「集合的」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 集合的とは

2017-11-02

https://anond.hatelabo.jp/20171102014051

真面目な返答は少ないのでそれだけでありがたいね

まあ、理論理解するが、現実への適合に疑問だという事かな? http://otoimi.net/theory

ほとんどの人間本音はそれだろう。おそらく分かるが、そんなはずがないと考えている。


母音の数がもっと多い件について

現に英単語がそう分析されるという現実がある。http://otoimi.net/prefix 日本語説明にもなる。

他の言語は調べてないが、おそらく複合した音として分析できるのだろう。


>子音もたとえば英語のthのθにその考え方は対応できるの?

できる。「空間における集合的もの」と「要素を含むもの」だ。thinkなど。


>口の中の調音の位置に由来する科学的なことがら

発音の際に物理的にどう震わせるかが分かることと、この意味論は何の関係も無いだろう

2017-11-01

http://otoimi.net/ 罵倒でも何でも良いので感想が欲しい。


私が個人的発見した「音と意味関係法則性」で英単語語源をおぼえようという趣旨サイトです。

法則として厳密かはともかく間違いなく関連性はありますし、その上で精度も相当に高く、英単語暗記に役立てるぐらいなら十分なものです。

ただ音の意味というのは、その音が使われる全ての単語にあてはまるくらいに広い意味なので、文字列から直接的にその単語意味を弾き出したり、その単語意味から直接的に文字列を弾き出す事はできません。

しか英単語をおぼえる際の実感には繋がりますし、実感があれば英単語暗記も今よりは無味乾燥ものでは無くなるはずです。

以下の表が皆さんの英単語学習に彩りを添える事になれば嬉しいです。


音の意味一覧


A.「集合論意味する音」

d 集合

g 集合に含まれもの

n 要素

h 要素を含むもの


B.「フローチャート意味する音」

m 条件

l 選択肢

z フローチャートにおける動き

y フローチャートにおける動き


C.「A+B、空間意味する音」

k 地点/存在

t 空間における集合的もの

b 場/路

s 動き

p 動き

w 動かされ得るもの


D.「母音、A・B・Cにおける意図

a 意図の集中

e 意図拡散

i 情報

o ポインティング

u 区切り/終止


E.「複合した音」

f (hu) :空間における「要素を含むもの

q (ku) :質/実態

r (lu) :空間におけるフローチャートフロー

v (bu) :強調された場/路

c (ky) :空間におけるフローチャート(地点/存在

j (zy) :フローチャートにおける動き

x (ks) :「地点/存在」+動き


twitterアカウントhttps://twitter.com/otoimi_gogen 著者としてはこのアカウントフォローして学習の参考にするぐらいがオススメです。

http://otoimi.net/theory 実際は画像メインなんで踏むのを推奨する。


A.集合論意味する音

まずdは集合論の集合、gは集合に含まれもの、nは要素、hは要素を含むもの意味します。

※dとh、gとnは同一であるように見えますが、gとhは関係を表しているので違います

要素を含まない集合があり得るという意味で「集合」と「要素を含むもの」は違いますし、集合に含まれない要素があり得るという意味で「要素」と「集合に含まれもの」は違います

※ここで集合と要素の質的違いについて説明します。

例えば「男」という集合があったとして、その集合にはこの世界のあらゆる男が要素として含まれるはずです。

その内の一人がいなくなったとして、「男」という集合は「男」という集合のままです。

これはつまり、集合は要素の集まりでは無いという事です。

「男」という集合の定義は、この世界の男を全て集めたもののような、ゴチャゴチャしたものでは無いです。

そして「男」という集合は、要素を無限に含み得ます

その意味で「要素」と「集合に含まれもの」はイコールではありませんし、だから「集合に含まれない要素」もあり得るという事になります


B.フローチャート意味する音

集合論とは別の種類の論理として、フローチャートがあります

mがフローチャートの条件、lが選択肢意味します。

そしてzとyが「フローチャートにおける動き」を意味していて、zが肯定否定や呼びかけなど、yがORや呼びかけなどを意味したりします。

※私はこの図のようにzが前提寄り、yが結果寄りだと考えているんですが、肯定否定目的に適うかどうか、ORを条件から選択肢とすると、この逆だと考える人いるかもしれません。

