はてなキーワード: にしんとは
給与が納得できるレベルにまで仮に上がったとしても、プレーヤーとしていつまでもやっていくのは年齢的、体力的にしんどい。
ネットを見ているといろいろな不幸な人がいる。
お金がない人。
家族のせいで不幸になった人。
離婚した人。
恋人に振られた人。
31歳の俺は、これといって不幸には遭遇していない。
安定した収入をもらえている。
恋人がいたことないから振られもしないし、ましてや離婚なんてない。
肝臓の値が少し高いくらいで健康だ。(軽くメンヘラではあるけど。)
とはいえ、つらい、しんどいと思う事が数多くある。人生の空虚さや生きづらさを感じ、将来に対する漠然とした不安に襲われる。
それでもネットを見ている限り「俺はまだマシな方」だと思う。
それと同時に「お前はまだマシだからこの状況で満足するべきだ。」と言われている気がする。
「つらい」「不幸だ」と言ってはいけないような気がしてくる。
もっと「俺はつらい!!」とか「俺はしんどいんだ!!」とか言いたい。でも言えない。ネットでは書けない。
なぜなら、世間から見ると自分の感情が間違っているように思うからだ。
仕事の時間にサボっていることもあるし、不満があるからと言ってもっといい境遇に行く努力もしていない。
自分の主張には揚げ足が山ほどある。批判され傷つく未来を想像してしまう。
「そんなこと言ってないできっちり仕事しろよ」「そんなに嫌なら転職すれば?雇ってもらえるところなんてないけど。」と、もう一人の自分が言ってくる。
<追伸>
今年30歳のオッサンです
言いたいことはタイトルに書いたのですがもう少し詳しく状況を説明します
通帳を持っている両親は通帳で引き出しや振り込みの履歴が確認できます
どうしてこうなったかと言うと今から5年ほど前に金銭問題(簡単に言うと自分が詐欺にあって貯金を失ったトラブル)を起こして親にも迷惑をかけてしまったから
だから両親が心配するのは自然なことだと思うけどそれでもしんどいものはしんどいです
転職や退職などで給与の振り込み期間や金額に違和感があれば電話で根掘り葉掘り聞かれるから簡単に仕事は変えられない (過去に転職した際には実家に戻って直接経緯を話すように言われるくらいでした)
5万円10万円も大金を引き出せば当然何に使ったかも説明する必要があります
大金の引き出しに関しては一例として転職の影響で税金の支払いがあっても詳細を聞かれるのが面倒で先延ばしにしてしまうといった感じで影響が出ています
もちろん自分が無駄遣いを一切しなければ問題はないので自己責任と言われればそれまでです
正直に金銭に言及されるのは辛いからやめてくれと言えればいいのですが言ったところで事態が自分にとっていい方向に向かうとも思えません
このまま生きていくのはしんどいというところでタイトルに戻ることになります
両親に対して過去に迷惑をかけているのにしんどい気持ちになるのはワガママすぎるんじゃないかとか自己嫌悪もしてきました
正直よくわからない感じです
絵を描くのが大好きでいつも描いてたんだけど、Midjourneyが自分が何十年も掛けて会得した技術を一発で構築することや
出してくる絵の凄さに打ちのめされて、もう自分が絵を描いて公開する理由が分からなくなってきた
それでも描くのが好きだから、描いてはいるけどTwitterにあげなくなってるし、もうあげない気がする
Midjourneyから離れたくても、しょっちゅうTLで見るし、いろんな人がいろんなところで話題にしてるから目に入れないためにはネットを絶つしかなく、つまりSNSを見ることができず
Twitterも描き込まなくなった
Midjourneyはすごい。そして自分が一番絵を公開しなくなった理由は、そのMidjourneyがもてはやされてすごいすごい言われているからなんだ
なんだか自分たち絵描きはもういらないよ、Midjourneyがこんなすごいのかいてるんだもんね、って言われてる気がするし実際言ってる人もいる
Midjourneyを操ってる人はガチの絵描きというよりプログラムとかの界隈の人達が多く見える
彼らにして見ると、欲しい絵がどんどん作れるMidjourneyは最高に楽しく、呪文を唱えて絵ができあがるのは快感だろうし、その知識をみなに分け与えるのも当然だ
だがそれを見れば見るほど自尊心底辺の絵描きの自分は、どうしようもなく辛くなる。上手く説明できないけれど、必要とされていないんだな、みんなAIの方がいいんだろうな、という気持ちになってしまう
この感覚は、美大に苦労して入ったら、たくさんのすごい奴らがいっぱいいて打ちのめされたときに似ている
だがあの時は相手は「人」だった。
天才の人間はしかたない、と諦めもついたし、悔しいけれど、ここまで心は折れなかった。だが相手は機械だということがこんなにしんどいとは。
絵描きはもういらなくなるんだろう
うん、
そうやってみんなのまえでおおごえでゆったからには、
さんせいのこえも
わるくちも
うけとるぎむがあるよね?
(それがいやならひとのいやがることをにどとせずにしんでいけば?)
