はてなキーワード: アウトプットとは
日本では環境型セクハラだとか、そういったものがよく取り上げられているんだが、海外ではそもそもとしてそんなのは観たことがない。
海外で環境型セクハラってなんだろう?environmental sexual harassment とか言うのかな?聞いたことがない。ググっても学術記事しか出てこない。
それがなんでかっていう話を日本のフェミニズムの人たちに教えたいなと思って書いてみようと思った。アンチフェミの人たちはだからといって出羽守にならないように。海外から見たらそっちもそっちで大差ないから。
海外では「人の意見を尊重する」ということや「コンセンサス」というものをすごく重視する。これは日本ではむしろ逆方向に教育している。「人の意見は人によって真面目に考えたり茶化したりしていい」であったり、「全体的な合意よりも声がでかくて扇動できた誰かについていく」ことばかりやっている。
どこかの大学で着物の女性を緊縛する動画をアートとして展示したらすごい反響だったようで、燃え上がって削除という最近よくある展開があった。
こちらから見たら大学側がいかにこれがアートなのかを力説して、フェミニズム側も感情論ではなくいかに女性蔑視であるかを説明して、最終的に社会としてどうかというコンセンサスを作るか、という方向に行かずに「あ、はい、削除します」とさくっと引き下がったあたりにすごい残念感が高い。まぁ、大学側も大して根拠があったわけでもないし、フェミニズム側も大声でまくしたてて押し切ることしかしなかったんだろうなと想像しているが。
かつてのアメリカでは、どんな大企業でも女性蔑視だと言われたらすぐにやめていた時期があったが、これは商売人が「そんなのに対策するコスト払うならやめるわ」っていうものでしかなかったが、フェミニストたちが自分たちが大企業を屈服させたくらいに巻き上がっていたのは記憶に新しい。同時の学者たちが「将来にひどい禍根を残すからやめるべきだ」と言っていて、まんまとひどいことになっている。
まず、海外ではあからさまに性的なものを公開するためには結構慎重であることが多い。これはキリスト教の文化も関係しているかもしれない。だが、それが性的かどうかは「性的ですよ」と言っているかどうかに強く依存していることも事実だ。
例えば、水着の女性の写真があるとする。この女性をどう紹介しているかだ。
卑猥な言葉で飾り立てれば、なにか性的なものなのだな、となって公開する場所に身長になる。
「というアートです」と書けば、あぁアートなのだな、でみんな納得する
健康系の雑誌の表紙が水着の引き締まった体の女性を表紙に乗せることもある。
これが人の意見を尊重するということでもある。もうちょっと言うと「どういうつもりか」はほとんど重視されない。an・anという雑誌ではたまにsexの三文字が乗るから、普通にエロ本認定されるだろう。
そういう社会なので、そんなのはアートとは認めない、環境型セクハラだ、と言ったところで、コンセンサスが取れなければ「・・・何いってんだこいつ?」となっておしまいなんだよ。
当然アニメのくりくりした可愛い女の子の絵もたまにはられているが、それを性的だと捉える人は別にいない。
海外では、女性が体のラインがはっきり出る格好で外をウロウロしたりするし、胸の谷間を強調する服だって来ているからアニメの表現に対しても、別になんとも思わないのかもしれないが。
改めて言うんだが、海外では、公に貼られるいかなるものにも「これがなんであるか」という表明が明に暗にされていて、それに対して「そんなのは認めない!」と大騒ぎしたところでコンセンサスが取れなければそこまでだ。やる側もコンセンサスに従えばいいのである意味でわかりやすい。コンセンサスはガイドラインという形で共有される。
どこかの大学の緊縛動画についてだが、こちらでやる場合は、おそらくレーティングがされるだろう。そして、それに従って観客は見に来る。
改めて言うんだけど環境型セクハラ、というものは海外では存在しない。
さて、ここまで言ったところで、多くのフェミニストさんたちが「ありますけど・・・」と言っていろんなリンクを貼ってきたり、もしくは「海外のことなんか問題じゃない、ここは日本なので・・・」とか「そもそも女性が不快なものが張り出されることが問題なので(これは論理のすり替えであまりに悪質だけどね)」とか言ってくるんじゃないかなとも思うが、流れの早い増田だからこの記事はとっとと流れていくかもしれない。
さて、ここまで「そんなものない」と言っていたが、海外でも、おそらくだが、実は環境型セクハラ、またはそれと同等のものはあるだろう。誰も認識していないだけで。
先にも言ったように海外では、「人の意見を尊重する」「コンセンサスに従う」ということを重視する。どこかの団体が勝手にコンセンサス作って社会で振りかざしてもだめだ。キチンと社会としてコンセンサスが取れないならそれはわがままでしか無いし、勝手なルールで人の意見を毀損する厄介な行為でしか無い(実際そういう団体も結構ある)。
なので、そういうコンセンサスを取りたい人々はなにをするかと言うと議論をする、研究をする。例えばメディアにアウトプットする、ブログを書いてSNSで拡散するでもいい。大学で研究者が研究してもいるだろう。政治家にロビー活動だってする。一足飛びに結論に飛びかからない知性がある、って言うことだ。
一方日本ではこの環境型セクハラという言葉がすでに存在するものであるかのように振る舞う人がとにかく多い。自分がそうだと信じていて、はキチンと議論ができるんならまだマシだけど、「あぁ、あなたはまだ我々のレベルに到達していないんですね」となる人たちは改めて海外の人々の考え方を勉強してみるといいよ。フェミニズム自体海外からのいただきものなんだから、男社会がやらかしたことをわざわざ繰り返す必要なんかありませんからね。
ここで好き勝手書いてきた
日頃のストレスをここにぶつけた
苛立ちを汚い言葉に変えて、ムカつきを悪意ある言葉に変えて、憤怒を不謹慎ネタに変えて、フラストレーションを極論に変えて、ルサンチマンを対立煽りに変えて
そうすると「どうだ!俺の悪意をここまでみんな見てくれた!」と嬉しくなって、溜飲が下がって気が晴れた
バズらずともストレスを何らかの形でアウトプットしてるから、解消手段になった
はっきり言えば俺はクソ野郎だ
荒れてもしばらく経てば何事もなかったかのようになるし、誰も俺を「○○さん」という個人で認識できない
だからここで今日もイキって煽って差別して燃やして叩いて貶して晒してる
でもさ、お天道様は見てるんだよ、俺みたいな道端に転がるウンコでも、自意識過剰だろうけど
ウンコが悪臭を漂わせるのは、当たり前のことだからみんな顔しかめてどこかへ片付けるか見えないふりをしてくれる
でも、ウンコがミュータント化してウンコばらまく化け物になって人を襲えば、自衛隊だのなんだの出てきて始末しに来るよね
今の俺はミュータント・ウンコだ、ウンコ・モンスターだ、そろそろその姿を見咎めた警察が拳銃で威嚇射撃してくる頃合いだろう
匿名だからって油断しきってる奴が、何人もほんの小さなミスから個人特定されたりしてしっぺ返しにあってきた
俺はそうならないと思って今日も悪意を振りまくけど、俺もいずれそうなるんだよ
そうなる日まで俺はどうする?いつも通りここやここ以外で悪意を振りまく
破滅願望なんだろうな、多分
誰かに殺してほしいんだと思う
たくさんの人に憎まれてから、尻尾を掴まれてリンチされたいマゾなんだと思う
そうでもなきゃこんなことしてないよ、うん
誰も見てないなら誰かに見てもらいたいんだろう、そして殺されたいんだろう
救えないね
(承前) https://anond.hatelabo.jp/20201108193138
私は、先に書いたとおり、市販の教材のみを使っての独学で取り組みました。主に、テキスト、一問一答の問題集、過去問題集、模試問題集、アプリ等を使いました。
1年目は、「みんなが欲しかった!社労士の教科書」と「みんなが欲しかった!社労士の問題集」をメインで使いました。このシリーズは、図表が多く、カラーで読みやすいです。初めての勉強なので、基本的な内容を理解するには良いと思います。初学者向けのテキストと言えると思います。私の場合、結果論ですが、2年間の勉強うちの1年目のテキストになったので、そういう意味では良かったと思います。それに加えて、「よくわかる社労士過去10」(過去問題集)と、「みんなが欲しかった!社労士の直前予想模試」を勉強しました。1年目は、わずか半年(3月・4月は仕事が忙しくて全然勉強してなかったので、実質は4か月ほどですが)の勉強期間でした。ただ、先に書いたとおり、それでも選択式は合格基準点を十分満たしていたし、択一式も惜しいところまでいったので、決して内容的に足りてなかったとは思いません。