しかし前提から選択肢からこそ目的に適うか問われるという考え方もありますし、ORは選択肢から結果だという気もしますし、何より逆だとj(zy)が分からなくなります

ただどちらにせよ背中合わせの関係を持っていて、表記ではどちらも「フローチャートにおける動き」というだけなので、好きなように考えれば良いと思います

肯定否定、OR、呼びかけなどは、例えば連続的でなくフローチャートなのでステップだったりして、動きと呼ぶべきかは分かりませんでしたが、それに当てはまる言葉が無かったので単純に「フローチャートにおける動き」としました。


C.A+B、空間意味する音

Cでは動きに関する音を多く扱いますが、「動く何か」が成立するにはフローチャートの条件・選択肢肯定否定・ORなどでは足りません。

また存在集合論だけでは足りません。集合論は「〜だ」というだけで、空間における他との区別を持たないからです。

なので「動く何か」を考えるには集合論フローチャートを合わせる必要があり、それがこのCだという事になります

まずkが地点/存在、tが空間における集合的もの、bが場/路を意味します。(tは唯一画像として用意できませんでした)

上に書いたように、存在は地点の区別必要します。

またフローチャートは神経の反射のようなものなので、「動く何か」を持ちませんし、だから地点もありません。地点も存在必要します。

まり存在と地点は表裏であり、それを表す音がkという事になります

空間におけるkの地点/存在に対して、tがそれらの集合的もの、bが動きの場/路を表しています

ちょうどt,k,w,b→d,g,n,hの関係を持っていると考えれば良いと思います

次にsとpが動きを意味しています

wが動かされ得るもの意味しています

※wの「動かされ得るもの」とはつまり空間における普通の「もの」の事です。

対するkの「存在」は存在というより地点と紙一重の存在以前のようなもので、理論上それぞれただその座標一点にしか存在しないので、当然動かし得ません。


D.母音、A・B・Cにおける意図

※「意図」とは何か。

そもそも我々の意識は集まったり広がったりするような性質を持っていて、集合論でもフローチャートでもありません。

ここでの「意図」とはつまり、「集合論フローチャートにおける意識のあり方」を指します。

aが意図の集中、eが意図拡散で、これらは集合論における意図を表しています

iが情報同一性)、oがポインティングで、これらはフローチャートにおける意図を表しています

uが区切り/終止を意味していて、これはおそらく空間における意図を表しています

※始まりには意図の集中であるa、真ん中の存在における動きには情報であるiやr(lu)が使われます


E.複合した音

その他の音は、今までの音が複合したものとして分析できます

fがh(要素を含むもの)u(区切り/終止)で空間における「要素を含むもの」。

qがk(地点/存在)u(区切り/終止)で質/実態

rがl(選択肢)u(区切り/終止)で空間におけるフローチャートフロー)。

vがb(場/路)u(区切り/終止)で強調された場/路。

cがk(地点/存在)y(フローチャートにおける動き)で空間におけるフローチャート(地点/存在)。

cがkyというのは発音ルールhttp://mymeet-up.com/?p=762)と英単語意味から判断しました。

jがzyでフローチャートにおける動き。

xがk(地点/存在)s(動き)で、kに動きを合わせたようなものを表していますスケールもkぐらいです。

2017-09-29

保毛尾田保毛男について、各ニュースサイトコメント欄を調べた

話題になっている保毛尾田保毛男について、

このニュースに対しての有名ニュースサイトで人気のコメント比較してみた。

それぞれのサイトユーザー層がはっきりと見える気がする。

まず、はてなブックマーク

同性愛差別はもちろん良くないのだがフジテレビバラエティ番組担当の偉い人の感覚28年前から一歩も進んでいないことが残念。

『 0年代ゲイコミュニティ研究してたけど、保毛尾田の表象が当時のゲイやMSMに与えた影響は絶大で、これが自己嫌悪抑鬱自殺未遂などのきっかけになったと色々な人から聞いた。本当の集合的トラウマだったのです。 』

