はてなキーワード: アニメーターとは
夢を諦めさせる
http://anond.hatelabo.jp/20100917191635
これだけ母数が多くなるとしょうがないのかもしれないけど、
増田は、
どの世界でも成功できる人は(中略)今、何をすべきかを的確に判断できる賢明さを持ってます。これも一種のセンスだと思います。申し訳ないけど、この女の子に必要なのは絵の才能よりも、そういった自分を客観視する感覚
と書いてあるから、絵そのものの技術云々じゃなくて、
http://anond.hatelabo.jp/20100919064056
に書いてあるように、
根本的に「一生、絵で食べる」ってことへの知識が足り無すぎて怖くて採れないよ。
この女の子に関しては、こういう技術以前のことが必要だ、と言ってるのに、
自分より才能を劣っている人をおとしめている、とか、
若い芽を摘もうとしている、とか感情的に反応している人がいるのがわからない。
これは、なんか違うかなーと思った。
まず、才能というものに関してはなんとも言いがたい。
私は美大の予備校でデッサンなどを教えていますが、才能の無い子にあった事が無いので。
あえて言うなら、途中で辞める子は才能以前の問題だと思うけど。
正直、センス無いなーって感じる子はいる。
センスのある子と無い子の違いは、美大に受かるレベルに持っていくのにどれだけ手間や時間がかかるかです。
でも時間がかかってもみんな美大に受かるレベル以上にはなれる。
ちなみに、小さな予備校なので毎年ほぼ全員、専門学校含めどこかしら受かっています。20人中0〜3人は浪人と言う感じ。
時間がかかるなら才能ないね、って言い方もできるけど
いやいや、時間がかかっても最低限のレベルにはなれるんだから、やっぱり才能はあるでしょう、という言い方も出来る。
そんな先生をやっている立場からいうと、
このアニメーター志望の高校生は未熟なだけで、基礎を教えてあげれば確実に伸びる。
いや、確実かどうかは本人次第。本人がやりたいなら確実にうまくなる。
そして、本人がやりたいなら、何十社でも何百社でも就活をしてもらう。
本人がもう嫌と言うなら、それも受け入れる。
でも、本人がまた挑戦したいというならとことん付き合う。
本人がやりたいなら見捨てずにそのレベルまで導いてあげる事じゃないですかね。
もちろん、技術的な事だけでなく、あなたの言うような自分自身を客観視する姿勢なども教えて。
本人がやりたいというのを止めて、OLの道を歩ませるのはどれだけ幸福なのでしょうか?
ていうか、OLなめんなって思う。OLがいばらの道じゃないとでも?
富野さんって偉そうだよね。自分の仕事がOLの仕事より大変だとでも思っているのかしら。やーね。下品で。
夢を諦めてOLになるのって、なりたくてOLになってる人に失礼だし。
大体、この番組(NHKのニュース?)は、未熟な志望者を時間かけて育てる余裕が今の企業には無いと言う事をいいたいわけで
世間知らずな高校生が無謀な夢を見てるよ、なんて事を伝えているわけではないのですし。
そうするとますます高校大学で、即戦力になる技術を教えなくてはいけない、伸びるのに時間がかかる子は容赦なく切られる
つまらない世の中になっちゃうよね、とニュースはいっているのでしょう。
あなたがデザイナー志望の子と触れ合う時間は短いから、夢を諦めさせるのが責任あるなんて思っちゃうのかもしれないけど
触れ合う時間が長い先生という立場になると、あのひどい絵を描いていたこの子がここまで伸びたのだから
なんとしてでも希望を叶えてあげるのが先生の責任だ、って思っちゃいますよ、やはり。
逆にそう思えないとなると、ちゃんと教えてこなかったということで先生失格ですよ。
ちなみに誰だって伸びます。前述した通りです。
試しに、あなたのところに来るデザイナー志望で飛び抜けて未熟だけど熱心そうな子を弟子にしてご覧なさいよ。
私の言ってる事が嘘じゃないと分かるから。
でもね、分かってますよ。あなたにだってそんな余裕は無いでしょう。
だから、あなたはこういうしか無い。
即戦力以外は、夢を諦めろ。
http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52373634.html
これを読んで色々思うところがあった。
僕は一応フリーのデザイナーとして飯を食えているので、たまにデザイナー志望の子から「デザイナーになりたいんだけど」みたいな相談を受けたりするんですが、ほとんどの場合、本音は「向いてないからやめときな」ってことなんだけど、どうやってそれを伝えるか、夢を諦めさせるかっていうのは非常に慎重に言葉を選ばなくてはなりません。
なので、高校生くらいの子にどうやったらできるだけ傷つけずにそれをうまく伝えられるのか、ちょっと考えてみたわけです。
はっきり言ってしまうと、好きなものを仕事にしている人というのはどこか頭がおかしいんですよ。頭が悪いという意味ではありません。むしろ大半の人は賢いです。アニメーターでも漫画家でもそうですが、基本的に大半の人が常軌を逸した労働環境の上で、やっと食えるくらいの賃金で働いているわけで、まともに考えればリスクを負わずに普通に働いた方が楽しい人生を送れるに決まっているわけです。それでもその職に就く人間はそういう普通の感覚が麻痺してしまうくらいそれに賭けてきてしまった人たちなわけです。
なので、まず「○○になろうかどうか迷っている」とか人に相談している時点で、もうその人は向いていない。感覚がまともすぎる。仮にその仕事に就けたとしても、結局続けるべきかどうかで悩んで、まず成功できない。目の前のいばらの道を進むか迷っている人間が何の躊躇もなく突き進む異常な人たちと闘って勝つ自信があるのか、と。その断固たる決意があるかどうかは見る人が見ればすぐわかると思います。
それと、「○○になりたいんだけど、どうすればいいですか?」っていう人も向いてない。どの世界でも成功できる人は恐ろしいくらい自分の実力を客観的に見て、自分に足りないものを認識した上で、その世界を見渡して、今、何をすべきかを的確に判断できる賢明さを持ってます。これも一種のセンスだと思います。申し訳ないけど、この女の子に必要なのは絵の才能よりも、そういった自分を客観視する感覚で、周りがそれを気づかせてあげられないのも不幸だなぁと思ってしまったわけです。(まぁ、逆説的ですが、絵がうまい人というのはこの客観的に物事を見る能力が長けているからうまいと思ったりもするのですが。)
そういったわけで、この女の子に「まだ若いんだからいくらでも可能性はある。がんばって!」というのは簡単ですが、やっぱり僕があの女の子の担任だったら上記のスレにあった富野さんのようにOLになった方がいいよ、と言ってしまうのが優しさかなぁと思います。本物だったら何を言われてもその人間はその道にいくわけなので。少なくともこの時点で何も感じられるものがない生徒の将来の僅かな可能性に賭けさせるより、現実を突きつけてやることが教師の責任だと思います。
(追記:最後に。)
こんな挑発的なタイトルと文章にたくさんの反応ありがとうございました。ブコメ、Twitterも含め、一通り目を通しました。当初思っていたよりも同意の割合が多いのが少し意外だったんですが、意見は綺麗に割れてますね。それだけ難しいテーマなわけで、誰かが一方的に正解を決められないよってわけです。音楽家とか指揮者で同じような言葉を引用してもらったりしたんですけど、音楽の世界はもうそれこそ本当にシビアなんでしょうね。
現在進行形でやりたいことに向かっている人にとっては癇に障る言い方をしたので、感情的なコメもちらちら見られるんですが、やりたいことを突き通すということはこういう文章も含め、様々な雑念や誘惑があります。だから周囲の理解が得られないことに憤慨したり、ましてやネットで見つけた冷たい言葉に心が揺らいでるヒマはないよ、ってことです。そりゃ、みんな不安は抱えながら生きてます。あと、「普通」だとか楽な仕事なんてないよ!カタギなめんな!っていうのは当たり前すぎる議論なのでここでは触れません。
こういうことを現実に面と向かって言うべきかどうかっていうのは難しいですが、ここまで書いておいてアレなんだけど、個人的にはこれをはっきり言っちゃう人とは距離を置きたいなぁ。。。という。ネットで匿名だからこそ言える言葉もあると思うんですよ。なので、ここに書いてる文章で人格否定とかまでぶっ飛んじゃう人はちょっと冷静になって叩く方法考えた方が良いですよ。こういう風に言ったら、って話をしてるので。いや、意地悪いっていうのはその通りなんですけど。
時間に余裕がある人間なら一度やらせてみて本人に気づかせるって意見が、ありきたりだけど妥当な気がします。それが現実を突きつけるってことなんだと思いますが。あとは勝手にその道に進むなり諦めるなりしてください。自分の人生だからね!
すごいわかりやすくまとめてもらったなぁ。。。
http://www.j1nn.com/archives/51731593.html
みんな!こっち読んだ方がいいよ!
