はてなキーワード: 路側帯とは
https://anond.hatelabo.jp/20220102190352
https://www.mitsui-direct.co.jp/car/guide/tips/31.html
駐車場など道路に面した場所に出入りするために、歩道や路側帯を横切る場合は、それらの直前で一時停止しなければなりません(右図参照)(道路交通法第17条第2項)。
https://kanmegu.com/blocking-sidewalk-20191111/
↑これも当然ながら自動車の交通犯罪行為であり警察による摘発対象
日本のドライバーは日本の恥なぐらいモラルが劣悪な事実はJAFの調査で証明済み。9割が交通犯罪常習犯。
https://anond.hatelabo.jp/20220102220917
9割の違反が実情!信号機のない交差点で自動車が通行を妨げれば罰則も!? - 自動車保険一括見積もり
https://www.insweb.co.jp/car/kisochishiki/kiso/crosswalk-rule.html
https://jaf.or.jp/common/kuruma-qa/category-drive/subcategory-safety/faq291
・横断歩道又は自転車横断帯の手前で車両は一時停止して歩行者又は自転車の通行を妨げない。
・横断歩道又は自転車横断帯ありの路面標示により歩行者又は自転車を確認。
先進諸国のドライバーは9割が守るのに、日本のドライバーは9割が交通犯罪常習犯。
そして警察庁が発表している交通違反摘発件数は年間約500万件にも及ぶのが日本のドライバーの劣悪な現実。
日本国民は遠慮なく自動車への徹底取り締まり強化を警察に要請し続けよう。
道路交通法において、自転車は車両であるから車道を通行しなければならないとされつつ、路側帯や歩道の通行を条件付きで許可されている。
路側帯を通行できる条件は、歩行者の通行を著しく妨げないとき(第十七条の二)。つまり空いてる時はだいたい無条件にOK。
歩道を通行できる条件は、①標識で認められている時②幼児や児童などが運転者の時③車道の状況に照らして安全を確保するためには歩道通行がやむを得ない時(第六十三条の四)。
いずれも、安全な速度と方法での運転が義務となっている(当たり前だ)。
ここで今、話題にしたいのが「車道が危なくてとても安全には通行できねーよ!」って時には歩道通行が法的に許されているという点だ。
ブクマカ諸氏などは杓子定規に、「自転車は車道!」と切って捨てているところもよく見るが、この点についてよく考慮のうえだろうか。
つまり、その車道が安全に走れることを確認して言っているのだろうか。
言ってばかりでは頭でっかちになるので、ここしばらく実際に車道を自転車で走って確かめた。
結論から言うと、安全に走れる車道などほとんどなく、その帰結として多くの歩道は法的に通行できることがわかった。
車の速度がやばい。走っている自分からそれほど遠くない位置を、60キロとかでビュンビュン抜けてくる。
何度かは普通に命の危険を感じたし、この実践を始めたことを後悔した。
特にトラックはおそろしい。高速移動する巨体との至近距離での並走。小石とかにつまづいてブレたら死ぬよね、これ。
普通に安全運転してて命の危機を感じる状況を「歩道通行せずに安全を確保できる」と言えるだろうか?いや言えない。
国道ほどじゃないがやっぱり車はビュンビュン飛ばすね。
でも一車線だからか、国道より道幅に余裕がある気がした。自転車レーンもしばしばあり。
述べたように走行車の速度は十分あるので、車道側に完全にはみ出るように回避する勇気は出しづらい。
(一度だけがんばって車道側に避けてみたが走行車が全く配慮してくれずめっちゃエンジン音吹かされた)
車道側に避けたら轢かれる危険性がある状況で歩道に上がるのは安全の確保のための通行と言えるだろう。
なお、この時段差等があったりしてすぐに歩道に上がれるとは限らないので、前々から上がっておかなければ積む羽目になる。
都市の民度によっては、路駐の間隔が狭くて結局ずっと歩道を行くこともある。
ここも基本的に車道通行できるとしばらくは感じたが、やはり路駐があるのと、あと交差点前のムーブがやばい。
小さめの普通自動車に、信号に差し掛かるというところでグイッと左側に寄ってこられた。
心臓がドキッとしたよ。ブレーキかけなかったら轢かれたんじゃないかと思う。
大きい道と比べるとこの辺りの小さい道はそもそも幅が狭く、車と併走する自体がなかなか安全とは言い難い。
自転車レーンがあっても、曲芸師かと言いたくなるような平均台みたいな幅で、意味をなしていない。