デブ不細工バカもいじっていいのにゲイだけ聖域なのがよくわからん。 』

とんねるずだのがこういうことに関してどうしようもなくクソバなのは仕方ないし、たけしなんかは逆に全部分かってて勝ち逃げしてるからだけど、誰もこれが出るのを止められなかったのが何故なのかは気になった。 』

まり、保毛尾田保毛男に否定的意見スターが集まっている。

次にNewsPicks

『 僕は保毛田が大好きですww

当時、かなり笑わせてもらい」 』

以下600字くらいの文章が続く。

批判承知で言うと、こういうヤツラが」 』

以下300字くらいの文章が続く。

『 そのうちイケメンも出演禁止に」 』

以下100字くらいの文章が続く。

まり、長くてめんどくさい。

次に、ヤフーニュース

『 なんかネタキャラでもクレームつくからテレビ側も作るの大変だな。文句あるなら見なきゃいいのに。」 』

批判する方がおかしい。こんなことに目くじらを立てていたら、表現の自由がなくなってしまう。」 』

時代が変わってしまった。

世間テレビを変えていく。

もうあの頃のバラエティが見れないのは寂しい。」 』

まり、保毛尾田保毛男に肯定的意見が多い。

しかも、そう思うボタンいいねみたいなボタン)のクリック数が30,000以上に対して、そう思わないボタンクリック数は4000くらい。

はてなスター数が150くらい、NewsPicksが30くらいなので、日本大衆意見は、ヤフーニュースコメント欄を見ればいいんだな。

2017-03-14

http://anond.hatelabo.jp/20170314165853

今開いた本に信頼されたければ信頼しろと書いてあった。努力してみたいと思う。


自然言語は俺たちが意識するあらゆるものを扱えなければならない。

扱うにはフォーマット、つまり形式共通していなければならない。

そしてその形式とは俺の考えでは○と→だ。

空間時間もそうだし、俺たち人間も形であると同時に動きだ。リンゴもそうだし、何でもそうだ。


○には内側と辺と外側がある。

内側は要素で、辺がそれ自体。この二つは集合論だ。

外側は厳密には集合ではない。○の外は動きの領域だ。


収束って何? 拡散って何?

それを踏まえて、収束拡散は○の成立以前の要素だ。

収束して○になり、拡散して○じゃなくなる。


>なんで「そうか」が「外側」と関係があるのか

「そうか」は「そうだ」や「そうな」と似て集合的だ。

選択肢のようなニュアンスもあるが、「この」とか指差す時に使うのでこの位置ではないかと推測した。


ちょっと時間が開きすぎてるのでここで一旦区切る。

2016-08-04

シン・ゴジラ」 大絶賛の謎(ネタバレ)

23歳になってようやく、10歳頃から慢性的疾患であるところの厨二病が治りかけてきたと思っている。

 

中二病にも、邪気眼系、暗黒微笑系、尾崎系等色々種類はあるが、ここでは、

 「俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは

 今日クラスの会話

 あの流行りの曲かっこいい とか あの服ほしい とか

 ま、それが普通ですわな

 かたや俺は電子砂漠死体を見て、呟くんすわ

 it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。

 好きな音楽 eminem

 尊敬する人間 アドルフ・ヒトラー(虐殺行為はNO)」

的類いのものと捉えてくれていい。

 

