はてなキーワード: いつまでもとは
信頼感がないというか胡散臭い感じがするところが多い
まずはLine
そもそも信頼できない会社に個人のチャット情報とか起きたくないし
使ってないからどこまで正確かわからないけど聞いてる限りでは電話番号必須でウェブ版はなくて同時に複数端末ログインできないとか使いづらいとしか思えない仕様
Windows標準だし、Window使っていてMSに個人情報渡したくないとかいうのは意味不明だからWindowsやOneDrive使うならSkype使うくらい大した問題じゃない
ただWindows11からは標準じゃないっぽいし消えていきそうで困る
サイトは見づらいしサポートは悪いしで、そこにしか商品がないという仕方ない理由以外では関わりたくない
昔のその理由で一回使ったがサポートがひどくて購入したのにあとからやっぱり商品なくてキャンセルしますーとか連絡来てもう絶対使わないと誓った
たいしてAmazonはマケプレがひどいだけでAmazon出品で買えば今も昔も快適
次はメルカリ
言うまでもなく評判の悪いサイト
ネットリテラシーある人たちが取引するサイトならともかく、そういうのがない人をターゲットにしてるから関わりたくなさ過ぎる
かかわらなくても転売ヤーを支援するようなことをしてるサイトだからかかわらなければいいってものじゃない
オタクではあるほうだけどあそこは合わなかった
どうしてこうも使いたくなるウェブサービスの会社って日本にないのだろうか
会社としての主張が強いの嫌なのかな
変に偏ったりせずニュートラルで淡々とサービスを提供するだけのところのほうが不快感が出ない気がする
Twitterはユーザー層の問題で済むところがニコニコはサービス提供側までそっちよりだから関わりたくないと考えれば確かにって感じがするし
フェミがオタクに嫌がらせを続けて、女性嫌悪が最早過去最高に達してる
その結果、公金に不正があるかもしれないという疑惑の追求のために数億円が動くことになった
現状はまだ正義の言い訳がなければ、大きな流れにならないがこの風潮がいつまでも続くとは限らない
婚姻率もガンガン下がってるし、最早多くの男にとっては女はどうなっても良い存在であって、なんなら性被害が増えようが全く男の人生には関係ないしどうでもいい
これからも嫌がらせを続けてくようならどっかでタガが外れて、正義の言い訳がなくても法律違反にならないならとか実際に訴えられなければいいみたいな形で反撃がなされるんだろうなと思う
⻑い⻑い文になってしまった。
と文に続いて画像が送られてくる。
だいぶ彼も慌てていたのだろう。
ブラウザのタブに、xvideoの名が残っているのに気づかずに私に送ってきたのが微笑ましい。
Facebookの投稿は、もう1年近く会っていない私の友人、しおり(仮名)のものだった。
そして、墓参りなどは心遣いのみで良いこと。
LINEに「Facebook見てなかったから気づかなかった」と返信をした。
とはいえ、彼女のフォ ローをやめていた私はFacebookを見たとしても気づけなかっただろう。
彼の重い声色と対比するように、私の声はうわずって震えていた。
その震えが、まるで泣きそうな声であるかのように演じながら私は密かに、笑みを浮かべてい た。
本当は大笑いしたかったのだ。
私と亡くなった彼女と、そして連絡をとった彼が出会ったのは、数年前のことだった。
当時私たちは二十歳を過ぎたばかりの頃合いで、バイト仲間として付き合ううちに3人でつる むことが多くなっていた。
そして若かったから、それが恋愛感情を伴う三角関係に移ろうのも自然な流れだった。
彼に片思いをする私たちと、その間でのらりくらりと気付いてるのか気付いてないのか分から ないようなふりで友人関係を保とうとする彼。
そういう微妙なバランスで成り立つ私たちは、バイト先の閉店と共に徐々に疎遠になった。
そしてそこから二年越しで私たちはまた出会う。バイト先の同窓会だ。
まるで三人で喋っているかのような雰囲気で、私は彼女へ話を振っているのに、自然な流れで 私は彼女から完璧に無視されていた。
理系の大学に入り直すの、と彼女が言った時だけ私のことを見てニヤッと笑ったのを覚えてい る。
