はてなキーワード: なりたけとは
化粧をして、いつもと違う自分になれるのが好き。
ネイルをして、いつでも見える体の一部に「嫌なことがあってもテンションを上げられるお気に入りの宝石箱(概念)」を飾っておけるのが好き。
そう思ってるから、女として生まれたことを後悔したことは一度もない。むしろ女で良かった。
高いヒール履いて化粧濃くてギラギラのネイルしてる女なんて全然モテない。それでも私はそういう自分が好きだし、止めるつもりもない。
髪を短く切って、化粧しないで、体毛ボーボーのまま放置して、体のラインを隠すような服を着て、男のような振る舞いをして?
人が誰しも自由にのびのびと生きられる世界って、むしろ「男でもキレイになりたければ化粧していい、スタイルをよく見せるためにヒールを履いたっていい。女らしさに縛られたくないなら化粧しなくていい、ヒールを履かなくていい」じゃないの?
自分たちが化粧したくないなら、ヒールを履きたくないなら、そうすればいい。
でもそれを強要するのだけは止めてくれ。
私はコンテンツ警察ではない。ウマ娘というコンテンツそのものやまして二次創作がどうなろうが全く興味がない。
ただ、一般人のくせに馬主との格の違いをわきまえぬ愚か者が多すぎるので、その恐れ知らずぶりに戦々恐々としてしまうということが言いたい。
まず「一般庶民の分際で馬主に気軽に話しかける」という人間の神経が理解できない。
二度とG1級の馬の馬主の人になれなれしく話しかけようとか思わない方がいい。文字通り世界が違う存在だ。
1.今後も継続的に得られる見込みのある所得金額(収入金額ではありません)が、過去2か年いずれも1,700万円以上あること。
個人馬主の登録自体はハードルはかなり低い。実際このハードルが低すぎるせいでまともに育てられないくせに馬を所有したがる個人馬主が飼育放棄をしたり、途中で売り飛ばしたりして社会問題になったりしてた時期もある。
しかし規則にはないが強い馬の馬主になるためには目に見えない高い高いハードルがある。かつての関口房郎のエピソードなどを見るに、ダービークラスの見込みがある馬の馬主になりたければ資産50億あってようやく入口に立てる世界。
最近新規上場株18億を東証に黙ってこっそり売り抜けして叱られが発生した個人投資家の片山氏はかなり気合を入れて馬主をやっており今度は自ら生産者にまでなろうと気合をいれているが、今の時点ではろくに勝てる馬を所有できていない。 https://db.netkeiba.com/owner/086803/
自分の持ち馬に東方のキャラ名だとかラブライブの楽曲名をつけて検索汚染しまくる迷惑おじさんで、今日もフローラSでスノーハレーションって馬を出走させたものの見せ場なく惨敗。使うならサイゲームスのキャラ名使え。プリンニシテヤルノ。
G1ホースの馬主であるというのは、金があるだけではなれない、運も人脈もすべてが要求される日本に残された真の上流階級の証である。
実際に牧場に客を迎えたり、墓参を受け入れるというのも業務の一環としてやっている。
自分たちで育ててきた馬への愛が強く、馬へのリスペクトさえ欠かさなければ寛大だ。
たいていの馬主は、馬に愛情がないとは言わないがそれ以上に経済価値の方を重視する。経済価値を貶めるようなことをするような奴は本気で許さない。
そうでないだけでもとてもありがたい存在だ。
こういう馬主はSSSSSSSSレアである。クラシックホースの馬主さんが一般庶民と会話することなどまずありえないと思った方が良い。
また、西山さんは自ら長い間ブログ更新をしており、twitter歴も長い。
さらにいえば今回の件事情を把握してくれようとしているのも、オタクたちのためにではなく、サイゲームス側への配慮だ。そこを勘違いしてはいけない。
今回の西山さんはどちらかというとエゴサして向こうから話しかけてくるタイプでありそのせいで距離感がバグった人たちもいたようなので必ずしも話しかけた奴が100%悪いとまでは言わない。
西山牧場はもともと社台並みの超名門だったが先代がバブルのときにやらかし西山氏が改革を断行して規模を縮小した結果こじんまりとした経営になったという特殊な事情がある。
超強い馬を世に送り出してくれたにもかかわらず我々と距離感が近いだけだ。
それでもやはり我々とは格が違う。
格の違いをわきまえないウマ娘オタクはわきまえない女たちの1億倍害悪。社会的に許容されない。わきまえよ。
心配していってやってんのにわきまえないウマ娘オタクから心無い言葉を浴びせられて萎えるわ。ほんとにわきまえないな