めでたく行きたい会社から内定もらって、退職を上司と人事に伝えたんだけど罪悪感やばい
手前味噌だけど一応上司とか周囲からは期待されてて、これからも頑張っていこうな、みたいな雰囲気の中で働いてたからめちゃくちゃ言いづらかった
上司もいい人で、ショック受けてるけど怒ることもなく、転職先で成功を祈ってるわみたいなこと言ってくれた
こっちはすでに二、三ヶ月転職活動して色々心の準備してるけど、言われたほうにしたら晴天の霹靂だよなーしんどいよなー人も少ないのにごめんなさい許してくださいとか、同僚のモチベ下がんないといいなとか、そういう思考を反芻してここ数日そこそこしんどい。自分が大悪人になったみたいだ。
もちろん職業選択の自由も罪悪感を感じる必要なぞないことも建前はわかってるよ、もちろんそうあるべきだよ、でも気持ちが落ち着かないんだよなー
■アパートから一軒家に引っ越してから毎日の家事が幸せになった
なによりも家事がやりやすい!風呂場の排水溝の掃除も洗濯もトイレの換気も台所も全部主婦がやりやすいようにできてる!!
まえすんでたところは2Dのアパートで二人で暮らしていた…。手狭な部屋で二人だとあっという間に汚れて汚くなる。部屋が単身向けだからそもそも家事をしやすい設計じゃなくて掃除するだけでもめんどくさい!
でも一軒家は家族で暮らす想定だから一個一個のパーツが掃除しやすいようにできてる!
エアコンフィルターの掃除もアパートでは室内でやるしかなくて掃除なのに部屋が埃だらけになるし排水溝は埃で詰まるしほんとうにしんどかった
いまは庭で埃を吸い取って水場で流して干して家の中は汚れない!!
ペットボトルや缶も庭の水道で洗うから家の中に甘い匂いが充満しない
メンタルを病んだ同僚が復帰した。
復帰してくれるのは嬉しい。
快方に向かってくれていることも純粋に嬉しい。
けど、彼が飛んだことによる各地の尻拭いをようやく終え
業務はまるっと二倍になり
それをなんとか立て直し、穴が空いたところは埋め、軌道に載せ…とやってきた半年
「彼を復帰させるための配慮」が業務に入ってきたことがはちゃめちゃにしんどい…。
当時のことを責めず、怒らず「まあなんとかなったよー」と軽く言ったらホッとした顔をしてたけど
ぶっちゃけ本当に大変だったし。
できるだけ生産的であろうと思っているので
怒りをぶつけることはまったく意味がない、と頭では思っているけど
生産性、で考えると、彼をお盆明けまでは一旦放置させてほしいけど
そうするとまた彼の精神衛生に影響がありそうで悩んでいる…。
とりあえず彼が、復帰を受け入れてもらえて
すごく喜んでくれているということだけを心の糧にがんばりたいとおもうけど
こんな自分のモチベを上げてくれる自己啓発本か小説があったら教えてほしい
いまは虚ろに「まんが7つの習慣」を読んでいる…。
追記:
偉いっていわれて嬉しい、ありがとう、頑張る
20代前半の女。
今は身長は170台で小学生当時から背の順は1番後ろだったけど小学6年は伸びが悪くて次に大きい子と3ミリ差とかだった。ちなみに158cm42kgとかの筋力皆無の痩せ型だった。2人前とか余裕で食べてたのに。
自分が通ってたのはお受験が要るような小学校だったんだけど、そこの伝統だった5年6年の組体操がまあ酷かった。というか担任が酷かった。担任に嫌われてたんだと思う。
5年のピラミッドは40人弱のクラスごとで作る。前述の通り身長が高い自分はピラミッドでは「黄金の3列目」って言われてた1番しんどい位置を任されていた。てか男女混合なんだから筋力のある男子に任せろよ。
あ、ちなみにピラミッドの1番しんどい位置っていうのは土台の前から2列目な。3列目って呼ばれてたのは組み上げて行く時に3列目だから。1番前の1番下は意外と土に紛れた石ころの痛さぐらいで大した事ないんだ。1番重さがかかるのが2列目。その中でも左右じゃなくて真ん中が1番力がいる所だった。で、写真にも映らない。辛い。
5年の時は2列目ではあったけど端の方だったのでまだマシだった。しんどかったけどな!