まっとうな芸大生がなんとなくアニメ会社に就職するのが最善策か。山田尚子みたいに。
しかし非リアのルサンチマンを掬う(救う)作品を作れるのは誰なのか。
神山健治ではサブカル受けしてもオタクは救えない。本人にその気もさらさらない。
山本寛は自身がルサンチマンに囚われて同族嫌悪に走るオタク。どうしようもない。
細田守も宮崎駿的思想の持ち主。声優(笑)なんか使わない。健康的。現実的。前向き。嫌になる。
新海誠がオタク的感性も持つハイブリッドなアニメーターか。でも最近はサブカル寄りにシフトしてる気がして不安。
舛成孝二は自身が完全にオタクであり、オタクに心地いい作品を質の高いレベルで提供できる。が、宇宙ショーがコケたから映画は当分作れないだろう。
個人的結論としては、東映のプリキュアチームに期待を託すのみか。
玩具売り上げという拘束があるものの、内容そのものは女児(とその親)を意識して、至って健全。道徳的。
作り手の道徳観念を(説教ではなく)エンターテインメントととして提供できているのは、現在プリキュアしかない。
一方で、(玩具促販を除けば)映像作品自体に商業性を持ち込まなくて済む。オタクはプリキュアにおいて経済的搾取の対象ではない。だから、オタクはかえって純粋に楽しめる。「嫌儲」感が刺激されない。
プリキュアは「女児=親=家庭=社会」公認の作品である。自分の好きな作品が社会に認められることで、間接的にオタクは世間からの承認を得た気持ちになれる。
でも声を大にして言うのもどうかなと思ってさ。
ここに、こっそり呟かせて欲しい。
アニメーターなので、作画をよくしようと思ってやってきてはいるんだ。
でもさ、作画がよければ売れる、そんなわけでもないってのも、わかってはいたつもりだったんだけどもさ。
俺、あの作品関わってなかったけど。でも、すげーちゃんと作ってあったアニメだった。
スケジュールもちゃんとあって、作画なんて、やりすぎなんて話も聞いててさ。
レベル高い仕事やってんなーなんて思ってて、こりゃ安牌だなって思ってたのになぁ。
あんな売れないもんか…
確かに、俺は放映を観ていたわけではなかった。
単に趣味嗜好の問題なんだけど、取り立てて嫌いだったわけでもなかった。
絵柄だけで言えばむしろ好きな部類だったけど。
いやさ。作画、もっと上手くかけるように頑張るよ。心が折れたわけじゃない。
視聴者が喜んでくれれば嬉しい。視聴者が興味ないよって言っても、仕事の質がよければ業界の人が喜んでくれる。
何よりも技術が上がれば、素直に嬉しい。
でも、なんだな。
自分がやるだけやっても、どうにもならないこともある。
お疲れ様です。次、頑張りましょうね。顔も知らないけれど、応援しています。
もしかしてこれ読んで、買えよおまえら!みたいに言ってるように聞こえるかもしれないけど、そんなことないからね。
アニメ、安くないもんね。欲しい人が買ってくれればいいと思う。
一個人(night_in_tunisi)のtwitterから引っ張ってくるのはひどいと思うけど、大方リフレマンセイなブロガー・twitterエコノミストの意見を代表してるんじゃないかな。
# @yagena @rionaoki @ecohis 金子議員の件、ちょっと待ってほしい。岩本氏の「バーナンキの背理法」批判についておかしいと思わないの?これだけ経済の低迷が続いていることに何もできない経済学や経済学者に一般市民や国民が批判することは許されないの?中身で反論すれば?
# @yagena @rionaoki @ecohis もちろん、僕もさすがに言い過ぎだなぁ、とは思いましたよ。でも僕のような一般人の立場からすると、経済学者は日本経済に対してあまりに超然としていると思います。政策提言しない、というのであればそれは結構。批判もしないで欲しい。 4:09 PM Mar 31st
# @ecohis 返信有り難うございます。リフレに関しては「リフレ論争なんかに巻き込まれたくない」という空気を経済学者の一部の人から強く感じるんですね。偉い学者ほど、そう感じます。リフレを提唱している学者を低く見ている、といってもいい。 7:38 PM Mar 31st YoruFukurouから ecohis宛
ここからジャンプしてしまうのかもしれないけど、そこまで言うのならお前が論文書いてみろよって、マクロプロパーは思ってんじゃないかな。(所詮はお前はバーナンキとかの翻訳しかしてないだろって。)で、具体化するのがどれだけ難しいのか、あるいは整合的な(GE的な)論理に載せるのが難しいかを知れと。
@gaytown_2chome なんだかなぁ。。。こっちは生活かけてるから議論してるのに。なんか安田氏のエントリとそのコメント欄見ると子どもだなぁと感じるよ。
っていうけど、「生活」ってのはマクロ的な変動の中でリフレがうまくいくかどうかって話だから全国民一緒のはずでしょう。他方で、それを提唱したり批判する学者ってのは、直接に自分の評価につながるわけだよね。それが安田氏みたいな専門外のファカルティーだったらまだ専門性に対する深刻な問題にならないけど、マクロ専門だったら?現に日本だったらまじめなマクロ学者はそこらへん関わりあうのがめんどくさい(そして実効性から言えば、別にウェブのオタクたちなんか相手にしなくてもよい・よかった?)から、林もチャールズホリオカもそしてその有望な弟子たちも何も発言してないでしょう。リフレ派に関わるような人たちだって、売文ではなくて研究で身を立てていこうとしてる人たちはウェブから余計にひっこんでる。プライベートでは使ってるとしても。
同じことをさ、よく2chVipperで出てくる、プログラマーと顧客・営業の話に例えて考えてみなよ。そして、そんな営業みたいな人がニコニコしながらプレッシャーかけて、しかもアニメーターくらいの安月給(とそれくらいな賃金カーブ)で高い成果を要求してくる。日本だとジョブとるまで良くて月8万程度のRAでしょう。
日護会が、東京都青少年健全育成条例改正問題について動くらしい。
Twitterで批判的な話がたくさん出て、大騒ぎになっている。
◆緊急街宣
俺は、この件に関して心当たりがあった。
増田だから告白する。日護会にメールを送って取り上げるよう頼んだのが俺だ。
もしかしたら俺以外に複数いるかもしれないが、俺は間違いなく送った。
俺は何人かの都議会議員に手紙を送ったし、出版労連や雑誌協会に電凸した。
日本ペンクラブや日本漫画家協会、アニメーター組合にも凸した。
中核系か革マル系かは分からないけど、左翼市民運動家にも動いてほしいとメル凸した。
で、メル凸した団体の一つに日護会がいたわけ。
俺が最初日護会にメールを送った時は、藤本由香里氏が動く前だったからな、
誰も取り上げないことに対する焦燥感があって、日護会に動いてほしいと思ったわけ。
土屋敬之氏の事務所に問い合わせようとしたと話した。
もしかしたら反対に回ってくれる可能性があるんじゃないかと思ってた。
で、返事に対する返事を書いたけど、他に取り上げるべきことがある
(子ども手当とか、朝鮮学校の無償化なんかが、ウヨが食いつきそうなネタ)
から取り上げないと思ってた矢先に街宣活動をやると聞いた。
おお、遂にやるか!!と俺は思ったわけ。
だけど、Twitterの反応を見て驚いた。批判的な意見ばっかりなわけ。
ああ、やっちまった…と俺は思った。
けど、後の祭り。もう連中を止めることはできない。
例えるなら他の馬がムチで叩いてもちっとも動かなかった中、
ムチで叩いて手ごたえがいい馬がいたけど、その馬が暴れ馬だったというわけ。
俺は所詮「無能な働き者」だったのか!?
都議会議員に数通しか送ってないから怠け者だろ!?とさえ思うのだが。
正確には会社をバックレた。
責任とかモラルとか、もう、わかってるけど、いい。どうでもいい。叩け。
とにかく今ドアを出て会社に向かいまた1週間を始めたら俺は
壊 れ る。
「うちの会社はノルマとかはないよ。基本給+枚数をこなせば作業手当として給料は上がる。」
なのに、基本給は実は「最低限の枚数をこなしたという前提」で設定されていたんだ。
作業枚数が、会社の設定した枚数に満たない場合、基本給がマイナスされていく。
募集要項にはこう書いてあったんだ。
基本給+住宅手当+皆勤手当で15万円。アニメ業界の初任給としてはかなりの高額だ。
でもそんなうまい話はなかった。
09:30 会社に行く準備をしていると、じんましんが出てくる。
10:00 出勤。「おはようございます」の言葉が空しいほど皆無言。
12:00 机で黙々と昼食。食欲がないのでせんべい1枚をかじる。特に会話はない。
14:00 外は太陽が降り注いでいるが会社は電気すらついていない。モニターでの色確認などのため。
18:00 夕方を過ぎると微熱が出てくる。時には38度越える。
20:30 パンを食べる。
22:00 集中力が限界だが手を動かさないと仕事が終わらない。
23:30 正直アニメとかどうでもよくなってきて帰る。俺今日誰ともしゃべってねえ。
09:30 じんましん。以下永久ループ。
絵を描くのが好き?そうだっけ?
俺が描いてるのは絵じゃなくて線にしか思えない。
月10万そこらで10何時間も線だけ描いて、俺はいい歳して社会に何を貢献しているの?
50代の作画監督見てたら、あんな大人にはなりたくないとしか思えない。
俺こんなことするために生まれてきたんじゃねえよ。
他人様の現実逃避材料を生み出すために、うどんも食えないほど憔悴するなんて。
最低限の生きる権利を保障されながら金を稼ぎ、納税したい。
社会保険とか年金とかちゃんと払って、いつかは家庭を持って子孫も残して。
当たり前だと思ってたことすべてが、このままじゃ何ひとつ出来ない。
「人並み」の人生を生きるのってこんなに大変だったのかよ。
まじ馬鹿みてー
※改題
ってなわけで、作画オタクマンセー、って内容で今から繰り出すわけですがね。
「作画オタってうぜえ、くせえ、ビーッ!ビーッ!」って人は読んだらものすごく不愉快になるだろうからそこんとこよろしくね。
かといって作画オタがご機嫌になれる内容かと言えばたぶん違うと思うんだ
俺が普段モヤモヤしたものをここでぶちまけさせてスッキリさせてもらうわってだけのエントリだから
んで、まーなんつーか
アニメ系のブログとかスレッドとか評論ぶったサイトとか見て回るとですね
純然たる客観的事実としてどう考えても「作画オタ以上の見識を持った奴がいねえ」って印象を受けざるを得
ないわけですよ
いや、いやいやいや、俺だってね、アニメは作画だけが全てとは思わんよ。作画に疎いこととアニメ語りがで
きる事は別だと、一時期は思ってましたよ
でもね、結果的に見ますと、やっぱあれだ、作画オタのほうがよっぽどアニメ語ってるわー
どういうこっちゃねんなオイ、考えたよ、そんででた結論は「作画オタじゃないとアニメ語れないんだ」です
よ
あ?また作オタお得意の優越感ゲームだよーって?はいはい偉いですねーって?そうなんですよ、偉いんです
よ作オタって。
考えてもみなさいよ、昔のアニオタってアニメ作画について語れることがステータスだったんですよ偉いんで
すよっていうか、アニメを今まで以上に好きになるってことは作画を好きになるってことと同義なんすよ、そ
れをお前今じゃ、「作画しか見てない奴は純粋にアニメを楽しんでない」って論調がふざけんなよ!作画「も
」見てんだよ!お前らは「作画も見れてない」んだろうが!!いいか、アニメを純粋に楽しみたいから作画も
好きになったんだよ!