2016年6月の終わり頃、Twitterトレンドに乗じて、「上半期に観た映画ベスト」なるものを自分も投稿したのだが、1位は、「ズートピア」とした。「ディズニーを敢えて1位として褒める、一周回って「アリ」」みたいなひねくれた気持ちでなく、これは純粋に、1位だと思ったからだ。

なので、先日公開された「シン・ゴジラ」も、事前の絶賛感想、また、「庵野…俺の負けだ…」という島本和彦氏のアツいツイートなどを見て、本当に愉しみにしていた。わざわざIMAXの席を取り、また一刻も早く観たいので平日の夜に、そして、若き日の庵野氏が登場する「アオイホノオ」も復習せねば、と息巻いていたくらいである。

という具合に、完全に、自分も、後でツイッターに、「シン・ゴジラ素晴らしかった!!」と書くつもり満々で(観てもないうちから…)、わくわくしていた。

が。

観終わったあと、驚いた。全然からないのだ。

どこもかしこも大絶賛の理由である。先程の中二病云々の前置きを入れたのは、これは決して、「流行りに反発する俺カッケー」的精神で言っているのではないという但し書きである

特に不思議なのは、日頃、人権意識の高かったり、リベラル寄りの人も、「日本の戦い方というのを見せて貰った!!」みたいな論調で褒めていることだ。

いいのかそういう着地で?

多数の有名人たちが登場する中で主役として据えられているのは、内閣官房副長官である矢口」(ハセヒロ)という人物である

会議会議で誰もビシっと決断出来ない割にはその会議は最初から想定内」の結論ありきな形式的ものにすぎないという悪しき日本の慣習に侵された人物が多数を占める中、この矢口という人物だけは、最初から、巨大生物存在(後にゴジラと名付けられる)の可能性を指摘し、会議と、国民の反感や国際社会から非難を怖れた日和見政府が迅速な対応が取れなかったことを悔やみ、

派閥争いとか出世から外れた異端者たちを集めたチームや、石原さとみ演じる米国大統領特使(「意識の高いルー大柴」とか書かれていて笑った)と交渉、根回しすることで、何とか、米国などの言いなりの帰結としての「最終解決法」――「原爆投下」――日本にとっては三度目の――を阻止した上で、ゴジラ被害を食い止めるための解決策へと動く。

これは重大そうで重大でないネタバレだが、私が、ごく少ない素晴しい点だと喜んだのは、中盤あたりで、総理大臣(とその他閣僚数名)が躊躇なくあっけなく死ぬところだ。やな奴だと思っていた総理大臣が、突如矢口に、「君のことは、本当に買っているんだ…」みたいなことを言い始めたり(※補足:これはあくま死亡フラグの例えで、別に私も劇中で嫌な奴だったとは全然思っていません)、「俺、この戦いが終わったら娘の結婚式に…」みたいな死亡フラグメロドラマもクソもない。あれ、死んだ?程度のタイミングで死ぬ。

「新しいリーダーがすぐに見つかるのがこの国の良いところだな」という劇中の自虐じみたないしは皮肉めいた台詞にあるように、この全然劇的でない死亡劇は、映画の一つのテーマともリンクしていて、国のトップである総理大臣でさえこの国にとっては唯一無二でないところは、しかある意味では強みになり得るという着地だ。

 

超越的なカリスマ性や能力を持った人物のみの力で成り立っていたり、「その人だけにしか出来ない事」を抱えた人物が各々バラバラにいる組織は、リーダーや、「その人」がいなくなった途端崩壊してしまう。だから、組織や集団の恒久的な存続の為には、「その人だけにしか出来ない事」「その人でなければならないこと」といった唯一無二性を特定の人物に集中させない仕組み作りが重要なのであり、総理大臣が死んでも替わりがいるというのは、逆に言えば、そうした仕組みが機能しているからこそとも言える。

 