担任にも文句を言ったんだ。「筋力がない自分がこの場所はおかしい、しんどい、自分と身長の変わらない女が最前でニコニコ写真に映ってるのが許せない」って。取り合ってもらえなかった。
問題は6年だ。6年は学年60人弱の男女別でピラミッドを作る。
5年と6年は担任が同じだったので5年で味をしめられたのかまた「黄金の3列目」に選ばれた。クソ。
学年に3クラスあってクラスから2人ずつぐらい黄金の3列目が選ばれたんだけどその中の1人になった。しかもクラスが2組みたいな感じだったから真ん中に入れられたんだ。去年よりデカいピラミッドなのにもっとしんどいところなんて普通に無理だろ。
最初の練習は芝生の上でやったんだけどこれがまあ辛かった。死ぬかと思った。終わった後に校長が隣のガタイのいい子に「君が黄金の3列目の真ん中か!頑張れよ!」と言っていた。偶数だったので自分も真ん中だったのに声はかけてもらえなかった。
マジでマジでマジで死ぬかと思ったのでその場で泣きながら担任に「本当にしんどい、死ぬかと思った、耐えられない」と言ったけど「じゃあ他に誰がやるの?」と取り合ってもらえなかった。は?教育実習生が来てた時期だったんだし最悪そいつらにやらせろよ。こっちは無理だって言ってんだろ。
ちなみになんだかんだ本番はアドレナリンが出て大丈夫なんだけど練習が本当にキツい。
そこからはもう地獄の日々だった。運動会の練習なんて毎日のようにあるけどピラミッドをやる日は登校したくなかった。でもピラミッドをやるかは登校しないと分からないので登校せざるを得なかった。
もう一回ぐらい芝生の上で練習があったんだけどその時にもう限界過ぎて四つん這いの腕を曲げようかと思った。そしたら上が崩れて自分のせいになって訴えを聞かなかった担任のせいになるなって思ったり、自分が怪我したら組体操出なくて済むなって思ったり。
でも自分にはそんな勇気無かったんだ。せいぜい上に一段組まれてる時に腕をちょっと曲げたり腰を曲げたりしたぐらいで上がおっとっと!ってなるぐらいだった。
自分がなんで勇気が出なかったか、もっと他の先生に言えなかったかって伝統だったからなんだ。
「サボテンと補助倒立が1組も失敗なしで出来た学年はまだありません!今年こそ!」って紙が張り出されたりするような状況でピラミッドを崩すなんてできなかった。
結局本番はうまくいった。でも自分は担任を許していなかったので運動会の作文にもこのことを書いた。まあ何も起こらなかったけど。
組体操のお手本として講習会とかやってるような学校だったけど実情はこんなんだった。今はもう組体操やってないらしい。やらないほうがいいと思うわ。
しょうがないんだろうけどやっぱり安倍元首相が死んだことについて自業自得とか、牢の中に入れておけばとか言われており、ずっと嫌な気分でいる
死んだ人に対して言うことなんかなあ。それほど嫌だったんだろうけども。古い人間なんだろうけど、やっぱ素直に顔を見たことある人がこんな死に方するのはかなりしんどく感じる。
具体名だしてアレだけど、これが例えば散々な評価の鳩山とかだったとしても、やっぱショックだったと思うんだよな。
演説中に撃たれて死んだことも衝撃だけど、そのことを自己責任、自分がまいた種だから、という空気が本当にしんどい
それを肯定してしまったら、もういろんな犯罪の被害に遭う人間は自業自得ということになるのではないのか?って考えてしまう
時々逆恨みで人殺す人もいるけど、それも「恨みを買ったその人が悪い」になるし、ひったくりだって、鞄をがっちり抱え込まなかった被害者にも非があるってことになる。
黒い噂があるのに牢の中に入れないから私刑を実行されるんだ、そういうことは起きても仕方ないんだって、本当にみんなそんなに割り切ってるのか。
結局やっぱり法廷に持っていけてない、つまるところで立証できてない疑惑があって、それで殺されるのは仕方ないと言われるの、納得いかなくてずっとモヤモヤしたままだ
もっとも実際には犯人の動機は別なところにあったので、この議論自体的外れではあるんだが。
こんな人間を弔うのはおかしい、たかが一人殺されただけ、女はいつもこういう目にあってる、みたいな主張の人が
タイムラインにわっと出てきて、何度も繰り返されるので死体蹴りを丸一日見てるような状況でずっとなんか辛い気持ちになる。
自分が女だから、そう言う主張の人とも距離近いのは仕方がないんだけど。人が死んだ時に主張することがこれなの?と思ってしまい、結構辛い。
今までそれほど強く忌避感を持ってなかったのだけど、こう言う人たちが主張してる権利ってなんなんだ?って、おとといからずっと考えてしまう。
政策を見て判断するべきと頭で理解してても、こんな人たちに支持されている人に入れたくないって気持ちでいっぱいで、あんまり冷静に考えられている自信がない。
どんなに黒い人でも、それでもやっぱり私刑みたいな形で殺されてほしくなかった。法廷で裁かれることはあって然るべきだと思ってるけど、
死んだ直後からもう死体叩きしたくてたまらないみたいな流れを見ているとただただつらくなる。いや選挙近いし、仕方がないんだけど。
しんどいな……
あと入院で家計が困ったことになると、最悪生活保護とかになるんかなぁ
賃貸の自宅だったらそれどうすんねん、というのもあるけど
入院しながら生活保護申請も事務手続きができるのか分からんけど、
仮にできるなら医療費は無償になって、住所は病院になって、帰る場所がなくなるけど、