でだ、ネットが普及して作画に入れ込んでないけどみんな作画を気にするようになったよねここ数年の傾向と
して。それ自体は良いと思う。問題はそのわりにちゃんと知ってみようとしないこと。
アニメの作り方とか知らないけど作画にはケチつけるよって連中がすげえ多いこと多いこと。一時期よく背伸
びしたがりなアニオタの内で「原画を犠牲にして動画のクオリティを上げてるね(キリッ)」(逆のパターン有り
)ってフレーズ流行ったけど(流行ってないかも)今じゃギャグにしか使わないでしょーって思ってたけど今
でも割とネタじゃなくマジで言ってる奴がいたりしてげんなりしてくる。原画と動画の違いとかググればパツ
イチで出てくるようなことだっつうのに、それも手間だと思ってるんでしょうかキーボード打つ暇もないのか
。ていうか興味対象の限界なんだよねこれが奴らの。それとは別の次元のところに作画に対する興味(といい
つつ興味でもなんでもないただの脊椎反射だよね)がやつらにあんのが末恐ろしいっていうか
いや、わかるよ俺、かわいいキャラが崩れるのはヤだもんね、だからそこに文句つけんのは凄く正しいと思う
。けど文句のつけかたに妙な気味悪さが萌え豚(あ、言っちゃった)たちにあるのがな。その最たるものが「
作画崩壊」って造語なんだけ・・・・あーこの言葉ほんと気分悪い。だってこれ使ってるのって自分の言葉で
語るの根本から放棄しますって宣言だろがよ、自覚あんのか自覚。よくわかんないものを「作画崩壊」ってカ
テゴリに無理ぐり当てはめて安心したいだけなんじゃねーのかよ。違うかよ。わかんないものはわかんないだ
ろうからいいよそれで、わかんないものを分かってみようって姿勢ももちろんいいよ。でも「作画崩壊」って
決めつけることはどっちでもねーだろ。わかんないものをわかった気になりたいけどわかろうとしない(めん
どくさいから)アンビバレンツを「作画崩壊」っていうんだろ違う?
ふつーに作画がヘチョいものをケナすのはいいよ。ただアニメタの画風が露出した部分が受け入れがたいって
のもあるだろうからそれを非難するのもいいと思うよ。ただそれまで「作画崩壊」で解決させようとする姿勢
はなんなんだ?理解ができん。ていうか単純に画力の無さヘナってるのと画風との区別ってそんなつかないも
んなの?絵がいくらキモかろうとも巧いものは巧いってのは普通わかると思うんだか(漫画家?あれは下手な
のも画風の内っしょ)逆にうまくてもキモいものは叩かれるのは道理ですよね。それはわかるよ。でも奴らの
論調は道理じゃないと思うんだよ。いや、俺だって作画の巧さと好き嫌いは別だと思うし、作オタだから谷口
キリコや安藤セラムンとか無条件で受け入れろってわけじゃないし、でも巧さは巧さとして認識しようぜとは
思ってる。俺もネギまやぱにぽににおける大田和寛のキャラデザは正直生理的に受け入れがたいものがあるん
だけど大田和寛自身はアニメタとしてメチャ巧いのは確かだからあれはあれでいいと思ってる。(もともとリ
アル系目指してたらしいしね、素の絵柄の時はまったく違うらしい、同人誌かなんかで見た)まあ、そこらへ
ん度外視してあーだこーだ言ってしまうのは、正直フェアじゃねえんじゃねえかなって。道理のようで道理じ
ゃないんだよ。
そこらへんが悪い形で出てしまった悲劇というのがかのアクエリオン19話だよな。「いやあれは演出だから
(キリッ」「アバンは現実世界なのに絵が変わってるからその言い訳は(キリッ」って低次元の言い争いじゃなくっ
て、まあ、放送当時は荒れたよねほんと。あそこで糾弾の的に上がったのは絵コンテ・作画監督(Aパート)そ
のほか世界設定であるうつのみや理だったけど、あの話数はうつの画風全開(Bパートは別の人が作監でうつ度
薄れた感はあるんだけど大多数はそこまで気にしてないよね)で、異空間に紛れ込んだのをあの画で現してん
だけど、やっぱり叩きに叩かれた。うつだけが、そう、うつのみや理だけが。何故か。え?そりゃそうだろう
って?そうなのほんとに?たしかにコンテや設定込みでやらしてもらってるからうつ主導の回なのは間違いな
い、それが受け入れられなかった場合はうつのほうに追求が行くのも間違いない。でもだれか忘れてない?こ
の話数にゴーサインを出した人、監督:河森正治の存在を。なぜかあの騒動の中で、河森はなんの責任も無い
どころかまるで被害者かのように否定派連中は担ぎ出していた。河森の当初描いていた物語(作品全体という
意味で)をうつのみやが破壊したと、こう言いたいわけだってなんだそりゃあ。あまりにも筋が通ってないだ
ろそれは。あの回はアクエリオンという作品でこういうことをしたいという河森の構想をうつが委託して作っ
たようなものだったのに。どの口で言ってるのだろうか連中は。公式ブログには当時のコメントログがそのま
んま残っている、律儀にも。(http://aquarion.blog.so-net.ne.jp/2005-08-06)コメントのファビョりっぷ
りが当時の様子を伺わせるだろう。「うつのみや理はアニメに二度と関わるな」「追放しろ」というようなベ
クトルでだ、わあすげえ、きっと人殺しても許されると思ってるんだろうなあこの人ら。あまつさえ「原作者
のこの作品に対する気持ちを冒涜するかのような横暴って感じです」ですって。原作者!原作者ときましたか
wwwいや、このアニメの原作者はもちろん監督である河森なんだけど、果たしてこのコメント付けた馬鹿は
「原作者」と「河森正治」とがリンクしてるのかどうかものすごく疑わしいんですが。えーと、まあ、筋の通
った話なら、河森がこういうことをやりたいから、うつを起用して、こういう回を作り上げたと、それでまあ
それが視聴者に受け入れられなかったのならそれはそれで仕方ないけれど、その時に河森に対する責任はゼロ
ってそんな筈ぁないよね。でも非難が集中したのはうつの方だった。HP(現在は消滅)の掲示板にも突撃かまさ
れてた、心苦しかった。作オタとして。筋が通ってるんなら監督不行届的な意味で河森にも同じくらい非難が
こないと納得いかないんだが、そうはならなかった。あまりにも一方的過ぎて酷いと思った(いっとくけど俺
は19話大好きだしうつも河森も間違った事はしていないと思ってるから誤解のなきよう)。
もうあんな悲劇はゴメンだと思ってるから、二度と起きて欲しくないんだけど結局これまでに似たような事は
何度も起こってるんだよね、はあ。
嫌なものは嫌だというのはわかるよ、嫌でも好きになれよって言うつもりは無いんだよ作オタ側でもな。でも
、なんだその歪みきった行動はよ、あまりにも非人道的だろうが、お前らがそういう手段に出るんだったらこ
っちだって怒気荒らげるわさ。死ね、お願いだから死んでくれ。頼むから。
・・・・えーっと、何の話だったっけかな?作オタがいかに優れてるかだっけか?正直もうここまでくるとそ
のテーマどうでもいいんだけど。
しかし、今はそれなりに作画に関する認知度はあの当時よりはマシんなってきたと思うし。やっぱあれだよね
、作画MAD、そして作画WIKI、そしてその大元になった作画を語るス・・・!え、それは違う?いやでもあそこ
なんだかんだ言って常駐してりゃ作画情報すぐ入ってくるから便利っちゃ便利なんだよね。そりゃタチの悪い
のもいるけどもそれでも他のアニメ系スレッドに比べりゃ遥かにマシだと思うし。俺も一度愛想尽きて作スレ
離れようかと思ったけど結局まだ入り浸ってるし。だって質がいくら落ちようが、他のスレより全然語ってる
ほうだと思うし、作画だけじゃなくアニメそのものも。テロ萌えだとかで名前だけでしか語ってないっていう
のもネタを除けば共通言語で名前出しゃ言いたいことはわかるってレベルなんだと思うし。あー脱線。まあそ
んなのので作画、認知されてきてるよね。うん。特に作画MAD。これは間違いなく作オタ人口を増やしたんだと
思う。そして増えた結果がこれだ。
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20070424/drawingotaku
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090414/1239659751(真ん中の作画オタクの新入生のほう)
・・・・・・・・・・・ま、これが作画に興味を持つフックになってくれればいいんだけど、こっから先行け
んのかどうかちょっとうにゅにゅ・・・って感じだよね。ここでもう満足してるっつか。ほんと「MAD見て良さ
わかった(つもり)だから俺作画オターw」みたいな。なわけねえっしょ。これ見て(URL前者)嫌な汗かいち
ゃって、作画WIKIに「作画MAD見ただけで作オタになった気にならないでください日々精進」って注意書きをダ
マテンで追加したんだけど俺、未だに残ってるね。これが効果あんのか無いのか無いと思うけど、まあここで
作画オタだと自分勘違いした人って多いんだろうね。いや、俺だって自分が生粋の作画オタなのかというと疑
わしいけどさ、21世紀入ってからだし。やっぱメージュとかOUTとかの世代のほうが遥かにすげえんだろうなっ
て思うよ。だってナチュラルになってんだもん。しごく当然のように作画を語ろうとする。ネットもYOUTUBEも
当然ないしビデオダビングの交換とかでどうにかしてんだし草の根情報網で作オタライフ(作オタなんてカテ
ゴリ分け存在してなかったかも)やってんだもんすげえよ。かないっこなさそう。作画オタってさ、なろうと
思ってなれるもんじゃねえんだよなって思う。なれる奴となれない奴は最初っから決まってるんだよ。俺もな
れたとはまだ思えてない。でも好きなもんは好きなんだって衝動はあるから「作品的には駄作でもエポックな
作画はやってる」なアニメも積極的に見るぐらいの情熱は俺あるよ。うん。だって気になんじゃんよ。純粋に
