はてなキーワード: 預金通帳とは
http://anond.hatelabo.jp/20170408143806
適応障害で療養してたとのことだけど、今は働けるぐらいに回復したの?
通ってる心療内科の先生は、働けるって許可を出してくれてるの?
働くってのは凄くエネルギーのいることだから、体調が悪化するリスクもある。
もし、しばらく病院に行けてなかったり、主治医から働くことを勧めていられなかったりするのなら、今働くのはお勧めしない。
じゃあどうするのか?っていうと、まず考えられるのは生活保護。
持ち家であっても、預貯金額のトータルがだいたい6〜10万円以下なら、申請自体はできる。
保護の決定は申請から14日以内に行うことになってるんだけど、本当にお金がないなら当座の生活費も貰える。
精神科通院歴があって、増田の状況であるなら、福祉事務所は保護を認めないといけないはず。
今朝の地震と津波警報に関して、煽りすぎだ。煽っても人が死ぬよりいいというはてなーがコメントを寄せていた。
どっちだろうと興味ないけれども、中には煽っても人が死ぬよりいいというはてな民が「もう震災を忘れたのか!」となかなか強いコメントを寄せる人が結構な人数いて、驚いた。
というのもなぜ津波であんなに犠牲者が増えたのかという当時の検証番組やインターネットの記事では津波警報を過大に報道しすぎて信用されなくなった経緯があるということが原因だろうと結果が出ていたからだ。
津波の記憶だけを覚えていて、過剰に煽り、津波警報が信用されなくなる。
教訓までは覚えていなかったか。はたまた知らなかったか。それを知っても煽ってもいいというのだろうか。
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恐ろしい数字がある。津波の避難勧告が出たのに、実際に避難した人は6%しかいなかったことだ。2011年3月11日、東日本大震災の日の大津波警報。静岡県焼津市での数字だ。和歌山県でも4600人に避難指示が出たのに、ある避難所には6人しか来なかった。
このように東日本大震災のときには、全国的に津波警報が信用されなくなっていた。
これには長い歴史がある。1998年5月4日、津波警報が出た。沖縄、九州、四国、そして本州の南岸に最大2~3メートルという警報だった。
港につないでいる船や港の関係者、沿岸の人々などに緊張が走った。ちょうどゴールデンウイークの最中だった。行楽を打ち切って港や家に駆け戻った人も多かったに違いない。
だが拍子抜けだった。実際に来た津波は、わずか数センチのものだったからだ。
2003年9月にはM8・0の「2003年十勝沖地震」が起きた。この地震とほとんど同じ規模だった「1952年十勝沖地震」で6メートルを超える津波で甚大な損害を被った北海道東部の厚岸町でも、勧告に応じて避難した人はわずか8%にとどまった。実際の津波は警報よりもずっと小さくて被害を起こすようなものではなかったから、人々の判断は間違っていなかったことになる。
10年以上も過大な津波警報がくり返されたので人々は警報を信用しなくなってしまった。
それには理由がある。同じ大きさの地震が同じ場所で起きても、海底での地震断層の動きかたが違えば津波の高さは大変に違う。
震源からP波とS波という地震波が出る。P波が先に進み、S波はどんどん遅れていく。雷から音と光が同時に出るのに、音のほうが遅れていくのと同じである。
津波警報の仕組みではP波だけを使って計算している。S波は、震源で地震断層がどう動いたかという大事な情報を運んでくるのだが、S波を待ってからでは間に合わないからだ。
それゆえ、地震の震源と地震の規模だけが分かった段階で「考えられる最大」の津波を想定して警報を出す。だが地震断層の動きかたによっては実際の津波の大きさが最大を想定したときの何百分の1にもなってしまうのだ。
「最大」の警報と、実際にはずっと小さい津波の繰り返し。人々が信用しなくなったときに襲ってきたのが東日本大震災だった。2万人近い人命を奪った被害が出てしまった要因のひとつは「信用」だった。
行政は住民の防災意識の低さを嘆く。しかし、夜中の警報で財布や預金通帳やはんこを探し、おばあちゃんを背負って逃げたのに予報された津波が来なかったことをくり返した人々のことを考えてほしい。行政は津波警報を信用されるものにすることこそを心がけるべきなのである。
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http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140227/dms1402271802029-n1.htm
