はてなキーワード: アウトプットとは
この前に東京から田舎に就職してカルチャーショックとホームシックで呪詛ぶちまけてた増田いたよね。私がアレ見て一番もったいないなって思ったのは、折角の田舎で給料も結構もらってるのに、車も持たずに広い良い部屋にも住まずに嘆いてたこと。いい部屋ならインドア趣味も捗るし、車があればアウトドア趣味だって良い。なんなら車なしの縛りプレイを楽しめるなら最強。田舎在住だって楽しみ方はいくらでもあるのだ。
もっと小さいとこでもいい。日々の料理を、自分が飢えないために強制されてる作業と思ってたらそりゃつまらない。幸いなことに、私は料理の楽しみ方を知っているので、独り身ながら毎日弁当や簡単な料理を作って、週1で手の込んだ料理してる。賞味期限直前食材限定で縛りプレイしてもいいぞ。最近は特売の野菜数種類から数日分の献立を作る縛りプレイがマイブーム。
もっとミクロでもいいぞ。ちょっと前から私はチョコミントが楽しめるようになった。これは歯磨き粉ではない。チョコ+ミントの食べ合わせなんだよ。
そして最近、仕事の楽しみ方をを覚えてしまったのだ。如何に手を抜いて良いアウトプットを出すか、というスコアアタックだ。毎月10時間くらいは残業ついてたが、先月ついに残業0を達成したぞ。褒めてくれ。
困ったことに、肝心の人生の楽しみ方がわからん。何が楽しいんだ人生って。ホームシック増田は帰るとこ、帰りたいところがあっていいな。私には無い。積極的に楽しみに行っても、せいぜいその行動が楽しいのであって、人生は楽しくない。本当に死ぬまでの暇つぶし。なら今死んでも変わらなくね?って思いながら日々ぐちゃぐちゃ気持ち悪く生きてる。何の縛り入れたら人生って楽しいんだ?それとも縛りが入りすぎてて楽しくないのか?わかんねー。助かるにはどうしたらいいんだ。どうやって生きたら良いんだ。
地元だけで結婚就職するしか選択肢が持てないことに納得している地元の人を少しバカにしながら、新卒で東京に出てきた
最初は小さなIT企業で、必死に努力して実績をつけて次はメガベンチャー
転職がわりとうまくいったのは今までの努力が見込まれたからだと思った
その後達成感が得られるベンチャーへ、ワクワクする目まぐるしい環境の中で自己成長しやすい仕事をしてきたと思う
その時の同僚や勉強会などで出会ったコミュニティの仲間たちとそれなりに楽しく成長していけたとおもう
平日は仕事をし、夜は仕事や学習、休みの日は同僚とオンラインゲームをするなどして過ごした
メリハリをつけるために意図的に仕事と休みを分けたのだが、休みの時間に何をしたらいいのかわからなかった
料理やクリエイティブなど趣味でアウトプットがでてコミュニティにいる知人達をみて、自分には何もないことに気づいてしまった
新卒のときは必死に食らいついていかなければいかなきゃいけなかったが、今ではそうでもない。贅沢せず自分一人生きていくには十分足りている給与をもらえている
仕事が苦痛なわけでもないが、心が充足する時間などでは全くない
なんのために働いてるのか突然、本当に突然にしてわからなくなってしまった
何が辛いというわけでもないが、30年生きて努力をして社会に馴染んだところで自分が誰なのかわからなくなってしまったのがただ悲しい
コロナのタイミングで動画配信をしてうまくいってる知人や、音楽活動に費やしている知人、夫婦で都心部から郊外へ引っ越し暮らしている人もいる
それぞれ生活のスタイルを変えて「自分の時間」を大切にしているというのに、自分は何もする気が起きない
何をしても楽しくない
ここ数週間買い物以外で外出していない自分の部屋を見て思う
何者にもなれてないのになんのために東京に出てきたのか
といっても、子どものころに本屋で間違って買った同人誌がエロ同人誌でショックを受け、高校時代に美術部に入ったら同級生がサークル活動をしていてそこそこ売れっ子だったようで放課後に原稿を手伝ったり、妹が買った同人誌を読んだことはある、それにこの1か月、二次創作を見る専用のツイッターアカウントを取ったから一般人よりは単語がわかるしなじんでいるほうだとは思う。
増田のエントリを読んで気持ちがわかるような気持ちになった一方、
増田は同人世界に参加している人の気持ちに寄り添う発想がないんだなと思いもした。
>本当なら「利用」と呼びたいくらいだ。後者、『コミュニケーション同人』のオタクは交流の機会を確保するためにイベントに参加し続けなければならない。
私は二次創作に否定的な人間ではあるが(法的にグレーなのはもちろん、他人の作品を用いた自●行為にしか思えない、それは作品に対する失敬ではないのか?)、
同時に好きだからこそ、自分の好きなように作品を改変したい気持ちがわかりもするようになった。
今はまっているのは鬼滅の刃で、ご存じない方のためにいうとこの世界は残酷な運命が延々と描かれる。キャラはだいたい不遇である。たまに幸せな瞬間があったかと思うと、絶望の底に叩き落されるための前フリにすぎなかったりする。
そして原作がすでに完結しているので、もっと見たいという飢えを満たす手段、幸せな世界線を少しは味わせてくれという渇望を満たす手段が二次創作にしかない。
今回のツイッターアカウント取得で私は、二次創作だからこそ楽しめる世界というのもあるということを知った。
そしてそのツイッター世界では、自分に完全に刺さるわけではないが、「残酷な運命をたどったキャラ」を使って心を慰めてくれるようなほのぼの展開の小話を描いてくれる人間が山ほどいる。
好きになった世界だからこそ、深く感情移入するようになったキャラクターだからこそ、残酷なまま終わられるとその分苦しい気持ちだけが残る。
そういう飢えを満たしてくれる供給者に対して感謝したり、自分の琴線に触れたとか、その二次創作を見て自分もすさんだ心が癒された、そう伝えるのは「コミュニケーションのための利用」ではない人も多いと思う。そういう人もいるだろうと思えはするが…。
原作に寄り添った解釈とはなんだろうか?真摯な同人活動とはなんだろうか?
