はてなキーワード: 踏み込むとは
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1313124
この話の続きだよ多分
ブクマが盛り上がってるけど、返信がしづらい100文字ばかりのインターフェースで何が語れるってのか
長くなったので結論を先に書くと
って感じ。それぞれ細かくやってみるか
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そもそも3歳児に性欲があるかどうかって点が論点になってるのが見受けられる
KAN3 自分は幼稚園児の頃から十分性欲あったのでこの主張はもっともなものだと思う。好奇心で見ているだけに違いないと言っちゃう人は想像力がない。
maidcure 成人してやっと性に目覚めた人もいるんですよ
kathew 幼児期に性欲が微塵もなかったので正直に言ってよくわからない。トップブコメに大量に星が付いてるけど、みんなそんなに幼児期の頃から性欲があったの?それとも自分にはなかったけど想像力で共感してるだけ?
こういうのは個人差なのかもしれない。で、個人差があるのであればなおのこと、
よく知らない他人の内面に踏み込むのはやめたほうがいいだろう。たとえそれが3歳児でも。
性欲でじろじろ見る子もいる、好奇心で見る子もいる、安らぎを求めておっぱい触る子もいる。
RIP-1202 男児だけでなく女児だった私も割とエロい感覚でお母さん以外の女性のおっぱいや乳輪の形をじっくり見て回ってたが。/あと、父親同伴でもお風呂は母親と入る習慣の男児は女湯に入るケースもあると思う。
こういう女児から向けられた性欲はどのように受け止められるのだろう?
内面はどう思っててもガン見など外面が問題なければよしとするのだろうか
若干話題は発散するけど、普段性欲と加害欲を分けろと口酸っぱく言う勢力は
今回の子供
a) 尻を叩いて回る3歳児
b) 着替え中ガン見している未就学児
を、それぞれ何欲の発露だと見るのか気になる
特にb)については未就学児に「この行為で相手の心理はどのように影響を被るか」
に考えが及ぶと思わないので加害欲とは思えない
その場合成人と異なる扱いにすべきか。
男児(にかかわらず女児)の行動が仮に性欲による行動だとして、それが直ちに行為者の排除を伴うほどの被害なのかという点は今一度考え直したほうがいいと思う。
下記のようなコメントがその点に触れている
umaumakamiya 男児には性欲あるし、でも子供に見られたからと言ってそれがどうしたと思う。他人から見られるのが嫌なら銭湯行くべきじゃないと思うよ。とは言え触る等の他の人に迷惑な行為は親が注意せんとだよなぁ。
osaka06 難しいわ。もう5歳くらいで男はみんなすけべやけど、それがあかんのか? というのが。幼児に見られるのが嫌というのが実は男はわからんのよ。わかってあげたいけど難しいなぁ
Sato_4tree うーん、小さい子にも性欲はあると思うけど、それで見られて嫌とはならないなあ。エロいと思って見ちゃうちびっこ微笑ましいじゃん。
性欲を勝手に向けられるのは確かに迷惑だ。しかし、それで行為を伴わず属性を理由に排除ができる(まだ痴漢してない男も風呂やトイレから締め出せる)のは
相手の社会的立場が強く名誉が毀損するための特例だっていうのはトラバ元でも議論したとおり
※肉体的強さは関係ない。トラバ元でも要介護の爺さんの例を出したけど
最低、下のコメントにもあるとおり、こどもに騒がれて迷惑を被ったのと同程度の扱いにとどめたい
kabutch ここまでくると自意識過剰としか。/自分の赤子が電車内で大声で泣くのは許せ、でも女湯で男児が見るのは止めろ、か…。
ただ、不愉快だという気持ち自体を表明するのは問題ないと思う(これ自体否定するなら、俺も他人の内面に口出ししてることになるし)
p-2yan 今まで気にしてなかったが、それは興味を持って見られていると考えた事がなかったからだ。所詮小さい子だし、って思っていた。年齢性別に限らず、裸体を性欲を持って見られるのは嫌だなぁ
しかし、わかってほしいのは不快感そのものを問題にしているのではないことだ
特に下記にあるように「ババアだから見られても問題ない」と言ってるわけではない
「見られた不快感を排除以外の方法で対処できないのか」と言っている
性欲がある・ないに注目していない、とにかく躾やモラルの問題としている人が結構見られた
skgctom トランスジェンダー女湯問題でも言える事だが、他人の裸体をジロジロ見たり無許可で触ったりするのは無礼な禁止事項だと子供のうちから(大人も勿論)ミッチリ躾けるべき。躾けられてない子供は女児でも迷惑。
この視点は正しい。正しいが、親に負担を押し付ける結果になっていないか、注意が必要だ。
ファミレスで騒ぐ子供、電車で泣く子供、こういうのに冷たい目を向ける人間と同じことになってないか?