http://anond.hatelabo.jp/20161019074216
僕としては自分の家族もあるので弟のいる実家とは距離をとっていたのですが、母からの電話で「こんな状況でも甥っ子は勉強頑張って成績いいのよ」との話で居ても立ってもいらず勢いで書きました。正直ここに書いても実効性のあるアドバイスがすぐもらえるとは思ってませんでした。たいていの内容は僕の想像範囲内ですし。でもこうやって文章にすることで弟の問題をある程度整理し直すことができ、あとこの状況に3年近くいるので僕も両親もすっかり感覚が麻痺しているので、日頃からキチガイになれているはてなの人たちから見ても弟の問題は相当にヤバイ状態なんだと再認識できました。
僕に「自分の家族を第一にして実家とは距離をおけ」と言ってくれた方々、実際にはすでにそうしてます。つか実家の問題が頭にあると仕事もまともに集中できないし家ではヤンチャな2才児が暴れているので普段は実家のことを考える余裕もないです。でもやっぱ甥っ子のことまで見捨てるわけにはいかないんだよなと。簡単な解決策なんて皆無でどれも時間と手間がかかるばかりなんですが、とりあえず事務的に少しずつこなしていこうと思います。
前回は詳しく書きませんでしたが、実家地元の役所にはすでに相談してます。そこで引きこもり対策のNPOとか児童相談所、貧困高齢者向けの窓口などいろいろ紹介してもらいました。ただ弟に関しては、彼自身が現状をしっかり受けてめて自らの意思で立ち直ろうとしてくれないかぎり、どうにもこうにもならないんです。引きこもり対策NPOも職業訓練も役所の各サービスも、本人が動いてくれないと使えないものばかりでして。。。とりあえず母が定期的に高齢者向けの相談NPOにいって現状を話せる相手ができたのは良かったです。それ以前は僕が電話で聞かされてたんですけど、話きくだけでストレスで眠れなくなるんで、やっぱああいう話は直接関係ない第3者に聞いてもらったほうがいいですね。
お気づきかと思いますが、僕も実家の両親も、この状況に3年ちかくいるので多少狂っているとは思います。物理的距離があって合わなくてすむ僕はともかく、一緒に住んでいる両親の心労はひどいものです。実は今年になってよく家にあるモノやお金がなくなります。たとえば甥っ子の小学校の給食代を封筒に入れておいてたのにそれがなくなったり、車の鍵がなくなってたりと。毎回弟に聞いても「知らない」と一言。ただある日、同じように父の車の鍵がなくなったときに母が「頼むからもう一回自分の部屋を探してくれないか?ひょっとしたら他のものと紛れてどっかいったかもしれないじゃない?このままじゃお父さんタクシーの仕事いけなくなっちゃうのよ。。。」と懇願したら、部屋に戻った弟が「よく探したらあったわ」って車の鍵を持ってきました。もう「ああ、やっぱこいつか。。。」ってなりますよ。
そんな状況でして、両親にとっては家にいるのに、貴重品やお金を隠しておかないと弟に勝手に持って行かれる(実際外出中に勝手にあさっている形跡あり)状態なので、もう気の休まる瞬間がないんです。つい先日も母が預金通帳をなくしたので、弟に悪用される可能性を恐れて急いで解約したらしいです。でもその口座から日頃の水道代とか電気代とか引き落としてるんですよ。。。その設定を母じゃできないから、結局ボクが平日時間を作ってやらないといけない。こんな本来ならやらなくていいような雑用がどんどん増えていくんです。こういう日々があった上の「ぽっくり死んでくれないかな」なんです。
役所のカウンセラーや児童相談所、引きこもりNPO、あと自己破産や財務整理の専門の方にも何度も話しました。事前に弟の承諾を得て家に来てもらったこともあります。でもなにも変わらない。第3者が来ているときだけは猫をかぶったように物分りがよくなって「自分も頑張って仕事探してるんですがなかなか。。。」など煙に巻いて、彼らが帰ったあとはまた元通りです。小賢しいのはあいつは経済DVや言葉の暴力はするんですが、実際に殴ったり蹴ったりはしないんですよ(脅すだけで)。だから警察沙汰にまでには至ってません。
今回の投稿の収穫として、精神科には本人じゃなくても家族が最初に行くってアイデアは気が付かなかったので、近々実家近所の心療内科を探して相談してみようと思います。あと母親には小型のボイスレコーダーを渡して、今後弟がまた脅してきたら定期的に録音しておくようにと言っておきます。音声データ取っておけば何かの証拠になるでしょうし。とりあえずこれからはあくまで甥っ子のために、感情を捨てて事務的に、できることを少しづつ根気よくやっていくしかないんだろうなと思います。