私もキャラ崩壊と言われる単にそのキャラを用いただけのエロには辟易するタイプだ。原作で描かれなかった隙間を埋めてくれる二次創作が好きだ。私が見たかったのは原作だからだ。
作り手が自分の欲求を吐き出した形だ。「野生の公式」レベルの人も、単なるポルノしか描かない人も、同じだ。
皆、作者ほどは創作しきるだけの力がない。だから他人の作品を借りる。
しかし、それでも各々アウトプットできる何らかの心の熱さは持っていて、それを吐き出している。
絵を描ける人は小説も書けると思うが、漫画を選ぶ人はそれがその人の心の形なのだ。
その欲求の形や熱量は人によってさまざまなだけで、それはその本人たちが悪いわけではない。
背が低い人に「背が低いからお前は人間として真摯でない」というのは変だろう。
Switchのヒューマンリソースマシーンっていうゲーム知ってる?
https://note.com/keigox68000/n/nb3b536465f00
わたしはUI/UXデザイナーなんだけど、大学のとににプログラミングの授業があったりしたのでちょっとだけわかる(ほんとにほんとにほんとにちょっとだけ)
最近デートしてるエンジニアと家でゲームして遊んでたんだけど、ヒューマンリソースマシーンを買ったままやってないことに気づいて一緒にやった。
中盤まで自力で解いて、2.3個教えてもらいながら解いて(ここは、最高だったな。その人がいつもの何億倍も知的に見えた)、そのあとはその人が一人で問いてた。
わたしからしたら全てのエンジニアはわたしにできないことをよくわからない感じでやってるすごい人!みたいなイメージだったんだけど、中盤ちょっと行ったところで、その人がクリアできなくなったのを見て、全然できないじゃん!!!!ってなった。
クリアできてなかったのは、
二つの数字を比べて、どちらも正or負の数字の場合0を、異なる数字の場合1をアウトプットに出すっていう問題。
ソートのアルゴリズム思いつかないから解けないとかならわかるけどさぁ
あとは、普段は問題に出てくるようなアルゴリズムがあらかじめ言語ごとに用意されてるとかもあるだろうけどさ、
でもこの上に書いた問題解けないってエンジニアに重要な考える力弱くない?って思った
すなわち仕事の能力低い人なのかなって思って、めちゃくちゃ優しいけど、めちゃくちゃ萎えた🤷♀️
追加
これについてはどっちもあるなぁと思った。
企業はあくまで営利団体であって新人教育を行う機関ではないけれど、自分のそしてチームのアウトプットを増やすには人を育てないといけないんだよね。
「世間はお前らのお母さんではない」という厳しさと「俺たちはチームだ!」という優しさの両方が必要なんだよね。
結局、啐啄同機というのかな、どちらにもその気持ちがないとダメってことなんだろうけどね。
糞なコミットをガンガン出したり、ちょっと調べればわかるような質問をガンガンしたりして、先輩の時間を削っていくというのも問題だけど、自分でやろうとしすぎちゃって聞けば10分でできることに10日かけたり、場合によっては匙を投げるのも問題だとも思う。
極端な話、先輩が教えることをサボって後輩の業績が下がったり最悪辞めたとしても、先輩が自分の業務で高い業績をあげていれば評価されて昇進するでしょう。
あえて極論を出したんだろうけれど、これはさすがに違うかな。一人採用するのはそれなりに手間とお金がかかる。
それをカバーし、後輩を育てれば出せたであろう業績も含めて一人でカバーするというのはさすがに難しいんじゃないかな。
さらに、後輩が嫌な思いをして辞めたとなると、就活市場での会社の評判はさすがに下がるよね。
その辺のフォローアップも含めれば残念な先輩の悪影響は計り知れない。
二次創作=同人誌・コミケの話になりがちだけど、二次創作ってもっと裾野が広いものだと思う。
作品ファンが集まるお絵かき掲示板にキャラクターのイラストを投稿したら二次創作
ストーリーの裏で実はこういう事があったのでは?って文章書いても二次創作
創作という形で感想をアウトプットしているだけに過ぎないと思っている
そういうのを同人文化=お金を払って売り買いする事に押し込めて
一律にグレーだ真っ黒だの話している事にとても違和感
同人誌は赤字だから金銭のやり取りに値しないという意見については詭弁でしょう
赤字だからなんなの?自分の作品に価値を払ってほしいなら二次創作じゃなくて一次創作でやりなよって思う
装丁に凝るのも書店に卸すのも電子書籍販売も一次創作なら好きに出来るでしょ
二次創作でそれをやる事に拘る理由って何?自分の財布を傷めず趣味やりたいちやほやされたい以外に考えつかない
大昔インターネットが限られた人のもので公開するにも閲覧するにもコストがかかり
結論:生きづらさは
A:能力の欠如
と
B:認知の歪み
の2種に大別でき、どちらも構造的に本質的な解決が非常に困難であるため生きづらさが継続してしまう。
Aは失敗が定型・定常化しやすいため実は比較的、サポートしやすい。
Bは失敗が定型・定常化されづらい(うまくいくときといかない時があったり、環境や状況で都度変則的なバグを出す)ため、サポートしにくく、解決にとてつもない時間とリソースがかかる。
ーーー
1:会社勤めも割と苦じゃなく年収も人並みにあるし、2:恋愛のパートナーや親しい友人を作るのもわりと容易にできる。
で、人生で「生きづらい(と自認している)人」からその2つについて相談を受けるので答えているが解決に至らない。
自分は再現性があると考えられる情報を伝えるのが個人的に好きなので一生懸命伝えて行動してもらうが、10年レベルで支援しても解決しない。
どうやら生きづらい人は「生きづらさを固定化するなんらかの要因」を抱えているようだ、と色々な人を見て考えていくうちに2種類の生きづらさに大別できると考えるようになった。
一つ目は、
A:能力の欠如
先天的もしくは後天的に、身体or精神のうち何らかの能力が欠如している。どちらも健常者であればある程度訓練で向上させられるが、伸びが悪いか全く伸びないため生きづらさが固定化される。
