はてなキーワード: 車掌とは
私は山手線に乗って、疲れきった体を椅子に預けて携帯を眺めていた。
新宿駅にたどり着いた電車から大勢の人が降り、その後マレー系のお母さんがベビーカーに子供を乗せて乗車した。
なぜマレー系かわかるかって?あの顔つきと肌色でヒジャブをまとっていたからに決まっている。2年間、シンガポールのころごまんと見ていた人の姿だ。忘れることもあるまい。
とにかく、彼女は子供と一緒に電車に乗り、旦那さんと思われる人が外からスーツケースを手渡し、中に入れ始める。
スーツケースが一つ入ったところで、ドアが閉まる。
母は大慌てでとっさに腕をドアに差し出したが、間一髪で逃し、ドアは冷たく閉じられてしまった。
ホームで見かねた誰かの所業だろう。非常停止ボタンが押された。
母はとても困った顔をしていたので、電車の中にいた私は拙い英語で、とにかく通じればいいなというレベルで彼女へ声をかけた。
「Send the message to him that you can ride next train what should come in 3 mins so far.」
(3分後に次の電車が来るから、旦那さんにそこに乗るようにメッセージしてね。)
「You'd better to ask staffs to help you in next time。They can help you.」
彼女の表情が和らぎ始めた。英語わからなくても、私の意図は少しは伝わったのかなと思った矢先だった。
私も彼女も初めて出くわす場面だが、手慣れているだろう。ドアを外からこじ開けようと力む姿が見えた。
スーツケースを入れてもらうのかな。
とにかくうるさいブザー音を消してくれとばかり、心の中で思っていた私が次に観た光景は、そんなことどうでもいいと思わせるようなものだった。
駅スタッフは、ドアをこじ開けては電車に乗り込み、ありったけのしかめっ面で、母とベビーカーを引きずり下ろした。当然スーツケースは眼中にない。
それもそうかも。何せ車いすのスペースに突っ込んだわけだし、その荷物が隣に立っていた人のものかもしれない。母の携行品はベビーカーしかないと思われても仕方はない。
それでも、荷物はただそこに置かれてあっただけ。
荷物は無事に外に母と一緒に追い出され、ドアは閉まり、駅スタッフは「一つの仕事をやっつけたぞこの野郎」と言わんばかりに、安全確認終了を知らせるランプを高く振りかざす。
これは、一日利用者数世界一を記録している駅で起こった、外国人観光客が起こした小さなトラブルだった。
仮にも世界一の駅スタッフが、観光客をマニュアル通りに、いつも通りに追い出すのか。
彼女がその時感じたであろう感情がどうだったか、想像すらつかない。
旅行って、旅っていつもそうだ。
どこかしらで必ずトラブルは起こる。
喧嘩だってするかもしれないし、財布だって落とすかもしれない。
はたまた決まったはずの宿が決まってないかもしれない。
今まで述べたトラブルと比べたら、電車一本逃して一行とはぐれるなんて、些細なものに過ぎないだろう。
その記憶が後で振り返ったとき楽しいハプニングとして残るか、散々な目に会ったという苦い思い出として残るかは、その場そこにいた人達がどう接したかにかかっている。
彼女(とその家族)は須らく、その類の数知れないトラブルのうちの一つを、須らく経験してしまった。
少なくともこの国の誇る鉄道の、いちばん誇らしい駅のスタッフは、間違いなく彼女に後者の印象を植え付けたのであろう。
なんてことを思う間にふと考えた。
仮にもオリンピック公式輸送スポンサー企業のスタッフがこんな対応でいいのか?