弟については「もしデスノートがあったら・・・」な気持ちは今も捨てきれません。ただ家のかわいい盛りの2歳の息子の相手していると、あいつや俺にもこんな可愛い時期があって、親に愛されて育っていた時期があったんだろうなと。それがなんでこんなになっちゃったんだろう。。。って思うと毎回泣きたくなってきます。そして次こそは弟と少しでも話し合ってみよう。時間がかかっても諦めちゃだめだと決意して実家に戻るんですけど、その度にそんな気持ちを裏切られるようなことばっかです。もうだから今後はあくまで事務的に、第3者の専門家とこまめに連絡をとって、やるべきことをこなしていきたいと思います。
銀行員ってのは当たり前だが個人の銀行預金を好き勝手見ることができる(もちろん誰が誰の情報を見てるかってのは本部に監視されてるが)
預金通帳ってのは個人情報の中でも最高レベルの重要な個人情報だと思う
というわけで
ただ貧乏人かどうかはわかる
借金とはいっても住宅ローンとか「借りた方が得」(な場合もある)ようなものではなく
で、そういった借金を極度額いっぱいいっぱいまで使い、預金残高も給料日前はほぼゼロになっているような人たちの口座の動きを見るとある共通点がある
ということだ
それが手数料のかかるATM(便宜的にコンビニATMと言う)だと尚更だ
いろいろ理由があると思うが
誰だって手数料タダのATMとコンビニATMがあったら前者を選ぶ
当行のATMは一週間生活していれば必ず一回は近くを通るくらいの数はある
例えば火曜日3000円、金曜日5000円、日曜日10000円必要になりそうなら
月曜日にまとめて20000円(2000円余裕資金)おろせばいい
しかしなぜか貧乏人は火曜日に3000円おろし、金曜日に5000円おろし、日曜日に10000円おろすのだ
そんなに頻繁にATMを利用すれば当然毎度毎度銀行ATMを探すのも面倒なので、コンビニATMを利用しがちになる
というわけだ
某政令市でのできごとです。(どこにでもあることなのかもしれませんが…)
徴税担当の職員は、その企業が所有不動産を売却して得たお金がまだ預金通帳に残っていることを把握していました。
そこで、滞納解消を図るために、預金差押をすることにしました。
ところが・・・
銀行はお客さんが大切です。
「役所が預金差押するよ!」なんて滞納者にお知らせしてしまいました。
滞納者は、銀行には「役所とは話ができているから差押は待ってもらってくれ」と訴える一方で、先輩である議員さんに相談しました。
議員さんは、担当の課長さんを飛び越えて、いきなり局長さんに相談されたそうです。
以前の局長さんは、国からの出向で来ていたので、議員さんも言い難かったようですが、今の局長さんは市役所の生え抜きです。
言いやすくなってこれはチャンスと思ったのかな?
途中経過はよくわかりませんが、結局、預金差押は中止になったようです。
こんなことってまだあるんですね。
さっき見てたテレビで「車を持ってない男と付き合えないか?」というアンケートで女性100人中15人が「付き合えない」と回答していた。
意外と少ないね。
リアルでも男と話しているとき、こういう話になったら毎回「車なんて今の時代必要なくない?」みたいなことを言う男がいるけど、正直車を持ってない(買えない)男がコレ言ってるのを見ると、もうダサくて見てられない。
預金通帳の中に数千円しか入ってないのに「モヤシ炒めとレンジでチンするご飯が一番コスパいい」って意味不明に賢ぶった馬鹿みたい。
http://m.huffpost.com/jp/entry/8902352
私も塾には行かなかったし行きたいとも思わなかったが、仮に行きたいと思ったとしても、行けなかったと思う。
別に黒い服を着たおじさんが家に来たり、親がギャンブル中毒で離婚したりはないし、(大学に入って一人暮らしをするまでは)特段ひもじい思いをしたことも記事に書けるようなドラマチックな出来事も何もなかった。
しかし、子供心に塾の授業料を見て、ウチの家計では無理だろうなと思ったくらいの家庭に育った。要するに田舎の一般的サラリーマン家庭だった。
周りはあまり裕福ではなく、飯場のようなところで、ギャンブル中毒の親、母子家庭、父親の自殺、小学校6年間で4回も苗字が変わった子、夜逃げしたためどこか遠くから車で送られてくる子等だらけだった。
(金銭感覚や教育観といった観点で)まともな両親が2人とも健在だった時点で、そこでは最も恵まれた環境だった。
そういう意味で、私は当地では最も恵まれた環境に生まれ育ったと思う。
大きなショックを受けたのは、親の預金通帳を盗み見た時だ。
それ以来、私は親にモノをねだらなくなった。当然塾に行きたいとは言えなかったし、私は小さいころピアノが習いたかったのだが、習いたいと言えなかった。
私は14歳の時、田舎を出ることを決心し、田舎の中学を出て、片道2時間以上もかかるような遠い街の進学校へ行き、東京大学に現役で合格した。結局塾には一度も行かなかった。
