談を読んでいてこの残念感が似ているなと思った。あとがきでこのラストは私みたいな動物好きの人はほっこりしたんじゃないでしょうかみたいな事を書いていて「いや、お前はそうかもしれないけどさぁ……」と思ったのは覚えている。
そういう作品って個人的にはあまり過程を評価できなくて、もし同じ作者の作品を読むってなった場合はラストを先に知らないとそこから先読む気がしないんだけど(前に嫁が本をラストシーンから読みはじめるみたいな増田あったな)、他の人ってどうなんだろう。どっちか読んだ人にこういう話のラストの展開についてどう思いながら読んだか聞きたいけどここまでこき下ろしてしまうとファンの意見を聞くのは無理かも。個人的には読んでいて「は?」の1文字だった。
一応再度書いておくけど、予想外の結末であったりバッドエンド自体を否定しているわけでは無いからね。
駄文大変失礼
Rails のことはかなりわかっている方だと思う。
だが、最近 Django (Python のウェブフレームワーク)を使いはじめて、いままで苦労して Rails を使ってきた努力は何だったのだろうと思った。
Rails は Ruby の柔軟さを利用(悪用)して、徹底的に Ruby 言語が改変されている。
DSL が多用されている。
要するに、「レール」を外れると、どうしたらいいのかすぐわからなくなるのだ。
だから四六時中、フレームワークやプラグイン(gem)のソースコードを解読しようと格闘する羽目になる。
その点 Django は Python らしく、フレームワークは余計なことをしない。こちらが何かしないかぎり、何も起こらない。
すべては明示的(explicit)に行う必要がある。
明示的なものは暗黙的(implicit)なものよりよい、というPython、そして Django の思想。
なんという安心感だろうか。
たしかに Rails のほうが開発に必要な記述量は少なくなるかもしれない。だけど、わずかな記述量を節約したところで、見通しが悪くなったら元も子もないではないか。
私は、本当に Rails 教に洗脳されていたんだな、といま感じている。そして、洗脳から解放され、いま、より広くて成熟した Python コミュニティに参加しようとしている。Ruby も悪くない言語だし、Rails もよいフレームワークだけど、もういいかな。これからは Python と共に歩もう。
直接目に届く場でやるのがあんまよくないって話。
いやだから、感想を消化できないのはプロとしてどうかと思うけど
どうしてもできないなら2chであれ作品掲載サイトの感想欄であれ
目を背ければいいだけじゃん
コミュニティとしての場を作りウェブの場として価値をもたせたいんだろうけど、それ以上に壊れるもののほうが多いと言っている。
コメント覧なんかつけなければいいだけだし、ついてないはずじゃないの?
気付かせてあげてるだけ
https://anond.hatelabo.jp/20170819180413
上記前エントリーへの予想されるつっこみに対するお返事です。ぱっとこちらが思いつけるだけですが。
〈つっこみ1〉
男だって石鹸くらい買う。妻側がターゲットというのは早計。
《お返事1》
夫の側に買ってほしくて夫に見せたいCMだったら、夫が買う場面を入れるなりしないと伝わりにくい。
家を出る時に妻から「ケーキ…とそうそう、石鹸もついでにお願い。いつものやつ。」と頼まれて、「親父の代からこいつだけは変わらないな。」とひとりごちながら牛乳石鹸を買う。とか。
ベタを嫌って省いたのかもしれないが、そのクリエイティビティ、そこで必要?
