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はてなキーワード: 軍医とは

2020-07-25

anond:20200725190454

戦争が終わって自衛隊車いすで帰ってきたときこの人が軍医だったら拳銃処刑して回りそう

2020-07-08

anond:20200708175334

多少の能力差は無視する

大幅に能力が違うなら軍医や飛行コース士官学校から始まってるはずで兵隊であるはずがないからね

2020-05-19

原爆を浴びて黒焦げになった人のデータベースを作れば自分だけは戦争犯罪を免罪されると信じたのが日本陸軍中佐軍医だし

anond:20200519090214

実際そうなった

防衛省役人もそうなんだろ

国民が何人死のうと自衛隊にとっては努力しなかった連中が死ぬだけで痛くもかゆくもないよな

被曝して黒い隅になってる連中を見て自業自得だと思ってそう

2020-04-19

anond:20200419233801

小麦除草剤でも

日本実験場として売り渡す契約中国アメリカとしているのでは

被爆者の詳細な記録が残ってるのは、

被爆情報をまとめてアメリカに提出すれば自分らの罪は免罪されると日本軍の軍医が考えたからで

実際そうなった

2020-04-09

anond:20200409094213

韓国には徴兵制度がある

その中には軍医やそれに準ずる役職もある

軍令拒否できない(拒否したら懲役)

韓国政府は軍令でもって彼らの多くを新型コロナウイルス対応に動員した

2020-03-31

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/71387?page=3

とはいえ軍医官も公保医も、「軍役」という制度に縛られ、それぞれ軍人公務員という身分国家命令服従しなければならない身分だという絶対的な違いはある。

一般医者には退職廃業の自由があるが、軍医官や公保医にそれはない。

勤務地を離脱したり命令拒否したら刑事処罰をうけることになる。彼らの医療活動国家から義務付けられた行為であるからだ。今回のコロナ対応において、いの一番に「動員」されたのは公保医である

2月末、全国の公保医の中から100名余りが韓国最初に爆発的にコロナ患者を発生させた大邱慶尚北道地域第一陣として派遣した。それは自発的な参加を募ったものではなく、国家による一律の指示、つまり拒否することのできない命令であった。

しか宿泊先を自分で探して解決しなければならないという無謀な指示だったという。その後も追加の人員派遣したが、それでも人員不足は解決しきれなかった。

そこで政府3月5日、新たに公保医となる予定の742名を早期任用し大邱に配置すると発表した。

公保医とはいえ戦時には軍医官として活動することを前提としているため、通常であれば基礎的な軍事教育を4週間受けたのちの任用となるのだが、今は新型コロナ増加で緊急状態であるからと、軍事教育を省略し緊急派遣するというものだ。

この措置により大邱地域派遣された公保医は総計1千名以上となった。これを日本人口に換算してみると2千名以上の医師特定地域検査診療要員として一気に動員したということになる。

徴兵制のない日本においてこのような対応可能だろうか?

結局のところ新型コロナウイルス感染症対策で「韓国式」を推してる奴ってのは日本医療現場崩壊徴兵制か、どちらかを望んでいるってことなんだよね

2020-02-20

anond:20200220020824

戦場では、病気怪我は当たり前のように起こるので、

軍医衛生兵は 一定数居るんだよ。

2019-07-27

anond:20190727070954

犯人一人の命で、どうやって34人もの尊い命を償えるというのか。

34回に分けて執行するという方法がある。寸止め33回繰り返し、34回目で絶命させる。

これを読んで、戦前拷問の話を思い出してしまった。

自白させるために気絶と蘇生を手を繰り返したみたいなのを聞いたことがある。

軍医が横にいて蘇生支援していたんだっけか。

なんかそれみたいだな。

ちなみに、気絶させたらそのまま死んでしまう人もいたようで、きっか33寸止めするは難しそうだけれどね。

ブラックジャックじゃないが、殺すためによみがえらせるのをやりたがる医者がそういそうにも思えないのだが。

2019-05-27

戦争は女の顔をしていないを読むための副読本

軍医エフロシーニヤ・グリゴリエヴナ・ブレウス大尉の話が公開された。

もともとミリオタなのでソ連独ソ戦はそれなりに知識があるけど、さすがに30年近く前になくなったソ連のことだと日本の読者はしらない事も多いんじゃないかな?原作旧ソ連の人向けで特に用語とかの解説もないし。

1941年の夏と言えば、まさに独ソ戦が始まった時。

レニングラードといえば900日近くの包囲された街。

スターリングラードスモレンスククールスクなんていわれてもピンと来ないよね?