ゆえに本映画や主人公たる矢口は、徹底して「独占」を否定する。まず通常であればフィクションにとってかなり重要と思われる<キャラクター>の独占の否定。総勢300何人だかのキャストということで、ナントカ大臣とかかんとか色々次々に出てくるが、実質的には3つか4つくらいしかキャラクター存在していない。誰が文部大臣で誰が防衛大臣でというのはこの映画にとってはどうでもいいことで、口調等微妙にキャラ付けされてはいものの、「大臣」という一つの役割と行動原理と台詞が、10何人に与えられているに過ぎない。(多分普通の映画だったら2、3人にセリフをまとめるはずである) 

「はみ出し者の集まり」とされる、ゴジラの正体究明班だってそうで、「学者っぽいないしはオタクっぽい探究心でゴジラについて調べる人たち」という一つの役割を4人くらいで分担しているだけである。(多分これも通常であれば一人にまとめられる)

これは、多数の人物たちが台詞を次々に言うことでテンポ感を出すという演出上の意味もあるだろうけれど、「チームで一つの役割」を持つべしという価値観の現れでもあろう。

更に、情報や知識の独占の否定矢口は、本来ならば国の重要機密として扱われるであろう、ゴジラ細胞データサンプルなどの情報を様々な機関や国にばらまくことで、問題の早期解決を導く。三人寄れば文殊の知恵、これは自分ないしは自分たちだけが知っていると独占機密化することで情報価値を上げるよりも、広く共有することでなるたけ沢山の協力を集めた方が得策である、という姿勢だ。

<超越的>存在であるゴジラ対峙した時、この国を救うのは、同じく超越的な存在や飛び道具ではない。目標を同じくする協力集団であり集合的知識であり、つまり<集合>こそが<超越>を「超える」

でもこれって前半あれだけ揶揄していた、「日本には決定を下せる人がいない」っていうのと紙一重であるから前半部の否定統合性が取れていないし、

むろんこういうのは、思想的な好き嫌い価値観の問題で、私は所謂ネット上ではブサヨと呼ばれる方の考えに近いから、ともすれば個の否定に繋がるような着地点に、なんだかなーと思ってしまうわけだけれど、問題なのは、というより、問題だと思うのは、「シン・ゴジラ」は、単なる、「集合バンザイ」を主張しているわけではなく、ともすればっていうかともしなくても命に関わる「有事」に遭遇した際について描いているという点である

 

矢口は、一刻も早いゴジラの正体究明に必死になっているチームメンバー達が、カップラーメンのみで食事を済ませ滅多に家に帰らず連日泊まり込み、また帰ったとしても翌朝早く来る様子を見て、満足げに、

「この国もまだまだ捨てたもんじゃないな」

とか微笑み(正直、これだけで元・社畜の自分からしてみれば、けっっっっ、って感じなんだけど)

ラストシーン近く、ゴジラを倒す最終的な作戦の前に、自衛隊その他に向けた、

 「今回のヤシオリ作戦遂行に際し、

 放射線流の直撃や、急性被爆の危険性があります

 ここにいる者の生命の保証はできません。

 だがどうか実行してほしい!

 わが国の最大の力は、この現場にあり、

 自衛隊はこの国を守る力が与えられている最後の砦です

 日本未来を、君たちに託します。」

っつー半ば特攻精神的とも取れる演説。(でほんとに作戦決行中戦車みたいなのが幾つかバカスカやられているような)

そして、国連(だっけか)で決定された、「ゴジラには核落とせ」という判断を、何とか食い止めるための水面下交渉について、アメリカ人(のたぶん偉い人)が発する台詞、

まさか日本がこんな狡猾な外交手段を取れるとは、危機は日本でさえ成長させるのかもな」(詳細は違うと思うがこんな感じ)

