はてなキーワード: 道義的責任とは
サンノゼの日本人街にある石碑にも刻まれてる、責任追求を放棄する呪文
「仕方がない」は日本人の自己犠牲的な悲観性を表す表現として、多くの外国の著述家によって指摘されている。
また、太平洋戦争時のアメリカやカナダで行われた日系人の強制収容において、収容所での絶望感と虚無感を克服するべく、「Shikata ga nai」というフレーズを頻繁に用いりつつ、そのような苦しい状況の中でも、挫けることなく希望を見出そうとし続けていたと言われており、その精神性は現在でも日系人社会において根強く残っているという[2]。
ピューリッツァー賞作家のジョン・ハーシーは1946年のルポルタージュ『ヒロシマ』で、広島住民はおおむね核爆弾使用の道義的責任に無頓着であったと記し、ある被爆者の、戦争だったのだから「仕方がない」(Shikata ga nai) という発言を紹介している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%95%E6%96%B9%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%84
GDP3位の超大国だぞ。極東の冴えないド田舎ぶりの原因を無理くり風土に求めたいならこれやろ
サンノゼの日本人街にある石碑にも刻まれてる、責任追求を放棄する呪文
「仕方がない」は日本人の自己犠牲的な悲観性を表す表現として、多くの外国の著述家によって指摘されている。
また、太平洋戦争時のアメリカやカナダで行われた日系人の強制収容において、収容所での絶望感と虚無感を克服するべく、「Shikata ga nai」というフレーズを頻繁に用いりつつ、そのような苦しい状況の中でも、挫けることなく希望を見出そうとし続けていたと言われており、その精神性は現在でも日系人社会において根強く残っているという[2]。
ピューリッツァー賞作家のジョン・ハーシーは1946年のルポルタージュ『ヒロシマ』で、広島住民はおおむね核爆弾使用の道義的責任に無頓着であったと記し、ある被爆者の、戦争だったのだから「仕方がない」(Shikata ga nai) という発言を紹介している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%95%E6%96%B9%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%84
最初に断っておく。
いや、私はオリンピック開催には否定的なのだが、言いたいのはそこじゃない。
ここでは「オリンピックに道義的な問題があるとき、アスリート批判は間違っているのか?」について話す。
どうやら池江選手に「五輪出場を辞退して欲しい」とか「五輪開催に反対して欲しい」というリプライが届いて戸惑ったらしい。
おーけーおーけー。そりゃ確かに戸惑うだろう。
簡単に「じゃあ五輪辞退します!」とはできない。それだけ選手は多くのものを背負っているからだ。
この話題に対して俺らのアルピニスト 野口健が次のような投稿をした。
池江さんご本人に「五輪辞退を求める」といった趣旨の投稿をした人たちは下衆の極みである。五輪開催の有無について意見があれば決定権のあるIOCや、また開催国、開催都市である国や東京都に向けるべき。最もやってはいけないのはアスリートにその刃を向けること。 https://t.co/9K6XDiHOSx— 野口健 (@kennoguchi0821) May 7, 2021
『下 衆 の 極 み』
凄まじい表現だ。普通は血の通う人間に向かってこんな言葉をチョイスしない。
アルピニストの強い怒りが感じられる御ツイートだが、ちょっと待って欲しい。
本当に五輪開催の有無についてアスリートに意見を求めてはいけないのだろうか?
というかアスリートは五輪開催について社会的責任を負うのではないだろうか?
少し考えていこう。
今回の報道を受けて思い出したのは昨年のW&Sオープンを辞退した大阪なおみ選手。
彼女は人種差別に抗議するために試合を辞退し、これを受けた大会側が正式に人種差別に抗議することで一件落着となった。
当時も散々議論になった大阪選手のこの行動について強調しておきたいことが2つある。
ひとつは、これは大阪選手だけでなくバスケや野球など多くのスポーツで同時多発的に起きたムーブメントであること。
そしてもうひとつは、別に大会主催者が人種差別を行ったわけではないということだ。
つまり大阪選手を含むアスリートたちは「大会が人種差別への抗議声明を出さないのは道義に反する」と考え行動を起こしたのだ。
もう少し視野を広げてスポーツの外も見てみると、このような話はたくさん出てくることがわかる。
例えば今年の3月に、グラミー賞元会長の女性蔑視発言と人種差別的な審査基準を理由に、3組のアーティストがグラミー賞ノミネートを辞退した。
(元会長の女性蔑視発言ときいて何かを思い出さずにはいられない)
主催者側に道義的な問題があるとき、参加者がその問題について黙っていていいのだろうか?
