はてなキーワード: 邪気眼とは
1期放送当時、OPで目が痛くなって切って以来ずっとそう考えていた。そもそも、中二病と邪気眼をゴッチャゴチャにするようなアニメが面白いはずがない。だってそうだろう。表題にしてることに対してすら無理解な作品が面白いはずがないじゃん。つうか見ていて痛えんだよ。高校生にもなって痛い言動連発して周りに変な空気作ってるようなオタクを見てると、あの頃の自分達が邪気眼でこそないなりにオタクであることにイキって変な言動してたの思い出すから見てらねえぞと。それ以前にこれって田中ロミオのAURAのパクりじゃねーかよくこんなの堂々と世に出せたな!と。そこでもう既に信用できねえ!と。
それから5年して、ニコニコで一挙放送を見る機会があって、自分の頭も冷めてきたので見ることにした。それなりに人気のある作品だし第一印象だけでコケにして見ないままにしておくのも勿体無い気がしたから。流石に映画化されるならそれなりに面白いのかも知れないんだろうなと。だって田中ロミオのAURAも映画化したし。あれは面白かった。映画館にいた連中が後ろ姿だけで濃ゆいオタクだと分かる所なんて特に。あの映画は本当に面白いよ。映像で見るとヒロインの気合い入りっぷりの痛さと必死さが強烈に伝わってくる。
中二恋の感想を簡潔に言うと『普通の良作』でしかなかった。良作ではあった。加速する自意識形成に現実の自分を追いつかせたくて特別になろうと必死にあがく中高生の姿を通して青春を描くというコンセプトをしっかりとなぞれていた。ひたすら邪気眼の痛い言動とそれの映像化だけで乗り切るのかと思ったら、以外にもシナリオはそれなりの物だった。普通の学生という幻想を求める主人公も、モテたいから軽音楽部に入る男友達も、リアルタイムで邪気眼を続けるヒロインも、高校デビューで頂点を目指すヒロインも、誰もが自分の自意識を受け止めてくれる場所を求めてそれぞれに必死に生きている。いつもいつでも本気で生きている。そこに特別な理由が加わってしまっていることにノイズのようなものを感じはするし、そんな特別を用意して結局オチがあの程度なのはどうなのかと思うが、そういう結局何も起こらないような所を含めて高校生の青春を描いていると見ることも出来る。本人たちは必死なのだが傍から見るとアホらしい日々の滑稽さと、結局世の中そんなもんだけど自分のことなんだから必死になるしかないという気持ちが渦巻く世界を可愛く楽しく描写されている普通の良作だ。
で、話がタイトルに戻るけど。普通の良作すぎて映画化されるほどの作品には感じないんだが、これ二期からスゲー面白くなったりするのか?まあ今から見るんだけど。
追記:
二期見たぞ。普通の良作から、ちょっといい凡作まで下がったぞ。
邪気眼という設定がただの三角関係に飲み込まれてしまってただ展開の遅いだけの恋愛物になった。そもそも自分はこのアニメに多くを求めすぎていたんだろう。これだけ人気があるならただ可愛い子とイチャイチャするだけの疑似ハーレムなはずがないと思っていた。違った。オタクの中にはそういったただの疑似ハーレムで終わっている作品を求めている層がいることを完全に忘れてた。そういう層向けに全力投球して見事に萌えにしか興味がないオタクを一本釣りしたのがこの作品だったんだ。いやー勉強になった。自分には合わなかったけど、ああいうのが大好きと臆面もなく言えそうなオタクの顔は結構思い浮かぶわ。ちょっと評判がよくて、自分にもフックしそうな部分を感じても、直感的に駄目そうだと思ったら辞めておいた方が無難って事かな。今後のアニメ視聴プランに活かそう
文章の長さをなるべく短くさせることで意思の疎通を容易にする試み、または運動のこと。
根底にはTwitterの140文字制限があるとされる。(短い文章で伝える必要があるため。また全員が承前ツイートを読むとは限らない)
また、ニコニコ動画のコメント欄にも原因があるとも言われる。(一行で書き込む必要があるため長文が書きにくい、かつ長いコメントは高速で流れるため可読性に乏しい)
例: 長文に対する他者の反応として
a) 長い3行で
かつて別の意味で用いられていた言葉(単語)を、文字と表音を保ちながらも、また別の意味を与えること。
単語という「肉体」に、新たな意味としての「魂」を吹き込むこととも理解される。
乗っ取りを計画する集団は、単語に新たな意味を浸透させるための努力が必要だが、新しい単語を創り出すよりも、既存の単語の知名度にタダ乗り(寄生)できる分だけコストを削減できるとされる。
なお寄生先の宿主の単語が、未だに現役で「働いている」間は乗っ取りが成功しない。
例: 壁ドン
もとの意味→薄壁の集合住宅で隣室の騒音が漏れているとき、自室と隣室の間の壁を叩くことで自分の不快感を示す行為。
新たな意味→主に男性が、壁に背を向けて立っている女性の顔面の近くの壁に手のひらを叩きつけて、迫る行為。
かつてある単語に与えられていた意味を、また別の単語に与えること。
REUSEとは逆に、「魂」を別の「肉体」へと吹き込むことでもある。(必ずしも前の「肉体」から「魂」が抜けている必要はない)
自然発生することが多い。
例: イキリオタク
簡潔に言えば、図に乗っている、オタク(オタクの定義はここでは行わない)であることを自慢する者の総称だが、「現実の自分に抱く劣等感を払拭するために背伸びをする」という意味として中二病に酷似している。
(「邪気眼」に代表される、いわゆる「厨二病」とは異なる。ここでは「昨日寝てない」などの中二病的自慢への類似点を指摘している)
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※だいたい見た
※点数はつけない
※順番で何かを読まれないために五十音順(なんか微妙に違っても気にするな面倒くさくなったんだ)
※見なかったアニメの見なかった理由もだいたい書く
※だいたい
面白いとは思うし原作読んでれば十分だとも思う。俺は原作読んでだいぶ時間立ったから見てるけどな。原作ちゃんと再現しすぎて少女漫画臭が強くなってるからニガテだった人は合わなくなってるんじゃねーかなと不安になる。なんつーかシャフトは根っこが少女趣味なんだよな。おっとロリコン共少女趣味の意味を間違えるなよ。でもモモちゃんは天使だ。3ヒロインの中で一番好き。声が原作と違ったけど、いい意味で完全に上塗りされてしまった。