今回の東プロイセン攻勢やロコソフスキー元帥なんかも説明いるよね?

政治将校と言われてもなんのことやらじゃない?

微妙に楽勝っぽい東プロイセン攻勢は同時期の沖縄戦なんかと比べて連合軍の死者が沖縄ではせいぜい2から3%なのに対し、10%近い死者を出してる。

コムモールやピオネールどころかコルホーズもよくわからんという人も多そう。

そう言えば、ライフル自分身長よりも長いという描写もあるけど、当時のライフル銃は120cm近くある大型のもので、通常時は銃剣をつけたままなので特におかし表現ではない。

あ、そういえば自動走砲大隊って、でてきたけどこれなんだろ?自走砲のことかな?と思ったけど、別の箇所には普通に自走砲ってあるし。

と話が脱線したが、そういう前提知識仕入れる本ていいのあるかな

速水螺旋人津久田重吾 の「いまさらですがソ連邦」はかなりいいところ行ってるかな?今なら kidle で prime 会員なら無料で読めるよ!

でも表紙で旗を持ってるピオネールの少女がでかでかと載ってるけど、ピオネールやコムモール速水螺旋人イラストコラムで軽く触れてるだけだったかな?

独ソ戦自体となると、「どくそせん」はミリオタミリオタ向けに書いた本と言う感じだし、手頃でこの一冊と言うのは浮かばないな・・・なんかいいのある?パウル・カレルを21世紀の今勧めるのはないし。

2019-03-20

偉人たちの白人コンプレックス

福沢諭吉

人種改良を推進し、脱亜入欧を唱える。中国人朝鮮人を「豚」と呼んでいた。日本近代化西欧化に多大な貢献をする。

アメリカ人少女テオドーラアリスと一緒に撮った写真家宝にし常に周囲に人々に見せびらかしていたという。

新渡戸稲造

アメリカ人女性結婚国際連盟事務次長ジャンヌ・ダルク尊敬していた。

野口英世

アメリカ人女性結婚エクアドル共和国陸軍軍医名誉大佐

出国後、二度と日本には帰らなかった。

夏目漱石

イギリス留学中、黄色人種である自分容貌の醜さに苦しみ神経衰弱肺結核に陥る。

本当はイギリス女性結婚たかった。

樋口一葉

日本女性である自分の醜さを悟り許婚者の求婚拒否肺結核のため25歳で死去。

死に際の床でも来世は白人女性に生まれることを願っていたという。

2018-12-12

anond:20181212095224

自衛官の上の方やら軍医は高度な強要過酷幹部過程を経た、心身ともに鍛え上げられた精鋭なわけですが。

しかもごく少数。

売春婦にそんな過程あるの?


第一生保以下なら生保受ければいいだけだろ。

2018-07-12

anond:20180712002127

明治時代と言えば。千円札の人は、イギリスに行っても、英語通じなくて、ウツ(?適応障害?)になって帰って来たんだったよな...。

一方、軍医の人は、恋仲に落ちて、はらませたんだったか

2018-07-05

anond:20180705191852

軍医なんていらない

戦場で負傷した自衛官には「動けないサイヤ人など必要ない」と

頭に小銃弾を撃ち込めばいい

実際負担なんだから普段障碍者に言ってる安楽死をすればいいだけなのに

2017-05-19

原因・背景[編集]

1871年(明治4年)10月宮古島から首里年貢輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民現在台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落拉致された。

先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年明治5年琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡島村現在岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。

開戦準備へ[編集]

副島種臣

宮古島台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在アメリカ合衆国総領事チャールズルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人懲罰するべきだ」と日本外務省提唱した。