少なくとも海外のアスリートやアーティストは「No」だと答えるだろう。
沈黙したまま大会に参加するのは道義的問題を肯定していると考えるからだ。
森前会長が辞めたことで、女性差別という問題は(建前上の)解決となった。
寒々しい解決ではあるが解決は解決。これで五輪に参加するアスリートは差別加担者の誹りを免れることができた。
ならこれで万事OKだろうか?もちろんそうではない。
いま問題になっているのは五輪開催による感染拡大、つまり大会主催者側の人命軽視の姿勢だ
この感染拡大問題はアスリートにとってより直接的な道義的責任が発生する。
なぜなら人々はあなたたちアスリートを応援するために密になり、感染が拡大し、人が死ぬからだ。
アスリートはそのことをわかっているはずだ。わかっていて、しかし見てみぬふりをしながら大会に参加する。
そして、人が死ぬ。
もちろんそうはならないかもしれない。
五輪開催時にはコロナはすっかり収まっていて、みんなで肩組んで国歌を歌いながら応援するかもしれない。
だがそんな馬鹿げた楽観論で行動するようならアスリート失格だと言わざるを得ない。
いまはすっかり寒々しい響きになってしまったが、五輪は「アスリートファースト」である。
アスリートのための大会なのに、アスリートに五輪開催について意見を求めるのが"下衆の極み"なのだろうか?
まだ幼い高校野球の青年ならいざ知らず、いい大人が自分の行動によって与える社会的影響について無知でいていいはずがない。
そしてあなたたちアスリートには、海外のアスリートがそう示したように、大会主催者を動かすだけの影響力がある。
その責任と影響力を認識しておきながら「自分たちはただ競技に集中するだけです」という態度は許されて、
アスリートにその影響力を行使して欲しいと願うことは"下衆の極み"なのだろうか?
もうすぐ90歳になる私の祖母はいま東京に住んでいる。その東京にいま五輪という名の変異株フェスがやってこようとしている。
それをなんとかして阻止したい。その気持ちが私には痛いほどわかる。
ここまで読んでくれてありがとう。以下は読まないでもいいよ。
オリンピックのむかつきポイントは多すぎて何から言っていいかわからないが、
ひとつには「オリンピックを聖域にしていること」が挙げられると思う。
私たちはこれまでどれほど「オリンピックだから」と我慢を強いられてきたのだろうか。
「オリンピックだから」の一言で我々は楽しみを奪われ、ただ働きさせられ、汚職と利権に沈黙させられ、そしていま命までもが軽んじられている。
オリンピックを聖域にした結果がこれだ。
そして野口健の「最もやってはいけないのはアスリートにその刃を向けること」という発言も、その聖域の延長にあると私は考える。
はっきりいって、これがオリンピックでなかったら多くの選手が声を上げていたはずだ。
しかしオリンピックだから、オリンピックが特別でしかたのないことだから、アスリートは人命軽視にすら抗議しない。
それどころかオリンピック選手までもを聖域化して、それを批判する行為を"下衆の極み"だと断ずる。
アスリートがなぜそんな特権的地位にあるのか私は理解に苦しむ。
頑張っているから?頑張っていれば批判されない特権を得るのか?