映画の素晴らしさは「共感」にあるわけではない。だからこれが、「完全なフィクション」であれば、私もうるさく言わない。

ファンタジーであれば――たとえば、『進撃の巨人』での出撃前の演説、「心臓を捧げよ!」は確かにアツいシーンである

しかし、「シン・ゴジラ」の場合は、完全に、フィクション世界観にあるフィクションの人物の行動原理として切り離すことはできない。明らかに、現在の日本を物語に取り込みそして、あるべき日本の姿を提示しているものからである

繰り返すが、断っておくと、これはあくま個人的価値観の問題である

しかし私としては、リベラル寄りの人までも、結構絶賛しているのがよく分からんのだ。

もちろん、放っといたらもっと大勢の人が死ぬっていうのは分かるけど、それでいいじゃないか。それでいいというのは大勢の人が死ねばいいということではなく、多くの命が失われるのを防ぐための方法を、という行動原理で十分じゃないか

それが、いや、登場人物が内閣とか政治家とかだから仕方ないかもしれないが、国のためとか国民のとかこの国はとかやたらと、まあーーーーうっるさい、しつこいのだ。

 

国のために個や生活を犠牲にして働くのが美徳で命を落とす覚悟が礼賛されるべきもので、何より、「有事」「危機」こそが、国を成長させる、みたいな価値観

いいのかそれが「これぞ日本の戦い方」で飲み込んで

っていう些か判断や解釈の分かれる思想的な話の他にも、単純にひとつ作品として、映画やプロットの作りとして、鼻につくポイントは少なくないと思う。

これは多くの人が指摘するように、「シン・ゴジラ」の欠点ないしは一部の人にとっては美点の一つは、

「たぶん(本来怪獣映画を喜びそうな)小中学生が見ても分からない」

ことであろう。

 

次々に入れ替わり立ち替わり出てくる人物、やたらと専門用語政治用語を並べ、理解させる気あるのか?というくらい早口の会議、応酬、ゴジラを倒すというよりメインは政治劇

「会議が冗長でなくムダがない」「予告では、おっさん達がやたらと会議して退屈そうだと思ったがいざ観てみたら会議もっとってなった」という内容の感想をよく目にするが、

そうか?

前半部の会議会議会議は勿論、指示手続き実行までのリアリティを出すためとかこれだけのプロセスを踏むことの提示とか必要な部分もあるが、社会的風刺になっているシーンも幾つか存在している。主人公が指示を出すと、「それどこの部署に言ったの?」と返されるタテ割り行政とか、とりあえず識者を集める時間の無駄とか、直前までスーツだったのに記者会見を前にして、総理「防護服を持ってきて」というあざといわざとらしさとか、面白いものもあるけれど、風刺したいなら、別に、それだけで、つまり、そういう戯画化したシーンを見せれば十分ではないか

 

が、本作では、<その上で>、また、「この国では~」とかいちいち誰かが台詞で言うのだ。これもしつこい。

いや、分かったよ、わかるよ。だって、それさっき見たって。

「難しくて分からないだろうな」とは言うが、わざわざ台詞で補足してくれているところも結構あって、中途半端に親切なのである。その半端な親切さが観客の理解を助けるという方向ではなく、「この国ではあの国ではうるせえ!!」って感じに作用している。自分は、筒井康隆なんかが好きなので社会風刺物はむしろ好物な方なのだが、こういう見せ方はぜんぜん、スマートではないように思う。

更に、後半の最終作戦までの会議やり取り部分は、もっと無駄なような気がする。

物語として分解したときに、小難しい専門用語でなんか凄いものを観た気にさせるないしは(本当はよく分からないが分からないというとバカだと思われるので)褒めておこう!という方向に感想を誘導させる効果しか持っていない。

というのは、2時間映画の構造基本には、

「小・トラブル」と「大・トラブル

そして、「まやかしの勝利」、「から喪失

が組み込まれていることこそが、フィナーレのカタルシスを呼ぶ。

小・トラブルとは、物語の世界観を示したり、人物たちの関係性を深めるためにプロット上に用意される障害だが、「根本的に解決されねばならない」問題は別にある。物語として最後に乗り越えるための壁が大・トラブルであるまやかしの勝利、から喪失とは、今まで向き合ってきた、そして倒して喜んでいた障害が単なる「小・トラブル」で、大・トラブル別にあることに気付いてしまったり、大・トラブル解決したないしはできそうだと一旦は歓喜するものの実は全然間違っていたり、