解決策としては欠如した能力でも十分か、もしくは評価の対象にならない領域を探すこと。
身体欠損があるならデスクワークにするとか、病的に忘れっぽくても一切気にしないパートナーを探す、など。
2種類の生きづらさのうち第三者からでも割と容易に認識しやすく、失敗も定型・定常化しやすいため実は比較的、サポートしやすい方である。
B:認知の歪み
幼少期の家庭環境によって健康的な愛情を与えられず、ゆがんだ形でしか愛情を受け取れない、与えられないため、良い人間関係を形成できない状態だ。
例えば両親からネグレクトされ、非常に不安な状態で幼少期を過ごすと、不安であることが心のニュートラルポジションになってしまう。
劣悪な環境で生き延びるために「「あんたなんかいない方がいい、さっさといなくなれ」という言葉を通して愛を確かめようとする」ような、いびつなインプットアウトプットを何万回と繰り返し、ゆがんだ思考回路を獲得しており、大人になってもインプットとアウトプットがゆがんだフィルターを通して行われるため、どれだけ周囲から適切な愛情や改善策を与えられてもそれをうまく取り入れたり、行動に移すことができないため生きづらさが固定化されてしまう。幸運にも結婚して子供ができても、「愛されること=ネグレクトすること」という前提があるため子供に親にされたことと同じことをしてしまいまた生きづらくなる。(「自分の子供を愛しているからネグレクトしない」を実行すると、「自分は愛されていなかったらネグレクトされていた」を受け入れなくてはならず、強烈な葛藤が生まれる)
もし、ゆがんだフィルターをかいくぐって正しいインプットを認識したとしても、不安でない状態から逸脱すると非常に疲れたり、より強度の高い不安を感じてしまうため、不安が継続できる状態を維持しようと(意識的、無意識的のどちらかかあるいは両方で)行動してしまう。
この認知の歪みパターンは、まず第三者から認識しにくい。一緒に仕事をしたり時間を過ごすうちに「あれ?」が重なっていきフェードアウトした方がよい人扱いされていく。
インプットとアウトプットが複雑に歪んでいるため失敗が定型・定常化されづらい(うまくいくときといかない時があったり、環境や状況で都度変則的なバグを出す)ため、サポートしにくい。
本人もいびつな思考回路を変えたいと思ってはいるが、仮に本質的な解決策が見出せたとしても、それは心のニュートラルポジションを変えるということになり相当の精神的な痛みが必要で、本人が【生きながらにして】生まれ変わるくらいの覚悟が必要である。
ーー
実際にはAとBの中に無数の差分があって、さらにAはBを誘引しやすく、見分けがつきにくい。
生きづらくない人が「生きづらい人」ともし関わりたい、関わらざるをえない状況にあるとしたら、まずAとBのどちらの生きづらさかを考えてみてほしい。
Aの場合は失敗が定型化されやすいという特徴があるため、それをシステムで自動化したり、別の者に担当させたり、評価の対象に入れないことでするっと解決できたりする。
問題はBの場合で、こちらは解決策が見出しにくく、生きづらくない人からすると「何でこんな簡単なことができない?」と思い何度も矯正しようと試みるが、当事者からすると強烈な負荷になっており、心のニュートラルポジションの変更を迫られるため全人格をかけて反抗してくるので、最悪取り返しがつかない関係になってしまったりする。
(心のニュートラルポジションを変える辛さを例えるなら、あなたが「今日からあなたが出会う初対面の人全員の顔面を、全力で殴らなくてはならない」という生き方を受け入れる、くらいの難易度だと考えるとわかりやすい)
なので「これはBだな」と思ったら、解決することはいったん【保留】すること。本人がいちばん悩んでいるものなので、本人にとって向き合うときがきたら勝手に解決される。
どうしても解決したくなったら、「人にはそれぞれ、自分自身を救う力があるのだ。成長のチャンスを取り上げてはいけない」と自分に言い聞かせて、態度を保留するように。
ーー
「いや、保留してたら仕事(恋人)として破綻するんだよ!!今すぐ何とかする方法を教えろや!!」とお考えになったあなたは、残念ですがあなたから関係を切り離すか、その権限がないなら相手の過失によって向こうが離れていく日を待つしかありません。この構造をなんとなく思い返していただいて、その人の怠慢だけが原因ではないのだ、彼(彼女)はこの社会の病理を背負って必死に生きているのだ、と思って怒りや悲しみを和らげつつ、なんとかして保留のリソースを確保してもらえたらと思います。
流石にこの内容は違和感しかなかった。なんだか頭でっかちで考えた日本から一切出たことのない人が書いたんだろうなって感じ。
「差別排除には覚悟がいる」が主題なのかもしれないが、海外だとそもそも差別がナチュラルにされていて
当然そこに根拠があるのだが、それだと本当に困るので落としどころを探しながら現在進行形で差別排除を声高に訴えている。
BLMで浮き上がったような、ヌルイ考え方の「ファッション差別反対者」も当然いるが、性犯罪者にはちゃんと位置情報が
タグ付けされているし、ゆるふわ差別反対者などの首根っこは押さえつけれれるぐらいに法制度はしっかり組まれている。
高度スキル移住者としては日本で伝わっているような「ゆるふわ差別反対活動のTV報道」みたいなものではなく、
ソリッドに議論された【法制度】に向き合うことになるので、ヌルイファッション差別反対とかとは違う世界をお伝えする。
統計的に優位にでている事象を無視してくれるほど甘くはない。不動産を探すとき人種で差別してくるし
(他の要素で優位にたっていないとそうなる)、職探しでもアジア人はまじめという要素は(知っているひとは)見てもらえる。
移民に出すビザにもこれまでの国同士の関係性、移住者の傾向ややらかし具合で区別の条件が盛り込まれている。