私自身はそれが当然だと思っていたので全く辛くはなかったのだが、多分傍から見れば相当努力した部類だと思っている。
受験期には文字通り一日中勉強していた。これまでテレビとゲームとゲームセンターとボーリングくらいしかなかった私にとっては、本を読むこと、勉強はとても楽しかったのだが、貧しい体験からくる出世欲と反骨精神、この世に対する恨みのような気持ちは並々ならぬものがあったと思う。
今の私は、東京大学を出て大きな、公共に係わる仕事をしている。
田舎にいたころとは比べ物にならない人生だ。世間一般的には、エリートの部類に入るだろう。
給料は、外資に行った同級生、弁護士になった同級生と比べたらかなり少ないだろうが、普通の給料をもらって生活している。
社会階層を上げるためには大学に行くべし、というのは多分正しいと思う。
日本の大学受験(というより東大受験)の良いところだと思うことは、基本的にはどんな境遇の人間でも、ペーパーテスト一発、しかも普通の教科書理解できていれば合格できることだと思う(それが相応に難しいことは否定しないが)。
つまりは個人の資質や、やる気次第でどうにかなるものだと思うのだ。
だがしかし、このやる気というのがかなりの曲者で、その大半は環境で決まってしまうと思っている。
地方の進学校だったが、地元の中学とは全く違う人種が集まっていた。ゲーセンやテレビ、ファミレス以外の世界を知っているのだ。
この世界に多感な高校時代に飛び込み、周りが読むように本をたくさん読み、たくさん考えた。
これが今の自分の基礎だ。
そして高い交通費をかけて、遠い(公立だが)進学校に通うことに、反対せず後押ししてくれた両親の存在も大きい。
親がまともで精神的に安定していること、これは本当に大事なことだ。
不幸にもこのような環境が確保されなかった場合、私は同じように東京大学に独学で入り、今のような人生を歩めていただろうか。
おそらく無理だ。
視座を広げるためには、まずそれができる機会が与えられる環境にいることが重要だ。
モチベーションを維持するためには、少なくとも将来に前向きな人たちの多い環境にいることが大事だ。
負の感情だらけの中で、周りに影響されず自分を貫き通すのは、然して気持ちの強くない高校生の私にはできなかっただろう。
私は幸運にも環境に恵まれ、これから何でもでき、何にでもなれる人生を手に入れた。
最近やりたいことに悩んでばかりで、鬱々としているのだが、こうした経験をした自分だからこそできる方法で、世の中を良くしていきたいと考えている。
自己申告でとりあえず回しておいて、後から齟齬が出たら事後的に修正する、ってシステムなんだよ。
例えばこないだ小切手を何枚か窓口で預けたんだが、預けるときに合計額を自分でdeposit ticketというのに書いて出すのね。で、窓口の人はちらっと小切手の宛名を見るだけで、預金額についていちいち小切手の金額を精査して計算したりしない。こっちが記入した合計額をコンピュータに入れてレシートくれておしまい。
もちろんここでの預金金額は「仮」で、使途がある程度制限されるんだけどね。小切手が巡り巡って最終的に帳尻が合った時点で制限が外れる。
そういや預金通帳も自分で記入するんだよ。そんで毎月銀行からステートメントが送られてくるからそれと突き合わせる。矛盾があればクレームして直させる(向こうのミスが時々ある)。基本的に小切手ベースだし、現金絡む場合はレシートを取っとけばトレースできるからね。
「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」って映画観たことなければおすすめ。小切手の電信認証システムが整備されたのって結構最近。俺がアメリカ来たころはまだ小切手の現物が相手銀行に送られてそこでクリアされる、ってことをやってた。
スペック:45歳、妻は専業主婦、子供2人(小学生)、年収1,000万円
普段あまり見ない預金通帳を、久しぶりに棚卸として見てみたら、自分の通帳で2,000万円の預金があり、
この他、妻によれば「1,500万円程度の妻名義の投信残高」があるらしい。
今のマンション(自分名義)は都内の80㎡で、ローンは完済している。
うまくいけば、3,500万円~4,000万円程度で売れるだろう。
なので、不動産資産+金融資産=1億近く、ということになる。全く実感湧かないが。
・そのローンをどんどん繰り上げ返済した
・そんなに贅沢しない。趣味は「図書館で本を読んだり」で、カネ掛からない。
・旅行に行きたいが、行けない。子供の習い事とか優先していると、土日に全く旅行できず、夏休み冬休みの帰省位しか行けない。
で、これくらいの金融資産があると、なんだか「アーリーリタイア」が出来そうな気もしてきたが、いかがだろうか?
