はてなキーワード: 走馬灯とは
たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章だから申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。
・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリのメタファとする解釈はこの児童文学作品を矮小化していると思う。あまり好きではない
→全く同意見で、書いた通り普段はテクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿の最後の作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品そのものの解釈は海燕さん他書いているのがよかった。
→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。
・一般向けではないというけど、次世代へのバトンや家族の話って極めて普遍的で、ジブリや宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分の物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ
→この辺りは宮崎駿は自己言及と普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。
・あの作品の登場人物を実在のジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。
→おおむね同意見で、自分もホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。
前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙な解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性の形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)
むしろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分の感想の本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。
追記ここまで
初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由は最後に書く)
見た人の多くは、ラストにかけてのメインストーリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴や比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。
個人的な結論を先に書く。(自分は普段はテクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)
まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出の飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。
オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿はトトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラは鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。
そしてここから感じたのは、宮崎駿の人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。
ていうことで、物語の根幹と宮崎駿の人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。
結論から書けば、空から降ってきた大岩は宮崎駿の才能、ギフト。宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリそのもの。その血を引く主人公は宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面は宮崎駿が投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎は拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面の告白、なんだと思う。つまり、スタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。
昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品の世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界の創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。
時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。
ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界・ジブリの後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)
関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後に世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑
そして物語のラストで吾郎はジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリは崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラストで宮崎駿は表したかったのだと思う。
総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的に感情も整理しながら、比喩的な物語と人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。
主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後の最後に告白し、汚れているから自分は継げないとジブリ世襲を拒否するシーン。
あれはなんかほんとに個人的な事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもをイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身や自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。
でもここは、ちょっと未整理。
まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。
ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品が言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。
子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス(配慮)が欠けている。
はっきり言って、一般向けではない。大衆、子供に映画を作ってきた宮崎駿やジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈を自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度、抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)
しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。
そして、これと同時に、自分のような批評する目線で映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。
以下に、その理由を書く。自分の感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと
となる。
例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人がうそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます)
これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物の感情や、物語における人物の立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。
作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。
で、それらの生理的な表現が今作で上げる最大の効果は「生理的な感覚として、見る者に言語の範囲外で意味を伝える」ことだと思う。
(自分は新海誠の映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)
はっきり言って、中盤以降は物語のテンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモアと人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。
理解として言えば、言語の範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的な理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント)
たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白のヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。
だから意味深がセリフが物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。
自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉で説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体的感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語的理解を拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。
プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報の多寡でしかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語の範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。
「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿は言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しかし生理的に理解している。
自分が最初の考察に意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分の勝手な感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。
一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明とエヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリの崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから、一部の人の批評や感想、特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。
あの映画はストーリーが破綻しまくってるので逆に心に引っ掛かりを残して、見た後に誰もかれも監督である宮崎駿を読み解こうとする。
鬼滅の刃を見て、原作者がどうのとか監督がどうのなんて話は誰もしない。
新海誠の君縄以降は売れ線志向でも監督を深読みされることもあるが、素直にエンタメとして楽しむことが本道であるように思う。
翻って君生きは、エンタメとしては煮え切らない不発弾に過ぎず、宮崎駿を知らない人間にはまったくとるにたらない駄作に映ることだろう。
いいや宮崎駿はそれほどの人間なのだから自分の表現の終着点としてああいう作品はあってしかるべきだ、というのも分かる。
あとは見たものにゆだねるから、勝手にいろいろ読み取って自分だけに映画にしなさい、という意図もあるかもしれない。
であるならば、岡田斗司夫を蛇蝎のごとく嫌ってSNSでカラーと結託してディスったのは蛇足だったなと思う。
岡田斗司夫的な物語の読み解きがこれほど必要になる映画もないからだ。
誰もかれも深読みしてSNSに私はこう読み解いた、あれはこういうことだと思うという「答え」が並ぶ。
皆答えを探しているので、有名無名に関わらずそうしたSNSの感想へのview数も増えていく。
いや案外目論見どおりなのかもしれない。
これはSNSバズを狙ったプロモーションであり、巧妙な岡田斗司夫潰しなのかも。
だってもうこの後に岡田斗司夫が何を言おうが、たぶん自分の中の答えがある人には自分のほうが正解になるから。
いずれにしても商業映画としてはどこかいびつで健全でないと思う。
そしてアオサギは鈴木敏夫の投影であるのはほぼ間違いないと思うが、鈴木敏夫のくちばしの穴に挿さった栓を握ってるカンヤダには、ぜひその栓を一思いに引き抜いてもらいたいものだ。
この話は難解という感想をよく見るが、その実は全く逆で、宮崎駿が監督作品として一貫して伝えたかった事を、教養のない愚かな大衆の為に限りなく簡潔で単純なストーリーに落とし込んだ結果、宮崎駿自身も「訳が分からなくなった」作品である。
この作品は宮崎駿の自叙伝であることは既によく知られているが、彼の内面やバックグラウンド、そしてこれまでの作品で彼が伝えたかったテーマの一貫性を保っている。
彼はそもそもこれまでの作品にも自分と周囲の環境とを幾度となく投影してきた。ただし、それは一部のマニアにしかわからないものであった。今回は、そのベースに加えて現実の宮崎駿自身の回想を複雑に絡ませて投影されているだけでなく、そのものずばりで作品のオマージュという形で追想しているのだ。
そしてここからが重要な点だが、当然それは単なる追想ではなく彼が監督作品で一貫して伝えたかった「生きるとはどういうことか」というテーマに対して「自分はこうしたがダメだった」のだというメッセージになっている。
戦闘機の風防を量産する軍需工場の経営をしていた父のもとで軍国少年として育ち、裕福ながらも厳しい家庭で母の愛を十分に受けることができなかった宮崎は、敗戦後左翼に傾倒して東映アニメーションで高畑功と出会い、強い影響を受けて監督作品にそれを秘めるメッセージをこめてきた。
これまでの監督作品で散りばめられていたオマージュや背景設定には、子ども向けの作品でありながら大人には「鑑賞者の教養」をもってして強烈な現代資本主義と衆愚政治に対するアンチテーゼが展開されてそれこそが深みとして楽しめるものになっていたのだ。
だがそれは一部のマニアだけが知るものとなり、実際に「大人」である大衆が想定以上に教養がなかったがためにジブリ作品のストーリーやアニメーションとしてのレベルの高さといった表面的なものばかりが「良い」とされ、宮崎駿や高畑功が伝えたかった事は伝わらなかったのである。
それでも宮崎駿は諦めず、本作のアオサギたる鈴木敏夫にそそのかされて愚かな大衆と私腹を肥やす連中のために作品を作り続けた。いつか伝わるだろうと鑑賞者を信じて。
いや、もう飛べないのに何度も何度も鈴木敏夫に首根っこをつかまれて。
そうして作った過去の作品たちだが、まるで伝わらなかった。そして彼は遂に「諦めた」のである。「諦観」にも近いだろう。戦後の日本人が当然に持っていた強く気高い教養は、戦後75年高まるどころか全く失われてしまった。
まさに劇中のインコのように、脳みそが小さく何も考えることができない、ただぴーちくぱーちくインターネットで喚き、特異なものを攻撃する。コンテンツをひたすら消費する愚かな大衆に対する、宮崎最後の強烈にシニカルな表現である。
そして現代日本人を代表するように庵野のような表現と個人主義的な自己実現による自己救済、新海のような風刺のない純潔な大衆作品、そして特に何もない残せていない息子が残った。中盤から終盤にかけて、継母のタッチが明らかにジブリのキャラではなく、庵野や新海といった顔の印象を残しているのは、「俺はこう生きた、お前らもあとは好きにやれ」という餞であろう。
こうした自身の溜まりにたまり、ある種の呪いに近しい諦観を、いよいよ吐き出し昇華せんと最後の力を振り絞って、教養が無くてもそれとわかるように単純かつオマージュもジブリ作品にし、走馬灯のように仕立てた。大叔父は死期を間近に控えた自分自身であり、13個の積み木と世界はスタジオジブリそのものである。自分自身が、自分自身に対してケジメをつけた作品なのだ。
「作家は経験したことしか書けない」は宮崎駿とて例外ではない。自己を総括するように、母性に対する渇望と周囲の女性達との思い出が上手く母・継母・見守るおばあちゃんたちといった具合に添えられている。
だが、この作品は紛れもなく宮崎駿の自伝かつ遺書であり、「君たちはどう生きるか」はこれまで一切メッセージが伝わっていなかった人間達に対する、まっすぐな問いかけである。
追記:
残念なことに、この作品を観て本当の意味で「あぁこれはねぇ~」と嬉々としてはしゃいで満足するのは岡田斗司夫ぐらいで、上記のような内容を今にYoutubeでレビューをするだろう。
もう遅いんやで。同僚に今朝も「あ、またそれ持ってきたんですねw 」とか言われて、昨日の妙に高いテンションにおける所業が走馬灯のように
死に際に脳裏に浮かぶ情景のことを「走馬灯」と呼んでいる例を目にすることが増えた。
本来は、死に際にこれまでの人生の様々な場面が浮かんでは消える様を走馬灯に例えて表現したもので、「これまでの人生が走馬灯のように脳裏を去来した」のように言っていたものだ。
そこで見える情景は、子供の頃のことかもしれないし、大人になってからのことかもしれないし、自分の大切な人を見るかもしれないし、いやなやつを思い出すかもしれない。
そういったものが次から次へと頭の中を駆け巡る様を、走馬灯が映し出す影絵がくるくると動き回る様子に例えたわけだ。
「死に際に走馬灯が見えた」というやつには「お前は本当に走馬灯を見たのか、見えたのか、そもそも走馬灯の現物を見たことあるのか」と問い詰めたい。
メロンパンにはメロンが入ってない!へいへいへい!って歌あるじゃない。
焼きそばパンに焼きそばが入ってなかったら!ってだと普通にクレームの歌になっちゃうわよね。
そんでね、
私先日隣の会社の人に
まあ例のオーリョーの件で色々調べているやつの例の私が以前いた会社のたまーにお手伝いとか仕事してるんだけど、
その会社の人に
牛筋カレー3日間煮込んだ美味しく出来たやつがあるから!ってお裾分けいただいたの。
でもね、
表題の通り
具が入ってなくて牛筋がいなくて牛筋大好きなので楽しみにしていたのに、
なんかルーしかプラスチックのお裾分け容器には入っていなくて、
なんか他のカレーの具のメンバーも例えばジャガイモやニンジンのそう言う類いのものも入ってなくて、
なんかルーだけで、
でもこれプラスチックのお裾分け容器にお玉でよそうとき具が入ってない?って気が付かないものかしらね?って
もらっておきながらクレームを言ういや違うの
牛すじカレーに牛筋が入ってない!ヘイヘイヘイ!って歌いたい気持ちを抑えて翌日にはその3日間煮込んで美味しく仕上がったであろう牛筋をまるで賞味したかのように牛筋美味しかったです山脈に向かってヤッホー!って叫んだのよ!
