はてなキーワード: 賤民とは
いまんとこ「新自由主義に対抗した全ての抵抗勢力は滅びた」という現実をもとに、「大きな政府・ケインジアン・人口増加」という『アンチ新自由主義』連呼くんが支持するロジックをクラッシュさせるがために努力してきた。今日も同じ方法で戦うのはしんどいので、こっち側から『アンチ新自由主義』連呼くんの琴線に触れそうなネタを提供して、議論していこうじゃないかと思う。
なんと言っても、今の政府は「大きな政府」をとると危険なの。1つはコストだ。アメリカのように「大きな政府」をやる連中ですら、トレード・オフで解雇規制を受け入れている。そのため、いちど採用すると解雇ができない日本にとっては、法律が基本となる労働の法律を改正する必要があるが、今はマスコミもうるさいので不可能だし、既得権益は拒否するだろう。もはや国土の開発が終えたこの国に、需要のない新規開発を公がする必要はないのです。そのため、「大きな政府」をやってもリターンを上げる領域が存在せず、人員を採用しても無駄になる。マルクスが「資本主義の果に」唯物論で解決できない問題があることに気がついたのは、正しいのです。ですが、問題は「唯物論」で実体経済は語れない、ということは当時の後進国のドイツ人同郷であったライプニッツが嘆いたように、先進国の人々は「後進国と同じことをしたら負ける」ということは既知の問題を『共産党宣言』で後進国民なら存続可能で教育可能な「エリート」という存在で勝てる、という妄信を先進国でも可能という認知誤認から起こりました。この欺瞞を暴いたのがハイエクであり、先進国においては「エリートは社会の負担を増やすだけ」という告発をする必要がありました。つまり、共産主義者なんて田舎のヤンキーのボスの「夜露死苦」というミームがクールだと思う馬鹿の集いだよ、って話だよ。
彼は資本主義社会においても「一定の規律をもったまま」に公共投資に投資するという方法を、世界恐慌のもとで実施可能だという主張を肯定することが可能だった瞬間があったから可能だったのよ。(若年層の犠牲を活用した)デフレは進むけど、(年齢階層がいびつなせいで票田にメリットがある)感覚としての経済が悪くなくて、下手に経済状況がインフレすると老人たちは生活が厳しくなるという現実を否定してまで、経済成長は必要かね?今の日本に投資されないのは、それなりにメリットがあるからだよ。それに GPIF という国家の投資機関は『現代ポートフォリオ理論』という金融工学の果てを知っていると、随分と日本へ投資してくれていると思うよ。もはや、我が国に「投資したら、こんだけ儲かるだろうなー」って場所が無い以上は、日本国には直接投資は不要です。海外に投資したほうが、本当にマシです。地方を切り捨てて、東京はシンガポール化したほうがもっと輝きますのに、大都市の資本はイオンは地方に投資してくれるので、地方民はイオンに感謝するし、地方が統一化するのを嘆くのは「東京人」の「理想の田舎」を押し付けているだけなので、差別の固定化を「アンチ新自由主義」でやることは、地方民からすると万死に値します。知っているかもだけど、地方自治体のモールは隣にイオンができると負けます。つまり、儲かる領域での役所の仕事なんて、令和の日本にはないんだよ。
という選択肢を、超賤民どもが単一人民として受け入れると権利団体になっちゃうという過去の嫌な例もあって、日本国民は「経団連の奥田」が発起したのを拒否したし、子どもの権利条約で批准された教育を受ける権利は否定できないし、金銭と労役の補助なんて都市部だとアホみたいにやっているのに増えないのだから、諦めるしかないんじゃないの?
