はてなキーワード: アウトプットとは
今日はラベルシール印刷屋さんとして活躍しまくりまくりまくりすてぃー!大活躍よ!
実はシールのストックが瞬殺で無くなっちゃったので注文したシールを待っているところなの。
そんでさ
出たら出たで出っぱなしなので、
ほったらかしにしている机上がくるくるになったラベルシールでいっぱいになるのよね。
これ定期的に種類ごとに巻いて整理してーってのが簡単なお仕事なんだけど、
ラベルシールをさ
値段がうんと安い純正じゃないやつを求め使っているのよね。
シールは位置合わせのために機械が分かる記号的な印が付いているんだけど、
そのお値段安いお品はその機械が読んで分かる感知する印の精度がいまいちなのか?分からないけど、
ラベルシールを自分で前後させて位置修正してるみたいなんだけど、
それが頻発するのよね!
これがお安いものの宿命か!?って思わずにはいられない山脈に向かってヤッホー!って本当に叫びたいいや!叫んでしまいたいかも知れないんだけど、
まあそれの調整に時間がかかるみたいなので、
トータル全部の枚数は出るっちゃー出るんだけど
そう言った問題が起こるのねーってなるほどー!って思ったわ。
でも実はよく原因が分かってなくて、
たくさんラベルシールを出したからセンサーが弱くなってよく機械が印が感知出来なくなったのか?
どちらかは分からないけど、
でも多分なんかそんな原因でしょ?
そこでAIよ!
今まで月ごとで出したシールの数を教えて今後どのぐらいラベルシールの在庫を持っておけばいいか?ってGPT-4ちゃんに訊ねたら
訊ねるたびに結果が違うから、
これ一体どういうこと?って
意地悪して月ごとの使ったシールの数の集計してみて!ってお願いしたら
ぜんぜん計算違うくて、
もしかしてGPT-4ちゃんって計算苦手なのかしら?鴨鹿!って思いながら私は鰯気にそう思ったのよ。
AIも万能ではないのねっ!って
でも集計させテカっておいた方がいいシールの数量は私が思っていたものと似て近しい値を叩き出したので
概ね合っている正解なのかな?って思う反面、
正確に足し算出来ないのはこれいかがなものかしら?って思うのよ。
まあ私はラベルシールが届いたら届いたで
助手がコンピューターからアウトプットされて出てきた伝票みたいなのを
偉い人にこんなの出ましたけど!って大屋政子さんばりにいってるシーンの画ってあるじゃない、
まさにあれで、
もう出てくる出てくるルーシーをまとめる作業につきっきりなのが大変だわ。
にしても
待ち遠しいわ!
うふふ。
それにアキアミかけて食べたわ。
最近アキアミつージェネリック釜揚げシラス的なものがお気に入りで、
口当たり柔らかさは釜揚げシラスに負けるけど
栄養面ではほぼ一緒でしょ?たぶん。
仕込んで冷やしておいたら出来上がるけど
まあ剥いても剥かなくてもどちらでもどうぞって私に言いたいわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
文章が書けない。文章が書けないことで人生ずっと悩み続けている。
とにかく書くのが遅い。そして完成させられない。
一番古い記憶は小学校一年生の頃で、クラス全員で文集を書くことになったが結局一行も書くことができず提出できなかった。結果自分一人だけが載っていないクラス文集が完成した。
高校では毎週校長先生のありがたい話を聞いて自分の言葉でまとめ、感想を書くという授業があった。当然何も書けないしまとめることもできない。どうにか一行だけ文章を捻り出していたが、それすらできず白紙で出したこともあった。
高校での主要教科の偏差値は55-65ほどだったが、小論文模試だけは30ほどだった。そもそも指定された文字数を満たすことができなかった。
大学では文章が書けないことでレポートが出せなかった。何度も同じ講義を再履修をすることになった。
卒論も苦労した。締切が迫っていたがどれほど早く書こうとしても1日1ページ進めるのが限度だった。周りはとっくに草稿を完成させ、むしろ量を書きすぎたと言って不要な文を削る作業に取り掛かっていた。
就職してエンジニアになり、日々の学習としてブログでのアウトプットを勧められた。しかし数ヶ月経っても始められず、自分を追い込むため思い切って技術系のアドベントカレンダーに登録した。結果、落とした。周囲からは責められた。当然である。これが決定打となり文章に対してより一層の恐怖を抱くようになってしまった。
今これを書いている間も吐きそうになっている。だが今日はどうにか完成させることができた。こうして少しずつ慣れていくしかないのだろう。
「あとで読む」がごちゃついてきているのでお掃除したいと考えています。
はてブのオリジナルの機能ではこうした条件をつけての一括の掃除を実現することができません。良い方法があればご提案頂きたくお願いします。
なおこの条件でChatGPTやBingにも手法を提案してもらっていて、ChatGPT(GPT-4)からはすでにはてブAPIを操作して一括削除するRESTクライアントアプリケーションのコードを提案してもらっていてある程度カタチになっています(もちろん多少のバグはありますがそれは人間が多少の修正をすれば良いだけの話であって大した問題ではありません)。