コマ撮りで世相を切るって発想が和製サウスパークだな。褒め過ぎた。そこまで面白くはない。ネタに重ねが足りない。でも逆に元ネタ探しとかしなくてよくてユルい。短いし気軽に見られる。
腐女子版プリンセスプリンシパルと言われたから見たんだが、間違ってはないとは思う。でも微妙だった。合わねえ。プリプリは絵が黒星紅白だから面白かったんだよと大声で叫びたい。女性向けだろうと知ったことか全員黒星紅白にデザインしてもらってから出直せ。つくし卿とかでもいいぞ。
イテテテテテテテ。何だこの懐かしい痛みは。ちょっと才能があるヤツが書いた黒歴史ノートを回し読みしてるような感覚だ。武内崇も最初はこんな気分だったのだろうか。マジで同級生の邪気眼創作物を読ませてもらってるような感覚だよ。でもこれが現代学園異能伝奇ってジャンルなのさ。原点にかえってアクを取ってないままの闇鍋を飲み干す事に意味を求めているかどうかが視聴決定の別れ目。
ワロス。テラワロス。ギザワロス。変な笑いで顎が痛くなりたいならコレ。今期最高のギャグアニメ。天然こそが最強とはまさにこの事。狙ってやっている所もあるんだろうが、狙っていても出来ないような奇跡も起きてる。クソアニメ好きなのにこれを見てないならそれはちょっと耳が遠いぞ。
主人公の情緒不安定っぷりと中国社会の閉塞感がいい感じにマッチ。黎明期の深夜アニメが持っていた謎の熱が海の向こうで再誕したぞ。最初から美味いものを食い続けて舌が肥えた深夜アニメ入学一桁年生に見て欲しい。イッツ・深夜アニメだ。
たけしぃ~~~~~
ジャコス行こうジャコス。青春物としては悪くないが青春物過ぎる気もする。アニメでやるからこその何かが出せるのかが勝負だ。月がきれいの二毛作でいいならこのまま突き進め。
ガンダムじゃないけどビルドファイターズ。クラッシュしづらいルールギアとも言える。ロボコンやプラレスの魅力をどこまで出せるかだけど果たして。ハッタリを効かせるのが難しそうだけど、とことんリアルに寄せる気も無さそうなので様子見。期待はしてやる。
ほぼ見てない。ホモアイドル多すぎて録画潰していくうちに何かがプッツンして凄い早送りで見て速攻で消した。何か地味だった。面白くもつまらなくもない。
ネギま!2にするぐらいならもうスーパー赤松大戦でもせーよと思ってしまうのは俺だけでしょうか。今の所原作再現はそこそこオリジナル要素もファンサービスとしては悪くないじゃないでしょうかと。でもネギま!のファンってアニメにトラウマ持ってそうだし果たして好意的に見てくれてるのかね。俺は別にオリジナルエンドでもいいんだが。というか原作通りやったらマジで12クールとかになりかねんぞ。赤松が死ぬまでに完結できて全部アニメ化されればだけど。
UMEHARAだと思った。滑り具合の激しいローリングガールズだと思った。キャラは可愛いと思った。アニメとしてはつまらないと思った。
一度ばっちいヤマカン菌が付いちまったから見る気がでねーです。とか言いつつ前作は最後まで見たんだよ。それでオタクが泣きながらサイリウム持ってるの見てなぁ、ああWUGの物語はここで終わりでいいやと感じたんすよ。(つまらないと思いながら無理して最後まで見た反動も大きいがな)。だからもう見ない。
アイマスのアニメってあんまり好きじゃないので今回も多分途中で飽きて投げる。ストーリーは中の下ぐらいだからキャラの魅力ないと見てられんのだが、そのキャラの魅力があんまり分からん。俺ホモじゃねーし。
チキチキ元ネタクイズーーー君はいくつわかるかな~。すんません。もうちょっと難易度上げてください。ちょっとヌルすぎて楽しめないです。全員キモいオッサンみたいな顔の駄目人間男子高校生にして、白蛇伝やオネアミスの話で盛り上がってくれたら見ます。
ホモい。知ってたけど。
うーんとね。主人公その2の声がね。うーんなの。だからちょっと考えさせて。
他のアニメのレベルが低いのかこのアニメのレベルが高いのか。今期の中では凄い面白く感じる。微妙に当たり外れがあるんだけどそのバラつきを数でカバーしてくれるのがありがたい。ハズレ回20分見せられたりがないって本当に大事なのよ。
I'm NO TOKYO PEOPLE!ファッキン!センキュー!
僕は酒が嫌いだから楽しめないです。
なげーよ。流石にもうみねーよ。どういう展開になるか全部イメージし終わったよ。イメージしろってことだろ。もう知ってるわ。
キノちゃん大きくなったねー。おじさん久しぶりに見たら時間の流れを感じちゃったよー。エルメスくんも大きくなったね―。女の子を乗せるのに恥じらいとかムフフな事考える歳かなー。世界観の描き方は変わってるけどストーリーの方針は昔のままで相変わらず面白いわ。誰が演じてもキノはキノだね。あっ、今のちょっとエルメスっぽい喋りだった。
悪くねえな。面白いんだけど、こういう面白さは何か綻ぶと吹き飛んでいくので後々アンチに裏返らないために今はまだ高みの見物を決め込むぐらいのスタンスで見るに限る。でも悪くねえよコイツ。見どころがある。
NHKに入れた金を回収するために俺はお前を楽しみ必要がある。楽しませろ。今の所はいい感じ。
お仕事物に見せかけてすげー萌え萌え物な優しい世界と見せかけて無駄シリアスが入っててペロっこれはうらら迷路帖 +花咲くいろは。まあこういの好きな人は好きだよね。俺はイーブン。
俺はNHKから金を回収しないといけねえんだ。クラシカロイドと時間をかぶせてきたお前を見てる余裕はねえんだよ。何故ならうちのレコーダーは同時録画出来ないからな。
なんつうかーツーカーっていうかートップをねらえっぽいノリの中にーレシプロへの愛がー感じられるとチョベリグっすよねー。
1期の1話で切った。
能登麻美子 ああ能登麻美子 能登麻美子 なぜ能登麻美子 なの能登麻美子
原作で十分だと僕は思いました。
ブレンがドSってお前それモンスーノじゃん。
ラブライブを出禁になった所から新章スタートとかで良かったんちゃうか?