そんなわけで小さい道でもやはり安全確保のために歩道に上がる理由はある。
歩道がない場合は、歩行者も路側帯、自転車も路側帯通行。上述の通り著しく歩行者を妨害しなければ無条件で通行が許される。
歩道がある場合は、それに幅をとられて車道が狭い場合が多い。車と併走できる幅がなければ、歩道に上がらざるを得ない。
これ意外と法解釈で間違うことが多いのが「自転車は乗用車と同じく左側通行」は車道での取り決めであり、自転車が歩道に登った場合は「左右に関わらず車道寄り」が原則です。勿論最低要件は徐行(歩行者とほぼ同等)、最も好ましいのは押し歩きして車道通行に切り替えられるタイミングで車道に戻ることです。
ところで、歩行者に関して言えば進行方向左右どちらの歩道もしくは路側帯かは厳格に決まっていない(というか決めると車道横断の回数が増える)ため、どうしても理想論扱いになります。他通行車両との兼ね合いで「進行方向左側の歩道もしくは路側帯の車道寄り」が道路幅に対して収容件数を最大化できる最適解ではあります(車両は進行方向が同じ歩行者に対しては横1.5m以上空けなければいけないのに対し、逆方向からの場合1mでよいため)。
https://anond.hatelabo.jp/20201205155542
https://anond.hatelabo.jp/20201207094010
ここで語られているのは東京都心のたとえば新宿池袋のようなメガターミナルでの話なのだろう。
当方は札幌市の中心部に在住している(首都圏出身)が、地方都市ではまた様子が違っている。
札幌は東京都心に比べると駅や街中の密度は体感半分以下であるが、それでも都内にいるのと変わらない頻度でニアミスが起こる。
また、冬の間市街地が雪で閉ざされる交通事情から自転車の交通に対して非常に鈍感で、歩道をグループで横に広がって歩く、後ろから自転車が徐行で近づいても気づかない(あるいは気づいても避けようとしない)
まして対面で自転車が接近しても避けようとしない、というのは日常である。
もちろん基本的に左側通行を守り、速度を上げて走るときは車道の路側帯に入るので今のところ問題は起きていないが…
歩行時も含めて自分の進行方向やパーソナルスペースを譲らないのは、開拓民的な気質あるいは「札幌は街が広くて東京より人が少ないのだから自分が避ける必要などない」というこれもある種の甘えなのかもしれないと思っている。
また、首都圏はこういった全国から人間が集まっているので、超高密度な街にも関わらず育った環境によって気の遣えない人が目立ちやすい側面もあるのではないか、とも思う。
この世界の人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である。
数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。
この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに分けられる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である。
どんな記憶も忘却の可能性を含んでいて、それがいかに尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである。
とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるものだ。例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類だ。
これから話す記憶は――意外だと思われる人もいるかも知れないが――恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は(少なくとも僕にとっては)、一度忘れてしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要な記憶ではないということになる。
あるいは、死んだ猫の重みを人生の最後まで引きずっていく人もいるのかもしれないけれど、僕がこの世界からいなくなる時に、多分、死んだ猫の記憶は僕の傍にはいない。
人生というのはタフなもので、多くの場合予断を許さない。例えば、猫は前触れなく死んでしまう。そこに救済は存在しない。
猫は突然死ぬ。
だからこそ、我々はタフにならなければならない。タフな(きつい)人生に耐える為には、我々自身が精神的にタフにならなければならないのである。
して、タフな人生を生き延びるために重要な資質とは何だろうか?
