はてなキーワード: 踏み込むとは
率がないと「そのケースがごく僅かの例外である」という可能性が否定できないだろ。
「多数」なんて言うならなおのことだ。
そしてもっと踏み込むなら、「それがメディアのせいである」ということの証明も必要。
ただの相関かもしれないからな。
緑仙が好きだ。以下に、俺が緑仙について知っている事をいくつか書く。
前提として、俺は緑仙全肯定botだというのはわかってほしい。
緑仙の意に沿わないようなことも書くし、メタな話題にも踏み込むが、そこを含めて好きなのだ。
男の娘、両性具有なんでもありのvtuberだが、性別非公開っていう設定は、わりと特異だと思う。
初期の「男の僕と女の僕、どちらだったら好きになってくれますか?」って決め台詞は最高。
最近は性別の話題になるとどっちでも良い、興味がないと切って捨てることが多い。
たしかにどっちでも「良い」のは間違いない。それでも気になっちゃうのは、ファンのサガだ。
緑仙の性別が気になるのは性指向、男と女どっちが好きか、に関わってくるからだ。
このことについて考えると気になって眠れない。
わりとふわっとした言い方で明言を避けていたが、こないだのツイキャス配信で
「男でも女でもどっちでもいける」と言ってくれた。
そのためにデビュー予定だったVOIZを抜けてSEEDsから出ることになったと言う。
元VOIZの二人(春崎エアル・成瀬鳴)とは、どういうわけかいまだ両者わだかまりがあるらしい。
緑仙曰く「こちらから絡みにいっても、うまくかわされてしまう」そうだ。
俺は泣くだろう。
緑仙が公開する自分の話はミステリアスというか、人を食ったものが多い。
緑仙の前世について検索しようとすると、大概上位に来るのは仙河緑と、こないだの身バレ配信についてだ。
デビュー3ヶ月の時にも似たような身バレ配信をやってることを考えると、これらは特定避けの効果をねらってのものではないだろうか。
ネットリテラシーつよつよの緑仙なら、その程度のサジェスト対策はしてもおかしくないと思う。
緑仙は身バレにはとにかく慎重でほぼ完璧に対策を立てているようだ。
完全に想像だが、これは性別特定を嫌うのと関連してるかもしれない。
そういえば、文化祭配信にしても谷中銀座に詳しい件にしても、住所バレにはそこまで気を使っていない印象がある。
それに対して性別を判定されるのを嫌がって筆跡すら晒さないのだ。
今俺が気になっているのは、性別がどちらか、という問題よりも、何故ここまで性別不詳にこだわるのか、という謎だ。
そしてこれは、おそらく絶対に明かされることは無い緑仙の魂のパーソナルな部分だ。
想像するしか無いし、想像するほどに緑仙を愛おしく感じるのだ。
まあそういうわけで、緑仙の魂について想像を巡らせてみよう。
多くの人が、ニコ生ないしツイキャスの歌い手出身では無いかと考えていると思う。
だがこの可能性はかなり低い。
緑仙はデビューから一年近く経過し、サブスクはこれを書いているたった今10万人に達した。
緑仙は声や歌のレパートリーにかなり特徴があり、特定の層を直撃する。
前世に僅かでもファンのいた歌い手であれば、そのファンが緑仙にたどり着かないはずがないのである。
また、緑仙はデビュー時まともなマイクを持っておらず、歌動画もエレコムのスタンドマイクで収録したという。
ここまで機材の貧弱な「歌い手」は流石に珍しいのではないだろうか。
逆に緑仙が最初から持っていたのは2台のマッキントッシュとアドビソフト群のライセンスだ。
ゲーム配信用にWindowsを買ったのはごく最近。初期には動画編集の作業配信も行なっていた。
流石に高校生には無理があるのでは? と思うのだが、お年玉を貯めて買ったそうだ。
緑仙は配信にかかる資金をポケットマネーから出す場合、「動画編集の在宅アルバイト」で稼いでいるという。
そしてにじさんじに応募する際、田角社長に公式サイトのダメ出しをしたという有名なエピソード。
これらを考え併せれば、クリエイターとしてのポートフォリオを持ってオーディションに参加したと考えるのが自然だと思われる。
あといくつか、どうでも良いことを。
緑仙は、「歌が上手いというより上手く見せるのが得意」「頭が良いというより頭をよく見せるのが得意」という言い方をたびたびする。
その実例と考えていいと思うのだが、緑仙は趣味のブックオフ通いや図書委員というのもあって読書家のイメージがある。
でも読書家というには漢字がよわよわで、読んだ本の話もほとんどないことから考えて、活字はあまり読まないのではないか。
その分漫画の話になると止まらないので、かなりディープな漫画読みだというのは伺える。
初期緑仙は貧乏学生感を出そうとしていた節があり、ファッションはシンプルなデザインのもの、シャンプーは一番安いやつと言っていた。