昨日は「日本は人工肉がつくれなかった」という議論をして、一瞬「負けた」と思ったよ。だけど、「民間企業のキューピーが、模造卵を開発してコンビニが活用している」という事実を思い出したら、ますます公共投資が民間投資に負けている事例を見つけて、本当に嬉しかったよ。遊戯王世代なのはあたりだよ。今日も楽しくバトルしようね!俺のターンは終わり、つぎはアンチ新自由主義くんのターンだぞ。
いわゆる不可触賤民?という、地元でも誰も寄り付かないような村の近くを通りかかった。
なにやら森の中に小学生くらいの男女4~5人が何かを探しているような動作をしている。
「彼らはなにをしているのか」と問うと、バイクタクシー&観光ガイドのおじさんは
「生活のために何かを探している」(?)的なことを答えてくれた。
お互いの英語が拙かったのでよくわからなかったが、何か不思議な感じであった。
明らかに山菜や木の実が取れるような森でもなく、意味がよくわからなかったが、
当時若者であったワイは、その無意味とも思える行為に子供たちが従事していること、
そこまで日々の生活に困窮していることに悲しくなってしまった。
金を渡しただけだとわかると安堵していたようだった。
その後も同じようなことをしている子供たちが何人もいたので、
子供たちは淡々としたようすで、5ドルの意味がよくわかっていなかったようだが、
山中の数時間のロードトリップが終わり、バイタクのたまり場に戻ると、
おじさんは「このジャパニーズはこれこれこういうことをしたんだよ」
みたいなことを仲間に伝えていたようだった。
すると仲間のおじさんが突然こちらに抱き着いてきてサンキュー的なことを言っていた。
不可触選民とはいうものの、現地民とっても、彼らの貧困は目に余るものだということだろう。
日本で、自分と家族のためだけにサラリーマンをするのではない、
男オタクは自分たちはキモいものだという視線を内面化してるだけだよ。
「キモい」は「オタク」の枕詞じゃん。令和になっても「キモオタ」みたいに言われること多いじゃん。
男オタクは「キモい」と言われることに慣れているだけ。自分たちが「キモい」と思われていることを知っていて、諦めているだけ。諦めているから向上の努力をしようとしないだけ。
「三次元の女より紙とJPEGの女」ってのも、言ってるやつの8~9割は酸っぱい葡萄だから。どうせこんな容姿だから無理だよ……っていうのが骨の髄まで染み込んでいる。
で、全体的にファッションセンスが壊滅的なので、っていうか女よりファッションに興味がない男の中でも特にファッションセンスがない連中を選りすぐったのが男オタクなので、オタク同士で外見で貶し合いっていうのは基本的に発生しない。
(っていうか、そもそも論として、よほどのことがない限り男同士で外見や服装を品評することはないよな……これはオタクに限らずそうでしょ。そもそも服装に対するジェンダーの差があると思うなぁ。男は服装について色々考えることが嫌いなのです。もちろん先天的というよりは後天的な文化的刷り込みだと思うけどね)
それでもって複雑なのは、単に見た目を整える能力が欠如しているから見た目がキモいんじゃなくて、あまりにキモいキモいと言われ続けたせいで「見た目がキモい」ことがなんというか男オタクの自画像になっちゃってる感があるということだ。
昔、よく戯画化されたオタクで、チェックシャツにバンダナ、みたいなのがあったよね。今から思えば差別的な目線だけど、でも、あれが「オタク」であり、俺たちはああいう存在なんだ、っていうアイデンティティはあるよね。
ニコニコ動画でアニメとか見てるとさ、そういうテンプレ的なオタクの服装したやつがモブで出てくると、「俺らじゃん」「お前らwww」みたいなコメントが飛び交うし、自分がオタクを自称して「俺らオタクはさ~」っていうときに、そこで思い描いてる「俺ら」ってのはパリッとしたスーツを着こなしたイケメンじゃなくてチェックシャツのバンダナ眼鏡だと思うのよ。
イギリス人にとってのブリタニアとかフランス人にとってのマリアンヌが、俺らにとっての「デュフフwww」とか言っちゃうチェックシャツのキモオタなんだよな(実際にはもう秋葉原でもチェックシャツとか着てないやつの方が多数派だけど、まあ多くの日本人も日常生活で着物着てるわけじゃないし……)