家族揃ってフィリピンに行けば、仕事せずに暮らしていけそうな気もする。
もっとも、今後教育費に1,000万円×2人=2,000万円掛かるらしいが・・・
実際にアーリーリタイアすることはないだろうが、
上司の挑戦状
http://d.hatena.ne.jp/Delete_All/20110322#1300804667
なんか気が向いたので作成。
部長の暗号と、その辺から拾ってきた防災マニュアルの落とし所を見つけてサクッと作成したもの。
詳細化と詰めで、この変をきちんと参考にされたほうがよいかと思います。
事業所のための「防災マニュアル」(愛知県防災局防災課防災支援チーム)
www.pref.aichi.jp/bousai/jigyousyo_manual.doc
で、ここから下が折衷案的な叩き台。見づらいのは勘弁。
地震についてのみなので、家事とかについては追記が必要。でも文章長くすると部長が読まなくなるか・・・
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1:普段の心がけ・準備
2:緊急時に実施すること
3:危機を脱してから気をつけること
4: 救急措置
1:普段の心がけ・準備
a)非常用具をあらかじめ会社・自宅に準備しておく。用意するべき品は下記6種類で、リュック等に入れて取り出しやすい場所に保管しておく。※定期的に賞味期限等を確認すること
【防災用品】・携帯ラジオ ・懐中電灯 ・ヘルメット ・防災ずきん ・ロープ ・非常用のトイレ ・手動の携帯充電器 ・紐つき笛 ・乾電池 ・ヘルメット
【貴重品・身分証明】・現金(小銭も必要) ・預金通帳や有価証券の写し ・健康保険証の写し ・認印 ・年金手帳 ・家の鍵 ・免許証
【食料品関係】・飲料水(1人最低1日3リットル) ・乾パンやクラッカー ・レトルト食品 ・ビタミン剤 ・缶詰(缶きりや栓抜きも忘れずに) ・粉ミルク、哺乳瓶(赤ちゃんがいる家庭は必需品) ・嗜好品
【衣類関係】・下着(家族分) ・衣類(長袖も忘れずに) ・雨具 ・タオル ・マスク10枚 ・メガネ(衛生不安からコンタクトは難あり)
【医療用品】・ばんそうこう ・包帯、ガーゼ ・消毒薬 ・常備薬 ・鎮痛剤、胃腸薬等 ・紙おむつ
【その他】・ティッシュペーパー ・ウエットティッシュ ・生理用品 ・軍手 ・マッチ、ライター ・洗面具 ・ローソク ・スリッパ(スニーカー) ・筆記用具とメモ用紙 ・軍手・ポリ袋
b)家や会社の中を安全に保つ
・本棚が崩れ落ちないように整理し、テレビ・箪笥・食器棚などを固定金具で固定しておく。
・ベッドの周り・上に倒れてくる・落ちてくるようなものを置かず、安眠できるようにする。
・日々の生活の中で、災害が発生した際にすぐに対応できるよう、時間や心に余裕を持った行動を行い、また事前の情報収集を心がけること。
・ワークライフバランスを保ち、イザという時に動けるように疲労やストレスをためないでくこと。睡眠や趣味や運動を十分に行うこと。
・自宅・通勤途中・仕事場・家族の勤務先・子供の学校の5箇所について、緊急時に非難する、避難所の確認を行う。
2:緊急時に実施すること
a)地震が発生した際は、丈夫なテーブルや机などの下に避難する。ビル街では、ビルの外の広い場所(看板が落ちてこない場所)に非難する。
テレビ等を押さえることは危険なので注意すること。室内の場合、ドアを開けて非常脱出口を確保する。
b)海の近くにいた場合、津波に備えて揺れが収まり次第すぐさま高台・コンクリート製の丈夫な建物の3階以上に避難すること。
3:危機を脱してから気をつけること
被災後は、電気・ガス・水道がとまり、それによって交通機関がマヒを起こす場合がある。
交通機関のマヒが食料・毛布・薬品・ガソリンなどの物資の不足を引き起こすので、皆で分け合い、節約をして過ごすこと。
冬場に暖を取る際は、ストーブ等の一酸化炭素中毒に気をつけること。
b)不安と付き合う
被災後は、被災の恐怖と共に、日常とはかけ離れた環境に身をおくことになる。肩の力を抜いて、軽く体を動かしてリラックスするよう心がける。
十分な睡眠をとれる環境を早くつくりあげ、体温・体力・気力を維持できるようにする。