医療費は国から出るので、医師や看護師、病院の事務員は手続きに困らない
結局、自分の親でも痴呆とかあたおかになってしまうと、親族がみんなで捨てるようになる
そういう老人も病院にいっぱいいる
若い頃はまともだったんだろうけど、年老いておかしくなって、親族はとても介護できないので、
病院が完全に姥捨て山になってる
身寄りがない人もいっぱいいる
親族がいても関わりたくないから、みんな病院に困った親族を放置するようになる
結局、結婚しないという選択はメリットもあるんだけど、晩年はデメリットしかなくなる
自宅にいても、病院にいても、完全に無力になる
そのつらさでしねる、というかじさつするようになるそうな、統計上はそうなってる
でも、今更結婚なんて無理だしな…
ぽっくりが理想だとすると、遊戯王もアベシも理想的なしに方だと思うよ
長期ICUに入って何度も手術を繰り返すと、患者は耐えられなくなって発狂するんだそうだ
ベッドで寝てる生活でも同部屋患者との人間関係もあったりしてつらいのに
宣告後に病院内でじさつするケースも多いし、
だったら病院の外でぽっくりしにたい
また、特定の自助グループを非難する意図も、自助グループの存在を非難する意図もありません。
先日、初めてある自助グループに参加した。
私は既婚なのだが、夫婦間での問題が実害として表れ始めたので、相談機関に相談したところ、自助グループに参加することになった。
自助グループとはどういうものかというと、なにかしらの問題を抱える人が集まり、お互いの経験や現状を話し、つらさなど気持ちを分かち合う場だ。基本的に「言いっぱなし・聞きっぱなし」、すなわち問題や気持ちを吐き出して整理する場所で、傾聴に重点がおかれた形式をとることが多い。
なぜ、傾聴が重視されるかというと、発言に対して正論で責められると吐き出すものも吐き出せず、結局そこでは安心して話せないことになるからだ。
そもそも、正論で片付けられるような状況であればそこまで困っていないというのもある。問題というのは様々なバックボーンや出来事のタイミングなど複雑な要素で成り立っているので、誰かにとっての正論が必ずしも当てはまるものではないということは確かだ。
とりあえず、誰にも言えないことを吐き出せる。そういう場所として自助グループがある。
(結論からして、具体的なアドバイスは医師やカウンセラー等、金銭的対価を払って、ある意味「職業的責任を持ってくれる」人たちに頼ることが良いかと思う。
ただ、他の人の経験を聞ける、自分も経験を話せると言う点では自助グループは有意義だとも思う。個人的な感想です。)
私もメンタルの病を持っており、医師やカウンセラーに頼りつつ、同じようにメンタルの問題がある人と繋がったり、信頼できる人を見つけて、お互いに傾聴するような関係を築いたりもしてきた。そういう前提のもと、前述の経緯で、ある自助グループに参加した。
~~~~~~~~~~~
びっくらこいた。
形式上は傾聴だ。まずミーティング的なものがあり、その際は順々に気持ちを吐露していく。これについてその場でアドバイスされることはない。
また、ミーティング中は特定の施設や団体等の名前を出すことは禁止されている。
しかしその後「ご飯行きましょ」という流れがあり、どこの病院がいいとかそういう話はミーティング後にすることになる。正直状況的には藁をも掴む思いなので、参加した。
前述の通りミーティング後の食事等でまた状況の話をするわけだが、何を話しても「それは病んでいる」「おかしい、普通じゃない」といった反応がくる。
正直病んでてもともとなのである。
自分の話になるが、物心がついたときから「死にたい」と言って暴れたり、自傷行為に走ったりしてきて、頻繁に家出もしていた。大人になってからやっとの思いでメンタルクリニックにつながり、服薬とカウンセリングでなんとか生きてきたし、今もそうだ。
親との関係がそもそも拗れていたのだが、最近になって親との関係も徐々に清算されてきた。親元はすでに離れているのだが、親も勉強したり考えたりしたようで、こちらも落ち着いて話せる環境になってきた。親には、「心配はするけど、生きたいように生きなさい」と言ってもらえて、荷が下りたような気持ちになったのが、最近のことである。
病みつつ、病んでるなりになんとかやっていっている。
そこに状況の否定が来ると、混乱する。
おかしいと言われれば、たしかにおかしいだろう。病んでいる。そんなことはわかっている。
まあ、おかしいだとか普通じゃないと否定される分には「世間的にはそうですよね」で片付けられるのだが、決定的にしんどかったことの一つが、自助グループ以外の繋がりを否定されたことだ。
前述のとおり、同じような境遇の友人がそれなりの数居り、お互い「それはつらいね」「そういうとき、私はこうしたよ」など、傾聴を重視した関係を築くことに成功したわけだが、そのことをぽろっと自助グループで話したところ「友人に話すことはあまりよくない」といったことをアドバイスされた。
また、親とも少しずつ和解しており、今では困ったことがあると相談する関係なのだが、そのこともぽろっと話したら「親に相談することも良くない」らしかった。
そして、「自助グループで話すのがいい」という流れになる。相談するなら自助グループの人にしなさいと連絡先を渡された。
友人に話すことには良くない面もある、それは理解できる。