住むエリアに黒人が多いエリアはナチュラルに家賃が下がるので、治安が悪くなるし、ゴミが多かったりする。
それが差別になっているというより、完全に体験値として織り込まれているし、実際そういうアウトプットとして現れる。
日本ほど、生まれた時からほとんど死ぬまで、日本人にのみ囲まれているという状態は定常的に存在しない。
アメリカで年齢による差別がないとかいっているが、業務経歴みれば大体何歳かわかる
逆にキッズでそういうステレオタイプが生まれない状態で、小学校であった他の人種の仲の良い友達なんかが
いると、差別なんてない本当に神々しいまでのフラットな付き合いが生まれている。そういう融合というのもしながら
差別と融合を繰り返していると思う。
基本日本とは全く違う、どんな学校にいきどこに住み、どこで就職するかそのあらゆる場面で人種
国籍、色んな「緩やかな違い、差別」を受け続けるのが海外なのだ。
誰かが誰かを差別してはいけないでは全くすまないぐらいにそういうものがあるので、そのアファーマティブ
なアクションとして「差別をしない」というアクションも逆に常に意識するのが海外なのだ。
そして、個人的には日本でよくある移民問題みたいなのが頭でっかちに思えるぐらい、数世代前からその
問題を「体感」として織り込みながら生きているのが欧米だと思う。問題が出ながらその問題をなんとか
移民がいるかいらないかなんていう問題はなし崩し的に議論は終わってしまい、「差別があるかないか」なんて
問題も議論しているうちにどんどん個別具体的な解決策を見出しながら次のフェーズに行っているそんな感じだ。
そのために、法律もころころ変わる。
シェアハウスして横に住んでいる人が数か月ごとに違う人種になるような状態で彼らとうまくやるには
差別意識は持っていても、出してはいけない。当たり前だ。仲良くやるのが一番というのは誰もが
分かることだ。
つまり、常に「差別をされながら、差別をしないためにどうするか」を考え続けている。
また、そういうのが面倒な人は結局、高級なエリアに引っ越して、早々に白人どうしでよろしくやっている。
このあたりは国や街、いろんなパラメーターによっても相当に変わってくる。
しかし、基本的に「XX人」は「YY」な特性を持っているというステレオタイプは実際にその通りに発動することを体験として知っているし、
常々そういう風に考えることは良くないなと思いながら実際にはそういう形で発動してしまうやりきれなさをギャグにしたり、色々解釈しながら
法改正、ルール改正をしながら差別を生ものとして向き合っている生きているのが海外なのだ。
日本が悪いとかダイバースではないとか言いたいわけではないが、基本的に、地続きでない国で
元レスでいっている「原理主義者によるテロが頻繁に起きている宗教の信者の入国を拒否したり、彼らを集中的にスクリーニングすれば、多くの人がテロから救われるだろう。」
はまるで今されていないような言い方だが、アメリカでは滅茶苦茶されている。
そうでもない人にまでトランプがビザを発行しなくなったり生活の生殺与奪にまで以前の同胞のやらかしが思いっきり差別として現在進行形で影を落している。
うっかりイスラエルに行ってしまって、パスポートにイスラエルのスタンプがあれば
中東の多くの国には入れない。移民のビザを取るときもパスポートのスタンプ数はチェックされる。
黒人の犯罪者は多いことは当然知られているので、当然多めにチェックされるが、そもそもそういった人の住んでいるエリア
は固定されており、犯罪率も高いので、白人50%、黒人50%のエリアがあって、そこで1:9でチェックが黒人で厳しいなんていう
アホどもがAIエーアイって騒ぎ出す前はビッグデータビッグデータって騒いでたんだけどその時くらいから個人の趣味に合わせて出すコンテンツをカスタマイズすることはすごく持て囃されてたよな。例えば購買履歴からその人が欲しいだろうと思っている商品をサジェストするだとか、その人が興味ありそうなニュースをサジェストするだとかさ。ターゲティング広告なんてのもこれの範疇だよな。これって裏でやってんのはまあ色々やり方はあって一概には言えないのだが、その人の属性を推測してその属性が興味を持ちがちなのをアウトプットしているという実装も多くあるわけ。これって「お前は低学歴で女で高齢だからこんなのに興味あるんだろう」っていうのを機械的にやってるわけ。でも最近は人間が同じことやったら大炎上するでしょう。なんか面白いよな。
私と同世代で「いや、これどう見ても『スレイヤーズ』だろ!」という小説を書いたことのある人は少なくないと思う。
幼い私は、自分なりに世界を考え、私のスレイヤーズを書いていた。
それをきっかけに小説を書くことの楽しさを覚えた。(例えモロにスレイヤーズだったとしても)
今の私は二次創作をしている。
ただ、近頃話題の『同人女の感情(私のジャンルに「神」がいます)』に出てくる彼女たちとはまた違った感情からだ。
彼女たちの二次創作に対する動機が「Aという作品・キャラクターが好き→二次創作を書く」というものだとすると、
私の場合は「Bという作品を見る→自分もこういう作品が書きたい!→Aの二次創作をする」になっている。
(もちろんAは大好きでめちゃくちゃハマっているのは事実だけど。)
その時々に見た、読んだ、聴いた作品のアウトプットを二次創作でしているのか。
私の二次創作を読めばそのとき何にハマっていたのかがわかるだろう。
○○○○さんみたいな小説を書きたい!文体になりたい!ミステリ風にしたいSF風にしたい自殺する女子高生を出したい宗教団体を出したいバカっぽいけど核心をついてくる売春婦を出したいetc
出した。
二次創作では読者は既にキャラクターに愛着を持っている。その世界を知っている。
いくら書いても全然私の解釈と一致しないよ!どうしてみんな自分の解釈通りに書けるの?書けていると思えるの?それが他人にも伝わっていると思えるの?その力が自分にあると思えるの?