もしかしたら、彼女が私のアドバイス通りに、あらかじめ対応ができたら、駅スタッフだって乗車案内できたはずだ。
彼女は頼るすべを知らなかっただけ。
できるはずのことができないのは、観光客に対するおもてなしが全くできていないという証拠であろう。
いくら上っ面だけ広告宣伝に金を落としたところで、こういう実務的対応一つままできず、塩対応してしまっては元も子もないだろう。
今日の夕方ごろ電車に乗っていたら途中の駅で全身が虹色の女性が乗り込んで来たその女性は20代にも40代にも見え手に持ったフライパンを海にかざし呪文を唱えてクジラ達を追い払った横で初期型のPSPをプレイしていた中年男もその時ばかりは館内放送に耳を傾け一字一句聞き逃すまいと手の甲に爪を押し当てメモを取っていた床に横たわっていた幼児は目を見開いたまま日本国憲法を暗唱するばかりでここだけ閉園間際のディズニーシーのように感じたあるいはいつも夢に出てくるティッシュボックスのお化けが私にだけ教えてくれた情報によれば皮膚の表面にいる細菌が汗をかきそれが蒸発して歯が抜けるというでもそれはある種のプラセボ効果に近いもので今回の場合緊急脱出装置が作動しなかったことで6分の1の炭の塊になった車掌のTwitterアカウントに書かれていた内容を朗読してカセットテープに吹き込んだものだと思う
まず真っ先に父親ではないと言うべきだろ。それか「隣に座っているお子さんが吐いてしまって」みたいな言い方で匂わすとか。そして、不快なら車掌を呼んで席を変えてもらうとか。隣りに座ってただけのあなたは何も悪くないんだから。
こういう案件で父親じゃない等を主張すると相手の性質によっては例えば嘘つき呼ばわりされて別な騒ぎになるし、
よりめんどくさい案件にしたくないのなら車掌さん相手みたいなちゃんとした場での宣言以外ではもうとりあえず処理に専念するってのは選択肢としては有りだと思うが
名古屋から東京に向かう新幹線の中で、俺が一番窓際の席、その隣に小学生低学年の子どもが一人、通路側に若い女性が座ってた。
女性はトイレか何かに立って、横浜に着く前くらいに突然に子どもが嘔吐した。
俺めちゃくちゃ焦ってハンカチを子どもに渡し、吐しゃ物が広がらないように着替えと一緒にタオルとか出して処理した。
子どもは依然として調子が悪そうにしているし、前後の席の人に「子どもが吐いてしまったので、荷物が汚れないように気を付けてください」って伝えた。
そしたら「父親なら早く片付けて!」ってヒステリック気味に後の婆さんに言われた。
誰の子か分からんし、まだ調子が悪そうだったから無闇に離れるわけにもいかんし、前の人に車掌さんを呼んで下さいと伝えたら蔑んだ眼で「お子さんにこれ使ってください」ってチリ紙をもらった。
一生懸命にチリ紙で処理してたら女の人が帰ってきて、少し汚れたカバンを見て「うわっマジ?クリーニングってしてもらえるんですか?」って言われたが、俺はこの子の父親じゃない。
そしたら汚物を見るような目で見られて、諦かに態度が面倒な人になってた。
俺は一生懸命に吐しゃ物を処理するも、女の人は鼻をハンカチで抑えながらずっと席に座ってた。
通りかかった車掌に子どもが嘔吐した旨を伝えたら、子どもに「大丈夫?」って声をかけた後に、すごい眼力で睨まれて「お父さん、処理するので席を空けてください」って言われた。
繰り返すが俺は父親じゃない。
車掌に父親じゃない旨を伝えたら「どこにいるんですか?」って言われたけど俺が知るわけねーじゃん。俺はたまたま隣に座って、みんなが困るだろうから吐しゃ物を処理しただけの乗客だ。
車内放送で父親を呼び出してもらったら「どいてください」って言われて、そのままどっか言っちゃった。
品川で汚れたタオルとか捨てたが、決して誰からも労われることはなかった。
ありがとうって言われるためにやったわけじゃないけど、誰だって車内空間が不快になるのは嫌だろうに。
しかし誰かがやらねばならんだろ。
なんか分からんけど始終胸糞が悪かった。
誰も手伝ってくれない上に新幹線の車内の視線は正直めちゃくちゃ辛かった。
親も何か事情があって別々の席に座らないといけなかったと思うんだけど、頼れる大人がいないってのは寂しいもんかもしれない。
どーでもいいけど訪日フィリピン人向けにタガログ語とかビサヤ語に書類を翻訳したりしてます。
イブに増田にいる=安心のSamahang malalamig ang paskoな身分です。
頂いた温かい気持ちは遠い日本に来て寂しい思いをしているフィリピンの方々に向けたいと思います。
ありがとうございました。
Malipayong pasko ug bulahang bag-ong tuig!
Maligayang pasko at manigong bagong taon!