「死にたい」「つらい」「助けて」といったことを頻繁に友人に対して言うのは、友人に心的介護を要求することになる。それは友人にとって良くないのはもちろん、自分にとっても良くない。介護する側と介護される側となると、対等な関係ではなくなるからだ。
しかし、そこは理解した上で、友人とは付き合っている。本当にどうしようもないときは、病院やカウンセリングに頼る。友人にサービスは要求しない。傾聴はするし、お互いの嬉しかったことや悲しかったことを共有こそするが、それは友人関係の範囲でのことだ。逆に、その辺りの意識が共有できない相手に相談することはない。
これは(成人して一応社会生活を送れる身としては、)友人を親に置き換えてもほぼ当てはまる。少なくとも私の状況では。
なので、病院やカウンセリングを中心に頼っている今は、友人たちとも親ともかなり良好な関係が築けていると思っている。
友人や親とは一応心配しあってはいるし、お互いの状況や気持ちを聞いて「そりゃきびしいなあ」とか「やったやん」などと言うことはあるが、それで「あれをしてあげた、これをしてあげた」ということはない。
そんな関係を、あまり詳しく話をしていない段階で否定されたことに衝撃を受けた。
また、そもそも傾聴が重視されるはずの自助グループで傾聴が機能していなかったことも衝撃だった。
夫とはクールダウン期間として別居しているのだが、事情を考慮した結果、また同居をするつもりでいる。
その旨を話すと、鬼のように止められた。
たしかに同居にはデメリットもある。心理的に距離が保てない(=自他境界が曖昧な)二人が同居すると、それはそれはトラブルが絶えない。
しかし、「自他境界が曖昧で問題が起こる」ということを自覚した上で、病院やカウンセラーを頼りつつ落としどころを見つけていく、ということはそんなにまずいことなのだろうか。
実際、別居のメリットも十分感じた。
最初はお互い(別居に対する)抵抗感があったが、一回離れてみると見えてくることはたくさんある。自分の生活を律するのは最終的に自分だということ、金銭的にお互いを頼ることはなるべく避けた方が良いこと、べったりと一緒にいなくても生きていけること、たくさん気づくことがあった。
でもその上で、仕事場へのアクセスや金銭的事情、また単純に「適度に自他境界をつくり、一緒にいる楽しさに目を向けられる関係を目指したい」という点で、つまり試行錯誤をするというプロセス上、とりあえず同居してみてもいいのではないかと思っている。
トラブルがあれば、その都度カウンセリングや医療機関を頼る、また一時的に親族の元に身を寄せることもできる体制を構築した。これが保険となり、同居を前向きに考えられるようになった。
細々(こまごま)とした事情を自分の中の天秤にかけた結果が「同居」なのだが、それは自助グループ的にはあり得ない様子なのである。
これがまた結構な人数で説得される。そうなると場としては同調せざるを得なくなってしまい、「確かにそうですね…」と言ってしまった。
そのことがまあまあなダメージで、自助グループに行く度に「同居絶対ダメ」と説得されるのだが、そのあと1~2日はもやもやして寝込んだり泣いたりしてしまった。
もともとメンタルの病で意志薄弱なところがあるのだが、私のことは私で決める、ということが少しずつ出来るようになってきたところだ。
そこに大人数の説得が来て、かなり混乱した。もしバックボーンが違えども混乱するのではないか、と思う。
また付け加えると、ミーティング中の発言に関しても多少の突っ込みを受けた。これでは「言いっぱなし聞きっぱなし」の意味がなく、傾聴とは言えないのではないだろうか。もやもや、もやもや…
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その自助グループに参加してから、混乱したり寝込んだり涙したりしていたわけだが、その自助グループで「確かにそうですよね」等と言っていると、どんどん自助グループへの関与を勧められる。毎日どこかしらでやっているので、ほぼ無限に勧めることが可能なのだ。
それで、その場の流れで「では、~曜日は~でやっている会に参加します」などと言ってしまった(本当は、要らないことは言わなければいいので、ここは私の落ち度と思う。)。
その場では参加する宣言をしたわけだが、私の場合、しんどさは大体翌日~翌々日にやってくるので、その場は平気でも後々「あんなことを言ってしまったが、行かなければならないのか…死にたい…」という状態になる。
行く宣言をした自助グループの会を翌々日に控え、「死にた~い…」となっていたとき、前からかかっているカウンセラーの顔が浮かび、カウンセリングで相談したらいいのではないかと考えた。
ここ数ヵ月希死念慮は無かったのに、こんなに死にたいのはまずい状況だ。しかし意志薄弱傾向もあって、「自分で決められない、誰かに相談しないと落ち着かない…誰か背中を押してくれ…でも友達にも親にも話すのはやめた方がいいって言われたし…」等と、くどくど考えていたが、最終的に友人が背中を押してくれたので、すぐカウンセリングに行くことにした。
カウンセラーにつらさを話すと、まずつらさを肯定してくれた。もうこの時点で涙が出るほど安心した。
一通り打ち明けたところ、自助グループの役割や傾聴の意義について説明を受けた。また、傾聴が徹底されている自助グループもたくさんあり、自助グループが全部私の経験したような場所ではないことも教えてくれた。
心の底から、「このカウンセラーさんと繋がっていて良かった…」と思った。
