はてなキーワード: 貪欲とは
男の清潔感などが定期的に話題になるので、男にとってのオシャレとは何かを書き留めておきたい。
大多数の男は、オシャレなんて何も興味がないのがスタート地点である。
ドレスに憧れる小学生女児は多くても、スーツに憧れる小学生男児はほとんどいない。
小学生男児なんて、服に穴が開いていようが泥だらけだろうが本人は気にしないものである。
彼らの究極の目的はセックスなので、つまりセックスに貪欲な男が見た目にこだわるようになる。
なのでそれらに消極的な男は、冷ややかな目でそれを見る。
この年代では男がオシャレにこだわるのは不真面目だという価値観も一定数見られる。
そして大人になると、ちゃんとした身なりをしないといけない、社会人として恥ずかしくない恰好をしないといけない、
オシャレなんて考えて来なかった男は、ここで初めて苦労することになる。
それでも世間体を気にする人は、多少の苦労を乗り越えて最低限の身なりを整えるが、それをしない人も多い。
思うに、婚活などで言われる清潔感とは、この最低限のラインを乗り越えられたかどうかだと思う。
セックスのためにオシャレする人、世間体のために身なりを整える人、
多くの男にとってのオシャレとは、「目的のためにしぶしぶやること」だ。
金もかかるし服の管理も面倒だし、本音ではあまりやりたくない。
そこをあえて、金と労力をかけられるか。婚活などではそれを見られているのかもしれない。
吉田茂系(戦後に政治家になった官僚出身者をルーツに持つ。護憲寄り)
┣池田勇人系
┗田中角栄系
┗茂木派(53人)
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鳩山一郎・岸信介系(公職追放された戦前の政治家をルーツに持つ。改憲寄り)
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┣二階派(44人)
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┗(74人)…菅義偉★、石破茂☆、高市早苗☆、野田聖子☆、小泉進次郎
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90年代まで1つだった岸田派(45人)と麻生派(53人)が合流すれば最大勢力になるが、麻生派には総裁選で岸田首相の最大の脅威となりうる河野太郎がいるし、仮に合流が実現しても単独過半数にはほど遠い。包囲網が敷かれたら負ける。
安部派はなんとか踏ん張って崩壊を免れても、大臣を経験したような実力者は今回のスキャンダルで総崩れなので総理候補は出せないし、党の主要ポストすら望めないかもしれない。スタメンが乗ったバスが交通事故にあって補欠しか残ってないような状態。
茂木派、二階派はキャスティングボートを握るポジションではあるが総理候補となる弾がない。しかし二階派には「問題のある人や自民党を一度抜けた人でも思想を問わずとにかく誰でも受け入れる」という貪欲さがあり、安部派が崩壊した時にはその受け入れ先として勢力を拡大する可能性もある。
総裁選に出たことがあるメンバーにはやたらと無派閥が多いが、彼ら彼女らには後ろ盾がない。逆にだからこそ安心して利用できる側面もある。菅義偉という無派閥で総理になった前例もある。安倍首相は菅義偉を後継にすることで安部派にNo2を作らず自身の権力を盤石にした(そのせいで今の惨状がある)。
百科のページアクセス数だけで決めているという潔さはいいのだが、そのせいで作品タイトルやキャラクター名ばかりになっている。
ダブリの管理とかも一切せずFGO・ブルアカ・ガンダム辺りから複数ノミネートが当たり前のように起きている始末。
これを見ても「何が今年話題になったのか」なんて全然分からん。
たとえば「にじさんじ」が流行語とか言われても2023年のにじさんじの何が流行したんだよとしかならなくなねっていうね……。
つうかどれも「それの何がこんなに流行ったのか」が全然伝わらねえのよ。
1人3つまで!『ガジェット通信 ネット流行語大賞2023』一般投票スタート / 締切は11月29日17時 | ガジェット通信 GetNews
ガジェット通信がやっている方。
ユーキャンがやっている流行語大賞と比べると治安の悪さが一目瞭然。
増税メガネに始まりドリル優子や公金チューチュー、教育教育死刑死刑にスシローペロペロ、最新のネタとしてデスマフィンまで取り入れる貪欲さ。
もはや私刑のセケンドレイプとさえ言えるラインナップでインターネットという空間に人々が求める負の感情が凝縮されている。
まであるくない?
