はてなキーワード: かき氷とは
いわゆるスイーツ男子(おじさん)ってやつで、甘いもの食べるのが趣味。
1人パフェとか1人かき氷とかは少しずつできるようになったんだけど、
おじさん1人だとどうしても行きづらいお店はどうしてもある。ホテルのアフタヌーンティーとか。流石におじさん1人では無理。
家族と行っても、子供は小さいし騒がしいしで味に集中できなくて、残念な気持ちになることも多々。
夫婦2人でって言うのが最適解なんだろうけど、子供預けられる人いないし大きくなるまで無理。
最近、行きたくても行けない店がたくさんあって、もやもやして仕方ないんだけど、
外で甘いもの一緒に食べてくれる人ってどうやって見つけたらいいんだろうか。
職場にスイーツ好きの女性はいるけど、頻繁に誘うのはなんか気が引けるし、
変な噂流れたり、お互いそんな気無くたって変な感情になったらややこしい。
ただ単純に、おしゃれなお店のスイーツ食べに行きたいってだけなんだけどな。
世の中のスイーツ大好きな既婚者おじさんってどうしてるの?
冷たさの限界ってあるじゃない。
いや、と言うのも冷蔵庫で冷え冷えの美味しいお水を始め飲み物もちろんアイスクリームなども含めて、
現代は冷蔵庫とかあんので普通に猛夏でも冷たーい食べ物が食べられるじゃない。
あれってさ、
江戸時代とか冷蔵庫がない時代の冷たさの限界ってどのぐらいの冷たさひんやりさ加減だったのかしら?ってふと思ったら
挑むところ井戸水が一番ひんやりしていたのかも説濃厚で、
そりゃー偉い人は氷室で2月に入れた氷を夏にでも冷え冷えのマックスの状態のかき氷を7月や8月にでも食べられたって言うから、
思うにやっぱり冷たさの限界って
マックス艦長でもそう思うかも知れないデ・カルチャーかな?って
よくさー
時代劇の描画で天秤棒担いで魚を売る人あるけど、
あれも鮮度の限界いつまでがその日のうちの鮮度マックスだったのかしら?って
朝とかに獲れたての鮮度抜群の美味しい鰯とかなら美味しそうだけど、
どうだったのかなー?って
その鰯鮮度マックスの加減も知りたいところよね。
よくよく考えたみたら、
せいぜい30℃ぐらいだったのかしら?
なので
そう今の暑さと比べると
しのげたのかも知れないわね?
分からないけど
多分いまよりも随分涼しいのなら
でもさー
魚売りの鰯とかの新鮮さは暑くないと言えども、
今の冷たい装置が無い時代の鰯鮮度マックスはどのぐらいだったかは気になるところね。
もしかしたら
うふふ。
ネバネバパワーを取り入れたく、
納豆巻きを求めたけど、
みんな世間がもしかして納豆パワーのネバネバの良さに気が付いちゃったのかも知れないわ!
仕方なく
あっさり食べられる
シャキシャキレタスが食が進まなくても
美味しくパリパリと食べられる喜びよ。
それを浮かべて氷がわりにして
ひんやりいただいたわ。
へろへろになるわよ。
みんなも気を付けてね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
最果タヒさんの詩集『死んでしまう系のぼくらに』『夜景座生まれ』と、あとは図書館で数冊をパラ読みした。著作が映画化されているらしいが、見てない。本しか触れてない。
否定的な感想なのでブログには投稿するか悩んで、結局、こちらに持ってきた。ただの感想。
まとめ
最果タヒさんの詩はあまりに散文的で、これは本当に詩なのか、日記じゃないのか、小説と変わらないんじゃないのかとすら思う。実際、同作者の小説『十代に共感する奴はみんな嘘つき』も少し読んだけど、境が曖昧だと感じた。これなら全部小説でも良いじゃんと思うけど、当事者からすると違うのかもしれない。
詩そのものについては、単純に口調とテンポが私に合わない。あんまり真摯な感じがしない……と感じる。でも私が思う真摯な感じとこの人の真摯さが違うだけかもしれないし、この方に真摯なつもりなんてないだけかもしれない。
使われている言葉は、それっぽい言葉を並べてるだけに見える。色んな言葉が出てくるけど、そのひとつひとつの定義って、なんなんだろう? どういう意味で使ってるんだろう? そういうのが見えてこない。だから真摯には感じない。急に言葉が連想ゲームみたいに飛ぶのも、え? 寝ぼけてんの? って感じ。
あと、わざと間違った/厳密に間違いではないけどまず使わない言葉使いや組み合わせ、漢字の開き(ひらがな)が多用されてると、絞れ!になる。そういうのはアクセントに使うのがいいのであって、多用されると醒めるし、詩全体がぼやけてしまう。
これがぼやけたことを狙っている詩や短い詩ならまだ良いけど、長くて散文的だから、ただぼやける。何を言ってるのか分からない。批評を色々読んだけど、「わからなさ」を評価されている面もあり、それでいいのか、じゃあ私に合わないだけか、となる。
ちなみにこの「わからなさ」とは「共感できなさ」のことではない、と言い添えておく。
また、死にたい、殺されたい、の表明が素直球すぎて上滑りしてる。死にたさについて、現実世界の死について、空想上の死について、犯罪について殺人についてを描いている部分があるが、それはただの比喩なのかもしれない。(以下、長いので略してます、ごめんなさい。詩を引用する時に略すのってどうなんだろ……。よくないかも。)
❝(前略)今日も、撃ち殺されなかったと泣きながら眠る夜はただ一人で、(後略)❞
❝あいされたい
それはべつに深刻ではなく。ころされたい、でもいい。❞
❝せめて他殺で。惨殺で。❞
確かに、「死にたい」「あの人に殺されたい」「今日も死ねなかった」と思う人はたくさんいるだろうし、私にもそういう欲求はあるが、なんでだかこの直球ぐあいは合わなかった。反対に、この表現がいい!と思う人もいるでしょう。軽くなんてない、という人もいれば、軽くて何が悪い、という人もいるでしょう。
例えば『死んでしまう系のぼくらに』p.23「線香の詩」から1行目❝大切なものが死んだあとの大地はすこし甘い匂いがする❞のっっっってなんでなんですか!?