hobo_king で、落とし所はって話になると「躾で~」とか言うけど、子供故に困難だろうから、結局「子連れのお前ら来るな」になる。こうして啓蒙する度に子連れ批判の視線も増える。全力で子育てを苦行にするスタイル
taketori 男湯でもガキンチョに股間をガン見されたら落ち着かない。共感はできる。でも共感以上のことはない。性ではなくマナーの問題でしかない。ファミレスで子供がうるさいのは許容しつつも親に躾は求めたいのと同じ
yuno001 自分が不快になった事の対処を人にお願いするという構図がまずいんじゃないかな。ルールにも反してないわけだし
特に3歳児なんてやっと喋ったばかりで複雑なセンテンスも理解できないので
叱ると言ってもどこまで効果があるのか、それこそ子供次第なので
厄介な子供を抱えた親は今まで以上に追い詰められる。
下記コメント群もそこまで考えてくれていたらいいんだが
makou まずもって、然るべき人がきちんと叱るべき。
bigapple11 勃起してる男児がいるという話も聞くので真面目に考えるべき話だと思う。最低限、親は子供から目を離さずちゃんと注意すること。ここで叱ることこそが性教育。/就学児以上NG、時間帯を分けるなど出来ることはある
marimonbunny まあ気持ちはわかるけど、完全に分けるのは難しいかなーと思う。まあ凝視は若干グレー(そういう障害がある子かもしれん)だけど、ケツタッチ幼児は親叱れよw
flowing_chocolate マナーと教育が不足している子供を、大人はどう受け入れるべきか、という話。性欲の有無はおそらく関係ないし、性欲の対象が目の前にいるかどうかもおそらく関係ない。
「社会で面倒を見よう」という時、反射的に「自分以外がコストを消費しろ」
と言っていないかという点も注目したい。このやり取りが象徴的だ
Flymetothemoon シングルマザーの男児は男湯に入っている大人が共同で面倒を見ることが「社会で子供を育てる」ことだと思うけど。
家族風呂を大々的に整えるなど大掛かりなことをせず、どうにかならないかというコメントもあった
worldproxy うーん、湯浴み着というのが広く普及されたら解決するのかな。 自分は、公共の場は他人との自由不自由の折半だと思ってる。この人は、表現は柔らかいけど、自分の自由だけを拡張するように求めていると思う。
乳がんなどの手術痕を見せたくない人、タトゥーが入ってても入湯したい人なんかにも
対応できるし、裸を見せたくない人は湯浴み着っていう選択肢も、今後普及していいんじゃないだろうか
【追記】
いっぱい反応あったんで返答してみた
みんなありがとなー
26歳でしょ?むしろ出産してないのが当たり前。その歳で全員出産してたらそれこそ不自然だろうが。
そこから更に20年後にシーンが飛んで、生まれた子が大人になった頃でも映して
他の一人は独身で楽しく幸せに生きてる、もう一人は結婚してDINKS、なんてシーンが入れば
「出産を強要していない」「出産するだけが女の幸せじゃない」「女の生き方には多様性があると示している」etcと言えるけどさ。
出来ればもっと人数増やして、もう一人は専業主婦、もう一人はレズビアン…とは描けないだろうから「女友達とルームシェアしてる」、
そもそも26歳で社長やりながら出産ってのがリアリティ全然ないけどな。
居てもいなくてもどうでもいい平社員じゃあるまいし、社長が長期間休んだら経営ヤバいだろうが普通。