呪術に限らず鬼滅の刃だってアニメが途中だからネタバレしないけどなんか雑にパワーアップ要素出して結局あれなんだったの?みたいな扱いだったり急に設定生えてきたり最後の炭治郎の唐突感だったり最終決戦にあの人もあの人もいない不自然さとかいっぱいあって一気に読み返すと結構いびつな作品だと思う。
でも面白かったし売れてるし好き。
たとえばレジェンド扱いのジョジョ(5部)読んだ時もなんか伏線なげっぱなしだし殺さなくていいキャラ殺すし色々テキトーでびっくりした。
エンタメとりわけ週刊連載って毎回読者を楽しませて次回まで一週間楽しみにさせれば勝ちでいわゆる「こういうのでいいんだよ」っていうかその時々で貪欲に面白そうな方向に進んであれこれ試して違ったわと思ったらあっさり方向転換して朝令暮改というか君子は豹変するというか厚顔無恥なぐらいのほうがパワーがあって読者が目を離せなくなる名作の条件なんじゃないだろうか。
いま原作と作画の分業が増えてる気がするけどそうなると完成度の高い作品は増えるぶんそういうめちゃくちゃでダイナミックな作品は減っていくのかな。
12人の様々な職種の人を集めて生活をともにしながら、様々なゲームを行っていく。
ピースと呼ばれるアイテムが最初に1枚ずつ配られて、ゲームに勝てば追加のピースがもらえたり、負けたら減らされたりする。
最終的にピースを一番多く持ってるものが優勝となり、優勝賞金を独り占めできる。
またゲームが行われる中で手持ちのピースが一枚もなくなってしまった者は、その時点で脱落者となりゲームに参加できないだけでなく、番組から去らなければいけない。
システム的にはカイジのデスゲームそのまんまって感もあって、カイジでいう星がピースとなっている。
ゲーム自体は12人が競い合う通常のゲームが一回、その後賞金マッチと呼ばれるゲームが1回、一日の間に計2回のゲームが行われる。
ゲームが行われるホール、出場者が寝泊まりしたり食事をしたりする生活棟(シェアハウスみたいな感じ)、その他に監獄などがある。
監獄というのは、通常ゲームでトップになった人が下位から2名指名して、指名された二人は監獄に入れられる。その二人はその日の賞金マッチには参加できなくなるというルールがあるため。
参加者はみんなで生活も共にすることになるんだが、そこでも当然様々な出来事が起こる。
ピースは生活棟にいる時のみ譲歩や取引ができるというルールもあるので、ゲームをしている時以外の立ち振舞もとても大事になってきたりする。
だいたい構成としてはそんな感じなんだが、まず、行われるゲームの内容自体がめちゃくちゃに面白い。
最初にルール説明される時は見てる方もあまりにも複雑で意味がわからんってなるんだけど、実際にゲームが始まるとなるほどああこうなるのか、と意外とすぐに理解していけるようなルールになっている。
例えば1回目に行われたゲームはウイルスゲームというもので、市民、テロリスト、記者、捜査官、研究者など色々な役割が12人にランダムに割り当てられ、それぞれ役割毎にミッションを持っており、それをまっとうできればピースをもらえる。
他の人がどの役になってるかわからないのだが、率先してバラしてもいいしウソをついてもいい。
これがまあゲームが始まるとウソみたいに12人それぞれのキャラが発揮されてヒリヒリするような展開が生まれる。
これは演出があるとか参加者がうまいとか以前に、ゲームの仕組みがとてもよく考えられているのだ。
疑心暗鬼、協力、裏切りなどが無意識のうちに行われてしまうような、なんともいやらしいルールが散りばめられている。
カイジでもルールの裏をかいて逆転劇を見せる、みたいなのがあったけど、そこまで計画的ではなくても意外な逆転劇みたいなのが起こりやすくなっている。
またゲームが行われるホールにはいくつかの個室が設けられていて、ゲームが進んでみんながルールを理解しはじめると、密室での駆け引きなども頻繁に行われるようになっていく。
ここでのプレイヤー達のやり取りも非常に面白くて、追い詰められるもの、漁夫の利を得るものなど様々な人間模様が見れることになる。
もうこの最初のゲームだけでも見ていて痛快すぎて思わず声が出てしまったほどだ。
そしてゲーム自体が面白すぎるのに加えて、ゲームが終わればみんな生活棟に戻ることになり、そこでまたみんなあれこれ反省点やら語り合ったりしていてそれもまた見ていて楽しいのだ。
絶妙なのが一日の間に最初は個人戦とも呼べるゲームが行われるが、その後に賞金金額そのものを釣り上げる賞金マッチがあることだ。
この賞金マッチは最初の個人戦に近いルールとは違い、主催者から与えられたミッションを全員で協力してクリアすることができれば、賞金金額が釣り上がるといったものになる。
全員協力とはいえ、賞金マッチでも個人的にピースが与えられるような要素もあるので、そこがまたプレイヤー達の心を揺さぶったりもするんだが、
基本的にはそんな個人的な思惑など通用しないほど難しいミッションなので、賞金額を上げるためにはみんなで力を合わせないとなかなかクリアは難しい。
例え貪欲に一人勝ちを狙う者がいたとしても、賞金マッチで賞金額を積み上げていかないと、せっかく優勝しても全然大したことない、みたいなことになるので、一匹狼でずっといるということは難しいのだ。
それにゲームが終わればみんなで同じ場所に戻るので、いつの間にかゲームの出題者(主催者側)VS俺達みたいな仲間意識みたいなのもできていくことになる。
変にきついキャラとかもいないし、基本的にみんな常識人である点も良い。