初代龍驤台湾出兵旗艦であり副島種臣大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。

孟春(砲艦)は三本マストスクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。

外務卿副島種臣はデロングを仲介しルジャンドル会談、内務卿大久保利通ルジャンドル意見に注目し、ルジャンドル顧問として外務省雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。

1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年明治7年)4月、参議大隈重信台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。

明治六年政変における明治天皇勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的企画したのである

台湾での戦闘[編集]

西郷従道

台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に参議木戸孝允らの長州系は征韓論否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日木戸参議辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。

台湾出兵時の日本人兵士

水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]

国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日谷干城赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵大隊砲兵一小隊出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。

5月6日台湾南部上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリア猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。

収拾への交渉[編集]

明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章イギリス駐日大使パークスは当初は日本軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通北京に赴いて清国政府交渉した。大久保は、ルジャンドルフランス人法学者ボアソナード顧問として台湾問題交渉し[7]、主たる交渉相手総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国互換条款互換憑単によると清国遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球日本帰属国際的に承認されるかたちとなった[1]。

帰結[編集]

日本清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年明治8年)、琉球に対し清との冊封朝貢関係廃止明治年号使用などを命令した。しか琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

1879年明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年明治13年)の北京での交渉において、日本沖縄本島日本領とし八重山諸島宮古島中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島領有は望まず、冊封関係維持のため二島琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。

また、明治政府兵員輸送英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。

台湾出兵と熱帯病[編集]

被害[編集]

日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。

軍医部の対応[編集]

1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省から外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。

2016-01-16

[]手塚治虫ふたりの黒い医者ブラックジャックより)」

★★★★★

前置き

4巻1話

あらすじ

金次第でいのちを助けるBJと、金次第で安楽死をとげさせるドクターキリコ

二人が偶然同じ患者相手にすることになった。

患者自身は、我が子にこれ以上負担をかけたくないとの思いから安楽死を望むが、

子どもは、母親を助けて欲しいとの思いからBJになけなしの貯金で手術を依頼する。

BJが手術をし、一度は患者は助かるが、手術後間もなく交通事故で親子ともども死亡。

哄笑するキリコの後ろ姿に、BJは「それでも私は自分が生きるために人をなおすんだ」と叫ぶ。

感想

キリコキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

いやーオラすげーわくわくしたぞ!

最後オチがまた憎い!単純に勧善懲悪?にしないどころか、

安楽死側にも道理があるというありがちなオチを避けて、

結局すべてが無に帰してしまったというどうしようもなく救いがたいオチ!!!

こういうのもなかなかクルね!!!

ポーカーフェイス崩れまくりBJもなかなかおもしろかった!

母親死にたい理由を聞いてるキリコが冷や汗かいてるのを発見した。

キリコキリコなりに何の後ろめたさもないわけじゃないんだなあ・・・

最後BJに、生きもの死ぬ時には死ぬもんだと中空を見つめながら厳しい顔してつぶやくキリコの顔。これが本心なんだろうな。

人間が生きものの生死をどうにかしようなんておこがましいとは思わんかねと同じメッセージ性やなあ

つーかこの話の中でも軍医だったことがきっかだって言ってるしね。

と金額がBJに比べたらめっちゃ安いわ。それもBJと違う点やね。


当時からキリコが一概に悪者とは思い切ることはできなかったけど、今こそキリコにいてほしいなあ・・・

俺も安楽死したい。

しかし4巻1話から飛ばしてくるなあ・・・

自分が生きるために人を治すと叫ぶBJと、哄笑するキリコの対比もすごくいい終わり方だった。

しびれるわ~

あとなんとなーくだけど、ぬーべーと玉藻っぽいなあと思った。ビジュアルも。

ピノコor印象に残ったセリフなど

おまえは 金しだいで いのちを 助ける

おれは 金しだいで 安楽死を とげさせてやる……

似たようなもんさ

生きものは 死ぬ時には 自然死ぬもんだ……

それを 人間けが………

無理に 生きさせようと する

どっちが正しいかね ブラックジャック

また 会おう!

ちくしょう!!

それでも 私は 人を なおすんだっ

自分が 生きる ために!!