それともあの会社は、実際の経営は親だの夫だのがやってて本人はお飾りとか
赤字垂れ流しても親だの夫だのが補てんしてくれるからどうでもいい趣味経営、とかなんかね。
まあこれも変にリアリティ(普通に会社員やってますとか)出すと粗が出るから社長なんてあり得ない設定にしただけだろうが。
無痛分娩云々にしても、そもそも幼児アニメで「出産の痛みを強調」ってのが
「ママはこんな思いをして子供(あなた)を産んだんですよ、それをママが我慢できたのはあなたを愛してるからですよ、だからママに感謝しなきゃ」
母親の我慢と自己犠牲尊い!ってやつな。ほんとそびえたつクソの如くあるよな。
更に女児向けなら「あなたも将来は同じ思いをして子供を産むんですよ、子 供 を 愛 し て い る な ら ね !」
と言う呪いとなって降りかかるんだよな。
昔からのド定番描写だよあんなの。「子供向けでそこまで踏み込むなんて革新的だ!」とか言ってるオタクは
どうせ男だからそういう呪いなど感じずおめでたくも忘れたか、そもそも「男児に出産なんて教育しなくていい」ってんで教育されなかったんだろうけどな。
そんなそびえたつクソの山な道徳教育世界にまた一つ新たなるクソが加わったってだけだろあんなの。
かと言って無痛分娩だとそれはそれでクソみたいな苦情が来るって?
なら出産シーンなんか描かなきゃいいんだよ。描いた動機は「母親の我慢と自己犠牲尊い!」って言いたかっただけだろ?いらねえよそんなクソ。
まあそんなもんどうでもいいんだよ。幼児向けアニメにんな細かい現実まで求められてないだろうし、クソ描写もド定番だからいちいち叩いてられんし。
制作側やそれについてる信者じみたオタクが何も言わないならな。
何も言わずに「ただ玩具売りつけたいだけの子供騙しアニメですが何か?」って顔してりゃ突っ込まんよ。
でも制作側もオタクもやたら意識高い事言いまくってどや顔しまくってるだろ?ならそういう観点で見られるの当たり前だろ。
実際はただの「意識高い系」でしかないから叩かれるんだよ、「口では意識高い事ばかり言ってるけど実際は全然意識高くない」という。
子供が減ってる
つまり、子供だけを相手におもちゃを売ってたら、20年前から75%程度に規模が縮小してるってことだ
俺が幼児だったころ、ミンキーモモを犯罪者の大人が見てて話題になったそうだ
そこから徐々に、大人もアニメを見るものってのは定着してきて、1998年ごろからはエヴァやスレイヤーズなんかが流行って、完全にアニメは大人のオタクは見て当たり前になった
ハルヒなんかが流行ってきた頃は完全にファッションオタクが普通になり、秋葉原が観光地化して、アニメはただのポップカルチャーになった
ドラえもんやポケモン、プリキュアは当初は完全に子供のものだったはず
でもドラえもんは30年以上、ポケモンは20周年、プリキュアも15周年を迎え、かつての子供を完全にターゲットに捉えている
ドラえもんの映画はかつての子供の同窓会がコンセプトで、大人に映画館に来てもらおうとしている
プリキュアは、相変わらず幼児向けだけど、今年の映画は初代を大きく打ち出したものだったし、かつてプリキュアに触れた人なら誰でも戻りやすいように、全プリキュアが登場する作りになっている
ハグプリの社会問題に踏み込む姿勢ははてブでも何度も話題になった
コナンも安室が大人の女性に大人気で、ファッション誌とコラボったりしてるそうな
信じられない!