好きな人は好きなのでしょう。
見たら負けだと思った。
見た。負けた。
いいねちゃんとGAROだ。でも俺特撮のノリそんな好きじゃないからどうなんだろ。BLASSREITERの亜種だと思って見るか。でもブラスレイターもそんな好きじゃなくて。
えっ、お前もっと一部の人向けで合わないやつからしたらもっとつまらなかったじゃん。今回は結構面白いぞ。何かマイルドになったな。どうしようかな。迷う。
原作は読めるんだけどアニメで音読されると駄目になるタイプの作品だと思いました。
おそ松さんで十分だわ。
あそこからまだ続きやるんすかって気持ちが強すぎてまだ見れてない。見たいんだけどね。
なにこれ。技名叫んで敵を殴り飛ばしてて何か格好良くてドイツ語とか使って何かカッコイイだけのヤツじゃん。
字幕なしだと一部のネタが分からないので見るなら字幕をつけましょう。ツイてない事に言葉遊びに耐性が付いてないなら字幕ははずしましょう。
原作の絵がリッチになった事で面白さアップだー。他に言うことはないよ。大体他の人が言ってたから。
原作ごと飽きた。もうエロ漫画に戻っていいぞ。俺が許可した。
スマホ花子って一部で呼ばれてて笑った。スマホ太郎と比べて面白くないけど。
ぶっちゃけコレって女の子がかわいいだけのアニメなんじゃないのかと僕は思いました。女の子が可愛いです。
深夜アニメにちょいエロ求めてる奴!お前はこれ見てろ!俺は見ないからお前が代わりに見ろ!
略すと『まほよ』になりそう。そこが一番気になる。
意外と面白いんだけど何が面白いんだろう。俺がいつか夢見ていたラノベ作家になってついでに女の子とちゅっちゅしたり貴方の本で人生救われましたと言われたい妄想が詰まってるからかな。
えー本クールはですねー、怪物級のアニメはないと思われますん。今年で言えばけものフレンズクラスの伝説的アニメです。ですがそれぞれのアニメオタクがそれなり以上に楽しめるアニメが2つぐらいはあるんじゃないかと思われます。豊作と言えば豊作なのかも知れません。見れるものや見て楽しめるものはそこそこありますが、見るべきと言えるほどのものは全くと言ってないとも言えます。自分のアニメとの付き合い方を見直すにはちょうどいいクールではないでしょうか。皆さん、無理せずにアニメを楽しみましょう。苦行を楽しむのも一興ですが、苦行を高尚だと勘違いすることはないようにご注意願います。アニメ本数の増加により選び放題とも言える今期アニメの数々に加え、歴代アニメの数も増え続けているうえにネットの配信なども活性化しており、古いアニメもまた選び放題の域をとうに超えていると言えますでしょう。数多くのアニメとどう付き合うのかは人それぞれであります。皆さんそれぞれのアニメライフをそれぞれに楽しみましょう。以上で終わります。
今回はガンガンオンライン
でも人情まで非難したなら、それに関しては言いすぎってことになる。
ましてや、読者目線でいえば自身の立場を理解していることによる、当てつけに近い言動だから、なおいっそう印象が悪いなあ。
言動理由の根幹を隠したままコミニケーションの帳尻を合わせようとするから、こういう無意味な諍いが起きるんだよね。
まあ、ある意味で今まで必死に現状維持していただけで、いつかは壊れる危うい関係であったことが今回明らかになったといえる。
とまあ長々と感想書いているけれど、あんまり好みの作品ではなかったりする。
メインキャラのほとんどが面倒くさい上に読者に共感されにくい人格なんだもん。
いや、理解はできるんだけれども、それを踏まえた上で不愉快な要素が多すぎる。
一応、ストーリー構成自体は興味があるから読み続けているけれども、今後もこれ以上の難解かつ不愉快な言動をメインキャラがし続けるなら、私は読むのをやめるべきなんだろうなあ。
なまじ悪い人ではないから、余計にこういうデリカシーのなさが空回りしているのに、本人が無自覚っていうのがもうね。
陽菜のもこっちに対する絡み方はちょっと不可解だが、友達には話せないちょっとした本音を吐露できる相手でもあるんだろうね。
というか意味もなくマラソンで競い合ったりして、自分でもなぜそんな対抗心を燃やすのか分からなかったり。
今作でも、かなり複雑な心情を持っているキャラかもしれない。
通常とは違う劇的なことをやろうとすると、後に禍根を残しやすいからねえ。
序盤の即興演劇による無茶振り相手が入れ替わっていく展開は好きだな。
そこからやたらとオチで登場人物を殺したがる演劇部員と、雑誌のときに載る編集の一言コメントを4コマのオチに持ってくる天丼ネタもツボだ。
不良っぽさの象徴として着けているマスクを外さない理由で「これがないと俺じゃなくなる」といって、佐々間が中二病だと勘違いするネタがあるが、実際間違ってはいないよね。
中二病って邪気眼的な言動のことを指していることが多いけれども、ああいうのも広義的には中二病だろうし。
元木サイドは言葉が足りないせいで勘違いされる展開だが、「拳で手助け」の部分はほぼ同じ解釈というオチはちょっとツボだった。
それにしても、同じモドキであっても周りに割と不良だと思われている六条に対して、元木のほうは優等生とは全く思われていないという差は興味深いね。
23歳になってようやく、10歳頃からの慢性的疾患であるところの厨二病が治りかけてきたと思っている。
中二病にも、邪気眼系、暗黒微笑系、尾崎系等色々種類はあるが、ここでは、
「俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは
あの流行りの曲かっこいい とか あの服ほしい とか
ま、それが普通ですわな
it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。
的類いのものと捉えてくれていい。
2016年6月の終わり頃、Twitterのトレンドに乗じて、「上半期に観た映画ベスト」なるものを自分も投稿したのだが、1位は、「ズートピア」とした。「ディズニーを敢えて1位として褒める、一周回って「アリ」」みたいなひねくれた気持ちでなく、これは純粋に、1位だと思ったからだ。
なので、先日公開された「シン・ゴジラ」も、事前の絶賛感想、また、「庵野…俺の負けだ…」という島本和彦氏のアツいツイートなどを見て、本当に愉しみにしていた。わざわざIMAXの席を取り、また一刻も早く観たいので平日の夜に、そして、若き日の庵野氏が登場する「アオイホノオ」も復習せねば、と息巻いていたくらいである。
という具合に、完全に、自分も、後でツイッターに、「シン・ゴジラ素晴らしかった!!」と書くつもり満々で(観てもないうちから…)、わくわくしていた。
が。
どこもかしこも大絶賛の理由がである。先程の中二病云々の前置きを入れたのは、これは決して、「流行りに反発する俺カッケー」的精神で言っているのではないという但し書きである。
特に不思議なのは、日頃、人権意識の高かったり、リベラル寄りの人も、「日本の戦い方というのを見せて貰った!!」みたいな論調で褒めていることだ。
いいのかそういう着地で?