大学を中退した私への、当て付けであるのは確かだった。(それにダメージを受けるかはとも かくとして)
ただの恋敵から、マウンティングまで始めた彼女を見て、私は小さく、死ねばいいのにと呟い た。
その願いは数年後に叶うとも知らずに。
その同窓会から私と彼はまたつるむようになり、彼から、彼女の近況を時折聞くような日々が続いた。
大学へ入るまでにメンタル的に崩してしまい、入学後もそれを引きずったままであること。
そういう、彼女が不幸な話を聞くたびに、心の中で喝采をあげたいような朗らかな気持ちと、 悲劇のシンデレラを演じて興味を引こうとする彼女のやり口の汚さに辟易する気持ちの二つが 入り混じる。
私はこのまま拒食症になり骨だけの姿になってしまえと思っていた。 もちろんこれも今は叶っている。
彼女の肉は燃え、今は墓の下で骨だけになり壺に押し込められている。
そうして、今回の訃報に至る。
彼は、ここまで来てもずっと私たち三人は良い友達関係であると信じ、私だけに電話をして、 私だけに彼女の死への思いを吐露してきたのだ。
勝った、と思った。
私の心は汚いな、と諫める自分もいたがそれ以上に、祝祭の最中のように心躍る自分の方が強 かった。
後日、私たちは二人だけで、彼女の家へ向かった。 彼が遺族と連絡をとり、仏壇に線香をあげさせてもらうことになったのだ。
多分私は、あの日の、駅から彼女の家までの会話と景色を一生忘れない。 その日は雲が多いけれど晴れていた。 雲の中で光が複雑に揺らめいていて、それはまるで世界の全てが、私の仄暗い歓びを肯定する かのように綺麗だった。
駅から離れた彼女の家まで歩く最中、彼は謝りながら、隠し事を打ち明けてきた。
バイト先が閉店した頃、三人で会うことがほぼ無かったあの時期、実は三ヶ月だけ、あいつと付き合ってたんだよね、と。
彼女が生きてたら、私はその場で自殺したくなるほどの衝撃を受けていただろう。
けれど、今の私には、むしろファンファーレのような爽やかさを伴う言葉に聞こえた。
穏やかな顔で私は嘘をついた。
割とあの子悩んでたよー?なんて、軽口を装い私は更に話を聞き出そうとする。
何だ知ってたのか、とホッとする彼は気を緩めて色々と話してくれた。
どうしても彼女を恋愛対象として見れず、ぎこちない付き合いだったこと。
そのどれもが、私にとっては甘美な言葉たちだった。
これで彼女が生きてたら、この過去の付き合いが再度交際に至る伏線として機能してしまうこ とに怯えていただろう。
そして彼女への殺意が行き場をなくして私の中でいつまでも燻っていたのだと思う。
けれど、彼女は死んでいる。
だからこそ私は安心して、彼女が、彼からきちんとお前は付き合うに値しない存在であると言 い渡され死んでいった事実を喜ぶことができる。
そして、その喜びを表すかのように、世界は輝いているように見えた。
草木はいつもよりもその葉の濃さを増し、空は雲を煌めかせているのだった。
それが私の、高揚感を煽る一番のポイントだった。
あんなに学歴や彼との距離感でマウントをとっていた彼女が、今やただの骨となったことに私 は今までの人生で得たことのない種類の喜びを得ていた。
もう彼女には何もない。
入った大学のキャリアを活かした輝かしい未来なんてもう彼女にはない。
そして、彼のこれから先の人生を眺めることも、彼女にはもう出来ない。
何よりもそれが嬉しい。
彼女の家は、ドラマに出てくるような、「いいところ」の家だった。
リビングには薔薇のドライフラワーが飾られ、テーブルにはレースのクロスが敷かれていた。
演技で涙も出るもんだな、と私は仏壇に手を合わせながら自分自身に感心した。
くっ、くっ、と声が出るのは、昂るからだ。
悲しみにではなく、喜びに、であることは隠せたと思う。
仏壇に手を合わせる彼の面持ちは神妙そうで、私が感情を露わにしているからこそ自分は我慢 しよう、という気概を感じ取れた。
男子だからこそ、気を張らねばという彼のいじらしさがどうにも可愛くて、ああ、やはり私は 彼のことが好きなんだな、と改めて思ってしまった。
リビングへと移り彼女の母と思い出話などをしながらふわりと伺う。