低能先生がなぜ凶行に及んだかっつーと凄く単純な話で、社会の中に居場所がないくらい人と関係を築く能力がなかったからなんだよね。誰ともマトモな関係を築けないような奴でも、誰かに拒絶されたり共同体から排除されたりすると傷ついたり恨んだりするんだよね。その原因が自分にあるとかは関係ない。
拒絶されて排除されて当然な最低な人間が当たり前の拒絶されて排除されて、最終的に人が一人死んだということは忘れるべきではないと思う。誰も低能先生に触れるべきじゃなかった。皆が完全に無視すべきだった。まるでそこにいないかのうように扱うべきだった。もっといえば、はてながそのような機能を作るべきだった。
そうすれば誰も死ななかったのかというと怪しいもんだけど、少なくとも低能先生が誰かを殺すに至るまでにもっと時間の猶予が生まれたように思う。
エア車掌とかインディーズ系車掌とか言われる人達にあえて誰も構わないように、低能先生のような人にも触れるべきじゃないのだと思う。
アナウンサー学校の授業のように妙にはっきりとした発音で「あ」と発した正面の座席の女子中学生は、顔面からバタンと倒れて動かなくなり車内は一瞬で鎮まりかえった。彼女の隣に座っていた警察官風の男が慌てて窓を開けると、床に散らばっていたプリント類が窓の外に吸い込まれ、紙吹雪が車窓を通して一枚の襖絵になった。もし10年後にこの日の事を思いだすとすれば、この瞬間のこの光景かもしれない。私は涙が止まらなくなり、隣の人にリュックサックを預け、車掌を呼びにその場を離れた。2つ車両を移り一番先頭のダクトテープで完全に密閉されていた車掌室に着く頃には、時計の針は午後4時を指していた。やはり車両が前に行くにつれて時間の進みが早くなっている気がする。電車の進むスピードを考慮に入れても、明らかに加速している。一抹の不安を抱きながらエレベーターで地下4階に降りると、かつて駐車場だった場所にはミニサイズの遊園地ができていた。小さい頃に一度だけ行ったことがあるが、その時は一番の幼なじみだった友人が取り残された。今もあの時のままの姿でいるかもしれない。ブルーベリーに含まれる鉄分が有効だと一般的に言われていたが、それらの資源は20世紀前半にほとんど彫り尽くされてしまった。やはり最初の段階で心音に耳を澄ませておけば良かったと後悔している。これが今日のハイライト。
作家のマーク・トゥエインは、禁煙について書いてはいるが、このジョークを言ったというたしかな証拠はない。
コメディアンのW. C.フィールズは、1938年に「禁酒講義」というラジオ番組で、「禁煙」ではなく、「禁酒」バージョンのギャグを言っている。だが、禁酒バージョンのギャグは、これよりも前にすでに広まっていた。
最も早い事例は、1907年に、ハリス・ディクソンによって書かれた“Duke of Devil-May-Care”というタイトルの小説である。その小説には「ポーカーをやめるなんて簡単なことさ。俺はゲームが終わるたびに、1000回以上もやめているぜ」みたいなセリフがあるという。
マーク・トウェインと禁煙ジョークの関連を調べてみると、1914年に、友人のエリザベス・ウォレスという人に、禁煙をしたいという手紙を書いたらしく、そのときの手紙が「マーク・トウェインと幸せの島」というタイトルの短い伝記に書かれているが、ここで書かれているユーモアは、例の「名言」とは異なるものである。
禁酒法がまだ行われている間の1929年に、ネブラスカのオマハ・ワールド・ヘラルドという人が書いている。「ハリーは酒をやめると言うが、笑わせるぜ。酒をやめられないことなんてないぜ。なぜなら俺自身、もう100回以上も禁酒しているからな。酒をやめられるかやめられないか、これでわかるだろう」
1932年に、鉄道が刊行している“Norfolk and Western Magazine”という雑誌には、禁煙についてのジョークがある。
「車掌のキャンベルは、たばこをやめたと言った。スチュワートは言った。「たばこをやめるのは簡単だよ。私は少なくとも100回はやめているからね」」
1935年の“The American Legion Monthly”の中に、酒でトラブルを起こす製材所の従業員を、主任が解雇させようとしたという、やや長いジョークがある。
「じゃあ何で私が解雇されなきゃならないんです?」
「仕事中に酒ばかり飲んでるじゃないか。そんなことでは、人も殺しかねないぞ」
「それならわかりました。なに、お酒をやめるなんて簡単なことです。実際私は、この10年で1000回以上もやめてきましたから」
1936年の“The Southwestern Sheep & Goat Raiser”という雑誌に、いま知られているジョークと非常に近いバージョンのジョークがある。
先日、友人の一人が私たちに、禁酒なんて簡単なことだと言った。「私はもう1000回もしているからね」
1938年、W. C.フィールドは、「禁酒講義」というラジオの中で、こんなジョークを言っている。
禁酒できないなんて言わないで。簡単なことさ。俺はもう1000回もしている。
1938年10月に発行された“Scribner's Magazine”では、「私、たばこやめます」という記事を発表した。
ある若者が、医者から禁煙するよう命じられたが、それができないと不平を言ったところ、年をとったテキサス州民がパイプを一服しながら答えた。「禁煙なんて世界で最も簡単なことさ。俺はもう1000回もしている」