多数の有名人たちが登場する中で主役として据えられているのは、内閣官房副長官である「矢口」(ハセヒロ)という人物である。
会議会議で誰もビシっと決断出来ない割にはその会議は最初から「想定内」の結論ありきな形式的なものにすぎないという悪しき日本の慣習に侵された人物が多数を占める中、この矢口という人物だけは、最初から、巨大生物の存在(後にゴジラと名付けられる)の可能性を指摘し、会議と、国民の反感や国際社会からの非難を怖れた日和見で政府が迅速な対応が取れなかったことを悔やみ、
派閥争いとか出世から外れた異端者たちを集めたチームや、石原さとみ演じる米国大統領特使(「意識の高いルー大柴」とか書かれていて笑った)と交渉、根回しすることで、何とか、米国などの言いなりの帰結としての「最終解決法」――「原爆投下」――日本にとっては三度目の――を阻止した上で、ゴジラの被害を食い止めるための解決策へと動く。
これは重大そうで重大でないネタバレだが、私が、ごく少ない素晴しい点だと喜んだのは、中盤あたりで、総理大臣(とその他閣僚数名)が躊躇なくあっけなく死ぬところだ。やな奴だと思っていた総理大臣が、突如矢口に、「君のことは、本当に買っているんだ…」みたいなことを言い始めたり(※補足:これはあくまで死亡フラグの例えで、別に私も劇中で嫌な奴だったとは全然思っていません)、「俺、この戦いが終わったら娘の結婚式に…」みたいな死亡フラグメロドラマもクソもない。あれ、死んだ?程度のタイミングで死ぬ。
「新しいリーダーがすぐに見つかるのがこの国の良いところだな」という劇中の自虐じみたないしは皮肉めいた台詞にあるように、この全然劇的でない死亡劇は、映画の一つのテーマともリンクしていて、国のトップである総理大臣でさえこの国にとっては唯一無二でないところは、しかしある意味では強みになり得るという着地だ。
超越的なカリスマ性や能力を持った人物のみの力で成り立っていたり、「その人だけにしか出来ない事」を抱えた人物が各々バラバラにいる組織は、リーダーや、「その人」がいなくなった途端崩壊してしまう。だから、組織や集団の恒久的な存続の為には、「その人だけにしか出来ない事」「その人でなければならないこと」といった唯一無二性を特定の人物に集中させない仕組み作りが重要なのであり、総理大臣が死んでも替わりがいるというのは、逆に言えば、そうした仕組みが機能しているからこそとも言える。
ゆえに本映画や主人公たる矢口は、徹底して「独占」を否定する。まず通常であればフィクションにとってかなり重要と思われる<キャラクター>の独占の否定。総勢300何人だかのキャストということで、ナントカ大臣とかかんとか色々次々に出てくるが、実質的には3つか4つくらいしかキャラクターは存在していない。誰が文部大臣で誰が防衛大臣でというのはこの映画にとってはどうでもいいことで、口調等微妙にキャラ付けされてはいるものの、「大臣」という一つの役割と行動原理と台詞が、10何人に与えられているに過ぎない。(多分普通の映画だったら2、3人にセリフをまとめるはずである)
「はみ出し者の集まり」とされる、ゴジラの正体究明班だってそうで、「学者っぽいないしはオタクっぽい探究心でゴジラについて調べる人たち」という一つの役割を4人くらいで分担しているだけである。(多分これも通常であれば一人にまとめられる)
これは、多数の人物たちが台詞を次々に言うことでテンポ感を出すという演出上の意味もあるだろうけれど、「チームで一つの役割」を持つべしという価値観の現れでもあろう。
更に、情報や知識の独占の否定。矢口は、本来ならば国の重要機密として扱われるであろう、ゴジラの細胞データサンプルなどの情報を様々な機関や国にばらまくことで、問題の早期解決を導く。三人寄れば文殊の知恵、これは自分ないしは自分たちだけが知っていると独占機密化することで情報の価値を上げるよりも、広く共有することでなるたけ沢山の協力を集めた方が得策である、という姿勢だ。
<超越的>存在であるゴジラに対峙した時、この国を救うのは、同じく超越的な存在や飛び道具ではない。目標を同じくする協力集団であり集合的知識であり、つまり<集合>こそが<超越>を「超える」
でもこれって前半あれだけ揶揄していた、「日本には決定を下せる人がいない」っていうのと紙一重であるから前半部の否定と統合性が取れていないし、
むろんこういうのは、思想的な好き嫌い、価値観の問題で、私は所謂ネット上ではブサヨと呼ばれる方の考えに近いから、ともすれば個の否定に繋がるような着地点に、なんだかなーと思ってしまうわけだけれど、問題なのは、というより、問題だと思うのは、「シン・ゴジラ」は、単なる、「集合バンザイ」を主張しているわけではなく、ともすればっていうかともしなくても命に関わる「有事」に遭遇した際について描いているという点である。
矢口は、一刻も早いゴジラの正体究明に必死になっているチームメンバー達が、カップラーメンのみで食事を済ませ滅多に家に帰らず連日泊まり込み、また帰ったとしても翌朝早く来る様子を見て、満足げに、
「この国もまだまだ捨てたもんじゃないな」
とか微笑み(正直、これだけで元・社畜の自分からしてみれば、けっっっっ、って感じなんだけど)
ラストシーン近く、ゴジラを倒す最終的な作戦の前に、自衛隊その他に向けた、
「今回のヤシオリ作戦遂行に際し、
ここにいる者の生命の保証はできません。
だがどうか実行してほしい!