他の被災者は運命共同体であるので、冷静さと思いやりを忘れずに、相互に助け合って行動すること。
被災の恐怖を克服するために、希望のあることを考えたり、今までの生活について考えてみる。震災で受けた痛みを、正しく癒す方法や気持ちを大事にする。
4: 救急措置
被災の際に、救命処置や、応急手当を行う必要になる場合がある。
あらかじめ講習等できちんとやり方を学んでおき、非常用具に必要な道具を入れておくこと。※会社での講習実施が良い
a)救命処置
・人工呼吸
・AEDの使い方
b)応急手当
・応急手当マニュアル(メルクマニュアルや、iPhoneアプリ「家庭の医学」など)の準備
・骨折
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25歳でニート歴2年の息子を「10万」持たせて家から追い出した。 きっとニートの時より幸せでしょう。:【2ch】ニュー速VIPブログ(`・ω・´)
http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52432977.html
現在53歳。25歳でニート歴2年の息子を先日家から追い出しました。親子の縁も切るつもりです。
ずっと本人の自立を夢見て見守っていましたが、一向に動く気配はなく、やることと言えば、1日2度の食事とインターネット、テレビゲームばかり。ハローワークに行こうともしませんでした。
さすがに私も堪忍袋の緒が切れ、手切れ金10万円を渡し一人で生きて行くことを通告しました。
伝えた当初、息子はかなり困惑していましたが、私の意思の強さに根負けしたのか、決心を固め家を出ていきました。本人のためにもこの決断は最良だったし間違ってないと思っています。
もし、自分の子供がニートである親御さんがおりましたら、今すぐ外に放り出し自立させることを提案します。
いつまでも手を差し伸べるから甘えるわけで、赤ん坊でもない良い大人にはもうそんな事は必要ないのです。
むしろ、甘やかす親がいるからいけないわけで、本来健康な体があればなんとか生きていけるものです。
今思ってみれば2年もニート生活を続けさせていたことで、お金も無駄でしたし、本人のやる気も落としていたようです。
息子が今どんな生活を送っているかはわかりませんが、ニートの時より幸せでしょう。もう二度と会うことはないでしょうが、頑張って行って欲しいと思います。
この親御さん、よくやったと思うよ。自分の15年前を思い出す。
俺の場合、外こもりニートだった。親からすればもっとたちの悪い息子だった。息子が何をしているか全くわかりゃしない。数年、音沙汰なし。でも毎月、仕送りでカードから現金が引き落とされている、なんてな。
はじめはバイトもしていたんだ。仕送り用の口座にバイトで貯めたお金を貯金していたから、親は口座に入金が増えているのをみて、「まじめに働いているようで安心した」旨の手紙がおふくろからきたことがあった。バイトでも100万くらいは貯めてたからね。それでも親は心配して2ヶ月に一度くらい5万円から7万円程度の仕送りをつづけていた。
でも転落するのは早かった。スロットにハマり、仕事に出るのは月に5日ほどになった。その頃「自分探し」なぼんやりとした夢を描いていたが、すべてパチンコ代でふっとんだ。ほとんどの時間をパチンコ屋で過ごし、堕ちてゆく自分に酔った。気持ちよくもあり、だるくもあった。大負けしたときは一日中道路わきで旗を振っていた。100万の貯金が気がつくと3万円まで目減りしていた。追い詰められていた。
大学でても一向に就職する気配のない息子を一度だけおふくろが訪ねてきたけれど、近くで食事して、一緒に散歩して、そして追い返すように駅まで見送って帰した。おれの荒れ果てた部屋をみせるわけにはいかなかったよ。あまりの暮らしぶりにどうせ泣くんだろうから。
いつしか、財布の数千円しか残っていなかった。佐川急便のホーム仕分け作業のバイトに飛び込んだ。バス代もないので自転車で2時間かけて通った。似たような若者であふれているのに少し驚いた。帰りのバス代もない、よれたシャツのくさいそんなやつになけなしの200円を貸したが帰ってはこなかった。自分の鏡のようなやつだった。そんなとき5万円が親から仕送りされた。