僕が思うに、恐らくそれは一種の判断能力である。つまり、重要なものと重要でないものを区別する為の判断能力である。
この世界において、重要なものと重要でないものを比較すれば、前者は圧倒的に少なく、後者は圧倒的に多い。これは考えるまでもなく当然のことである。重要なものが我々の前に際限なく溢れ返っているのであれば、我々の人生はもっと救済に満ちたものになる筈だからだ。でも、現にそうなってはいない。人生における重要な事物は泥の中の砂金と同じである。それは、恐らくは多くの人が感じていることだろうと思う。
そう、我々が人生を全うする為にもっとも重要な能力は、数少ない重要な物事と出会った際に、その重要な出来事を迷わず掴み取る能力なのである。
タフな人生を本当に生き切る人間に備わっている素質は、恐らくはそれだ。彼らは汚泥の中の砂金を迷わず掴み取り、幸運の女神の前髪を毟り取らんばかりに握る。僕も、そういう人間になろうと日々心掛けてきた。この世界に溢れ返る物事の中に、ほんの僅かに存在している、かけがえのない事柄。あるいは、溢れ返る人々の中に存在している、かけがえのない人々。そういう人(もの)に出逢えば、できるだけそれを失わまいとしてきた。
我々の心の中には無数の記憶が存在している。その多くは、断言するに無意味な記憶に過ぎない。病院の記憶、体育館の記憶、商店街の記憶――はっきり言って、その殆どは無駄な記憶だ。重要な記憶というものは一握りしか存在していない。
我々の人生には限りがある、その限られた人生の中で、無意味な記憶に無意味な情愛を注ぐことだけは避けなければならない。情愛を注ぐべき人を選び、情愛を注ぐべき記憶を選別すること――自分にとって重要なものを、重要でないものの中から選び抜くこと――それが本当に大切なことなのだ。だから、我々は、警戒しなければならない。一見重要であるように装っておきながら、実際には全く我々の人生に無意味な事物……そういうものへの執着を捨てなければならないのである。
書いていて思うが、幾分このような視点には屈折の気配がある。勿論、それは自分でも分かっている。でも、やはり我々の人生は貴重なものであり、貴重でないものと触れ合うことで、その輝きを鈍らせる必要はない――そういう視点が一抹の正しさを備えていることも、また事実なのだ。
はっきり言おう。
これから語る記憶は、決して僕の人生に重要なものではない。むしろ、どうでもいいものなのだと。
大した記憶ではない。
道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。
その肉体の損傷は一見して分からなかったが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っていた。既に絶命していた。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの運転手はゆっくりと車を走らせていた。つまり、道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。
猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉の運動はとっくに停止している。
僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を自転車に乗って通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見ていた。
通り過ぎる。
川沿いの道を走り、こじんまりとしたアパートに辿り着く。駐輪場に自転車を停め、アパートの裏手へと回り込むと、階段を上った。
階段を上る度に、カンカンと乾いた金属音がこだまし、やがて僕は二階の自室の前へと辿り着いていた。
鍵を開け、扉を開け、自室へと体を滑り込ませる。
薄暗いアパートの自室はひんやりとしている。
猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートルの距離があって、僕はあらゆる意味で当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン手袋を取り出した。
再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートルの距離。時間はそれほど掛からず、辿り着いた時にも猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。
僕は歩道に自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に轢かれる心配のない路端へと引きずった。
そう、引きずったのである。
抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。猫の頭部がごろりと動いた。
猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレンの手袋に付着した。
そこには愛情は無い。僕の人生に残留するべき温かい思念というものは存在していない。
だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミングで忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。
僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである。
猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである。
ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。
僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。
初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路の中間辺りから続く夥しい血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、たまに、盗み見るように視線を向けた。本来の当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。
やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。
彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。
やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車だった。