ちがう。
アスリートは経験的に、頑張ってさえいれば自分が批判されにくいことを知っているのだ。
どうせ日本人は馬鹿だから始まってしまえば感動して自分たちを称賛するだろうとわかっているのだ。
だが、少なくとも私は、もしも五輪開催によって私の大切な人の命が失われたら、全てのアスリートを軽蔑しスポーツを強く憎むだろう。
上記の文章で最後に「全てのアスリートを軽蔑しスポーツを強く憎む」と書いたせいか、
スポーツマンvsスポーツ苦手マンといった構図のコメントがついてしまった。
私個人の話をするならスポーツは好きだ。素朴に体を動かすことを楽しいと感じる。
ではなく、私が言いたいのは「見る人に元気を与える」という名目の元で行われている産業スポーツ。
それらスポーツに関わる者は本当に批判してはならない聖域なのだろうか?ということだ。
個人がスポーツ好きだろうが嫌いだろうがそんなことはどうでもいい。
河村氏、求められる「成果」 4期目の名古屋市政、難しいかじ取り
https://news.yahoo.co.jp/articles/62d75546b44bbf58ffdcd7321d2ef8bee966545d
市長給与の「引き下げ合戦」や新型コロナウイルス対策の「ばらまき合戦」ばかり目立ち、市の将来像を見据えた深い政策論争はなかった。
結果は当選だが、リコール運動の旗振り役だった道義的責任を不問に付したとは言えない。これまでさまざまな目立つプロジェクトを打ち出しては頓挫を重ねてきた河村市政が全面的な信任を得たとも言い難い。
「選挙モンスター」を前に明らかに及び腰だった。既成政党の地方組織が、勝てる首長候補を出せないほど弱体化していることが浮き彫りになった形だ。河村氏の勝利はその反作用でしかない。
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4252977.html
「くっきりとした姿が見えているわけではないけど、おぼろげながら浮かんできたんです。『46』という数字が。シルエットが浮かんできたんです」(小泉進次郎 環境相)
23日午後、私たちの単独インタビューに応じた小泉環境大臣。「浮かんだ」という「46」とは、各国の首脳が参加した「気候変動サミット」で菅総理が示した目標です。
「我が国は2030年度において、温室効果ガスを2013年度から46%削減することを目指す」(菅首相 22日)
日本は、これまで2030年度までに「26%削減」を目標にしてきました。今回、菅総理はサミットで「46%削減」と表明、目標を大幅に引き上げました。
「現実的には、どれだけ積み上げても30%台後半が限界だった。それ以上の数字は、環境省と小泉環境相が背負っている」(経産省幹部)
「旗振り役」の小泉大臣、そのような声は意に介さないようです。
「意欲的な目標を設定したことを評価せず、一方で現実的なものを出すと『何かそれって低いね』って。『金メダル目指します』と言って、その結果、銅メダルだったとき非難しますかね」(小泉進次郎 環境相)
30%台後半が限界だっつってんのに無視して寝言言ってんじゃねえよ。何が金メダルだ。スポーツじゃねえんだよ。46%って宣言して46%行かなかったら非難されるに決まってんだろ。
「窓の外に東京の代表的と言っていいのか、高層ビルがいっぱい並んでますね。この景色が変わりますよ。見てください、空いている屋根がいっぱいありますでしょ。太陽光をできる限り置いていきたい」(小泉進次郎 環境相)
どうやって実現するつもりかと聞かれて太陽光?? ビルの上に? 物理法則を無視して置けたとしても達成できるわけねえだろ。
レジ袋有料化は迷惑ではあるがまだ国内に閉じた話だ。ひきつった笑いでギャグにすることもできた。進次郎構文だって面白いのはわかる。でもこの46%はもうシャレにもギャグにもならない。達成できないと他国が何を言ってくるかもわからん。日本国内の産業も無傷じゃ済まないだろう。30%台後半でも難しいのにそれを2〜3割ほど上回る数字を出してしまった。
そして何より太陽光だ。太陽光といえば小泉家のビジネスだ。つまり小泉進次郎は、政治家としてまともに説明責任を果たさず、自分のファミリーに露骨に利益誘導しているわけだ。ネトウヨが好む語彙で、使いたくはないんだが、これほど「売国奴」という称号が似合うやつは今まで生きてきて見たことがない。
進次郎構文でデビューしたときはただのバカだったが、レジ袋有料化で有害なバカになり、今はなんだ? 「頼むから何もしないでくれ」という言葉が他人を傷つける云々という記事がはてブに上がっていたが、じゃあこの小泉進次郎に対してどう言えばいい?