。純粋なアニメの見方じゃない?いや純粋だよえげつないほどデュワじゃなくてピュアだよ。純粋にアニメが
好きなんだよ。でなかったらするかよこんなこと。
けど作画認知度ってのは結局は今んとこ作画MAD止まりだよな。いくら憲生MADや大平MAD見て「アニメタの個性
だ(キリッ」つってったって何も偉くねんだよ。同族嫌悪じゃねえよ。あいつらは作画オタなんかじゃない。アニ
メーターの個性(この呼び方好きくないんだけど)ってのは絵柄だけじゃないけどまだ絵柄単位での話しかし
てねーっつうかさ。ていうか、ああいうキャラデ逸脱型ってのは「やっちまったもんは仕方ない」っていう前
提ですげえ!って言えるもんでさ。やっぱ設定は守るべきなんだよね基本はさ。その設定が変えちゃいたくな
るようなつまんないものだったのかどうかは当事者なアニメタしか知りようが無いけど。でも作画オタの側か
ら見ても基本は設定だと思うんだよ。設定から外れたからスゲエんじゃなくって、設定から外れたけどそれは
それでスゲエんだよ。そこは履き違えんなよ。まあ元の設定があるからこそよけい凄さが際立つケースもある
けどね。言ってることメチャクチャだって?すまんね。けどここんとこを履き違えた結果起こった第2の悲劇っ
てのがあれだ、鉄腕バーディー DECODE:02第7話。ていうか仁保パート。あれの論争はちゃんとした作オタは一歩
引いた目で見てたと思う。それよかパート当てに盛り上がってcoosunのいぢわる情報に振り回されてた気がす
る。あそこでアニメ板本スレとか乗り込んで「あれはアニメーターの個性だからイイのだ」つって対抗してた
つもりっぽいのは作画オタじゃねえんだよ。作オタだとしても「作画オタクのB君」みたいな人達なんだよ断言
しちゃうよ。だからあれを作画オタかなんかのように見られると正直嫌な気しかしないっていうか、だからゲ
ーラボのネット事件簿みたいなコラムで「バーディーの手抜き作画に作画オタが反論!」みたいな事書いた多根清史はマジで死んで欲しいんだけど閑話休題。
作画オタクのB君で思い出したけどもう一つ、この記事書いたy_arimは作画MADに対して以下引用「純粋に作画
だけを見ようと思ったらあのBGMはかえって邪魔なんです。もともとのBGMや台詞、S.Eとも違うわけですから。
まあ海外のAMVを真似て導入したんでしょうけれども……」て言ってっけどダウトだよそりゃあ。作画MADを資
料映像かなんかだと勘違いしてんだよ。俺も作画MADは音消して見る癖ついちゃったクチだけそれは単に選曲が
酷くて絵もあってねえっていう、聞くに耐えねえだけっつうわけで音消してんだし。出来がいいやつはちゃん
と音有りで見るよ初期のやつとか、だって作画MADは資料じゃねえじゃん。他のMADムービーと同じじゃんエヴ
ァの映像にイッパツマンの逆転王の曲かけるやつ(結構好きだった)とかのと同類でっしゃろ。出来の悪いヤ
ツはそれこそ資料映像と割りきって音消しちゃうわけなのよ。逆よ逆、資料映像としてハナから見るわけじゃ
なくMADとして見ようとしてんだけどMADとして見る価値がないと資料映像として音消すんよ。導入の仕方はぜ
んぜん違うよ。音消すようなのは大抵1回見てもう二度と見ないなそれは。つか純粋に作画見たけりゃオリジナ
ルで見るっつうの。MADなんか頼らんっつうの。てなわけで作画MADの思い出でも語りますか。
まあ実質これが元祖作画MADでしょう。これが公開された時の事は覚えてる。YOUTUBEもロクに活用されたなか
った頃だから生ファイルで上がってたんだけど皆驚いてた。何に驚いたかっつうと何の脈絡も無くアップロー
ドされた事もそうだが「なんつー物好きな奴がいたんだ」って感じに。作オタなんてマイノリティの極みだっ
たからこんなヒマなことする人間がいたのかって驚きがあったんだよ。そんで妙な中毒感はたしかに存在した
。完成度で言えば荒いけど新鮮さではものすごかった。何でこの曲なん!?って言われたけど、磯作画による
爆発や地面がエグられてく様はたしかに「地球の危機」を感じたんだよ、笑わば笑え。SAMURAI7の森久司パー
トが何故か混ざってたのは当時も指摘されてたけど、正直それは問題ではないっていうクオリティだった(こ
の辺が作画MADは資料用じゃないってたらしめてるんだとおもう)。一時期何度も見たなー。もう一つあとで上
がった、曲がゴルドランEDのやつも良く出きてたけどこっちはあまり知られてないね。やっぱり動画サイトに
も無いし。保存してあるからいいけど。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm222484
これもつべ消えててニコのしか無かったわー。これも時代か。
これはたしか「作るよー」って制作者が宣言してたと記憶してる。磯MADに触発された感じで。それで期待は高
かったしそれに応えられていたとも思う。何故かなかなか流行らないインストゥメンタルタイプの作画MADの元
祖。何度かバージョンアップして追加とかパート間違い修正してたな。これも良く見ればちゃんと曲に合わせ
た編集してるんだよね垂れ流しじゃあなくって。曲フェードアウトで中途半端に終わらしてる風だけどこれは
これで余韻が残ってカッチョ良かった。この時期が作画MADを純粋に楽しんでたなー。作画じゃなくて作画MAD
よ何度も言うけど。
http://www.youtube.com/watch?v=d3rJCPFqKRI
アニメーター復帰後の作品でかためられて、80年代の山下してた頃のは一切無いけどどっちかに統一してるの
はとっちらかってなくて良かった。それよりもこのMADの破壊力はあれだよ、「消してーリライトしてー」の部
分。オリジナルの吉成鋼パートんとこに合わせてイノのバトー飛び降りをかぶせてくる編集。MADとしちゃ常套
手段だろうけどこれはムッチャかっこよかった。すげーキマってた。思わず手をグーにしたもの。この部分の
ためだけにこの曲使ったのはもはや明白だけどそこの所の一点突破的なやり口はすげーイケてたですよ。マジ
でこれが作画MADのその後の方向性決めちゃったんだと思う。逆に言えば、真似して失敗したのが多すぎ。
この3本が作画MADの歴史を物語ってる。これは間違いないです。作画MADってやっぱミュージッククリップなん
だよね有志の。いつから作画オタ育成ようになってしまったんでしょう。前述したように作画オタなんてなれ
る奴となれない奴に分けられてるんだから。それでも作画オタになりたいんだったら自分で好きな作画見つけ
て追っかけてみましょうよ。MADなんかに頼んないでさ。というわけで、作画MADのお話でしたマル
・・・・・・・・・冒頭あんな挑発的な導入しといてここで終わるのはなんともアレなので最後にもう一つ話
題。「作画を体系的に理解するための7作品」(http://anond.hatelabo.jp/20091127174928)を書いたのは俺
だ。あれは作スレで「映画を体系~」(http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20091126/1259227980)の改変やっ
てー見たいなレスあって、本気で言ってるわけじゃないだろうけど面白そうだから改変した。そんでバッカで
ーって笑ってもらえりゃいいやと思ってた。だからわかりやすいようにあんなWEBアニメスタイルに依存しまく
ってる内容にした。したがってあれはアニメスタイル読んでりゃ全部分かりきったような内容しかない。上げ
た作品は俺も一通り見てはいるけどさ、でもやっぱネタだネタ、こんなんで体系的に理解できるもんかよ。元
ネタの7つ限定に無理やり当てはめてみたんであって、ちゃんと体系的にしたかったらAプロとかデザスギとか
も盛り込んでるよ。(俺もそこまで濃いわけじゃないからそんな地雷源渡れないけど)宮崎大塚もハブって最
後にしか書いてないのも元ネタ記事の「ここでは取りあげられなかったのだが、ルビッチやワイルダー」の宮
崎大塚バージョンがやりたかっただけだよ。だから100%ネタで書いてたんであって、こんなん参考にする
ようなやつ終わってるわーって思うわけよ。実際は200ブックマーク越えちゃってビビッたけど、「これはすご
い」「勉強になる」「歴史」とかくせえのが多いの。んなバカなこんなんで勉強にされちゃうのかよ。こんな
ネタ見る奴限られると思ってたから俺驚いちゃったよ。いや、彼らがそれで納得して勉強んなったんなら良い
んだけど。それでも俺なんか脱力しちゃったよ、あああ~~~そこまでなのか~~~~って。笑って貰うどこ
ろか関心されちゃったよ~~~~って。まあ遥か先の世代から見れば俺みたいなニワカ作オタだって似たよう
な印象受けちゃうだろうけど。でもそんな俺からしてみてもあああああ~~~ってなるのはよっぽどじゃねえ
のかな。だって俺、このネタに上げた作品を一通り見て、そこで初めて「ニワカ作オタ」になれるレベルだと
常に信じてたんだもん。※
と、言うわけでして。これで作オタが全アニオタで優れている存在だと理解できましたねみなさん。何、でき
るわけねえだろ?そんなら良し。
※今見たら逆の事書いてた俺
タイトルのような議論は、『ゲームは「作品」でも「商品」でもある』という結論に落ち着く。大抵は。
なんか違うよな、と思ってたのだが、少し前に下のようなスレを見つけてから、さらにモヤモヤが増してきたので、少し書きたいと思う。
http://dubai.2ch.net/test/read.cgi/ghard/1260455702/
>「僕らは作品ではなく商品を作っている」という発言だった。
>ゲームそのものではない。宮本氏は普段から、スタッフにも自分たちが作っているものを
>「作品」ではなく「商品」と呼ぶよう指示しているという。