最近は着るものは流行り廃りのないデザインで上等なものを長く着る主義、シャンプーは美容院で買う、と微妙に路線を変えている。
国内旅行に頻繁に行っていたり、都内や大阪の美味しい店に詳しかったりといった、暮らしむきには余裕があるような話題が増えたので整合性を取ったのかもしれない。
記憶を頼りに殴り書きしたので、もしかしたら事実に反することも書いたかもしれない。
気が向いたらソースを付けようと思う。
以上だ。
LGBTに対しては、世の中は比較的寛容になってきたけど、ペドフィリアは何故いつまでも許されないのだろう?と疑問に思った事があった(今でも思ってる)。
誰かが『力の勾配』みたいな説明をしてくれた。要は大人と幼児では力関係が対等ではないのだから、仮に幼児の同意があっても周りが鵜呑みには出来ないだろう、みたいな話であると思う。
だが僕は何も幼児との性行為を許すべきだ、と主張しているのではない。そんなものは当然NGであろう。
要は法に触れたり公序良俗に反する行為をしない限りは、当人の性的指向に他人が踏み込むべきではない。主張としてはこれだけだ。
例えば幼児をレイプするような大人がいれば、それは性的指向を矯正するプログラムを受けさせるなりなんなりもやむ無しとは考える(ただし積極的には賛成しない。理由は後述)。
LGBTの性的指向に寛容な人達ならば、このくらい分かってくれるだろうと思っていた。…のだが、どうも現実はそうとも言いきれない様だ。
むしろLGBTに寛容な人達の方がペドフィリア許すまじな空気を醸し出し、LGBTに嫌悪感・拒否感を示しそうな人達がペドフィリアを擁護(?)しているんじゃないか?とすら感じる時がある(後者は前者への当てこすりのためにペドフィリアなどを持ち出している可能性もある)。
何でだ。何で皆そんなに他者の性的指向をコントロールしたがるんだ。
自分の子供が犯罪の餌食になることを恐れるあまり、特にペドフィリアを排斥しようとする感情は理解出来なくはない。だけど、実際にそれをやっちゃあおしまいだと思う。
餅は喉に詰まって人を殺すし、自動車は事故で人を轢き殺すし、人は殺意を持って人を殺す。でもいずれも抜本的な対策が取られたことってないはずだ。
それに性的指向が矯正可能となったら、絶対にLGBTはおろか、普通性愛にも累が及ぶ。実のところそれが僕の最大の危惧である。自らの主義主張、もしくは利益のために他人の精神を改造するなんて鬼畜以外の何者でもないだろう?
( 2019年春アニメ1話ほぼ全部観たから感想書く その1 からの続き )
クソザコナメクジ中学生のクラスメイト攻略シミュレーション。1話にしてタイトル詐欺、というわけでもない。友達100人できるかな。原作者は「三ツ星カラーズ」でお馴染みカツヲ。良い最終回だった。
制作はC2C。先のアニメ「はるかなレシーブ」の元請け。ちなみに監督ははるかなレシーブ10話の絵コンテを担当した安齋剛文。はるかなはスポ根系だったのでかなり動きのある作品だけど、本作は主人公の表情がよく動く。怒涛の感情変化で魅せるため、敢えて話のテンポがゆっくりしているみたい。かわいい。演出的には三ツ星よりコミカルな表現が多く、この辺もはるかなレシーブっぽいかも。キャラデザは違う人だけど、両作ともキャラの雰囲気も似てる。
脚本はモノローグに定評のある花田十輝。1話の半分以上主人公のモノローグじゃね。てかOPの曲名になってて草。主人公の中の人(森下千咲)は新人さんで、1話の台本を読んでセリフ量の多さにびびった話すき。
劇伴はMONACA。高田龍一…ハナヤマタ 田中秀和…WUG、灼熱の卓球娘。つくづく田中美海と縁のあるMONACAである。劇伴がかわいい。テイストはわりと三ツ星カラーズのそれに近いかも(カラーズの劇伴:美知留)。
主人公がクソザコナメクジっていうアニメは去年も結構あったのでそれらと比べると、「スロウスタート」は周囲と比べて主人公の影が薄く、あわあわしてる主人公の手を周りの優しい人達が引いてくれて、徐々に友達の輪が広がっていく話。「ちおちゃんの通学路」はもはやすべて諦めたので教室にたどり着くことすらない。全部まななのせい。登場人物がほぼ全員やべーやつ。「こみっくがーるず」は学校に居場所を見いだせない主人公が漫画家寮の中で居場所を見つける話。に対して本作はクソザコナメクジながらも能動的にクラスの子達を一人ずつ頭脳プレイで攻略していくお話。ただし頭のネジが飛んでいるので、必ず視聴者の予想の斜め上を攻めてくる。必ず。
