はてなキーワード: アウトプットとは
自分は学校の試験は苦手だった。勉強方法がよくわからなかったのだ。ただ勉強しなくてもなぜか点は取れる得意科目というのがあって、それはそこそこできたので、トータルではそこそこだった。でも勉強ができない…というよりか自習ができないタイプだった。
社会人になって興味がなくても資格が必要になったが、まだ会社ではあまり資格とってる人がいなくて、誰も教えてくれない状況で、ようやく自分なりの試験勉強のコツみたいなのがわかった。
アウトプットを先にして、それから必要な情報にとりかかる。具体的にはテキストを読む前に例題から始める。
もちろん最初はほぼ0点だ。それから、回答を読み、この例題に答えるにはこういう情報が必要…という関連のさせ方だとそこそこ暗記できることがわかった。繰り返すうちに例題間の相関みたいなものまでマップが出来てくるとさらに覚えられるようになった。テキストを読むのは最後の最後ぐらいだ。これでようやく「興味がないことに強制的に興味を出させる(と言っていいのかどうかよくわからないが)」ような流れをつかめた気がする。
本当に参った。何を書けば良いのか分からない。
何故だろうか。コーヒーを飲んでいないので脳が働いていないのだろうか。
何かを書きたいという気持ちはあった筈なのに、いざ文章としてアウトプットしようとするとそこで固まってしまう。
本当に困った。とりあえず今はリハビリと準備運動を兼ねてこんな文章を書いている。しかしこれもまとまった意味のある文章になっているとは思えない。
書きたい事、書かなくてはならない事はしばらく何もしない内に「もう何もしなくて良いや」という気持ちに向かってしまう。一度積んだ本やゲームに中々触れなくなるような物だ。
人間のやる気は決して無限ではない。簡単に捻りだせるほど体内に溢れている訳でも無い。やる気に満ち溢れていた時期がどれ程幸せだったか、今分かる。
とりあえずその内何かを始めるような気はしている。期待せずに待っていてほしい。誰の目にも止まらないかもしれないけど、きっと日記を書くから。
なるべく社会的な身分を隠して記事のパワーだけでバズりなさい。
増田ならはてブ20以上、noteならいいね50以上またはPV1万以上を一旦の目標にするといいでしょう。
過去の体験談でもいいし、何かの分かりやすいまとめでもいいし、嘘松でもまぁいいでしょう。
このボーダーラインを超えられるならあなたは文才があります。そのまま自由気ままにアウトプットしていってください。
なお私は今年note記事はじめましたが合計記事のPV100万そろそろ到達します。書く記事は毎回google砲を受けるようになってきました。
別に文才あると自負はしておりません。
しかしまぁ、こうなってくるとどうも他の人と違う何かそういうものが自分にはあるようだと自覚せざるを得ない。
でもですね、大事なことはそうじゃないんです。
結局のところ文才というのはアウトプットして上手くなっていくしかないですし、アウトプットしないといけない人間はほっといても勝手にアウトプットするのでどんどん伸びます。
気がついたら、あなたはいつの間にかバズる記事を書くようになってるでしょう。
私はあなたよりちょっと先にアウトプットの海を泳いできますね。よかったら私をさっさと追い越してさらに豊かなアウトプットの恵みを電気の海に振りまいていってください。
待ってますよ。
うっせーな、クズ。お前のように「口だけで手を動かさない連中」がこの世で一番キライなんだよ。一見正論に見せかけて、言語弾圧の道具に使うやつがさ。
Matz はモルモン教徒で、俺はモルモン教が大嫌いだ。ヘドが出る。理由は俺ばっかりに勧誘をかけてくるからだ。でも、俺は Ruby は最高にクールな言語だと思うよ。理由は、俺にとって Ruby は一番アウトプットしやすいからだよ。
Ruby がクソだったら Matz に興味なんかでるかよ。Ruby があるから Matz なんだろうが。元増田の頭が悪いところは、議論すべき内容の順序が違うからだぞ。
お前さ、周りから浮いてるだろ?きっと、そういう推論の方法が馬鹿なんだよ。人間をやめろとはいわないからさ、人間になろうね。じゃないと、人の革をかぶった化け物でしかないからな。約束だからな!