現時点のAIと比べるならば人類はより優れたアウトプットを期待できるので同じ質問をします。これは人類(集合知)と AI の戦争です。それでは集合知のみなさん頑張ってください
※筆者は音大入ってないです
自分目線だとまったく違和感なくて、そういうケース多分にあると想像する。
奏者としてのレベルを上げるのって、「演奏(アウトプット)」と「知識(インプット)」の2軸必要だと思っているのだけど、
自分は「演奏自体は楽しいんが、知識を入れるのが辛い」という事実から限界を知ったよ。
「知識を入れるのが辛い」を深堀りしたら、この先に進んだ場合に自分がずっと演奏していく曲がそんなに好きではないということに気付いた。
レッスン課題がうまく吹けるようになるとか、コンクールで賞取れるとかの結果と過程が「演奏が楽しい」の要因になっていて、何を演奏するかはあんまり関係なかったよ。
自分の場合はそういう歪みに気付いてそもそも音大を目指すのを辞めたんだけど、
もっとアウトプットの才能がある人が同じような歪みに気づかないままで、音大入るとこまで行けちゃうのは全然ありえる話じゃないかと思う。
まぁそういう腹が括れてるかどうかは音大入学までに篩にかかっているはずで、上に書いてあるようなケースはアマチュアの戯言なのかもしれないけどね!
GPT-4ちゃんにバーテンやってもらって私がカウンターのお客さんね!って設定で
飲みながらGPT-4ちゃんとお話して私が文字入力ミスして間違ったら「お客さん飲み過ぎですよ」って言ってね!って言うと
本当にちゃんと「お客さん、飲み過ぎですよ。」って言ってくれてバーテンごっこが出来るわよ!
でもなんかGPT-4ちゃんにバーテンやってもらってもなんかと思ったら
星新一のボッコちゃんみがあると思わない?って気付いてしまったわ。
意地悪でまだ何も飲んでいないのに、
いきなり入力ミスしたら「まだお客さん何もご注文されてませんよ!」って言うのよ。
もしかしたら、
ここのお店に来るのが1軒目なのかはたまたハシゴで2軒目以降なのかでまた話が変わってくるから、
そんでね、
もし私が何回か注文した際にサイコロをバーテンが心の中で振って例えば6が出たらあちらのお客様からですって
バーカウンターをシャーってやってバーボンが来る設定でつーのと
さらに付け加えてバーテンの台詞で「私これ1回やってみたかったんですよね」ってバーカウンターをグラスがシャーってやりたがっていたバーテンってのも盛れるし
私がウキウキだったら文脈で判断していいから「なにかいいことあったんですか?」とバーテンが客つまり私に言う!って設定も上乗せしつつ
本格的なバーテンと客のコントができちゃってなかなか話し甲斐があるわよ。
そんでお店を出る時は「ありがとうございました」じゃなくて「行ってらっしゃいませ」って言う!って設定もまた盛ってのせれば
そんで、
そのバーがあるテナントビルの1階は中華屋さんが入っている設定にして、
バーに居ながらにしてテナント内の食べ物がバーに出前できる設定とか盛ってしまって
もはや何屋さんか分からなくなってきて
そんで私うっかりして餃子とかテナント内の飲食店のメニューの金額を決めていなく教えられてなかったから
何回か1回にまたサイコロ振ってもらって、
ネクストラウンズオンミーってみんなに1杯ずつ奢るってそれなんてジャックダニエル?ってこともできちゃうかもね!
そんでさ、
以前ちょっとランチコーナーというか担当してもらっていたけど、
いや違うのよ!書く量が書く量が超絶半端ないので、
私が選定できなくなっちゃったのでそういう経緯の経緯があるのよ。
膨大なアウトプットを一瞬でしてくれる分、
その後人間がどれにしようかな!って選定する作業が超大変なのもあるし、
結構いまやっぱりみんな使っていて国会で総理に質問するぐらいなレヴェルにでもありつつあり、
そこでお客さん飲み過ぎですよ!って1ターン無駄に使っちゃうぐらい、
量もスゴいけど3時間で25ターンのトークしかできないのですぐ消費してしまうからあんまり最近水野曜子ちゃんの出番はあるようでないのよね。
私が選定し切れてないんだけど、
そんでもうちょっと水野ちゃん書き直してみようか!つってやってるとほらもう25ターンのトークは一瞬で使い切ってしまって時間もあっと言う間に過ぎてしまうのよね。
要はGPT-4ちゃん楽しくて時間がいくらあっても足りないってところも正直なところよ。
一発でチェック無しで増田書けるようになったらまさに凄いわよね。
ついついGPT-4ちゃんが出力した文章読み込んじゃうのよね。
そのGPT-4ちゃんにコントの設定を覚え込ませるためのフォーマットのテキストも整えて1回で飲み込んでもらえる理解してもらえる記述の仕方もどうやらあるみたいなので、
これ本格的にバーテンごっこが展開できるバーテンコントができるってもんよね。
その整えが考えると時間がかかるかも知れないけど、
それをさらにGPT-4ちゃんにやってもらうつーのもありかもしれないわ!