子供向けではありながら、もはや子供だけを対象にしたコンテンツは経済活動として成立しなくなると判断しつつあるわけだ
失敗した作品は、そう言わざるを得ない
ただ、子供騙しは子供にすら通用しないもので、大人が楽しめるクオリティのものを、子供でもわかるように落とし込んだ作品は上質な作品になる
昔から子供向けで、今もなお子供向けなのに、たくさんの大人の愛好者がいる作品は本当に上質なのだ
ただ、真面目過ぎても、ね、という感じがするし、何にも残らないようなくだらない作品やコンテンツも、もっと沢山沢山あってもいいものだとは思う
それは、webマンガや深夜番組には今も残っているけど、夕方四時のくだらないアニメなんかは今の子供たちには馴染みのないものになってしまったようだ
その点は少しさみしい
あと、最近気になるのは、子供をダシに大人の射倖心を煽り、単価を引き上げるコンテンツもあるということ
ガオーレなんかそうだよね
アイカツ、プリチャン、ガオーレ、ゲーセン担体と結び付けて、市場が減った分を客単価を上げて稼ぐ方法
こっちにいくとあまり上質とは言えない
大人を引き込む、客単価を上げる、もうひとつある手は、海外展開だ
まあ、なんだ
子供が4歳近くなってきた俺にとって、もう一回子供として遊べる、親としての今を、なかなか楽しんでいる
これが孫の時代になっても、また孫と一緒にポケモンやプリキュアで楽しめる日本であってほしいと思う
追記:
最後まで読むと、子供向けコンテンツは死んだものもあるが、長く続くものは死なずに老若男女広く受け入れられるものに進化している、という論旨で書いてるのに、「いや死んでないだろ」「今はこんな子供向けコンテンツあるぞ」と書かれるとは結構衝撃です
確かに、死んだコンテンツをさみしく思っていたり、肯定的な表現で「くだらない」を使ったりはしてて、斜め読みとか、タイトルに引っ張られたまんまの人には読みにくいのかもしれないけど
釣らずに正確にタイトルつけるなら、「子供向けコンテンツは死んだのか?」か、「子供向けコンテンツの変容」なんだけど、ここまで読めずにタイトルに釣られっぱなしになるとは思わなかった
まあ、釣ったから伸びてるんだけどさ
次回から気をつけよっと
だいたい、「名作劇場はよかった」ではなく、「奇面組とかトンチンカンはよかった」が正しく読めた反応とも思うんだけどなあ
あとは、もう20年後に子供向けコンテンツが、上述の三要素により存続できているのか?ってのも大きな興味でした
昔のコロコロみたいな要素は減ったよね、とか、YouTubeとかにはにくだらない方面の子供向けコンテンツはごまんとあるぞ、ってのは正しく読んでくれた上での正しい指摘と思いますし、むしろ大人向けが減ったとか、嗜好はそのままで年をとってるだけ、みたいなのも正しいご指摘と思います
そういう人にも結婚を強要する社会においては「伴侶に裏切られるリスク」も結婚のリスクとしてまぜこぜに処理してるわけよね。
ガタガタ弱音を抜かすな! お前のその弱さはなんの言い訳にもならない。と。日本の警察や法は、家庭内に踏み込むことに対して極度に消極的なんだけど、それって古い封建的な価値観において、増田みたいなのに対して「細君が不貞をした(もしくは金銭を使い込んだ)のならば、殴るか、押し込めるかすればいいじゃん?」あるいは「お前女なんだから旦那が悪くても我慢すればいいじゃん」という男女両方に対する文化洗脳と抱き合わせだったわけで。
でもまあ、現代に生きるおれらはそんなの嫌だよね。俺だって嫌だ。
男性として相手を殴るのだって嫌だし、女性として横暴に耐えるのだって嫌だ。そんなリスクが有るのならば、結婚自体を避けようとするのも当たり前だよな。結局旧来の社会における結婚率の高さっていうのは、結婚しない成人に対する迫害がエンジンでしかなかったと思うよ。アメリカなんかもそういう迫害(未婚者は一人前ではない)が色濃く残ってるのが、非婚化に対する防波堤なわけで。
http://news.livedoor.com/article/detail/15764759/
流石にほっとけない問題では?