40代手前、妻一人、子はいない。世帯収入は1500万ぐらいで、保有資産は2000万ぐらい。
20代前半ぐらいにほぼ素人の状態からWeb業界にはいって死ぬ気とまではいかないけど、プログラミングの勉強をして仕事もがんばって成果を出し、プライベートでも色々作ったりした。大変なこともあったけど思い返せば楽しい10数年だった。できないことがたくさんあり、勉強して自分で作ってみて、できないことができるようになり、それを仕事やプライベートでアウトプットすることでまわりの評価が上がって承認欲求も満たされ、収入もあがる。楽しくないわけがない。その甲斐もあり、会社ではそこそこのポジションにつきチームをリードする役割につき、業界内でもそこそこ名前も売れている。仕事もまあまあ楽しい。
思えばWeb業界でやっていこうと決めてときに、年収1000万ぐらいあれば何不自由なく暮らせるし、それぐらいの給料で好きなことがやれてればいいな、とぼんやり考えていた気がするが、気づいたら今そういう暮らしができている。もはやお金に関する心配はいっさいなく、月一回ぐらい妻とおいしいもの食べに行って、年に2回ぐらい海外に旅行しても貯蓄は増えていく一方。子どもは色々な事情で作るつもりはなく、それでいいと思っているし、特に欲しい物もない。
これまでは収入をあげるために仕事で成果を出すために必死で働き、仕事以外の時間に勉強したり、名前を売るために講演や執筆をやってきたわけだが、これ以上収入が増えても生活が変わることはない。10倍とかになったら生活は変わるだろうが、リスクを取ってまで10倍にしたいとも思わない。そう思った瞬間にこれまで自分を支えてきたモチベーションがなくなっていることに気づいた。
収入に満足していればもうこれ以上できることを増やす必要もない。この業界は流れが速く、止まっていたら置いていかれるだけなので、最低限の勉強は必要だし、収入をキープするためにそれぐらいはやるし、できる自信はある。ただ、昔ほどがっついて勉強したりアウトプットしたい、とは思わない。プログラミングは楽しいし、今の仕事もまあまあ楽しいので、今の仕事のままで不満はないんだけど、こんなモチベーションが薄っぺらの状態であと20年も30年も仕事しないといけないのかと思うとゾッとしてしまう。
もしやこれがエンジニア35歳定年説か。
感性がほぼ死んでから、さすがにまずいと思ってアウトプットをしようとした。Qiita(技術記事)はコードの動作確認とか面倒。SoundCloudに下手な三文パンク上げるのは忍びない。TikTok...流石に性に合わない。
残った糞の垂れ流し先が増田だった。ツイッター風に愚痴ってみたり、時事ネタ書いてみたり、意外だったのは自分が普通に文章を書こうとすると詩的にするきらいがある。自分はプログラミングを生業にしている。そこで書くのは「意味のはっきりした命令」だ。対して詩は、幼少時の自分曰く「何言ってるか分からないし海も山も死なないから間違ってる」変なものだ。頑固なつもりだったが三日もすれば嗜好の変わる男だったのかもしれない。しかし、芯はかわっていないので、詩的にしても心をひくような文章は書けなかった。自分としても気持ち悪いのでそういうの書くのはやめようと思う。
さて次はどこで糞をするか、とりあえず増田を物色すると、波のようにスパムが押し寄せてくる。素人の政治論争や、やたら玄人じみたアニメ評論などは遠くに追いやられ、スパムの真っ只中に取り残される。きっとこれは目的もなく新着をダラダラ眺めず、自分の見たいものを自分の力で探せという思し召しなんだろう、と納得しかけたが、俺はスパマーの思し召しを有難がるのか?いや、でも俺が公然わいせつすれすれの恥ずかしいポエムを投稿できたのは、スパムが流してくれるという安心感があったからなのかも知れない。
個別の喧嘩の発端は…こちらに責があることもあれば向こうに責があることもあるし、最初は自分が我慢して済むならそれでもいいやと思ってたんだけど、やっぱり理不尽な怒りの暴発を難度も経験すると、徐々にこっちの自尊心が削れてくるし、不機嫌の徴候が見えるだけで心理的に身構えてしまうんだよね。無意識のうちに、相手の地雷(どこに埋まってるかわからないんだけど)に触れないように立ち回るようになる。そうすると家庭が安心できる場でなくなってしまう。