三ツ星カラーズにもいたけど、頭のネジが飛んでるかわいい子が多い。特に2話から主人公の情緒不安定さ、不器用さ、行動原理の不明さがマッハで、わりと理詰めで考えがちな私からするともはやミステリー作品である。マジで、なんで縦笛持ってたの?あとなんで体操服に着替えたの・・・?何らかの意味があるはずなんだけど、丸一日考えてもわからなかった。今期最大の謎である。
あとカラーズは毎話、三人組の服装が違うっていうやばいアニメだった(キャラデザ大変だったらしい)のに対し本作はほぼ制服。でもかわいい。中学1年生によくある「成長を見越して大きめのサイズになってるせいで全体的にダボッとした制服」をちゃんと絵にしてて好き。特に主人公が小さい。そういう描き方をしてる作品って、最近だと「ヒナまつり」くらいかもしれない。あれいいよね。
原作者の要望によりスタッフ一新、原作準拠で最後まで製作予定。制作もスタジオディーン→トムス・エンタテインメントに。(本作に限らず)仮にこのアニメが面白かったとして、それは”旧作が面白くなかった、あるいは本作が旧作より優れていることを証明した”ことにはならない、という前提で観てる。1話冒頭の「行ってきます!」だけでもう泣きそう。2話で泣いた。
1話冒頭の「行ってきまーす!」だけでもう泣きそう。2話で泣いた。1話からノルマ達成。1話のシナリオは旧1話とだいたい一緒なので見比べやすい。主人公を中心に徐々に打ち解けていって、あの家がみんなの居場所になっていくお話。
大地丙太郎監督下のアニメ(めいこい面白かった)はコミカルな表現を多用し、優れたテンポ感のあるアニメだったのに対して本作はかなりリアリティ寄りに仕上がってて、コミカル表現は少なめ。朝のシーンも夕方のシーンも太陽光が射す角度までちゃんと計算しててエモい仕上がりに。特に目を引くキャラデザの違いは原作者の意向で今風にリブートされているため。透のキャラデザでいうと、リボンの色が青→黄色に。特に髪型に相当気合が入っている。短めの前髪ぱっつんがめっちゃ好き。寝てるときの髪の毛も、三つ編みの書き込みもすごく丁寧で可愛い。あと2話の夾くん初登校シーンで咲ちゃんが透の髪をコテで縦ロールにしてるシーンすき。
そんな透を演じるのは石見舞菜香。彼女は去年の劇場版アニメ「さよならの朝に約束の花をかざろう」で初主演の新人さん。さよ朝の演技でいうと「一日中仕事を探して周りへとへとになって帰ってきたら、息子が仕事道具を勝手に広げて遊んでたのでついキレちゃったシーン」がめっちゃ好き。本作は日常パート(ギャグ)~シリアスパート(凄くしんどい)までかなり幅広い展開の話なので、もう楽しみ。あと由希くんが変声期を迎えました(CV.島崎信長)。
学校のシーンで言えばモブ学生がみんな手書きな上に学校の風景を作るための装置として機能してて、旧作との如実な違いに感じた。また遠くのモブも作画が崩れてない気合の入りよう。おまけに背景はPAWORKS作品でお馴染みスタジオ・イースター。PA作品以外で見るのは結構珍しい。2話はイースター&Bamboo。2話は背景が遠くまで見えるような画角が多い(あんまり背景を省略してない)。家の前の階段と、両脇の木々と、遠くに広がる町並みとか。環境音も丁寧に付けられてて、この世界の空気を感じる(音響効果:古谷友二)。ココらへんに高い熱量を注いでいる作品みたい。要約すると「大人っぽいフルーツバスケット」。
OPは旧OPと同様リリカルな感じ。やさしいせかい。劇伴も非常にエモい(音楽:横山克)。同氏の劇伴でいうと「亜人ちゃんは語りたい」に近い感じ。作品としては「フルーツバスケットの諸問題がある程度解決した後の世界」=「亜人ちゃん」みたいな感じ?あの音楽がすっげー好きだったので嬉しい。
1話あらすじ:ひょんなことから「五等分の花嫁」1話みたいなことが起きました。学校でも屈指の変わり者である女子たちと華の学業生活をするラブコメ。
制作はstシルバー。元々エロゲを作っていた会社がアニメ制作へと華麗に転身したみたい。話題のOPは絵コンテ:松竹徳幸で、同氏の経歴を遡ってみたら、「はっぴ〜ぶり〜でぃんぐ」っていうアダルトゲームのアニメーション演出でstシルバーと繋がってたりする(Wikipedia調べ)。
そのOPだけど、3人のヒロインが持つ個性を指の先まで丁寧に描き分けていてめちゃくちゃすごい。「ああ、この子は繊細な子なんだな」「ああ、この子は快活な子なんだな」っていうのが冒頭の、寝起きの背中を見ただけでわかる感じ。この書き分けは勉強してるとき一瞬映るノートの内容まで踏み込んでいて、文字の癖からノートのとり方まで違うし。一番好きなのが、うるかがプールから顔を出してちょっと笑いながら前髪をぎゅってするカット。私が水泳部だった頃の記憶では、たいていの人は帽子とったら髪を前から後ろにかきあげてたんだけど(だって邪魔だし)、うるかが!前髪を!ちょっと気にして!!ぎゅって!!可愛すぎかよ!!!