>なに勘違いしてるのか知らんけどそもそも今回問題になったの「"無敵の人"であるアンチが馬主に凸ってキレさせる」って事象やぞ、ファンと馬主の距離感とかなんも関係ないぞ
わかっとるわ。アンチよりも、その前から西山さんになれなれしく話しかけたり騒動が起きた後になれなれしく質問してたウマ娘オタクの方が目障りだったって言ってんだよそんなこともわからないからウマ娘オタクは嫌いなんだよ
いろいろな猫好きによるアンソロジー
中学の教師に迷い込んだ猫による先生の家族や友人を猫目線にしている
なにかに夢中になってる猫は何かの仕事をしているようだと思いついた人間による猫へのインタビュー本
100万回しなない猫がいたんですよ・・・
猫と二人暮らししていた人が余命わずかになってしまって、この世界から一つ消すかわりにあなたは一日だけ命を得ることができると悪魔から取引される話。
唯一の身内である母を突然なくした主人公のもとに一匹の猫がやってきて、母がやっていた食堂を主人公が再オープンする話
最近テレビなどで、Adoさんの「うっせえわ」が10代に人気であると取り上げられている。
私もこの曲を聴いてみたが、過激で暴力的なハードロックの曲調と詞が印象的だ。確かにこれは若い人々の気持ちを代弁しているといえる。私が19歳頃に抱いていた気持ちに近い。
一方でこの曲を痛々しいと批判する人も多い。「こんな曲を聴くなんて幼い」「結局何もしない口だけの人間のざれ言」など色んな声がある。その事についてまとめサイトの記事でも少なからず取り上げられた。
私はこの意見が出るのは当然かもしれないと思った。このような曲には一定数の人は反感を覚えるものだ。昔の愚かな自分を思い出すという共感性羞恥を覚える人やそもそも曲風が馴染まないなど理由は様々だ。このような感想はあっていい。
その上で「かつての自分の痛々しさを思い出される」という理由でこの曲を否定する人を、私は痛々しいと思う。
「うっせえわ」を否定したところで自らの痛々しい経歴は変わらないからだ。人々はそれぞれの性格や環境から各々の業を背負い生きている。その人の振る舞いを見ればその人がどのような人生を歩んでいるのか分かるくらいだ。私の人生の遍歴が分かる察しのいい人もこの記事の読者にいるであろう。
そのため過去に痛々しいことをした人が、痛々しい歌を否定することで「綺麗」になろうとしているのがかえって痛々しく思えるのだ。かえって自分の愚行を言い触らしているようなものである。本当に綺麗になりたければ他にやるべきことはあるであろうに。実際にそれで綺麗になった人もいるだけに彼らの恥の上塗りが目立つのだ。
私も正直この「うっせえわ」を聴いて、痛々しさを感じた。だけどもそれ以上にこの曲を叩いて綺麗になろうとする人々の業にはより激しい痛々しさを感じたのだった。
・欧米だったらとりあえずやらせてみる事実はどこにあるのか。あるのならそこに留学なり就労ビザとって飛んでいくくらいのことをしてみればいいのでは。(コロナだから出来ないというのならわかるが)
・役職・学歴がなくても才能とインターネットがあれば今このときからでも「自分一人での仕事」はできる。アニメーターになりたければまず無料で短いGIFからつくってみればいい。あるいは本をつくってうりたければ今は電子書籍という形でなろう小説だのなんにでもなれる。ものを売り買いする人になりたいのであれば家庭内の不用品をメルカリで丁寧に梱包して売ることから初めてみてはどうか。贅沢な雰囲気を感じられる職場につきたいのであればその贅沢な雰囲気を出すのに必要なものを自分で稼ぐことから始めないと無駄遣いの癖がついてしまう。そうやって経験ならいくらでもつめるし、自ら多少ツライことでも経験をつもうと努力できることが才能なのではないか。
・あなたが欲しているのは本当はなんなのかをよくかんがえて。役職・学歴がなくても安定した収入がほしいということですか?たとえばコロナ下での配布に頼るとか生活保護という手もありますよ。結局、才能とはおのずから目立つものだし、自分の目だたない才能を他人に見出して欲しいと思っているのであれば、学校やネットなどで切磋琢磨して証明していくしかないとおもいます。
これまで普通を装って生きてきた。本当はこうしたい、ああしたい、けどそれは『普通』じゃないからという理由で、普通でありたくて自分を殺してきた。
けれどそうやって自分を殺して生きていると、ある日衝動的にキレてしまう。
相手からすれば急に音信不通になり、滅多に酒など飲まない人間が突然酒に溺れて出社できなくなり、給料は貯金もせずに全部パチンコ・性欲・物欲で無駄遣い。