もともと彼女自身にも、そういう感情的制御ができないことの自覚はあるし、直したいとも思っているんだけど、キレてる最中に「そういう言い方や態度はよくないよ」と意見しても耳に入らない。「どうせ全部私が悪いんでしょ」「はいはい、また私のせいなんだよね」となって会話を打ち切り、刺々しい振る舞い(ドタドタ歩いたりドアを閉めたりモノを乱暴に扱ったり)して、後には不機嫌な空気だけが残る。これがなんともやるせない。一定時間が経って落ち着くと、何もなかったように振る舞うか、一応は「ごめんなさい」と言ったりもするんだけど、そういう殺伐とした感情って人の心を痛めつけるんで、お互い何もなかったように振る舞っていても、やっぱりこっちの心は無傷じゃなくて、刺されたり殴られたりした疼きが残る。たぶん相手の心も無傷じゃない。どっちにもいいことがない。
で、子供が生まれて物心がついてきたのを機に、お互いに真正面からこの問題に向き合うことにした。子供が親の逆上や不機嫌に萎縮するようになったら誰にとっても不幸だ、というのはお互いの考えが一致していたので。
実はこの「子供との関係」というのが重要で、結論から言うと、彼女が毒親(母親)に非常に悪い育てられ方をしてきたことが全ての起点になっていた。母親、自分から見ての義母は、幼い頃の彼女を蹴ったり殴ったりした。氷点下に近い納戸に数時間閉じ込めるという身体的虐待もあったし、ネグレクトも罵倒もあった。理由は、折り合いの悪い義祖母に顔立ちが似ていたから、ということもあったようだし、良家同士の見合い婚で専業主婦になった自分にとって「育児を成功させ、娘は良家に嫁がせる」ということが唯一かつ至上の役割になっていたこともあったようだ。それほど受験戦争が激しくない地方にあって小さい頃から娘に複数の塾や家庭教師をつけ、成績が思うように伸びなければ「あんたはなんでできないの」「私が恥をかく」と詰め、娘の夏休みの自由課題が賞をもらった翌年からは、傾向と対策を踏まえて母親が課題を制作し、受賞すればそれを周囲に誇るようになった。義母にとって娘は自己の付属物であり、自分の能力と努力を表示する成果物だった。これは娘側の一方的証言ではなく、義母本人がそのことを問い詰められて(娘以上に感情的に)キレたり、逆に緘黙する状況を自分も見ているので、嘘や極端な誇張はないと思う。
そういう母親との間で育った娘である奥さんは、根本のところで自己肯定感がとてつもなく低く、「自分には価値がない」という強迫観念に苛まれていた。彼女は親元から離れたあと、亡父の尽力もあって学歴にはやや不相応な金融総合職につくことができ、廻りの高学歴の人達に揉まれながらも持ち前の根性で「コネ入社の腰掛けさん」に留まらない営業成果を出し、職場でも多くの同僚に認められるようになった。でも、これは見方を変えると「自分が無価値な人間ではない」ということを自らアウトプットや業績評価によって証明し続けなければいけなかったからそうしていたわけで、その「頑張り」は結局は不安と強迫観念によってドライブされてたんだよね。背景にそういう動機があって「頑張り続けなければいけない」人がどうなるかというと、最後はメンタルヘルスを崩し、拒食症になり、自己都合で退職した。つらい。
その後いろいろあって彼女は自分と結婚したんだけど、お互いに落ち着いている時に(感情的にチャージされてない状況で)この課題について話し合い、時にはネットの情報や心理学の書籍なども参照しながら考えるなかで、激昂の背後にあるのは自己肯定感のなさだということが見えてきた。彼女は成長の過程で「人間は能力や実績によってだけ認められるわけではなく、ただ人間であるだけで価値がある」という確信を得てこなかった。母親から与えられたのは条件付きの愛で、条件を満たさなければ存在自体を否定された。だから「認められるために頑張る」という所作が身についた。
頑張りの中には「社会的に認められる人格を演じる」ということも入っているから、ソーシャルマナーはちゃんと実践できる。人当たりはよく、好感度も高い。しかしそれはあくまで「舞台」に立って「頑張り」を発揮して評価を獲得しなければならない状況での話で、身内にはこのルールが適用されない。だから親族や家族の中に(彼女の基準で見て)頑張っていない人(例:私はこんなに頑張ってるのに、あなたは)、彼女の頑張りを認めてくれない人、彼女の頑張りの成果をスポイルする人(例:頑張って片付けたのにまた散らかして)に対しては、時に制御の効かない怒りを感じ、苛烈な言葉や行動を直接ぶつけてしまう。自己肯定感が低いから、他者を無条件に肯定できない。自分に課した高いハードルと同じ評価基準を相手にも課し、それを満たさない相手を詰る。そういうメカニズムがあるみたいだった。