制作会社の遍歴的に「エロアニメかな?」って思ってたんだけど案外そうでもなくて、例えば同じ週刊少年ジャンプ連載作品「ゆらぎ荘の幽奈さん」と比べてかなり控えめ(もちろんゼロではない)。今期の高校生ラブコメでいうと、なんここ>>淫青ちゃん>ぼく勉。青ちゃんと比較すると、青ちゃんが作中マジで勉強出来ないのに対して本作はかなり勉強してる。ドラゴン桜ほどじゃないにしても、2話クレジットに”参考文献:「行きたい大学に行くための勉強法がわかる高校一冊目の参考書」”ってなってるくらいには気合が入ってるみたい。4人がお互いに足を引っ張り合うわけでもなく、好きな彼を陥れようとするわけでもなく、極度に性的ないたずらをするわけでもなく、仲良く勉強してる感じが凄くすき。それに対する主人公のリアクションが割とリアルで好き。心の中では阿鼻叫喚だけど顔には出さない感じとか。流石に白銀会長ほどウブじゃないけど。
監督はみんな大好き岩崎良明。シリーズ構成も雑破業が担当してたり、かなり気合を感じる。去年の岩崎良明監督作品だと「ラストピリオド」がブラックコメディ作品だったけど、あれに恋愛要素を足した感じで結構コメディ寄り。コミカルなギャグ演出が可愛い面白い。特に停電のくだりが好き。でも恋愛要素はあくまで「青春の1ページ」で、多角的に描かれている思春期の一部っていう感じがある。「亜人ちゃんは語りたい」の町京子みたいな。ちなみに本作のヒロインはあんまり悩まずカラッとしてる。そこらへん五等分の花嫁と比べてテンポ感重視な仕上がりみたい(あっちは「最終的に全員と和解できるのか…?」っていう縦軸になっていた。11話めっちゃエモかってん)。そのため物語の導入部分もざっくり。振り幅のあるギャグパートと青春パートで劇伴の雰囲気がガラッと変わる感じがすごく良かった。
アイキャッチがかわいい。ハナヤマタとかこみっくがーるずもそうだけど、漫画の一コマみたいなやつ良いよね。2話のアイキャッチうるかやばかった。本編と関係ないけど、d’アニメストアで配信されている2話のサムネうるかがめっちゃ可愛かった。
ヒロイズムと群像劇。ワンパンマン1期の13話~。ガロウ編。せっかくなので前回の最終回を観てね。見比べる理由として、1期と2期で監督(夏目慎吾→櫻井親良)、制作スタジオ(マッドハウス→J.C.STAFF)が違う点がある。夏目慎吾率いるマッドハウスは、先のクールで「ブギーポップは笑わない」を制作していたので多分その関係かと思われ。2期としておきながら配信等で13話…と表記ゆれがあるのは多分このせい。ブギーポップ面白いからね、仕方ないね。
ほんとモブが活き活きしている。作画もそうだし演技もそう。本作における魅力の一つ。そして1話(13話)はみんなのアイドル、キングの話。原作(ONE)→ジャンプ版(村田雄介)→アニメと見比べると、特にキングのキャラクターがどんどん魅力的になっていく。彼は普段表情やセリフの感情が乏しいので、アニメ化によって情報量が増えたことで魅力が倍増した感じがある。実質主人公。そんな1話が最高だった。サイタマとキングの、最強と最弱の対比マジで好き。あの二人がゲームしてるシーンが原作の頃からずっと好きなので、アレ見れるの嬉しい。対比で言えば、作中パワーアップするヒーローはジェノスとキングくらいしかいない(特にキングのインフレがやばい)。ガロウもまたハゲマントとの対比として印象的だよね。そういう意味では一貫して群像劇としての面白さを失わない作品。余談だけど、ONE氏による原作が更新再開した模様。
ONE氏原作のアニメ「モブサイコ」も大概やばかったけど、アレや1期と比べると作画力でぶん殴ってくる感じは控えめになっている。というか1期の作画どうなってんだあれ。1話の鬼サイボーグが戦ってる感じ、エフェクトもりもりでめっちゃかっこよかった。爆風や粉塵の作画好き。1期と比べると群像劇としての側面が丁寧に描かれている印象で、特に2話のフブキすき。主人公のやる気ねえ感じとフブキの勝手に鬼気迫ってる感じのギャップでどうしても笑っちゃう。
中野の日常。悪魔の囁き、幸福の形、見る堕落。制作は動画工房。
あらすじ:小林さんちのメイドラゴンみたいなことが起こりました。押しかけ同居人との共同生活を描く日常アニメ。