そりゃ未婚のまま子をなすことがある人もいるかもしれないけれど、
https://toyokeizai.net/articles/-/197294?page=2
未婚のままに終わることが一番の少子化の要因なので、
ここに一番国のリソースを突っ込むべきでは?
批判があるのはわかっているけど未婚と既婚で税制優遇を分けるとか
なんか国家として結婚の組数を増やす取組をしないといけないのではないかと思う。
この点がなぜ少子化対策の議論の中から抜け落ちているのか不思議に思う。
なお、小泉自民も大概なもの。口だけ達者だったし、痛みに耐えれば成長すると言うが、実際は長期低迷を招いただけだった。
ロストジェネレーションは、小泉自民の時代に社会に出た連中。
といっても、僕は新自由主義か否かで対立軸になっていない以上、対立側が非新自由主義であることを求めてる。なお、枝野は法人税増税を求めてる。
法人税も、フリーハンドの法人税減税は貯め込む金を増やすだけで、むしろ設備投資(純固定資本形成)減少と景気低迷につながり、その結果がいま。
できれば「使えば減税、溜め込めば増税により資金循環(貨幣の流通速度)を増やす!」まで踏み込む政党があってほしいが、小選挙区制のもとでは無理だろうなと思う。
二大政党がクソな選択肢しか用意しなければ、その中でうんこ味のカレーか、カレー味のうんこの選択肢を迫られる。正直、裏で談合している可能性すらある。
私はアイドルが好きだ。
格好いいお兄さんたちが歌って踊ってキラキラしている。
時に面白いことを言って笑わせてくれたり、泣かせたりもする。
だが、彼らも人間なのでたまにしくじる。
私個人はそこもまた完璧ではないアイドルの一面を見れた気がして嬉しかったりする。
結局はファンの受け取り方次第だ。
CDを買い、雑誌を買い、コンサートがあれば行き、グッズも買う。
「いい歌だわー」と聴き惚れ
「このビジュ…なんてこった」とうっとりし
「これ、どうしよう」と勢いで買ったグッズに呆然とする。
彼らだって四六時中ファンのことを考えているわけではないだろう。
それでいい。
ただ、ここ最近感じるのは
心理的なプライベートゾーンまで踏み込むファンが増えたように思う。
自分の感情がイコール自分の推し(担当)もそう感じている、という事実になってしまっている。
「こんなに推し(担当)が苦しんでいるのにどうして助けてあげてくれないの?」と。
グループのメンバーだけでなく同じファンにまでそれを求めだす。
そしてそれを受け取った側ももちろん反発する。
まるで台風のようにどんどんと周りを巻き込んで大きくなっていく。
いつか温帯低気圧化してくれればいいのだが、今のところその気配はない。
名目上掲げているだけで、ただただ、この戦争を楽しんでいるのだ。
そして巻き込まれた側が疲れ果て、ひとりふたりと姿を消していく。
推し(担当)を応援したいのか、推し(担当)の収入を減らしたいのか。
思い通りにならないと思った時点で、離れる、辞めるの選択肢はあるはずだし
間違いなく、ファンは彼らを自分たちの思い通りにはできないのだから。
己が決めた引退を貫き通した。
誰が何と言おうと辞めたいとき辞めていいのだ。
「指摘」だの「疑問」だのと耳障りのいい言葉を使って