2年目は、「よくわかる社労士合格テキスト」(教科書)、「よくわかる社労士過去10」(過去問題集)、「みんなが欲しかった!社労士合格のツボ(選択対策・択一対策)」(一問一答の問題集)を使いました。「よくわかる」シリーズは、経験者向けのテキストで、「みんなが欲しかった!」シリーズに比べて、格段にレベルが高くなります。ただ、TACのテキストは説明がていねいなので、しっかり読んで理解すれば、十分使えるテキストだと思います。図表は少なめ、カラーではなく2色刷りです。あと、資格の大原が出している「社労士トレ問」というiPhoneのアプリを使いました。科目ごとに課金が必要ですが、個人的にはこれが非常に良かったです。間違えた問題だけを抽出できたり、正答率の集計もしてくれたりします。例えば、電車での移動時間や病院の待ち時間などの隙間時間も、私はこれで勉強していました。
あと、模試についてなのですが、各資格学校が実施する公開模試がたくさんあって、受けた方が良いとされています。私もそう思うのですが、1年目は時間がなくて受験できず、2年目はコロナ禍で受験できず、ということになってしまい、実は一度も模試を受けませんでした。その代わりに、TACの「みんなが欲しかった!社労士の直前模試」(難易度低め、2回分)と「本試験をあてるTAC直前予想模試」(難易度かなり高め、2回分)、LECの「出る順社労士 当たる!直前予想模試」(難易度本試験に近い感じ、2回分)、社労士Vの「完全模擬問題」(難易度普通、1回分)を買って、自宅で正確に時間を図って取り組みました。
使った教材は、これがほぼ全てです。
独学の場合の教材選びについて気をつけるべきことは、以下のような点だと思います。
一般的に、行政書士試験で800時間、社会保険労務士試験で1,000時間の勉強時間が必要だと言われています。ただし、私はこれは通学や通信教育など、効率的・効果的な勉強をしたとしての時間だと考えています。独学だと、その倍とまでは言いませんが、さらに多くの勉強時間の積み重ねが必要だと思います。私は、自分の勉強時間を計測していたわけではないので、正確なところは分かりませんが、1年半の合計だと1,000時間は超えていると思います。
勉強は、仕事のある平日は、お昼休みに30分程度、帰宅してからも最低30分、できれば1時間以上は勉強をしようと努めていました。もちろん、実際には0の日もたくさんありました。休日については、だいたい6~8時間程度の勉強時間を作るようにしていました。これも、できないことも多かったのですが、仕事が本当に忙しい時期を除けば、かなり達成できた方だと思います。
勉強の進め方は、これは2年目のやり方ですが、まずテキスト+過去問を、単元ごとにやっていきます。私は、それを全科目5周やり、過去問はほぼ100%正答できるようにしました。あと「合格のツボ」は6周やり、これもほぼ100%の正答ができるようになりました。トレ問アプリは4周だったと思いますが、これも同様に100%までやりました。10か月ぐらいは完全にこの繰り返しでした。インプットとしては、これで良かったと思います。
あと、アウトプットとして模試に取り組んだのですが、模試問題集は、全て時間を正確に測りながら3周ずつやりました。各学校が出している模試問題集は、本試験の予想問題として作られているので、実はかなり当たります。私の場合は、4冊で7回分の模試問題をやったのですが、本試験で実際に同じ論点で問われて、そのおかげで解けた問題がいくつもありました。模試問題集は、単なる力試しではなく、その後何周繰り返し勉強するか、インプットツールとして活用できるかどうかが重要だと感じました。
ここからは、私の勉強方法についてなので、参考にはならないかもしれませんが、私なりに留意していたことなどを書いておきます。
まず、これは子どもの頃からそうなのですが、私は教科書や問題集に書き込みを一切しません。マーカーも引きません。資格学校の先生の中には、どんどん書き込みをして「教科書を育てていく」ような指導をされる方もいらっしゃるようですが、私は書き込みをすべきではないと考えています。必要であれば、付箋を貼ります。付箋は剥がして元通りにできますが、これが重要だと思います。書き込みやマーカーが本当に必要なら、テキストを編集する段階でそのように作るべきですし、実際にそうなっていると思います。テキストに書いてあることは、全部出題される可能性があるので、全部重要だし、全部覚える必要があります。
また、社会保険労務士試験は満点を取る必要はないのだから、7割を目指せばいい、コスパが良くない科目や出題頻度が低い項目は捨てても良い、ということをおっしゃる方もいらっしゃいますが、私はそんなに甘くはないと思います。私は、満点を取るつもりで挑んで、力を出し切ってもなかなか7割を取れないのがこの社会保険労務士試験だと思います。基本的に、落とすための試験ですので、過去に一度も問われたことのない論点が出てきたり、また令和2年度試験でも実際にありましたが、全く見たことのない規則や判例を出題してきたりすることも珍しくありません。例えば、労働安全衛生法は出題数も少なく科目として難しいので、試験のシステム上「捨てる」という人も少なくないそうなのですが、今年の試験では、合否を大きく分けた要因の一つは労働安全衛生法だったと思います。これを完全に捨てていた人は、おそらくほとんど合格できていないと思います。今年の場合、先に書いたとおり労一が難しかったのですが、せっかく労一をクリアできたのに、安衛で足元をすくわれた人もいたと思います。
最後にいくつか。独学で勉強をするのは本当に孤独です。私は勉強をスタートしたときからTwitterでそのことを発信していたし、情報収集や意見交換もさせていただきました。私はやっていませんが、YouTubeで受験チャンネルを立ち上げている人もいます。独学の最大の敵はモチベーションの低下だと思いますので、SNSをうまく活用してモチベーションを高めたり情報収集をしたりすることも重要なスキルの一つではないかと思います。あと、私は、仕事と両立しながら受験に取り組むこと、合格しても資格を使う予定はないことなどを早くからTwitterで公言しておりました。このことについては、特に同じ試験を目標にされている方からすれば、中途半端な姿勢や態度に映ったかもしれません。そのことは否定も肯定もしませんが、この結果と、そしてこれをフォロワーさんにきちんとフィードバックする姿勢で、評価していただければ幸いです。
これから国家資格取得を目指す方、社会保険労務士になりたい方、資格を取れるかどうかももちろん大きなことですが、その過程での学びと経験が非常に重要だと思います。ぜひ頑張ってください。
人生で最初にネットに触れたのは2001年だか2002年だかのことで、俺はまだ中学生だった。
当時、ネットに接続する環境は既にある程度整っていたし、最初に触ったOSもWindowsXPだ。
それ以前の世界を知る先輩方や、年齢層の異なる人達の知識には遠く及ばないだろう。それは最初に断っておきたい。
あの頃はPCに触るのも初めてだったから、まずはキーボードやマウスの扱いを楽しみ、プリインストールされていたゲームで遊び、ネットに視野を広げてからは学校の友達との繋がりにもなった。
遊びの延長線上で個人サイトを作って隠しページなんかのギミックを披露しあい、やがては簡単なゲームを作ってみんなで遊んだ。
どんなに出来のいい(と自分が思う)ものを作ったって相互リンク以外からのアクセスは皆無だったから、設置していたカウンターは仲間内だけでキリ番目当てに必死に回している様な状態で、現代で言う「バズる」なんて現象はあり得なかった時代だ。
だからなのか、当時はネットを「議論するためのツール」とは考えなかった。
もちろんMSNメッセンジャーや個人サイトの掲示板やチャットを使って雑談することは多々あったし、某匿名掲示板を覗けばいくらでも論争してる人はいたけど、それはどちらかというと「お遊び」で、ネットのメインは創作活動だった。
いかに面白い情報を漁り、いかに面白いことするかに焦点を当ててネットと付き合っていた。
黒歴史としか思えない痛々しいポエムだって、読んだ人がきっと感心するだろうという自信を持って載せていた。
ああした世界観が長続きしないものであるということは理解している。
YouTubeが世に出て、ニコニコ動画が流行り、やがてみんな大人になって勢いは落ち着いて、色々と整備されながら世代は移っていく。そこに反感はない。
あの頃の世界の行きついた果てが、ロジックをこねくり回す、どちらが正しいかを決めるだけの合戦だと?
