はてなキーワード: 餅つきとは
50代男、都民、一人暮らし。ワクチンはPPMの順で3回済みだが、3回目から半年以上経っている。
候補1: ご近所付き合いで参加した餅つき大会。雨だったのでテントの下での餅つきだったが、自分は室内メインで裏方の仕事をした。もちろん感染対策はしていたが、大勢集まって5時間くらい、飲食も少ししながら作業した。ただ、ここで感染したとすると発症まで10日以上かかっており、すこし長い。
候補2: 宅配の受け取り。ふるさと納税の返礼品の受け取りで3回。一瞬ではあるが、重い荷物の手渡しで顔が近づくこともあった。こっちはマスクをしてないこともあった。ここで感染したとすると発症まで3~5日くらいなので、不思議はない。
発症初日は主に発熱。この時点では陽性かどうかわからないが、ワクチンの副反応以来の発熱で嫌な胸騒ぎしかない。ネットで病院を探すが、予約できるのは2日後くらいなので諦めた。東京都が配布している抗原検査キットを申し込んだ。
2日目、キットが届いたのですぐに検査、検体をキットにたらして15分待てということになっているが、30秒くらいですぐに陽性反応。
陽性者登録センターに登録、食糧の支援とパルスオキシメーターのレンタルも申し込んだ。
夜には体温38.0℃、平熱は35度台なので、38.0℃は自分としてはかなりの熱である。ここがピークだった。
これ以降、体温や症状をMy HER-SYSに毎日登録。一度、登録が遅くなって電話がかかってきたことがあるが、それ以外はひたすらスマホからMy HER-SYSにアクセスするだけのコミュニケーション。
3日目、食糧が置き配で届いたので、玄関前から玄関ホールへ移動させたら、それだけで心臓がドキドキする。急いで、一緒に届いたパルスオキシメーターで測ったところ99%だったので、ひと安心。重症ではないが体力が落ちている。以前に見たニュースでは自覚が無いまま血中酸素飽和度が低下して入院するケースがあったので、パルスオキシメーターがあると安心する。貸し出されたものはいずれ返さなければいけないので、同じ機種をAmazonで購入した。
4日目~8日目、風邪の症状のフルコンボ(発熱、頭重感、鼻水、咳、のどの痛み、下痢)。ほとんどの症状は徐々に回復しているが、咳がしつこく残る。
全体的に普通の風邪よりも強くてしつこい風邪という感覚である。
詳細は忘れたけどこんな感じ
前提:余計な一言を付け加える人のお題
パーソナリティの一人が
「そういえば余計なことを言って会話にしたがる人いるよな」
「俺はこれ嫌いなんだよっていったら、なんで嫌いなん?と返してくる人いるけどさ」
「こっちは単に、へーそうなのか、程度の返答を期待しているだけで、会話を成立させたいとか思ってないんだよ」
「餅つきだとしたら、こっちが餅をついたらいい感じにひっくり返してくれるだけで良いんだよ」
「それを真面目に会話として成立させたがる人がいるよね」
つまり「今日は暑いね」程度の話には「そうだね」で十分なところを、「いや、昨日より最高気温低いってあるぞ」と言われるとしんどい、という話
なんか自分のことを言われているようだった
へーー!!
聞いてみてよかった、教えてくれてありがとう!
すごくイメージが湧いたよ
そうなってくるとつきたてのお餅って、毎朝お餅ついてる和菓子屋さんとか、自宅に餅つき機的なものを持ってないとなかなか食べられなさそうだね
うちのマンションでは子供会っていう謎の集団が正月になると餅つき大会を開いて
マンションの多目的ガレージでもち米を蒸して杵でついてその場で七輪で焼いて食ったりあんこまぶして食ったり
袋詰めして持って帰ったりしてる
そのままの状態で食えるのはその日のうちが限度かな
美術室のストーブですき焼き作って怒られたり(寄せ鍋はセーフだった。ニオイがダメだったらしい)
陶芸部の窯でナンを焼いたり(ナンを焼いたのはバレなかった。家から持ってきたカレーをストーブで温めたらニオイでバレて怒られた)
科学実習室のバーナーでお湯沸かしてカップ麺食べたりマシュマロ焼いたりしてた(これはバレなかったので何度もやった)
何故かバスケ部の部室に餅つき機があって、別に正月でもないのに餅を食べたりもしていた。(これは顧問公認だった)
今の時代じゃ絶対に無理だと思うけど、めちゃめちゃ楽しかった。
盆や彼岸の準備とか年末の大掃除とか季節飾りの用意とか、祖父の主導で男手メインにやってたからそういうもんかと思ってたけど、世の中的にはそうではないらしい
おせち料理とか、時期の仏前のお供えのご飯とかは祖母と時々母がやってたから、料理とそれ以外っていう住み分けだったのか…?