この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフが二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両の収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。
僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレンの手袋を処理した後で、日常のルーチンへと戻っていった。
多分、この記憶は僕の人生に残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が死んだ猫の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。
しかし、それはあくまで一般的な教訓に限っての話だ。僕個人の、個人的な教訓に関しては、少しばかりはあるかもしれない。
多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタルな――欠くことのできないほど重要な――部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情の記憶であり、誰かからの愛情の記憶である。
そういうものを欠くと、我々のバイタルな部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。
とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。
これまで僕が延々と語ったこの記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。
でも、と思うのだ。
この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。
記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者の記憶の方が圧倒的に多い。この世界の殆どの記憶は後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。
それでも、と僕は思う。
その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。
僕の記憶の中で息をしている。
猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。
多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。
僕が猫のことを忘れ去るその時を。
じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。
この世界の人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である。
数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。
この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに大別できる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である。
記憶というものは原理的に忘却の可能性を含んでいて、それがどんな尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである。とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるのだ。
例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類の記憶だ。
これから話す記憶は、恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は、恐らくは一度忘れてしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要な記憶ではないということになる。
タフな人生を生きようとする人間の功罪の常で、僕は重要な記憶とそうでない記憶を峻別することができる。多くの場合その判断は極めて正確だ。
僕は自分にとって重要な物事とそうでない物事を多くの場合峻別できると思っているし、何よりも、自分にとって重要な人間とそうでない人間を峻別できると思っている。そこが功罪なのである。人間は自分にとって重要な人間とそうでない人間を並置し、比較し、時に冷徹に判断する。いざという時に切り捨てることのできる人物と、そうでない人物を頭の中の整理棚に分類する傾向がある。とは言え僕は冷酷な人間を自認してる訳ではなくて、基本的に分け隔てなく親切に接することをモットーにしてるのだけれど。それでも、自分にとって大切な人物とそうでない人物は分けて考えなくてはならないと考えている。
さて、そんなこんなでこの記憶は恐らく僕の人生においてそこまで重要な記憶ではないと、僕ははっきりと峻別している。
大した記憶ではない。道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。
その肉体の損傷は一見して分からないが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っている。既に絶命している。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの車はゆっくりと車を走らせていた。つまり、道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。
猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉の運動はとっくに停止している。
僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見た。
猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートルの距離があって、僕はあらゆる意味で当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン製手袋を取り出した。
再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートルの距離。時間はそれほど掛からず、辿り着いた時には猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。