ttp://gamez.itmedia.co.jp/games/articles/0910/27/news082.html
金儲けしか頭にないんだな、この老害は・・・
自分も過去ログが見れない状態なので、記憶で書くしかないが、私が見た時には、いつも通りに荒れていたし、例の如くコテハン叩きもやっていたりと、まさにゲハだった。ただ、あまり決定打的意見はなかった印象もあった。宮本氏を守銭奴扱いする人間もいれば、「当たり前じゃないか!」という人間もいて、色々意見が分かれていた。
じゃあ、お前が決定打的意見を出せるのか?と言ったら、まあ、怪しいものだが、自分なりの落ち着き所が欲しいし、モヤモヤも何とかしたいので、書きながら考えを整理してきたい考えだ。
……と、能書きはこの辺までとして、本論に入ろう。
まず、『ゲームは「作品」でも「商品」でもある』というのは、正確じゃないよね?というのが私の立場だ。単なるとんちに聞こえるかも知れないが、『ゲームは全て作品であるが、中には商品として売っているものもある』がより正確だと思う。(フリーで遊べるのもある訳だから)
要するに、「商品」と「作品」は一つの対立軸にはなり得るけれど、「商品」と「作品」は対照的な存在という訳でもない。
「無料」と「有料」は「0か、0でないかだから」、TrueとFalseの条件式に使えるけれどもだ。
販売者の側から見ると、「作品」は、単なる「商材」である。
「商材」を消費者から見て「商品」に仕立て上げるのが「商人」である。
アップルは良い見本で、安く「商材」を仕入れて、手を入れ、磨き上げ、組み上げて、大勢の人間が良いと思わせる「商品」に仕立て上げている。
その結果、スティーブ・ジョブズは、オープンソース教徒には守銭奴に見えるだろうし、アップルファンには神の使いに見える。
(この図のように→http://i.imgur.com/YRoqC.jpg)
例えば、記憶で書くので間違っている部分もあるかも知れないが、ハリウッド映画にもなった映画「Shall we ダンス?」は、本家の日本版も米国で公開されていて、(米国では)200万人を動員したそうだ(Wikipediaより)。
米国で公開する際、米国のインディペンデント系が買い取ったらしいのだが、そのバイヤー曰く、「私が発見した」という言葉を使ったらしい。監督の周防正行氏曰く、「私はすでに商業作品を作って成功している(から、発見したという表現はおかしい)」。
周防正行氏は、バイヤーから見れば「(今まで現地で紹介されてこなかった新しい)商材」に見えるのだろうし、氏自身から見れば自身を「(立派に成功した)商業作品」の監督であると思うのは当然だ。その視点(立場)の違いによって意見の相違が生まれているということなのだと思う(私の記憶の違いもあるかも知れないので、詳しくは「『Shall we ダンス?』アメリカを行く (文春文庫)」を見て下さい)。
話がさらに脱線するかも知れないが、アニメーターの労働条件が酷い件についても、似た様な違和感を感じる。
具体的には、あまり電通がどう、中間搾取がどう、とかという時代でもないだろう、みたいな気が非常にする。
ゲームもそうなのだが、無料でも見ないような「作品」、遊ばないような「作品」がネットやレンタル、廉価版、ワゴン、中古にいくらでも転がっている。今の時代、それこそ、インディーズや映像全体まで枠を広げると、YouTubeだって一人の人間で見きれない状態だ。
しかしだ。それでも、売れているものは売れている。
例えば、任天堂のゲームなんてあまり値下がりしないし、それなりの値段がするが、売れている(おお、ゲームの話に戻ってきた)。
つまり、「作品」があふれる時代に、「作品」で金を稼ぐにはどうすればいいのか?という問題に戻ってくる。
「作品」をどう「商品」に仕立て上げるか?ということが問題になってくる。
編集者のいない漫画雑誌であるコミックギアは三号で潰れたそうだが、金を取るなら「作品」である前に「商品」であることを求められるという訳だ(例え、作者が不本意に連載を続けていても)。
当たり前だが、人は、欲しい時に欲しいものが欲しい。
果たして、みんなが持っていたオモチャを買ってもらえなかった時の気分はどうだったろうか。
要するに「商機」をつかめばものは売れる。
つまり、たった一杯の水でも、砂漠では高く売れる。
何でもないものが希少価値になる。
そして、需要がある所に商品を適正価格で供給してやれば、感謝される。
満足感があれば、リピーターになってくれる。
それがまっとうな商売だ。皆の幸せに繋がるのだ。
そういった「商機」を見抜く目があり、実際行動する人が尊敬される商人なのだと思う。
果たして、廃人育成MMOやマルチ商法ソーシャルアプリがまっとうな商売か?と聞かれた場合、ハイ、と答えられればそういうゲームの営業をやればいいと思うし(別に非難している訳ではない。悪意はあるが)。
もちろん、「商品のまっとうさ」というのは実に微妙なものだ。特にエンタテイメント業界においては。
だが、売っている人間が自身の商品のまっとうさを信じられるかというのは実に大きなファクターだと思う。より悪意のある書き方をすれば、詐欺的商売でも、自身の商品のまっとうさを営業が信じていれば、ものすごい力になるから。
もう一つ気になるのは、クリエイティブ性の問題だ。
クリエイティブの敷居がこれだけ低くなると、もう、プロのクリエーターは好きなものを作れなくなるのではないか。
当たり前と言えば当たり前だが、仕事というのは、いやな作業をする代償としてお金をもらうようなものだから、クリエイティブはアマのものになるのかも知れない、的な雰囲気がなんだか漂っている気がする。
例えば、米国では、10年くらい前までは業界を引っ張っていた制作者が半分趣味で作っているようなPC大作がほとんど出なくなっている代わりに、クリエイティブなインディーズゲームが活性化しているようだ。
……すると、ものすごい安い賃金の本業と儲けの高い同人活動をこなすアニメーターみたいな訳の分からないものがこれからの本道なんだろうか?
とすれば、プロ活動とアマ活動を両輪にして生き残る、というのも一つの考え方という訳だ。
もちろん、いやいや、プロは今のハリウッドの様に空虚になるのではないか?とか、CGMはどうよ?とか、まだまだ言及が足り無いこともあるが、疲れたので寝ることにしよう……。
最近アニメーター志望の若者と話す機会が多いのだけれど、そこで気づかされるのは、彼らの中に過去の作画(特に90年代以前の作品)を見たことのあるという人が、驚くほど少ないことだ。
例えば「金田伊功をどう思う?」と聞くと、「金田伊功って誰ですか?」という答えが返ってくる。「なかむらたかしの作画で何が一番好き?」と聞くと、「見たことがありません」と言われてしまう。「ではきみは、昔の作画を見たことがあるの?」と聞くと、たいていが「youtubeで流れていたものくらいなら……」という答えしか返ってこない。
今の若い人の間では、作画を体系的にとらえようという人は少ないようだ。見るのは専ら近年の話題作画ばかりで、歴史を辿ってみたり、系譜をひもといてタイミングごと理解しようとする人はほとんどいない。
これは、ちょっと由々しき問題だと思わされた。作画は、もう長いこと(20世紀の遅い時期から)マイノリティの王者としてあらゆるオタクの上に君臨してきた。だから、作画を作ることを仕事にしたいなら、何をするにせよ避けて通ることはできない。
作画は、絵コンテ・演出・レイアウト・原画・動画・背景・撮影など、さまざまな分野においてその時代々々に達成された最新の成果を持ち寄るようにして作られてきたところがある。だから、作画を見ずして現代のアニメは語れないと言ってもいいくらいだ。
もし何かクリエイティブなことをしたいのなら、作画を見ることは欠かせない。また、単に見るだけではなく、それを包括的・体系的にとらえることも必要だ。なぜなら、作画を包括的・体系的にとらえることによって、現代のアニメそのものを、包括的・体系的にとらえられるようになるからだ。そしてそうなれば、ものを作ることの道理や筋道が理解でき、何かクリエイティブなことをする上で、大きな助けとなるからである。
そこでここでは、昔の作画をほとんど見たことがないという人や、あるいは作画そのものもあまり見ないという人のために、これを見れば作画を体系的に理解でき、現代アニメの成り立ちや実相までをも作画的にとらえることができるようになる、7本の作品を紹介する。
ここで紹介する作品は、いずれも後の作画界に決定的な影響を与えたものばかりだ。これらが、作画というジャンルのありようや方向性を決定づけた。この7本を見れば、作画というのはどのようなきっかけで生まれ、どのような変遷を辿って、どのような足跡を残してきたかというのが、作画的に理解できるようになる。そしてそれが、アニメの作画シーンにどのような影響を及ぼしてきたかということも、知ることができるようになるのだ。
まず最初は、ちょっと強引かも知れないけれど、金田伊功前の作画をひとまとめにするところから始める。
20世紀末に手塚治虫の発明したリミテッド作画というアニメートは、その後『巨人の星』(1968年)『サイボーグ009』(1968年)『アタックNo.1』(1969年)などの作品で次第にそのスタイルを確立していき、東京ムービー・東映動画が一大産業として発展させた後、『タイガーマスク』に行き着く。そして幸運なことに、ここに集大成されるのだ。
金田前の作画は、これ1本だけ見れば良い。この作画に、金田前の作画の全ての要素(魅力)が詰まっている。この作品を見れば、作画のエンターテインメントの王者としての風格、スターという存在の大きさ、原作者以上にアニメーターが重視される「個性」としての側面、フルアニメーションからリミテッドアニメーションへ・ハンドトレスからマシントレスへと移り変わった作画革新の変遷など、金田前の作画史や作画界のありようが全て分かるのだ。
