はてなキーワード: あおりとは
道化し過ぎ、素性言わなさ過ぎで人脈が意図せぬ方向に広がった 元に戻して慎ましく生きる
どこを見ても誰かが怒っていて、引用RTで「一緒に怒れ」と言ってるように見える
完全に悪い奴ならわかるけど、なんか煽り記事みたいなのにひたすら引っかかって毎日毎日憤怒憤怒してる人はさ、他人を叩くことにハマる正義厨を越えてただの瞬間湯沸かし器になってるよね
あと「ああこれ怒りポイントなんだ」みたいなのが周ってくるのもキツイ。
「これ怒っちゃうんだ、自分に一切害がない話なのになにをそんな」みたいなね
疲れはしないんだけど、なんか人間って愚かだなあって思ったよ。
関係ないけど、野々村真絡みでデマ流してる奴は本当にしょっぴいた方がいいと俺は思う、やりすぎだあれ。反社会的勢力の扱いでしょあんなの
一つ問いたい。
率直に、今でも朝日新聞、読売新聞、日経新聞など新聞紙1紙のみ、1テレビ局のみから情報を得ていると言う人はいるだろうか?
例えば私であれば、テレビは持ってないから見ないし、同一ニュースは参照できるなら海外のニュースソースも参考にする事が普通になった。
多くの人も朝日新聞だけ、読売新聞だけって情報の受け取り方をしてないだろうと推測する。自分の周りには、自覚的に複数ソースを見る人が多い。
私も自覚してそうしているけれど、その理由は「メディアは嘘をつくし、真実を書かない事もあるし、客観性と言う点では信頼に値しない」と感じているから。
時事通信、共同通信などは、速報性は認めても、事実は後で複数のソースから確認すべき存在としか思えないほどだ。
とは言え、ニュースを伝えるメディアが全く必要ない訳でもないし、多くの情報を集めることは1個人で出来る事ではない以上は、その存在には価値はある。
ただ、自社あるいは記者が都合がいいように曲げた情報を乗せるという前提でしか受け取ってないので海外ソースとも比較は避けられないというだけだ。
特定の報道機関のみを信じてますって人は、もう希少種なのでは?と思うがどうだろう。
自分よりは年配の方はもっと前からそうかもしれないが、自分にとってはこの10年ほどでその傾向は強くなった。
何故か?近いところで例を挙げてみると、コロナウイルス感染者数に関する報道がある。
感染者数の増減が一つの重要な指標であるには違いないが、それ以上に重要なのは、重症者の数、死者の数だ。
しかも、感染者数と重症者数は必ずしも一定の法則で比例する訳でもない。
現に、4000人の感染者がいても現在は死者数名だが、1月ごろは2000人の感染者でも20名から死者がいた。
この間の差はワクチンの接種が、高齢者に対して進んだことで生まれたのは明白だ。コロナ対策は確実に決定的な効果を生んでいる。
このように、何を伝えるかで国民の多くの感じ方を操作できるのは明白だ。コロナ対策関連では、報道の恣意的な姿勢の例は枚挙にいとまがないく、もう全く信頼できない。
今、警戒感と自粛意識を薄くすることは危険なので、特に感染者数にフィーチャーして報道を行うことは理解できる。恐怖で自粛を選ばせる事は全体の利益に繋がる。
だが、一部の報道機関は、この感染者数の増加を一方では死者数が減っているし致命的な結果を招く割合は下がり続けているという状況を伝えることなく、人々の恐怖感を政治的に利用している。
情報を制限し耳目を塞いで起きながら、恐怖をあおり、その恐怖の矛先を自らが望む方向へとむける論調でいる事が、私が報道機関を信じがたくなる理由だ。
コロナに関しては興味も、情報取得に割く労力も高いから、矛盾や嘘に気付けるが、他の興味が薄い案件であれば、私も騙されてしまう事があるかもしれない。
そう考えた時、複数の報道機関の、必要であれば海外ソースをも見て、それぞれに深度に差がある角度付の報道を見る必要を感じることになる。そうでなければ、矛盾に気付くことができない。
良い報道とは
こういう事だと考えるが、限りなくこれに近い事が出来ているのは、現状ではNHKだけだろう。
世の中の事ってのは、何か一つだけを見ていればいい程簡単ではないし、様々な情報を意図的に我々が取得するべきだ。