「本当に明るくて(空気が読めないだけ)楽しそうに笑顔を(彼にだけ)見せる子で...だからこそ急な話で驚いてしまって...病気とのことでしたが...」
彼女の母と、私は目で訴え合う。
それを聞くのか?という母親の目と、
死因を教えて楽しませろという私の目。
たった一秒にも満たない僅かな時間で、私はやはりこの女はあいつの親なのだと感じてしまっ た。
あの、喰えない女を産んだ女だ。
「...脳浮腫、でして。...だから、本当に急な死で私も、本当にショックでした」
脳浮腫、というワード以外は一切出さないという意思を読み取り私は、彼と共にいるこの瞬間 を汚さぬように詮索をやめた。
ハッキリとしない死因で、私を楽しませるにはパンチが足りなかった。
けれどその最後は安ら かなものでは無かったであろうことを窺えたことは一つの収穫だ。
彼女の家を早々にお暇し、私たちはまたひたすらに駅を目指し歩く。
話すことも尽きたような振りで彼の話を空返事で返しながら私はGoogle検索で脳浮腫を延々と 調べていた。
脳浮腫。とっさに、本来の死因を隠すために出たワードにしては具体的であり、嘘のようにも思えなかった。
けれども、脳浮腫は医学知識のない私が検索で調べた結果を読解する限り、直接的な死因であるようにも思えない。
脳浮腫とは脳に水分が溜まり脳が圧迫されている状態を指す言葉である。
それを死因として挙げるのは、やや話が飛んでいるように見える。
たとえば、交通事故で全身強打し、内臓破裂で死亡した、というのを、内臓破裂で死んだ、と 表現するような感覚である。
そう、私には、母親はとっさに嘘をつけなかったため、「脳浮腫に至るきっかけ」を伏せると いう形で娘を守ったのではないかと、そう感じた。
まだ何も知らない、違和感に気付いてもいない彼の横顔を見ながら、私は、彼女の今際の際に 想いを馳せて、うっとりとするのであった。
脳浮腫に至るきっかけでありなおかつFacebookの文や母の言葉にあるように急死に繋がるよう な死因はくも膜下出血などが挙げられる。
けれども、そうだとしたら、母親は病名を伏せる必要があるのだろうか? くも膜下出血で亡くなった、という話なら、伏せる必要なんて何もない。
だから、私は、もう一つの、限りなく低い可能性の方に賭けている。
脳浮腫は、多くは脳出血が原因で起きるものである。くも膜下出血などのように身体の内部か ら急にエラーを起こし脳浮腫に至る場合もある。だが外傷により脳出血が起きた結果でも脳浮腫はできる。
そして、私はふと思い出すのだ。
彼女は大学入学前からメンタルが不調になり、夏頃にはアルバイトすらもやめてしまうほどに 追い詰められていたということを。
そして、親が必死で隠す死因と言ったら、一つだろう。
もちろん七割は、私の願望なのであるが。
帰り道は雲も晴れ、傾いた日差しが強く、どこまでも世界は煌めいているような気になってし まうほどだった。
その煌めきの中に、彼も共にいる。
その事実もまた、光の儚さを強調するように感じられてまた私の中で歓びが増えていく。
だから、いいのだ。
彼の口から、今の彼女との結婚のプランの話が出てきたとしても。
彼女が白無垢を着たがって、お金がかかりそう、なんてのろけをされたって。
この世界の美しさの中では、何もかもが許せそうな、そんな気がしたのだ。
だから、その今の彼女の名前を、今回死んだ彼女の仮名に使うくらいのお茶目さは、私だって 許してくれてもいいだろう。
来年の今頃、彼は式を挙げる。
彼の姿が和服になるのかタキシードになるのかは知らないが、彼の最高の笑顔を私は目に焼き 付けることになるんだろう。
それは、恐ろしく悲しく、残酷なことのように思える。けれども私は耐えられる。あの女が、 もうこの世に居なく、そしてあの子は、幸せそうな彼の姿をもう見ることなんてできないのだ と、そう思うだけで痛みに耐えることができるような気がする。
そして、もうひとつ、彼女の死の瞬間を想像するだけで、心が昂り、苦を感じなくなるように 思えた。
彼女は、どのように死んだのだろう。
微妙な高さからコンクリートに叩きつけられるも、脳をぶちまけることなく、脳浮腫という形 で苦しんで死んだのだろうか?