結局、しんどかった自助グループとは距離を置くことにした。今は、カウンセラー、医師と相談しつつ生活を建て直し、また傾聴が機能している他の自助グループに参加してみる方向で動いている。
何故この文章を書いたかというと、「自助グループ しんどい」で検索すると、「自助グループに行きたくないというのは偏見があったり、病識がないからだ」「とりあえず継続して行った方がいい」といった記事が出てくるからだ。
その自助グループや、自助グループというもの自体を否定する気持ちは全く無い。実際、それで助かっている人はたくさんいるからだ。継続して色々な場所の会に通えば、どこかしらで自分と合った環境が見つかることも考えられる。吐き出せる場所が見つかれば、問題を抱えた人にとっては大きな助けになる。
私も、「それはそう、でも私はこうする」という切り分けができれば、多分その(しんどかった)自助グループに通っていたと思う。また、そこはしんどくても、同じグループの他の会を探すとか、しんどくてもご飯の流れだけは断って自衛するとか、そういう手もあった。
でも、傾聴があまりよく機能していない自助グループに、病気持ちで意志薄弱の傾向がある人が行くと、調子を崩すこともある。
場の流れを崩す恐怖が強くて、うまく自衛ができない人もいる。
その場合は、カウンセラーや医師に相談してみてほしい。自助グループは、死にたくなってまで行くものではないと思う。また、そこまで病的に意志薄弱(または意志があってもそれを伝えるのが苦手)なのであれば、まず医療機関等を頼るのが最優先だ。
それに、自助グループはたくさんあるので、「ここしかない」ということもない。その点でも、医師やカウンセラーと相談して、安心して話せる自助グループを探してみてほしい。
(カウンセラーについても、無資格のカウンセラーはたくさんいますが、臨床心理士さんのいるカウンセリングルームの方が安定感があるのでおすすめします。ライフハック。
臨床心理士さんが居る相談機関を探せるホームページがあるので、リンクを張っておきます。
また、特定の自助グループを非難する意図も、自助グループの存在を非難する意図もありません。
先日、初めてある自助グループに参加した。
私は既婚なのだが、夫婦間での問題が実害として表れ始めたので、相談機関に相談したところ、自助グループに参加することになった。
なにかしらの問題を抱える人が集まり、お互いの経験や現状を話し、つらさなど気持ちを分かち合う場だ。基本的に「言いっぱなし・聞きっぱなし」、すなわち問題や気持ちを吐き出して整理する場所で、傾聴に重点がおかれた形式をとることが多い。
なぜ、傾聴が重視されるかというと、発言に対して正論で責められると吐き出すものも吐き出せず、結局そこでは安心して話せないことになるからだ。
そもそも、正論で片付けられるような状況であればそこまで困っていないというのもある。問題というのは様々なバックボーンや出来事のタイミングなど複雑な要素で成り立っているので、誰かにとっての正論が必ずしも当てはまるものではないということは確かだ。
とりあえず、誰にも言えないことを吐き出せる。そういう場所として自助グループがある。
具体的なアドバイスは医師やカウンセラー等、金銭的対価を払って、ある意味「職業的責任を持ってくれる」人たちに頼ることが良いかと思われる。(個人的感想です。)
私もメンタルの病を持っており、医師やカウンセラーに頼りつつ、同じようにメンタルの問題がある人と繋がったり、信頼できる人を見つけて、お互いに傾聴するような関係を築いたりもしてきた。そういう前提のもと、前述の経緯で、ある自助グループに参加した。
~~~~~~~~~~~
びっくらこいた。
形式上は傾聴だ。まずミーティング的なものがあり、その際は順々に気持ちを吐露していく。これについてその場でアドバイスされることはない。
また、ミーティング中は特定の施設や団体等の名前を出すことは禁止されている。
しかしその後「ご飯行きましょ」という流れがあり、どこの病院がいいとかそういう話はミーティング後にすることになる。正直状況的には藁をも掴む思いなので、参加した。
①全体的に否定される
前述の通りミーティング後の食事等でまた状況の話をするわけだが、何を話しても「それは病んでいる」「おかしい、普通じゃない」といった反応がくる。
正直病んでてもともとなのである。
自分の話になるが、物心がついたときから「死にたい」と言って暴れたり、自傷行為に走ったりしてきて、頻繁に家出もしていた。大人になってからやっとの思いでメンタルクリニックにつながり、服薬とカウンセリングでなんとか生きてきたし、今もそうだ。
親との関係がそもそも拗れていたのだが、最近になって親との関係も徐々に清算されてきた。親元はすでに離れているのだが、親も勉強したり考えたりしたようで、こちらも落ち着いて話せる環境になってきた。親には、「心配はするけど、生きたいように生きなさい」と言ってもらえて、荷が下りたような気持ちになったのが、最近のことである。
病みつつ、病んでるなりになんとかやっていっている。
そこに状況の否定が来ると、混乱する。
おかしいと言われれば、たしかにおかしいだろう。病んでいる。そんなことはわかっている。
②繋がりを否定される
まあ、おかしいだとか普通じゃないと否定される分には「世間的にはそうですよね」で片付けられるのだが、決定的にしんどかったことの一つは、自助グループ以外の繋がりを否定されたことだ。