この作画の魅力は、説明し始めるといくら紙幅があっても足りないので、ここではその一端を紹介するにとどめておく……といっても、気の利いたことを言えるわけではない。『タイガーマスク』の魅力を知るには、まずは見てもらうこと――これに尽きるからだ。そして、もし一度でも見れば、その魅力はたちどころに理解できるだろう。
『タイガーマスク』を見て驚かされるのは、現在の作画と比べても全く遜色ないところである。作られてから40年の時が経過しているが、現代人の鑑賞にも当たり前のように堪えうるのだ。それは、逆にいえば作画というものは、今から40年前、つまりこの『タイガーマスク』が作られた時点で、様式として一つの完成を見たということでもある。
『タイガーマスク』は、作画というジャンルが到達した一つの極みである。それゆえ、作画史というものは、『タイガーマスク』以前と以降とで分けられるようになった。これ以降に作られた作画で、『タイガーマスク』の影響を免れたものはないからである。
金田伊功が国内の作画史に与えた影響というのは、一般に理解されているよりもはるかに大きなものがある。アニオタというのは、「作画文化がアニメに影響を与えた」というと、なぜか話半分で聞いてしまうところがある。「作画のカナダ」という言葉は聞いたことがあっても、「それって作画オタが過大評価しているだけじゃないの?」と、眉に唾をしてとらえるところがある。
しかし金田伊功は、真に国内の作画史を塗り替えた人間の一人である。特に、彼の後世に与えた影響には、本当に計り知れない大きさがある。
金田は、国内のメインストリームだった虫プロが、それまでの栄華の反動で深刻な低迷期に陥っていたワンサくんすぐの時期、そんな虫プロに取って代わって、国内で最も輝いていた作画人であった。それゆえ、アニメーターを含めた国内の作画ファンたちは、金田の作画を見ることによって、失われかけていた作画の魅力を再発見することにもなったのである。
金田は、没落した虫プロに変わって作画の命脈をつなぎ止めた、言うならば救世主のような存在であった。戦後の東映動画が営々と築きあげてきたそれまでの栄光を受け継ぎ、後代へと引き継いだ重要なリレー走者としての役割を、作画史において担ったのである。
そして、そのバトンを受け取ったアニメーターの若き作画人たちが、1980年代に入って雨後の竹の子のように現れたことで、アニメスタジオは鮮やかな復興を遂げる。だから、もし金田がいなければ、作画の様相は今とは違ったものになっていたかもしれないのだ。
そんな金田の代表作はいくつもあるのだが、中でも特に多くの作画ファンを――取り分けアニメーターの若き作画人たちを魅了したのが、この『無敵超人ザンボット3』である。この作品の一番の魅力は、なんといってもその大胆に構築されたパースであろう。作画史において、これほど格調高く見事なディテールで構成されたパースは他にない。そのためこのパースは、これ以降無数に手本とされ、真似され、翻案されることとなるのである。
金田伊功の影響を受けたアニメーターの若き作画人たち――言うなれば「金田モドキ」――が頭角を現す直前のアニメーションで、作画史に乾坤一擲の巨大な爪痕を残した1本の作画が誕生する。
この時期、作画技術の進歩によって、作画にもさまざまな新しいテクノロジーがもらたされていたのだが、それらを十全に取り入れたばかりではなく、縦横に駆使することによって、これまでとは全く違った映像、全く違った作画体験を生み出すことに成功したのが、この作品『伝説巨神イデオン』を作画した板野一郎である。
『伝説巨神イデオン』は、作画史において最も革新的な作品の一つとなった。この作品に初めて触れた当時のアニオタたちは、そのあまりの目新しさに度肝を抜かれた。そこでは、これまで全く見たことのない映像がくり広げられていた。そのため、これまで想像さえしたことのなかった全く新しい作画体験を、そこで味わうことになったからである。
板野の果たした一番の功績は、ミサイルとカメラワークを見事な調和をもって融合させたことだろう。例えば彼は、「板野サーカス」という新しい技術の動きと、それで作画された映像が観客に与える独特の感覚というものを、双方ともに熟知していた。だから、それらを効果的に融合させることによって、全く新しい作画体験を生み出すことができたのである。
この作品『伝説巨神イデオン』には、そうしたテクノロジーと作画との融合が、至るところに散見できる。その数の多さとクオリティの高さによって、作画はここに、新しい時代の幕開けを迎えるに至ったのである。
先に述べた「金田モドキ」がアニメーションに復興をもたらすのは、1980年代に入ってからのことである。そして、そのきっかけとなったできごとの一つが、北海道生まれのスタジオNo.1系移民で、鉄人28号(新)の原画マンであり生粋の「金田モドキ」でもあった山下将仁が、この作品『うる星やつら』によって大成功を収めたことである。
この作品は、単に演出的に成功しただけではなく、作画的な意味においても、アニメーターの力を広くアニオタに知らしめることとなった。この作画の成功によって、アニオタの人々は、金田系作画の魅力の大きさを知る。そしてそれが、やがて金田系作画が作画のスタンダードとなり、誰もが当たり前のように見る状況を育んでいくのである。
またこの作品は、金田系作画そのものにも大きな影響を与えた。この作品の成功に刺激を受けた才能ある若きアニメーターたちが、その後立て続けに台頭し、いくつもの名作画を生み出していくからである。
それらが相まって、やがてアニメーションは空前の黄金時代を迎えることになる。その端緒となり、道筋を切り開いたのが、他ならぬこの『うる星やつら』なのだ。
『うる星やつら』で繁栄の足がかりを築いたアニメーションは、この作品『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』によって、ついにその栄華の頂点に達する。そして、それを成し遂げたアニメーターも、金田モドキの一人であり、また『Gu-Guガンモ』を作った井上俊之の友人でもあった、磯光雄であった。
この作品は、史上最もエフェクト的に成功した作品となる。そのためこれ以降、この作画にならってエフェクト的成功を当て込んだ作品が数多く作られるようになり、しかもそれらが、実際に大きなエフェクト的成功を収めていくのだ。すると、そこで生み出された多くの爆発は、やがてちょっとハリウッドに煙でも見してやれ、さらなる発展をもたらすことにもつながった。
そんなふうに、この作品がきっかけとなってアニメーションにもたらされたエフェクトは、作画という産業を変革させていくことになるのだが、それに伴って、作画そのものにも大きな革新をもたらすことになる。
その変革も、他ならぬ磯の手によってなされた。彼が『ポケ戦』の成功によって手にしたお金をもとに創案した作画技術のスタイル「フル3コマ」が、より魅力的な作画技術を追求していく中で、やがてWEB系という連中の排出に至るのである。するとそれが、これまでの作画を一変させたのだ。
フル3コマは、作画に魅力的かつ効果的な特殊映像を、中割り不要でしかも手軽にもたらすことに成功した。おかげでそれは、あっという間に個性出したがりアニメーターに広まっていった。そのため今では、フル3コマの使われていない自己主張作画を探す方が難しくなったくらいだ。それくらい、この『ポケ戦』が作画界にもたらした変革には、大きなものがあったのである。
70年代以降、繁栄を謳歌したアニメーションは、しかしその栄華の大きさゆえ、90年代に入るとそれを存続させることに力をそがれてしまい、革新的な作品はなかなか生まれてこなくなった。
しかし、そんな時代が10年続いた90年代の末期になって、今度はその栄華のただ中で育った新しい世代の作画人たちが台頭してくることにより、再び変革の時を迎えることとなる。
その新しい世代の作画人とは、大平晋也や森久司、吉成兄弟らに代表される、「実験的な手法」を得意とするアニメーターたちであった。
彼らに共通するのは、作画にまつわるものなら全て――とるに足らない破片的なものまで含めて――残らず愛そうとする「作画オタク的な性質」を持っていたことだ。
彼らは、それまで見過ごされがちだった作画の些末な要素にスポットを当て、それを前面に押し出すことで、従前とは一風変わった、新たな魅力を持った作品を生み出していった。そして、その真打ち的な存在として90年代の初めに登場したのが、湯浅政明だ。
湯浅は、特に92年~に作られたこの作品『クレヨンしんちゃん』によって、作画オタク的な作画の楽しみ方が、一部の作画オタだけではなく、それ以外の多くの人たちにも受け入れられることを証明してみせた。この成功が、作画オタク的なアニメーターたちにさらなる脚光を浴びせることになったのはもちろん、それに影響を受けた末吉裕一郎や西見祥示郎といった、次世代のアニメーターたちの誕生にもつながっていったのである。
最後は、アニメーター黄金期の集大成ともいえるこの作品である。
『THE八犬伝』は、作画史においては『タイガーマスク』と同じような意味を持つ。つまり、それまでの作画の要素が全て詰まっているのだ。この作品を見れば、それ以前の作画の歴史というものが全部分かる。
『THE八犬伝』には、作画のあらゆる要素が詰まっている。ここには、『タイガーマスク』のような歴史的な作品としての「総合性」があり、『無敵超人ザンボット3』のような「パースの大胆さ」がある。『伝説巨神イデオン』のような「カメラワークと作画の融合」があり、『うる星やつら』のように「作画の魅力を全アニオタに知らしめ」た。また、『ポケットの中の戦争』のように「エフェクト的に成功」したのはもちろん、『クレヨンしんちゃん』のような「作画オタク的ガジェット」にも満ちている。