でも端午の節句の笹巻きとか、ぼた餅おはぎとか、年末の餅つきとかは家族全員でやる行事だったし、クリスマスとかハロウィンとかバレンタインとかは父が張り切ってなんか用意とかしてた
誰かと暮らす予定は今のところないけど、特別な日の用意の方針が生まれつき違うときどう折り合いをつけていくんだろうか…
長年付き合って結婚するなら、季節の行事の話なんかもすることあるんだろうけど、出会って二、三ヶ月で結婚までこなすような婚活してると結婚してから拗れたりしないのかな
まず前提として、ここではあえて政策論については触れない。
野党共闘の是非についても触れない。
選挙事務所とその周辺における、今さら当たり前の事実を再確認したり、
巷にあふれる選挙分析を眺めていると、無党派層をどう動かすかに終始している意見が多く見られる。
しかし無党派に頼る運動をしていては、いつになっても自民党には勝てない。
選挙の本当の闘いは、公示日(告示日)の直前までに終わっているのだ。
徹底して目に見える票を積み上げていく作業を、選挙のプロは行っている。
では、組織票とは何か。
本当の意味で選挙対策本部のコアとなるのは、そう、地方議員の存在である。
日ごろから地域活動をさせ、できる限り多くの有権者と日常的な関わりを持つこと。
それこそが、選挙運動の長期的戦略の本質であり、自民党が勝ち続けている実態である。
地元小中学校の入学・卒業式、運動会での挨拶はもちろんのこと、
地方議員はあらゆる地域活動に足を運び汗を流し、御用聞きに精を出している。
それこそが結果として、最も身近にして最大の選挙運動効果をもたらしているのはご承知の通りである。
自民党型の地方議員には、選対のコアメンバーということのほかに、もう一つ有用な意味がある。
それは、将来の国政進出へ向けたキャリアパスという位置づけである。
地方議員を増やせば増やすほど、有用な人材が発掘され定着してゆく比率は高くなり、
その中で優秀だと認められた人材が国政進出を果たすというわけだ。
それは当の地方議員たちが国政に関わる際の強いモチベーションにもなっていて、
普段はなかなか会えない広範囲の有権者と直接触れ合う良い機会となっている。
議員のキャリアパスというものが、自民党の組織拡大における大きな相乗効果を果たしているのは無視できない。
与野党問わず、複数の選挙事務所と直に触れあってきたからこそ確実に言えることがある。
総選挙が終わった今、1年足らずのうちに次の国政選挙が控えているとはいえ、
だからこそ次に野党支持者が考えるべきはこのことではなかろうか。
ビジネスの世界には、「人・モノ・金」というスローガンがある。
選挙で言えばそれは「人・金」となるだろう。
選挙のために惜しみなく金を使う。
これが、地方議員の育成に続く第二の手立てだ。
自民党が選挙のために使う金の99.99%は合法的で、その多くは費用対効果をしっかりと考えられてのものだ。
合法的に人を雇い、印刷物を刷り、ビラを撒き、ポスターを張り、広告を打ちまくる。
いくら地方議員が多く、組織が盤石でも金をうまく使えなければ選挙には勝てないのだ。
実は、地方議員の数だけを見ると、自民党と共産党では全国の議員数の合計はさほど変わらない。
(むしろ数年前までは、共産党所属議員が最も多かったし、今では公明党議員が最も多い)
https://www.soumu.go.jp/main_content/000741465.pdf
それでも共産党が国政で議席を伸ばせない要因の一つは、公約もさることながら、金によるところも大きいと私は見ている。
政党交付金の制度自体に異を唱える共産党は、党の理念として、税金から各政党に分配される「政党交付金」を一銭たりとも受け取っていない。
一方の自民党は、政党交付金だけで年間170億円近くの大金を得ている。
https://www.soumu.go.jp/main_content/000678653.pdf