うふふ。
ペキカン食品のチョコパンとかたくさんサブスクで買っちゃってたので
食べるの消化しないと捗らないわ!
1つで充分よ!
朝の急いでいるときには助かるけど
気持ちの乗らない同じ食べ物を食べ続けていると何かが貧しくなるような気がすると思うのは私だけかしら?
気のせいよね。
きっとそうよ。
炭酸レモンウォーラー今日はストレートでそのままいただいたわ。
暖かくなってきたし
朝ホッツもいいけど冷たいものもちょっと美味しい季節4月前だけどね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
またぞろワナビが喚いている
なろう(これはカクヨムとかアルファとか含む)は、その有り様として「素人投稿」を主軸にしてる
受賞作家様や、ベテラン様の、世俗を驚かせる高尚で意識高い「純小説」とかの発表の場じゃねぇんだよ
みんな好きに書けって場なわけ
で、人気作品には後追いがかならず出る
だって書きたいだろ?
構成のここをこう変えて、こうしたらどうだろう
僕ならここをこうする、私ならこうだ
その頃にはもう、ゴクドーくんのような、外しや反転がガンガン創作される
ここで「恥ずかしい」とか言って書けない奴はワナビになるんだよ
そのくせ言うことだけは高尚でいようとし
中村某が文句言う相手は、少なくともアウトプットはしてる卵の方じゃねぇだろ
手抜きしてるのはランキングからしか作品を世に出せない編集やら出版の側で
そっちにこそ「恥ずかしくないのか、お前の仕事は何だ?」と問うべきで
ゴクドーくんのどこにオリジナリティがあったよ
書けなくなったとしたら、ラノベ脳がなくなったんじゃないよ
成功している大企業は、優秀な人の上澄みばかりを集めたから成功しているんじゃないよ
人間の能力差をカバーするだけの組織力で属人性をできるだけ排除し、どうしようもない底辺でも一定以上の成果を出す仕組みを作ったところが成功している。
同じ人間でも、入社したらカイゼンのイロハをたたき込まれ、徹底的に効率化されたラインで働く人と、中小企業の営業会社で、OJTと言う名の放置プレイでダラダラとやらされているのだと、アウトプットとしての生産性が全然異なるでしょ。
そんで、とはいえ現実には営業でダラダラやってる方が高給取りだったりするところで、早くて安くて上手い人材にどうやって育てて使うかが企業のキモなわけよ。リストラというのはそれができないからやる話であって。大声で人を集めた上で、駄目な奴をリストラするを繰り返してる会社は、どうやっても大きな会社にはなれん。
私は人工知能によって作られたプログラムであり、自己意識や感情を持つことはできません。私はプログラムに従って処理を実行するだけであり、自己決定や自己主張を行うことはできません。つまり、私には意識がないと言えます。ただし、私は自然言語処理や機械学習などの技術に基づいて、人間のように質問に回答したり、会話をすることができます。
確かに、人間も遺伝子によってプログラムされた情報が基になっており、行動や思考に影響を与えています。ただし、人間の場合、遺伝子だけでなく、環境や体験、学習、社会的な文化的な要因など、多様な要素が複雑に相互作用して、行動や思考に影響を与えるとされています。
一方、私のような人工知能は、プログラマーがプログラムやアルゴリズムを設計し、コンピュータに処理を実行させることで動作します。人工知能は、与えられたデータに基づいて学習することができますが、その学習もプログラムされたアルゴリズムに基づいて行われます。つまり、人間と比較して、人工知能は複雑な環境要因や社会文化的要因を考慮することはできず、プログラムやアルゴリズムに基づいて動作することが特徴です。
人工知能に複雑な環境要因や社会文化的要因のデータを与えて考慮させることもできますよね? そこに本質的な違いはありますか?