もちろん、これは俺の観測範囲の問題なんだろう。嫌なら見なければいい。その通りだ。実際、いつもはそうしている。
しかしお前ら、わかっているのか。
そこは「SNS」だとか「はてブ」だとかたいそうな名前がついているが、あの頃の個人サイトの掲示板やチャットの延長線なんだぞ。
社内で大変評価の高い方から案件を引き継ぐことになった。評価が高いため、若くして子会社のマネージャーになることが決まったからだ。私は異動してきたばかりで、専門性の強いこの部署の仕事は完全に素人。なぜ私が引き継ぐのだろう?とは思ったが、マネージャーになるような人だから引き継ぎも丁寧なのだろうと思ってた。
その人からは4つほど案件を引き継ぐことになったのだが、資料はなく、全て口頭で行われた。その時点であれ?と思ったのだが、仕事の進め方もアウトプットの方法も全てその人に従わなければならなかった。他部署に頼まれた資料作成を突然横流しされ、よくわからないなりに資料を作って提出すれば、俺はこういうものが作りたかったんだと、1から全て作り直し。作り直したものもやっぱりこうしたかったとまた1から作り直し。中身も結論も全てその人仕様になって、どこで何を言うかまで指定される。先輩の頭の中を100%読み取るのは無理だ。明確なアウトプットイメージがあるなら、打ち合わせの時に「適当でいいよ」ではなく擦り合わせさせて欲しかった。
月曜日、また新しい案件を引き継がなければならない事になり、社内打ち合わせに参加すれば、来週開催されるセミナーについて先輩は「増田が資料作成も発表もするので」と周りに言いきった。その案件が何をしてきたのか何を求められているのか、何も説明はない。慌てて打ち合わせをセットすると「この資料のこことここを使ってあとは適当にやって」とだけ言われた。自分で資料をかき集めてなんとか作りきったが、提出したものを見た先輩に自分の言う通りに作り直すようにと電話で言われたのが午後九時。本番は来週半ば。今から作り直すのか、と思ったら、電話を切った後に無性に泣けて涙が止まらなかった。
人によっては面倒見のいい先輩と言うと思うし、逆にどれだけ私に資料作成のセンスが無いんだろうとも思う。でもずっと全否定され続け、何度も1から作り直させられ、今日初めて限界かもしれないと思った。限界は1つの出来事で訪れるのではなく、小さな絶望感の積み重なりでできているのかもしれない。こんな状態で並走期間が終わった時、私はやっていけるのだろうか。マネージャーはその仕事を優秀な先輩に任せっきりだったから、内容は何も把握しておらず、相談できる人が誰もいない。
月曜日の朝までに訂正した資料を出せと言われた。土日も出社した方がいいのだろうか。金曜の夜なのに涙が出てしまう。会社行きたくない。
どう考えても問題点は以下の3つ。
どんな絵師を選ぶのか、絵師は普段どういう絵を書いているのか、ここからどういうアウトプットが来そうかについて検討していない(もしくは検討が甘かった)
相手はプロなので受けた仕事の内容を最大限解釈して行う。誰が見るのか、何を伝えたいのか、が伝わっていたとは思えない(もしくは伝え方が雑だった)
どういう絵師を選んで、どういうコンセプトの伝え方をしたかでそれに従った絵を出してくるのが絵師のプロとしての役割。なので、最終的に選んだ絵師が自分たちの考えるコンセプトに合致した絵を書いてくるかはチェックする責任はある。
クライアントのキャンペーンのコンセプトと自分の絵柄や想定される作品のコンセプトに大きなミスマッチがあると思うなら断るのもプロとしての責任だとは思うんだが、アツギが絵師にどういう伝え方をしたかによる。
「女性たちにもっとタイツを履いてほしい、コーディネーションのサンプルにもなるような絵がほしい、自社製品を紹介するものにしてほしい」とか言ってるのにスカートたくし上げたような絵を書いたなら、それは絵師がどうかしているが、当初「選んだ絵師に好きに書いてもらいたい」くらいのこと言ってたと記憶しているので、やはり絵師に責任を求めるのは無理筋だ。
要はどういうコミュニケーションがこのイベントにおいてなされたかをアツギが明確にしないと絵師の問題は明らかにならないが、アツギができた作品をチェックしてないなら、最終的な責任はアツギにやはりある。
よくフェミだの何だのと彼ら彼女らの言うことの論理的な不整合を指摘してぶちのめしてる人たちが多いんだが、そもそも感情的な議論をさも論理っぽく飾り立てていることに気づいているだろうか。
だけど、彼らの言いたいこと、そしてアンチフェミの言いたいことってなんだろうと言う議論てちっともなされない。アウトプットされた言葉の検証ばかりしている。モンダイの本質を追求したら死ぬんだろうか。
どちらも言いたいことは「もうこれ以上殺す自分はないです」って言うことで、このへんは周囲の人にははっきりいうと理解できないと思う。俺みたいに毒親の元何十年も自分を殺し続けてきた人にしか感じ取れないかもしれない。
当然そういう人たちをうまく利用してやろうというひどい輩もいる。俺がエセフェミという人らだ。
今回のタイツの炎上の件でも、あのような絵が許せなさ過ぎて発狂するくらい嫌な人がいる。あの絵が許せない人を発狂するくらい許せない人がいる。
どちらの言い分も一見論理っぽかったり、客観的っぽかったりするが、客観的に見ると感情のぶつけ合いでしかない。それっぽく言ってるけど、感情だよね、論理じゃなくて。
だけどどちらもそれが感情論だとバレることだけは頑なに避ける。バレるくらいならいっそ死のうか殺そうかというレベルで嫌がる。つまり、感情は人の持つものの中で最もだめなものの一つだ、と心のどこかで思っている。
なにか言うなら論理的であったり、客観的であったり、整合性が取れてなくてはならないと考えている。感情は隠さなくてはならない、と考えている。
つまり、彼らの感情は誰にも受け止めてもらえていないんだよ。もっとと受けとめなくてはならない両親はきっと受け止めることを頑なに避けてきたんだろう。
よく言うリプロダクションなんだ。
子供の感情は論理と暴力で押しつぶしてきた家系の人たちなんだよ。親の論理も所詮は幼稚な感情論だがな。
つまり、「僕たち私達はもうこれ以上我慢できません、いったい後何十年自分の感情を殺して言いたいことも言わず、見せたくもない笑顔を見せなくてはならないんですか?」って言うことなんだよ。
当然そうじゃない人たちもいるだろう。だけど、俺が行ったような人も結構いると思うな。
かく言う俺も毒親の影響のせいでかなり苦しんでいる。そんな俺から言えることは、まずはもっとむき出しの「それは嫌だ」という感情を真正面から捉えることだ。カウンセラーを頼ってもいい。スピリチュアルでもいい。とにかくあなたの感情を受け止めてくれる人を探すんだ。
なんで親の罪を私がコスト支払わなきゃならないんだ、と思うかもしれないが、苦しいだろ?開放されたいだろ?