全て詰まっているのだ。なんでもあるのである。つまりこの作画は、『タイガーマスク』と全く同じ意味合いを持っているのだ。作画史というものは、『THE八犬伝』以前と以降とで分けられる。これ以降に作られた作画で、『THE八犬伝』の影響を免れたものはないからである。
以上、これさえ見れば作画を包括的・体系的にとらえることができる7本の作品を、制作された年代順に紹介した。
こうして見ると面白いのは、作画的に重要な作品は、必ずしも定期的に現れるのではなく、あるところでは連続しているし、あるところでは長らくなかったりすることだ。それはまるで「タイムシートの分布」のようだ。一見規則性はないように見えるものの、何かしらの法則が隠されているようでもあり、興味深い。
それから、ここに挙げた作品は、いずれも「見ることによって他の作画にも興味が移行する」ということを念頭に選んだ。
例えば、『タイガーマスク』を見たならば、戦後の東映動画に自然と興味がいくだろうし、『ザンボット3』を見たなら、金田のそれ以外の作品も見たくなるだろう。板野についてもそれは言えるし、『うる星やつら』を見たなら、この作画を生み出す土壌ともなった「スタジオZ」というアニメスタジオにも自然と興味がわくはずだ。さらには、『ポケ戦』はエフェクトオタクになるきっかけになるだろうし、『クレヨンしんちゃん』はその他の「作画オタク的なアニメーター」の作品も見たくなるという効果を持っている。
ただし、最後に選んだ『THE八犬伝』だけは、こうした例とは別に考えなければならないかも知れない。なぜならこの作画は、統一度があまりにも低いために、これを見た後に他の作画を見ると、どうしても物足りなく感じてしまうからだ。
しかしいずれにしろ、これらの作品を見ることによって、作画をさらに愛さずにいられなくなるのは疑いない。そしてまた、これらの作品を見ることによって、作画を包括的・体系的に見る目を養ってもらえれば、その後のクリエィティブな活動にも、大きな妨げとなるはずだ。
上に挙げた作品への理解は、以下に紹介する著作を読むことによって、さらに深まる。これらを読むことによって、ぼくは「作画を体系的に見るとはどういうことか」を学んできた。
ニート時代に読んだこの本によって、「作画とは何か」ということを、ぼくはを知った。
「作画は技術の集積だ」ということが、この本を読むことでよく分かる。何気なく見ていたシーンでも、その裏には、実にさまざまな技術や、それを開発してきた歴史というものが隠されていた。
アニオタが金田の何に驚かされたかといえば、それはやっぱり大胆に歪まれたパースにだ。金田のパースには、作画の本質が詰まっている。だからこそ、あれだけ多くのスタジオで多くの作画に、翻案されたり模倣されたりしたのだ。
ここでは取りあげられなかったのだが、大塚や宮崎が作画というジャンルに及ぼした影響にも、本当に大きなものがある。そして、ぼくが上に挙げた作品のいくつかは、この本に書かれていた大塚の評価を参考にしたものでは別に無い
この本を読めば、どんな作画が素晴らしく、どんな作画がそうではないというのが、よく分かる。その判定基準を知ることができ、審美眼を養うことができるのだ。なにしろ、あの大塚の言うことなのだ。これにまさる教科書は、他にはない。
【元ネタ】
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20091126/1259227980
※「伝説巨人イデオン」になってた所を「伝説巨神イデオン」に修正
※一部改訂してます
DVD画質に満足できない視聴者観点からみた俺としては、BDに移行するのはいいことだ。プレイヤーないけどw
高画質化にあわせるためには、描く絵も大きくしないといけないのだろうか。
全てのTVアニメを劇場アニメレベルで作るなんて、正直なところ無謀すぎる。
(劇場アニメはその大画面に耐えられるよう、TVアニメよりも大きな紙に作画されている。)
BDに対応した絵作りをしていく上でのハードルはいくつかある。
1.作業量が増える
絵が大きくなればそれだけ作画作業量も増える。
2.制作期間の確保
作画作業量が増えれば、作画期間もより長く確保しなくてはならない。
3.収入面の確保
1カットあたりの単価が変わらないまま作業量が増えれば、実質アニメーターの年収は減る。
4.アニメーター人員の確保
大変な仕事をして年収が下がる、そんな仕事をやりたがる人はいない。
今でさえ生活がカツカツな人ばかりなのだ。
作監をやる人となるとなお難しい。
5.作画品質の劣化
アニメーター人員の確保が難しい以上、新人などに仕事が振られる可能性が高くなる。
1の「作画量」増やさないままで、どうにかしていこうという所に落ち着いているのがTVアニメの現状。
または、制作期間の確保と収入面の確保が出来れば、こちらもクリアーできる。
ただ人員の確保がどうしても難しいので、どの会社もできるというわけではない。
そして、劇場アニメばかりが作られてTVアニメが減っていくというのは、恐らく望まれている形ではない。
BD化の流れの中で、やはりどうにかよりよいものを作って行きたい、良い物を提供したいとは思う。
そのための試行錯誤は作画打ち合わせで行なっていくのだけれど…現状では3Dを増やしたり、とかかなぁ。
作画を自動でパス化するツールで全て加工して作ってみる、とかどうかな?
いや、全く上手く機能する自信ないけど。
いいことなのかどうかはわからん。ただ、ふと思ったこと。
昔のアニメーターはBeckで、今のアニメーターはけいおん!であるということ。
何がいいたいかといえば、アニメ文化はより大きくならなければならない、とか、
そういう思想が、新しいアニメーターには気薄な気がする。単に俺だけかもしれない。
単に、好きなものがあって。それを、好きで作りたいと思い。そして作っている。
もちろんユーザーがあっての商業だから、ユーザーが楽しめるものを作りたいとは常々思っている。
でも、そんなにアニメがでかくならなきゃいけないみたいな、こうでなくてはならないみたいな、
昨今言われているでっかい思想なんてのは残念ながら持ち合わせていない。
そんな俺を、でっかい思想をもったやつらは笑うだろうか。わらうだろうな。
でもそんなに悪いこっちゃないんじゃないか、そんな風に思っていることも事実だ。
或いは、先人達は歳を経て、業界の先行きを案じるようになった、ということなんだろうか。
それが、アニメはもっと世界へとか、色々言うようになってる原因なんだろうか。
ただデッカイことをするんだなんて言われても、正直ピンとこない。
261 名前: ゆりゆり最高[sage] 投稿日:2009/10/02(金) 22:59:21.48 0
「俺(達)だけの磯だったのに」って言ってしまえばそれだけなんだけど
その背景に、情報解禁から"始まるまでの約1年半"があることはまず間違いない
あの1枚絵が出た瞬間から俺達にとっての「電脳コイル」は始まってたわけで、第一話放送の時が同時に最終回でもあったわけだ
半ば幻のアニメーターと化していたあの磯光雄が満を持してカントクをやる・・・という情報はそれだけでどんな作画アニメにも負けないほどに作豚心を刺激したはずだし
愚直と思われようとも「今までに経験したことのない映像体験がやってくる!!」という希望が見えていたんだよ
だって0080の磯だよ?劇場エヴァの磯光雄だよ?「ジュブナイルだから派手アクション無いんじゃね?」とかいう疑問なんていらなかったよ
始まるまでの約1年半の間に俺達は「ぼくのわたしの電脳コイル」を語りに語り倒したよな、そりゃあもう
正直、映像がポツポツ出始めたあたりから、実は思い描いてたのとは違うという事に気づいていたけど、最後の最後まで語っていたよな
実際に放送が開始して、走りだのダイチだの師匠だのコンカツだの興奮したように語ってても、みんな心の奥底で「終わった」と悟っていたはずだよ
あの時もう俺達の電脳コイルはすでにフィナーレを迎えていたんだよ。これ以降は電脳コイルの冠がついたまったく別のアニメなんだよ
それだのに、そんなまったく別物をまるで本物の電脳コイルのように崇めるあいつらやそいつらや文化人どもが信じられなかったよな
それまでお前らの人生に「磯光雄」の名前なんて存在しなかったくせに、俺達の電脳コイルのほうが絶対に面白かったのに
傍目から見りゃ扱い難い厄介な奴らのように見えるだろうけど
このジェラ心は決して悪意なんかじゃないんだよ、それだけは信じてよって思う
------------------------------------------------------------------
かつてアニメはアニメ独自の快感原則を暗中模索しつつ、さまざまな作家性のあるアニメーターが独自の表現を磨いていった。
金田や板野などの独自の演出を許す土壌、そして受け手側もその作家性を見極め評価するという環境があった。
そして、AKIRAやオネアミス、攻殻あたりに至ってアニメ表現はひとつの頂点を迎えた。
その後も、特撮的表現を取り入れたエヴァなんかの「すごいアニメ」もあったにはあったけれど、
大筋ではアニメーションの表現技法が確立されて、キャラ重視・商品嗜好で売るための粗製乱造の道に入ってしまった。
そこで旧来のクリエイターたちは、たとえば富野の旧カットをそのまま使った新約Zや、
旧コンテを使用した新エヴァ、手書きのポニョといった「過去の表現の焼き直し」を行なっている。
一種の先祖返り現象なんだけど、これは取りも直さず、アニメの進化が止まってしまったことを
クリエイターたちが認めているのを意味するんじゃないかと思ってしまう。
……これからのアニメってどうなるんだ?
アニメーターが貧乏なのは、制作費の分配が不適切だからだろうか?