それとも、首に索条痕を残し、その細い骨をパキャリと砕いて亡くなったのだろうか。
ただの私の願望である、 「自殺の上で付随して脳浮腫が出来た」という死因を想像しては、愉快な気持ちが止まらずに 居られない。
けれど、メンタルが追い詰められていた人が亡くなり、その死因を遺族がぼかすとしたら、自 殺しかないんじゃないだろうか。
首吊りや飛び降りなどの脳への外傷が出来そうな死に方をした上でなら、脳浮腫も出来るだろ う。
ああ、彼女は、世界に絶望しながら自分の手で命を落としていて欲しいな、と心からそう思 う。
今までの努力が全て無駄になった上、 彼からは彼女として見れないという烙印を押されたまま、絶望の最中で彼女には死んでいってもらえたらどんなに愉快だろう。
そんな想像をしては、私は笑みを浮かべる。
駅に着き、ひとしきりのろけを聴き終わったところで私たちは別れることにした。 白無垢のために頑張ってお金貯めなよ、なんて笑ってあげた。
「式の時は、俺の白ネクタイ貸してやるよ」と。
来年の今ごろ、私は、礼服姿に、彼が過去に使ったネクタイを纏い彼の人生最高の瞬間を見届 けることになりそうだ。
そう言い聞かせながらも、私は、結婚という幸せな人生を歩んでいく彼の姿を見なくて済む、 死んだあの子を少しだけ羨ましく思う。
死んだら死んだで、それもまた幸せなのかもしれないな、という感情も湧きでてしまい、私は 慌ててその思考に蓋をする。
やっぱりこの世は美しいが、生き地獄だ。
その生き地獄よりも下層の、死の世界へと消えていった彼女を蔑むことでしか、今の私は心を保てない。
この歓びや哀しみやそのほかの色々なものがないまぜになった心持ちに、何かの決着がつくの はまだまだ当分先のことなのだとは思う。
こんな恋愛、二度とできないし、もうしたくない。
現代のほとんどの作品は、おおまかなターゲット層を想定してはいるが、表立って「これは誰向けです」なんて言わない
ものすごくニッチで商売っ気のない作品なら言うかもしれないが、ほとんどの商業IPは色んな人が色んな楽しみ方ができるように作られている
ゴミみたいなメディアやSNSで俗な人間が「これは何向け」とかさかんに言うのを鵜呑みにして自分のアタマで考えられてない愚か者だけが、一般的なユーザーなら誰もが気づいているはずの常識的な機微を理解せず、いつまでも思い込みを改められない
私25歳
仕事の愚痴を吐くと「そんなに嫌な職場ならさっさと転職しなよ」って言われるのが本当にストレス過ぎて無理になってきた。
「男性脳と女性脳」「解決脳と共感脳」なんてことは知ってるけど彼氏の男性脳的な考え方が本当にイヤ。
彼氏のというかこれまで付き合ってきた男全員に共通する解決脳的な言動が本当にイヤ。
単に愚痴を聞いてうんうん頷いてくれればまた仕事に行く勇気が湧くってだけの話なのに、なんでそんな簡単なこともしてくれないんだろう。
挙げ句に「向上心がないからそうやっていつまでもウジウジなるんだよ」「赤ちゃんじゃないんだから自分にふさわしい環境を自分で見つける努力をしなよ」とか言われてちょっといま本気で頭にきている。
どうして男って偉そうに説教するの?