僕は歩道に自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に引かれる心配のない路端へと引きずった。
そう、引きずったのである。
抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。
猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレンの手袋に付着した。
そこには愛情は無い。僕の人生に残留するべき温かい思念というものは存在していない。
だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミングで忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。
僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである。
猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである。
ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。
僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。
初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路の中間辺りから続く血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、偶に、盗み見るように視線を向けた。本来の当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。
やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。
彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。
やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車であった。
この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフが二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両の収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。
僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレンの手袋を処理した後で、日常のルーチンに戻っていった。
多分、この記憶は僕の人生に残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が猫の死体の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。
しかし僕自身にとっては多少の教訓と呼ぶべきものはある(どっちだよ)。
多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタル部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情の記憶であり、誰かからの愛情の記憶である。
そういうものを欠くと、我々のバイタル部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。
とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。
これまで僕が延々と語ったこの記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。
でも、と思うのだ。
この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。
記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者の記憶の方が圧倒的に多い。この世界の殆どの記憶は後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。
それでも、と僕は思う。
その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。
僕の記憶の中で息をしている。
猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。
多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。
僕が猫のことを忘れ去るその時を。
じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。
俺は名古屋に住んでいるんだが、名古屋特有の交通事情というか、危険回避のための知識とでもいうものがいくつかある。たとえば、
「8の絡むナンバーは注意」
他の地方でもあるよね。「・・・1」とか「11-11」とかの1並び、1でなくてもゾロ目やそれに準じた並びは注意、みたいな。名古屋はこれが8絡みなんだ。「・・・8」とか「88-88」とか。車種がクラウンやベンツの場合は特に要注意だ。
どうして8なんだろう、って、この地に住むようになったばかりの頃に誰かに聞いたら「ハァ?何聞いてるの?」みたいな剣呑な顔をされて、
「市章、見たことない?」
見ると○に「八」なんだね。なんでも尾張徳川家の参勤交代のときの所持品とか葛籠とか、そういうものにこの紋章を入れていたのをそのまま使っているらしい。だから名古屋ではイカツいクルマに乗る人々も「8ラブ」らしい。
あと、これは他の地方でもあるんだろうが、「前が行ったら自分も行ける」ってやつ。これ、本当によく目にするんだよね。たとえば赤なのに横断歩道に突っ込んでくるクルマがあって、無理矢理停めて、
「アンタ何考えてるんだ、殺す気か?」
と訊くと、大抵、
「前が行ったもんで」
(こういうときは大抵尾張弁。放言は方言、らしい)とか平然と言いやがる。それも決してこちらを見ずに、そっぽを向いて言うわけね。まあそんな訳で、クルマが出てきたら「次がいる」「そいつは停まらない」と己に唱えることが徹底してきた……つもりだったんだ。しかし、今日はちょいと甘かった。