たとえ牛筋がプラスチックのお裾分け容器に入っていなくとも牛筋あったかのように賞味した体裁で美味しかったわよ!って言えるレヴェルなので、
あーでもほんと牛筋カレー楽しみにしていただけに大好きだっただけに
主役の牛筋がいなかったこと、
それに加えて他の例えばジャガイモとかのメンバーも一切いなくてルーだけだったことも黙っておくことにしたわ。
よくあるじゃない、
スイーツとかでもこれどうやって食べたら良いのが正解なの?って
これもきっと偏差値の高い牛すじカレーだったのかも知れなくて、
ゴロッとした牛筋の存在を確かめて噛みしめて賞味するタイプの牛すじカレーじゃなくて、
牛筋が充分3日間煮込まれ溶けた偏差値の高い牛筋カレーだったのかも知れないわ。
メロンパンの歌を歌う女の子より可愛く歌う自信が今ならマックスでその子より16倍高い気持ちで歌い上げることができるわ!
本当にあれってなんだったのかしら?って
首をかしげそうな、
トンチの効いた一休さんでも頭を悩ませそうな牛筋カレーだったわ。
あと
もらっておいて文句言うのは悪いけど、
塩辛いのよね!
どんだけ塩味効いてるの?途中で味きいてみた?って言いたいところで、
夜中喉が乾いちゃって水を一気に飲み干すぐらい喉が乾きまくりまくりすてぃーだったわ。
本当にいただいておいて申し訳ないんだけど、
そう!思い出したけど
目を瞑って必死に牛筋の3日間煮込んだであろうそれだったら牛筋エキスがたんまりと出ているかと思って舌にフォーカスして集中して感じようとしたけど
私の牛筋ステータスのレヴェルでは牛筋を一切感じられなかったわ。
ファイナルファンタジーのファイヴで牛筋を感じるアビリティを覚えたら真っ先に装備したいアビリティーで牛筋を感じたいところよ。
舌でも感じることの出来ない、
私の牛筋の鍛錬の修行が足りてないのよね?きっと。
おかげでこれ私が作った方が
ゴロッとしたほおばるような牛筋カレーを作ることができる自身に満ちあふれているわ。
多分私が作った方が美味しくできるって。
言ってることがよく分からないと思うけどとにかく凄い自信なの!
だから
メロンパンにメロンが入ってない歌の二匹目のドジョウになるけど
牛筋カレーに牛筋入ってない歌を歌って作るアイデアはあげるわ!
なんど思い返しても
ステルス牛すじカレーで大変偏差値の高い牛すじカレーを賞味したことには変わりないかもしれない。
そんで牛筋の口になってしまったから私が求めていた想像の牛筋カレーを満たすことが出来ていないから、
そのお裾分けの牛すじカレー一杯だけに!って別に上手いこと整って掛けてもいないけどダブルミーニングでもないからね!
でも美味しい牛筋カレー食べたいな!って思ったわ。
夕日の画面と重ね合ってそのベテラン刑事を偲ぶ走馬灯的なシーンって出てくるじゃない、
話題になった「元カレが好きだったバターチキンカレー」って当てつけでそれを再現してお店で出したら大繁盛したって話あるじゃない、
あれの
「牛筋カレーなのに牛筋が一切入っていない牛すじカレーと見せかけてたっぷり牛筋が入っている私が大好きな牛すじカレー」ってメニュー作ってだしたら売れるかもね!
なんつってー
でもほんとおかげでここ何日か真っ当な牛筋カレーを食べたいと牛筋カレーの口になっちゃってしまってるわ。
もー!ってね。
うふふ。
ここのミックスのサンドイッチには野菜パートにトウモロコシは入っていてプチプチとした食感に甘いコーンのスイーツな感じが美味しいわ。
朝方ほどよい常温になっていて
美味しく仕上がったわ!
茶葉多めにしたので濃いめ美味い味ね!
今はうまうまよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
女性声優が街で男の人に助けられてから結婚まで行ってたケースを見て、街の女性を積極的に助けようとするチー牛が息巻いているが、俺個人の経験から言うとチー牛が女性を助けてはいけない。
なおこれはもちろんn=1のケースであるため、お前の場合だけだろう、俺は人を助けるって気概があるやつを止めはしない。
数年前の話になるが、俺は夜の街で酔って倒れてる女性を見かけて、そのまま路上で寝てると危なそうだから声をかけて介抱したわけ。介抱つっても触ったりはしてない。横から大丈夫ですか〜って声かけただけ。
意識なさそうなら救急車だし、ある程度意識あるならタクシー呼んで乗せればあとはいいだろって思ってたわけ。幸い意識自体はあって生返事を返すくらいだった。
そしたら警官が寄ってきたんだよな。驚いたんだけど、どうやら俺が声をかけてる様を見て、誰かが警官呼んできたらしい。俺に対してめちゃくちゃ横柄に当たり強く尋問してきた。
面識がないって言っても、助けようとしてるだけって言ってもあんま信じてもらえなかったんだけど、争ってるうちに女性の意識もそれなりにはっきりしてきて、何もされてないです、面識もないですって証言してくれたから、ギリギリ謂れない逮捕を逃れることができた。
正直助けたことよりもめっちゃ心臓バクバクして、どうなることかとビビりまくってた。女性がたまたまいい人だったからよかったけど、触られたかも……みたいなこと言い出されたらどうしようかって思ってた。マジで死ぬ前の走馬灯みたいに、これからどうすればいいんだろうって会社のこととか人生のこととかウワーって頭の中駆け巡るわけ。
それから俺は女性を助けるのはやめるようになった。少なくとも、俺みたいなチー牛が女性を介抱するのは罪になりうるんだって学んだ。チキンすぎるって言われるかもしれんけど、こればっかりは疑われた人間しか分からんと思う。
親父の正体がプログラムだと子供の頭で理解した時本当に驚きだった
俺の親父は0と1で作られていると知ったとき、オリジナルの学習型AI素体を見せられて10歳の誕生日を待っていたと明かされた時、俺の親父は何者でもなかったのかと本当に痺れた
親父は亡くなる3日前に「パソコン持って来い」と俺に言った
親父はちょっとコードを変えてコンパイルしてちょっとコード変えてはデコンパイルしていた
親父はバイナリエディタでその中身を眺めては再びコードに変えられてデコンパイルしていた
親父が寝て起きて目覚めると10歳の頃に出会った学習型AIの素体に戻っていた
お袋は親父のその姿をずっと横で見ていた
お袋は「でもその中身は確かに私達だけのパパだったと言いたかったんだよ」と教えてくれた
親父は最後の最後にコードの羅列の中に刻まれ続けた初期プログラムとの差異を自分の走馬灯に選んだのだ
ありがとう親父
親父が残した初期状態のオリジナルAI素体を施設に送り届けて「この人はもう僕の父ではないけど、この人は確かに僕の父でした」と伝えてこようと思う。
ふと、こんな給料良いわけでもなく社会的地位も低い仕事やだなあと思い
ちょうどコロナが始まったくらいだったからめちゃくちゃタイミングが良かった
最初はそれはもうほぼ毎日泣いたし自分が無力すぎるのに周りの人は優しすぎるのが情けなくてさらに泣いたけど
慣れたらめちゃくちゃ楽しくなったし契約社員から正社員になれてエステティシャン時代から給料は倍近くなったし在宅勤務楽だしで最高だ…と思ってた
しばらくすると、自分がエステティシャンやってたこともなんだか恥ずかしくて経歴を隠すようになってた
オンライン会議とかで人の顔見てすぐ、(この人顔のここの筋肉凝ってるなー…)と思う自分も嫌だった
そんな感じだったんだけど、コロナがおさまり始めたから出社したとき
大好きな先輩が「なんか自分のマスクの下の顔、自分の記憶と違うんだよね…ショック…」と言った
そのとき、自分でも信じられなかったんだけど自分の口が「もし先輩が嫌じゃなかったらなんですけど、フェイシャルマッサージやりませんか?」って言い出した
本当にびっくりした
結局家に来てもらってやらせてもらったんだけど
先輩のお顔をマッサージさせてもらってたら走馬灯(?)のようにエステティシャン時代の思い出が蘇ってきた
初来店時に「友達の中で自分が一番ブスなんです」と言っていたお客さまが「◯◯さんに出会えてエステしてもらって、自分の顔が好きになりました」と言ってくれたこと
ブライダルエステを担当させてもらったお客さまの結婚式に呼んでもらって本当に綺麗な姿をこの目で見れたこと
母の日にお客さまのお母さまのエステを担当させてもらって、エステ後迎えに来たお客さまがお母さんかわいい!ってキャッキャしてたこと
しんどいことも色々あったはずなのに、幸せな思い出がぶわーっと頭を駆け巡ってた
先輩もめちゃくちゃ喜んでくれてずっと鏡見ちゃうって言ってくれて
あー、このためにエステティシャン6年もやってたんだなあって思い出した
そんなこんなで結局またエステティシャンやってるけどすごい幸せ
エンジニアの方が給料も高いし将来性もあるだろうけど、本当にやりたいことを見つけられたから良かった