これだけあれば、4,5万くらいは負けを取り戻せるかもしれない。そんなときでも、仕送りを軍資金としてしかみていなかった。親は息子がこんなクズ野郎に堕ちていることを知る由もないだろう。
そんなとき不注意でカードを破損しまった。困った。お金を引き出せない。スロット台からは離れられない。もう末期症状だった。
親に電話してカード再発行するから印鑑を送ってもらうように頼んだ。
送られてきたのは、20万円の預金通帳と印鑑と小さな手紙だった。
仕送りはこれでおしまいですよ。元気でがんばるように、と書かれていた。泣けてきた。しばらくしてぶり返したりおさまったりしつつ、数年のうちにようやくパチンコ通いはおさまった。
それからもしばらくフリーター生活つづいた。7年くらいたったろうか。もう30を過ぎて半ばにも射しかかろうとしてたが、陽の射さない六畳間で極貧生活で国民年金も払えなかった。相変わらず必要最低限しか働こうとしないおれの年収は70万程度だった。そのころのおれの生活水準では月5万でどうにか生き延びることが可能だった(ただし健康であればの話だが)。家賃は最大2万だった。ルームシェアをしていたので1万円を切ることもあったが、ストレスがたまりはじめ、2万出して一人部屋を確保するにいたった。食費も1万5千でやりくりしていた。パスタは1kg178円をまとめ買いしていたし、生協で買った76円のミートソースを三回に小分けして食べたり。1万5千もあれば結構ぜいたくできたものだ。
そんな野良犬のような俺を拾い上げたのは、従業員10人程度の吹けば飛ぶような下請けの小さな会社だった。おれのバイト先がほぼその会社に固まった。
社員はみな明るかったが、仕事はきつく汚く危険で、おまけに無間地獄のように果てしなかった。しかし、まんざら苦痛でもなかったので、もっと使ってもらえるように、と合宿で運転免許をとることにした。おれの面倒みてくれているバイト先の社員から15万円を借りた。32のときだ。
合宿免許は楽しかった。アル中で事故を起こし免許取り消しになったオヤジとレーサーを目指していると希望に燃える18の子が同じグループになった。
以外と工場勤め等で取る暇のなかった中年男性が多いのが印象的だった。
免許証をとったおれは初めて身分証明書を手にした気分になった。やがておれは社員として登用された。きっかけはわからないが、社長の目に留まったようだ。入社したばかりのおれに社長が勧めたのは経営の本だった。月5万で暮らしてきた人間だから勤め始めて半年で100万貯めるのは簡単なことだった。この機会にと国民年金未納分を一括払いした。2年分しか支払うことができなかったが、これが自分の転機だと思った。
そんな会社がふとしたきっかけで大きなチャンスをつかんだ。波に乗った会社は急成長し始め、社員が3倍になり、事務所も大きなところに移転した。
作業着からネクタイへ。スーツが夏冬4着もいるなどという想像もしていない生活がスタートした。業務の内容は力仕事から、マネジメントに大きく変わっていった。はじめはかばん持ちだったが次第に業務内容を理解するようになると、自分の発言や行動が認められるようになっていった。
そして部下を従え、新規プロジェクトのリーダーを負かされるようになった40歳のおれの年収はようやく人並みに追いつきつつあった。
スタート地点が15年違う。貯金は400万。これはしょうがない。15年前を思えば天国だよ。
結婚相手を紹介するために、久しぶりに親のもとへいったら、おじいちゃんとおばあちゃんになった両親が小さく立って迎えてくれた。
ずいぶん苦労をかけたね。
ゲームに能動的に身を投じてから楽しくなったなぁ。
例えば、今楽しいのは「稼ぐ」こと。
これはもう、本質的に超楽しい。基本年棒制の仕事に就いてるので、ヤベー今年で契約切られたくねーノルマノルマアガガガ、ってのを繰り返していくうちに預金通帳に溜まっていくカネを見るとニヤニヤしてしまう。同時に、この制度の下でしか稼げないのはムカつくので、縦横に人脈を伸ばしながら新しく喰らいつける稼ぎ口を探したり、自己能力を高めたりする。
あと、恋愛ゲームも楽しい。終電前のあの20分の戦いは何度やっても楽しい。
馬鹿馬鹿しい、というのは百も承知の上で女を口説く楽しさ。しかも、ベタに定型的なやりかたでやるのが楽しい。