路地から二車線に出る丁字路、二車線の路側帯の信号の付いていない横断歩道。自転車に乗って渡ろうとしたら、ヌルヌルとクルマが出てきやがった。それをやりすごして渡り始めたところに、前のクルマの連れなのか何なのか分からないんだが、少し遅れてベンツが鼻を突っ込んできて、横断歩道を半分踏んだところで軽くスキール音を立てて停まった。俺は思わずそちらを向き直り、
「おい何考えてんだゴラァ」
と怒鳴った。俺の後方には中高一貫の女子校があって、俺の直後にもそこの生徒達が渡り始めていたからだ。しかし……だ。そのクルマが……
いわゆるイカツい黒のベンツで、ナンバーは「70-70」。そこまで目に入ったところで、鼻を突っ込んでこちらを認めて停まったときにホーンをひとつも鳴らさなかったそのクルマ、ホーンを全開で鳴らして、窓を開け、
「なんだオラこのヤロウーッ」
と怒鳴ってきた。あーいかん、馬鹿に火ぃつけてしまった。で、俺が無視して進むとそのまま、開けた窓から腕を突き上げ、ホーンを鳴らしながら追ってきたんだ。うわー勘弁してくれ、とは思ったが、その二車線、一方通行(軽車両を除く……この辺では「原付・自動車」と書いてあることが多いけど、自転車は規制対象外ね)の路地とあちこちで交わっているのを俺はよく知っていたので、絶対に入れない路地に入り込んだ。さーこのエリアからどう出ようかなあ、と思いつつ、角をいくつか曲がったら、後ろからまた同じホーンが。うわーしつこく追ってきてるわ。再び入りようのない路地に入り込み、その場をやり過ごしたのだった。
で、だ。実は俺、こういうめに遭うのは二回目なんだ。一回目は路側帯を自転車で走っていたとき……ああ、ここつっこまれそうなので強調しておくが、俺は道交法を厳守している。このときも歩道が自転車通行不可なのを確認した上で路側帯を走っていただけだ……ただ、クルマの車線がかなり混んでいたためにクルマより速く進めてしまう状況で、そのせいで煽られたと思ったのか何か分からないんだが、黒のクラウン8並びに執拗に追跡されたことがあった。同じように、窓を開け、怒鳴り、腕を突き上げ、ホーンを鳴らしながらね。
とにかく俺は、それ以前にこういうめに遭ったことがない。名古屋だけだ。それ以前には大阪に住んでいたんだが、そんなめに遭ったことがない(いや、色々ブッ壊れたドライバーは目にしましたよ……中央環状線を瓶ビールラッパ飲みしながら走るクルマとかさ)んだ。大阪の前は都内……ああいかん、この辺では「東京都内」って言わないと名古屋の中心部だと思われるんだよね……にいたけど、むしろ自転車の方が問題が多くて参った位で。今回のような、こちらが怒鳴りつけるような場面に遭遇したこともなかったから。
まあ、怒鳴ったこちらにも非がある、との批判は甘んじて受ける。しかし、逃げなきゃ殺されるような状況に二度も遭遇する街、って、何なんだろ。しかも世界的自動車メーカーのお膝元、なんでしょ?ここって。そりゃあ交通事故死者ワースト1を何年も守り続けてるだけのことはあるよなあ……と思い知らされたのだった。
さあ、30分位経ったから、さっき買えなかったもの買いにコンビニでも行くか。念の為に服装変えて行こうかな。いや本当、この手の輩は病的に粘着的だから、気をつけないとね。
【後記】
ふと思ったんだが、あの激怒した原因って、ひょっとしたら女子高生が何人もいるその目前で俺が怒鳴りつけたからなのか?ベンツ野郎のちっちぇえメンツを俺が潰してしまったからなのだろうか。
まぁここら辺は当たり前。トラックに巻き込まれろとは常々思ってるけどね。
まぁ言ってしまうと246なんだが、なんとママチャリが横断、しかも逆走というダブルコンボを決めてきやがった。自分の命をなんとも思わないその勇気を称賛!潔く死んでくれ。
目の前の自転車なんか第二車線入ってるな...→陸橋突入。路側帯なんて1mmもない上に斜度もきつい、車通りが多いなんてもんじゃない道に突っ込んでいけると思ったその根拠は何なのか。ぜひ聞かせていただきたい。ちなみにそいつはそのあと交差点を右折レーンから右折していった。
きっと彼は今も陸橋を渡っているのだろう。生きていれば。
とある坂がある。そこは結構な激坂で、斜度は10%くらいは確実にある。そんな坂を上っている俺の目の前に現れたのは逆走自転車。しかしただの自転車じゃない。なんとママチャリで後ろに子供をのっけて、高速で下ってくるのだ。時速40kmは確実に出てたね。後ろに乗せられていた子供の安全を願っていません。
見出し読み直してほしい。右側ですよ?ママチャリに二人乗りしてるクソガキが一番右車線のその右端を走ってやがった。バイクの外国人にガチギレされてたので、後ろに止まれのサイン出しながら「こっち来い」って叫んだら拗ねながら歩道に戻っていった。二度と自転車乗るんじゃねえぞ、俺との約束だ。
急に歩道から車道にノールックで出てくるクソチャリはほんとに多い。お前後ろからバイク来てたら死んでるぞ?
日本にはよくある、車が通ることしか考えていない道を夜に通ってて、照明の位置的にちょっとまぶしいなーって思ってたら隠れてた逆走無灯火自転車が急に出てきた。ここまでくると俺の責任はどうやっても問えない気がするのでむしろ事故って慰謝料搾り取ったほうがよかったかもしれない。
眼の前に横断歩道があるのにわざわざ関係ない所を渡る老害ども!ふざけんな!
路側帯を原付で走るクソガキ・クソ土方・クソリーマンども!ふざけんな!
真夜中だってのに小さいガキを外で走り回らせて騒いでるクソ親ども!ふざけんな!
てめえがデブなのが悪いってのに無理に原付を寄せて駐車するんじゃねえクソババア!ふざけんな!
人の話も聞かないで「風邪ですね」ってわけわかんねえ診断してんじゃねえよ!他の病院で調べたら入院しないといけない病気だったじゃねえか!ヤブは医師免許剥奪しろ!ふざけんな!
一時間に何度も喫煙所に向かってんじゃねえよクソスモーカーども!ふざけんな!
残業すんなって言ってんのに残って残業代稼ごうとしてんじゃねえよ!ふざけんな!
仕事の引き継ぎはちゃんとやれって言ってんだろクソ社員!ふざけんな!
年齢確認くらいさっさとボタン押せよ、いちいちあれこれ文句言ってるクソガキどもと老害どもが。こっちはサクッと支払い終わらしてえんだよ!ふざけんな!
箸もストローもいらねえなら、店員が入れる前に先にいっておけ!なんで後からいらねえのに入れてんだよって切れてんだこのクソリーマン!ふざけんな!
鬱だかなんだか知らねえけど、いちいちそんなアピールすんじゃねえ。言わなくても見てりゃ分かるんだよ。だから放っておいてやってんのにかまってちゃんかよ!ふざけんな!
人様にあれこれ説明すんのはいいけどよ、自分が技術を求められたら難しくて私にはできないじゃねーよ、だったら最初から説明もしてくんじゃねえよ、てめーで出来ないで何知ったかしてんだ!ふざけんな!
小遣い稼ぎたいっていうから仕事を紹介してやったのに、1時間も働けないでリタイアしたくせに金金うるせーよ。てめえのせいで使えないヤツよこさないでってクレームくらったじゃねーか!ふざけんな!