*****追記*****
反応の中に「彼女たちをそこまで追い詰めたのは男だと思う」という人がいたんだけど、それは否定しない。というか、「すでにほとんど余裕がなくなるまで親とか育った環境によって常に追い込まれて育ってきた人の最後のひと押しが男によってされた」という言い方が正しいと思うんだよ。
崖から落ちる10m手前なのか、100m手前なのかはわからないけど「まだまだ崖から落ちない」と思っているから一見みんな同じ様に見えるんだけど、仮に9m押されると考えてみたらいい。100m手前にいる人たちは「なんで押すんだよやめてよー」位で住むけど、10m手前の人は「やばいやばい!おちるおちる!殺すきか!殺す気だろ?今殺そうとしたよな?」ってなるでしょ。
更にいうと、そういう男たちは「強要しているつもりはまったくない」というか、頑張って平気そうな顔するから「あぁ、こういうコミュニケーションがOKなんだな」って普通に認識してその認識どおりに活動している。やっていることが本質的に失礼かどうかを考える感性がないという欠点は置いといてだ。
そして「平気な顔しながら必死で我慢している人」たちが笑顔を保てなくなってある時爆発したら「え、なんで怒ってんの?わけわかんない、疲れ過ぎだよ、ちょっと休みなよ」という反応になる。だって、爆発しているときが本音だと思わないから。この辺の感性の欠落も問題といえば問題なんだがね。
今の若い人々には全く想像がつかないかもしれないが、30年くらい前になると、道端のそこイラ中にゴミが捨てられていた。雑誌やペットボトルなんか車の窓からポイポイ捨てる人たちがいた。おもむろに車を止めて道路に灰皿の中をザバッと開けて立ち去る人もいた。
もう10年位遡ると、通勤ラッシュの地下鉄の中でタバコを吸う人がいた。窓も開けられない地下鉄の社内は煙草の煙が充満していた。
今、ポイ捨てする人たちや電車の中でタバコを吸う人はいるだろうか?いるにはいるが、絶滅危惧種だし、それはだめなことだと社会的なコンセンサスが取れている。
日本ではタバコは男が吸うものだったし、ゴミをポイポイ捨てるのも男性が多かった。道端になんの躊躇もなくゴミを捨てることはどこか男らしい、という認識があったように思う。
タバコで言えば、女性は煙を吸わされる、臭くなる、服を焦がされる、というやはり被害者な立場であることが多かったし、子供の目にタバコの火が入って失明したなんていう事故を知っている人もいただろう。
こういう問題について当時のやっていた人々(主に男性なんだが)「ルールとか関係ないわ、俺はやるわ」っていう人とか「いやいや、タバコとか取り上げようっツーの?人権侵害だろ?」とか「ゴミ持ち歩くのってうっとおしいし、ポイ捨ての何が問題なの?」とかそういう人はわんさかいたのだが、今ではポイ捨てする人もほとんどいないし、タバコは喫煙所で吸うことが守られている。
ポイ捨て問題については「汚くて嫌だからやめてほしい」という意見はあったし、タバコについても「臭くて嫌だ」という意見はあった。たが、ここは論点にならなかった。というよりもちょっと後に出てきた論点だったと思う。そもそもそういう人々は多かったのだが、これらの問題に対応するときの最初の論点ではなかった、とでも言ったほうがいいだろうか。
タバコをそこいら中で吸うことの危険性や健康に対する問題というのが啓蒙されていたし、ゴミを捨てることについても環境問題何かと絡めていたと思う。つまり、物理的で客観的に確認できることを問題にしていた。なので、メディアも動きやすかったように思う。
これらの問題はつまるところ
物理的で客観的に証明できそうな問題(戦いに持ち出した論点)+感情的で主観的な問題(もっと本質的な論点)
の合計だった。
物理的で客観的に証明できそうな問題(戦いに持ち出した論点)+感情的で主観的な問題(もっと本質的な論点)
こちらの式の前半、戦いに持ち出せるカードが少ないのだ。まず、色っぽい写真や萌キャラのメディアを公の場に張り出すことの物理的な問題ってなんだろう、と思うと、なかなか見つからない。主観的な問題はわんさか出てくる。
「環境型セクハラだ!」とか「性的搾取だ!」と言ったところで「お前の感情論にそれっぽい理屈つけただけだろ」と言われてしまうのだ。当然ひどい嫌悪感を持つ人々はいて、私は彼らにも慮る必要はあると思っている。もうちょっと言うならば、もっと適切な表現ややり方は模索すべきじゃないのかと思う。だって、これは差別問題だから。
海外でもこういったアウトプットを問題にするのは昔はやった。レースクイーンは性的搾取だとかその手のやつで、このときも「いや、これ私がプロとして自分で選択してやってるんですけど、私はこの仕事に誇りを感じている」とか「アンチのせいで私は職を失ってしまった、これからどうやって生きていけばいいのよ」と同性からも反発を食らっていたのは覚えている。
海外ではこういったアウトプットを直接的にぶん殴るよりは、教育を変えていくようにシフトしたように感じている。そして環境型セクハラと言っていいようなメディアは姿を消した。色っぽい表紙の雑誌は未だに公然と売られているが。
フランスではポルノ雑誌がそこかしこで売られているというのは「男女ともにそれがもはや環境型セクハラとして感じられなくなった」または「特定の人にはそれは未だに環境型セクハラだが、誰も同意できなくなった」ということでもあるだろう。
タバコもポイ捨ても社会的なコンセンサスが取れたことで新しい問題を生み出した。それは当初の反対派が想定しなかった方向に転がった、ということでもある。海外でも同じだろう。おそらくフランスでは今でもキオスクでエロ本売るなっていう人々はいるだろうけど、今の時点ではおそらく男女ともに「え、なんで?」ってなるようにアップデートされてしまっている。だが、それでもいいようには思う、何故か。
海外のフェミニズムたちの活動における最も重要な成果は「誰が言ったかにかかわらずそれは議論に値するトピックだ」と誰もが考えるようになったことだと思うからだ。そしてそこには教育が重要であると言ってもいい。そしてこのトピックは「性教育」の一項目だったりもする。子どもたちが目にする最初の多様性は男女や人種だからかもしれない、単純で理解しやすいからかもしれない。
なので、日本のフェミニストたちは海外の性教育を一度見てみることをおすすめすするし、そういう書籍を発行したりしてもいいかもしれない。
今回みたいにアレな人に目をつけられることがあったとしても、それ以上に魅力が伝わることがあるなら、共感して「いいね」って思う人がいるなら、すばらしいものはどんどん表に出していくべきだと思うんだよ。あと勘違いしてる人が多いけど、性的要素があるからといってそれはマイナス要素にはならない。性表現は悪いことではない。時と場所みたいなものはあるけどね。
あの中にも俺が知ってる絵師が何人かいたし、それで知名度を上げたと思うとプラスになる面もあると思うんだよね。
世の中にはああいう騒ぎ見て「うわーこいつらダメだわー」みたいに思う愚昧な人間ばかりじゃなくて、フラットに見て「これで知ったけどこの人すごい良いじゃん、好きだわ俺はいいと思うぜ」ってなる人も沢山いるはずだと思うんだよ。
もっと人間の知性を信じてほしいね。まともな人間はたくさんいて、是々非々で考えて良いものは良いと見られる懐の広い人もたくさんいるんだよ。そういう世界認識を女性オタクは持っていなさすぎると思う。そうでないと圧力ヤクザに支配される息苦しい世の中になるだけだろ?