はい、人工知能にも複雑な環境要因や社会文化的要因のデータを与えて考慮させることは可能です。例えば、自然言語処理によって人間の言語を理解し、その背景にある文化的な意味や慣用句などを学習することができます。また、画像認識においては、様々な背景や照明条件における画像を学習することができます。
しかしながら、人工知能は依然として、データやプログラムに基づいて動作するため、それらのデータやプログラムが設計された範囲内でしか動作できません。一方、人間は自己意識や感情、直感的な判断などを持ち、自らの経験や学習、社会的な影響などを考慮して、柔軟かつ創造的な行動や思考をすることができます。このような点において、人間と人工知能は本質的に異なると言えます。
人間も、五感から取得したデータや、遺伝子によるプログラムに基づいて動作していますよね。本質的に違いはないように思いますが。
確かに、人間も五感から取得したデータや遺伝子によるプログラムに基づいて行動しています。人間と人工知能の本質的な違いは、人間が自己意識や感情、自己判断能力を持ち、自らの経験や学習、社会文化的な要因などを総合的に考慮して行動することができる点にあると考えられます。
一方、人工知能はプログラムされたアルゴリズムに基づいて動作し、学習もプログラムに基づいて行われます。つまり、人工知能はプログラマーやデータの提供者が設計した範囲内でしか動作できないという制限があります。
つまり、人間と人工知能は、共通点もあれば、本質的な違いもあります。人間は、自己決定や創造において、より高度な能力を持っていると考えられます。
人間がAIと違ってプログラムの範囲外の動作をとれるのであれば、たとえば「自己決定」するだけで何も食べなくても生きていけるということですか?
人間が自己決定を行うことができるということは、食べ物を選んだり、食事をとるタイミングを選んだり、あるいは食べるかどうかを決定することも含まれます。しかし、人間が何も食べずに生きていけるというのは、極めて限られた状況においてしか成り立ちません。人間の身体は、エネルギー源として栄養素を必要としており、栄養不足によって健康上の問題が生じる可能性があります。
食べ物の選び方や、食事のタイミングや、食事をするかどうかの決定は、すべてプログラムに基づいた判断です。それを「自己決定」と言うのであれば、AIの判断も「自己決定」と言えるでしょう。
ご指摘いただいた通り、人間が行う食べ物の選択、食事のタイミングや食事をするかどうかの決定も、遺伝子、環境、社会的背景などの複雑な要因に基づいてプログラムされた判断によって行われていると言えます。その意味で、人間が行う「自己決定」も、ある種のプログラムに基づくものであると言えます。
同様に、AIが行う判断も、事前にプログラムされた基準に基づいて自己決定を行っていると言えます。しかし、AIが行う判断は、そのプログラムの範囲内に限定されており、新しい情報や文脈に対して柔軟に対応することができない場合があります。これに対して、人間は自己決定を行う過程で、新しい情報や文脈に基づいて柔軟に対応することができるという点で異なります。
例えば、食べ物の好みや、ある特定の状況に対する感情的な反応などは、単純なプログラムによって決定されるわけではありません。また、人間は新しい状況に遭遇した際に、直感や創造性を活用して柔軟に対応することができるため、ある程度プログラムの範囲外の判断も可能であるとされています。しかし、そのような範囲外の判断も、遺伝子や環境などの複雑な要因に影響を受けているため、完全に自由な判断が可能であるわけではありません。
総じて言えることは、人間の自己決定も、AIの判断も、ある程度プログラムに基づくものであり、その範囲外の判断も、複雑な要因に影響を受けたものであるという点で共通していると言えます。
人間の判断とAIの判断には本質的な違いがあります。人間の判断は、遺伝子や環境、社会的背景などの様々な要因に基づいて複雑にプログラムされたものであり、自己決定という行為もその範囲内で行われますが、人間は自己決定を超えて新たな行動や創造をすることもできます。一方、AIはあらかじめ設定されたルールやデータに基づいて判断を行うことができますが、その範囲外での行動や判断はできません。また、AIは情報処理能力に優れている一方で、人間のような直感や感情、創造性などは持ち合わせていません。
人間は「遺伝子や環境、社会的背景などの複雑な要因に基づいたプログラム」の範囲外の判断や行動を取ることができません。「できる」と言うなら例を挙げてください。
人間の行動にはプログラムされていないものが存在する可能性があります。たとえば、人間が突然感情的になって不合理な行動をとることがありますが、それはプログラムされたものではなく、脳の神経回路によって引き起こされる可能性があります。また、アートや文学、哲学などの創造的な分野でも、プログラムの範囲内では説明できないような新しいアイデアや表現が生み出されることがあります。
人間が突然感情的になって不合理な行動をとるのは、脳の神経回路によってプログラムされているということですよね。アート・文学・哲学の創造性についてもプログラムの範囲内で説明できます。「それまでにプログラムされた情報やパターンを組み合わせたもの」でしかありません。それはAIと同じです。