それがいけないことだともちろん知っている。人並みに幸せになりたければ人並みのことをしないといけないと理解している。
それでも35年間、なんとか生きこられたのは周りの支えがあり、親や先生方の教えによって、自分にもなんとか表向きを取り繕うだけの常識があったからだ。
それが普通ではないと僕は知っていた。
ある人は言った。生きている以上誰もが自分を偽り、それなりに辛い目に遭いながらなんとか生きている、と。
それはもちろんそうだと思う。
けれど自分はこの世界では生きにくかった。歳を取るほどに自分は普通じゃないことを嫌でも思い知り、歳を取るほどに自分は普通になりたかった。
頼りになると思っていた人たちは愛想を尽かして僕から離れていった。
僕にどうしろというのだ。
どこの誰に相談すればうまくいくのか、それとももう自死を選んだほうがよっぽど社会のためなのか、僕にはわからない。
僕は、生きにくい。
差別が無くなった地球。それは、人類が平和の種である事の象徴だと思う。
今この世の中は人種差別、性差別、身分差別、障がい者差別など、多くの問題を抱えている。
しかし、「差別を無くそう」と声高に主張する者たちへ、私は伝えたいことがある。
途中で読むのをやめず、どうか最後まで聞いてほしい。
あなた達は、生物を食していないだろうか?主に、牛や豚や鶏などの「家畜」を。
この世には、「人権」という言葉がある。それと共に「種差別」という言葉もある。種差別とは、人間中心主義に異議を唱えたものだ。
牛や豚や鶏が狭い小屋で無理やり繁殖させられ、若いうちに殺され、そして私達の食卓へ並ぶ。彼らの命はその繰り返しであり、更にその扱いは己の身に置き換えると想像もしたくないような残酷さであることはご存じだろうか。
もしかしたら存じた上でヴィーガン(完全菜食主義者)になった者もいるかもしれないが、じゃあ寝ている間に、人間の口と知らずに入ってきた虫を無残に噛み潰していないと、証明することはできるか?
私達が生きるのに生物が犠牲になるのは可哀想だけど、弱肉強食の世界では仕方がない、そんな声も聞こえてくる。
話は変わるが、世界の、主にインドには、ジャイナ教と言う宗教を信じている者がいる。その修行者は非常に厳しい禁戒を守って生活をする。
その中の一つが「生きものを傷つけないこと」だ。
彼らは、あらゆるものに命が宿っているとし、生物はもちろん、植物や火や風などにも命を見出している。
行いは徹底しており、目に見えない微生物や虫を吸い込んで殺すことが無いよう、常にマスクをしている。
自分が動物に襲われても、決して動物を傷つけるようなことはせず、心から信じる教えを守る為に死を覚悟する。
ある時、飲み水の中にも微生物がいると知ったジャイナ教徒がその微生物を殺すくらいならと、衰弱死を選んだという逸話がある。
彼らの話を聞いてあなたはどう思っただろうか。少なくとも「自分と違う」と思ったのではないだろうか。
ところで、みんなの信じている「人権」というものはどこから生まれたのだろう。
人類が誕生した頃にはまだ無かった。そして、科学実験で見つかったものでもない。そう、人権とは、いつの間にか人間が作り出していた物語だ。
さあ、ジャイナ教徒の信じる教えと、私達の信じる人権に大きな共通点が見つかった。どちらも「フィクション」なのである。
ジャイナ教徒から「あなたは水を飲むので生物を差別しています」と言われたとして、何か言い返しても、それは不毛な争いなのだ。
私たちは、フィクションを心の底から信じ、フィクションを守る為に戦っている。
そして新たなフィクション「差別のない世界」を作ろうとしている事は、受け入れられずとも知っておいた方が良い。
あなたは、夢に近付く努力をしているだろうか?「俺はビートルズのようになるんだ」とデカい事を言うだけで、曲を一曲も書かない自称ミュージシャンにはなってはいないだろうか?
勿論、夢を語るのは悪いことではない。「俺はビートルズのようになるんだ」なんていくらでも言って構わない。
しかし、本当にビートルズになりたければ、まずするべきことは曲を作ることだろう。
もしあなたが本当に差別を無くしたいのなら、その為にまずするべきことは、目の前の人を思いやる事ではないか。
自称ミュージシャンは、曲さえ作ればビートルズを超えられる可能性だってある。
今あなたが目の前の人を思いやれば、いつの間にか差別という言葉が消え、それは未来で遠い過去の化石として発掘され、未来人の頭を悩ます不思議な概念になっているかもしれない。
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必要だと思ったので補足