だから何って話なんだけど、なんとなく書きたくなった
(追記)
こんなに読んでもらえると思わなかった🙇🏻ありがとうございます
ついでにちょっとお願いさせてください。
🌷顔(特に目周り)と肩をあたためて🙇🏻🌷
肩はもちろん、顔にも筋肉がある。
顔ってこるの?こり具合が分かるの?とびっくりする人が多いけど、エステティシャンからしたら「この方は歯軋りしてるなー」「右で食べ物噛んでるなー」「営業職なのかなー」くらいは分かることが多い。
眼輪筋って言うんだけど、まぶたの開閉等に使う筋肉だからほとんどの人は毎日酷使してる。
辛さの改善はもちろん、筋肉は凝ると膨張する→その部分が大きくなるので
凝りやむくみがマシになるだけで顔がしゅっとする。目がぱっちりする。
冷えやすいお腹や二の腕ぽよぽよは、脂肪だけではなく脂肪と見せかけたむくみであることも多い。
エステに来て身体の変化にびっくりする人がいるのは頑固すぎるむくみが原因のひとつ。女性は冷えやすいから特に。
あと顔のむくみの原因は肩こり(による血行不良)であることも多いから
肩をあたためたり近所のマッサージ屋さんにかけこんだりストレッチや筋トレを試してみてほしい。
身体だけのメニューやって、顔触ってないのになんで顔小さくなってるんですか!?ってびっくりするお客さまも多い。
【どうやってあたためるの?】
『水で濡らして絞ってチンしたタオルをのせる』or『専用のホットパックを使う』
電子レンジでホットタオルを作って(やけど注意!)簡単スチームエステをするもよし、あずきのチカラ等の専用ホットパックを使ってじんわりしっかりあたためるもよし。
ステマじゃないけどあずきのチカラのフルフェイスと首肩用、おすすめです。目元用もいいけど。
https://www.kobayashi.co.jp/brand/azuchika/
公式サイトがなかったから載せないけど、腰や背中がしんどい人はもっとでっかいホットパックがあるのでぜひ。レンジでチンするやつ。
あと余裕があれば耳回しもやってほしい。自分が気持ちいいと感じる程度で。
https://zutool.jp/column/prevention/ear_massage
お風呂しっかり浸かるとか運動・ストレッチ・筋トレするとかできればそりゃ良いけど実際難しいですよね。
あっためるだけで違うのでぜひ🙇🏻
そして、身体のしんどさの一番の原因は精神面のしんどさであることも多い。
スピリチュアル的なことではなく、身体と心は明確に繋がってる。身体が緊張すれば心が緊張し、心が緊張すれば身体が緊張する。
色々なことがある世の中ですが、みなさまそれぞれが思う良き時間・良き人生を送れますように。休める時は休んでください🙇🏻
ではでは🙇🏻🙇🏻
昨日彼氏と会っていて、きっともうこの先会うことはないんだろうなと思って、いや本当は今月あと2回くらい、来週の土日どちらか、会えると思ってたんだけど。
会話の流れで、忙しいからもう会えないかもしれないな。と言われて、確かにな、もう会えないかもって実感したらどんどん泣けてきて。
家に押しかければ会えるけど、それは会える最後の日を先延ばしにするだけで、きっとその日も一日中彼の胸で泣いちゃうし、仕事が忙しい彼の邪魔になるし、彼は私の事を疎ましく思うかもしれないしね。
だから、わんわん泣くのは今日だけ。今日は泣いていいんだよって言われて、内心なんだよと拗ねながら、彼の胸でずっと泣いていた。
あと10日間くらいは涙もろい日が続くだろうし、録画した映画も見る気が起きなくて、ブログを書くことにした。
大好きな人ができて、大好きって毎日伝えることができて、幸せだったし、生きててよかったって本当に思ったし、私の人生の宝物だった。
きらきら光る”宝物の時間”が私の人生に存在してくれただけでオールオッケーだなと。
死ぬ間際の走馬灯できらきら光る宝物で目の前がちかちかしたら、もう十分じゃないかと思えるくらい。大好きだった。
全然好きな人ができない時期とかもあってさ。出会いがないときもそうだけど、どんな男でも大好きになれるわけじゃないからね。
みんなそうでしょ?だから、こんなにこんなに大好きになれたことに感謝だし、彼、生まれてくれてありがとうだし、彼のお母さん産んでくれてありがとうだし。
神様、出会わせてくれてありがとうだし、こんなに大好きにさせてくれてありがとう。と思っているのですよ。
結婚しなかったとしても、別れちゃっても、結ばれなくっても、私の人生の中の大好きランキングにランクインしただけすごい幸運じゃんって思ってる。
33歳独身、結婚願望があるのに彼氏と別れて、まあ振りだし、に戻るわけで、人から見たら悲惨。結婚できなかったんだね。はいそうですよ。ってことなんですが。
ぽろぽろこぼれる涙と、弱い心の抱えて、それでもこんな風に文章を綴って自分の心を持ちなおそうとしている。
きっと私は強いのだ。
自分のこと弱い弱いというけど、人を救える強い人間だよ、って。
それって僕は救われたって意味だったのかなって。
そうかー。
大好きな人を救えることができたのかー。
よかった。
微妙に午前中予定で埋まってしまってあっと言う間に過ぎ去ってしまったわ走馬灯のように。
走馬灯の使い方合ってるのかしら?