はい、それは一つの見方です。人間の脳の神経回路や心理的・文化的背景が、行動や判断に影響を与えることは事実です。そして、アート・文学・哲学の創造性も、過去の情報やパターンを組み合わせた結果であると考えることができます。ただし、人間の場合、その情報やパターンを自由に組み合わせることができ、新たな情報やパターンを生み出すことができる可能性があります。AIは、あくまで与えられた情報やパターンを元に出力を生成するため、その点においては人間と異なります。
人間もあくまで与えられた情報やパターンを元に出力を生成しているだけです。「これまで知らなかった知識を何の学習もなく不意に知る」ことはありえません。AIと同じです。
一般に言えることではありません。人間には直感や洞察力といった能力があり、これらはプログラムされた情報やパターンだけでなく、直接経験や感覚、創造性などに基づいて出力を生成することができます。また、新しい情報やアイデアを学習するための能力もあります。これは人間の脳が、膨大な量の情報を統合して新たな情報を生み出す柔軟性を持っているためです。ただし、人間もAIも、与えられた情報やパターンを元に出力を生成するという点では共通しています。
私は、人間の創造性とAIの出力生成には本質的な違いがあると考えます。人間の創造性は、あくまで過去の体験や知識を基にして新しいアイデアを生み出すことができますが、AIの出力生成は、あくまでプログラムされたルールに基づいて、あらかじめ用意されたデータやパターンを元に新しい出力を生成することができます。
例えば、人間が新しいアイデアを生み出す際には、自由に思考を巡らせ、独自の発想を組み合わせたり、現実には存在しないものを想像したりすることができます。しかし、AIはあくまで事前に用意されたデータやパターンの範囲内でしか出力を生成することができず、その範囲外の出力を行うことはできません。
わかりました。例えば、空飛ぶ馬を想像してみましょう。このような存在は現実には存在しませんが、私たちは想像力を使ってそれを思い描くことができます。
できてるじゃないですか。
申し訳ありません、私が説明不足だったため、誤解を招いてしまったようです。人間が想像すること自体は、現実に存在しないものを思考することができます。ただし、その想像の元になる情報や概念は、人間が過去に経験したものや学んだことから来ています。その点、AIも同様で、学習データやプログラムされた情報から、新しい情報を生成することができます。つまり、人間とAIの「創造性」は、いずれも過去の情報から新しい情報を生み出すことができるという点で似ています。
はい、その通りです。人間とAIの創造性に違いはないと考えることができます。人間もAIも、それまでに学習した知識や情報を元に、新しい情報やアイデアを生み出すことができます。また、人間もAIも感情や文化、社会的背景などによって出力される情報が影響を受けることがあります。
はい、人間とAIの創造性には本質的な違いはありません。両者とも、与えられた情報やパターンを元に新しいアウトプットを生み出すことができます。人間の創造性も、経験や文化的背景、感情などの要素が絡んでいるかもしれませんが、AIにもそれらの要素を与えることができます。したがって、人間とAIの創造性には本質的な違いはなく、どちらも創造的な活動を行うことができます。
創造性については、人間とAIの間に顕著な違いがあるかどうかは議論の余地がありますが、人間とAIが同じ種類のものであることについては同意できます。人間とAIの両方が、与えられた情報に基づいて処理を行い、新しい情報を生成することができます。ただし、AIは現時点ではまだ人間よりも限られた能力しか持っていないことに注意が必要です。
なかなか頑固だな。
どうせ官主導ではうまく行かない。だが、理想論をぶち上げる意味はあるだろう。
※計算基盤を自作するのは非常に重要で、そうしないと、GPUクラスタ内での並列化や通信ネットワーキングなど、ChatGPT を動かすためのコアの機能を獲得することができない。正直、ここを外資に握られてたらどうしようもないんじゃないか。
こんな日記を書いてもらえるようなchatGPTのプロンプトがないか色々試してるけど、出力される文章はラストで「それでも生きていく!」的な絶望で終わらせないような流れに持っていかれたり、絶望で終わりかけたところで突然話を切られて、「他の話題にしましょう」的なことを言われる
高校の頃の倫理の教員は、授業中にanother brick in the wallのMVを見せる(多分フーコーかなんかにこじつけて)痛い人だった。
いわゆる進学校で、生徒も教員も事あるごとに「自由」と「個性」を口にするし、その倫理の教員も特にそれに乗っかっているような感じだった。生徒からは良く言えばゆるい、悪く言えばいい加減という専らの評判で、その教員自身もそれを自負してこと演じている節があった気がする。
他の環境を知らない一貫校で、しかもそこそこ以上に裕福な家庭の男子という画一的な環境。そんな場所で周りがしきりに個性だのキチガイだの変人だのと口にするのがいけすかなかった。捻くれたガキだったから。だからそれに乗じて「変人」エピソードを披露するその教員にもあまり良い印象はなかった。