最近、結局男って不快感に対する耐性が女性よりもないんだろうなって思うようになったわ。
「別に環境を変えるほどではないけど溜め込んでおく のは辛い」ってくらいの不快感にも耐えられないんだろうね。
だからすぐ「環境変える」みたいな極端な考え方になるし、環境を変えられないならすぐ自殺する。
男女の自殺率の差って単純に男のメンタルが弱いってことを意味してるだけの話なんじゃないの?
お客さんの事情で処理やり直しなるからその対処方法を教えてほしいと伝えると、返答はいつもお客さんに対する愚痴ばかりで対処方法をいつまでも教えてもらえないから嫌すぎる。
それを今どきの若者は〜…と片付けるのも嫌すぎる。
とはいえ一応先進国で北朝鮮じゃないから先進国の常識をいつまでも否定もできないと思うんだよね
共同親権もそうだし
数年ということはないだろうけど20年くらいではあると思う
今ホットな共同親権の議論を眺めてると反対派って「裁判所が無能で信頼できないから共同親権に反対」って人が多いよね。
↓こんな感じ
反対派「共同親権になったらDVクズ親がいつまでも元配偶者や子に付きまとって嫌がらせできるようになるからダメ!」
賛成派「さすがにそんなクズ親は裁判所が親権を認めないだろう」
反対派「裁判所は無能フシアナだからDVを見抜けないでクズ親にも親権を認めてしまう。子供が危険!」
でも、『裁判所は無能』を絶対の前提にするなら現行の単独親権の方がヤバくないか?
だって、片方の親がDVクズでも見抜けないで唯一の親権を与えちゃうってことだから。
で、親権が無いもう片方の親は子供に深く関われないから子供が虐待されていても気付かなかったり、気付いても救うための介入が難しかったりという状況になる。
クズ親が強大な単独親権を持つ可能性がある今の制度って子供にとって危険すぎない?
親権を持つシンママが子供をネグレクトして殺したり、再婚した義父や彼氏が子供を殺すのを見捨てたりという事件はよく聞くので実際に裁判所はクズ親を見抜けない無能なのかも知れないけど。
だったら、母親と父親のどちらか片方がまともだったら子供が救われる可能性がある共同親権の方がマシなんじゃないかな?
もう片方の親も親権があれば、さらにそちら側の祖父母や叔父叔母と親族の数も倍になる。深く関わる大人の数が増えた方が子供はより安全になると思う。
モテること、要は不特定多数から好かれることって人生でそこまで価値があるんだろうか
大きすぎることが原因だと思うよ
たとえばネコだと「うぉおぉおぉお キミかわいいねぇぇぇえ」とか言いながら全身を撫でつくすことができる→満足
たとえばクルマだと「うぉおぉおぉお オレのクルマかこええぇぇぇ」とか言いながら洗車時に余すことなく撫でまわせる→満足
たとえばカードゲームだと「うぉおぉおぉお オレいっぱいカードもってるすげぇぇぇぇ」とか言いながら札束数えるように撫でまわせる→満足
たとえ飛び付いてみたところでそれは電車チャンのほんの一部。全てを知れた気にはなれない
たとえ部品を窃盗したところでそれは電車チャンのほんの一部。全てを愛した気にはなれない
これが原因
適当にBIGLOBEに載ってた子供を持ちたくない理由から考える。
人間誰しも、ある生活水準をキープしたがるんだから、大体みんな経済的に不安があるのは当たり前。これは本質ではなく、「分かりやすい子供を持ちたくない理由」。つまり、使いやすい嘘。本当に「金ないから子供持てない」なんて考えてる人は少ないと思う。
・育てる自信がない
逆に育てる自信がある人なんていないと思う。子育てなんて学校で習わんからね。初めてのことなんだから自信がなくて当たり前。
これは核家族化がマジで悪さしてると思う。家にジジイとババア、特にババアがいる時の安心感は半端ない。子育てで何か困ったら助けてくれるだろう。そう思わせるくらい、ババアはそこにいるだけでパワーになる。