公式ラジオで千孤さんの中の人(和氣あず未)が「おばあちゃん感を意識して演技してというディレクションだった」て言っていたけれど、メイドラゴンは小林さんが押しかけ彼女(妹?妻?)に「洗濯っていうのはこうやるんだ、わかった?」と手取り足取り教えてたのに対しこっちの仙子さんは「おかえり、ご飯温めるから着替えちゃいなさい」「忙しいのはわかるけど、ちゃんと朝ごはん食べなさい!」みたいな感じで完全に立場が逆。あとメイドラゴンがギャグ全振りで本作は癒やし全振り。脚本は中村能子だけどラブコメではなさそう。いや、ラブコメかもしれない。
動画工房は最近も割と幼女を扱った作品が多かったけど、その中でもダントツに背徳感がある。なぜに狐=のじゃロリなのか。監督は越田知明。監督を務めるのは続とうらぶに続き2作目。同氏が絵コンテを担当した「アニマエール!」7話がめっちゃ好きなので嬉しい。スーパー1000個さんタイム(以下SSST)を思いついたのは監督だろうか。SSSTは特に「視聴者を癒やし切るまで絶対に返さない」という強い意志を感じる。これ応援上映やってくれねえかなー。キンプリのような破壊力がある。
夜の駅前がめっちゃリアル。クレジットを読む限り背景は自前っぽい?「自宅などの狭い個室で話の90%を展開するコメディ作品ばっかり作ってる」でおなじみ動画工房がついに背景も描けるようになっちゃったのだろうか。
背景に限らず、全体的にリアリティが強め。職場のやり取りとか、終電の駅のホームとか、主人公によるセリフの多くが「ハァ…(疲労困憊)」みたいな感じとか。諏訪部順一の「くたびれたおっさんの演技」めっちゃ良いよね。自室も小林さん家と比べてリアル。そんな「一般的な社会人」として感情移入しやすく描かれた主人公の前に仙子さんが現れたもんだから、とてつもない幸福感に襲われる。多分、仙子さんは現代風にリブートされた幸福の化身なのだろう。家に帰ると「おかえり」と言われる/何も言わずともご飯を用意してもらえる/しかもおいしい/おかわりもある/「お風呂入りなさーい」「朝ごはん食べなさい!」と諭してくれる(ときに叱ってくれる)/見返りを一切求めない(メイドラゴンは「一緒にいたい」という見返りを得ている)etc。要は、かーちゃん或いはおばあちゃん。リアリティライン高めだからこそ強烈に刺さる。母親が一緒に居てくれた時間より隠れちゃってから経過した時間の方が長くなった身としては特に2話の耳かきがヤバい。つい母親を思い出して「それ以上パーソナルスペースに踏み込むな!人間に戻れなk・・・あんぎゃあああああああ!」ってなった。
同列に語れる部分もあれば、同列に語れない部分もある。
「語れるか?」という質問には「語れる(余地がある)」と答えるべきだが、「同列に語るべきか?」という質問の答えは文脈による。一般には同列に語るべき場面と、語るべきでない場面があるから。
「小児性愛者と児童虐待者は区別すべきだ」という言説はよく聞くようになった。それ自体は「議論が進んだな」と感じるし、歓迎すべき。ただしそれともう一つ「性交渉の年齢制限撤廃論者」を合わせて三属性を区別すべきだと思う。現実のネットを見ると、「小児性愛者」ではない「性交渉の年齢制限撤廃論者」が大勢いて、彼らがトラブルの中心になっていることが多いように見える。
また、私も含めて「性交渉の年齢制限撤廃」には反対の人は多いだろうが、とは言え「児童虐待者」ともやはり区別して批判しなければならない。「弱い子供を思い通りにしたいだけだろう」というのは低俗なレッテル貼りだし、彼らもそんな理由で年齢制限を撤廃したいわけじゃないことはみんな本当は分かっているだろう。「そんなつもりがなくても、相手を傷つけることはある」という現実の問題を論じなければならない。
治療を強制的に受けさせることは深刻な人権侵害になり得るので、例え犯罪者であったとしても慎重にならなければならない。本人が望んだ時に治療が受けられる環境が整うことは良いことだと思う。ただし、「小児性愛」を病名として治療を受けるのではなく、一般的な「性依存症」の文脈で、「小児性愛者の場合はどう治療すべきか?」という方法論で語るべきだと思う。これなら「異性愛者の場合は?同性愛者の場合は?」と平等な扱いだと言えるだろう。
内心の自由に踏み込むことがあったらこの国は終わりだろう。そんなところに主題はなくて、児童を性的に見ていることを「公言する」ことは、どこまで許されるのか?