ついでに言うと、彼女の母親にとっては娘自身が「彼女の頑張りをスポイルする人」(一生懸命教育してるのに成果を出さずに「私に恥をかかせる」から)だったので、娘に対してそうした精神的身体的DVを繰り返していたわけだ。自己肯定感の欠如と感情のコントロール欠如という点では似たもの同士だった母親と彼女との喧嘩は、ちょっとした言葉尻の棘を捉えて相手を強く咎める(「それどういう意味?」とか「あなたはいっつもそう!」とか)の繰り返しで、なんでもないやりとりがあっという間に激しい罵倒の応酬にエスカレートしたりする。まさしく言葉の刃で刺し合うがごとくで、たまたまその場に居合わせた自分もぐったりと疲弊し、時にはあまりの情けなさに泣くこともあった。
ともあれ、我々2人は「こんなことが当たり前ではいけない、子供をこういう『こじれ』に巻き込まないようにしよう」ということをスタートにして、まず彼女と母親との関係は明らかに機能不全に陥っていること、彼女の母親が過去も今も彼女の自尊感情を蝕んでいること、自尊感情の乏しさが他者への非寛容や感情制御の困難につながっていること、自分は母親の承認/不承認にかかわらず価値のある人間だし、他人もそうだということなどをひとつひとつ確認していった。彼女は最初は「母親はもしかしたら毒親だったのかも」程度の認識だったのが、あまりにも定型的な虐待のパターンのど真ん中に自分がいたことを知り、自分の感情コントロールの難しさが個人の資質というより関係の病理に起因していることを学んだ。そうすることで、母親との関係も1:1の差し向かいではなく、その関係自体を第三者として見る視点を手に入れた。自分はそのときに情報や考察の手伝いはしたけど、結局それは彼女自身の自己探究の道のりだった。
それでどうなったかといえば、状況は明らかに良くなっている。奥さんはアンガーマネジメントを少しずつ理解し、実践している。実際にキレる回数は格段に減った。キレてしまった時はそのままにせず、すぐ言葉にして反省するようになった。YOUランゲージを控え、Iランゲージを使って自分の希望や意志を率直に伝えられるようになった。母親とのやりとりもベタ足の殴り合いをするのではなく、だんだんと「所詮は他人でしかない、母親とのやりとりで感情的に消耗したくない」という感覚を持てるようになってきている。無駄に険悪になることもないが、母親だから近しくしなければいけないという「演技」からもちょっと解放された。やっぱり根本的な原因や構造が見えてきたことで、本人の物事の捉え方も変わってくるんだと思う。
…というわけで、うちの場合は子供ができた結果、徐々に状況がよくなってきたんだけど、これ「子供が生まれたから良くなった」じゃなくて「子供がいるから良くしないといけない」という問題意識を両方が持ったからだと思っている。逆に言えば、元増田の場合、子供ができなくたって「この状況を放置するのは2人の心理的安全性にとって良くない、2人の関係の健康を損ねる」という意識で話し合うことができれば、だんだんと建設的な方向に向かえるかもしれないよ。
さっきも書いたけど、うちの場合は、彼女の病理というより関係の病理だった。だから時間はかかったけど、こじれた関係を解きほぐすことが解決の糸口になった。元増田の奥さんが同じかどうかわからないけど、参考になったらうれしい。お互いがんばろう。
KKO極めてくると食と酒くらいしか楽しみがなくなって料理が上手くなるのはあるあるっぽいのだ。
便乗して、私は恋愛事には全く向いていないと最近やっと認めた新人KKOワイくん自慢のパスタレシピを喰らえ、なのだ。
レシピを喰らえ、とか言っておきながら、いきなりレシピじゃないのだ。理論から語りたくなる、ホッテントリにも入ってた「スパイスからカレー作るやつはなぜ面倒くさいか」の面倒くさいやつを地で行っているのだ。なおワイくんはカレーもスパイスから作ってるし、玉ねぎの炒め方に一家言あるのだ。そうでもしないと人生暇でしょうがないからな。