こいつを大臣に任命して好きにやらせているのは100%自民党の責任だろう。法律で決まっているとか、野党の追求がどうこうとか、そういった理由で小泉進次郎が環境大臣をやっているわけではない。自民党内でしっかり検討して任命し、その後も諌めることなく好き勝手に放言させている。その結果がこれだ。レジ袋有料化からもうすでに相当悪影響が拡大している。この先何をしでかすかわかったもんじゃない。
俺は今まで消極的に自民党を支持していた。モリカケや桜を見る会なんてどうでもいい。俺の生活には何一つ影響ないからな。道義的責任や法的責任はあるのかもしれんが、それはそれで追求したい人がやればいいことだろう。
菅首相もいまいち無能っぽいが、それでも積極的に不支持というほどではなかった。携帯料金引き下げにやけにこだわってMVNOを破壊するような言動はどうかと思うし、その他のアクションもいいかと言われれば返答に窮するが、誰かに代えたらよくなる気もしなかった。つまりは消極的支持だ。
小泉進次郎だけは別だ。こいつに権力を持たせること自体が間違いだ。次にどんな手段で国政を食い物にして、自分ちの太陽光をねじこんでくるかわかったもんじゃない。まともなプラスチックゴミの削減案すら出さずに「シルエットが浮かんだ」とか言ってめちゃくちゃするだけだ。それでも結果的に国や俺の利益になるならまだ目をつぶるが、レジ袋有料化も46%も害でしかない上に望んだ効果も得られない。
こんなのに俺の生活を振り回されるなんてやってられない。絶対に排除したい。自民党でさえなければ立民だろうが共産党だろうが、小泉進次郎を排除できるという一点においてどこが政権取ってもまだマシだ。これほどの有害物質を大臣に据えて良しとする自民党なんてまったく信用に値しない。
だってあの人自身にそんな明確な主義やポジションなんかねえじゃん
論破王っていうのも昔っからずっとそうで、その時その時で論破しやすい方に憑依しているだけ
だから主張の一部だけ切り取ればリベラルそのものということもたまにある
(たぶんリベラルさんにはそういうとこが一番ムカつくんだろうね、論法だけは借りるけど俺らに忠誠を誓うわけではないっていうのが)
「ヤクザ」ならともかく、「オウムみたい」っていうのは単純に2chとひろゆきをダブらせてるだけで、あいつの本質ではない
ちょっと前のフェミみたいに「2chの管理者だったからこいつはミソジニーの親玉!」みたいな短絡的な発想をするバカがいるんだけど、あれもうただの恥さらしだからね
もちろん、そういう輩や誹謗中傷をする連中に場所を貸していたことに、全く道義的責任がないわけじゃない
裁判から逃げて金も払わないという行動に至っては擁護のしようもない
せいぜいどこにでもいるただのネオリベ
政党の話はともかく、
Shikata ga nai (仕方がない) のせいで責任取らないと言われているな
「仕方がない」は日本人の自己犠牲的な悲観性を表す表現として、多くの外国の著述家によって指摘されている。
また、太平洋戦争時のアメリカやカナダで行われた日系人の強制収容において、収容所での絶望感と虚無感を克服するべく、「Shikata ga nai」というフレーズを頻繁に用いりつつ、そのような苦しい状況の中でも、挫けることなく希望を見出そうとし続けていたと言われており、その精神性は現在でも日系人社会において根強く残っているという[2]。
ピューリッツァー賞作家のジョン・ハーシーは1946年のルポルタージュ『ヒロシマ』で、広島住民はおおむね核爆弾使用の道義的責任に無頓着であったと記し、ある被爆者の、戦争だったのだから「仕方がない」(Shikata ga nai) という発言を紹介している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%95%E6%96%B9%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%84
全面的に日本が悪いとなれば日本政府はSTCW条約を楯にインドおよびスリランカ、そしてフィリピンを攻め立てるので、悪いやつは誰も居ないという解釈とモーリシャスを救おうという国際的なキャンペーンを打つのが上手い落とし所ではないかと考えている。
