はてなキーワード: なかのひととは
よくバブルから未婚率が上がったって言われるけれど真相はこうなんよ
https://president.jp/articles/-/59714?page=2
その皆婚社会が崩れ始めたのは今から30年前の1990年以降であり、2000年以降に本格化した。これをバブル期に未婚化が進んだ、と理解してはいけない。1990年に「50歳の未婚率」が上がったのは、1940年代生まれ、戦中から戦後の団塊世代の人たちが皆婚社会を終わらせたと読むべきである。そして2000年以降の未婚率の急上昇も、1950年代生まれ、60年代生まれの未婚者が増加した結果であり、けっして最近の若者の傾向ではない。人生100年時代とうたうように、結婚も長い人生のなかのひとつのプロジェクトである。結婚するかしないか、それが私たちに可視化されるには時間がかかる。<<
これへの追加情報として
その他、特に自動車企業との悪しき癒着が強いテレビ局や新聞社も含めたマスコミ、メディアで顕著な偏向報道の傾向として
というものがある。
性虐待以外は優しい親だったというパターンについて思い出したこと
新聞の性虐待に関する特集記事で、さまざまな実体験が語られていたのだけど
そのなかのひとつに、祖父に虐待されていた女性の体験談があった。
当初は受け入れていたが、知識がついていけないことだと思い、拒否するようになった
その後も祖父とは何事もなかったように仲良く過ごし大往生して逝ったが、
って書いてあったのね
今も苦しんでいる被害者にとっては許せない話なのではないだろうか
新聞がどういうつもりでこの体験談を載せたのかわからないけど、
普通に克服して人並みの幸せも手に入れ、加害者は憎まれることもないって、
虐待は「いたずら」程度で済む話なんですよって
https://anond.hatelabo.jp/20200422173105
【開発職】 もう都内に出勤したくない
https://anond.hatelabo.jp/20200405020252
https://anond.hatelabo.jp/20200405120629
https://anond.hatelabo.jp/20200412164908
https://anond.hatelabo.jp/20200417235716
https://anond.hatelabo.jp/20200417184425
小川洋子さんの「妊娠カレンダー」を読んだ。妊婦の姉を見つめる妹の心情に、なんとなく共感してしまった。
新しい生命の誕生は幸福なことだというのが一般的な意見だと思う。しかし、お腹がまるく膨らんだ女の人を見たとき、私は幸せよりなにより、うっすらとした恐怖を感じてしまう。あのなかに、あの女の人ではない誰かもうひとりがいるのだ。それも、まだ未完成の誰かが。
よく、自分が妊婦になったときのことを想像する。うっすらとした恐怖はより鮮明になる。自分の中で自分じゃないものが息づいていて、そのいのちを作るのも壊すのも自分、と見せかけて実はそんなことはない。自分の手では決してどうこうできないのに、自分の体の中に「それ」はいる。宿っている。人間になるかもしれないし、ならないかもしれない。それを私は操れないのに。
「それ」は、赤ちゃん、というより、胎児だ。胎児、という言葉を聞くとき、私はその言葉と人間とをうまく結びつけることができない。胎児のイメージに近いのは、生卵だ。ぬるぬるしていて、すぐに潰れてしまいそうなところとか。
胎内のいのちのかたちを、うまく想像できない。そういう感覚は、「妊娠カレンダー」のなかで、妹が姉の赤ちゃんを「染色体」と考えていたのとすこし似ていると思う。
こんなことを考えるのは罰当たりなことなのかもしれない。私はいのちを正しくいのちとして認識できていないのかもしれない。想像ではなく本当に、私の胎内にいのちが宿ったとしたら、考えも変わるのだろうか。胎児に怯える自分の姿しか、想像できないのだけれど。
話は変わるが、新しい生命の誕生をまっすぐ幸福だと言えない理由は他にもある。
そのなかのひとつが、
「生まれる側は何一つとして、選べないまま生まれてくるから」だ。
私は、私を親に持ってしまった子どもがとても可哀想だと感じる。もちろん愛すると思う(さっきまで怖い奇妙だと言っておきながらなんという手のひら返しだろう。でも多分、そうだと思う)。一生懸命育てると思う。でも悲しいかな、どうしたって「向いてない」のだ。きっと上手にできない。もしかするとどこかで歪んでしまうかもしれない。その歪みって、いつかその子が直したいって思ったって簡単には直せない歪みだ。私に悪気がなくても、その子の一生は台無しになるかもしれないのだ。その子はただ、生まれてきただけなのに。
生まれることは幸福であると、そう子どもに思わせるような育て方を私は出来るのか?