若いヤツは、あれこれやる前に文句いいすぎなんだよ。そもそもろくにスキルもないのに口だけは一人前で1日も居ないで辛いから辞めるわじゃねーよ。
仕事なんて辛いのばっかりなんだよ。その中で比較的辛くない仕事に出会って続けるんだよ。一日で仕事の何がわかるってんだよ?辛いから辞めるわ、ニートになるわじゃねーよ!ふざけんな!
老害共は、自分が仕事を始めた頃はとか言ってんじゃねーよ。てめえの仕事始まりと今の仕事始まりは全然違うんだよ。まず根性論唱える前に新人が逃げない方法考えろや!ふざけんな!
タトゥー云々うるせーよ、入れてるやつも入れてるやつでうっせーよ。指さされて生きるくらい仕方ないと思えや。自分で自分の生きざま作ってんじゃねーのかよ。なのに理解されないー理解されないーじゃねーよ。馬鹿かよ!ふざけんな!
クソガキどもイキったおっさんどもよ、いちいちナンバープレート曲げてバイク走らせてんじゃねーよ。警察びびってんなら、最初から乗ってんじゃねー!アホかよ!ふざけんな!
YouTuberども、視聴者ほしいなら他人様に迷惑かけないで自分のトークだけで獲得しろや。いちいち食い物無駄にしたり、やたら金使えば視聴者手に入ると思ってんじゃねーよ!ふざけんな!
SNSで、いちいち差別だなんだと喚いてる奴ら全てアホかよ。差別してんなら日常からてめえらが一番差別してんじゃねーか。他人様に口出しできる立場かよ!ふざけんな!
CMにいちいちクレーム入れてるクソバカども。気に入らねえからってヒスしてみっともないって思わねーのかよ。おめえの立ち位置が地球の中心じゃねーんだよ!ふざけんな!
食い物メーカーがちょっとツイートしたくらいで、いちいち食い物をバカにしてるとか噛み付いてんじゃねーよ。食べ方なんて人それぞれだろ。なんでお前の食い方に従わないといけねーんだよ!ふざけんな!
無課金風情がいちいち運営にかみついてんじゃねーよ。運営に噛み付いて良いのは課金して運営資金を出しているユーザー様だけなんだよ。無課金は所詮乞食と変わんねーんだ、いい加減自覚しろ!ふざけんな!
いちいち爆死報告しなくてもいいから黙ってろ。お前らの課金額はそもそも頭のおかしいレベルなんだよ。爆死した金額報告してドヤ顔して何が面白いんだよ、面白いのはお前の頭の中だけだろ!ふざけんな!
アフィまとめサイトの記事タイトルにいちいち草はやしてんじゃねーよ。何も面白い事書いてないのに草はやしてて意味わかんねーよ!ふざけんな!
他のサイトの転載してる癖に広告費が運営費になってるとかふざけたこといってんじゃねーよ。てめえが消費させてるのはドメイン費用程度じゃねーか!ふざけんな!
「あの大作の続編がついに」とか言ってんじゃねーよ、てめえらがそうやって出してくるのは全部スマホアプリじゃねーか!コンシューマーで売る自信がねえんなら出すんじゃねーよ!ふざけんな!
メーカーの商品説明ページで大事な事書き忘れてんじゃねーよ!電池の持ち時間かかねえとかアホか、問い合わせたら「わかりません」じゃねーよ!ふざけんな!
どこかのアニメ監督が凍結されたからフェイスブック使いますとか言ってたけどよ、てめえの普段の素行に問題があるから凍結くらってんだろ!いい加減理解しろ!ふざけんな!
自衛隊が戦争をイメージするとか言ってんじゃねえぞ、ろくに国民の役に立ってねえ烏合の衆よりも災害時に動く自衛隊はヒーローだろうがよ!ふざけんな!