昨今話題のモーリシャス海難、詳細は様々なチャンネルのメディアから報道されているので詳しく知らない者はそこから情報を得て頂くとして、今回エントリを作成したのは一旦このモーリシャス海難によって義憤を持っている方々へ冷静さを取り戻して頂こうと考えたからだ。
何故ならば、当エントリのタイトルにある【不利益は外国へ】はモーリシャスに限った話では無いからである。
それはそうだろうと感じたのならば早計だ。
はっきりと言おう、今回のモーリシャス海難の責任をすべて商船三井や長鋪汽船、そして日本政府へ求めた場合、最終的に損するのは外国であると。
何故ならば世界の多くの国々は国連へ加盟しており、海事を所管する組織として国際海事機関(IMO)がある。
その中で海事に関わる世界の国々はIMOを通して国際条約を結んでおり、船員の資格保証をするものに「STCW条約」というものが存在する。
STCW条約
https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/kotsu/bunya/kaiji/stcw.html
ここまで説明すると察しの良い者は理解を始めただろうが、モーリシャス海難を引き起こした大型船WAKASHIOに乗船していたのは日本人ではなくインド人およびスリランカ人、そしてフィリピン人なのだ。当然ながらインドとスリランカ、フィリピンもSTCW条約へ加盟している。
STCW条約で定められた国際基準を満たした国々はホワイトリストへ加えられ、面倒な手続きを省略できるという各国法令制度があり、ホワイトリストにはインドとスリランカ、フィリピンも載っている。
本邦の海運企業が容易に外国人船員を雇い入れることができるのもこのSTCW条約のホワイトリストがあるからだ。
さて、ここで想像して頂きたい。
今回のモーリシャス海難が国際的に猛烈な非難を浴び、日本が全面的に保障すべきだとなった場合はどのようなシナリオが考えられるだろうか?
日本は間違いなくSTCW条約にある船員教育の国際基準を満たしているのか?とインドとスリランカ、フィリピンへ問い合わせたり調査を開始するだろう。
もちろん問い合わせと調査が完了するまでの間、日本はもとよりSTCW条約へ加盟しているすべての国々はインド人およびスリランカ人、そしてフィリピン人船員の雇用を一時的に凍結する。
何故ならばSTCW条約へ加盟している国々はSTCW条約の国際基準を満たしていることでホワイトリストへ記載されているため、船員教育の基準を満たしていない可能性のあるインド人およびスリランカ人、そしてフィリピン人船員を雇用するわけにはいかないからだ。
船員教育の国際基準を満たしていない船員を乗船させているとSTCW条約の国際基準に満たない可能性が高い。
商船三井や長鋪汽船も当然ながら雇い止めをする。国際基準に満たない船員ならば国際基準を満たす別の国の船員を雇用したら良いのだから。
金銭的保障は保険でまかなえる。道義的責任として頭を下げるのはタダだ。そしてその道義的責任は船員教育を疎かにした国々も問われる。
大きな声を持って忠告しよう。
アナタたちのその義憤はインド人およびスリランカ人、そしてフィリピン人船員の雇用を脅かしていると。
冷静にならなければならない。その義憤はインド人およびスリランカ人、そしてフィリピン人の雇用を脅かすためにあるのでは無いはずだ。
私には夢がある。一つ目は、きらら系アニメの登場人物に障害者枠を設けること。障害者の日本国民に占める割合は約7.4%である*1。この現実をアニメに反映させるならば、きらら系アニメの1作品あたり平均登場人物数を仮に7人程度とすると、2作品に1人は障害者キャラが登場せねばおかしいということになる。当然障害者キャラに対しては合理的配慮義務が生じるから、例えば車椅子のキャラがいる場合はきららジャンプなどもってのほかである。厳しすぎると感じる方もおられるかもしれないが、芳文社が持つ社会的影響力の大きさを考慮すればこの程度の道義的責任は引き受けて然るべきだろう。共生社会の実現に向け、きらら系アニメにもダイバーシティを取り入れることを求めたい。