仮に自民党が、衆参合わせて400人弱いる国会議員にこの大金を平等に配ったとすれば、
1人あたり年間4,000万円近い金額を選挙対策として使えるのだ。
そして、意外と知られていないのがこの政党交付金の算定方法についてで、
獲得した議席数はもちろんのこと、選挙の得票数も、交付金の額に影響するのだ。
つまり実際の選挙結果においては、いわゆる「死票」になってしまった票も含めて、
1票あたり、およそ300円ほどの価値を持っていると考えることができる。
(政党交付金の年間予算は、人口1人につき250円×約1.2億人=300億円。
有権者数は約1億人、投票率は約50%なので、投票者数は約5000万人である。
議席数に応じた算定と、得票数に応じた算定とが全体予算の1/2ずつなので、
300億÷5000万÷2=300円というざっくりとした計算。
小選挙区と比例の別、衆参の別もあるので厳密にやるともうちょい複雑。)
https://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seitoujoseihou/seitoujoseihou04.html
まるで、某放送局をぶっ壊す政党のようなビジネスライクな話になって恐縮だが、
(というかN党が、議席を取れなくても票さえ得られれば喜んでいるのというは、まさにこういった事情による)
そしてその原資は言うまでもなく私たちの税金であることは、もっと広く知られるべき事実である。
むしろ合法的にバンバン金を使って、バンバン票を集めてもらうよう働きかける必要がある。
金がなければ票は奪えないし、票は文字通り金を生む。
候補者も政党も支持者も、もっと選挙と金の関係をポジティブに捉えなおしてほしいところだ。
そしてできるならば共産党はこの事実を重く受け止め、本当に野党共闘で政権奪取をしたいのであれば、
理念として受け取らないのは理解はできるが、それでは選挙には勝てない。
交付金制度を廃止するのは、政権を取ってからでも遅くはない。というか政権取らないとそもそもできない。
これは統計的なデータがないのであくまで印象論となってしまうが、
投票に行こうと言われて、初めて投票に行く気が起こる人などめったにいない。
それよりも、自分の身近にいる他人を投票所へ向けるために効果的な魔法の言葉がある。
である。
これは是非とも、某CMに参加していた著名人に言いたいことだが、
あのクラスの著名人たちが、芸能活動のリスク覚悟で投票先を公言していたとすれば、
これは決して、「だからあなたも○○に投票してほしい」という投票先の同調を呼び掛けてほしいわけではない。
むしろ、「私は〇〇に投票する。あなたも自分でよく考えて投票に行ってほしい」というところでとどめておいた方が良い。
自分の知り合いに直接、特定政党への支持を訴えかけるという経験はないだろうと思う。
そうでなくとも、SNSで支持政党を公言している人を見かけたならば、
けれどやはり、これでは選挙に勝てないのだ。
先述した通り、全国の地方議員の合計で、公明党の所属議員が最も多いという事実を、今一度よく考えてみてほしい。
「なんとなく、近所のあの人が頑張っているから入れといてやるか」という人はかなり多いのだと思う。
とはいえ、電話帳のア行から順に投票を呼び掛けるなんてことはしなくてもいい。
「Go Vote !」という可愛げな動くスタンプを張り付けたインスタグラムのストーリー画面の端っこに、
「ちなみに〇〇に投票しました」と、ごくごく小さなフォントでテキストを載せてあげるだけでも十分だと思う。
次回の選挙では、支持政党や投票先を公言するブームが訪れていてほしいものだ。(まぁ無理だろうけれど)
と、雑文を書いている間に枝野辞任のニュースが飛び込んできた。
本多平直離党問題とか、公約発表の仕方(順序)とか、東京8区騒動の対応とか、
枝野のやり方が良くなかったところがたくさんあるのは認めるし、代表交代の議論が湧くこと自体は否定しないが、