なので、多くの男オタクは、外見がキモいと思われることに(他の趣味を持っている男たちと比べると)頓着しない傾向がある。でもそれは容姿の品評から解放されているからじゃない。まったく逆だ。容姿の品評会で敗者であることを自覚し、それに甘んじているからだ。容姿の品評会で敗者であることが自己認識の一部になっているからだ。
男オタクにとっては、オタク趣味全体が他の男たちや女たちから「あのジャンルってキモい男が推しがちだよねw」って言われる対象だったわけで。
逆にその「キモいジャンル」の内部、つまりオタク趣味の内部ではそんなに服装の縛りはきつくないんだけど、賤民のあいだでは平等な関係であることを身分差別から解放されてるって言われても困る。
余談。俺のこれまでの経験からすると、オタク趣味に走る男の外見、他の趣味に比べて明らかに一歩劣るよね。原因なのか結果なのか偶然なのか観測範囲の偏りなのか俺の思い込みに過ぎないのかは知らんけど。
原因っていうのは、つまりオタク趣味というのはスポーツや吹奏楽とかとは違う周縁的な趣味であって、いじめられっ子の駆け込み寺のような役割を果たしている場合もあったからだ。「外見がキモい」がいじめのトリガーの1つになることは多いので、駆け込み寺に駆け込んでくるやつらの外見が駆け込む必要のなかったやつらより平均的に劣ってるのは十分ありえる。
結果っていうのは、オタク趣味って運動不足で不健康になりやすいのと、他の趣味と違ってファッションに対する意識があまりにも低いので、結果としてそういう界隈にいるやつらの外見はフットサルやってますとかそういう連中に比べて劣るものになりがちだろう。
でも実際、オタクと非オタクのあいだでの容姿の差ってどのくらい統計的に立証できるんだろうね。倫理的にアレだから真面目に研究することは難しそうだけど……
読み専のちょい昔の記憶だと
というイメージ
BLは最大派閥だし、人数の多さ故に一番声もでかくて力もあったし
そのnoteの人が言う通り「自己投影じゃないから偉い」って風潮もめちゃめちゃあった
男女は男女嫌い女嫌い腐女子に攻撃されがち&人数も少ないので隅に追われがち
夢は他全般から嫌われがちな上、名前変換の性質上ネットでしか成立せず紙の同人誌出せないしで最下層賤民扱い
CPなしの人は大体誰でも読めるため派閥争いに巻き込まれないイメージで別枠
(女性向けを叩く男はいたけど、女からしたらそういうのはあくまで「別世界からやってくる迷惑な荒らし」扱いであって
女の方に「男性向けは女性向けより偉い」と言う意識はなかったと思う)
んでこれは2ch史観(2ch同人界隈の板はもろこういう感じ、男性向けの板は知らないけど)
ジャンルによってはたまに男女CPの方が多い所もあって、そういう所はBLが叩かれる
所であの「自己投影」がそう認定されたら袋叩きにして良いマジックワード扱いだったのって何だったんだろう
メアリースーとかね
スマン、最初の十行くらいしか読まずに書くんだが、そもそもオタクって言葉が仲間内を自嘲して言ってたって説があってな?
下手の横好き、だとか、釣りバカ、だとか、麻雀狂みたいな感覚だったと思うんだよ。
最初に記録があるのはどこかの作家さんの侮蔑らしいんだが、創作側として素人批評家を嫌悪しての軽い気持ちだったんだろう。
それを受けて、「しょせん俺達は――」って使い方だったんだよ。
それから、漫画規制派のPTAや批評家、新聞週刊誌、テレビなんかが乗ってきた。
赤軍があしたのジョーを引用したり、冷笑やナンセンスギャグが左翼と繋がりがあったりで、反体制的って見方もあったんだろうな。
それに加えて出版、報道、広告側に軽い賤民意識もあったし、批判をさせずに既得権側が一方的に発信をする為の、藁人形的存在として使うのにも都合が良かった。
インターネットは犯罪者の巣窟だって報道されていた頃を知ってるかい?
本来は学術者の研究ネットワークだったり技術に関する情報交換の場だったのに、やっぱり当時のネット住民やパソコン通信からの移動組は同じように自分達を笑っていたよ。
専門家も似たようなものだった。自分達は学者バカだから、ってね。
出版、報道関係者はその間ずっと、ネットから情報を盗んで報道し続けていた。
もちろん、出資をしたりコミュニティを育てたりしていた人もいたけど、ネットが情報で新聞やテレビを越えるのはあってはならない事だったからだ。
韓国に対する報道を振り返ってみれば、そういう業界がどれだけ無責任に何かを持ち上げたり嘲ったりするかはすぐ分かるだろ?