https://double-techou.hatenablog.com/entry/2018/09/21/070000
そうなんだよねー。韓国の裁判所は、法律と道義の問題を分けて日本の最高裁と同じように和解する方向に持っていけば、結果的に徴用工の方も救われる方向もあったのではないかと思う。現状の大騒ぎは被害者の顔が全然見えない。自国のマクロ経済が打撃を受けるとか、隣国との関係が決裂するとか、そんな責任を被害者に負わせてはならない。慰霊碑とか、道義的責任に基づく基金とか、謝罪の手紙とか、そういうもののほうが救われるんじゃないかと思う。
そして、韓国最高裁の判決が出たあとでも、日本の最高裁と判決が別れたわけだから、そこは日韓請求権協定に基づく政治の出番だったのに。「三権分立だから干渉できない」みたいに突っぱねちゃったらこうならざるを得ない。
私が生まれる以前の話だ。
居酒屋、ラーメン屋などを数軒経営していた料理人の父が起こした失火によって、隣家の定食屋が燃えてしまい隣家のご家族に多大なる迷惑をかけたことがあった。
家と店が半焼しただけでなく、ご子息が大やけどを負ってしまい彼の人生に大きすぎる影を落としてしまった事で父は母が死ぬのではないかと思うほど憔悴していたらしい。それというのも、いつものように新製品開発の仕込みで寸胴に火をかけたまま外出をした結果おこった油断が招いた不幸な事故で、言い訳などしようもなく、父としては出来る限りの事をしたいと申し出たそうだ。父の言葉としては、こうなる結果はわかっていたはずなのに大丈夫だろうと油断をした。過失というにはあまりに重い、放火の様なものだというものであり、その気持ちは当然であると思う。火を放ったのだ。
昔の事でおおらかな時代だったこともあり、隣家のご主人は火災保険にも入っておらず傷害保険などにも入ってなかったそうで、父の希望は家の再建から、事業再建、ご子息の人生の節目節目など、折に触れて責任をもって補償をさせて欲しいという事だった。しかしながら、隣家のご主人には個人的な借金もあったらしく、一度にまとまった金額をと希望なさったそうだ。そこで弁護士を介して交渉し、法的拘束力をもつ証書を残す形で「実家と事業の再建、家財の損害賠償、負傷した子息への教育補助など込み」で、一軒の店の経営権と店舗家屋及び、半焼した家屋の建築費、当時の平均的な会社員の障害年収の半額を支払う事にしたそうだ。父が生涯かけて蓄えた資金の4割を手放したということだった。これで法的には、完全かつ最終的に決着したはずであった。
多額の資金と軌道に乗っていた店舗の経営権を得たことで、隣家のご主人は大きな成功をおさめ、一時は父が経営する会社に迫るほどの成長を見せたことを父は我がことのように喜んでいたし、これで自らが犯した罪の幾らかも償えたものと喜んでいた。
その後、両家が代替わりし私が経営する様になってから、少し話がおかしくなってきた。隣家のご子息は、あまり経営者としては適性がなかったようで、一時は上手くいっていた経営が傾き再び借金を抱える様になってしまった。そこでご子息は古い証文を私に持ち出してきたというわけだ。曰く「これには私に対する補助は明文化されているが、御父上の私に対する賠償は含まれていない。私には賠償を請求する権利がある」という。
しかし、私としてはかつて両家で、この話はこれで完全かつ最終的に終わりだよ、と法的に終わらせた話であり、まったく納得できる話ではない。
あまりにも強く不平をいうので、「であれば法廷で決着を」と返答期日を提案しても一向に乗ってくる事はなく、それどころか父がおかした罪について紙に書いて周辺に貼って回る状態でとても困っている。ご子息の要求は、会社が経営する一部店舗の経営権の譲渡と当時父が支払った金額に倍すると想定される賠償金の支払いで、応じることが可能な領域を大きく超えているため弁護士の先生に相談したところ
と。ひとたび交わした公的な約束を破る相手と、新たな約束を交わす意味を考えると暗澹とした思いである。隠居した父は、息子の人生を補償する道義的責任は私が持つと何度か言ったのにと言う呆れも、信頼を裏切られた怒りも手伝いなんとも言えない顔で目を白黒させているが、私は純然と頭にくるだけである。