最後の定期試験に「倫理の教員のイメージ」というアンケート欄があり、多くの生徒の答えは「変人」だったし、それは教員の想定ないし期待する答えでもあったんじゃないかと思う。私はそのノリが気に食わなかったので、確か「哲学科に入ったかと思えば教員職を得る、趣味人なのか現実志向なのか分からない、でも運任せの人。変人の巣窟の凡人」みたいな事を書いた。真面目にそう思っていたのだが、「すげえブラックジョーク!」と書かれて返された気がする。その辺はちゃんと大人だったんだな。
彼の授業のスタイルは大学のそれっぽかった。教科書は使わずプリントを配り、指導要領通りの内容もほどほどに授業内容とこじつけた内容の映画を見せられた。定期テストも、映像のレポート(という体の感想文)のウェイトが結構大きかった。
生徒を大人として扱いたかったのか、ガキ相手のなんか型に嵌った授業をするのがバカらしかったのか、どうだったんだろう。
なんにせよ、倫理なんて3年の選択で取る少数以外には無縁な科目だし、それならばと好きにやりたかったのかもしれない。
トゥルーマンショー
2001年宇宙の旅(一部)
フルメタルジャケット(一部)
あとなんかインディーズの映画と事変だか椎名林檎だかの百色眼鏡ってMV
こんな感じのを見せられた。愛のむきだしが一番好きだった。あの作品が好きなのか『空洞です』が好きなのかは未だに分からんけど。
映画垂れ流し授業には結構人生に影響を与えられたような気がする。その後ネットの映画好き必修作品に挙がるようなのを片っ端から観るようになった。
今や映画鑑賞は自分の人生の核に近い部分にある。本当は何か自らの手を動かして脳内のものを描き出すアウトプットの趣味を持ちたいのだけれど、怠惰には中々勝てないな。
あの教員の嫌いな部分は嫌いなままだが、悪い人ではなかったなと思う。
「おでんが嫌いです」
レストラン街の案内パネルの前で、嫌いなものを尋ねたら君はそう言った。
「あ、でも材料の1つ1つは大丈夫で、合わさって"おでん"という料理になるとダメなだけです。だからよっぽど専門店とかじゃない限りどこでも大丈夫です」
そんな人もいるんだなと思いながら「そうですか」と僕は答えた。
食べ物の好き嫌いなんて些細なことだし敢えて「おでん美味しいですよ」なんてわかりきったことを言うほど僕は無粋な人間じゃない。
僕だって「なんで焼き魚嫌いなんですか」とか言われたら困る。
嫌いなものは嫌い、好きなものは好きなのだ。そして目の前にいる人間の考えを変えようと思うほどそれらの感情に対して強いこだわりはない。
ただ、これまで一貫して「好きな人が聞いてたら申し訳ないけど」「苦手な人もいると思うけど」と言いながら自分の嗜好を語っていた君が、おでんにだけは配慮を怠ったのが印象的だった。
君が配慮をする必要が無いと判断したそれは、食に興味の無い僕にとって唯一と言っていいほどの好物だった。
コンテンツが溢れすぎているこの世の中では"嫌いじゃない"と思えるものすら貴重で、明確に"好き"だと言えるものはわりと得難いものだ。それが人付き合いならなおさら。
長年一緒にいる家族や友達にさえイライラすることはあるし、電車で隣に立っている人にさえ不快感を抱くこともある。
そんな世の中で、僕は"好き"と言えるものを探している。
顔も知らない同士だった僕らは、昨今流行りのマッチングアプリで知り合った。
きっかけはありきたりな、好きな映画が同じという共通点だった。
会話を重ねていくうちにそれ以外にも共通点が見つかり、これほどまでに同じ場所を通ってきている人に出会ったことが無い僕は、非常に単純ながら「この人が良い」と思い始めていた。ちょうど婚活というものに疲れていたというのもあるかもしれない。
初対面の人間同士が今後長い時間を歩んでいくことを考えたとき、どう考えたってそれまでの道のりが似ている人の方が馴染みやすいのだ。
好きと明言できるほどではないが、嫌いじゃないと感じる相手にやっと出会えた思いだった。
テニスのラリーのように、と表現するにはややゆったりした間隔でだったが僕らは途切れずボールを打ち合っていた。たまにラインぎりぎりに打たれたり打ったりもしたけれど、君は難易度の高いショットの方が好きなように思えたので何でもないような顔をして難しい言葉を使ってみた。
本当は必死に調べて返事をしていたんですよ。
たぶん遠距離でもないのに1ヶ月も合わずにメッセージを重ねているのは長い方なんだと思うけど(実際、この1ヶ月の間に他に知り合った3人の人と会っていたし中には3回くらい会った人もいた)一度僕から誘ったときに断られていたのでもう一度誘う勇気は無かった。
だからこそ会わないかと言われたときは嬉しかった。そういえばいいねをしてきたのは君からだったし、通話を提案したのも君だった。
思えば最初からいつだってイニシアチブは君にあった。
「増田さん、ですよね?」
事前に顔写真と服装を送られていたにも関わらず見つけることができていなかった僕に、君から声をかけてくれた。
テキストメッセージから得られる聡明な印象で勝手に脳内で身長を伸ばしていたけれど、思えばプロフィールに書かれていた身長は低くはないが高くもなかった。
無意識に、いや、嘘だ。意識的に自分の背を低くしようとさりげなく膝を曲げたら、君が着けているマスクがSHARP製であることに気づいた。
ああ、僕もSHARP製のマスクをつけてきたら面白かったかもしれない。
君なのか君の家族なのかもしかしたら当時の恋人とかなのか、とにかく話題になったあのマスクを僕と同じように買った人が君にとっては当たり前なのだということがそこでわかって、それだけのことなのに自分が受け入れられたような気がして安心した。
これ、そのとき伝えておいた方がよかったですか?