よく分からないけど、
流れゆく時間の年月の早さを表現する方法のどちらかだと思うので、
だいたいはイキフンで合ってると思うわ。
忙しいときに限って
もうどうにもこうにもならないわ。
ホラ貝はしっかり集めてガチャ最低でも回したいし
まるまるフェス中をスプラトゥーン3で過ごすのも俳人まっしぐらで一句詠みたいほどよ。
あー
時間が欲しいわーって思いつつ
練り出していいのはカラシかワサビチューブかって相場が決まっているところだし。
そうそうそうよ!
やっぱりどう足掻いても
結局さ
やっぱりここはリズム的に意識してリズムを作らないと行けないって事だし、
ああ、
もどかしいわ。
この時間のなさの切なさが。
忙しいことは良いことかなとも言うけど、
心をなくしてはいけないわよね。
名言出たっぽいけど、
どっかで見聞きした受け売りよ。
心をなくすって
具体的にはどういったことかしら?って思うけど、
そう言った答えが見付からないそもそもとして最初から心がないのかも知れないわ。
だから忙しいのよ。
なんかたらい回しだわ。
うふふ。
頭使ってる証拠なのかしら?
よく分かんないけど
これやったっけ?って出来てる時ってない?
ないか、ないわよね。
そうそう
飲ま飲まイェーイ!だわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
昨日お友だちとバッタリ夜に偶然会った遭遇、
そんで夜だし一杯ルービーでもキメながら長時間にならないレヴェルで
駅ビルの85階にあるラーメン屋さんに一緒に行きましょう!ってなったの。
気にはなっていたんだけど
私が心の中で決めている初めて行くお店は飛び込み前転では入店しないってポリシーはあるかないかは分からないけど、
なにせ初めてのお店なのでお行儀良くしなくちゃって思ったの。
だってお友だちが一緒とはいえラーメン屋さんの注文で間違ったら大将にこっぴどく怒られる味集中システムの仕切りのあの板で叩かれるわ。
私はお友だちと一緒に初めての注文に緊張しながら着席したと同時に
安堵の息を吐いたの。
なぜだか分かるかしら?
ここのラーメン屋さんもタブレット注文で注文を発注していくタイプのラーメン屋さんだったので、
私たちは着席するなり
ラーメンを美味しく食べます!ってラーメン食べ選手権の選手宣誓かのように、
文字通り本当に選手が選手宣誓するときに手を上げるぐらいのレヴェルで手を上げないとタッチがパネルできないクイズどころの話しではなかったのよ。
お友だちは冷静沈着でその注意力の高さから
注意力3万の威力を発揮し、
これで私たちはなーんだ簡単に注文できるじゃない!って間違えたら怒られる心配もない恐れで
私がラーメンを食べるのが本当に久しぶりすぎて
ラーメンの味を忘れていたのよ。
これ本当に美味いやつの日清の逆のダン・スバーン!って違う違うそれはアメリカ合衆国の男性プロレスラーの人の名前!
蔵出し醤油こがし背脂のそのラーメンを美味しく感じることが出来なかったの。
私が決してグルメ舌、
まあラーメンはともより、
話しに花が咲いたから良かったんだけど、
私がラーメン美味しい!って食べてた頃の思い出の
基本になったラーメンの味のプリセットを巡る思い出のラーメンが記憶されているラーメンの私の美味しさのベーシックになっている基本的なことだったかも知れないなって感じたの。
私もきっと幼少期の時に食べたラーメンを川を上りながら食べたら、
美味しいラーメンの味を思い出せるかも知れない鴨鹿って思ったの。
だからふと、
私の思い出に近い味の生まれ育った鮭も美味しく食べて多であろう私の基本味ラーメンを探しに出掛けようと思ったの!