要は、頼れる人間がいないことが問題。核家族化で同居してる人数が減ってるんだから、当然、「同居してる人で頼れる人がいる割合」も下がる。4人暮らしだと3人しか「頼れる人間候補」がいないが、ジジイとババアがいて6人暮らしなら5人も候補がいる。
他にも原因はあると思うが、とりあえず、核家族化は止めるべきだと思う(一方で、医療が発達して老人が長生きしてしまうため、介護しなきゃいけない世の中になってるのはマジでだるいと思う)。
好きじゃないなら持たなくていいと思うが、苦手なら持ってみろと思う。他人の子供と自分の子供では、愛情が全然違うんだから。恐らく、子供に嫌われることを恐れているんだろうと思う。苦手っていうのは、嫌いというのとはまた別な話。嫌われてもいいから子供には元気に育ってほしい…みたいな、こういうのが嫌なんだろうなと思う。言い方は悪いが、もう大人のくせに、いつまでも「子供に嫌われるから子供を叱れない」って言ってるようなもん。
どういう仕組みでそうなってるかまでは分からんが、昔より、精神年齢が、実年齢と比べて育つ速度が遅くなってるんじゃないか?と思う。
言いたいことは分かるし、それなら持たなくていいと思う。こんなわがままな人が子育てできるとは思わないから、持たなくて正解。
終わり。寝る。
私にとっての功罪というか、今は信仰とは距離を置いていて向こうの人たちとは没交渉です。
子供の頃から親に巻き込まれる形で流されるままやってきて、長じて大人になり結婚を機にほぼ関わらなくなった自分が改めて思うことを綴ります。
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小学校低学年の頃に母が入信し、そこから日曜は母に連れられて精舎に行く日々に。
ちなみに父は反対していた。(母が強引に勝手に父の入信届も出していたけども)
小さい頃から行っていたので素直に信じていたけど、ずーっと子供は親の言うことを素直に聞くのが修行みたいなことと親への感謝を言われ続けていて年齢が上がるにつれてうんざりしていた。
母は独善的で過干渉な人で、あなたのためによかれと思ってとよくいい、自分が求めたことが受け入れられるまでどこまでも引かない人だったので、イヤイヤながらしたがっていたけども、物心つくかつかないかの頃から親に反抗していた私は、親の言うことを素直に聞かない自分はダメなヤツだという思いと筋が通らないおかしい主張をなぜ受け入れなければならないかという思いの間で揺れながら子供時代を過ごしていた。
母と喧嘩になると、私が母に反発するのは背後にいる呪縛霊のせいだとか御先祖様が水神を利用するだけ利用して疎かにしていたからだとか言ってきて嫌だった。
こんなに親と衝突しないといけないのなら将来子供は持ちたくないと思うほどだったし、自分が子供として可愛げがないということにも嫌気がさしていた。
余談だが、教義が家父長的というか今は変わってるのかもしれないけども妻は夫をたてて素直に受け入れるのが大事で、自分の配偶者が理不尽であってもそれは過去の因縁で与えられた試練みたいな感じでたまに明らかに配偶者がモラなのに、至らない自分が悪いんだみたいなことを呟いてるXのポストをみるともやる。
進学して家を出ても、行った先の信者の方にお世話になりながら最寄りの精舎に行っていた。(母による手回しにより)
社会人になってもそれは続いていたが、一人暮らしで薄給なのに、定期的に先祖の供養のための施餓鬼や護摩のお布施をむしり取られるのが地味に痛かった。(5000円〜10000円ぐらい/回)
これまた余談だが、真◯苑は経済的には良心的な宗教法人だと思う。誓願しても最大で毎月3万円ぐらいのお布施だった気がする。(お布施とは言わないが独自用語なのでわかりやすくお布施と言っています)