いや、そりゃそうだ。こういう書き方をしていればキャラクターも物語から浮いてしまうだろう。
キャラクターや関係性の解釈より、私には優先しているものがあったのだ。私が書きたかったものはなんだよ。
そんなふうに納得してしまうと、“いつものように”二次創作を書こうとして書けなくなった。
でもこれでよかった。私はいろいろなものに対して失礼だったかもしれない。これからは読むの専門でいようと思う。(なんてきっぱり断ち切れるだろうか)
それでもやっぱり、何かに触れるたび、「あ~私もああいう作品書いて世に出してみたい~」という、幼い子供の夢のような思いは消えないのである。
努力不足でSESにしか行けなかったというツイートが話題になっていますね。
件の人に限らず、スクール卒業者が就職できないやら、採用したけど使えなかったとかという話をよく聞くので、そんな悲しいミスマッチを減らし、この業界を目指す人が希望と勝算をもってチャレンジできるようになることを願って思っていることを書いてみようと思いました。
業界に入って十数年、メガベンチャーで働きGAFAの関連企業から1X00万円のオファーを貰うくらいのスキルと経験はある。もちろん開発のスペシャリストとして。
新宿の雑居ビルにオフィスのある中国人が経営するSES会社からキャリアをスタート。最初の会社は雇用保険も払ってなかった。
新卒または第二新卒、文系または数学が苦手、プログラミング未経験者でスクールやサロンに入ってプログラミングを身につけて働きたいと思ってるひと。
理系やプログラミング得意な人は、学生ならインターン、働いてる人はなんでも良いからスクリプトで業務改善すれば実務経験になり、そこからならどうとでもなるのでこの記事は参考にする必要なし。
ふたこぶラクダ理論というものがあります。(https://ameblo.jp/bradnine/entry-11911830387.html)
要約すると、出来る人と出来ない人がいて、何が要因なのかわかっていないし、出来ない人への教え方も確立していないとのことです。
学び始めてすぐに判断を下す必要はないですが、スクールのカリキュラムを終える頃には周りとの成長スピードの差で自然に理解できるかと思います。
しかし、もし適正がなかったとしても悲観するのはまだ早いです。
プラグラミングの適性がない人にもこの業界にはポジションがある。QA、PdM、PjM、UIデザイナー、UXデザイナー、カスタマーサクセス、営業、採用、などなどいろいろあります。
なにはともあれ3割くらいは可能性があって外れても選択肢があるんですからポジティブに受け止めましょう。
エンジニアの生産性の差は10倍や100倍にもなると言う話は聞いたこことがあるかと思います、底辺と天才を比べた極端な話だと思いますよね?実はこれありふれた話です。超有名ベンチャーで難しい採用試験を潜り抜けて即戦力採用された人たちの中でも100倍の差があることもあります。それも瞬間風速的な話ではなく、年間の変更コード行数を計測してそうなります。10倍の差はもっとありふれた話です。
さてここまではプラス面だけの話ですが、マイナス面も考える必要があります。
あなたが無事現場に入ってわからないことを教えてもらう必要があるとします。面倒見のいい先輩がなんでも聞いて良いよと言ってくれたので、質問をして、3時間先輩の時間を使ってしまいました。先輩は100倍エンジニアだったとすると、その3時間であなたの二ヶ月分の作業量が消し飛んだ計算になります。あなたはそれに見合った成長をして恩返しできますか?
ちなみにそれくらい能力差があっても給与はあまりかわりません。良くて倍くらい。同じ給与ってこともまぁよくある話で、多重下請の現場では逆転してることも珍しくはありません。
そろそろ本題に近づいてきました。
ここまでの話を踏まえてどうするべきだと思いますか?
