はてなキーワード: 電子顕微鏡とは
言葉遣いの問題だけど、たぶん元記事の「偽の半導体」という言葉が悪い。
「本物の半導体」と言う表現は使ったことないし聞いたことがない。だから「偽の半導体」という言葉を聞いても曖昧、意味がわからない。「半導体じゃないなら導体か絶縁体?」とツッコんでしまう。
加えて、本物かの確認方法として「電子顕微鏡」「動作テスト」と言っているのも、適切な確認方法ではない。先に言った「本物の半導体とは」がわからんので、どこで真偽を分ける気なんだとツッコんでしまう。
総じて、この発言者、つまり経産省の人(専門家であることが期待される)は、あまり詳しくないという印象を受ける。「アクセラレーション・ブースト」「ソースコードと呼ばれるウイルスプログラム」とか…とは、ちょっと違うか。でも「あーなんかこの人ほんとに分かってんのかなー」みたいな心配が湧く。
物質的なものではなく霊的存在が唯物的要素から独立しているというのなら
蟻が人間の霊を持ってても全然いいでしょって話をしてるんだけど
でも実際そうならないのは人間の大脳皮質の性質と容量が人間の意識を形作っているハードウェアなのは明らかで
じゃあ魂は肉体・脳みそのソフトウェアであると考えるのが自然でしょうが
今は電子顕微鏡や観測方法が発達したからシナプスの結合強度が記憶を司っていることや
各種脳部位がどんな役割を持っているのか解明できたわけだけど
これを知らない時代は心臓に宿っていたと考えられていたときもあった
つまり霊的存在というのは今魂に対する観測方法が無い故に産まれたエーテルの概念と同じであって
重力波だって観測するまではあるかどうか分からんから観測できてすごいって話になってんだから
指数のお勉強には良い題材だけどマジレスをすると月に新聞紙は届かないよなぁっていうのをなんとなく計算してみた。
http://tukurikata.pya.jp/archives/1557
新聞紙の厚さを0.1mmとする。
すると22回目で東京タワーを追い越して42回目で月を超えるという計算結果だ。
これはMathematicaとかを叩けばすぐ出る計算なのだが,折るたびに半分になる面積がどうなっていくのかが気になる。
ということで計算してみる。
新聞紙を見開きに開いたA2用紙の表面積は0.24948m^2である。http://www.sizeall.sakura.ne.jp/a2.php
東京タワーを超える419mになる時には
髪の毛の断面積が大体 10^-9 のオーダーなので髪の毛10本分近い太さになる。
なんだか思ったより太いじゃないか。
では,月に届く頃にはどうなっているかというと,
5.6725184549577534198760986328125 × 10^-14 平方メートル。
調べた感じこれに近い,想像しやすい物体はなかなか見当たらない。
スギ花粉なんかは人間の中に60兆個ある細胞とほぼ同じスケール感なのだがそれでもこの新聞紙?の1万倍の広さがある。
もっと細かいやつらを見ていこう。(出典:https://ja.wikibooks.org/wiki/%E7%B4%B0%E8%83%9E%E7%94%9F%E7%89%A9%E5%AD%A6/Introduction/Cell_size)
流石に小さすぎた。
上記のサイズを辿っていくと近いのは
小さすぎて何が何だか…
新聞紙を折りまくって月に届くくらいになった時,
世界中の研究者が何ヶ月もかかって見つからなかったウィルスを、ヘボい研究者が普通に顕微鏡で覗いて見つけるって、アホか、なんでそんな脚本書いたんだよお前。
いやそれ以前に、ウイルスってそんな簡単に顕微鏡(つか電子顕微鏡だよね、まさか普通の光学顕微鏡じゃないよね)で見つかるのか?
他にも雑菌というか雑ウイルス山ほどいるだろうにそれと区別つくのか?
どんなシーンだそれ。
つか増田提案のシナリオも突っ込みだらけなんだが(元を知らないからどう変えているのかも分からんが)
因みにアウトブレイクはCDC監修だから感染症対策の描写はかなりしっかりしていると聞いた。
遥か昔に見たっきりなので内容は忘れたけど。
大胆な想像から新しい議論が始まるのはそのとおりなんだけど、相手が議論できる基礎を持って分かってて言うのと、単なる素人があてずっぽう言うのは違うでしょ。
さっきは少し乱暴に言ってしまったがその通り。
増田の問題意識は科学哲学の話になると思うんで、そこの既存の枠組みのどのへんから枝を伸ばしてるのか、あたりも言ってくれれば議論がしやすいんじゃない。
科学哲学というよりただの哲学から派生しているんだが。強いて言うならデカルト的な懐疑主義かな。
自分がサイエンスに携わっているからそれを懐疑主義的に見ているんだけど。
俺なんかは理論じゃなくて実験、そして実験的事実を数理モデルで解析するってことをしてるんだが、
実験で得られた結果というのは所詮は眼で認識したものだ。人間の脳が勝手に知覚したものであって本当にそれがそこに存在するかは分からないと考える。
原子なんかも最近では観測されたと言っているが、直接見た人間はいないし、そもそも可視光では見ることはできない。
実際に見たものですら信じられないのに、電子顕微鏡なんかで電子をブチあてたら見えたなんてのはますます疑ってかかるわけだ。
原子なんて本当にあるのか?って思っている。
つまり目に見えるものなんてのは脳が勝手に知覚したもの。あるかどうかは分からんってこと。
デカルトは疑ってる自分だけは絶対存在すると考えたそうだが、疑ってる自分すらも本当にいるのかと疑っている。
だから「絶対的なものはこの世に存在しないということだけが絶対的な真理」と考えるようになったわけだ。
しかし、真理には到達できなくとも、近づくことはできると思っている。その近づける行為が研究だ。
ま、色々書いたけど、まさか論文に「見えたけど本当かどうか分からん」とも書けんから研究は既存の理論に基づいて普通にやっている。
(http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51731420.html)
この手の人(ネット上で、いわゆるネオリベ的な言説を巻き散らかす人)のいう「努力」とは、「成功」と同値だよ。
もっと正確に言うと成功したケースにおいて、その成功した事の要因のなかで、明らかに運である要因を除いたものを努力と定義するということ。
言い換えるなら、この手の人は、成功に結びつかないのなら、どのような行為も努力とは呼ばないし、
成功したケースがあったら電子顕微鏡で走査するレベルの分析を使って「努力」と言い張れる要因を探し出すわけ。
なんのためかって?
それは機会均等こそが絶対の正義という主張のためです。
彼らの立場にとっては、敗者や貧者は、その原因は100%が努力不足でなければならないのです。
それを否定すれば「機会均等の正義」から始まり、「格差を正当化する論理」に至るまで、
彼らの信じている学説そのものがすべて論理的に崩壊するからです。