その割には、立川に大きな精舎を作ったり、三越を通してオークションで流出しそうだった仏像を高額で競り落としたり、村山工場跡地を買ったりと沢山お金を使っていてその財源は一体どこから?と素朴な疑問として思っていた。
若い頃は苛烈だった母も歳をとり、自身が病気になったりでだいぶ弱ってパワーダウンし、もう真◯苑には関わらないと宣言したわけでもないが、あれしろこれしろとは全く言わなくなって私は完全に離れ、ホッとしている。
思うに私は信仰をするには怠惰すぎた。早起きして公園の掃除をすることも、友人を失う覚悟で勧誘することも嫌で仕方がなく、それよりもいつまでも寝ていたいとか友達と遊びたいとかそう言った目先の利益のために信仰することをやめたと言っても過言ではないだろう。多分後悔はしていない。今とても楽だから。
それでも時たま、後ろめたく思うのは、悪い因縁を断ち切ってなくて子供達に引き継がれたらどうしようとかそう言うことをふと思ってしまうし、色々な恩を受けたのに仇で返すような生き方をしていてこのままで済むわけがないともたまに思うからだ。
死んだら菩薩にはなれないだろうし… まぁもういいけど。
真◯苑に限らず、よく「大難を小難に。小難を無難に」と界隈では言われるが、そう言うことを能登の大地震にあった人にも正面切って言えるのかと思う。
私はあの地震の被害を見て神も仏もないとつくづく思った。もしそれでも仏はいるというのであれば、仏とはなんと無慈悲な存在か。
それでも、生き残った人たちで真◯苑を信仰している人たちは信仰があってよかったんだろうと思う。
母にもあってよかった。違うものに走っていたら周りの人間も母自身も今よりも断然酷い目にあっていただろうから。
代表について一言。直に話したことはないけども、5メートルぐらいの距離で対峙した時にこの人はすごいお坊さんだと思って、なぜか知らないが涙がブワッと出てきてすごい奇跡みたいな人だと思った。カリスマ性がすごかった。
そして、つくづく私にはこんな立派なお坊さんにはなれないと感じた。
とまぁこんな感じです。
もう2度と戻ることはないと思うけど、歳をとって子供達が独立して配偶者もいなくなったらまた信仰しようと思うかもしれないとも思う。
批判を目にしたりするとそんなことないと思う気持ちもあり、なんと思っていいのかわからないのが正直な気持ちだ。私の人生にとっては、いい面も悪い面もあった。それだけ。
読んでもらえれば分かると思うんだが、違法どころか不徳ですらないんだよ。
西洋人的な考え方をエミュレーションできれば分かると思うんだが、Webとは本来自由なものであるべきで、現在の広告のあり方というのは商業的な発展の至らなさから未熟な形で無理やり御仕着せられているものにすぎない。
受け入れがたいものを拒否できることは、尊ばれなきゃいけない。企業のような特定の商業的権威が「正義」を作り出す側であってはいけない。インターネットシチズンのものでないとね。
仁義みたいな関係性の概念を重視しすぎて、人間の根源的な理念を蔑ろにしがちな東洋人的発想は、権威を肥大化させ、独裁者を生み出しやすいとも言える。
ダメなものは正しく拒否していくことで、Web収益化がより妥当なやり方へと改善されていく方向へと圧をかけて、進歩を後押ししていくことにつながる。
逆に、嫌な部分があっても恩があるから盲目に受け入れることを続けていると、悪質な商習慣に蝕まれる人々をいつまでも生み続ける悪循環に加担することになってしまう。
ソフトウェアは「割れ」で入手されてしまうから、「割れを使うな!」といくら倫理を振りかざして叱った所でダメで、結局提供側が、Webサービス(クラウド)化したり、サブスクにしたりすることで、ソフトウェア販売方式の常識がアップデートされてきた。