特別なことでも難しいことでもなく、いたってシンプルです。それは「足を引っ張らない」ことです。大抵の現場では初心者に毛が生えたような人にアウトプットを期待していません。ある程度の教育期間をとった後で普通の人の半分でもアウトプットを出してくれたら恩の字です。
あなたが天才でなければ、まずは自分でアウトプットを出すのは一旦諦めてください。先輩の時間を増やしましょう。例えば動作確認や他チームやステイクホルダーへの連絡、文書作成など、100倍エンジニアでも生産性が変わらない業務を肩代わりして先輩が開発にかけられる正味の時間を増やしましょう。これが現段階では正しいチームワークです。100倍エンジニアの時間を奪って質問するくらいなら、10倍の時間をかけて一人で調べた方が、10倍生産性が高くなります。聞くとしても調べた上での答え合わせと間違っていた時のヒントだけにしましょう。個人の学習効率をだけみてもそっちのほうが効率いいです。理解できない人には独学大全がオススメです。
ろくに動作確認をしていない可読性の低いコードをプルリクに出して、レビュワーになった100倍エンジニアが仕様確認したりローカルで動作確認したり、あまつさえバグを見つけてしまうなど、最悪です。
初心者だから間違えてもしょうがないというのは正論です。しかし、プロジェクトの時間とコストを考慮すれば逆の結論になります。あなたのアウトプットが数倍早くなろうが遅くなろうがプロジェクトには影響がないのです。学習時間とリスクを考慮してそういうふうにタスクを組んでいます。数倍時間をかけて慎重にやって良く、マイナスを生まない事を考えれば、初心者こそ絶対にバグを出してはいけないという結論になります。0は無理でもそういう気持ちでやりましょう。
ここまでは現場に入ってからの話でした。皆さんは現場に入る方法を知りたいと思いますが、もう少し辛抱してください。敵を知り己を知れば百戦危うからずの故事もあります。もう少し敵を知ってから戦術を立てましょう。
デスマーチと呼ばれているものには2種類あります。一つは定義通りのデスマーチ (https://ja.m.wikipedia.org/wiki/デスマーチ )。もう一つはデスマーチの要件を満たさないが、関係者の能力不足によってデスマーチの様相を呈しているもの。実は前者はとても希少で、世の中のきついプロジェクトというのはほとんど後者だと考えてください。
様々な点で両者は異なります。
真のデスマーチはほとんどの場合技術的な問題ではなく政治的な問題で発生します。そのため予算は潤沢ではないが常識的にはあり、技術は枯れてリスクが少なく確かな効果が確認されているものが採用されていることが多いです。工学的なアプローチで生産性を向上する仕組みなどが取り入れられていることもあります。管理プロセスも機能しておりコンプライアンス違反も少ない傾向があります。政治的な理由でプロジェクトが延長されている都合で、PMがプロジェクトを終わらせたいと思っていても、予算がある限り新しい要件が発生しつづけて終わらないという状況も発生しえます。こちらのタイプに参加するメリットとしては、よく管理運営されたプロジェクトを体験できる点、ドキュメントがしっかりしている点、低スキルの人が参加することを考慮して仕組み化されているのでキャッチアップにかかる時間が低いなどがあります。
なんちゃってデスマーチは技術力や要件定義能力、集団の合意形成能力などの不足によって起こります。PMやステイクホルダーは赤字を垂れ流すプロジェクトを早く終わらせたいと思っているので多少納期が伸びても必ず終わります。プロジェクトを終わらせるための提案であれば下からの意見でも柔軟に対応してくれることもあります。新しい技術と古い技術が混在していたり、新しい技術を採用しているのに使いこなしていないこともあります。CI/CDや自動テストが無い又は不十分な現場も多いです。こちらのメリットとしてはスタンダートが低いのでキャッチアップ戦力になれるまでの時間が短かったり、小さな労力で大きな生産性改善ができ職務経歴書に書ける良いエピソードが作りやすいといったことが挙げられます。
また両者には人の出入りが激しいという共通点があります。そのためドキュメントの有無にかかわらず新しい人が参加し、教育や環境構築を行いタスクを振って実務を行うという、一連の受入業務に現場の担当者が慣れています。またこれは両者それぞれのところで触れましたが、理由はそれぞれ違いますがキャッチアップして戦力になるまでの時間は小さいという共通点があります。
デスマーチでは残業が多いと思われていますが、新人は戦力として期待していないので残業する必要はないです。マネージャーからすると、無駄な残業代は払いたくないし事故って仕事を増やすリスクも嫌なので、1秒たりとも残業してほしくありません。早く帰ってリフレッシュするなり自習するなりしてプロジェクトのリスクを減らしてください。
そのため、デスマーチに入って残業というのは底辺層にとってはほとんどの場合杞憂です。テスト要員としてでも残業を頼まれたら戦力に数えられている事を喜んでも良いと思います。
翻って比較対照としてみなさんに人気のあるWeb系企業を考えてみましょう。GoogleやNetflixとまではいかなくても、ほとんどの会社ではそれらを模倣しています。共通点としてはだいたい自走・自律できることが求められます。辞める人は少ないので比較的受け入れ体制は整っていないケースが多いです。企業によってスキルレベルはピンキリですが、周りとのスキル差が大きくなるのでキャッチアップにかかる労力と時間は大きくなります。開発プロセスは整えられているため、あなたが工夫して改善できる余地は少ないです。
ここであなたが採用する立場になったと想像してください。「最新の技術スタックで言われた作業をやっていました。ついていくのがやっとで自分で工夫した点は特にないです。勉強はがんばりました」という人と、「技術スタックが古かったのですがXXを導入してXXをXX程改善できました」という人がいたとして、どちらが戦力になりそうでしょう?どちらを採用したいですか?