今このタイミングで代表を挿げ替えたところで果たして良い結果となるとはとても思えない。
小川淳也待望論とかが出てきたら、ある種の風が起こったりするものなのだろうか・・・(冗談)
一体どうなることやら・・・
『クイック・ジャパン』『ロッキンオン・ジャパン』以外で、小山田がいじめ自慢していたとされる『月刊カドカワ9月号』の掲載記事について、
メディアが偏向的な切り取りで掲載して拡散され続けているのがずっと気になっていたんだけど、
案の定これを利用して、拡散の元凶となった件のブログが『 小山田圭吾がいじめを語る理由 - 孤立無援のブログ 』という記事で外山恒一氏のnote記事に反論している。
また変な扇動をしかねないので、記事の冒頭から関連する箇所(幼少期から高校時代)までをまるっと書き起こした。
なお、カドカワの記事はフリッパーズ・ギター3rdアルバム「ヘッド博士の世界塔」の発売直後に刊行されたもので、
アルバム発売を受けて、音楽への姿勢を掘り下げるために幼少期から振り返させた全19頁のインタビュー記事のようだ。
月刊カドカワ9月号(1991年9月1日発行)P348〜P352
きっと、ぼくの生い立ちなんて面白くないですよ。やっぱりこういう話が載るんだったら、波乱万丈の人生を歩みたかったですよ。
幼稚園のときに、巨人の土井選手の娘がいてね。土井ヨウコちゃんていう子だったんだけど、餅つき大会があって、土井選手が餅ついててかっこいいって思ったのが最初の記憶ですかね(笑)。土井ヨウコちゃんの顔は覚えてないんだけど、土井選手の顔は覚えてる。今でもテレビで土井選手の顔を見るたびに、餅ついてたなということを思い出しますね。
すみれ三組だった。それは年長組で、その前は忘れちゃった。ぼくはお絵かきを習ってた。シンちゃんていうちょっと知恵遅れの子がいて、クレヨンを投げまくって先生にひっぱたかれていたのを思い出すな。
普通の子だった、おとなしくもないけど。すみれ三組の隣のクラスに「ひらけポンキッキ!」に出たヤツがいて、そういうヤツの悪口を陰で言ってた。出たからって威張るんです、そいつら。ぼくらはイジケたグループで、五人ぐらいいた。女の子もいたな。まだ人間できてませんからね。学芸会も普通にこなしてたな。インディアンの歌を歌うその他大勢の役をやった。
小学校は遠かったんです。同じ世田谷区だったんだけど、私立だったから。それからぼくは高校まで同じ学校に通うわけなんだけど、もうシンちゃんはいなかったんだけど、二年のときにKという知恵遅れの子が転校してくるんです。ぼくらの学校は身体障害者の人が多いんだけど、特別にクラスは作らないで普通に入ってくる。Kは高三まで同じクラスだった。ぼくだけじゃなく、みんなにインパクトを与えたと思う。Kとは小学校のときはわりと距離を置いて付き合ってたんだけど、高校に入ってから意外に密接な関係が出てくる。
小学校のときは成績は良かった。運動会のリーダーとか、班長とか。それから、物が流行るじゃない、スーパーカー消しゴムとか怪獣の消しゴムも流行ったしね。そういう物のコレクトに関してはいつでも一位にならないと気が済まない男でね。それで人気を博してたからね。相撲の消しゴムも流行った。貴ノ花とか高見山とか。ガチャガチャでも、十円入れてガチャガチャでカプセルを出すと効率悪いのね。
ちょっと遠いところに駄菓子屋があって、その店では中身がドンと箱に出してあって、自分でスーパーカー消しゴムを選べる。友達とその店を発見して、他の友達には言わないで、自分らだけでコレクトして・・・ジャーン!!(笑)