それでも結局、そういう表現や言葉がなくならないのは人間の内側にある意識の問題なんだよ。
「アイツらに比べればマシ」
って思える何かがあれば、辛くても大抵の人は我慢できる。
比較広告や業績や成績や肩書で自分達は劣っていると思い込まされても、そういう「アイツら」がいれば爆発せずに済むからだ。
最近はあまり使わないけど、これをスケープゴート、なんて言うよね。
「オマエらは生贄なんだよ。どれだけ抵抗してもそういう底辺がいなくなることは絶対にないし、代わりを作ればいいだけだ。
幸せだろう? オマエらのおかげで誰かが犠牲にならずに済むんだから」
ネットの黎明期に、そんな事を俺に匿名で言って笑った奴がいたよ。
何かあるたびに、どうせ知能が低いんだろう?という、無言の蔑みを、
中学のクラスメイトが言っていたが、俺の顔は、失敗した腹話術みたいとのこと。
しかし、自分で言うのも悔しいが、彫りが変に深くて、赤塚不二夫の漫画に出てくるキャラに思えることもないでもない。
見慣れた自分の顔だから、好きではあるが、もうちょっとのっぺりとしていたらと、何度思ったことか。
親は恨んだことはない。
一応、某難関国立大学卒。IQも高い。年収だって一千万円超えで、貯金も一人で生きていく分は余裕である。
しかし、人生って見た目が99.999999%なんだなと認めざる得ない。
悲しくてやるせないが。
少なくとも、増田でうろうろしている奴らよりは、金もあるし、頭もいい。
はー
俺らみたいな鈍感で身勝手な賤民に、罪悪感とか内省みたいな高尚な心機は似合わないからやめようぜ。
せこい罪にいちいち悩んで罰を期待してみたり、浅い内省をして心を知った気になったり、いったい何のおままごとをしてるんですかね。
内省なんてものは河原でひたすら砂を数えるようなものだと思いませんか。一万粒も数えてみれば達成感は得られるでしょうが、ほとんど何もできてないんだってことは顔をあげて、だんだん狭く閉じられてそれでも視力の先へと続いていく川の上流を見れば分かるでしょう。
砂粒を拾うたびに小さな罪を見つけて一喜一憂するなら、そんなものとっとと川の増水に流されてしまえば良いじゃないですか。どうせ、すぐにどこに流されたか見つけられなくなってしまうような罪だ。見つけようにも紛れてしまって、形すら忘れてしまっているような罪だ。
罪の意識と内面への探求の下に自己陶酔が滲みだしてるぞ。対象に観測者が入れ込んでいる。俺たちは砂粒を数えてるんじゃなくて、砂粒を数える自分を見てるんだ。砂粒は無限だが、目は二つしかないんだ。どっちが簡単で、どっちに気を取られやすいかは、瞭然だ。
だから、馬鹿みたいに笑って生きてればいいだろ。頭を空っぽにして罪のない笑顔で欺き合ってればいいだろ。見なかった振りをするくらいなら、見るのをやめればいいだろ。その方がむしろ誠実だろ。俺たちが見下してる馬鹿で粗野な人間みたいに。
どうせ、そんなことしても、やっていることは今と何も変わらない。それこそ砂粒一万ほどの誤差しかないのだ。
でもそういう消費豚がオタクを自称することはなかったのよ。その主な理由はオタクが賤民であって自称する魅力も利益もなかったからなんだけどね。
そもそも中世から昭和に続く日本社会において、未成年は家の従属物(ソフトな表現)だったし、成人女性は家事労働提供者(ソフトな表現)だったし、成人男性は会社の奉公人(ソフトな表現)だった。この社会において自由の幅ってのは現代に比べて極めて少なく、特にそれは趣味分野において顕著だった。庶民が嗜んで白眼視されないものなんてのは、男性において飲む打つ買うとその後継だけだったし、パチンコなんてのはその最たるものだった。女性においては男性にもましてきつきつであり、かろうじて数種の習い事が芸として社会認知されてたかどうかくらい。書物を購入してそれを読み漁るなんてのは、金持ちの道楽であり、庶民の間ではむしろ唾棄すべき軟弱さの現れとみなされていたふしがある。まあ、だからこそ与謝野晶子あたりの明星派などによる「既存の価値観への抵抗」としてのそれがあったわけだけど。