「ファンとしてこれを要求するのは当たり前のことだ」と大きな顔をする前に
あなたの推し(担当)はあなたがファンであることをどう思うのか。
彼女たちだけでなく私も一度振り返ってみなければいけない。
その話はなめくじ、カエルなどでたとえて一冊の漫画になってるから読んでくれ、タイトルは「難解な腐女子」でpixivいったら半分くらいたしかみられるよ
やはり地雷持ちアナフィラキシーは地雷原に足を踏み入れずに自分をまもり、
地雷持ちだが減感作療法で寛解したら両方行けるから地雷原でも踏み込む、という個人差が確保されててれば納得だねという結論だった。
食品アレルギーにたとえてしまってわかりにくくてすまんけど結局個人の体質の差。
ネタバレじゃなくてCPだけど、だいたい同じ議論であると思う。
あと個人の対処法としては、ネタバレは薄目でいそいでエヴァーノートにコピペしておき自分が履修済みになってから全部目を開けてみるのがよい。
出会い系は引退しましたが、なんか熱意に応えたくて真面目に解答。
まあ、「俺なら」の前提ではあるが。。
→口紅の色。艶のある赤系
→体型がややわかるような画像も好ましい。別に太っててもいいし。
→「大人の出会い」「さっぱりした関係」、必要なら「ちょいお小遣い」を匂わせる文章ならいい。
→職業はざっくりでいい。それより土日祭日が休みなのか、平日の昼のみ会いたいのか、時間帯が気になるもの。
→「気が合えばセフレ」というのは、最初からは必要なし。ダメならダメになるし。
→そもそも自己紹介で目的はわかっているので、普通でもOK。ただ子供っぽいのはNG。ギャルとか。
→大人っぽければOK
→スケベトークは必要なし。大切なのは「今日は時間があります」アピール。
→もう少し踏み込むなら「あなたの好きなところに連れていって」で十分。
「どこ?」と聞かれたら「二人きりになれるところかな」でいい。
これだけでも、十分、スケベ女を演出できるはず。頑張れ。
それ全部「フェミ」で一緒くたってかなり病的
今日は天気がよくて、お別れするのにぴったりだと思ったから。だから推しとさよならしようと決めました。
わたしが推しと出会ったのは今から3年前のこと。ちっちゃな世界で息ができずにもがいていた私に、新しい世界をくれたのは推しでした。
例えば家から一歩踏み出して、外に出ること。
世界が嫌になって苦しくてそれでも死ぬのは嫌でどうしようもないくずみたいな生活をしていたわたしは、推しのおかげで外に出られるようになりました。
伊達眼鏡をせずに、帽子をかぶらずに、そのままの顔で外を歩けるようになりました。
それに、今では電車にだって、バスにだって、1人で乗れるようになりました。
推しがわたしを日本中、そして海外まで連れていってくれました。
習慣を乱されることが嫌いで、ずっと変わらないままが良くて、変化を恐れてしかいなかったわたしでも、色んなところに行けるようになりました。
推しがいたから、わたしはいろんなところに目を向けることができました。
わたしだけの、ちいさなちいさな世界から飛び出して、広い広い世界に踏み込むことができました。
昔じゃ考えられないぐらい、人として生きられるようになりました。
ぜんぶぜんぶ、推しのおかげです。
じゃあなんで推しとお別れするのかって?