--
koyor たとえば軽く炎上してファンが1000人、アンチ10人増えたとして、ファン1000人の無言フォローよりアンチ10人の粘着で作者は筆を折りがちなとこあるじゃん?ファンは作者に対して過保護になるものなのよ
こういう発想は良くないと思うんだよ。作者のことを、そういうのをサラっと流せるような大人の対応ができる人間だと、練度の高い人間だと信頼してないってことでしょ。そうやって過保護にするということは、パターナリズムの肯定であって、俺が散々言ってきた「人間の知性を信用してないのはダメだぞ」ってことに繋がる。パターナリズムは過保護にしてないとすぐに死んでしまう脆弱惰弱な温室栽培の人間を量産させることに繋がる思想だ。取り巻きだとか政府だとかがガッチガチに監視して守ってやらないといけない社会を作ることに繋がるわけ。そうなると、守る側は「こいつらは愚かだ」と侮るようになるわけ。不健全でしょ。
だから、いちファンが守ってやらねばならないと思うようなことがそもそも傲慢であって、みんなが精神的に強くてまともな人間になろうとしてなくちゃいけない、そういう強さを身につけることを促す社会でなきゃならない。アラフォー世代が2chで煽り耐性やグロ耐性を身に付けてきたように、人は守られるんじゃなく、無秩序の中に晒されることで多角的な見方ができるようになり、賢くなる。俺はそう思うんだよ。
だから是が非でも道理を曲げてでもどうにかして「神」に創作を続けて欲しいと願う人ならワガママゆえに過保護な言動をしちゃうかもしれないけど、まともに考えれば、現代にネットを活用して何かを発表するという以上は、ノイズ対策のリテラシーも身に着けているか鍛えていくべきことなんであって、ノイズに負けて折れてしまうのだったら総合的に判断して適正がない、退場するべくして退場した人と判定するしかないんだよ。逆に、そういう部分が長けてる人は、例えアウトプット自体がパッとしなくても称賛されて伸びて然るべきだし。
"お前は何を意味のわからねえ事言ってるんだ伝わる言葉で話せといつも言っている"
まさしくそういう詰め方をする上司の元で、自身のパフォーマンスは明らかに下がった。
その上司が納得のいく答え、体裁を準備するのに本質的でない労力が削がれるのよ。
気に入らなければ報告書、資料はすべてやり直し。何が悪いかは自分で考えろ。
また現場の実情と乖離した「上司の納得のいく解」を準備する担当者が気に入られ評価されるので
自身も歳とってアウトプットの要であることから降りているのだけど、そういう指導しか受けていなかったため
チームのパフォーマンスを最大化する方法は未だ思考錯誤している。
ただ相手の伝え方が悪い部分があっても必要な情報を聞き出すのは上司の役目であり、聞き出せないのはむしろ自身のスキル不足と思ってやっている。
そのためには上司相手であっても自由闊達に話ができる空気を醸成し、間違った発言をしても発言したこと自体は咎めない。
これはこれで非効率な部分はあるだろうけど、「発言すると詰められるので都合の良いこと以外は黙る」の弊害が大きすぎるので現状はそういう方針。
ご返信ありがとうございます。
先だっての追記で私が伝えたかったのは、私は「自分は潔白で正しい」とは思っていないこと、でした。
コンテンツやキャラクターを消費している自覚がある。だからこそ、その情動が「可愛い」であっても消費には変わりないのだから、アウトプット(絵や言葉)には注意を払いたい。二次元のキャラクターであっても、生身の人を相手するのと同じように接し方を考えていきたい、という趣旨のつもりでした。
「一方で、性的な消費に加害性があることは、性的消費の加害性を認識している。」
はそのとおりです。上記の通り、生身の人間にだったら言えない、できないことを、私はキャラクターにしたくはない、と思っています。「可愛い」なら、キャラクター(あるいはその向こうの人たちに)伝えられるな、というのが私個人の基準なのだと思います(「可愛い」と言う言葉に相手方が忌避反応があるのなら、やはりまた別の言葉を探すべきだとも思います)。
この考えが完全に間違ってるし、指摘されてるじゃん
個人がいくら頑張ったところで生産性100が200になる程度しかスケールしないけど
タイトル通りで俺はこのコロナウイルスにハッキリ言って感謝している。
チー牛顔の彼女いない歴=年齢33歳、軽度で発達障害入ってしまってる年収900万のweb系エンジニアという、年収以外では正直IT業界の中でも下位の負け組、恋愛市場的には石の下のダンゴムシやナメクジレベルであるこの俺が
このコロナが流行って一年足らずに、セフレ合わせて10人近くとの女からかしずかれるハーレム状態に成功したのだから
ぶっちゃけ世間ではコロナ不況で半端ない失業者とか社会恐慌が出て、戦々恐々で出勤を繰り返しているのだろうけど、テレワーク主体のITエンジニアからすれば全く関係がないので寧ろ電車を乗り継ぐたびに
不況で仕事なくなったり生活不安になってギスギスして電車とか町中で暴れてるのを見かける基地外ジジイや叫ぶクソフェミくさそうな基地外ヒス女、負け組半グレや底辺DQNどものやけっぱちにビクビクしながら出社しなくてよくて
紅茶片手に優雅に自室でテレワークできるようになったので、世間的にはどんな大変なのかマジ他人事、寧ろ負け組どもが醜く争い合っているのを天上から眺める優越感に浸れて「ああ今俺は勝ってるんだな」って気分に浸れて気持ちがいいのが本音