その話をしたら
お友だちの人がなら84階にあるよ!って言われたので、
まさかのさすがのにしても、
85階から84階へハシゴで伝っていくのは外は落ちたら危ないわ!ってことになったので、
また次回ね!ってことになったの。
今度行ってみて食べてみようって思ったわ。
きっと食べ慣れてない味のラーメンはあんまり美味しくないかも知れないという脳のかつて脳の記憶が走馬灯の様に
提灯に書かれた色々な水墨画タッチで描かれたラーメンの模様がぐるぐる回っている風景と同じように、
そう言うものなのかも知れないわねって腑に落ちたところよ。
だから今度は
食べられるように
この84階の事は忘れないように、
しかと心に刻むようにしたわ。
商業ビルのエレーベーター登って扉が開いたらもうすぐ店!ってタイプの心の準備が出来ていないのに入店になっていた!ってタイプのお店ってあるじゃない、
そう言うお店じゃないことを祈りながら
エレベーター前にはせめてもの踊り場的なところが場違いにあれば入店しやすいな!って、
次行くときの心がけとして準備しておくわ。
自家製麺!塩豚骨白湯背脂蔵出ししょうゆ樽仕込み焦がし味噌にんにく野菜たっぷりラーメン。
麺を噛む前に
舌を噛みそうよ。
店内BGMはAMラジオじゃなくてズージャーが流れているのでもなくて
呼んでいる胸のとこか奥で~って
「いつも何度でも」の曲がエンドレスで流れているラーメン屋さんよ。
うふふ。
食べ過ぎ注意よ。
黒烏龍茶で帳消しに出来るとは思わないけど、
かと言ってウォーロン茶ウォーラーでもなく
レモン果汁タップり2つ分搾り炭酸レモンウォーラーにしました。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
昨今【推し活】【推しのいる生活】などという言葉をよく聞くようになった。
推しがいることで日々の生活をより楽しめるようになる、といった気持ちはオタクとしては非常によく分かる。
数年前の話になるが、いまだに思い出しては複雑な気持ちになるのでこの場を借りて綴っていく。
なお特定を防ぐために商品やジャンル、会社などの具体的な情報は伏せておく。
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数年前SNSで『オーダーメイドで推しの概念グッズが作れる!』というツイートが爆発的にバズっていた。
無論私のTLにも流れてきて、元ツイやリプ欄には手ごろな価格でオーダーメイド、実用的、複数購入なら推しカプも作れるということで、称賛の嵐であった。
特段欲しいと思わなくても、数々の称賛ツイートを見ていると次第にその気にもなってきてしまう。
すると数日後、そのツイートを見たであろう友人から早速お誘いの声がかかった。ミーハーな私は二つ返事でOKした。
HPで確認してみると、SNSの影響のためか全時間完全指定の整理券制となっていた。当日向かってみると整理券をもらうために早朝からたくさんの人だかりができていた。
その多くが女性客であり、無論オタクであった。並んでいると彼女たちの推しの話やジャンルの話などが聞こえて、どんな風にグッズを作ってもらおうか、などの声が聞こえてきてとても面白かった。
中には短時間でより深く理解してもらうためにプレゼン資料まで作りこんできた猛者もいた。こういうオタクたちの推しへの情熱は聞いていてとても楽しい。さながらコミケの待機列のようだった。
私もどんな風につくってもらおうかとワクワクしながら何とか整理券をもらうことができた。
時間がくるまで友人と街をぶらぶらしながら、推しの話やジャンルの話をしつつ自分の中で解析度を高めていった。
そしてとうとう私たちの番がきた。整理券を渡して受付に通されると、個別のカウンターが並んでいた。店舗はあまり広くはなかったので、自らの推しの魅力を初対面の店舗スタッフさんに熱心にプレゼンする女性たちの姿も丸見えであった。あれが数分後の自分の姿かと思うと正直かなり恥ずかしかったが、せっかくここまで来たのだ!!私は覚悟を決めた。
私は友人と二人での来店だったので、順番にまず私から対応してもらうことになった。
事前の情報で、推しの画像やら写真があると分かりやすいと聞いていたので、さっそく用意していた画像をスタッフの女性に見せた。
「あっ!この子知ってますよ~!」と朗らかに笑う女性スタッフ。(先方が作品名を知らなかったらどうしよう…)と思っていたので自分の推しが認知されていて正直ホッとした。
一瞬、向こうが何を言ったのか本当に理解できなかった。
………ナサケナイ…ナサケナイって何……?知らない日本語だ………
聞き間違いかと思って、恐る恐る愛想笑いをしながらもう一度確認してみると元気よく盛大に大きな声で返された。
正直、私の推しは世間的にはやや知られているキャラクターではあるが、アンチも多い賛否両論のキャラクターである。実際、今までも彼が推しであることを伝える人種は信頼できるオタクのみに限られていた。まあ確かに、多少、ほんの少し、万が一は『あるかもしれない』とは思っていたが、まさかお金を払ってまで推しのグッズを作りに来たこの場で言われるとは思ってもみなかった。
あまりの想定外ぶりに半分脳が死んでいたが、目の前で推しを侮辱されるのは我慢ならず、愛想笑いをしつつも「いやいや!そんなことないですよ~!頑張り屋でカッコいい子ですよ~!」と返してみるものの、向こうは「情けない」「ダメなやつ」「ヘタレ」のなどの一点張り。
今になって思い返してみると、その女性スタッフは私が【そのダメンズぶりが好きな人】だと思っていたのかもしれない。だから彼のダメンズぶりを何度も主張してきて最終的に私に「その駄目ぶりが好きなんです~」と言わせたかったのかもしれない。