わが国の最大の力は、この現場にあり、
っつー半ば特攻精神的とも取れる演説。(でほんとに作戦決行中戦車みたいなのが幾つかバカスカやられているような)
そして、国連(だっけか)で決定された、「ゴジラには核落とせ」という判断を、何とか食い止めるための水面下交渉について、アメリカ人(のたぶん偉い人)が発する台詞、
「まさか日本がこんな狡猾な外交手段を取れるとは、危機は日本でさえ成長させるのかもな」(詳細は違うと思うがこんな感じ)
映画の素晴らしさは「共感」にあるわけではない。だからこれが、「完全なフィクション」であれば、私もうるさく言わない。
ファンタジーであれば――たとえば、『進撃の巨人』での出撃前の演説、「心臓を捧げよ!」は確かにアツいシーンである。
しかし、「シン・ゴジラ」の場合は、完全に、フィクションの世界観にあるフィクションの人物の行動原理として切り離すことはできない。明らかに、現在の日本を物語に取り込みそして、あるべき日本の姿を提示しているものだからである。
繰り返すが、断っておくと、これはあくまで個人的な価値観の問題である。
しかし私としては、リベラル寄りの人までも、結構絶賛しているのがよく分からんのだ。
もちろん、放っといたらもっと大勢の人が死ぬっていうのは分かるけど、それでいいじゃないか。それでいいというのは大勢の人が死ねばいいということではなく、多くの命が失われるのを防ぐための方法を、という行動原理で十分じゃないか?
それが、いや、登場人物が内閣とか政治家とかだから仕方ないかもしれないが、国のためとか国民のとかこの国はとかやたらと、まあーーーーうっるさい、しつこいのだ。
国のために個や生活を犠牲にして働くのが美徳で命を落とす覚悟が礼賛されるべきもので、何より、「有事」「危機」こそが、国を成長させる、みたいな価値観?
いいのかそれが「これぞ日本の戦い方」で飲み込んで
っていう些か判断や解釈の分かれる思想的な話の他にも、単純にひとつの作品として、映画やプロットの作りとして、鼻につくポイントは少なくないと思う。
これは多くの人が指摘するように、「シン・ゴジラ」の欠点ないしは一部の人にとっては美点の一つは、
「たぶん(本来怪獣映画を喜びそうな)小中学生が見ても分からない」
ことであろう。
次々に入れ替わり立ち替わり出てくる人物、やたらと専門用語や政治用語を並べ、理解させる気あるのか?というくらい早口の会議、応酬、ゴジラを倒すというよりメインは政治劇
「会議が冗長でなくムダがない」「予告では、おっさん達がやたらと会議して退屈そうだと思ったがいざ観てみたら会議もっとってなった」という内容の感想をよく目にするが、
そうか?
前半部の会議会議会議は勿論、指示手続き実行までのリアリティを出すためとかこれだけのプロセスを踏むことの提示とか必要な部分もあるが、社会的風刺になっているシーンも幾つか存在している。主人公が指示を出すと、「それどこの部署に言ったの?」と返されるタテ割り行政とか、とりあえず識者を集める時間の無駄とか、直前までスーツだったのに記者会見を前にして、総理「防護服を持ってきて」というあざといわざとらしさとか、面白いものもあるけれど、風刺したいなら、別に、それだけで、つまり、そういう戯画化したシーンを見せれば十分ではないか。
が、本作では、<その上で>、また、「この国では~」とかいちいち誰かが台詞で言うのだ。これもしつこい。
いや、分かったよ、わかるよ。だって、それさっき見たって。
「難しくて分からないだろうな」とは言うが、わざわざ台詞で補足してくれているところも結構あって、中途半端に親切なのである。その半端な親切さが観客の理解を助けるという方向ではなく、「この国ではあの国ではうるせえ!!」って感じに作用している。自分は、筒井康隆なんかが好きなので社会風刺物はむしろ好物な方なのだが、こういう見せ方はぜんぜん、スマートではないように思う。
更に、後半の最終作戦までの会議やり取り部分は、もっと無駄なような気がする。
物語として分解したときに、小難しい専門用語でなんか凄いものを観た気にさせるないしは(本当はよく分からないが分からないというとバカだと思われるので)褒めておこう!という方向に感想を誘導させる効果しか持っていない。
というのは、2時間映画の構造基本には、
が組み込まれていることこそが、フィナーレのカタルシスを呼ぶ。
小・トラブルとは、物語の世界観を示したり、人物たちの関係性を深めるためにプロット上に用意される障害だが、「根本的に解決されねばならない」問題は別にある。物語として最後に乗り越えるための壁が大・トラブルである。まやかしの勝利、からの喪失とは、今まで向き合ってきた、そして倒して喜んでいた障害が単なる「小・トラブル」で、大・トラブルは別にあることに気付いてしまったり、大・トラブルを解決したないしはできそうだと一旦は歓喜するものの実は全然間違っていたり、
「シン・ゴジラ」の場合、自衛隊が次々に攻撃することが小・トラブル、そして米軍がやってきてダメージを与えられたように見えるのがまやかしの勝利のように見えるが、そうではない。っていうか見えるがって書いたが見えない。
だってあれ見て、誰も「米軍やってきたやったー勝てる」とは思わんだろう。
突き詰めると日本は最終的に日本が守らなきゃねって映画なんだしっていうのがなかったとしても、
根本的なプロット上の問題として、主人公矢口とそのチームが、比較的最初の方で、最終的解決方法にほとんど気が付いてしまっているのである。
ゴジラの動力源が核融合であること、そのために生まれる熱を放熱するために冷却が必要なこと、おそらく血液の循環が冷却として作用しているので、血液を固めてしまえば、ゴジラは活動を停止するのでは……
っていうのが主人公サイドから割と早めに示されてしまって当初は矢口プランとか呼ばれている以上、
「これが正解なのだな」
と思う。思ってしまう。
だから、どんなに自衛隊とか米軍とかミサイルとか出てこようが、それでやっつけられるわけはない。それだと主人公が出てきた意味がない。
これは我々に組み込まれてしまった、フィクション鑑賞時のルールである。
故に、制作者は、その予定調和的思い込みを覆さねばならない。むろん、米軍が出てきて解決しちゃいましたチャンチャンという方向でなく、だ。