特にこのCMの場合、夫が普段から石鹸等日用品の買い出しを含む家事育児を積極的にor当たり前にしているように見えない。どちらかというと、家事育児をしないからこそ、ゴミ出しとケーキ&プレゼントを受け取るor買うだけで大仕事をさせられたと感じて「家族思いの優しいパパ」を自認しちゃうように見える。
少なくとも、CMに怒った人たちの多くには。
そして、夫婦と小学生くらいの子供の3人暮らしらしき家庭で夫が買わないなら、妻が買うしかない。ならば、CMで想定されている石鹸購入者は妻だろう。という理路はおかしくはない。
〈つっこみ2〉
夫がダメじゃないっていうCMではないよ。ダメなこともあるよね、でも引きずらずにがんばろうっていうCMだよ。
《お返事2》
確かに、夫の態度や行動を肯定している訳ではなく、あえてストレスフルな状況を描いた後に、そのストレスを「さ、洗い流そ」という展開を狙ったは理解できる。
しかし、風呂から上がっても夫は相変わらず憮然としているし、CM全体がゴミ出しで始まりゴミ出しで終わるループっぽい構成なので、洗い流したところで何かがよくなった印象を受けにくい。
しかも、何を「洗い流そ」なのかがはっきりしないので、子供の誕生日に連絡なしに遅くなった失敗自体を洗い流して忘れてようとも取れる。すると妻の側からは、「洗い流さずに少しは反省して、来年の誕生日には早く帰ってきてくださいよ。」と思えてしまう。
よくよく見れば、入浴後は夫の声に張りが出ていたり、最後のゴミ出しの場面は最初より照明が明るかったりはする。映像作品単体としては、繊細な演出として評価されるべきなのかもしれない。しかしやはり、CMの視聴者にそこまで注意深く読み取らなければいけない義理もない。
こんなところです。長々とお付き合い、ありがとうございました。
ある意味、よく出来ていすぎたんだと思う。
共働き子育て中家庭の夫婦が、それぞれにつのらせてしまう不満を、生々しく感じさせすぎたのではないかと。
特に夫役の新井浩文の、爆弾のぶつけどころに困っているような不穏な無表情たるや。
夫:子供時代とは違う父親の役割を求められる困惑。
妻:子供時代には父親一人が負っていた稼ぐ役割を分担しているのに、家庭内のケア役割はまだ母親メインという割をくっている感。
夫:ゴミ出しも買物も文句一つ言わずにこなしているのに、感謝と尊敬が足りない。
妻:頼めばやってくれるが、自分から気づいて動いてはくれない。お手伝い程度で恩着せがましくされたくない。
夫:ぼんやりと苦しいけど言葉にならず、黙ったり不機嫌そうにしてしまう。わざとじゃないし、はっきりしないのが自分でもつらい。
妻:夫が何を考えているか分からなくて不安。私はエスパーじゃない。
……そういった不満の数々。 「お互い言えよ」って話だけれど、共働き子育て中なので話しあう余裕も取れず、とりあえず「洗い流す」のが精一杯でも仕方ない。
で、ですね。 牛乳石鹸のウェブCMは夫の不満だけを描いている。
一方で、べき論は置いておいて現状、牛乳石鹸の購買層はむしろ妻の側。
しかも、CMで描かれるのはほとんどの場合、よい、少なくともマイナスではないものorこと。「こんなに優れた商品だから買って」「これがあればこんなに素敵な生活が手に入るから買って」と訴えるための映像なのだから。
そうすると、CM中の夫の態度や行動が、メインターゲットである妻の側にすっと受け入れられるものだと、牛乳石鹸共進社なり制作者なりが考えているようにも見えてしまう。
だから、「受け入れられるかよ!」という反発を生んでしまった。
CMではなく超短編映画として発表されていたら、ギャッツビーなどの男性向けシリーズのCMだったら、妻編子供編後輩編などと一緒に公開されていたら、反応はまったく違っただろう。
予想されるつっこみに対するお返事もあるのですが、長くなったのでエントリーをあらためて。
というわけで、件のウェブCM見てみました。ちなみに見た時点ではどの批評も感想も読んでないです。
で、見てみたのですが、あまりにも居心地の悪いCMでびっくりしました。
出社前に暗い顔でゴミ捨てに行くお父さん。そんなお父さんに、何かのもののついでのようにケーキやらプレゼントやらを頼むお母さん。お父さんをコマかなんかみたいにしか思ってなさそうなお母さんの姿をみて、この時点で相当居心地悪い。
で、子供のケーキやプレゼントを持っているのに飲みに行ってしまうお父さん。これも見てて後の修羅場を想像してしまい、陰鬱な気持ちになる。お母さんもあれだけどお父さんもあれだな、って感じ。
で、想像通りお母さんは怒る怒る。で、お父さんはお風呂に逃げてしまう。
そしてお父さんはお風呂で、洗い流そうと一言。風呂上がりのお父さんはお母さんに謝り、お母さんもなぜかそれだけで許してしまい、息子も招いて一家団欒が始まる。
……、いや、意味不明。
どの登場人物に共感すればいいのかわからなかったし、そもそもこれがイメージ広告として世に出てること自体に疑問がわく。
お父さんが自分と自分の父を対比させているところも意味がわからなかった。
でも、中途半端でもある。お母さんは夫に対する思いやりも敬意も持ってなさそうなキャラで、この点ではお父さんに同情心が湧く。
けれども、だからと言ってお母さんとのコミュニケーションを諦めてしまっているお父さんにも、子供が拗ねているだけでしかない印象しか持てない。
主要登場人物の二人のどちらにも共感できないまま、お父さんは洗い流すという逃げの一手を打ちますます共感できなくなり、その逃げの一手でしかない謝罪で夫を許すお母さんの心情も全くわからなくなる。
そして最後にはこれの何がポジティブなイメージを連想させるのかという点において広告としての価値すら行方不明になっていく。
で、軽くこのCMの批判記事と擁護記事を見て回ってきて、どちらの派閥のいうこともそういう見方もできるという程度にはわかるものの、批判派の女性VS擁護派の男性のような構造になっているところは理解できない。
というわけで個人的には、このCMはどうにも稚拙な作であり、これを使って男女論社会論などを語ろうとは思えない、というのが結論となります。