しかし何とか彼の良さを分かってもらわねば…!そうしないとグッズを作ってもらえない…!私は彼の良さを分かってもらえるように必死にプレゼンしてみたが、向こうは私の必死ぶりが面白かったのかただケラケラ笑うのみであった。自分の言葉が相手に一切伝わらない。頭の中が真っ白になって、私はとうとう何も言えなくなってしまった。
隣のカウンターの女性たちの推しへのプレゼン話が聞こえてくる。あーでもない、こーでもないと言いながらも、みんな本当に楽しそうであった。
私はなにか間違ったのだろうか。どうして私は、今日何のためにここまで来たのだろう。
何のために朝早起きして、わざわざあれだけ並んでまで整理券までもらったのだろう。
余談だが、私がこの日を迎えるまでの精神状態は最悪であった。転職活動がうまくいかず、二日前には圧迫面接を受け、面接官には人格否定までされた。だからこそ今日は推しのグッズを作ってテンションを上げて気分転換してまた頑張ろう!そう思っていた矢先の出来事であった。
そうまでしてやっとのことで迎えた今日が、なぜ今こんなことになっているのだろう……
様々な思いが走馬灯のように思い浮かび、目頭が熱くなってしまった。「……あれ?」っと思ってみると涙がポロポロとこぼれてしまっていた。まずい。これは非常にまずい。めんどくさいオタクだと思われる。いい年して恥ずかしい。みっともない。消えてしまいたい……。
そんな私の様子を見て、周囲も異変に気付いたようで他のスタッフや周りの女性たちも怪訝な顔をしてこちらを見ていた。そんな様子を見てさすがにまずいと思ったのか女性スタッフが必死に見え透いたお世辞を言ってくる。さっきまで散々情けないだのヘタレだの言っていた私の推しを、急にカッコいいだの可愛いだの持ち上げてきた。そんな様子を見て、また別の意味で泣きたくなった。
他のお客さんにも友人にも申し訳ないので、その時間は友人に譲って、私はそそくさと席を外した。正直、二度とこの場には帰りたくなかった。あんな醜態をさらしてどの面下げてまたあの場に戻れるというのだろう。もう今すぐにでも帰りたいが、友人を置いて帰るわけにもいかない。それこそ本当の自分勝手だ。どうしようかと思っていると私の様子が落ち着いたのを見計らって別の女性スタッフさんが対応してくれた。
正直、あんなことがあったというのにこの店で商品を購入するのは気が引けたが、今度の女性スタッフさんがとても良い人だったのでお詫びの意味で購入することにした。
帰り際、件の女性スタッフから謝罪があったが、私はすぐに帰りたかったので迷惑をかけたお詫びだけ言ってすぐにその場を去った。なお友人にも謝罪したが、「あんなことで取り乱すなんて情けない。一緒にいて恥ずかしかった。今日のことがあったせいでこのグッズ見るたびに思い出すじゃん」と吐き捨てるように言われた。ショックだった。
確かにせっかくの推しグッズを台無しにしたのは申し訳ないし、その怒りをぶつけたくなるのも分かる。でもあれは私だけが悪かったのだろうか、自分にもグッズを作りたいほどの推しがいるのに、なぜ私に「あんなことぐらい」なんて言葉が言えるのだろう、という想いもどうしても拭い去ることができなかった。この日を機に友人とはしばらく距離をおいた。
結局このとき作ってもらったグッズも、その後一度も使うことはなかった。友人が言った通り、【思い出す】からだ。買ったときの状態でそのままクローゼットに仕舞い込んだ。正直もう見たくもなかったし、手に取りたくもなかった。
この件を経てから、私は昨今のオタクビジネスについて思うことが多くなった。推しという夢から覚めて現実を客観視できるようになった。
今回の店も表面上はオーダーメイドとうたっているが、実際は指定された枠組みのなかで組み合わせを楽しむだけの商品である。それを私たちオタクが【自分の推し】に見立てて、勝手に盛り上がっているだけなのだ。同じ商品でも見るオタクが変われば、それはそのオタクの推しの概念グッズになるのだ。彼女たちが熱心にプレゼンしたところで、指定された枠が増えるわけでもない。スタッフはオタクたちの夢を壊さないようにただ話を合わせてくれているだけなのだ。
実際メルカリを見れば同じ商品が概念グッズでもなんでもなく、ただの普通の商品として売られていた。どんなにオタクが盛り上がっていても一般人からみれば、所詮そんなものなのだ。
一年ほどしてようやく気持ちの整理ができ、手に取ることができたので、メルカリで売却した。
企業にしてみれば、オタクほど金になる木はない。良いと思ったサービスはSNS拡散してくれて、それにつられて同じようなオタクが集まってくる。巷では、作品名やキャラクターを変えただけの似たような企画のコラボカフェ、グッズが溢れかえっている。もちろんそれて経済が潤い、ジャンルが盛り上がり、喜ぶファンがいるのだからそれ自体はとても良いことだとは思う。
しかし、それらはあくまで「ビジネスとして」ということも忘れてはいけないのだと思った。ビジネスなので、サービスの提供側は作品の理解が高いわけでも、オタクの気持ちがわかるわけでもない。当たり前だが、相手にこちらと同じ熱量、もしくは理解を期待してはいけないのだ。企業はただ売れる商品を作り、オタクの夢を壊さないようにするだけである。何故ならこの夢が壊れたとき、オタクは金を落とさなくなるからだ。そんなことを私は悟った。
苦い経験ではあったが、この件のおかげでSNSで盛り上がってるからといって深く考えもせずに突撃するようなことはしなくなった。周りではなく、純粋に自分が欲しいものだけを買うようになった。
あれから友人との付き合い方も見直した。なお転職先は無事決まったので、そこんところも大丈夫である。