恣意的に角度をつけて誘導しようとする報道にNGを突き付けて、必要な情報を多角的に取得して、論理的に帰結を考え、合理的な判断を下す事を多くの国民が出来れば
報道機関の側で変わらざるを得なくなるだろう。いいように操れて多額の利益を得られてしまっている間は、報道機関に変わることを期待するのは難しい。
アフターコロナの世界で、メディアを改めて査定すべきだろうと強く思う。だが、同時に我々は自分たちについて考えるべきだ。
報道機関を信頼出来ないという事実は、翻ってみれば、我々自身のお互いの知的能力を信頼出来ないという事でもあると思う。
国民が変わっていくためには、やはり大事なのは教育だ。もっと家庭での教育、学校での教育を改善していくべきだなと感じる。結局は、そこに帰ってくる。
過激すぎる発言かもしれないけどさ、もうそのくらいしていいんじゃないかなって思うくらい人間にさえなれないナマモノが車運転してんだよね。
ドラレコが付いてるのが標準的になってる時代なのに、学ばないであおり運転する奴は人間でもなんでもないでしょ。
脳みそがあるのかもわからないし。そんな奴を社会に放置しておくのは日本にとってリスクにしかならないでしょ。
軽々しく命を奪う行為を口にするなと、良識ある増田には言われそうだけどさ、毎日のように現れるあおり運転バカのニュースと自分もあおり運転くらった事がある苛立ちがどうにもね…。
本誌をリアタイで追っていた時から話に違和感を覚え始めた、サッポロビール工場編が本格始動する。
ビール工場編で一番特に何を成し遂げたわけでもやらかしてしまったわけでもないヴァシリが表紙。
2巻のレタラとアシリパツーショット表紙を思い出させる、幻想的な雰囲気を漂わせる良い表紙に思う。
肝心の中身については、当時覚えた違和感と加筆修正部分と最新話までの物語との整合性について感じたことを書く。
ころころ視点が変わるビール工場編にのっとり、自分の感想もしょっちゅう行ったり来たりする。
最新話まで読んでから改めて読むと、ビールの洪水とかのギャグがとても懐かしくあの頃には戻れないのか…と思った。
菊田とアシリパの問答が、菊田が死んだ今読んでまた違った気持ちになった。
アシリパの使命感の強さと、身近な人の死を極力減らしてやりたい菊田の違いがよくわかる。
ここの問答の完全上位互換が、教会での鶴見アシリパソフィアだと思うとやはり菊田は価値観が普通の人すぎる。
武器もなく縛られアチャを悪し様に言われまくり金塊はアイヌの持つものじゃないとルーツを持ち出して屁理屈を言われても折れなかったアシリパの心を、ソフィアの殺害未遂でようやく少し折ることができたと思うと…
土方勢に追い詰められて「どうしヨう」と焦るジャックザリッパーは、以前から本誌と単行本で全くキャラが異なる。
もうあまり覚えていないけれど、ヤンジャン連載のジャックはアシリパと対面するまでは、娼婦に対するコンバンハと鼻歌くらいしか喋っていなくて何を考えてるのかわからず不気味だったのが、
単行本では、子どものような片言日本語の独り言をしょっちゅう言い冷や汗も垂らしまくる。
なんでジャックはここまで本誌と単行本でキャラが違うんだろう。
この巻の宇佐美の屈強さは非常にいいと思う。パオパオ対決は引いたので、こういう暴力のやりあいを待っていた。
急に気づいたけど、だいぶ前の話で杉元と牛山がときめいた「植物を根っこからとろうと失敗したけど成功したら恋人が迎えに来てくれた(うろ覚え)」アイヌの言い伝えの男女のシルエットって、ウイルクとリラッテだったんだね。
ジャックの顎をヒットさせたアシリパのコマは、単行本で読むとなんか味気なかった。
本誌の時はもっと勢いがあり面白かったような気がしたんだけどな。あおり文が無いから勢い不足に感じたのかもしれない。
毒矢で殺そうとする自分に恐怖するアシリパを庇うように登場した杉元。
26巻の加筆でおそらく最初の加筆盛シーン。
「誰から生まれたかよりも 何のために生きるかだろうが」本誌の時から杉元ってこういうことを言うキャラだっけ?と思ったけど、ここからの加筆には驚いた。
杉元のバーサーカーシーンは今までたくさんあった(偽アイヌ村やら樺太逃走やら)けど