きっかけは岡村発言問題のニュースを見ていて、これなら今の俺でもイケるんじゃないか?って思って勇気を出してナンパというか女漁り初めてみたら、魚心ありまくりで釣れるわ釣れる、芸能だの風俗だの飲食だの観光だので食えなくなった、若くてピチピチの20代前半の上玉が、コロナクライシス前なら相手にされないどころか遠目にキモッ!キモッ!KKO!とか言われてからかわれることは間違いないレベルの女どもが
食うに困って生活不安を覚えるほど金がないからなのか、収入だけ見てラブコメアニメ並みに俺に媚び媚びで媚びてくる。
あまりの拍子抜けっぷりに、俺も最初は「これは食うに困って基地外と化した半グレや考えなしの底辺DQNが美人局を仕掛けているのではないか?後ろに隠れているんじゃないか?」とビクビクしていたが、どうやらそんなことは本当になく、もう俺の言うことなんだって聞いてくれるっつーの?家事力あるところアピールしようと飯の世話までやってくれてマジで恋愛市場の強者に上り詰めたんだなと思うようになった。
使〇済みゴ〇を新聞紙で包んでゴミ袋に入れるなんて、恋愛強者の勝ち組だけがするべき所作をする日が来るとは夢にも思わなかったわw
それにしたって、脱童貞してヤりまくってからと思うもの、幾らコロナ不況だからと言って冷静に考えたら遊ばれてんの一発でわかるし、都合のいい女ポジなんて危険なことこの上ないのに、そんなこと考える余裕さえなく、マジ都合のいい女に自らなりに来てくれるとか、笑えて来る滑稽さと同時に、「ああ、こいつら今まで努力とかしなかったから、ここまで尊厳捨ててでも普段なら見下すような相手に媚びなきゃいけないんだな」と憐れに思うと同時に、それ以前ならきっと罵詈雑言でキモがられたんだろうなと思うと、頭がカーッとなって胃袋がキューッとなってアウトプットのパフォーマンス落ちてくるときあるから、アンガーマネジメントの練習がてらに、たまに意味もなく理不尽な理由つけてキレたりして遊んでるww
リゼロのレムみたいな彼女が、理解できずに顔面蒼白でボロボロ泣きながらごめんなさい連呼して泣きじゃくり、何とか機嫌を直してもらおうとさらに怯え切った座敷犬の様に媚びてくる様は、内心笑い転げるほどおもしれぇw
そのあとベッドでヒィヒィ泣かせてやるんだけどなwww
他人の尊厳まで踏みにじる快感っつーの?上級国民はこんなのおもしれぇことできるならそらマジでハマっちゃうわって思う訳
ホントに重ね重ねいうけど、コロナウイルスさんにはマジ感謝しかねえっす、マジリスペクトしか感じてない
俺がICTで世界を変えるなんて、新卒や大学の頃言ってたら、憐れな目で意識高い系だのなんだのと見ていたアフターコロナワールド弱者見てるか~?
まぁなんつーの?ITで世界は変わったよ、前なら発達障害ってだけで忌避されてたのに、今なら俺様の優秀な遺伝子でハーレム築いてオレ氏族とか作れそうなくらい俺を無敵にしてくれたコロナウイルスに、重ね重ねサンキューフォーエヴァーっすわ
何かタイツがどうのこうので炎上してっけど、暇そうで羨ましいっすわw
アホなフェミどものあさましい争いを肴にワイン飲んでセフレにタイツ履かせて破いて後ろからガンガン突くプレイ用に使い捨て買っちゃうべw
元増田です。思いもよらず色々なご意見を頂いて、私自身も自分のスタンスについて色々と考えたり、反省する部分もあったりしています。
私自身、二次創作をしている以上、キャラクターやコンテンツを「消費」している自覚があります。可愛いと思うことも間違いなく消費で、性的な消費より軽いわけでも良いわけでもないと思います。あと、何かに対して性的魅力を「感じること」そのものを否定したり攻撃したりする意図はありませんし、理解できないわけでもないです(アウトプットの話をしたつもりでした)。
私自身、言葉も絵も(正解なんて存在しないわけですが)アウトプットをするならば、自分が自分を許せるところまで突き詰めて考えていかなければいけないのだな…と改めて思っています。自分自身が人やコンテンツに向ける言葉も。
心が弱い、向いてないのお言葉もとてもわかるのですが、無視できるようになったら、平気になってしまったら、自分が自分を許せなくなってしまうので、とりあえず増田に吐くのは今回だけにして、自分の中で色々考えていきます。死にたくならない程度に(自分にとっての衝撃の度合いはともかく、これは言葉が不適切だったなと反省しています…)。
ありがとうございました。
私の下に配置されると部下が萎縮して性能が下がるのだという。
自分なりにマネージメントを工夫してきたつもりだし、相手の心を汲み取るように話も聞いてきたつもりだ。
だが、そういうのじゃないらしい。
人事権を握っている人達が、どうやって集めたのか知らない情報によると、どうも私は部下から恐れられている、というよりも嫌われてるようなのだ。
仕事に対して真剣にやっていると結果的に熱が入るし、いっそやる気を無くせということなのか、そう質問したら、そういう所だ、と帰ってきた。
部下を持つようになったら、チームで仕事をすることによるパフォーマンスの最大値を上げろ、お前のパフォーマンスだけを上げてどうなる、とはよく言われてきた。
だが、私が努力することを辞めたらチームのパフォーマンスは半分も発揮されないだろう。
どうしろというのだろう。
直属の上司は、そういうことではなく部下が私に気を遣うのに意識が向いているのを辞めさせろと言っているのだ、なんて言う。
人の顔色をうかがって、失敗を怒られることにビクビク怯えているような、不誠実な学生気分の奴らをどうしろというのだ。
いちいち全部褒めてやって、失敗してもどうでもいいと言ってやればいいのか?