シン・ゴジラ」の場合、自衛隊が次々に攻撃することが小・トラブル、そして米軍がやってきてダメージを与えられたように見えるのがまやかしの勝利のように見えるが、そうではない。っていうか見えるがって書いたが見えない。

だってあれ見て、誰も「米軍やってきたやったー勝てる」とは思わんだろう。

突き詰めると日本は最終的に日本が守らなきゃねって映画なんだしっていうのがなかったとしても、

根本的なプロット上の問題として、主人公矢口とそのチームが、比較的最初の方で、最終的解決方法ほとんど気が付いてしまっているのである

ゴジラの動力源が核融合であること、そのために生まれる熱を放熱するために冷却が必要なこと、おそらく血液の循環が冷却として作用しているので、血液を固めてしまえば、ゴジラ活動を停止するのでは……

っていうのが主人公サイドから割と早めに示されてしまって当初は矢口プランとか呼ばれている以上、

観客は、フィクション鑑賞のルールとして、

「これが正解なのだな」

と思う。思ってしまう。

から、どんなに自衛隊とか米軍とかミサイルとか出てこようが、それでやっつけられるわけはない。それだと主人公が出てきた意味がない。

これは我々に組み込まれてしまった、フィクション鑑賞時のルールである

故に、制作者は、その予定調和思い込みを覆さねばならない。むろん、米軍が出てきて解決しちゃいましたチャンチャンという方向でなく、だ。

小・トラブルまやかしの勝利⇒喪失⇒大・トラブル解決

というプロット構造に則って言えば、ゆえにこの、当初気付いた解決策は後半部で本来、「覆される」べきなのだ主人公ないしは主人公サイドは、「解決策」を握り、幾つかの妨害無理解そのほかに合いながらも、なんとか実行直前ないしは実行に漕ぎつける。やった!!というつかの間の悦びを得るが、そのうち、それが無意味不正解、根本的解決ではないことを悟り、絶望に陥る。

で、

からの。この、「で、」からが、ラストに向けた助走なのである

 

これが、例えば、当初は主人公たちは全然別の方法を思いついてしかし失敗、再度のなんとか成分がとか原子構造がとか動力源がとか分析のアイディアの出し合いにより、「血液固めればいいんじゃね」ということに気づく…とか、苦労してバトルして血液凝固剤注入したけど無駄でした⇒博士の残したデータの解析⇒凝固だけじゃ足りないのかもとか注入方法の工夫が足りないとか試行錯誤して最終決戦、

など少なくとも順番が入れ替わっていれば、

専門用語を並べ立てた応酬、会議会議、チーム内の協力…の配置が、物語に機能していると言えるし、純粋に映画としてのカタルシスと、内容を理解できる者にとっては、そうだったのか!と、謎解き的、知的カタルシスをも生む。

しかし最初に、後半の最終作戦までの部分は、もっと無駄、と書いたように、実際はそういう構造ではない。

主人公たちが序盤の方で気付いた最終解決策がほぼそのまま最終作戦なのだ博士の残したデータの分析で抑制剤がプラスされはするが大方まあ正解なのだ。そしてちょっとやられたりはするが成功しちゃうのだ。

だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。だって序盤に示された正解が正解ということを補強しているだけである

まりほとんど、「米国核爆弾落としちゃうかもヤバい!どうする!」という物語の都合上、(間に合わないかも!)という時間稼ぎに配置されているだけだが、そんなの、間に合うのは分かる。フィクション鑑賞時のルールとして。