「私はあなたを性的に見ています」と直接告げることは、性別も年齢も関係なくセクハラだろう。なぜなら、それは自分の問題に相手を強制的に巻き込み、プライバシーの領域を侵犯しているから。
セクハラを批判する時にセクシャリティは関係ない。セクシャルマイノリティーだろうがなんだろうが批判されるべきだろう。それと同時に、批判の中で相手のセクシャリティを侮辱するようなことがあってはならない。これらはすべて小児性愛にも適用される。
一方で、「私は小児性愛者です」と公言することは許されるべきだろう。この言葉はあくまで自分自身のセクシャリティの問題として語っており、誰かのプライバシーの領域を侵犯したと言うのは無理がある。
https://matomedane.jp/page/28029
Twitterを見ていると、
「ただのファンアートじゃん」とか「何が問題かわからない、ただのいちゃもん」とか、
あげくのはてには「外圧勢の攻撃だろ」とか言ってる人が思いのほか多くて驚いている。
今回、サテー氏は絶対にやってはならないことをし、燃えるべくして燃えた。
なのにこの「この人のやったことは明らかにアカンことなんだ」ってのが、いまいちわかっていない人が多い。
わかってない人が多いせいで、信者VS外圧の問題にすり替わりつつさえある。
というかそもそも肝心のサテー氏が自分のしたことのなにが悪いのかをわかっていなかった。それは炎上後の対応のまずさにも見て取れる。
なので、なにがいけないのかを解説しようと思う。
・今までのサテー氏の漫画
これまでサテー氏は「1コマFGO」と題して、FGOのファンアートを定期的に描いてきた。
ゲーム内の印象的なシーン、または界隈で起きた印象的な出来事。それを抜き出して「ダイジェスト」にする、というもの。
サテー氏の個性の一つに、このダイジェストを少ない枚数の中に極端に高密度に詰め込むという独特な手法がある。
彼が今の人気を築いたのは高い画力もさることながら、この独特な手法があったからこそと言っても過言ではないだろう。
ただ一方で、最近の「1コマFGO」は、1シーンだけを抜き出してイラストにすることも増えてきていた。
というよりも、彼の「1コマFGO」は、以前と比べて、「ページ数が増え」かつ「ダイジェストのシーンが減って」きていた。
この変化が実は、まずもっての発端である。
・直近のサテー氏の漫画
炎上した件の漫画の一つ前に描かれたものは、ある種の分水嶺として捉えることができる。
これ。
https://twitter.com/syatey_12/status/1119573130098331648
(余談だが、この漫画のことを炎上した原因だと勘違いしている人が一定数いるけど違うよ!)
この作品は、見ればわかるが、イベント「極東魔神戦線1945」のストーリーの、クライマックス部分をほぼそのままダイジェストにしたものだ。
この漫画は大勢の人に絶賛され、受け入れられた。経験値氏本人もRTしている。
・「ダイジェスト」のさじ加減の話
……なのだ、つまるところ。
従来の、というより初期のサテー氏の「1コマFGO」は、たとえば1ヶ月とか3ヶ月の間にあった出来事、いうなれば「1000の中から印象的だった10を選び取りダイジェストにした」ものだった。
それは、時間とともに少しずつ変化していく。
有り体に言うと、投稿スパンが短くなり、絵の密度が下がり、選ぶシーンのネタバレ度が強くなった。
「1000の中から"印象的だった"10を選び取る」が「500の中から"めちゃくちゃ印象的だった"10を選び取る」となり、
やがてそれは、この「絶剱」と題された漫画のような「100の中から"重要な"10を抜き出す」ものになっていく。
サテー氏がこの手法に疲れてきたのか、承認欲求のためにイラストの投稿回数を増やしたかったのか、原因は定かではない。
ただこのさじ加減が間違ってきていることに、きっと彼自身は気付かなかったのだろう。
勘の良い方ならもうおわかりかもしれない。
「絶剱」の後に投稿された、炎上した”幕末昔噺「龍が如く」"は、
「100の中から80を抜き出す」どころか「100の中から重要でない20を削ぎ落とす」ほどの、「ダイジェスト」を超えた「リライト」になってしまっていたのだ。
プロの創作物は「成果物」と呼ばれる。仕事の結果であり、作品であり、同時に商品でもある。
いみじくもプロのクリエイターであるならば、同じ立場にある「プロ」の作った成果物について、敬意を払わなければならない。
この経緯とは何か。それは「製作者のコアの部分には立ち入らないこと」だ。