小学校のときって、足の早い人とか人気があるじゃない。そういうタイプじゃなかったから、物で誤魔化したり、人気のあるヤツの足ひっぱったりとか。陰で悪口言ったり、変な噂流したり。こすいヤツだったな(笑)。だからすごく嫌われたりすることもあったな。いちばんショックだったのが、小学校五年くらいのときに文集を作ったんだけど、みんな普通のことを書いてるのに、「小山田くんの嫌なこと」とかいうタイトルで作文書かれてね(笑)。別に人気者じゃないヤツに書かれたからね、よけいにムッときて。親にその文集はみせられなかった。ぼくがそいつをいかにして迫害したかっていうようなことが切々と書いてあってね。でも、事実なんです(笑)。まさか文集にそんなタイトルで書かれると思っていない。ちゃんと印刷されてるもので、先生が見るだけじゃないの。みんなに配られちゃうの。けっこう挫折だった。だからそいつには、小学校人生全部かけて復習した(笑)。
運動会のリーダーも五年のときかな。仕事はそんなにしなくて、自分の好きなようにやってた。学校に遅くまで残れたり、プリント刷ったりするのがすごく好きで、そういうことができたからやってた。運動が得意だったていうわけじゃなくて。
音楽は幼稚園から。アニメとかのコレクトがすごかった。幼稚園の頃はコレクトって意識じゃなかったけど。水木一郎って知ってるでしょ。あの人が近所に住んでたの。それで家族でどっかに旅行に行ったら仮面ライダー・ショーをやってて、司会が水木一郎で、うちのお母さんが仲良くなって、家に来たことがあった。そのとき『イナズマン』のLPにサインしてもらった。やっぱり子門より水木だよ、とか言って。ウルトラマンからマイナーのものまでLP集めてた。「鉄人タイガーセブン」とか。よく一緒に歌ってた。その頃から歌手になる資質があったんですね、ねえよ、そんなもん(笑)
超テレビっ子。家に帰ったら、ずっと。アニメの再放送とかゴールデンタイムも。でも三年生ぐらいから「ザ・ベストテン」が始まった。大好きだった。チャートを全部メモるの、点数まで。二十位から十一位まで久米さんが早口で言うんだけど「『いい日旅立ち』山口百恵、九千何百何十点」とかいうのを、早くて書けないから「いい日、山」とか書いて後で清書する。それで学校で「昨日、何位だったよな」って言ってメモ見せて威張るというのが流行った。あとになって小沢もそれをやってたって話をきいて。他にもいろんなチャート番組きいて、どのチャートが信憑性があるとかって。オリコンもずっと読んでる、細かいチャートまで。地方別チャートだとフリッパーズ・ギターは四国が全然ダメなの。だからこれから四国を強化したいなと。
あと、「カリキュラマシーン」が好きだった。鉛筆のジョーとか宍戸錠とか吉田日出子とか藤村俊二とか。変な歌があった。「ねじれてねじれてシャシュショミャミュミョ」とか、そういうねじれる言葉があるでしょう。そういう言葉を覚えさせるためにその曲がある。一緒に歌ってた。それから、「三は嫌いだよ、いつもいつも、二人仲良くなると、ひとり仲間外れ〜」とか言い終わると、二人が真ん中のひとりをギターでボコボコにしておしまいっていうような(笑)。強烈なの。コント55号はもう欽ちゃんがソロでやってたけど、ぼくはダメだった。ドリフの志村のほうが好きだったけど、それより「カリキュラマシーン」のほうがずっと好きだった。よくギャグを覚えてる。ギャグともとれないようなギャグだったけど。きっと当時は笑ってはいなかったと思う。『天才バカボン』の第二巻もすごかった。
中学になると、人当たりが悪くなって。クラスに友達があまりいなくて、すぐにイジケるタイプに変わったんだよね。あまりしゃべらなくなった。休み時間は仲のいい友達とクラス出て、他のクラスの仲のいい友達と遊ぶみたいな感じ。中学になると音楽がすごく好きになって、そういう話もできる人としか話さなくなった。
Kはね、体がでかくて、小学校のときは突然牛乳ビンで人を殴ったりしてたんだけど、中学になるとそういうことはしなくなった。大人になったみたいで。