ラストの作戦がショボい、という感想はちらほら見かけるが、本当は、作戦がショボいことがカタルシスを生んでいないのではない。ほぼ最初に示された正解通りのまま終わるから、あれ?となるんである。かつ、人物たちの早口の分析から判明していく真相に、なるほど、そういうことだったのか!という知的快楽も得られない。

以上の理由から、「難しいか子どもには面白くないかも~」と言っている人こそ、本当に理解しているのだろうか、煙に巻かれているだけじゃないの、という感じだが、

「小難しい」というだけで、煙に巻かれて何か凄いものを観た気になる一部の人間、ないしは、凄いものを観た、観客に媚びてない=芸術的作品価値が高い と「思いたがる」(言いたがる)(だってつまらないと言ったら理解できなかったと思われる、バカだと思われる)類いの鑑賞者にとっては、演出上の効果はあるのかもしれない。いや、あった。

けれど、

 

やれ家族の絆恋愛だお涙頂戴だ感動だの分かりやすい浅い作りにしなくても、クリエイターが作りたいもの大衆に媚びずに作っても、観客はちゃんと素晴らしいもの評価できることが~

みたいな、自分が一番「一般人」(こういう言い方をする映画マニア、てめえもただの一般人だろって感じだよなマジで)を馬鹿にしている上から目線物言いで、無邪気にキャッキャッと、ハリウッドに勝ったとか邦画も捨てたもんじゃないとか喜んでいる場合だろうか。いまだに。

分かりにくいことが、「深い」証拠である保証はない。

同時に、分かりやすいことは必ずしも、「浅い」ことを意味しない。

 

しろ、近年、「マッドマックス」とか、「ズートピア」のような、戯画化によって現在蔓延る社会問題の構造を鋭く炙った作品でありつつ、かつ、子どもでも純粋に楽しめるくらい映画として高いエンターテイメント性を持った作品海外から出て話題を呼んだ中で、

 

まだ、大衆に媚びてないか一般人は難しくてついてけないだろうけど~チラッチラッ みたいなことを言ってはしゃいでいる段階って、それこそ完全に「敗北」だと思いますけどね。

2016-07-03

失敗した集合的知性体としての増田

http://anond.hatelabo.jp/20160702225507

ブコメスターランキングや、ブックマーク数によるホッテントリシステム

WEB2.0集合知を実現した事例としてしばしば取り上げられるが

それらに比べて増田

同様のポテンシャルがあるにもかかわらず

特定テーマに沿った議論が発展することも無く、

稀に有意義怪文書・良くできた作文が単発で投稿されるのを除けば

うんこ漏らしたなどという小学生並みのネタ跋扈する場に甘んじている。

仮に記事同士のリンク・関連付け・カテゴリ参照や、

記事評価システムユーザへの記事コメンドなどの機能がもう少し充実していれば

今とは違う増田の姿があったのでは無いかと思うと不憫でならない。

そして、日々増田ブックマークに励み

不完全ながらもそれら機能不足を補わんとする増田三銃士達には

ここに敬意と賞賛を贈りたい。

2015-10-03

主人公.comのアレ

はてブユーザー集合的キュレーションをある程度信頼して

ホッテントリポータル代わりにしてる身からすると、

暮らし」は元々そういう場だと思ってるので気にならないんだけど、

エンタメ」だとイラッとしてブクマで慣れ合うなって感情が湧く。

バズったバズった喜んでる野球関連の記事なんか

今までのはてブの傾向からすると

閾値以上のブクマが付くような内容じゃないはずだ。

そんでもって、ポジティブブクマしてる連中を見ると

高知のアレのフォロワーみたいなのばっかりで

どうせお前らたいして野球なんか興味ないだろってうんざり

今は邪魔追従広告がついたと思って、

エンタメ」のホッテントリで見かけても触らないようにしてるけど、

眼に入るたびにヘイトは溜まっていたんだろう。

炎上とか言ってもざまぁしか思わなかった。

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