マーク・トゥエインと禁煙ジョークとの関係が最も早く表れるのが、1938年12月の“Journal of the American Medical Association”.である。彼が1910年になくなってからだいぶ後のものだが、この中に「マーク・トウェインは、これまでしてきた中で禁煙が最も簡単なことだ、なぜなら1000回もしてきたからだと言った」とある。つまり、マーク・トゥエインと禁煙ジョークは、彼の死後になって結びつけられたのである。
1941年に、カリフォルニアの新聞のコラムニストに、酒飲みが理由で解雇された人のギャグがある。
「あなた、酒飲んでるでしょう。仕事中に飲酒すれば、人を傷つけたり殺したりしかねません」
「わかりました。ではお酒をやめます。お酒をやめるなんて簡単ですよ。実際私は、この2,3年で少なくとも1000回はやめましたから」
これは、先の1935年の製材所の従業員が解雇されたときの話とまったく同じである。
1945年のリーダース・ダイジェストで、マーク・トゥエインの名言として、「禁煙は、私がこれまでしてきた中で最も簡単なことだ。なぜなら1000回もしてきたからである」が掲載されている。
https://note.mu/inuningen/n/n6deeba36893b
「痴漢撃退に安全ピンを巡る賛否」が大荒れするなか「ボールペンを使おう」や「痴漢撃退ハンコの開発を求む」の提案がされる流れ
https://togetter.com/li/1357444
以前、痴漢に対して、安全ピンで刺す形で対策するという方法が提唱されていた。
この問題について、男性側の立場に立った「冤罪の場合もあるのでは?」との問いかけに対しては、「そもそも痴漢しなければいいだけ」「あからさまな時にしか使わない」のような解答が見受けられていた。
おそらく、女性視点では、「冤罪?何言ってんだこいつ」くらいにしか思えないのだろう。
なぜなら、普通の女性が普通に生活していて、怪しまれたり、警察に声をかけられたりする経験がほぼないからだ。
一方男性側は、普通に生活しているだけで、警察沙汰になることもままある。
その一つの例が今回話題になっている、娘をあやしている父親が誘拐犯だと思われて通報される事件である。
職務質問についても、男性の3割程度が経験しているのに対して、女性は10%未満という数字もある。
しかし、その内訳は、男性では30.6%が経験アリなのに対して、女性ではわずか8.5%と、女性はほとんど職務質問を受けていないことが判明した。
つまり、女性は「よっぽどのことがないと犯罪者だと思われることはない」という認識を持ちやすいため、冤罪に対する危機感が乏しい。
一方で男性は、何も怪しいことをしていなくても、怪しまれてしまう可能性が高いため、冤罪に対して危機感を覚えがち、という構図がある。
痴漢問題については、これを男女とも理解したうえで議論するのが重要である。
・安全ピンが心の支えになるなら持っていること自体はいいと思う(が、極端に人が乗っていない場合を除き、防犯ブザーや痴漢ヘルプカードなどのほうがよいのではないかとも思う)
・「安全ピンを指す」前に、「痴漢を避ける」(女性専用車両に乗る、常習者がいる時間をずらすなど)、「周りの協力を得る」(警察や鉄道会社がベターだが、協力してもらえそうな同乗者にヘルプを出す)といった策を先に実行してほしい
・女性が感じている以上に、普通の男性が冤罪の恐怖におびえていることを理解したうえで議論してほしい
https://www.pref.kyoto.jp/fukei/anzen/mamoru/helpcard.html
また、周りの男性(男女問わずではあるが)も、痴漢をしている男を見かけたら、自分で対処できなくても警察や車掌に相談するなどしてできるだけ被害者を助けてあげてほしい。
別の観点でいうと、安全ピンで撃退するというのは痴漢被害者側にもリスクのある行為だと思う。
これは傷害罪に問われるとかそういう話ではない。
登戸の事件や京アニの事件を見ていて思うのは、「無敵の人」と呼ばれるような、自分はもうどうなったっていいという人間は世の中に一定数いるということである。
安全ピンを指した相手が、通勤中のサラリーマンのようなある程度立場のある人間であれば、運がいいかもしれない。
だが、もしその相手が「無敵の人」であり、安全ピンを指すといった行為(これに限らず私刑全般)によって逆上した結果、より強力な刃物で攻撃にかかったり、社内でガソリンをまき散らして火をつける人間である可能性だってゼロではないのだ。
お盆や年末年始を帰省に当てるご家族のみなさんには全員分の座席指定券を買ってほしい。
「人が来たら移動するから」じゃない。正当の券を持つ人が、子供が座ってるから他の席に適当に移動したら、移動した席の券を持つ人が「自分の席に誰か座ってる!」とご立腹になることがめちゃくちゃ多い。
頼むから人数分の席を買ってくれ。もし子供が座らなくてもベビーカーを置くスペースだと思ってほしい。
ちなみに大きいスーツケースやベビーカーを持って座る場合、進行方向向かって一番後ろの席を指定すると、椅子と壁の間にスペースができるからそこに荷物を置くといい(ワンポイントアドバイス)