同じクラスにひとり仲のいい子がいた。その子のお兄さんがパンク系が好きで、ぼくもその人の影響でそういう音楽が好きになっていった。その子にテープ録ってもらったり、貸しレコード屋に行ったり。その頃、ウォークマン・ブームで、そういうのはいち早く察知して、お金なかったけど小六のときにウォークマンⅡを買った。ボディが青くてヘッドホンがオレンジ。すごく大事にしてたんだけど中一のとき電車に置き忘れちゃった。ショックだった。で、二台目はアカイやつ。電車の行き帰りで聴いてた。最初に行ったコンサートは、中二のときのクイーンかな。
その頃、初めてエルヴィス・コステロ『インペリアル・ベッドルーム』を借りて、すごく好きで、そのちょっと後に『パンチ・ザ・クロック』ってアルバムが出た。音楽雑誌のグラビア見るのも好きで、"イアン・マッカロクのお部屋"とかいって、奥さんと一緒に写ってる写真の中にレコードがダーッと並んでて、いちばん前にアズテック・カメラの『ハイランド』が置いてあった。それで貸しレコード屋に行ってアズテックの「思い出のサニービート」の12インチ・シングルを借りて、その友達と二人で「いいね」って聴いてた。それからそっちの方面の音楽にどっぷりいった。
そういうふうにして中学生のときに洋楽を聴いてると、みんな馬鹿で自分は頭いいって思いがちでしょう。案の定、そういうふうになっていた。
ギターは中一から。いとこが弾いてて、クイーンとかディープ・パープルを教わった。教則本とか見て普通に弾けるようになったんだけど、アズテック・カメラは弾けない、コーが難しくて。いろんなコードを知らないから、コピーして一生懸命した。だから我流で、コードの名前なんて知らなくて、指の形で覚えた。
高校になると、すごく仲良かったヤツが違うクラスになっちゃった。そうしたらKが隣の席なの。アイウエオ順で、小山田の次がK(笑)。クラスにいるときは、Kとしか話さなかった。Kって特技がひとつだけあって、学校の全員の名簿を暗記してるの。バスの中で一緒になったとき、「あいつの住所は?」ってきくと、ペラペラペラって出てくるの。見たこともない下級生や上級生の電話番号とか兄弟もわかってる。で、高校になるとみんな色気づいて下敷きの中にアイドルの写真とか入れてくるじゃん。Kも突然入れてきた。何かなと思って見たら、石川さゆりだった。「好きなの」って言ったら、「うん」。それから、Kは鼻炎だから、いつも鼻かんでるんだけど、ポケットティッシュだとすぐなくなっちゃう。だから購買部で箱のティッシュ買ってきて紐つけてあげた。それでKはいつも首から箱をぶら下げてた。難しい漢字にもすごく詳しかった。暗記には異常に強かった。俺はいつもビクビクしてたの。ある日、突然キリッとした顔して真面目なこと言い出したら怖いなって。「本当は俺は・・・」って。だって下敷きに石川さゆりを入れてるのも、ギャグなのか本気なのかわからないじゃない。ギャグだとしたらすごいじゃない。で、ずっと観察してたんだけど、そういうことはなかった。だけど風の噂だと、Kがどこかで森鴎外の小説を読みながら歩いていたという話をきいた。
ぼくは浮きまくりっていうか、クラスのみんなが和気あいあいでやってるんだけど、クラスの集合写真にいなかったり。文化祭の打ち上げとか、集まるときに呼ばれなかったり。でも別に平気。人に相談とかしないし。高校になると他の学校の友達とかいたから。
変な高校でさ。普通、レベッカとかBOØWYのコピーバンドとかが主流としてあるんだけど、先輩が変わってて、メテオーズのコピーバンドとかよくわかんないバンドが多くて、レベッカとかやってると迫害されて潰しにかかられる。学園祭で体育館でやるコンサートにはオフコースとかニューミュージック系のコピーしか出られなくて、パンク、ニューウェイヴ系は音楽室。そこにアズテックとかスミスのコピーやって出てた。授業中はウォークマンのヘッドホンのコードを袖に通して手のひらに隠してきいてたりね。
