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2022-01-19

神社参道ところてん頼んだら「割り箸は?」って聞かれたから「ひとつください」って答えたら割り箸一本だけ寄越しやがった

神様に寄りかかって商売してるくせに参拝客に対してよくもまぁこんな幼稚な嫌がらせができるもんだと感心した

ほんと越後田舎者人間性最悪だ

2021-10-23

福岡」と見れば

修羅の国」とコメントし、

カレー」と見れば

飲み物」とコメントし、

越後」と見れば

製菓!!」とコメントする。

こういう人たちって、どれだけ同じコメントするのかな?

ボケ老人並みの反復力だよね。

たとえばその人が今30代だとして仮に80で死ぬとしたら、あと50年間ずっと同じコメントし続けるのかな。

2021-07-18

「だすけよ」≒「せやさかい

南部弁の相槌で「だからさ」

「だ-すけ-よ」と分解すると「だ」はだであるの「だ」、「よ」は強意

「すけ」さん、オヌシナニモノ?

かいにの意味

https://www.weblio.jp/content/%E3%81%95%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%AB

越後で「すけー」が話され

これよな

越後南部じゃ離れてるじゃないか、というのはそうなんだけど

方言周縁圏とかそういう感じの伝搬や残留なんじゃないか

2021-07-06

越後樽焼 旨み塩

なんか100袋に1枚くらい、せんべい汁が作れそうなくらい塩辛いのが入ってるな

もともと舐めて食べる血管破壊せんべいなので、気を付けてほしいと思う

個人的には80年代に稀に入ってた塩で真っ白なかっぱえびせんを思い出して好きである

2021-05-25

越後樽焼 旨み塩

これ塩辛いほうが表なの?

2021-05-19

anond:20210519071047

九州には沖縄も入るんじゃねえかとは思うけど、これが正しい

子供のころ都道府県を覚えたときにはこの区分しか知らなかったので、

未だに細分化された区分けはよくわかってない

表を眺めていて甲斐信濃越後甲信越なんだとさっき初めて気づいたレベルだし

改めて調べてみたら北陸東海というのは北陸道と東海道に由来するみたいだけど

昔のみやこである京都から眺めたとき北側東側という意味があるのかな

であれば、同じ列にある甲信越旧国名から名付けられた地域であるのも納得できる

旧国名廃止された廃藩置県明治2年首都東京に移ったのが明治4年で関連性もありそう

2021-04-10

飯山線越後◯◯駅

6駅もある

信濃◯◯駅は3つしかないのに

2020-05-14

anond:20200514212259

越後や庄内の大農家に嫁いだ若手(20代)の肝っ玉母ちゃんが一番の勝ち組になる。

2020-05-12

吉原繁栄の裏で「身売り」された貧困家庭の娘たち

https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/8905/

旗本と思われる匿名の著者の筆になる『世事見聞録』(文化13年)は、農村の身売り事情にについて――

 国々の内にも越中越後出羽辺より多く出るなり。わづか三両か五両の金子に詰まりて売るといふ。

 と述べ、越中富山県)、越後新潟県)、出羽山形秋田県)の貧農が幼い娘を三~五両で女衒に売っている、と。

 不作などで困窮した農村女衒がまわり、女の子仕入れていたのである

 