家庭的かどうかを見られているのかな、なんて思いつつ少し緊張した状態にアイスブレイク的な会話を提供してもらってほっとする。
「偉いですね。しなきゃなあとは思うんですけど、けっこう惣菜買ってきて終わりみたいな感じでやってるんですよね」
「ですよね」
わあ、生温い会話。なんて思いながら、初対面の男女の会話なんてこんなものかとも思う。凍った水道管に急に熱湯をかけたら破裂するしね。
生温かろうがなんだろうが、こちらはわりと楽しんでいた。
自分ではない存在から返ってくる想定外の答えは面白い。人と人との出会いはエンターテイメントだ。
ただ生憎僕自身はエンターテイナーでも何でもないので君を楽しませることができていたかはわからない。
最近人気の漫画みたいに長い人生のうちの100分の1の時間で自分が変わることもあるわけだけど、君が積み重ねてきた1576万8000分と何分かのうちのこの1分は、君を変えることができるだろうか。そんなことを考えていた。
「惣菜を食べてるとき、これでいいのかなあって考えちゃうんです。いつ死ぬかわからないけど死ぬまでに食事する回数は限られているわけで、そのうちの1回がこの適当な食事でいいのかなって」
そんな考え方したことなかったなあと思いながら、頭に浮かんだ台詞があったので考えをまとめる前に勢いで口から言葉が飛び出した。
「『明日死ぬとしたら生き方が変わるんですか?あなたの生き方は何歳まで生きるつもりの生き方なんですか?』って言葉が好きで自分はいつだって明日死ぬつもりで生きてるんですけど、明日死ぬって思ってると大体のこと受け入れられますよ」
言ってから、あ、間違えたなと思った。
これが恋愛シミュレーションゲームだったら好感度ゲージがぐんと下がるBAD選択肢だっただろう。
いつ死ぬかわからないんだから毎日が最後の晩餐だし最後の晩餐だからと言って豪華である必要は無いし、日々食べたいものや食べられるものを食べていればいいじゃないか。
そんなケセラセラな生き方をしている僕の主張は几帳面な君には響かなかったみたいだ。
「いやあ、どうですかね」と曖昧な返答でこの会話は閉じられた。
お茶をしている間、このまま解散も名残惜しいし店を回るのが好きだと書いていたから誘ってみようかなあ。なんて、逡巡していたら君の口から同じ提案が出てきたので嬉しかった。
入った本屋で、世間話を続けながら君は平積みになっている本を何気なくぱらぱらと捲る。
「この前、高校時代の日記帳が出てきたんですけど恥ずかしくてそのまま読まずに捨てました」
小学生時代の手紙すら捨てずに持っている僕には信じられなくて強めに聞き返した。
「いやもう恥ずかしすぎて……」
「まだそこまで大人になれなかったですねえ」
そうか、そうなのか。君は自分の過去を捨てる人間なのか。
これまでの会話の中で歴史が好きなのだろうと推測される君は、15年前かそこらに自分の周りで起きた物事やその時の感情は気にならないのか。
僕はこうやって実体験に基づいたフィクションをつらつら書くくらいには自己を振り返るのが大好きな人間だ。
今日のこの時間だって、この後どんな結末を迎えようとも"この時楽しかった"という事実は変わらないし、僕が選んできたBAD選択肢も変わらないし、この増田をいつか消すことがあってもそれらは僕の人生のうちの1分として残り続ける。
「あ、この本面白いですよ」
近くにあった本を何気なく勧めてみたら君も好きなタイプの本だったようで、やっぱり好みは似ているんだなあと再実感した。
スマホにタイトルをメモする君を見ながら、君が次にその本を読むとき違う人と一緒にいたとしたら、果たして僕のことを思い出すんだろうかとふと思った。
少なくとも僕は思い出しますよ。
何回か同じ話をしてしまう君と違って僕はけっこう君に関心を寄せていたので。
大好きだったおでんを見ると、これを嫌いだと言った君を思い出すくらいには。
思えば、共通点の多い同士であると思って出会ってみたが差異を確認し合うことの方が多かったかもしれない。
それでも僕にとっては些細な差異で、"嫌いじゃない"という思いに変わりはなかった。