小沢は中学だけ同じ学校だったんだけど、別に仲良くなくて。高一くらいのときにたまたま友達の家で一緒になって、ぼくの持ってた編集テープ聴いてからそういう音楽を好きになったみたいで電話かかってきた。それから学校の帰りに待ち合わせて、お茶の水のジャニスって貸しレコード屋に行ったり。そこはイギリスのインディーズとかヨーロッパものが置いてあって、泊まって、学校行かないでレコードを全部テープに取って、返しに行って・・・そういう生活してたな。その頃の経験てでかいかもしれないな。エスカレーター式だから大学の試験はそんなに難しくないんだけど、遅刻とか欠席が多かったから一年生の時点でダメだとわかってた。だけど小沢は学校に行くの。ぼくは小沢の家で寝てたり(笑)。
※このあと、音楽の話からフリッパーズ・ギター結成までのエピソード、アルバムに対する思いなどが語られるが、問題となっているいじめに関係する箇所は上記だけなので以降は省略。
読んでわかると思うのだけど、ここでも小山田は外山恒一氏の読みどおり、過去を振り返るときは一貫して”自分自身を自虐的で自嘲的なニュアンス”で語っているんだよね。
そして問題の記事から遡ること3年前にもかかわらず沢田君の話が出てくることから、彼に対しての思い入れが深いのもわかるし、
自分自身を嫌なやつと言ながら、”イジメしていたことは認めたくないけど認めざるを得ない葛藤があったのではないか”とする外山氏の下記視点は、なるほどなと腹落ちする。
まず第一に、これは小山田氏が、自分がいかに情けない人間か、いや、〝情けない〟を通りこして、もはや〝卑劣〟で〝ろくでもない〟と云ってよいぐらいの人間であるか、自虐的に語り続けている過程でこういう話になっているのだ、という点を見逃してはいけません。活字に起こすと単に「(笑)」となってしまいますが、少なくとも小山田氏のセリフに付け加えられている「(笑)」は、ニュアンスとしては完全に自嘲的な「(笑)」です。イジメをやっていた当時の気持ちに戻ってしまって、「楽しかったなあ」と笑っているわけではありません。
ーーー(省略)
それにしても驚かされるのは、小山田氏がイジメの始まりとエスカレートの過程を、事細かによく記憶していることです。さんざん云われるように、イジメた側はそんなことはやがてすっかり忘れてしまって、これほどまでに、「ああ、そういう展開はいかにもありそうなことだ」と情景がまざまざと思い浮かぶような語り方をしうるほど詳細に覚えているというのは、イジメた側としては極めて例外的なことなのではないかと思うのです。このことはむしろ、世間で云われているのとは逆に、小山田氏が自身のイジメ加害経験と真摯に向き合ってきたことを示しているのではないでしょうか? それも極めて稀なレベルで、です。小山田氏の云うとおり、そもそもの最初は〝ちょっとフザケていただけ〟、〝ちょっとからかっていただけ〟なのでしょう。それがいつのまにかエスカレートして、ヒドいことになっていく。小山田氏は「決してイジメているつもりはなかった」という線を頑なに守ろうとしていますが、内心ではおそらく当時リアルタイムで、「これはもうイジメと云われても仕方がないレベルなのではないか?」と不安になってもいたように感じられます。高校生になってイジメっ子を卒業してからか、あるいはイジメっ子時代の末期からのことなのかもしれませんが、「どういう経緯でこんなことになってしまったのか?」ということに強くこだわって、よくよくそれを思い返し、もちろん少なくとも『ロッキンオン・ジャパン』や『クイック・ジャパン』でそれを語ることになる20代半ばの時期まで、何度となく反芻してみたのでなければ、なかなかここまで詳細に記憶していられるものではないように思うわけです。
また、件のブログの反論としては、”自分の判断で「障害者を虐待できる俺ってかっこいい」というブランディングを行っていたのである”ということだけど、
フリッパーズ・ギター解散前にそんなリスクの高いブランディングを行う必要はないでしょ、と。
下手したら、「障害者虐待をアピールするから小沢に捨てられた」というような負の印象を残しちゃうわけで、ダメージの方が大きいことは想像できるし、いくらなんでも無理筋すぎる。