このままじゃ、また息ができなくなると思ったから。
推しが大好きで、推しの笑顔が見たくて。そんなふうに暮らす毎日の中で、だんだんと疲弊している自分に気付かされたのは事実です。
数ある現場をずっと通うこと。推しが好きだー!って気持ちよりも、周りからの声に負けることの方が多くなりました。
現場が近づくと胃が痛くなったり、頭が痛むことが増えてきたり。会場に入って、開演までの時間で手が悴んだり。挙げ句の果てに舞台中に血の気が引くことも数知れませんでした。
こんな風に、自分が苦しんでまで推しを追っかける理由ってなんだろう。
立ち止まった時にそう思ってしまいました。
わたしはここで、遠くなる推しの背中を眺めていようと思います。
推しにもらったたくさんの思い出とともに、ここで死んでいこうと思います。
全国津々浦々、どこに行ってもついてくる厄介なおたくだったのでしょうか。
わたしがいなくても世界は回るし、わたしがいなくても推しはもっともっと上にいく。
ただ、ふと昔を思い出したときにこんなおたくいたなあって思い出してもらえたら わたしの3年間は無駄じゃなかったって思えるかな。
いままで、ありがとう。
以下、司法試験受けるどころかまともに法学で単位とれなかった法学徒崩れの一見解です。
まず、法学にもざっくり2つの分野が存在する。現実社会で運用されている実定法を研究する「実定法学」と、それ以外の法にまつわる研究をする「基礎法学」だ。
このうち、基礎法学には、少なくとも今「○○ 査読」でググった程度の範囲では、論文誌に査読がある。少なくとも法哲学・法制史・比較法学・法社会学あたりで査読付論文誌があるのは確実だ。勿論ないものもあるだろうし、そういうものに関しちゃガンガン批判していくのはありだろう。ただ、少なくとも「全ての法学分野で論文に査読がない」というのは明らかに間違い。
こちらはおそらく事実。というか、査読というシステムの意味があまりないということは考えられる。これは、実定法学というもののイメージがついていないと多分理解しにくい。
の三段階くらいレイヤーが存在する。ひとつ目は誰だろうと覚えてる当たり前の知識だけど、二つ目になると正解がないので絶対に個々人で異なってくるよね、3つめに至っては言うまでもない、みたいな話はおそらくある。
具体例を挙げよう。刑法には「刑罰は何のために存在するのか」という考えにざっくり2つの異なる立場が存在する。「ある個人が、悪とされる『行為』を行ったのでそれを罰しよう」という行為無価値論と、「社会的に悪い『結果』をもたらしたからそれを罰しよう」という結果無価値論だ。これは刑法における根本的な思想である。それらはどちらが絶対的に正しいとかではなく「どの分野でどの程度どちらの立場を優先するか」というレイヤーで争いがある。
具体的には、「心が壊れた人間による殺人」と「自分の赤ちゃんを殺そうとした人間を殺した母親」などだ。前者は刑法39条の規定により無罪となるとしよう。なぜなら、心神喪失状態での行為は「自分の行った行為に対する責任」を問うための刑罰を化しても無意味だからだ。その人は自分がおこなったことの意味を理解していないから、刑罰を科すことに意味がない。ふざけるな、という意見は多数あるだろう。心情的にそれは俺も理解できる。しかし、それでもなお刑罰を科すとするならば、それは「誰かが人を殺したという『結果』が悪いことである。だから、本人が自分の行為を理解していなくても、社会としてその結果をもたらした人間を罰しなければならない」という立場をとる、ということにならざるをえない。
では、「自分の赤ん坊を殺されようとしている母親が、殺そうとしていた人間を殺した」といった場合、その人間に対してどういう立場をとるべきなのか?「人を殺したという結果は社会にとって変わらないのだから、赤ん坊が殺された母親であっても刑罰を科すべき」という立場になり得るのか?
この話は、実のところ論理的には適切な例ではない。結果無価値論と行為無価値論は違法性阻却の議論で出てくるものであり、前者は心神喪失による有責性の阻却の話で、後者の緊急避難(追記:ブコメで「正当防衛ではないか」とありましたがそのとおりです。ありがとうございます……)による違法性阻却の話でしか出てこないからだ。もっと言えば刑法と民法と憲法では基礎になる論理が全く異なる。ここで俺が言いたいのは、実定法における「本当に基礎の基礎の大前提になる考え」は、法解釈において多くの矛盾を生み出す、ということだ。そこには「正解がない」。どの場面でどのような立場をとるか、それは1か0かで決められる問題ではなく、「ある場面ではAの立場を肯定し、別の場面ではBの立場を肯定する」、そういった解釈違いが、刑法民法刑法何百何千もの事例において発生する。それらに対して、「ある事例でAの立場をとり、別の事例ではBの立場をとる」という判断の組み合わせに、論理的な整合性をどのようにつけるか。それを生み出すのが、ざっくりと法学における「学説」と呼ばれるものになる。繰り返すがこれは刑法の例であり、民法や憲法では細かな部分は異なるだろう。だが、どの分野でも「学界の多数説」「学界の少数説」「実務における判例」の3つが異なる立場にある、というものが1つや2つくらいあるのは当たり前だ。それが実定法学の実情だ、と思っていいはずだ。