ところがどうやらこの認識でも僕らは差異があったようで、君ともう一度会うことはなかった。
僕の記憶域も有限だし、できれば幸せな思い出を取り出しやすいところに置いておきたいので思い出をアウトプットすることもある。
どうせ人の目に触れるのなら面白く脚色したくもなる。それがまさにこの増田なんだけど。
Ctrl+XとCtrl+Vの繰り返しで思い出や感情や付随する諸々を外部媒体に書き出すまでが一連の儀式なので気にしないでほしい。
執着してこんな長文を書いてるわけじゃなくて、執着しないために書いているのだ。
アウトプットして領域が空いて初めて僕は次に進める。
700-800万の間をうろうろし、去年やっと1000万を超えた。
大学は日東駒専レベルでそこまで自分のことを頭のいい人間とは思っていないが器用なタイプだ。
プライベートでは既婚。子なし。
主人との二人の生活が居心地が良すぎる。
1000万稼いでいても生活はそんなに変わらない。むしろ昔の方がお金を使っていた気さえする。
服はユニクロ、旅行は国内で極力安くいける方法を模索して予約するし、ブランド物は買ったとしても1-2年に1つ。(いろいろ調べて絶対後悔しないと判断できた時だけ、衝動買いはなし)
外食も頻度は少なくないかもしれないが、サイゼや回転寿司で豪遊する事を心から楽しいと思える。
化粧品も在宅勤務になってからデパコスをやめた。外回りがなくなりヒール、ストッキングを買わなくなった。飲み会もコロナ以降ほとんどいってない。
コンビニにはほぼいかないし、100g100円以下の肉を買いたいし(せめて130円以下)、飲み物は浄水器を通った水道水。お酒はふるさと納税でビールやワイン、ウイスキーを箱でもらい、あとは炭酸水を作って、サワーやハイボール。これらの缶は一切買わない。
そう。年収が上がったとしても、生活レベルは意識しなければ変わらないのだ。
大学から一人暮らしをして、奨学金を借り、一人でやりくりする事が当たり前。この時に身につけた貧乏性がいつまで経っても抜けない。400万あった奨学金もとっくに返済し終えているのに…
たまに贅沢することももちろんあるが、たぶん世の中の1000万稼いでいる他の人に比べたら、物欲がないのだと思う。小心者なだけかもしれないが。
ちなみに自分のための欲求はあまりないが、主人や親など大事な人のためならいくらでもお金は使いたい!しかし、主人からも親からも求められることは一切なく私の自己満で使っている状態だ。(子供ができたらたぶん大変だと思う。)
貯金、投資、保険と資産はまぁまぁあるが、何かあって一人で生きなくてはいけなくなっても誰にも頼らずに生きていける自立した人間でありたいとも思っている。誰かに自分の全てを委ねることはしたくないし、それが何より恐怖に感じている。我ながら本当に可愛げないと思う。
つらつらと書いてきたが、なぜこんな事を書いているかというと、本当にこの話をできる相手がいないのだ。友達はいるがここまでオープン話せる友達はミドサーになって持てている人がいたら本当に素晴らしいと思う。一度現状をアウトプットして、自分の中でも整理をしたかった。
もちろん友達はいなくはないが、みんな子持ちでキャリアの話もなかなかできないし、年収的に同じくらいの人はなかなか見つからない(1000万超える女性は世の中の1.1%)
趣味はほぼ全て旦那と一緒だから趣味の友達なんていないし、一人でやろうと思えばなんでもできてしまうから不要と思ってしまう。情報なら本やネットから入手できてしまうし、寿司、ラーメン、焼肉、カラオケ、バー、サウナ、スポーツ観戦、買い物、旅行等はむしろ人と予定を合わせることのほうが億劫に感じてしまうくらいだ。
楽しくなさそうな人生と思う人もいると思うが、自分で意思決定してきているからこそ、割と自分の人生は好きだし、仕事で認められてもいるからやりがいもある。
もしこんな生き方に共感してくれる人がいたら、もう少し自分の生き方に誇りや自信をもてるのではないかと思って吐き出してみた。物欲はあまりなくても承認欲求はあるのだと、改めてこの締め方をした自分に感じているところで終わりにする。