即死させる殺し方ではなく嬲り殺しにしてるシーンはなかったんじゃないだろうか。
これ見て冷や汗ひとつかかないアシリパも10代半ばにして強い。
尾形は流氷でアシリパに右目を射られたからこそ生き残ったんだなと思った。
尾形があそこでアシリパに右目射られずにいたら、多分杉元からジャックに対する攻撃と同じくらいのものを喰らって殺されてたよな。
尾形の悪運の強さを感じる。
ジャックは殺人鬼なので殺すなとは全く思わないけど、ここまで嬲り殺しにする必要はあったのだろうか。
単行本作業してるころの連載が動きが無い絵ばかりだったから、作者がここで発散したのだろうかというくらいの熱量だった。
外国人キャラなのに鼻歌以外ずっと日本語だし、作者がジャックザリッパーというキャラに興味が無いのが丸出しでもったいなかった。
作者がロシア語とアイヌ語には興味があるけど、イギリス英語には興味がないのか。
せっかく現実世界のキャラモチーフなんだからただのサンドバッグ扱いでなく、面白くすればよかったのに非常に肩透かしだった。
宇佐美VS尾形のシーンも順序だてて丁寧な描写に加筆修正されていた。
うろ覚えだけど本誌の、衝動的に殴りまくりその勢いで「商売女の子どもの分際で誰が一番安いコマだ!?」から一転「それだけは言いたかった」ウンのテンポが、小気味よくて好きだった。
「取れよ」のコマの宇佐美のチャック前が相手謎の白いものがチロリしてるけど、ここの宇佐美タってるのか…
前日はパオパオで次の日門倉の尻スパンキングで尾形の顔面殴打と、宇佐美の性的守備範囲広すぎる。
宇佐美VS尾形といい、馬で逃げる宇佐美を狙撃する尾形のシームレスなコマといい死に際の鶴見との対話といい、
255話と256話の宇佐美の出来事が、映画のように丁寧に仕立てられていると感じた。
宇佐美の鶴見に対する想いが読者が思っていたより複雑だったことが前の単行本で判明してたので、どうなることかと思っていたけれど
宇佐美はこじらせているので、ここでも「またみんなの前だからって嘘ついちゃって」と思いながら死んだかもしれないが。
言うても鶴見と他の部下たちや右腕自負の月島との関係は、軍隊に入ってからの上司と部下でしかないので、
前からの知り合いかつ自分に対して異常な執着を抱いているのに、死に際になっても敬語を崩さず任務の成果を報告しようとする20歳下の子どもを見て、贔屓してしまうのは情けだと思う。
にしても綺麗なシーンになった時だけまつ毛バシバシになる鶴見と宇佐美が、まさに劇場の舞台俳優たちが『お涙頂戴』な安いシーンを演じてるように見えるのは作者のわざとな魅せ方なのだろうか。
あと改めて読んでなんとなくキロランケの死のシーンと似ていると思った。
そんなに共通点もないんだけどコソコソ話に安堵して死んでいったシーンが被ってそう思った。
キロランケは死の間際に少数民族の暮らしや子どもや在りし日のウイルクとソフィアを回想し、宇佐美は鶴見と見つめあう、
上エ地もだいぶヤンジャンと単行本で性格が変わったので、どうなるんだろうかと思ったけど
上エ地の性格が変わっても周りの反応は何も変わらなかったので、上エ地はあの世界の人間にとっていてもいなくてもいい存在なんだなと思った。
犬の首子どもに見せつけ首絞めシーンの丸々差し替えと煙突での癇癪と、人となりがわかる加筆は嬉しいけれど前後の繋がりが両方とも急だと思う。
しかし、周りの反応は変わらなくても自分の気持ちを言語化できる程度には意思があるようになっていて少し安心した。
ヤンジャンでの死にざまが哀れ過ぎたのでどうやってもアレよりはマシになるだろうけどね。
煙突で言ってることもまあ間違っちゃないしな。正直とか美しいとかはよくわからないけど(今後のほかキャラへの布石なのか)
誰もがっかりした顔を見せてくれないから自分のがっかりした顔みて笑って死ぬという結末は変わらなかったけども、本人が満足ならヨシ。
でも上エ地頭破裂後のコマのナレーションは全く意味が分からない。日本語がおかしいと思う。
この物語で明らかにされた~仕掛けって作中のキャラじゃなくて読者のことを指してるのか?