前述のとおり、同じような境遇の友人がそれなりの数居り、お互い「それはつらいね」「そういうとき、私はこうしたよ」など、傾聴を重視した関係を築くことに成功したわけだが、そのことをぽろっと自助グループで話したところ「友人に話すことはあまりよくない」といったことをアドバイスされた。
また、親とも少しずつ和解しており、今では困ったことがあると相談する関係なのだが、そのこともぽろっと話したら「親に相談することも良くない」らしかった。
そして、「自助グループで話すのがいい」という流れになる。相談するなら自助グループの人にしなさいと連絡先を渡された。
友人に話すことには良くない面もある、それは理解できる。
「死にたい」「つらい」「助けて」といったことを頻繁に友人に対して言うのは、友人に心的介護を要求することになる。それは友人にとって良くないのはもちろん、自分にとっても良くない。介護する側と介護される側となると、対等な関係ではなくなるからだ。
しかし、そこは理解した上で、友人とは付き合っている。本当にどうしようもないときは、病院やカウンセリングに頼る。友人にサービスは要求しない。嬉しかったことや悲しかったことを共有こそするが、それは友人関係の範囲でのことだ。逆に、その辺りの意識が共有できない相手に相談することはない。
友人たちとはかなり良好な関係が築けていると思っている。そこを、あまり詳しく話をしていない段階で否定されたことに衝撃を受けた。(今思うとあまり詳しく話をしていない状況だったから否定されたのかもしれない。)
③傾聴が機能していない
また、そもそも傾聴が重視されるはずの自助グループで傾聴が機能していなかったことも衝撃だった。
夫とはクールダウン期間として別居しているのだが、事情を考慮した結果、また同居をするつもりでいる。
その旨を話すと、鬼のように止められた。
たしかに同居にはデメリットもある。心理的に距離が保てない(=自他境界が曖昧な)二人が同居するとそれはそれはトラブルが絶えない。
しかし、「自他境界が曖昧で問題が起こる」ということを自覚した上で、病院やカウンセラーを頼りつつ落としどころを見つけていく、ということはそんなにまずいことなのだろうか。
実際、別居のメリットも十分感じた。
最初はお互い(別居に対する)抵抗感があったが、一回離れてみると見えてくることはたくさんある。自分の生活を律するのは最終的に自分だということ、金銭的にお互いを頼ることはなるべく避けた方が良いこと、べったりと一緒にいなくても生きていけること、たくさん気づくことがあった。
でもその上で、仕事場へのアクセスや金銭的事情、また単純に「適度に自他境界をつくり、一緒にいる楽しさに目を向けられる関係を目指したい」という点で、つまり試行錯誤をするというプロセス上、とりあえず同居してみてもいいのではないかと思っている。
トラブルがあれば、その都度カウンセリングや医療機関を頼る、また一時的に親族の元に身を寄せることもできる体制を構築した。これが保険となり、同居を前向きに考えられるようになった。
細々(こまごま)とした事情を自分の中の天秤にかけた結果が「同居」なのだが、それは自助グループ的にはあり得ない様子なのである。
これがまた結構な人数で説得される。そうなると場としては同調せざるを得なくなってしまい、「確かにそうですね…」と言ってしまった。
これがまあまあなダメージで、自助グループに行く度に「同居絶対ダメ」と説得されるのだが、そのあと1~2日はもやもやして寝込んだり泣いたりしてしまった。
もともとメンタルの病で意志薄弱なところがあるのだが、私のことは私で決める、ということが少しずつ出来るようになってきたところだ。
そこに大人数の説得が来て、かなり混乱した。もしバックボーンが違えども混乱するのではないか、と思う。
また付け加えると、ミーティング中の発言に関しても多少の突っ込みを受けた。これでは「言いっぱなし聞きっぱなし」の意味がなく、傾聴とは言えないのではないだろうか。もやもや、もやもや…
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それで混乱したり寝込んだり涙したりしていたわけだが、その自助グループで「確かにそうですよね」等と言っていると、どんどん自助グループへの関与を勧められる。毎日どこかしらでやっているので、ほぼ無限に勧めることが可能なのだ。
それで、その場の流れで「では、~曜日は~でやっている会に参加します」などと言ってしまった(本当は、要らないことは言わなければいいので、ここは私の落ち度と思う。)。
それで参加する宣言をしたわけだが、私の場合、しんどさは大体翌日~翌々日にやってくるので、その場は平気でも後々「あんなことを言ってしまったが、行かなければならないのか…死にたい…」という状態になる。
行く宣言をした自助グループの会を翌々日に控え、「死にた~い…」となっていたとき、前からかかっているカウンセラーの顔が浮かび、カウンセリングで相談したらいいのではないかと考えた。
ここ数ヵ月希死念慮は無かったのに、こんなに死にたいのはまずい状況だ。しかし意志薄弱傾向もあって、「自分で決められない、誰かに相談しないと落ち着かない…誰か背中を押してくれ…でも友達にも親にも話すのはやめた方がいいって言われたし…」等と、くどくど考えていたが、最終的に友人が背中を押してくれたので、すぐカウンセリングに行くことにした。