ランキング 

1.ときには真珠のように

ふたりの黒い医者

古和医院

ピノコラブストーリー

ピノコ愛してる

六等星

二度死んだ少年

コマドリ少年

勘当息子

焼け焦げた人形

アリの足

はるかなる国から

えらばれたマスク

友よいずこ

めぐり会い

白いライオン

シャチの詩

つの

幸運な男

上と下

U-18は知っていた

なんという舌

の子を殺すな!

閉ざされた三人

報復

目撃者

ある教師と生徒

万引き

タイムアウト

奇胎

からだが石に…

ダーティー・ジャック

2015-10-13

[]ライフ・イズ・ビューティフル

5点/5点満点

________

私なんかが感想を書いていい映画じゃないんだよなあ

序盤はグイドがあまりにも突拍子もないので引いてた

多分ドキドキする系観るの向いてなくて、すごいドキドキして、どうせバレるんだからやめとけ…ってなっちゃ

んだけど、この映画におけるそれってイタリア人のそれで、大した意味伏線も無かった

序盤は何も考えず観て良い物だったんだ、次は落ち着いて観よう

中盤からは昔学園祭かなんかの劇で観た事あったことに気づいた

で、もうめちゃくちゃなドイツ語話してる辺りから涙止まらなかった

なんでかわかんないけど泣いてた

軍医なぞなぞ、すぐに「ユダヤ人」だと分かったけど、それが何を意味してたのか

軍医はただの基地外、悪逆非道人情無しだとも思ったけど、なんか違う…

ネットで調べたけど答えなんか無かった

結局グイド達の待遇も何も変わらなかったので、きっと何の意味も無いんだろうな

それで、主役のグイドを演じたベニーニは監督もやっていたと聞いて愕然とした

まりにも、あまりにも出来過ぎてる…

なんでいままでこんな人の事知らなかったのか、そして少なくとも私の界隈じゃ話題にも上らなかったのか

自分がどんな生き方たらこうなるのかもはや不思議で仕方ないです

ラストジョズエ戦車出会うところ

どうしよう、何も言えない

あんなにも大きな愛と滑稽さ、感じた事もみた事も無い

自分がこの先生きてても、出会えるのかな、

出会えるように生きてくしか無いな、きっと人生は美しいから

2013-06-05

●「インドネシアにおける慰安婦調査報告」倉沢愛子

http://www.awf.or.jp/pdf/0062_p089_105.pdf

1 慰安婦募集過程

インドネシアにおいても、当初従軍慰安婦は、もともと売春生業としていた女性たちを中心に募集された。

しかしそれでは十分賄うことができず、やがて一般の女性から募集された。

人種的な近似性のゆえに、バンカ島のマルガレタ(ホ・スイ・リウ)さんのような中国系の女性が好まれたようであるが、絶対数が少ないので、圧倒的多数はプリブミの女性であった。

ジョクジャカルタのマルディエムさんのように一部の慰安婦都市部から選ばれたが、多くは村落社会から募集された。

Ⅰでも述べたように、名乗り出ている女性たちの中には、日本人将校現地妻だった者、強姦された者なども数多く含まれている。

そこで面接に際しては、本来の意味慰安婦、すなわち軍が管理する慰安所一定期間置かれて、繰り返し性的な相手をさせられた者、

という範疇にあてはまる女性だけを選別してもらうよう頼んだ。

しかし、にもかかわらず、われわれの予想に反して、40名の中にはさまざまなタイプ女性が混ざっていた。

中でも多いのは、どの部隊の者も利用できる公的な慰安所ではなく、特定の部隊が独自に女性を集めて自分たちだけが利用した私設の慰安所のようなところ(正式には慰安所という用語は使用していないが)で働かされた者である

多くの場合それは、軍の兵舎建物や、軍が運営している特定の工場の内部などに女性を多数住まわせ、将兵が必要に応じて「活用」するという形であった。

(略)