ここまで書いたことを理解して謙虚に面接を受ければそう悪い結果にはならないと思います。
現状を変えたくても何も出てこないのは、新しいものをアウトプットするだけのインプットが足りないからだ
自分の中の憎しみが膨張するのは、感情を生み出すばっかりでどこにも吐き出していないからだ
まず、新しい何かを生み出すのは一旦諦めて、ひたすらインプットに徹しろ
自分の内部だけでは決して生まれない、外部からの刺激を取り入れろ
そして、生まれた憎しみを思考の中だけでグルグル回すのはやめろ、その憎しみをこそアウトプットしろ
文字を書くのが嫌いじゃないなら文字に起こせ、デジタルでもアナログでもいい、オンラインでもオフラインでもいい
恋愛工学徒と勝部元気系の女性に理解ある男性って結局これ同根なんだよな。「相手に喜ばれそうなこと」を考えて選択肢ポチーっていう相手を人間とは思ってない行動が取れる人間
とはいえ自分もそのケの人間なので実際よくわかる。そもそも恋愛に限らず人間関係はすべて人間の行動の「エミュレーション」してる気分だ。親の葬式での振る舞いすら「喪主ならこういう表情をするんだろうなー」「こういうこと言うと親戚にウケいいんだろうなー」って思ってやってた。悲しいは悲しいんだけど、自分にとって自然なアウトプットは他人にとってそうではなかったりするので注意してる
ただ自分の場合、恋愛にまでそういうスタンスでいるのはしんどそうすぎるし、そこまでやってモテたいというバイタリティがない。でも、その他の社会生活は大体それでやっつけてる
世の中にはプログラマー35歳定年説というものがあった。昔からそんなのはないという人と、あるという人がいた。40代も半ばになったときに「あぁ、これが35再定年説の根拠か」というものがなんかちらほら見えるようになってきたので書いてみようと思った。
世の中にはものすごいプログラマーというのはやっぱりいる。なんなら死ぬまでプログラミング書いていられるという人たちもいる(ブラック的な意味ではなく)。そんな彼らからしたらプログラマー35再定年説とか意味がわからない都市伝説にしか映らないだろう。
だが、普通に職業プログラマとして生きている俺のような人からすると、この35歳定年説はかなりの真実味を帯びている。
だが、そんな俺でも40代半ばまで延命できたのはやはり技術革新のおかげかもしれないが、結局平均寿命が伸びただけとも言えるだろう。
まず、技術に対する姿勢が変わる。正直言うとプログラミングとかもうしたくなくなる。というか、そもそも一生プログラミングを仕事にしたいと思う最初の頃は好きだと思っていたが、仕事にしてしばらく経ったら大して好きでもなかったな、と思うようになる。
大して好きでもないことを仕事にし続ける体力はやはり年とともになくなり、体力がなくなった分「自分が本質的にしたいと思うこと」が見えてくる。そしてそれはプログラミングではないため、ギャップがきつくなっていく。
おそらく、この辺が35歳くらいのあたりに来るのではないだろうか。35歳定年説と言ったら35歳ピッタリしか想像できないのが離散数学の世界で生きているプログラマらしいといえばらしいが。
そんな感じでやってても、20年もやればそれなりにスキルも身につく。さすがにGoogleの一線で働くような大天才たちと渡り合うことはできないが、もしかしたらGoogleの片隅で働ける程度のスキルはあるかもしれないが、正直もういいっす、っていう気持ちのほうが大きくなる。
次に、自分がどうにか身につけてきた知見というものがなかなか広まらない。コンセンサスが取れない、という状況にも苦しくなってくる。
自分がやってきたプロジェクトでこういうことをやったらうまく働いた、というような知見は共有するが、なかなか価値観が共有できないことに気がつく。若いうちは「だったら俺が全部やりますわ」くらいの気合を見せられたものだが、年を取ってくると「あ、そうですか・・・」となってしまう。純粋に体力も気力もなくなっていく。
プログラミングをやっているだけありみんな論理的な思考が大変上手だ。「皆さんホント論理的でいはりますなぁ」と言いたくなるわけだが、悲しいことに自分たちの振りかざす論理が、単なる正論、飛躍、極論、屁理屈、と言ったものであることに気づけない人も結構多い。こういうのを各個撃破するのも疲れる。
これからプログラミングを仕事にする人たちに言っておきたいことがある。もしこの世界で長く働きたい、定年までコード書いていたい、と思うなら、常に勉強をしなくてはならない。もしあなたがFラン出ているなら、他の人の倍努力しなくてはならない。できないならそこそこで転職したほうがいい。この世界にいるといかに若いうちの勉強が大事だったかを日々痛感する。
実務の上での俺の感じていることを書く。DDDだとかクリーンアーキテクチャだとかも大事だがもっとそれ以前に俺が根源的に重要だと考えているポイントだ。この辺をないがしろにしたらDDDもクリーンアーキテクチャも絶対に崩壊する。
まず、心得てほしいのはどんなにすごいプログラマでも意図の通じないコードは本当の意味で直せないということだ。
まず、引数チェック、状態チェックは必ずやれ。コードが語る、というようなことを言ってやらないやつが昔は多かったが、今もいるんだろうか。悲惨なバグやメンテナンス性の低下はそういった自分の意図の表明を横着したコードから起こり始める。「俺はこれをやる、だからこの機能を呼び出すならこういう状態にした上でこういう情報を渡せ、じゃないならやらない」とはっきり言え。もしこの辺を冗長だと考える同僚がいるならもう辞めたほうがいい。