上エ地のお披露目は杉元にも土方にも鶴見にも誰にとっても情報としては±0だよ、とついさっき話してるのにこのナレーションが差し込まれる意味が全く分からない。
これって結局鶴見と杉元&土方がほぼ同時に暗号解いたから五稜郭の攻防戦が速攻始まるよってことを言ってるだけなの?
にしても3話連続で名有りキャラが一人ずつ死んでるんだな。アニメ化したら下手したら1話で3人死にそうだ。
最新話で土方には「神」「光」「智」などカッコよさげな漢字が入ってるとわかった後で、門倉の刺青見ると漢字が平凡すぎて草。
房太郎はここで抜け駆けしようとしたから死んだんだと思うと悲しいな。
徐々に負傷していくのがゆっくり描かれ始めるのがきつい。
というか今の負傷具合で泣き言一つ言わない房太郎が屈強すぎる。
ジャックと上エ地はキャラメイク微妙だったけど房太郎はいいキャラだったのに残念だな。
会話の成り立たない奴に殺されそうになり、火事の煙を吸いまくり、縛って袋詰め状態で馬車に揺られて、精神的拷問を受け、房太郎と有古の死体(片方生きてる)を目の当たりにして、寝ずに暗号解読する…ってハードスケジュールすぎる。
読者としても非常にカロリーを消費する巻だった。
次巻は教会の鶴見回想・キロランケの手紙が丸々入って終わりかな。
おそらくギャグ的なシーンがほぼなくなる。大阪房太郎がそのままならそこだけか。
真面目な話ばかりになり、急激に話が進みつつ矛盾も多々あるので加筆修正が26巻並みかそれ以上になると思われる。
とても楽しみ。
27巻の表紙は久々に鶴見だろうか。
私は運がいいほうだと思う。
父親は田舎で曾祖父の時代に興した会社で役員やってた。父は次男だから社長ではないけど専務とか常務とかそんなポジション。割と従業員数も多くてコンスタントに利益も出し続け、バブル崩壊した後も頑張って存続してた。今は私の兄が同じ会社に入ってるけど社長の子どもたちが継がなそうなので兄が継ぐ方向になってるっぽい(私はかかわりがないのでよくわからない)。
3人の兄弟はそんなに頭がいいわけではないにも関わらず全員中学受験したし(私は私立、兄弟は国立)、大学は全員私立、しかも全員一人暮らし。
私が就職する頃は氷河期時代全盛期で新卒は難しそうだったので、資格の勉強をすると言って2年くらい資格取得に専念させてもらえた。まあいまだに資格は取得できてないんだけどその方面の仕事には就くことができていて、正社員としてやってる。生活に困ったことがないくらいには収入がある。これも運がいいと思う。
母親はずっと専業主婦だけど割と勉強家で何かと活動していた。今は立派な高齢者になってスマートフォン使ってLINEもやってる。高齢者になって尚、新しいことを学ぶのを嫌がらないのって大事なことだなって思う。
夫になった人は親ガチャが悪くて、親が中卒で事業やってたけどバブル崩壊のあおりで廃業。それからずっと貧乏だった。
また暴力的な人で、夫の父親の最初の記憶が腹を殴られたことらしい。
この環境ではまずいと思った夫は、奨学金で国公立大学に行き、大企業と呼ばれるところに就職した。就職してからも国家資格を取ったり努力はし続けている。
うまれは運が悪かったようだけど、生まれてからの努力により現在のところまで昇ってきたすごい人だと思う。
自分の趣味でやっていた文筆業も商業誌連載をとった。(終了してしまったけど)
当たり前だけど親ガチャはある。私が夫と同じような環境に生まれていたら夫のように努力できたかと言われると全く自信がない。
私はとても運がいい。こんな努力家で運を自分でつかみ取る人と結婚できた。
子どもも今のところまっすぐに健康に育ってくれている。これも本当に運が良かった。
もちろん乳児の頃は大変ではあったけど、抱っこが大好きで、おかあさんだいすきだよと言ってくれる子ども。本当に幸せだなあと思う。
職業柄、生まれも育ちも田園調布、豪邸に住み、親から受け継いだ不動産も持ってて、娘三人が全員医者だし医学部だし、高島屋が外商に来るような人を知っている。
それは運がいいの最上級みたいな人で、そういう人を見ると「私なんか…」となってしまうときがある。
東京に生まれたらもっと自分は違ってたんじゃないか、と思ったりもする。
でもそれも夫を見ると違うよな、そうじゃないよな、と思いなおす。