そんな現実において、あくまで俺の認識に限って言えば、その「矛盾しない解釈の論理体系を構築する」というのは研究をやる上では当たり前のことだ。論文出す以前に、研究ができるかどうかという前提の話。何の話をしているかというと、その能力を持っているかどうかを確認するのが「司法試験」であり、司法試験程度(そう、司法試験「程度」)を合格する能力がないと、法学研究なんてできない、というのが現実なのだ。全体的な解釈の整合性をとれているのは当然である。司法試験に合格すらできない人間は研究者になれない。「最低限の研究能力」という点で、院なりなんなりに進んでいる時点で最低限の自然淘汰が発生しているのは実定法学研究では当たり前の前提である。したがって「最低限の論理的整合性が取れてるかどうか」という意味での査読はそもそもない……というのが、院生の友人知人を持たない俺の、推測レベルでの解釈だ。そもそも論文を出せる環境にいる時点で、能力が保証されているからだ。
そして、そこからさらに「構築した論理体系による学説が『受け入れるに値するものか』」って話にまで踏み込むと、そのための「査読」ってなによという話がある。たとえば、心神喪失状態で何十人と殺した人間を無罪にすべきという、法学の論理的に整合性がとれている説を唱える人がでてきた場合、それを査読する意味とは何か。論理的には正しい解釈体系が、何十人もの法学者によって何十個と出来上がっているなかで、誰の立場をとるか。ここまでくると、正直なところ、査読がどうこうという話ではないのだ。はっきり言えば、「その学説を社会が受け入れるかどうか」って話なのだ。
この辺りを、法学を勉強したことがないひと、いや法学を勉強したひとですら勘違いしていることがあるけど、法と社会/法と政治というのは、ものすごく漸近している。法学の学説が受け入れ良レルかどうか、というのには少なからず社会的価値観/社会通念が影響しているし、法は決して固定的なものではなく、社会のなかで変動している。法は社会に内在しているし、社会に対して法は影響力を持つ。
そうした実定法学の特徴が生み出すのは、ある一定のレベルを越えると「学説が正しいかどうか」が「その学説が多くの人に受け入れられるかどうか」という問題に近づいていく、ということだ。法学部にいればよくあることだったが、どんなすごい教授でも、講義のうち何か1つくらいは、その人独自の(少数派)学説をとっていることはざらにある。だから、そういった場合に「査読があるかどうか」は問題にはならず、「発表した学説が受け入れられるか/無視されるか」という話が、業績や信用性、実力の評価として組み込まれるんじゃねえかな、とは思う。
まあ、それが客観的指標とは言いがたいのが問題だ、というのは絶対ある。だが、その場合はどのようなかたちであれば「客観的指標」による評価を法学が下せるのか、というのも問題になるだろう。
このように、「研究ができる/研究論文を出せる」という環境にいるというスクリーニングの上に、「それが社会的に受け入れられるか」が重要視されるという事後的なスクリーニング、その二つがあるからこそ、実定法学に査読の文化がない、というのはおおよそ雑な話としては、言えるのではないかと思っている。
で、これを読んで異論があるガチの法学研究者の人、補足というか訂正頼む。ぶっちゃけ法学でまともに単位とってない俺みたいなアホが補足いれないといけない状況にうんざりしてるんだ。真面目に誰か解説してくれ。
>査読論文とは、先行研究へのリファーや方法論的な手続きについてのものであり、査読は「内容」に踏み込むものでは当然ありません。
https://twitter.com/chitaponta/status/1049258662898806784
畳み掛けるようで申し訳ありませんが、先生がリツイートされている論文の「格」についてですが、査読論文とは、先行研究へのリファーや方法論的な手続きについてのものであり、査読は「内容」に踏み込むものでは当然ありません。それこそ言論の自由が脅かされますので。なるほど、学問の徒以外からは、— 千田有紀 (@chitaponta) 2018年10月8日
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