というプロット構造に則って言えば、ゆえにこの、当初気付いた解決策は後半部で本来、「覆される」べきなのだ。主人公ないしは主人公サイドは、「解決策」を握り、幾つかの妨害や無理解そのほかに合いながらも、なんとか実行直前ないしは実行に漕ぎつける。やった!!というつかの間の悦びを得るが、そのうち、それが無意味・不正解、根本的解決ではないことを悟り、絶望に陥る。
で、
からの。この、「で、」からが、ラストに向けた助走なのである。
これが、例えば、当初は主人公たちは全然別の方法を思いついてしかし失敗、再度のなんとか成分がとか原子構造がとか動力源がとか分析のアイディアの出し合いにより、「血液固めればいいんじゃね」ということに気づく…とか、苦労してバトルして血液凝固剤注入したけど無駄でした⇒博士の残したデータの解析⇒凝固だけじゃ足りないのかもとか注入方法の工夫が足りないとか試行錯誤して最終決戦、
など少なくとも順番が入れ替わっていれば、
専門用語を並べ立てた応酬、会議会議、チーム内の協力…の配置が、物語に機能していると言えるし、純粋に映画としてのカタルシスと、内容を理解できる者にとっては、そうだったのか!と、謎解き的、知的カタルシスをも生む。
しかし最初に、後半の最終作戦までの部分は、もっと無駄、と書いたように、実際はそういう構造ではない。
主人公たちが序盤の方で気付いた最終解決策がほぼそのまま最終作戦なのだ。博士の残したデータの分析で抑制剤がプラスされはするが大方まあ正解なのだ。そしてちょっとやられたりはするが成功しちゃうのだ。
だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。だって序盤に示された正解が正解ということを補強しているだけである。
つまりほとんど、「米国が核爆弾落としちゃうかもヤバい!どうする!」という物語の都合上、(間に合わないかも!)という時間稼ぎに配置されているだけだが、そんなの、間に合うのは分かる。フィクション鑑賞時のルールとして。
ラストの作戦がショボい、という感想はちらほら見かけるが、本当は、作戦がショボいことがカタルシスを生んでいないのではない。ほぼ最初に示された正解通りのまま終わるから、あれ?となるんである。かつ、人物たちの早口の分析から判明していく真相に、なるほど、そういうことだったのか!という知的快楽も得られない。
以上の理由から、「難しいから子どもには面白くないかも~」と言っている人こそ、本当に理解しているのだろうか、煙に巻かれているだけじゃないの、という感じだが、
「小難しい」というだけで、煙に巻かれて何か凄いものを観た気になる一部の人間、ないしは、凄いものを観た、観客に媚びてない=芸術的=作品の価値が高い と「思いたがる」(言いたがる)(だってつまらないと言ったら理解できなかったと思われる、バカだと思われる)類いの鑑賞者にとっては、演出上の効果はあるのかもしれない。いや、あった。
けれど、
やれ家族の絆だ恋愛だお涙頂戴だ感動だの分かりやすい浅い作りにしなくても、クリエイターが作りたいものを大衆に媚びずに作っても、観客はちゃんと素晴らしいものを評価できることが~
みたいな、自分が一番「一般人」(こういう言い方をする映画マニア、てめえもただの一般人だろって感じだよなマジで)を馬鹿にしている上から目線の物言いで、無邪気にキャッキャッと、ハリウッドに勝ったとか邦画も捨てたもんじゃないとか喜んでいる場合だろうか。いまだに。
同時に、分かりやすいことは必ずしも、「浅い」ことを意味しない。
むしろ、近年、「マッド・マックス」とか、「ズートピア」のような、戯画化によって現在蔓延る社会問題の構造を鋭く炙った作品でありつつ、かつ、子どもでも純粋に楽しめるくらい映画として高いエンターテイメント性を持った作品が海外から出て話題を呼んだ中で、
まだ、大衆に媚びてないから一般人は難しくてついてけないだろうけど~チラッチラッ みたいなことを言ってはしゃいでいる段階って、それこそ完全に「敗北」だと思いますけどね。
ううむ。俺はオタサーの姫って言葉も、「オタサーに入らなかった・女部員がいなかったから姫に入れ上げずすんだけど、実際そういう環境にいたらたぶん俺も引っかかるな」くらいのオタクたちがいちばん面白がって流行らせた言葉だと感じてるんだよな。
実際に姫に何かした経験はないけど自分の女慣れしてなさは自覚してて、姫の吸引力やそれに惹かれてしまうオタクのどうしようもなさを理解・共感できてて、だからこそしっくりくる、意味が想像しやすい言葉になってあんだけ流行ったと思うわけよ。これは、直接自分が姫の取り巻きになってはいなくても自虐と言えると思う。
そんで童貞を殺す服も似たような感じで、実際ああいう型月ヒロインぽい服の子に入れ込んだ経験はなくても「ああ、いかにも童貞好みだわ~~www(でもこれが童貞好みだと分かっちゃうのは、俺の中の童貞も好感を示すからだわ……)」っていう。
更に似た例をあげるなら厨二病(邪気眼)みたいのも、イテえwwwって笑いつつ、そのイタい振舞いにちかいことをした、または危うくするかもしれなかった過去がある、黒歴史センスがある人間たちが、自虐と嘲笑を交えて流行らせた言葉だと思う。
どう思う?
うぐぐ、俺の右手には封印された悪魔が、、みたいな考えを持って人に見せつけるやつもさ、
あれは分別ある人間が分別ないから中二病なんだよね?幼稚園児とか小学二年生がかめはめはーとかレイガン!!とかやっても痛々しくはないだろ?
で、卒業するじゃない。いつかは。
ヤンキーも偉ぶりたいのか、もてたいのか、オラオラしたいのか、分からんが、50なってもヤンキーっていないでしょ?卒業したんでしょ?
いや、ずっと地方に留まって土方とかやってると40とかでもヤンキーみたいな人はいるとしてもさ。昔は悪かったぜーって犯罪自慢する馬鹿が。
あれもベクトルが違うだけで、中二病じゃないの?だって大体中学からだろ、ヤンキーって。だから、あれも一種の中二病だと思うんだがなあ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85 Wikipediaみるとコーヒーを上手いと思わないのに飲み始めるとかも中二病なんだな。
あー!!WIkiにはもうDQN系、サブカル系、邪気眼系ってあるやん!!ほら、ヤンキーも中二病なんだよ!!