引数チェックや状態チェックのコードで画面の半分が埋まったならそのコードは設計がおかしい。一旦手を止めてよく考えろ。一つの機能を動かすのにそんなに引数がいるのか、そんなにチェックする状態が多いのか、そしてそれらは本当に必要か検討しろ。
テストコードは絶対に書け。テストコードが書けない技術は絶対に使うな。意味のあるテストが書けないならやめたほうがいいという輩もいるが、とにかく意味があろうとなかろうと書け。引数にこれを入れたらこうなる、こういう状態でこういう事したらこうなる、というお前の意図はとにかく示せるだけ示せ。
だいたいこの辺を横着したやつは翌年酷く後悔するか、そこのメンテを担当した同僚を攻撃している。
コードが書けなくても大丈夫、という会社は、コードが書けたほうが有利な会社ではなく、本当にコードを書かない会社だというこは肝に銘じておけ。身につくスキルはEXCELの方眼紙を最低限の手数で作れるようになることか、本気でやればビジネスを理解できるかもしれないが、お前の技術者としてのキャリアはそこで止まる。
仮に憧れのスーパーハッカーがいる会社を目指しているとして、彼らがそこでどう働いているか、なにが泥臭いのかを想像できない、聞くことができないならやめておけ。浮かれ過ぎだ。
仮にGithubのURLを教えろという会社を目指しているとして、そこのリポジトリを飾り立てようと考えたならやめておけ、そういう会社はGithubにアウトプットすることを日常的な趣味として苦ではなくやり続けられる人を求めている。
年収をその会社の選択基準にしているならそこはおまえには分不相応な会社だからやめておけ。仮に入れたとしても馴染めることはまず無い。これは年収が低くても同じだ。
嫌いな人がいるならその会社はやめていい
コメントを観てこの「最小且つ単一の論理でなにか否定できた気になる」という輩への対処が一番疲れる
一晩立ってみたらこんなにブクマついててびっくりした。気になったブコメもあったのでちょっと追記しておく。
いきなり視点がミクロに、と言うやつなんだが、結局若いうちにこういうのできてないやつはあとで苦労するが、最初のうちは体力でカバーできている。体力でカバーできなくなったときに本当の意味でつけを払う羽目になるという意味で言ったり、あとオレみたいなおっさんが大変つらい思いをする、という意味でも言っている。
Fラン関係なくねっていうやつだが、昭和世代のステレオタイプかもしれない、ごめん。勉強する習慣もなければ大してやってきてもいないやつはこの業界だと倍苦労する羽目になるというふうに言いたかったと思う。どんな業界でもそうだとは思うが。
返す刀で結論づけしたがる人々がやっぱり現れるな、君たちはそう思わない人なんだろうし議論する気もないが何かしら言いたい人なんだろう。別にそれはそれでいいよ。お仕事頑張ってね。
「俺は大して辛くないけどなー」っていう人もやっぱり現れるな。辛くないんだったらいいことだと思う、お仕事頑張ってね。
4Kモニターでものすごく細かい文字を読んでいる若者を見た、という人、俺も同意する。もう見ていられないんだよね。
関白宣言っぽいな、というのは俺も思った。
結局の所、プログラマ35歳定年説は俺も打ち破りたいと思っていた口なんだが、打ち破れる人とそうでない人がいる、ということで、俺は後者だった、ということだ。当然50過ぎてもプログラマやっている人は見かけるので、数学的な真理というわけではなく、統計的な傾向なんだろうと思っている。
若いうちから、いい環境で働かないと、気持ちのほうがどこかで先にギブアップする。いくら大好きで転職だと思う仕事だとしても、体力や若さで捻じ曲げていることはなかなか気づかない。色んな本を読んで客観的な指標で判断したほうがいい。
遺言とか言って書いておいて追記したら俺はソンビか亡霊なんだろうか?
びっくりした。こんなおっさんの愚痴みたいなエントリーがこんなにブクマされるとは思ってなかった。いくつか気になったブコメがあったのでやはり書いてみたくなったので書く。
まず、この遺言を最後にいなくなるのかという話だが、おそらくいなくなる。ゾンビで居続ける体力ももはやない。
次の準備はすでにしている。それは俺が本質的にやりたかったことに近いことだと思うのをピックアップしている。
本質的にやりたかったことって何かという話なんだが、まず俺が感じるプログラマーという仕事は「良き作り手であり続けること」が根本的なモラルだと思っている。若手で右も左もわからないような状態でも、それこそやっとフィズバズが理解できたような状況でも今持っているレベルで最大限にできうる一番いいものを模索し続ける仕事だと思っている。初心者にはチェックコード書け、意図はできるだけ込めろというのはそういう意味でもある。これを真正面から受け止めてくれる職場を探したほうがいいというのは追加しておきたい。
プログラム論とかそういう話がしたいんじゃないということだけは言っておく。
俺も体力があるうちは良きつくり手を目指していたのだが、本質的にやりたいこと、もうちょっと言うなら、俺のモラルの軸は作ることにではなく使うことにあった。プログラミングというアクティビティを挟んでこっちにつくり手がいてあっちに使い手がいる。仕組みを理解して作るのがプログラマーなら、作ったプログラムを理解してよりよい日常を模索するのが使い手、と言ってもいいかもしれない。いいフィードバックループのあっちとこっち、と言ってもいいかもしれない。俺は「良き作りてが使ったものを使う良き使い手でいたい」ということに気づいたので、遺言を書くことにした。少なくともこれに気づいた時点でプログラマーとしての俺は死んだ。
まだ直感的なものでしか無いので、うまく言語化できていないのは申し訳ないんだが、今後10年位はそれを模索していくのではないだろうか。