オイルパスタが作れるようになると何が良いかというと、あとは具材の正しい下処理のやり方を知れば、「〇〇のオイルパスタ」が簡単にできるようになるのだ。さらに言えば、オイルパスタが上手く作れるならクリームを入れてもおいしいのだ。料理は基本となる形、パスタで言えばオイルパスタが分かれば、あとはソフトウェアの書き換えでどうとでも遊べるし美味しいものができるのだ。まずペペロンチーノの唐辛子なし版、アーリオオーリオから入るのだ。各々「ぼくのかんがえたさいきょーのぺぺろんちーの」レシピがあるかもなのだが、基本は共通しているはずなのだ。「オリーブオイルでにんにくを炒めて塩をひとつかみ入れたお湯で茹でた麺に絡める」が本質なのだ。
ここで1番大きなポイントを書いておくのだ。「正しい作り方よりも、美味しく食べること」なのだ。ネットレシピはWikipediaと同じくらいの割合で正しい情報が書いてあるのだ。8割くらいは参考になるのだ。でも、乳化しないと麺にオイルソースが絡まない、とか、ペペロンチーノは唐辛子にんにく塩以外入れるのは邪道、とか、パスタは中華麺じゃないんだからフライパンでは炒めない、火を落とすのが正解、とか、うるせぇバァカ!なのだ。冷めたパスタとか冷めたピザくらい価値がないのだ。正しさよりも温度、正しさよりも旨さをとってくれ、なのだ。味の素入れたってホワイトペッパー入れたっていいのだ。ワイくんはまたさめぴみたいな人が首相にならないか待ち望んでいるのだ。
美味しいオイルパスタ、作れるようになったのだ?気をつけてほしいのだが、大親友の彼女のツレは居ないのだ。パスタの話題のたびにこれ書いてスター稼いでるブクマカは脳死で書いてるのだ。帰れ。
パスタの具になるもの、いくらでも思いつくのだ。きのこ、トマト、香味野菜、魚介類などなどなのだ。全てに科学的にも官能的にも正しい調理があるのだ。それを学べば、あなたも「あまりものだけど」で美味しいパスタ作ったお前、ができて、ドヤ顔もできるのだ。ドヤ顔できても彼女もセックスもできないのだ。悲しいが料理のうまさと人間としての魅力はそんなに繋がってないししゃーないのだ。
きのこを具にしたい場合は油を少量だけ引いて若干焦げるまで焼いたきのこを別で用意して、オイルパスタに和えるのだ。ドライトマトも同様でいいのだ。トマト缶を使うときは水分が飛ぶくらいまで炒めてトマトソースにするのが常套手段なのだ。魚介はアヒージョを思い出せばいい、油でじっくり火を通すのだ。アクのあるほうれん草を使う場合はちゃんと茹でてから、火を通しすぎると苦くなったり風味や食感が台無しになるセリとか春菊を入れるときは火の通りを逆算したタイミングで入れるのだ。水菜みたいな火を通さなくていいものは、和えるタイミングで入れればいいのだ。具材に合わせて具材を加えればいい、あらかじめ逆算しておけば簡単なのだ。
これらはパスタ以外にも繋がる、大事なことを伝えてるのだ。「料理は逆算」なのだ。こういう出力がほしいからこのタイミングでこういう処理をする、を考えられれば、だいたいの料理はうまくいくのだ。辛味が欲しいので、鷹の爪を入れる→鷹の爪の辛味を引き出すには、ニンニクと一緒にじっくり低温で油に辛味を入れる、という逆算なのだ。パスタ茹でるときに大量の塩を入れるのは、パスタに直接塩をかけるとしょっぱさが不均一かつ表面的になりすぎて美味しくないから下味として入れるのだ。そして何が良いか良くないかは、自分の舌が教えてくれるのだ。ワイくんは田舎者で舌がバカで濃い味が好きだから、優しい味みたいなのは全部「うすい」のだ。出汁引くにしてもまず具材を倍量にするのだ。でも、世の中に受ける、特に毎日食べる家庭料理なら薄いほうが飽きなくて良いこともわかってるのだ。ワイくんは独り身なので濃さの種類を変えて毎日濃いもの食ってるのだ。あなたの舌の、好みの濃さにするのだ。
これらが分かれば、料理ができる人特有の全ての調味料が適量って書いてある雑レシピでも十分においしいものができるのだ。さて、ようやくワイくん自慢のレシピを公開するのだ。適当レシピを書くのだ。
大量の1.カリカリに炒めた九条ネギ 2.ちゃんと火を通して甘みを引き出した九条ネギ 3.軽く火を通したフレッシュな九条ネギを作るイメージで、アーリオオーリオを作るのだ。アウトプットがこれなのだから、入れるタイミングは逆算するのだ。
答えを言ってしまうと、1.ニンニクと一緒、2.乳化前、3.和えるタイミングなのだ。ちょっとだけでも、料理は逆算、の意味がわかったのだ?