サブカル系に関しては一生中二病の人多いね。コーヒーやら酒やら音楽やら文学やらアニメやらなんでもいいが。
あーあと、ベジタリアンもね。
ベジタリアンの84%がまた肉を口にするようになっていることが判明(米研究) http://karapaia.livedoor.biz/archives/52179817.html
>>最近、動物の権利保護を目的とする団体がアメリカで実施した調査では、ベジタリアンとヴィーガン(完全菜食主義者)を合わせた84パーセントが、最終的には野菜だけの食生活を諦めていることが判明した。その内、53パーセントは半年以内、30パーセントはたった3ヶ月でベジタリアン生活に挫折している。
>>ベジタリアン生活を断念した経験のある人からは、「友人からの理解を得られず、変わり者と思われることに耐えられなかった」。という声が多く聞かれる。調査によれば、63パーセントが「周囲と大きく異なる食事が嫌だった」ことが理由で肉食に戻っている。また「肉の誘惑に勝てなかった」といったこともベジタリアン生活に挫折する大きな要因だ。43パーセントが「”純粋”な食事を続けることが難しかった」ことを挫折の理由に挙げており、特に鶏肉への渇望感が最も強いようである。
>>しかし、先月発表されたアメリカの研究では、かえって糖尿病が悪化する可能性が示唆されている。さらにオーストラリアの研究では、喫煙や飲酒が少ないにもかかわらず、ベジタリアンは一般よりもうつを患うリスクが18パーセント高いことが判明している。またパニック障害や不安障害のリスクも28パーセント高い。
クソワロww
魔法・超能力を駆使した学園バトル。主人公はその中でも特殊な能力の持ち主、特殊すぎて落ちこぼれ扱い。でも実は強い。俺Tueee。女性登場人物の殆どは主人公に好意を持っている。ハーレム、またはそれに近い。
※学戦都市アスタリスク、落第騎士の英雄譚、新妹魔王の契約者、対魔導学園35試験小隊
地方都市や田舎で少女たちが遊んだり学校に通ったりバイトしたりする。事件らしい事件も起こらないし、悪役も登場しない。男性も登場しない。背景が異様にきれいに描かれている。作画と演出が命。
伝統的な巨大ロボット枠。遡れば鉄人28号までご先祖様はいるが、大体ガンダムかマクロスかパトレイバーかエヴァンゲリオンチルドレン。
文字通り腐女子向け。完全に腐女子向けの場合もあれば、普通の少年マンガ原作をここに含める場合もあり、定義はひとによって変わる。イケメンがたくさん登場する。ある意味石鹸枠の逆バージョン。ただ主人公の少女も美形。
※スタミュ、Dance with Devils、DIABOLIK LOVERS
文字通り王道のスポ根もの。ただし、最近は腐向け扱いされる場合あり。原作は週刊少年ジャンプ。
※ハイキュー!!
原作なしの描きおろしオリジナルシナリオのアニメ。しばしば質アニメになりやすい。
「紳士」とあるが実質エロアニメ。AT-Xでは乳首まで見れる。おっぱいが揺れることだけが重要で、ストーリーはどうでもよい。石鹸枠と違い主人公は女性。
邪気眼的な世界観のアニメ。石鹸枠やオリジナル枠とも重なるが、ラッキースケベやギャグは少ない。
※K、終わりのセラフ
ラノベ・マンガではなく一般文芸原作のアニメ。ミステリが多い。場合によってはメディアワークス文庫など半ライトノベルも含む。実写化よりはマシ?ノイタミナのお家芸。
まさに「どうしてこうなった!」。誰得アニメ。ギャグ枠とは別に考えるべきである。
一見すると日常もの、単なる萌アニメに見せかけて見ているものを精神的に追い込むアニメ。
※魔法少女まどか☆マギカ、結城友奈は勇者である、がっこうぐらし!
難民枠と違い男性の登場人物もいる日常もの。これも作画と演出が命。
※ラブライブ!、アイドルマスターシリーズ、Wake Up Girls、うたの☆プリンスさまっ♪
魔法・超能力は登場しない。一般的な高校の部活動。但し部活動自体は実在しない、よくわからない部活。主人公はヒロインや担任によって強制的に入部させられる。タイトルに「俺」「僕」が入る場合が多い。主人公は平凡、下手をすれば平凡以下。
※俺の妹がこんなに可愛いわけがない、僕は友達が少ない、やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。
文字通り腐女子向け。完全に腐女子向けの場合もあれば、普通の少年マンガ原作をここに含める場合もあり、定義はひとによって変わる。
文字通りハード。または背景思想がハード。エヴァンゲリオンなんかもここ。
※攻殻機動隊シリーズ、PSYCHO-PASS、Fate/Zero
少々書き直した。今期って狭義の腐向けって無いのね。
中二病の定義が伊集院光氏が提唱したものから異能バトル系の妄想を好む人達も含まれるようになった、みたいな詳細な経緯は割愛
「中二病でも恋がしたい!」「異能バトルは日常系の中で。」など、最近やたらと中二病を題材にしたアニメをよく見るようになった気がする
なんていうか、「邪気眼が疼くうわあああ!!」とか言ってるキャラクターの滑稽な様子を笑い飛ばすだけならなんとも思わないのだけれど、中二病を題材にした作品というと必ずと言っていいほど「中二病とは幼児性と承認欲求が云々~」みたいな的外れすぎる考察をしだすから「何言ってんだこいつ?」ってなことになってしまう
異能バトル系妄想をリアルで披露しちゃうレベルで罹患しているという、その手の漫画にしか存在しないレベルで患っている後天的に付与された意味の方の中二病患者を伊集院光氏が提唱した方の中二病に中途半端に当てはめて考察しようとするからこのような齟齬が生まれるのだと私は考える
うまく言えないけど、アパート住まいの気の短い壁ドン常習犯のオッサンに「現実と少女漫画を勘違いしてる痛い男」とか言っちゃったり、逆に少女漫画の肉食系イケメンキャラの壁ドンを「怒りすらコントロールできない犯罪者予備軍」とか言っちゃったり、今のアニメやラノベ等での中二病の扱いというのは大体こういう頓珍漢で食い違ってる感じなんだと思う
中二病の根底にあるのは思春期になってアイデンティティを確立しようとしての事故なので、
「○○したら大人っぽいだろう、他の奴らとは違うだろう」って考えて「お前らJPOPなんて聞いてないで洋楽聞けよ」とか言ってみたり「コーヒーはブラックしか飲まない」とか言ってみたりするわけだが