高度成長期を経て70年代から急速に文物が発展して、今現在趣味と呼ばれる文化が爆発的に多様化した。多様化した以上に「余暇に個々人が己の興味のあることをして過ごすのは当然の自由であり権利である」という認識が一般化した。テレビ文化がひろまって、ヒッピームーブメントの余波から洋楽ブームが来て、ニューエイジ思想からオカルトブーム、UFO!心霊写真! そしてフジテレビとホイチョイが結婚してユーミンがウィンタースポーツブームを生んで、広瀬香美とチューチュートレインが若者を苗場に連れ出した。
の、だけど、そんなに主体的に生きてる人間ばっかじゃないのよな。増田の言うとおり。結局現在、「ソシャゲと深夜のアニメとネットの炎上案件に対するコメントで時間を潰している、オタクを自称している(下手したら自分自身ですらそう信じ込んでいる)人々」ってのは、昭和中後期で言えば「パチンコやって飲み屋で愚痴言ってる箸にも棒にも引っかからないおっさんたち」だったわけよ。別段彼らはそれが好きでやってるわけではなく、「受け身で流されて適度に脳内麻薬がチョロチョロ出る余暇の消費」としてそこに流れ着いただけで、最初から徹頭徹尾ただの消費者であって、オタクでも何でもなかった。多分当時であったとしたって、パチンコや博打や酒が本当にそこまで好きだったかどうか疑わしい。そういうふわっとした人々が社会の大多数だったってのは、当時も今も変わらない。
どちらかというと「社会人は全員そういうもん(休日はパチンコするくらいしかない消費者)だろ」っていう同調圧力がなくなり「余暇は自由選択」になっちゃった結果、それが可視化されただけにすぎない。そのうえ「社会人は全員そういうもんだろ」っていうのは同調圧力である以上に、大多数にとっては劣等感を刺激しないカバーストーリーでもあったっていうのが問題で、いまのこの日本の現代社会は「余暇の過ごし方」でさえも階級があるってのが、多分きつい。
あまりはっきりとは指摘されないけれど、「何ら主体的な趣味を持たない人間」ってのはやはりいまの社会では軽んじられる。一回級下の存在だと現在みなされるんだよ。それこそ「オタクであるほうがまだマシ」と考えるほどに。
だから「(絵が好きなわけでも今まで描いてきたわけでも強い動機がなんにもないにも関わらず)絵が掛けるようにな(って賞賛を受けるようにな)りたいな」なんてボヤキがWebにあふれる。
べつに「何ら主体的な趣味を持たない」って罪でもなんでもないのにね。前述の戦後から高度成長期にかけて、そんな人々は、社会に出て飲む打つ買うを一巡経験したら、すぐさま「どうやったら異性に興味を持ってもらえるかレース」に回収されて、あまり悩む間もなく半強制的に結婚させられ、身体に異常でもない限り速やかに子供ができて、子育てに忙殺されるというスケジュールに打ち込まれていた。そうすれば「主体的に趣味を持ってない」なんてことは遥か彼方にぶっ飛ばされて、問題意識すら持たないで済んだのにね(その後は、後輩や年少者に対して「結婚は社会人の義務だ」とか「子育てはいいぞ」ってマウンティングして余生をすごせた)。
社会の多くの人にとって、「個人のアイデンティティと紐付けられた強固な趣味に邁進する」人生の強要は苦痛だし、でもそれを拒否するにせよ趣味する余暇なく仕事を詰め込まれるのはもっと苦痛だ。多くの人にとっては自由が毒にしかなってない。そういう価値観の変遷に、オタクは巻き込まれちゃっただけなんだよね。