「強制」とはいっても、実際日本軍将兵が銃を突きつけてというようなケースは、厳密な意味での従軍慰安婦募集の場合にはむしろ少なく、

以上述べたような行政機構村役場を通じての半強制が行われていたというのが一般的であろう。

それに対して、「準慰安婦」の場合には、日本軍将兵が個人的に女性を「手込めにする」あるいは、上官の個人的な命令を受けて「女狩り」に行く、

まり、実際に軍人が直接手を出して連行したというケースが多かったようである

この場合は、村から町に働きに出ている女性が帰り道を襲われるというようなケース、

あるいは、両親が仕事で出掛けていて1人で留守番をしている間にさらわれるというようなケースもみられる。

2 軍管理慰安所の状況

兵隊たちは、慰安所の入口で「キップ」を買って「有料」で慰安所を利用するわけであり、慰安婦にも、客の数に応じて収入が入ることになっていた。

しか彼女たちの訴えによれば、多くの場合その報酬は未払いになっていたという。

ただし、食事、衣装化粧品などには事欠かなかった。周辺にいた証人たちの証言によれば、その生活は豊かで華やかでさえあったという。

しかし問題は金銭的、あるいは物質的なことではなく、ほとんど自由を束縛されたうえ、1日に何人もの客を強制的に取らされ、からだが疲弊してしまったことである

多くの女性健康を害している。

ただし性病に対しては、日本側も非常に敏感になっており、必ずコンドームの使用が義務づけられていたうえ、毎週定期的に軍医衛生兵による検査が行われた。

しかしそれ以外の健康管理は十分に行われていなかったようである

しかコンドームの使用を義務づけていたにもかかわらず、マルディエムさんのように妊娠する者もいた。

そのような場合には強制的に堕胎を強いられたが、中絶は罪悪であると教えられてきたイスラム教徒彼女たちにとって、それは精神的な重圧であった。

3 私設慰安所場合

それに対して、「準慰安婦」たちが入れられた、軍の兵舎内や工場内の私設慰安所場合は、いろいろな意味環境もっと悪かったようである

「準慰安婦」の場合は、いわば、その部隊の将兵が女性拉致してきて、そのままうむを言わさず自分たちの欲望の捌け口として使ったわけであるから

これらの女性存在は軍司令部には秘密であったと思われる。

そのため、慰安婦に一般に与えられていたような、健康管理のための措置もなされなかった。

すなわち妊娠性病を防ぐためのコンドームの使用もおそらく義務づけられてはいなかったであろうし、

軍医衛生兵による定期的な健康診断もなく、性病蔓延に対する衛生的な措置はなんらなされていなかった。

また、彼女たちを利用する日本軍将兵は、正式の慰安所場合のように「キップ」を買ったりはしていない。

従って女性たちはもちろん何の報酬も受けていない。

それどころか彼女たちのための正式な食料、衣料品供給さえなかったようである

従って多くが、食事はありあわせで、時には1日1食であった、などと述べている。

2013-05-29

慰安婦がいたことを否定しているのはただの馬鹿なんだけどなぁ。

少なくとも戦前には「慰安婦」ってのは合法だった。

「軍に連れ去られた」とかその手のが気になるって話なんだよね。

で、そうなるときちんと精査する必要があるわけで。

年齢があやふやって事は、「慰安婦であった事」は嘘ではなくても、他の証言の信頼度は落ちるだろうって話なんだよね。

強制連行された年が不明って事は、それ本当に「日本軍だったの?」とか。

 

http://tanakaryusaku.jp/2013/05/0007159

2013年5月25日 19:50

 始めにマイクを握ったのは金福童(キム ボクトン・88歳)さん。金さんの次に吉元玉(キル ウォノク・86歳)さんが話した。金さんは自らの体験を詳細に、吉さんは自らの体験には触れずひたすら平和世界遍在する戦時暴力に対する解決を訴えた。

 「満14歳の時、軍需工場に行くと言っていたのに、着いたのは日本ではなく戦場、遠い暑い国だった。そこで私は日本軍奴隷となった。台湾を始め、中国の広東に着いた時は陸軍軍医が身体を調べた。そこでは何人入るのか知っていて、私達の部屋が用意してあった」。