コロナが終息したら絶対面白いことがある。美人さんがお嬢風俗嬢)をやります。短時間お金を稼がないと苦しいですから。今はお金を貯めて踏ん張りましょう」

2020-02-23

[]anond:20200223185852

ある時、森之助の伯父で、先年村上家を出奔して武田家に仕えていた、相木市兵衛という者が塩尻峠を通りかかった。

市兵衛はその山奥で、鹿の背に乗せられ、猿たちに取り囲まれ赤ん坊を見つけた。

不思議に思った市兵衛は赤ん坊を拾って帰り、山の中で鹿に乗っていた子供ということで「山中鹿之介」と名付けた。

その赤ん坊こそ、長坂跡部の追手と戦ううちに更科姫とはぐれてしまった、彼女の息子であった。

その更科姫は、はぐれた息子を探すうちに山賊の砦に迷いこんでしまい、彼らを打ち倒して親分の座に収まっていた。

しかも、その山賊の一味だった烏勘左衛門という者が、実は武田家と対立する上杉謙信の家臣・蓑田五郎であった。

二人は協力して馬場美濃守を討たんと、手下を商人変装させて甲府へと送り込んだ。

ところが手下は早々に馬場美濃守に捕まり、一部始終を白状させられてしまった。

馬場美濃守は思案して、私の心底はこの中身を見れば分かると言って、その手下に「長持」を持たせて帰した。

手下から長持を受け取った更科姫がそれを開けてみると、その中から現れたのは死んだはずの森之助であった。

更科姫は、森之助との再会に驚くやら喜ぶやら。

実は、密かに馬場美濃守に助けられていた森之助は、それから馬場美濃守の影武者として活躍していたのだった。

このときすでに村上家は滅び、村上義清は越後へ逃れて、上杉謙信の家臣となっていた。

このまま武田に与して上杉と戦うつもりもなし、世を捨てて閑居しようと語り合い、

簑田五郎山賊たちを任せて、二人は武田家へ向かった。

馬場美濃守に暇乞いをしたところ、

上杉と戦う必要はないので、北条今川の押さえとなる諏訪原城を守ってくれないか

と頼まれしまい、恩人の言うことでもあるので、やむなくそれを引き受けた。

最後ということで伯父の市兵衛とも面会すると、そこにいた赤ん坊ははぐれた更科姫の息子であった。

夫婦は喜び、息子・鹿之助を引き取ると、諏訪ヶ原の城へと向かった。

2019-07-10

叔母から聞いた、顔から火が出そうな話

http://sharyoemi.hatenablog.com/entry/2019/07/09/215955

ホッテントリにあがっていたお○んこの話題で思い出したので書きました。

私の父と母は、お見合い出会ったらしい。

私の父は新潟中越出身で、母は神奈川出身、母方の実家新潟に親戚があり、そんな縁でお見合いすることになったらしい。

父は背が高く若いころはスマートな感じだったため、母にはそこそこ好印象だったらしい。

ただ、父は地元稼業を継いでおり母には嫁として新潟に嫁いでほしいということが念頭にあったようだ。

母としては都市部での生活を捨てて新潟に行くことにちょっと抵抗があり、というのもお見合いの席で父の言葉は、かなり訛りがきつくて、田舎くさいと感じてしまったようだ。

#今も父が丁寧に話す時、当人標準語を話しているつもりでも、こちからすれば越後弁が多彩に使われている。

結局、私が生まれている事からかるとおり母は決断し、お見合いは進んだ。

母は、姉妹が3人おり、そのうちの年の近い妹(これが叔母)を引き連れデートのような面談のような会食のようなものに父を誘った。

さて、田舎者の父が都会でのデートのため、半端な知識もつ近所の若者相談しながら、何とか計画を立ててデートの日に臨んだ。

まず待ち合わせには原宿で、竹下通りをぶらつきながらご飯でも食べよう。と、そういう計画だったらしい。

都内電車網に四苦八苦しながらも、何とか時間通りに待ち合わせ場所について母と妹(叔母)に挨拶も済ました。

ごみの中を歩き始めて、ご飯にでも誘おうとした時、

父「じゃあ、そろそろまんまんしようか」

母、妹(叔母)は、一瞬何を言われたかからず、「は?」と聞き返したところ、父はもう一度

父「いやあ、まんまんしようかなーと思ってて、妹さんも一緒にどうです?」

と恥ずかしげもなく返したそうだ。

稼業の影響もあって父の地声は人よりも大きいため、周囲の人はみな振り向き、妹(叔母)は「いや私はいいです」とドン引きして走り去り、母は顔面蒼白になり、「このお見合いは最悪なものだった」と絶望した。

越後弁に通じる聡明な方々であれば明らかだと思うけれど、「まんまんしようか」は越後弁で「まんま(ご飯)ん(に)しようか(しませんか?)」である

叔母から笑い話として聞いた範囲ではここまでなので、この後どのような急転直下があって私という塊が生まれたのか定かではないけれど、

父は今でもお昼時になると「そろそろまんまんしようか」と言い、母は訛りのない言葉で「そうね、もうお昼ね」と笑顔で返す日常が続いている。

2019-03-18

おい立食い蕎麦屋で飲む奴!

今日も一日お疲れ様でした。

俺も、無理矢理に今日仕事仕舞いにしたので、立食い蕎麦を食べ終わって帰るところです。

これから電車に乗って、胃の中でこなれてきたくらいに家に着くから、歯だけ磨いたらそのまま寝ちまおうと思う。

どうせ明日になったら、不思議に眼が覚めるんだし。

その立食い蕎麦屋(厳密には座れる。越後そばなので、スツールがある。)で、先客の二人組は既に酒臭かったんだが、厨房からお盆に乗って渡されたのは、まさか生ビール

立食い蕎麦でこういうのもアリなのか。知らなかった。

俺は、紅生姜天麩羅そばを受け取って食い始めると、その二人は酔いもあってか滅茶滅茶うるさい。ありがちだが、同僚や先輩の悪口を言い合って笑ってる。

「あの人、細かいことは気がつくけど、どーでもいいし、何喋ってるかわかんないし、人のことばっかり気がつくよな!自分のことは気がつかないのに。」

今の君たちじゃないのかね、それは!

かに立食いすすって帰りたかったのに、台無しでした。

という話を、ここで書いて発散したいだけ。

立食い蕎麦で、色んな発散方法があるという発見だった。

2019-02-17

越後長岡

雪が地層のように積み重なっている。上に行くほど白く、潔白となる。まるで何千年も昔からそこで雪を積み上げてきたように。

越後湯沢へ向かう途中。

南魚沼市沿線はとてつもなく、途方もない雪景色の真っ只中だった。

視界には白で埋め尽くされ、解像度を極端に下げれば白に収束しそうな雪、雪、雪。

長岡では大雪を期待したが、ここにきてようやくお目当てのものにかかれた。

上越新幹線を使わずに、在来線上越線を使って家に帰るのはこれで何回目だろうか。

夕暮れの近づく新潟南部は、灰色の背景を保ちながら、田園を走り抜く。

時々貨物とすれ違い轟音を立てながら。車輪が雪を踏みしめる音は重い。

もうすぐ湯沢に着く。今日ラストはどんな湯で締めくくろうか

2018-05-15

[]大村加卜

江戸時代初期の刀匠。

父親名字である「森」を分解すると、

大村」に「卜」を「加」えるかたちになるのでこう名乗ったともいう。

もとは外科医で、手術用のメスを自作するうちに、鍛刀の腕も磨かれていった。

最初越後高田藩、のちに水戸藩徳川光圀に召し抱えられた。

1704年複数人から闇討ちを受けて片腕を切り落とされるが、

加卜は切り落とされた腕を相手の口に捩じ込んで殺し、

また他の数人を返り討ちにした上で自刃した。

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