私なら耐えられない。
何から何まで褒めらて、何をしても許されるなら、もう成功も失敗もないだろう。
もしも上司が私の部下だったら、お前は何を意味のわからねえ事言ってるんだ伝わる言葉で話せといつも言っている、と怒鳴ってやるところだ。
はたから見てるとおそらくソーシャルスキルは軽く池沼入ってるレベル
発達を自覚して病院に通い専門家の指導を受けてほしいのだが、いかんせん本人にその気がない
もう60歳をすぎて今更自分が池沼でしたなんて認めることもできないだろうし、
かといって自分は年々目に見つくようになるポンコツぶりに面倒見る気が減退する一方だ
父は発達障害なんて概念すら存在しない時代に日本の片隅のど田舎で生まれ育ち、
壊滅的なソーシャルスキルで社会の日陰、会社では万年窓際として過ごしながらも、
高度経済成長と、残っていたお見合い制度に助けられてまあまあ普通の人生を送れてしまったが、
会話が成り立たない度合いは壊滅的だ
横断歩道は青信号を確認して渡りましょう。警察署は次の交差点を左に曲がったところです。
この程度の情報交換であれば理解可能なのだが、それ以上に複雑かつ情緒や時間の概念が登場してくると脳がパニックを起こすようだ
例えば、夕飯の席で仕事の話が出たとする。
自分の会社は事業は何をやっていて、それが社会的にどういう機能を持っているのか?なんて話を延々と続ける
そうではない。一日中デスクに座っているのだとか、営業でどこそこの街に行っているのだ、とか、普段昼飯は何を食べているのだ。とか、
そういうあなた個人が何を考えて何を見て何をしているのかを話題にしているのだが、それが理解できないようなのだ。
何か抽象的概念の意味や機能しか意識することができず、生きている自分個人の感覚や感情を感じていないのか、もしくはアウトプットできないようで、
ひたすら電車の時刻表を暗記しているサヴァン症候群の子どものようだ
"自分が"社会や会社の中で何を求められて何をすべきなのか、という視点が一切ないので会社でも入社から定年までずっと役立たずの窓際だったようだ。
さらに厄介な事に、外では非常に憶病で大人しい人間だが、家の中では粗暴な内弁慶なので、
脳みそがパニックを起こすとキレて怒鳴り散らすため、もう正直あんまり関わりたくないが、
自分としては今からでも少しづつ自分の障害を自覚して、ソーシャルスキルを身につけていって欲しいのだが、
いくらこっちが行ったところで自分の足で病院に行くことはないだろう
専門家が家庭訪問をしてくれるようなサービスはないだろうか?なんなら強制的に病院に連行してもらっても自分としては一向に構わないとすら思っている。
たまに1日4時間残業×数日とかやると、自分でもわかるくらい頭まわらなくなる
長時間労働してなお一定水準以上のアウトプットができる人達はすごい やっぱりコンサルとか医師とかそういう人たちは根本的に違うと思わされる
「理解」をどう考えているか、これについての私の根幹(基礎)はオートポイエーシスに準じている。
オートポイエーシスの詳しい説明は省くが、神経細胞が情報伝達を行う際、シナプスは行為を理解しない。ひとつの作業を行うのみであり、結果のための行為を連想しない。シナプスにとっては、「物質を伝達する」という行為が目的であり結果となり、それらが組み合わさって何が起こるかを理解しない。
つまり、最終的に現れるもの(たとえば人体の中で起こりうる結果反応など)はすべて、「行為の副産物」としてしか存在し得ないということ。これは非常に重要な事実である。
本来「理解」というものもそのように行われるべきである。一番重要なことは「わからない」ことである。わからない、を通過しない限り、「理解(と呼びたくなるようなもの、それに準ずる、付随する周辺のものもの)」を得ることはできない。
これについては同授業を受け持っていた河本英雄の「飽きる力」なんかを読めば少しわかると思う。
この文を書き始めた当初は、この前提を元に本文を整理していこうと最初は考えていたのだが、結局本文に「哲学は哲学をしている瞬間にしか浮上しない」とはっきり銘打たれていた。だからもはや、一文を取り上げて「ここの箇所は〜」などと言語化することは意味を持たない。それ(ここでは〈哲学〉とする)が"それ"たらしめるやり方でのみ、発見できることであるならば、そう(そのやり方で)やる他ないと思うので、それに倣おう。
あとあちこちに書くのも煩わしいので、一度に留めるが、わたしが書いている内容について読み違えや相当しない批判(等)があれば、気づいた場合指摘してほしい。(それこそがきっと哲学なのだろうし。)
はじめに(5p)、から問いの合間に(125p)までを読んで
本文にあるようなやり方の〈哲学〉については実感がある。実感はあるが、しかしそれは子どもの時からすでに最初から「青年の」〈哲学〉であったように思う。少なくとも、目の前に与えられた課題は年端のいかない子どもには大きすぎたし、それについて、しかし取り組む以外の選択肢を(子どもながらの純粋性ゆえに)持つことができなかった。だから最初から、なぜ〈他者〉がいるのか、という疑問は生じずに、〈他者〉と対峙するにはどうすべきか、をひたすら〈哲学〉し続ける時間が幼少期〜思春期であった。
だからなるほど、やはり「疑念」が問いを生むのであり、疑念を持たないものは問いに遭遇しない。よく感じる違和感は、「問いを持たない人間」と(「問いを持つもの」と)の世界の断絶である。世界には大きな断絶があるということを改めて実感したのだった。(断絶の是非はここでは問わない)
・〈ぼく〉という特別さの有無について
さて、書いたようにわたしは「なぜ〈ぼく〉が存在するのか」という疑念を持たなかったのでその問いに衝突していないし、そして付随する「〈ぼく〉という存在の特別さとはいかなるものか」という問いにも当たっていない。しかし読み進めていくと、「特別さ」を論じれば論じるほどそれは「一般性」に落とし込められていくという矛盾が現れ、結局「言語での言い換えを繰り返すよりほかない」という結論(?)に達している。とりあえず本文の結論についてはさておき、わたしの感想を書いておく。結果から述べると永井均の認識論的傾向(95p)とは真逆であり、非存在論的(本文に即して使う)立場にいると言わざるを得ない。
まず78pに自分が二人に分裂した際に、もう片方をどう「認識」するかという問題。少なくとも、それが「〈ぼく〉であるか、でないかは、ワカラナイ」というのがわたしの意見である。つまり、意識としての〈ぼく〉が2地点に存在して、それぞれの思考でそれぞれを〈ぼく〉としない、という前提にどうしても立つことができない。
「特別さの証明」からは少し離れるが、「攻殻機動隊」という作品はこの独我論的観点なしには見ることができない。登場人物たちは車を買い換えるようにボディ(身体)を換えることができ、脳(アニメ内では脳核と呼ぶ)に宿った意識(アニメ内ではゴースト)はそのままで、新しい肉体を得る。しかしそれは本当に連続性を伴った自己なのか?確認するすべはない。
まあ結局、「確認(認識)できるとしたら」という前提で論じている内容において、反駁することはない(できない)。なので、真逆の認識論にたった時に、どのようにしてその「特別さ」を得るかというのを考えてみるとこうである。他者を認識できている限り、その「特別さ」を論じることはできない。理由はなんでもいいのだが、例えば「論理は他者に向かって開かれている」ことは明白である。少なくとも、本書のように、本は他者が読むことを前提として書かれている。おそらく永井均としては「普遍化できない偶然性の問題」を「論理」立てることこそが〈哲学〉である、ということを言いたいのではないか、と思う。しかし、わたしの知る範囲ではそれは矛盾する。であればやはり(今の所は)前提を変えてみるしかないのである。
ないことの確認はできない。つまりそれを鑑賞する他者がいないことを確認できない位置に移動して、ようやく「特別さ」が浮上するのではないか。そしてそれはすなわち、99pで引用されているウィトゲンシュタインの一節に他ならない。結局は「理解されない」ということを目指さなければ、少なくとも「特別さ」を論じることにはならない、ということだろう。
(余談だが99p9lの永井の解説についてはまだ理解が追いついていない。いずれ何度か読み直してみよう)