「満14歳」

ここだと年齢は88歳か。

 

http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-05-20_49450

 旧日本軍慰安婦」で韓国人の金福童(キムボクトン)さん(87)が18日来沖、西原町内で大学生らとの交流集会に臨んだ。その後の記者会見などで金さんは、日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長の一連の慰安婦発言を批判し、謝罪を求めた。

 

 金さんは14歳のころ、旧日本軍に「軍服を作るために日本へ行く」と日本統治下の韓国から連行された。アジア各地の前線を転々とし、8年間、「慰安婦」を強いられた。

http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-05-20_49447

 「国家による性暴力に遭い、人権を踏みにじられた少女のことを知ってますか」。韓国人の元「従軍慰安婦」、金福童(キムボクトン)さん(87)が、舞台の上から慰安所」での生活を語り始めると、会場は静まり、地をたたく雨の音が響いた。

 

 金さんが14歳のころ旧日本軍に連行された場所には、複数の部屋を備えた慰安所があったという。金さんは「日本政府民間人慰安所をつくったとしているが、(戦時下の)民間人があのような慰安所を準備できただろうか」と軍の関与を指摘。「日本政府うそをつかず、公式に謝罪してほしい」と訴えた。

「14歳のころ」

年齢が87歳か。先の88歳が数え?

 

あと名前でチェック

元日本軍慰安婦・金福童さんの実名記録が発見

 生存する日本軍従軍慰安婦被害者実名記録が初めて発見された。

 韓国挺身隊研究所カン・ジョンスク研究員国家記録院の軍人軍属資料を調査途中、従軍慰安婦被害者の金福童(キム・ボクドン)さん(79)の実名記録を発見したと11日、明らかにした。

 名簿に記載されている金さんの本籍や生年月日などの内容が挺身隊研究所1997年に発行した『強制連行された朝鮮人慰安婦たちの証言2集』に収録された金さんの証言と一致するという。

 今回発見された軍属名簿は、1947年9月作成されたもので、「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」と書かれている。

 この記録によれば、1945年8月31日、当時19歳だった金さんが南方軍第10陸軍病院軍属の中で最も低い職級にあたる「傭人」として採用されたとされている。金さんは97年の「証言集」で「15歳で連れて行かれ中国の広東、マレーシアインドネシアシンガポール日本軍慰安婦として生活した」と明らかにしている。

結論がおかしな方向になってるなぁ。元記事が消えてるので、コピペで失礼。

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2005/01/11/20050111000084.html

http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2005/01/12073703/ コピー

「15歳で連れて行かれ」

つの間にか年齢が1歳変更されているようです。なんではてぶでこの修正は指摘されないんですかね?

 

http://togetter.com/li/509975

従軍慰安婦の証言を聞くときには「数え年」にご注意のまとめ

年表

1925年 数え 1歳 誕生(満0歳)

1938年 数え14歳 慰安婦徴用される(満12~13歳)

           数え8年間(満6~7年)勤務

1945年 数え21歳 終戦を迎える(満19歳)

2005年 数え81歳 第16軍名簿が発見される(満79歳)

2012年 数え88歳 来日講演(満87歳)

2013年 数え89歳 沖縄タイムス記事(満87歳)

ところがここで本人談の「満14歳」が再び「数え14歳」で計算されるという、摩訶不思議な現象が発生。

15歳が14歳に変更が「数え年を満年齢に修正」じゃないんですかね?

で、最初引用では年齢が88歳。去年が88歳で今年が89歳? あれ? 一番最初に取り出したページ書いたのは「今年の講演」。

まぁいいや。来日公演の年2012が間違いだったんでしょう。とりあえずそうしておきましょう。

 

所で、「国民徴用令」は

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%BE%B4%E7%94%A8%E4%BB%A4

1939年ですね。

彼女も親がキーセンに売ったとかじゃないんですかね?

 

まぁいいや。今度は満年齢で数字適当に合わせ込んでみると

年表

1926年 満 0歳 数え 1歳 誕生

1940年 満14歳 数え15歳 慰安婦徴用される

1945年 満19歳 数え20歳 終戦を迎える

2005年 満79歳 数え80歳 第16軍名簿が発見される

2013年 満87歳 数え88歳 沖縄タイムス記事

やった! こんな感じで考えれば年齢がきれいに一致したよ! 国民徴用令もぴったり一致だ!