そんなことを、よく考える。
現在の私は独身だし、相手すらいない。…というとなんだか結婚や出産に否定的なように見えるかもしれないが、別にそういうわけでもないのだ。友だちが幸せそうにしてるのは嬉しい。ただ今の感覚も嘘にせず、忘れずに残しておきたいと思った。だから書きました。読み返すかもしれないし、もう二度と読まないかもしれない。
自分の観測範囲では、「キャラクター造形における服装の選択が、なかのひとの人格としての自己選択にあたるのでフェミニズム的にはOKであるはずなのでは」という反論を目にしたので、そのように理解していた。ぜんぜん違うというならすまん。
そしてバーチャルYouTuberに人格があるというのは、「表現されたVtuberのキャラクターを全て実在相当のものとして扱う」ということではないのでこれもまた違う
これに関しては、表現者側に都合の良い部分だけ実在相当として扱うというのは通らないだろう、とだけ思っていただければ良いと思います。
もともとはあまり興味なかったが、なかのひとがどうの、魂がどうの言い出す人の多さに流石に頭くらくらしてきた。
「現実とフィクションの区別」というワードは、これまで二次元の児童ポルノの取扱に関する文脈で頻出していたが、どうやら多くの人たちがこの「フィクション」という言葉を矮小化して考えていたらしい。心底驚いた。
おそらくノンフィクション(とされる表現物)との対偶として、「物語の設定や登場人物が現実とは関係ないもの」を想像しているのだろう。
だがその区別は、表現物の内部の論理であり、現実の社会問題で語られる「現実とフィクションの区別」とは別のレイヤーの話だ。
考えても見てほしい。現行法において、同じ二次元のエロ漫画に、あとからノンフィクションだと銘打っただけで違法になるだろうか。それは望ましいことだろうか。
社会問題の文脈の中で語られるべきは、「現実と表現物の区別」であって、表現物の内部区分として「フィクション」であるかどうかは問題とはされないし、されるべきではないのだ。
表現物の内部論理として、Vtuberが既存のアニメなどのキャラクターよりも人格性がある、魂があると認められるのは構わない。大いに結構だ。
だが、それはあくまで表現論・表現者と二次創作者との倫理的距離感など、あくまで表現という枠組みの内側での話であって、社会問題での批判に対抗する方法ではない。
キズナアイというキャラクターの造形が社会問題となった場合、あくまで表現としてのキズナアイを問題とするべきである。
表現物の内部論理としての人格性を持ち出して、社会問題のステージで「このキャラクターには人格と魂があって、その自由選択の結果です」と反論することは、なんら現実を反映していないし、より厄介な問題をはらんでいる。
仮にその主張が認められるならば、同時に児童ポルノの文脈においても人格と魂のある存在として社会問題のステージに立たなくてはならなくなる。それは誰も幸せにしない事態であろう。
フィクションの方法論とか受容論として、Vtuberに人格があるという方向は良いと思いますよ。なかのひとの話題が出ることも多いけど、多分それは本質じゃない。特定の物語に付属したキャラというこれまであった制限を抜け出し、極めて強度のつよい人格をもっている。そのことだけでコンテンツを成立させる力がある。素晴らしいことだと思いますが、それはあくまでフィクション、あるいはメディアビジネスの方法論のレイヤーでの話。
現実を扱う社会問題の文脈では、3Dモデルと演者でしかないですよね。3Dモデルのデザインがエロティックかどうかって話に、演者の人権や人格は関係ないですよね。モデリングの表現欲やこだわりについては、いままでの「たたの絵」についての議論とまったく同じで構わないよね。
アラフォーの働く母です。
先日、娘6歳が入学予定の小学校の入学前登校日があって、子供達が教室で過ごしている間に親は講堂で先生のお話を聞いた。
そのなかのひとつに、「スマホに子守りをさせるな」という話があった。自分が忙しい時に子供にスマホで遊ばせるというのはけしからんと。まあ最近よく聞く話。
我が家では最近夫がスマートスピーカーを買って、娘はときどき「ダジャレを言って」「なぞなぞを言って」と話しかけてスピーカーに遊んでもらっている。スマートスピーカーに子守りをさせていると言えるかもしれない。それもきっとよくないと言われるんだろうな。
我が家は夫婦とも出張が多いのでペットは飼えないと思っているが、いつかaiboは買ってみたい。娘がaiboと遊んで過ごしていたら、それもよくないのだろうか。
先生の話を聞きながら、ぼんやりと自分が子供のころの似たような話を思い出してた。ファミコンは悪者だった。テレビ脳という話もあった。でも散々ファミコンで遊んでテレビを見て育ったが、私は海外の大学院を出て世間的に立派とされる仕事に就いたし、同じように育った弟も東大を出たよ。