カウンセラーにつらさを話すと、まずつらさを肯定してくれた。もうこの時点で涙が出るほど安心した。
一通り打ち明けたところ、自助グループの役割や傾聴の意義について説明を受けた。また、傾聴が徹底されている自助グループもたくさんあり、自助グループが全部私の経験したような場所ではないことも教えてくれた。
心の底から、「このカウンセラーさんと繋がっていて良かった…」と思った。
結局、しんどかった自助グループとは距離を置くことにした。今は、カウンセラー、医師と相談しつつ生活を建て直し、また傾聴が機能している他の自助グループに参加してみる方向で動いている。
何故この文章を書いたかというと、「自助グループ しんどい」で検索すると、「自助グループに行きたくないというのは偏見があったり、病識がないからだ」「とりあえず継続して行った方がいい」といった記事が出てくるからだ。
その自助グループや、自助グループというもの自体を否定する気持ちは全く無い。実際、それで助かっている人はたくさんいるからだ。継続して色々な場所の会に通えば、どこかしらで自分と合った環境が見つかることも考えられる。吐き出せる場所が見つかれば、問題を抱えた人にとっては大きな助けになる。
私も、「それはそう、でも私はこうする」という切り分けができれば、多分その(しんどかった)自助グループに通っていたと思う。また、そこはしんどくても、同じグループの他の会を探すとか、しんどくてもご飯の流れだけは断って自衛するとか、そういう手もあった。
でも、傾聴があまりよく機能していない自助グループに、病気持ちで意志薄弱の傾向がある人が行くと、調子を崩すこともある。
場の流れを崩す恐怖が強くて、うまく自衛ができない人もいる。
その場合は、カウンセラーや医師に相談してみてほしい。自助グループは、死にたくなってまで行くものではないと思う。また、そこまで病的に意志薄弱(または意志があってもそれを伝えるのが苦手)なのであれば、まず医療機関等を頼るのが最優先かと考えている。
あと、自助グループはたくさんあるので、「ここしかない」ということもない。その点も、医師やカウンセラーと相談して探してみてほしい。
(カウンセラーについても、無資格のカウンセラーはたくさんいますが、臨床心理士さんのいるカウンセリングルームの方が安定感があるのでおすすめします。ライフハック。
臨床心理士さんが居る相談機関を探せるホームページがあるので、リンクを張っておきます。
※極力ネタバレしないようにがんばる。
ボーイズラブアンソロジー『Canna vol. 84』を読んだ。最終回ラッシュだったのだが、ある一つの作品が全てを持ってく勢いだったので、同時に最終回を迎えた作品がちょっと気の毒な気もするんだけど、でも雑誌の講読者もけっこう自分の好みの作品以外は目に入らないっぽいので、大丈夫だったりするのだろうか。
という訳で、全部読んだけど感想を書くのは一つだけ。
高校教師の佐田は、不審者対策の夜回り中、殺人鬼に襲われて死亡した。ところが、彼はマッドサイエンティストの間宮に拾われてゾンビとして蘇生され、被検体として飼われることとなる。
どんな傷でもたちどころに治癒する、ほぼ不死に近い体になってしまったのとひきかえに、ヒトの屍肉しか食べられなくなってしまった佐田。彼の食糧を得るために間宮は殺人を企てる。佐田は間宮を非難したものの、間宮の殺人を幇助するようになり、そして次第に罪悪感を麻痺させてゆく。
間宮邸での暮らしにすっかり慣れた頃、佐田の生存と居場所が彼の元同僚にバレてしまう。逃亡せざるを得なくなった佐田と間宮だが……。
追い詰められてゆく間宮の描写が凄かった。生来、口が悪くて言いたいこも言うつもりじゃなかったこともずけずけ言ってしまう性質の間宮が、佐田の前で絶望的未来予測を口走りそうになりながらも、佐田を案じて虚勢を張り、皮肉を言うのを堪えつつ、率直な言葉で愛を告白し、大丈夫だと佐田と自分自身に言い聞かせる。動揺しつつも気を奮い立たせてすべき事をするはずが、行動を起こすことそのものが現実逃避に繋がり、佐田の声を聴く耳を塞ごうとする。ともすれば自分の殻の中に逃げ込み閉じ籠ってしまいそうなのを、佐田への強い愛情が辛うじて引き止める。
間宮の行動原理はとっくの昔にすり変わっている。ゾンビ化研究で成果を出し名を上げて彼と彼の大伯母を馬鹿にした奴らの鼻をあかすことではなく、すべては佐田を生かすために。
だが当の佐田は間宮に研究に没頭しろと諭す。辛いことも悲しいことも忘れさせてくれるほど、熱中できることを持てるのはいいことだと。一人きりでも生きていくには。間宮にとって、何もかも忘れることが出来るほど熱中させてくれるものは、とっくのとうに研究ではなく佐田に置き換わっていたというのに。佐田の言葉は間宮にとってあまりにも残酷だ。
ラスト数ページの、佐田のために間宮が狂っていく場面は圧巻だった。
ここまで受けが攻めに対するクソデカ感情を持ち、それに狂わされて堕ちていくBLって珍しいんじゃないかなあ。どちらかといえば、そういうのは攻めの役割になりがちかと。
恋情と憧れ、劣等感、嫉妬、憎しみ、罪悪感そして献身……それらがごちゃごちゃに混ざって爆発寸前な感じ。むしろBLよりも百合の十八番のような……ずっとBLなのに百合百合しい作品だった。『さようならアルルカン』『少女革命ウテナ』『魔法少女まどか☆マギカ』『ルックバック』が好きでBLも読めるという人は是非どうぞ。
はぁ、むっちゃ泣いたわ。しばらく立ち直れそうにない。