じゃぁ、後は8年間慰安婦を強いられたって期間だね!

 

  • 1940 数え1年
  • 1941 数え2年 1年間
  • 1942 数え3年 2年間
  • 1943 数え4年 3年間
  • 1944 数え5年 4年間
  • 1945 数え6年 5年間
  • 1946 数え7年 6年間
  • 1947 数え8年 7年間
  • 1948 数え9年 8年間

 

8年「間」だとやっぱり足が出る。数えでいっても6年。

 

そもそも慰安婦募集広告を見ると、17歳とか18歳とかで募集。数えでこの年齢なので、満年齢だと15歳以上くらいか

吉原遊女の事例だと、客取るのが17歳。数えだとして15歳以上。同じ条件だね。

二次性徴終わって数年経ってるくらいなので、まぁこれくらいなら不思議ではない。

ところが最初Togetter だと満12歳か満13歳で慰安婦になってることになる。ロリコンだね。

 

適当数字いじってみたかっただけなので、ここで投げっぱなしで終了。

2013-05-13

日本住基ネット批判論者も遁走しそうな、韓国徴兵データベース

http://anond.hatelabo.jp/20130513233029

日本左派な人々は、「住基ネットがお嫌い」「政府によるプライバシー侵害がお嫌い」な割には「韓国がお好き」な方が多い。

そういう左派な方々は、韓国徴兵制データベースを見たら、卒倒しちゃうんじゃないか、と心配である

韓国は、先進国では数少ない徴兵制導入国家なので、成人男性に関するデータベースで、各市民の基礎情報をパーフェクトに管理している。

徴兵検査健康検査データは、これは徴兵検査不正がないかどうか、という観点から、しっかりと管理されている。

と同時に、その市民資格・特技もデータベースに入っている。

というのは、例えば医師資格を持った徴兵者は軍医に配属させ、語学が達者な徴兵者は、在韓米軍との連絡役に配属する、というように

適材適所配置」をしているため、市民データ資格特技タグを付与することになる。

そして、「思想的に問題ないか?」「精神異常ではないか?」という記録も、しっかりデータベースに残される。

さらに、徴兵期間24ヶ月間の素行等が、しっかりとデータベースに残される。

体力的にどうだったか、気力はどうか、問題言動はなかったかリーダーシップはどうだったか・・・

先述の通り、二等兵一等兵上等兵兵長、と出世していくのだが、この出世も無条件じゃなく、

出世させていいかどうか?」を上官が判断する。(なので、出世に速い遅いが出てくる)

その際の「上官の判断・コメント」も、しっかりデータベース管理されている。

ここまでがんじがらめな個人データベースが、お隣の国存在するってこと、

日本の住基反対論者が知ったら卒倒しそうだし、

韓国徴兵データベースと比べれば、日本の住基データベースマイナンバー制度なんて、

甘ちゃんも甘ちゃん、大甘である

2011-11-18

別れ 井上靖

河北省の京漢線・元氏駅の土間で、私はアンペラの上に仰向けに倒れていた。銃一挺を抱くように持ち、外套を頭から被って、眼を瞑っていた。

この何日か、衝心性の脚気の発作が烈しくなったため、今朝、雪の中を南下、行軍して行く部隊と別れて、この元氏駅で北上して行く列車を待っている。列車に石家庄駅まで運んで貰い、そこで下車、最近設けられたと聞く石家庄野病院入院する。

──これが自分が選んだ自分を生かす、ただ一つの道であった。これ以外、生き得る方法はなさそうであった。部隊の軍医も、看護兵も、また同じ意見であった。

私が仰向けに倒れている元氏駅には、中年歩兵上等兵駅長として、これまた一人、アンペラの上に胡坐をかいたり、そこらを歩き廻ったりしている。駅長と言っても、他に駅員が居るわけではなく、ただ一人、駅に配されている。