たとえばブーディカは蒼月タカオ氏のデザインしたキャラクターだが、たくさんの人によってファンアートが描かれている。
そこにはプロとして活動している人も多くいて、中には蒼月タカオ氏よりも上手い(上手い下手の定義はいろいろあるが本記事では置いておく。「経験値氏よりサテー氏の方が絵が上手い」程度の意味合いとして捉えて欲しい)人もたくさんいる。
だが、彼らプロ作家のファンアートに「ブーディカのカードの構図やポーズ、背景をなにからなにまで真似た『俺の描いたブーディカさんのカード』」なんてものがあるだろうか。
断言してもいいが、絶対にない。あったとしてもそれはセミプロ、もしくはアマチュアの手によるものである。
何故なら、それは「製作者のコアの部分に土足で立ち入ること」だからだ。
「製作者がその仕事によって得た社会的評価までもを己の創作に取り込んでしまう行為」……と言い換えたらわかりやすいだろうか。
それはひいては、製作者に成り代わろうとする行為であるとも言える。
好きだからこそとか。良かれと思ってとか。宣伝のためだったとか。
いかなる理由であれ、結果がどうであれ、線を超えたのなら戦争なのだ。
好意による領分の侵犯という意味で、フラゲした雑誌のキャプチャーでアニメ化情報を拡散するとか、違法アップロードされた動画を使って紹介するとか、そういうのと本質は変わらない。
サテー氏の件の龍馬とおりょうさんの漫画を、コミカライズ、と形容している人がいた。
奇しくも言い得て妙だと思う。
コミカライズだとかノベライズとかいうのは、作品を作った人間、原作者の成果物のコアの部分に踏み込む行為である。
だからこそ「公式」なのだ。公式に版元がプロに依頼し、原作者がそれを承諾し、コアの部分に入ってくることを許可した上で描かれるのだ。
作品の成果を、その作品によって得られる社会的評価を、原作者と分かち合う行為なのだ。
彼は無断でコミカライズをした。それも「漫画をコミカライズする」という、よりコアな部分に踏み込む方法で。
経験値氏が得るはずだった感動の声を、賞賛を、サテー氏は横から割って入ってきて、不当に食い漁った。
公式のメディアミックスをクリエイター同士のセックスとするなら、これは強姦に等しい。
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結局のところ今回の問題の原因は、
「サテー氏にプロ意識がなかった」
これに尽きる。
前段のことは、プロであるなら誰しも肌感覚でわかっているはずのことで、一方でプロのクリエイターとして活動していない人には今ひとつピンとこないことであろう。
サテー氏はピンとこなかった。「ファンアート」と「侵害」の境目がまったく理解できていなかった。
その後の謝罪を見るに、たぶん今でもよくわかっていないと思う。
>「幕末昔ばなし」はもっと詳細が描かれてて細かい事情がわかるのでですね…ぜひお手にとってもらえると
ショートケーキのイチゴとクリームを先に食べさせておいて「スポンジも美味しいので残り物を買ってね」とはまったく恐れ入る。
これをきっかけに経験値氏の原作を知った人たちが不憫でならない。彼らは本来なら経験値氏へ向けるはずの感動や興奮をサテー氏に向けた。
いみじくもプロならば、経験値氏が「原作」で描いていない寺田屋騒動あたりのことを「想像して」「創造する」とかにするべきだった。
どうか経験値氏の「ぐだぐだエース」を購入して、騒ぎの元になった「マンガ幕末昔ばなし」を読んで欲しい。
あの独特なデフォルメ絵に手書き文字を、真っ白のスカスカ漫画と思う人もいるだろうし、下手だと思う人もいるだろう。
ペダル踏み間違い事故はMTでも発生する。ボケ老人は昔取った杵柄で難しいシフト操作は難なくこなし、その上で暴走して言い訳をする。なのでAT禁止は解決にも緩和策にもならない。それは承知してほしい。
問題点は「ペダルの左右が分からなくなる」「暴走時に固まって行動できない」「正しい通行方法が分からなくなる」の三点に集約できるだろう。
それぞれ解決策を挙げるとすれば
こんなところではないだろうか。アクセルペダルをハンドルに移設し、かつレベル2自動運転を常時有効にするというのはどうだろう。
つまりハンドルの裏に加速ボタンを付け、加速ボタンを押している間はコンピュータが自動運転する。危ないと思ったらブレーキを踏み込む。
よく日が変わると同時に届を出したがる人がいますが、あれマジで今回は止めてください。
臨時開庁する所もありますし、別に受付場所設けることになってるので昼間に出してください。