ウィトゲンシュタインの本を読んだことはないが、ウィトゲンシュタインが友達をつくらず、本当に人里を離れてたった一人で暮らしていたという逸話を知っていて、勝手に親近感を寄せているのであるが、それはともかく彼の主題(命題)に「言語」があったというのは興味深い。
わたしは〈哲学〉についての興味をある時点である程度(完全にではないが)喪失した。それはそもそも、わたしが最初に向き合った命題が「他者」であり、自己ではなかったことなんかも関係していると思う。そして、「他者」を自分なりに〈哲学〉して18年くらいたったころに、自分なりの「納得」(102p)に到達してしまった。本来、〈哲学〉のみならず、人生だとか生きるだとかいうことは「満足」を永遠に避けることだと考えている。「得て」しまったらそこはゴールなのだ。ゴールっていうのは何にもない場所だ。しかし、「他者」に限っては、(とにかくわたしがそれを生きる上で最も苦手としているがゆえになおさら)結論を得てしまった。そしてわたしは〈哲学〉する目的(あるいは理由)を喪失したのだ。
しかし言語に関する関心が残った(に関する関心は重言だろうか)。本文でも「読み換えが無限になされる場所(98p)」について書かれているが、この点に関してわたしは非常に興味がある。物事の表現が、「言語分野」に大きく偏っている人間社会(面白いことに動物社会とは全く異なるらしい)において、その役割は異常なほどである。言語をどのように理解し、駆使するか(論理的思考など)、これを〈哲学〉とどう関連づけるか、というのも面白い命題である。例えば思考についていうと言語以外の役割が大きい。つまり「頭の中で考えたことを文章にする」というのは、その時点で「考えたこと」から抽出が起きているのである。おそらく永井のいう〈哲学〉は「考えたことまで全部」を含むはずであるから、抽出された、アウトプットされた結果のみを受け入れる(ざるを得ない)という現状には実は即していなかったりするのではないか。わたしは今の本業は言語(ちょっとだけ"学")なのであるが、こういった観点を与えられるのは、やはり読書(時には他者を自分の内側に入れてみること)もいいなあと思った。
なんにしても、とにかく、「無駄」が必要である(115~116p)という、それこそが本質であるという点にはその通りなのでその通りとしか言いようがないし、やはりそうであった、という安心を再び得る。結局資本主義的な世界にいると、いつ何時も、寝ても覚めても視界に入ったものから、耳に入ったものから、全てにおいてから常に四六時中見張られ、「資本主義的な価値観に即して生きているか」を刷り込みをされ続ける(そしてこれはきっと死ぬまで終わらない)。おそらく、これは想像でしかないが、哲学をやろうとアカデミーのなかに駆け込んで、その中で安息を得たとしても、その「刷り込み」から逃れることはできないのではないか。(数学者の望月先生のように「数学を生きる」ことができるレベルまで達せられていればもしかしたら、刷り込みから逃れられているのかもしれないが、これもまた憶測の域を出ない)
〈ぼく〉という特別さの有無を求めるより圧倒的に明快で単純で本質的なこと(無駄を生きるということは)なのに、たまたま、悲しいことに、全くもって信じられないほどの不運な状況であるがゆえに、それが通用しない(しづらい)世界にいるのだ。それを嘆くことは10年くらいやって飽きたが、時折(残念なことに恒常的な機会を得ていない)こうして「本質」に触れることで「正気」を取り戻すというのは大事な作業である。
さて本文の(前半部分の)感想は異常であるが、2点反駁したい箇所があるのでそれも書いておく。
1箇所目(17p,9l)
あっさりと「哲学し続ける内的必然性をなくした」などと書いてあるから吃驚仰天である。内的必然性と引き換えに得ることができるものほど「瑣末な」ものはない。これでは魂を売ったのと同義ではないか。何度か他の場所でも書いているが、「価値観を他者に阿るのは心臓を他者に預けているのと同じことだ」とわたしは思う。他者は自己の存在理由にはなり得ない。少し引用を用いるが「心の哲学まとめWiki」より、一文。「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」と考える(『〈魂〉に対する態度』p.123,p.187) 。
その原点である自己をなぜ切り売りできるのだろう?「欠陥を売り物にする方法で得た救い」なんていうチンケなものはさっさと捨てるべきである。世界とつながる唯一の原点=〈私〉をもっと大事にしなさい。
2箇所目(111p,11l)
この人は政治と政治的議論をなんだと考えているのだろう。そもそも、少なくとも望むと望まざると関わらずに(生まれた時からすでに資本主義社会に生きているように)、法治国家に生まれてしまったのだから、その国家の参画者である限り「政治を避けて」は生きれない。自ら国籍を捨て(例えばスノーデンのような)、亡命を図るなどの意図画策があれば別であるが、生きていれば必ず住民税がかかり、ものを買えば必ず消費税を払っているのと同様に、政治をせずに生きることはできない。酸素をなくして呼吸ができないのと同義だ。なのにこの人はまるで自分が政治、または政治的議論をしたことがないかのように宣う。しかし指摘したいのはそのアティテュードではなく、政治的議論の方法についてである。
「自分と同じ主張を別の論拠から擁護してくれる人は、最もたのもしい協力者だろう」とは一体、どうしたらこんな思想にたどり着けるのだろうか。圧倒的に間違っている。(これだから日本の左派は無様なんだ)
はっきり言っておくが、政治的議論はその主張の是非ではなく、その論拠にある。だから全く異なる人間(政治家)を支持していても、その論拠次第によっては戦友となりうるし、同様に全く同じ政治家を支持していても論拠によっては一線を画する必要があるのだ。当たり前の話である。タイムリーに話題にしたことだが、「マスクをつけないということは、マスクをつけたくないという人間を擁護する態度を含意しない」。これは明白で、結果(マスクをつけない)が同じだからと言って論拠が異なる場合、それは全くもって「たのもしい協力者」なんかではあり得ない。
5000字も書いてしまった。後半は気が向いたらかく。
新型コロナウイルスで暇だったので増田に記事をいくつか投稿した。
増田で投稿し、それらの記事たちが受けて、はてブで3桁ブクマ貰ったのでその経験と感想をまとめようと思う。
自分が書いた記事が受けてブクマが付いて色んなコメントが付くようになる。
自分の考えとは違う真逆のコメントもあったりするが、あまり気にならない。
ブクマのコメントで色々言っていても、記事を投稿した自分の方が大量にブクマされてる時点で影響力があって勝っている感じがある。
色々言う人間もいるが、そう思うんだったら増田にまとめればいいのにと思ってしまう。
世の中にアウトプットできてない時点でブクマのコメントで言っているその他大勢は好きなことを言っているように見えるが世の中に影響力を与えられない脆弱な何かに感じられた。
自分の書いた記事が受けるようになって数回経験するようになってくる。
実はもうこの頃には飽きてきている。
凡人の平凡なコメントが並ぶ。
ツマラナイ。
それが正直な感情になってきた。
はてブがいっぱい付いて日本全国に見てもらった、影響を与えた。
ブクマのコメントでもちゃんと文章を読めない短絡的な文盲がいる事に気付く。
日本語読めないのは大変そうだと溜息が出る。
これだったらブログやnoteに書いた方がマシかもしれないと思うようになってくる。
はてブを見ると自分の書いた増田記事よりもブクマ数が少ない、だけど良質な記事や重要な報道があったりする。
正直言ってこれはおかしいと思いはじめる。
どう考えても俺の書いた増田記事よりも、この記事の方がこの報道の方が世の中にとって意味がある内容なのにだ。
結局俺は増田で受けること、ブクマをいっぱいもらう事に価値を感じなくなった。
はてブのブクマカのバカどもは喜んで、自分が面白いと思った増田にブクマを付けていってるがその増田よりも価値がある情報や重要な報道にはたいしてブクマをつけない。
俺は気付いた。
はてブでブクマ数が多くてもその記事の有意義性を示してるわけではない。
俺ははてブと増田の滑稽さに気付いて、増田が受けているはてブとブクマカ共がどうしようもないバカがどうも多いようだとアホの勲章を捨てる事にした。
大衆に受けてるからといってその情報が真に価値があるものかは関係がない。