あー、疲れたわ。
1 自転車は、車道が原則、歩道は例外
● 道路交通法上、自転車は軽車両と位置づけられています。したがって、歩道と車道の区別のあるところは車道通行が原則です。
●運転者が13歳未満の子ども、70歳以上の高齢者、身体の不自由な方(平成20年6月1日から施行)
●車道又は交通の状況からみてやむを得ない場合(平成20年6月1日から施行)
●また、自転車道があるところでは、道路工事などやむを得ない場合を除き、自転車道を通行しなければなりません。
2 車道は左側を通行
●自転車は車道の左側に寄って通行しなければなりません。右側通行は禁止されています。
※自転車は、歩行者の通行に大きな妨げとなる場合や白の二本線の標示(歩行者専用路側帯※1)のある場合を除き、路側帯※2を通ることができます。その場合は、歩行者の通行を妨げないような速度と方法で進行しなければなりません。
3 歩道は歩行者優先で、自転車は車道寄りを徐行
●自転車が歩道を通行する場合は、車道寄りの部分を徐行しなければなりません。歩行者の通行を妨げるような場合は一時停止、又は自転車から降りて押して歩きましょう。
4 安全ルールを守る
【罰 則】5年以下の懲役又は100万円以下の罰金※ 酒に酔った状態で運転した場合
●夜間はライトを点灯/夜間は、前照灯及び尾灯(又は反射器材)をつける
【罰 則】5万円以下の罰金
●交差点での一時停止と安全確認/一時停止の標識を守り、狭い道から広い道に出るときは徐行
●傘を差しながら、携帯電話をしながらの運転/傘を差し、物を担ぎ、物を持つ等視野を妨げたり、安定を失うおそれのある方法での自転車運転の禁止。携帯電話で話しをしたり、メールをしたりしながらの運転禁止。
【罰 則】5万円以下の罰金
●傘を自転車に固定した運転の禁止/自転車の積載制限違反。不安定になったり、視野が妨げられたり、傘が歩行者に接触するなどして、危険な場合があります。
※自転車の積載制限は、「幅は積載装置又は乗車装置の幅に0.3メートルを加えたものを越えないこと、高さは2メートルを越えないこと」などと規定されています。(東京都道路交通規則第10条)
5 子どもはヘルメットを着用
何なんだよ日本。
どうすんだよ俺活躍できねーじゃねーか。
ちなみに落ちた理由は直進で左に寄りすぎてることと狭い道でこすったことによる減点超過だそうだ。
前者については前に教官に「右に寄りすぎだから左に寄れ」ってさんざん言われたのでキープレフトを意識した結果がこれだ。
要するに「キープレフトは車線の真ん中を走れ」っていう話だ。何がキープレフトだよ。ふざけろ。横文字使いたいだけなんじゃねーのか。
一度も脱輪した覚えがないのに教習原簿に接輪のことめっちゃ書かれたし、「気づかないのが問題」とは聞いてたけどどうやって気づくんだよ。エスパーかよ。
そもそも教習所のコースは路側帯とかないから道路以外は道路外っていうハードモードで完璧に擦らないでクリアする前提なのに、公道に出たら右左折で路側帯の白線とか中央線踏んでる奴、運転歴長い奴でも腐るほどいるだろ。なんで免許取るときの初心者だけ踏まない前提でやらなきゃいけないんだよ。馬鹿かよ。
道路のどっち寄りを走るかってだけでも
別の教官「S字の出口は右に寄りましょう」
全員言ってること違うじゃねえか。何でこれで免許が取れるんだよ。これで免許取れる奴全員アスペだろ。いやこんなクソ制度定めた日本がアスペだろ。
免許持ってる奴は持ってる奴で「チャリは免許制にしろ」って言ってるけど、一億総アスペ社会にする気かよ。免許持ちのエゴのせいで小学校に自転車免許制度とかいうのができてアスペ予備軍養成してるじゃねえか。何なんだよこれ。
しかもこんな頭のおかしい制度で免許持ってるのが国民のマジョリティだぜ、そのせいで「本人確認は免許証」が当たり前になってるし、保険証だと補助書類が必要とかマイナンバーカードは本人確認に使えないとか、免許証以外の身分証明は何が不満なんだよ。
国家資格を持ってるのが当たり前で、持ってないと身分証明が不便、就職が不利、仕事も幅が狭まる、道路でチャリは邪魔者、何でこんな異常な制度がまかり通ってるんだよ。頭逝ってるだろ。
車に興味ないのに周りが取れって言ってるから仕方なく行ったら制度がクソすぎて理不尽な扱いを受けてる。免許取れない奴は死ねって国が言ってるようなもんだぞ。