基本手に深夜は預かるだけなので、警備員さんも受け取るだけが仕事なんで何も答えられないんですよ。
答えられないと言ってるのに無理に聞き出そうとして居座る人も多く、結局青筋立てて帰る人もいます。
そんなんだったら今回のような特例の祝日は昼間来てほしいんです。前述した答えられない質問に対して答えられないままだと怒る市民がいるので市民課の担当に連絡してくる人がいますが、夜中はシステムも動いていないので手続き上確認が必要でも確認できないんですよ。
システムが必要なくても深夜という非常識な時間に手続きにきて、あれこれクレームに発展されても困るんです。
閉庁日は閉庁日ですので、やってないものはやってません。
即位の日のような日に日付が変わった時点で提出なんて確実に自爆すると思います。
朝でしたら9時辺りにくればまだ空いてると思われます。夜中に来て長い時間待ってストレスを増やすくらいなら昼間に手続きしてください。
それは
世界を構成する4つの力のうちの「重力」によって起きる自然現象。
まだまだ世の中には解明できていないことがたくさんあるけれど、
ほとんどの物理現象はこの4つの力によって回っている…らしい。
…ここまでは分かる。
すげえわかる。
世の中の色んな物理現象は、何かの法則に則って起きてるんだな。
詳しい事は良く分からんけど、そこには何かしらのルールがあって、
細かなパラメータの誤差は有れども、物事は規則的に起きているんだろう。
…ここまでは分かる。
「世の中の全ての物が物理法則に従って動くなら、生物だって当然そうなんじゃない?」
「生物も全て物理法則に従って動くだけなら、脳の動きだってそうなはずで、
じゃあ意識とか意思決定なんて存在しないんじゃない?」っていう奴。
別に俺に限らずありとあらゆる人がこの疑問を持っていて、
それに対してこう結論付けているのも、今までさんざん見てきて知っている。
って奴。
でもいやちょっと待てよと。
俺は俺の意思を持って行動している。
今ここに俺がどんな文章を書くか。それは今俺がリアルタイムで意思決定して行っている事であって、
決して物理法則に則って元から決まってた状況なんかじゃあねえぞと。
ただ、それを証明する事はどうしても出来ない。
…ここまでが前説。
で、
と思い至り、
「生物とは、世界の物理法則に抗う事が出来る存在なんじゃないか」
と思うようになったんだ。
より正確に言うと、
「生物とは、世界の確率に僅かに干渉出来る存在なんじゃないか」
と。
何が言いたいかっていうと、
ネットにはじかれたボールがどっちに落ちてもおかしくない、みたいな状況で、
そんな感じの処理を実行していて、それが意思決定に相当する行為なんじゃないかと。
それが出来なくなり、
物理法則のなすがままに成らざるを得なくなる事が"死"に相当する。
という事なのでは無いかと。
そう考える事で、俺の中で色々と合点が行ったんだ。
生物は「代謝して自己複製する、自己と外界の間に境界を持つ存在」で、
それが何度も何度自己複製して、複製時の微妙な誤差を積み重ねて多様化し、
多様化と淘汰を繰り返して進化してきたという考えが、今広く支持されている考えだと思う。
これもまあ分かるよ。
でも最初の最初「代謝して自己複製する、自己と外界の間に境界を持つ存在」
世界に干渉して、どうにかギリギリ生物としての必要条件を満たした最初の奇跡、それが生物なんだと。
次に生物の進化と繁殖とその目的、あと今後の世界の行く末について。
ついには人間になって(人間以外にも色々居るけど)、地球中に満ちるようになった。
更に人間は群れて行動して、群体として生物のように振舞っている。
もう「会社」とか「国」とかは生物の一単位と言っていいんじゃないかなと思う。
その答えは「世界へ干渉するサイズを大きくするため」なんじゃないかと俺は思う。
最初の奇跡(自然現象としてはそうそう起きないような確率のインチキ)は、
極小サイズの自己を複製するっていうだけの、小さな干渉だけだった。
それが今では、
海を埋め立てたり、山を削ったり、月に辿り着いたり、
太陽系外に機械を飛ばしたりするレベルの奇跡を起こせるようになった。
この世界は今後どうなっていくのか。
そのうち生物は、地球の引力に当たり前のように抗う存在になって
そしていつか、宇宙のありとあらゆる全ての現象に干渉するようになる。
そこから先はどうなるのか
今の人類がやってる「ちょっとここにビル建てるわ」的なノリで、
「ちょっとこの宇宙のデザインいじるわ」みたいな干渉を出来るようになったとしたら。
そうしていじくり回された宇宙の中の、
どこかの銀河のどこかの星で、
そんな設定のSFが読みたい。