この楽しさは「釣り」に似てる。勝ったり負けたりが楽しい。浮きが沈んで取り込むまでの一連の流れが楽しい。
人生を楽しむコツは、課された物を上手いことゲームだと思って能動的に身を投じることにあるんじゃないかと思う。
何事も頭から突っ込んでドップリ漬かれば楽しい。結果を追ううちに過程が面白くなってくるし、一度過程が面白くなればその面白さは相当長い間続く。そういう意味で、やっぱ自分からゲームに参加してくのがいいんじゃないかな。それがどんなゲームであっても。
正直なところ、別にそれほど気持ちの良いものでもなかった。
生暖かい感触だけは新鮮だが、刺激だけで言えばオナホとかの方がよっぽど気持ちがいい。
まったくモテなかった(モテようという努力もしなかった)俺が、セックスにたどり着いた理由は就職先決定後の馬鹿女子大との合コンだった。俺はそれほど悪くない大学に行っているのでそこそこ大手の企業に滑り込むことができた。
なんか相手の女子大生も内定先で相手を選んでいるようであった、トイレに行く途中
「○○さんって××内定なんだって、将来性あるよね。」
とか聞こえてくる。
おそらくどの人が将来性があるか見極めてるんだろう。
その中の女子大生の中に一人、やたらと俺に話しかけてくる女の子がいた。顔はそこそこ可愛い。声を聞くと、将来性が云々と言ってた声の一人だ。
正直なところ俺は長い間モテなかった。同級生に童貞を馬鹿にされるのも正直なところ悔しい。
これは彼女を作って、セックスするチャンスかな。と思って。彼女と話すことにしてメールアドレスを交換した。
その日の夜、早速彼女のほうからメールがあった。どうゆう返事をすればよいのか分からなかったが、とりあえず2chのカップル板とか、教えてgooを見ながら返信をする。趣味などを相手が行ってくるので、googleで調べて分かったようなふりをしてメールを返信する。
そんな日が1週間ぐらい続いたので、ネット上の資料を参考にしながらデートに誘ってみた。快く、OKの返事が来た。
初デート当日は小奇麗な格好をいろいろ参考にしたうえで、ユニクロと無印で買って選んだ服を着る。
10分前に待ち合わせ場所に行くと、すでに彼女は来ていた。なんだか、かわいらしい白い服を着ている。
ファミレスに行ったり、映画館に行ったりする。誘ったのは俺だから、金は俺持ち。彼女が頼んだドリアを見て、時給いくら分かな。と考えていた。正直なところ、女の会話はつまらない。食い物の話とか、芸能人の話なんかをしているが、とりあえず相槌をうっておき、彼女の意見に同調しておく。
歩いていたら、むこうの方から手を握ってきた。本気かなと思いつつ。その日は駅で別れた。
2度目のデートは彼女の希望通り、アーケードに買い物に行った。ブランド物の服やら小物とかを楽しそうに見ている。何がそんなにそんなに楽しいのだろう。ブランド物のバックは買えないので小物を買ってあげた。
3度目のデートも似たような感じで進んで行ったが、ベンチで休んでいると彼女が「こっち向いて」とか言ってくる。目を閉じているのでキスして欲しいらしい。とりあえずしてみると。「ありがとう」とか言って笑っている。
とても演技には思えない。将来性があるないと話していた彼女とどちらが本性なのだろうか?
俺は困惑していた。
4度目のデートでは、帰りにホテルに誘ったらすんなりOK。そのまま入っていった。経験が無いことを伝えると、「気にしないよ」と言っていた。
先に彼女がシャワー室に入り、その後に俺が入って彼女が待っていた。
始めて見る生身の女の体はエロかった。
ゴムをつけた後、入れようとするにも位置や、腰の振り方が分からず四苦八苦した。
息を切らしながら、生暖かいだけの感触を感じている。何が良いのかまったく分からない。
何で俺はこんなことをしているのだろうか。
終わったあと、服を着て電車で彼女を見送った。電車の中でぼーと。セックスについて考えていた。
それ以降は何度もホテルに行くようになったが、彼女が寄せてくる好意が演技に見えずに困惑する。
一ヵ月後に別れを告げることにした。号泣はしないものの目に涙を溜めていた。金目的だろと思っていた自分には最後まで彼女の本心が分からなかった。
預金通帳からは50万円が減っていた。