こんなレシピは簡単に思いつくのだ。ジャコとシソは合う。ならジャコとシソをオイルパスタに入れてしまおう、なのだ。シソは火を通しすぎると色味も香りも悪くなる、だから和えるタイミングで入れる。パスタに絡むように、シソは細切りにするのだ。ジャコなんていつ入れてもうまいのだ。硬いやつなら最後、柔らかいやつを硬めな食感にしたいなら乳化前、柔らかいままにしたいなら和えるタイミングなのだ。完全に「こういう出力がほしいからこうする」の逆算なのだ。ジャコパスタリアス、なんて1万回はこすられたであろう名前をつけておくのだ。
とあるクソブクマカもニッコリな野菜たっぷりのパスタなのだ。1.ニンニクと一緒、2.乳化前、3.和えるタイミングとして、
のような感じで、余った野菜を適切なタイミングで加えてペペロンチーノを作るのだ。野菜炒め麺入り、みたいな状態になるのだが、これでいいのだ。具材の正しい調理法さえ知っていればあとは組み立てるだけなのだ。
あとは細かいテクニックとして、皿は茹で汁とか使って温めておくといいのだ。繰り返すが、冷めたパスタはそれだけでつまらない味になるのだ。冷たい飯、冷めた飯はエネルギー補給にしかならないのだ。適切な温度の飯はそれだけでテンションが上がるのだ。
一人で食べてても美味い!が先にきて死にたくはなってこないのだー!でも日常のふとした瞬間の寂寥感がつらすぎて、誰かがワイくんを殺してくれることを待ち望んでいるのだー!新コロも致死率が低すぎる上に味覚障害が残ると聞いて忌避する対象になったのだ。殺してくれ。
ヘドロ食えだのお前に許されるのはカップ麺だの、酷い言われようなのだ。ヘドロを食う方法は知らないし、知るつもりもないのだ。ヘドロは食べ物じゃないのだ。カップ麺はそれだけで十分完成してるのだが、強いて言うなら美味しい方の油分が足りないのだ。ネギ油や鶏油を用意しておくとカップ麺も1段階美味しく食べられるのだ。私のことは好きに罵倒して構わないのだ。それでストレス解消した皆様が頑張って作った社会に、死ぬまでフリーライドするのだ。
初披露曲を含めた全般的なレベルの高さでは,安定感のある井上さんが一歩抜きんでていた印象。前田さんがそれに次ぐ感じ。
他方,新鮮な驚きを与えてくれたのは笠原さんの『おとなの掟』。これに挑戦して初披露であのレベルのアウトプットはすごい。この曲を知らなそうな会場を置き去りにしていく感が最高だった。MCで本人が希望して歌ったとわかったが,笠原さんにはハロプロの価値観にとらわれず今後も自由にアイドルを生きてほしい。
佐々木さんの 『ハナミズキ』,小野さんの『I LOVE YOU』,平井さんの『海の声』は,それぞれさすがという感じ。やはり披露している回数の多い曲はパフォーマンスが安定してるだけでなく進化してたりするので出来が良いし面白い。