「他の奴らとは違うだろう」の方向性が「大人っぽさ」ではなく「全能感」というか「もしかして俺がこの世界の主人公なんじゃね?」みたいな方向に振れると自分が異能者であるかのように思う込んでしまうわけ
『「能力者」みたいなのは幼稚だから「大人っぽさ」を志向する中二病とは違う』と思うかもしれんが、「大人っぽい」「全能の主人公」どっちにしても「他の奴らと違って俺は優位である」って思いたいわけ。
邪気眼とか影羅とか、やってる本人は幼稚だとは思ってないだろうしね
だから根本的な部分は一緒だと思うよ。幸運なことに能力者的な部分は人には言ってないが、俺は両方やった。主に植芝理一のディスコミのせいで。
中二病は、背伸びして洋楽とか聞いて自分はクラスの連中とは違うぜ、みたいに思ってるやつな。
中学生の頃、妹は二重人格だった。 なんでも、火を見ると「影羅(エイラ)」という魔族の人格が現れるそうで、真っ暗な部屋の中で唐突にマッチを擦っては、「……ヘヘ、久しぶりに外に出られた。この小娘は意思が強すぎて困るぜ(笑」などと乱暴な口調で叫んだりしていた。 ある日、夕食の時に「影羅」が出たことがある。 突然おかずの春巻きを手掴みでムシャムシャと食べ始めて、「久々の飯だぜ(笑」と言った。 食べ物関係のジョークを一切許さない母が、影羅の頭にゲンコツ振り落とすと影羅は涙目になっておとなしくなった。 それ以来、食事時に影羅が出たことは無い。 そして別人格とやらは、妹が高校に入った辺りでパタリと出なくなった。 最近になって、大学生になった妹にその頃のことを尋ねたら、クッションに顔を埋めて、手足をバタバタさせてのた打ち回っていた。
ここ10年、もしかしたら5年くらいの傾向として、一般小説のライトノベル化がある。
ライトノベル作家が一般小説に進出するという形で始まり、気づいたらかつてはラノベとして扱われていたような作品が一般小説として出版されるようになる。米澤穂信、有川浩、冲方丁、桜庭一樹などがここに当たる。今では彼らもラノベ作家とはみなされないだろう。そして次第に、かつてはライトノベルとして出てきたような作品が最初から一般小説として出るようになる。似鳥鶏、仁木英之、森見登美彦、機本伸司あたりは、世が世ならラノベ作家としてキャリアをスタートしていただろう。一般文芸から出た作家がライトノベル的な作品を、表紙がアニメ絵だったりキャラの立て方がライトノベル風だったりする作品を、文庫という形で出すことも増えてきた。
それと同時に、ライトノベルと定義される作品群は次第に先鋭化し、表紙はより萌え萌えになり、話はより典型をなぞるようになり、お約束化は進行していった。いわゆるコテコテのラノベというヤツだ。邪気眼で、中二病で、萌え萌えで、中身があまりないやつだ。
結果として、一般小説がライトノベルの一部を取り込み、「ライトノベル」の定義が狭まったのだ。かつてはライトノベルだった作品群が今ではライトノベルではない。そして、今ライトノベルと呼ばれる作品群の『ラノベ濃度』はますます高まっていく。
そういう状況を加味して、どこをさして「ラノベ」と言っているのかはっきりさせないと、議論のしようがない。
●ラノベしか読まない?他の小説は読む?それは何故?どこに魅力を感じている?
上記のような境界領域の作品を好んで読みます。今のラノベは全然熱心に追ってない。
●ラノベファンはラノベを一般娯楽小説(定義付けのために一般と称しているだけ)と同じだと思っている?
「今のラノベ」は別物が多いけど、全てが別物じゃない。一般小説(境界を含む)で通用するような作品は今でも存在する。
●ラノベで、パロディ要素が殆どを占めるようなものはどう思っている?
知らん。面白ければオッケー。
え?何言ってるの?
自分の好きなように生きるために罪を抱え込みまくってる、なんて、本気で言っちゃって恥ずかしくないの?
逆に、社会で生きてる人は皆、そんなに自分を殺して生きてるのかね?
義両親と上手くやってる人間は皆、自分を殺し、好きなように生きてないのかね?
違うでしょ?お前みたいな自己中やろーがただただ人の事を全く考えずに無駄に威勢だけ張って反社会()を気取ってるだけで。
別に社会で上手くやってる人がお前が思ってるように苦労してるわけではない。
むしろ、お前なんかよりも自分を殺さずにそのまま生きてる人間のが多いだろう。
だってお前はその罪を抱えてる、ってことは、罪を抱えてそれにより何らかの制限を加えられてるんだろ?
普通の人はそんな制限なく自由に生きてるので。
「俺ってアイドルなんか目もくれずに洋楽聞いてるんだぜ? おかしいだろ?」と言って、本気で自分がおかしいと思ってる奴なんていない。
洋楽を聞く自分は異常者なんじゃないかと本気で怯えてるんなら、それは中二病じゃないよ、プリントアウト案件です。
本気で邪気眼による妄想を信じこんでいて、それによって恐怖を感じているなら、それは邪気眼じゃないよ、プリントアウト案件です。
そうじゃなくて、鬱だ氏のう、的な中二病はあるし、
それこそ元増田みたいに、自分は特別なんじゃないか、とか、おかしいんじゃないか、とか、
邪気眼であってもそれによって自分は恐ろしい目に合うんじゃないか、
とかで日常生活に支障を来すことはあると思うが?
それと、幻聴が聞こえる、なんていうのと何が違う?
「本人にとっても日常生活に支障を来す」と「本人が直したくても直せない」は重要かと。
邪気眼/中二病は、本人がやりたくてやってて、楽しく日常を過ごしてるつもりだからね。
で、それをやめたくなったら、すぐにやめられる。
なんだろ、自分のことを言ってるのかな?
後付理論?
そしたら治るまでは誰がどう判断すんだ?
現状、明確に脳のどの部分に欠陥が見られてCTスキャンしたら分かりました、って話じゃないんだから。
つまりは中二の時に取るおかしな行動は治るからほっとけ、としかこの場合は言えないだろ?それが統合失調病でもわからんじゃん?
そもそもその二つに区別があるとは思わないというのが始まりだが、お前はこの時点でどう区別するんだ?
治ったら中二病だったね、良かったね!で、治らなかったら統合失調病だからお薬出しましょうねーってことか?
その二つの明確な違いはなんだ?