一日に三、四本入って来る軍用列車を迎え、送り、それをどこかに、電話で連絡するだけの仕事を受持っているようであった。

夕方、彼は病兵の私のために夕食の支度をして、飯盒と罐詰を持って来てくれた。その時、二人は初めて、壊れかかった石炭ストーブに手をかざしながら、言葉らしい言葉を交した。

──夜、七時過ぎには、一応列車は来ないことになっているので、七時になると、俺は俺で、そこらの壕に入る。壕の方が、幾らか寒さは防げる。お前さんも、好きなようにしてくれ。このまま、ここに居たければ、ここに居ればいい。

──ただ、どこへ行ってもいいが、臨時の列車が来ないものでもない。臨時であろうと、なかろうと、上りが来たら、お前さんは、それに乗ることだ。おとなしくしていたら乗れない。しがみついてでも、乗っちまうことだ。

──そうしないで、こんな所でうろうろして居てみろ。お前さんの場合は、いいところ三日で、まあ、お陀仏だな。

そんなことを喋っている時、遠くに銃声が聞えた。

──ああいうのは、大丈夫毎日、今頃になると、撃ってくる!撃たしておけばいい。近寄っては来ない。だが、すっかり昏れてしまうまでは、線路の向うには行かない方がいい!

駅長は言った。

いつも、お前さんはここに一人か、と私が説くと、

──ここに来て、まだ五日ほどだ。咋日までは、自分の隊から離れちまったのが、四、五人、ごろごろしていたが、それぞれ、みんな、昨日のうちに、列車で、前線の己が部隊へと向った。すると、替って、今日はお前さんがやって来た。病人でも、まあ、居ないよりはましだ。

実際に、病人であろうと、なかろうと、居ないよりはましであるに違いない。こんな大平原のただ中の、ちっぽけな駅に、一人で置かれたら、気でも狂う以外、どう仕様もないだろうと思う。

結局、夕近くなると、二人は駅の小さい建物から出て、その横手に掘られてある帯状の、細長い塚の中に入った。かなり深く掘られであるので、待合室に居るより、寒さは多少ましだった。

それに、列車が来れば、すぐその音が響いてくるので、そこから直かに、ホームに上って行けばよかった。

二人は、それぞれ、壕の中に己が寝所を造り、身を横たえて、外套をかぶった。いつか、雪はやんでいる。どれだけの時間が経ったか、知らない。

──おい、起きろ。

その声で眼を覚した。

──夕焼がきれいだ!こんな夕焼は、めったに見られるものではない。こんな所に、ばら撒かれていればこそ、こうしたものにも、お目にかかれるというものだ。まるで、天の火事だ!

私は黙って、夕焼を見ていた。駅長が騒ぐだけあって、西の空は真赤に焼けただれ、それが大きく拡がっていた。確かに、今までに見たことのない、壮大な天の火災であった。今朝、別れた部隊は、どこで、この天空大火災を見ているのであろうか、と思った。

それから、また眠った。

その夜、十一時、北上する臨時の貨物列車が入って来たので、壕を飛び出した。いつからか、また雪が降っている。待ちに待った列車に乗り込もうとしたが、容易なことでは乗り込めなかった。雪をかぶった無蓋貨車で、どの車輌にも、やたらに梱包が積み上げられてあり、何人かの応援でもない限り、そこに身を移すことはできなかった。

駅長はホームを駈け廻り、私を乗り込ませる車輌を物色し、自分も半ば、それに乗り込むようにして、私を引き上げたり、押し上げたりして、どうにか私を、車輌の一つに乗り込ませてくれた。

列車が動き出してから、私は世話になった駅長名前も、所属している部隊名も聞いていないことに気付いた。気付いた時は、もう遅かった。駅長は、長い、これほど長いとは思わなかった、長いホームに一人だけ立って、手を振っていた。“孤影”とは、この時の、彼のために造られた詞であった。私もホームに向って、手を振ったが、私が手を振るのが、駅長の眼に入ったか、どうか。

私は、私の八十年の生涯で、“別れ”なるものを一つ選ぶとすると、昭和十二年十一月の、この元氏駅に於ける、深夜の駅長との別れということになる。私はある時、ある所で、ある人と別れたのである。本当に別れと言える別れを、異国の小さい雪の駅で経験したのである

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