次に蝉が出てくるので夏だろう、じゃあスイカやかき氷を食べた庭かな? 大切なもの……有機物か?無機物か?ペット火?人か? 人じゃなければ何かを土に埋めて、それがなんらかの作用で甘い匂いをさせてるのかな?
って、そんなことは考えても考えなくても良くて、まあ私は考えるほうが好きだが、まあとにかくこういうのがなくてもいいけどとにかく「説得力」が足りない。
読んでて、否応なしに「そうなのか」となる、もしくは「そんなわけないだろ」と言えるのがさ、好きなんだよな。「そんなわけないだろ」すら言えずに、「意味わかんねーよ」じゃ、ちょっと良いとは言えない。
例えば宮沢賢治の「やまなし」は詩じゃなくて小説(童話)だけど、❝『クラムボンはかぷかぷわらったよ』❞って説得力えぐいでしょ。「クラムボンは、かぷかぷ、笑う」んだよ。まあこれも好みの問題かもだ。
私は作品の批評で、「分からない」からいい、分からないのがいいんだ、みたいなのは嫌だ。
感想においては「気づかせてくれる」とか「感性が素晴らしい」とかって、何も考えないで生きてるのかよ!と叫びたくなる。もちろん、詩歌(詩、短歌、俳句)って「新しい視点」が評価されるし、私もそういう作品は好きなんだけど、どうしてか嫌だ。単純に感性が素晴らしいって褒め言葉が嫌いなだけかもしれない。私がそう言われると、「感性は、普通ですよ。思ったことを表現するために、頑張ったんですよ」と思うからかもしれない。私の話じゃん。私の話だよ。
この記事は、最果タヒの詩について、否定的感想をあまり見つけられなかったので、公開しました。「最果タヒ 批評/感想」とかで調べるとね、いくつかは出てきますしリンク貼らないけどめちゃくちゃ良い記事もありました。でも、ほとんど見つけられなかった。なので公開しました。私のこの記事はただの感想で、うまい批評なんかじゃないし分析もできてないけど。
でも詩でこんだけ売れてて若者人気もあるってすごいよね、は本音で、昨今は詩歌の中では短歌ブームらしくて色んな本が出たり特集が組まれてるけど、現代詩もそういうふうに盛り上がると嬉しいなとは思います。
読んでくれた方、ありがとうございました。
この記事に対する反論も良いですが、おすすめの現代詩あったら教えてください。読むので。
現代より前の詩……工藤直子/金子みすゞ/谷川俊太郎とか、中原中也/島崎藤村/室生犀星/萩原朔太郎とかは既読なので、それ以外の「現代詩」のおすすめが、知りたいです。よろしくお願いします。
NASAに連れて行ったら
話を聞きに行ってみたら
新鮮なはてサの金玉はどんなポーションよりも強い回復効果があり
映画はさておいてはてサの金玉入りポップコーンは食べてみたいから
とりあえず映画館へ行ってみたら
嘔吐する人が相次いでとてもひどいことになっていた
どんなものか見に行ってみたら
案外観客には好評でなんでかなと思ってみてたら
盛り上がっていた観客が最終的に舞台に押し寄せて
どっかでたまやーかぎやーって
掛け声があがったから
たまやーって叫びながら
金玉を引きちぎって夜空へ向かって投げたんだよね
金玉綺麗だったよ
そんなことしたら味が悪くなるよって言ったら
じゃあこんなマズイ金玉なんてお前にやるよ
って言って金玉を引きちぎって投げつけてきた
金玉は本当にマズかった