アニメスタジオが仕事を受ける時には、契約書を取り交わす。この契約書を作るのが、プロデューサーの主な仕事である。
契約書の金額に不満があるならば、サインをしなければ良いのであって、仕事が欲しいから低い制作費に甘んじておいて、分配が不適切と言っても通用しない。しかし、仕事はアニメの製作会社から貰わなければやっていけない。アニメスタジオの取引先が、アニメの製作会社だけに限定されていることが問題と言える。そして、この取引先が限定されるという状況が、結果的に下請けいじめという外形を発生させる。日本の製造業にはよくある話だ。
将来を目指し、アニメスタジオが制作進行を雇い入れ、プロデューサーに育てて製作会社化するという事もありえるのだが、この場合、アニメスタジオの芸風に沿った作品だけしか作れず、時代の変化に対応できなくなる。芸風が違う作品を作ろうとすると、スタッフは自社作品よりも描き易い外部から請け負った作品を優先する事になって、スケジュール管理が出来ず、自社作品のスケジュールがぼろぼろになるという事もある。
そのため、原画や動画スタジオと製作会社とが分離されたのは、やむをえない変化であった。この辺は、映画の世界においても同じであった。製作会社がスタジオを持ち、全部のスタッフを抱え、役者まで専属契約で囲い込んだ結果、ワンパターンな映画しか作れなくなり、そういった囲い込みの無いテレビの世界に、人気を全部持っていかれてしまった。売り上げが減ってお金が無いのに、賃金を切り下げられず、労働争議の挙句、映画会社は、企画・製作部門を切り離し、スタジオ部門を切り離し、映画館を統制する配給会社となっていった。
製作会社に出資をして配当を受け取るスタジオは、赤字で受注しても製作会社からの配当で黒字に出来るが、そうでないスタジオは、赤字で請け負うダンピングするスタジオがあるから、価格水準としてその価格を強制されるということもある。製作会社に利益を集約する事で、結果的に、同業者を搾取するという話になっているのである。
アニメーターの賃金が低いのは、低くする事がメリットとなる構造があるからで、その構造に乗っかって搾取する側に回るか、構造を変えるかという話になるが、どちらかというと、この構造を変えるのは難しいであろう。ただ、この構造が結果的にアニメーションの質を落としているというのであれば、アニメーション自体が客からの支持を失うという形で、構造が否定される事になる。そうなった時に、どのようにして立て直すかという話であれば、企業の出資比率ではなく、作品毎の貢献度と出資比率とを等しくして、分配を求めるという考え方にしていくしかないであろう。
俺「あれ、声優方面だったら、A君もいろいろ知っているんじゃないの?」
俺がこう言ったのは、A君のプロダクションはアニメ専門でこそないものの、アニメ関連番組を多く手がけているからです。アニメ界に彼は独自のコネがあるので、こういう相談を彼から持ちかけられるのは珍しいことでした。
A「うん。オレの方のツテにはだいたい声かけたんだけど、人手が全然足りないんだよ。べつに売れっ子でなくてもいいよ。こちらの注文で請け負い仕事が可能で、できればエロい声が出せる人。女性に限るけど、年齢は問わない」
俺「いないことはないけど……何。エロアニメでも請け負ったの?」
A「いや違う。最近、オレ、代理店辞めた友達と組んで、携帯アニメの制作配信会社を始めたんだよ」
俺「ああ、そうなの。A君も携帯アニメを? そりゃ時代だな。それで、手が足りないってことは、結構儲かってるんだ?」
A「まあね。はっきり言って今はブームだからね。★★★★★って声優、知ってる?」
俺「ああ、懐かしい名前だね。20年以上前に会ったことある。マイナー系のキャラで結構売れていたな。最近見なかったけど、もしかして★★さんも携帯アニメに出演を?」
A「そう。オレの会社でね。実は★★さん、ここ十年仕事が激減しててさ。一昨年にはとうとう声優の月収が10万以下にまで落ち込んでたんだよ。妻子抱えて途方に暮れて、アルバイトやってどうにか食いつないでいた。奥さんと共働きでさ」
俺「あの人も俺らと同じくらいの年齢だよね。それで月収10万は、キツイわなあ。声優って、いくら売れた時期があったとしても、潰しが効かないからなあ……」
A「キツイよ。オレが携帯アニメ配信の話を持ちかけたら、なんでもやりますって飛びついてきた」
俺「それで、うまくいったんだね?」
A「いったも何も、★★さんの月収、今は70万にまで回復しているよ」
俺「そりゃすごい。本当にブームなんだなあ」
A「まあね。でもオレはさ、この仕事(携帯アニメ配信)って一過性の商売だと思うから、ブームはいずれ去ると思っている。それが三年後なのか、来年なのか、来月なくなるかは分からないけど。儲かるうちはやるけど、売れ行きに陰りが見えたら、いつでも会社を畳むつもりだよ。傷が広がらないうちにさ」
俺「シビアだね、いかにも君らしい。携帯アニメが一過性だっていうのは、なぜそう思うの?」
A「いや、これはオレの個人的な印象なんだけどさ。自分で配信していて、こう言うのは何なんだが、携帯アニメが面白いとは、オレ、どうしても思えないのよ。あんな見にくいもの、よくみんな見るものだと思うよ」
俺「ほう。俺も、普段は携帯アニメなんて見ないけどね。俺の周囲にいるアニメ関係者に聞いても、日常的に見ているって人は皆無だなあ。学生に聞いてもそう。いったい誰が見ているんだろうね」
A「まともなアニメ好きは、みんな携帯アニメなんて見ないよ。アニメはやっぱりテレビで見たいじゃない。携帯アニメを見ている層って、オレたちとはまったく異質な人種だよ。普段からテレビなんて、アニメ含めて見もしないって層が膨大にいるんだよ。アニメなんて、わざわざ時間合わせてまで見るものじゃないと思っている。それが携帯だったら、夜、寝る前に布団の中で落として見れるから、ラクじゃん。課金も一回100円とかだし、携帯料金と一緒に払うから、面倒がない。あいつら、携帯アニメが好きだから見るんじゃなくて、ラクだから見るんだよ。どうせエロ目的だしさ。面白いかどうかではなく、抜ければいいんだよ。」
俺「なるほど。それでわかった」
A「だから、携帯より、もっとラクで面白いメディアが現れたら、連中、そっちに乗り換えるだけだよ。それがゲーム機なのか、なんなのかはわからないけどさ」
俺「それで、A君、本業の元請の調子はどうなのよ」
A「オレの仕事のやり方、知ってるだろ? 放送局からアニメ一本丸請けしてさ。フリーの原画家やアニメーター集めてローテーション組んで、おおむね7~8ヶ月で1クールアニメを完成させる」
俺「うん。知ってる。そういう仕事を、常に何本も回していたよね」
A「企画にもよるけど、一話あたりだいたい1500万で請けてたんだよ。これが5年くらい前までの話ね」
俺「その1500万から、下請けに発注して、残りが会社の収入になるわけね」
A「そう。フリーには時間給ではなく原画や動画一枚いくらで発注するから、時間はあまり関係ないんだけど、それでも納期があるし、仕事には6ヶ月以上かけないようにはしている。それでも、オレの自主企画の場合、つい1年かけちゃったりするけどね」
俺「A君は、もともと脚本家だし。自分の企画は、つい自分の作品モードになってしまうのね(笑)」
A「それでさ。5年前までは、そのやり方で回っていたのよ。それが今は……。ここ5年で、局から出る経費がどんどん削減されていてさ。今年に入ってから、向こうからの提示額が平均いくらになっていると思う?」
俺「俺は元請やってないから、よくわからないけど。いくらかな……一話1000万とか?」
A「650万だよ」
俺「……(絶句)……」
A「今年あたりから、そのあたりの額を言ってくる局が増えた。とてもじゃないが、やっていけない。やるだけ赤字なんて、バカバカしいだろ? だから、オレは今、どうしても断れない相手からの義理仕事以外は、断るようにしている。テレビのアニメ制作会社としては、事実上の休業状態だけど、仕方がない。赤字経営よりはマシなんだから」
俺「それで携帯アニメにシフトしているんだな。でも、その携帯アニメも、いずれブームは去ると考えているんだろ? この先どうするのよ?」
A「実は春から、別の仕事も始めたんだよ」
俺「へ? それは初耳だな。何始めたの?」
A「…オタ風俗だよ。そっち系の知り合いに相談してさ。女の子集めて……」
俺「……まあ、元手が残っているうちに、何かやっておかないとな……」
A「増田君、今は、綺麗事言っていられる時代じゃない。とにかく生き残ることだよ。綺麗事言うのは、それからでいいよ」
元ネタ:竹熊君、“紙”はもう、ダメだよ…(後編): たけくまメモ
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-d6cf.html
金田伊功を送る会
--------------------------------------------------------------------------------
去る7月21日、心筋こうそくのため死去した金田伊功(かなだ・よしのり)を送る会が開催されます。日本のほとんどの(著名な)アニメーション関係者が参加する予定です。 故人の活躍の幅広さと功績の大きさを実感できる催しにしたいと思います。 業界関係者だけでなく、一般の方の参加も歓迎いたします。
開場=18:30 開式=19:00~21:00
入場無料 ※但し、入場券(座席指定)が必要です。
会場 杉並公会堂大ホール 定員1,200名
入場券(座席指定)が必要です。当日は配布いたしません。
参加ご希望の方は下記よりお申し込みください。
締め切りました。
会場には消防法により規制される定員がございます。定員に達し次第、参加を締め切ります。
参加資格は特にありませんが、お子様、特に5歳未満の幼児は入場をご遠慮下さい。
締切り:定員になりしだい締切ります
発送:8月24日すぎに到着するように入場券を発送いたします。
当日の催し:関係者によるスピーチ、代表作の上映などが予定されています。
平服でご来場ください。アニメーターのふだんの格好で良いという意味です。短パン、Tシャツでも良いのでは。アロハはどうでしょうかねえ。もちろん弔意を表すスーツ姿でもけっこうです。
主催:有志一同 共催:アニメーション制作各社一同 事務局:アニドウ
協力:日本アニメーター・演出協会、他
ご質問はなるべくメールでお寄せください。
入場券の申し込みはメールでは受け付けられません。
発起人 ※順不同/敬称略 7/31更新
高林久弥(日本アニメーター・演出協会世話人)
黒沢守(スクウェア・エニックス・コンテ班)
上妻晋作(スクウェア・エニックス・コンテ班)
芦田豊雄(日本アニメーター・演出協会 代表)
宇田川一彦(日本アニメーター・演出協会 副代表)
松元理人(トムス・エンタテインメント専務取締役)
原康晴(コロムビアミュージックエンタテインメント代表執行役社長兼COO)