セットなんかは豪華だけど制作側の独りよがりな演出とかもなく、全体的に見ていてイラっとするとこがなくて気持ちがいい。
現在4話まで公開されていて全12エピソードあるらしくこの勢いで最後までいけるのかはわからないが、今のところ進めば進むほど面白くて、なんかもう見てて思わず笑ってしまうほどだ。
平等から階層へ、男女平等から著しい男女不平等への転換は、一般に農業と関連しており、このことはグレーバーとウェングローにかなりの問題を突きつけている。彼らは選択に関心があるため、唯物論的な議論を避けたり、環境が人々の選択を条件づけ、制限する方法について考察したりすることに固執しているようだ。
農業は、約1万2千年前から世界の多くの場所で独自に発明された。狩猟採集民は食料を共有し、持てる以上のものを所有することはできなかった。しかし農民たちは定住し、畑や作物に投資するようになった。そのため、一部の人々が自分の取り分以上の食料を手にする可能性が生まれた。
やがて、凶悪犯やいじめっ子の集団が集まって領主になることもあった。窃盗や略奪、家賃、小作料、労働力の雇用、税金、貢納、什分の一など、さまざまな方法でこれを行った。どのような形であれ、このような階級的不平等は常に組織的暴力に依存していた。そしてこれこそが、ごく最近まで階級闘争が対象としてきたものなのだ。
農民は狩猟民族にはない弱者だった。彼らは自分の土地、畑を開墾し灌漑するために費やした労働、そして作物の貯蔵に縛られていた。狩猟採集民は離れることができた。農民はそうではなかった。
しかし、グレイバーとウェングローは、農民が余剰を生産し、蓄えることができたからこそ、階級社会、搾取、国家、そして偶然にもジェンダーによる不平等が可能になったのだという、この物語に立ち向かった。
2012年、考古学者のケント・フラナリーとジョイス・マーカスは『不平等の創造』という素晴らしい本を出版した。彼らは、世界のさまざまな地域で農業がどのように不平等をもたらしたかをたどっている。
しかし彼らは、その関連性は自動的に生じたものではないと主張する。農業は階級を可能にしたが、多くの農民は平等主義の社会で暮らしていた。農業の発明と階級の発明の間のギャップは、数世紀単位で測られる場所もあれば、数千年単位で測られる場所もある。
フラナリーとマーカスはまた、地元の凶悪犯や領主が権力を掌握しても、後に打倒されることが多いことを、注意深い実例を通して示している。多くの町や都市では、エリートが考古学的記録に現れ、その後何十年も姿を消し、また現れる。事実上、階級闘争は決して止まらないのである[5]。
ジェームズ・C・スコットフラナリーとマーカスの壮大な比較研究は、人類学を根本的に変えた1954年のエドモンド・リーチの著書『ビルマ高地の政治制度』や、アナーキスト政治学者であり人類学者でもあるジェームズ・C・スコットの研究において先取りされていた。[2009年、スコットは『統治されない技術』(An Anarchist History of Upland Southeast Asia)を出版した。同書は数世紀にわたる東南アジア全域を対象としている。
スコットは、平原の王国の稲作農民の多くが丘陵地帯に逃亡したことに関心を寄せている。彼らはそこで、「焼畑」移動耕作者の新たな民族集団として再出発した。彼らの中には、より小さな階級社会を作り上げた者もいれば、階級を持たずに生活した者もいた。そのすべてが、下の王国や国家からの絶え間ない奴隷化や軍事的襲撃に抵抗しなければならなかった。
ある意味では、グレイバーとウェングローはリーチ、スコット、フラナリー、マーカスの仕事を土台にしている。ウェングローは結局のところ、フラナリーとマーカスが要約している考古学の変化の一端を担っている。そして『万物の黎明』には、スコットの影響が随所に見られる。
しかし、グレイバーとウェングローは、一方では技術や環境と、他方では経済的・政治的変化との間にある、他の著者たちの結びつきを好まない。
フラナリー、マーカス、スコットの3人は、テクノロジーや環境が変化を決定するのではない、と注意深く述べている。それらは変化を可能にする。同様に、穀物農業の発明が自動的に階級格差や国家をもたらしたわけではない。しかし、それがそうした変化を可能にしたのである。
階級関係と階級闘争技術と環境の変化は、階級闘争の舞台を設定した。そして、その階級闘争の結果が、平等と不平等のどちらが勝利するかを決定した。グレーバーとウェングローはこの重要な点を無視している。その代わりに、彼らは常に、そのような変化を即座に必然的なものとする段階論の粗雑な形式を問題にしている。
この生態学的思考に対するアレルギーが、彼らが人類の進化に関する新しい文献を扱おうとしない背景の一つであろう。
これらの文献はすべて、人類となった動物たちが、自分たちの住む環境、自分たちの身体、競合する捕食者、自分たちが発明できる技術、生計を立てる方法に対して、どのように社会的適応を築いたかを理解しようとするものである。偶然にも、彼らはその生態系と状況に対処するために平等主義的な社会を築いた。それは必然的な結果ではなかった。しかし、それは適応だったのだ。
一方、グレーバーとウェングローは唯物論者ではない。彼らにとって、生態系や技術について考えることは、彼らが望む選択や革命を不可能にする恐れがある。例えば、古代メソポタミアに関するスコットの本が、特に穀物農業が不平等をもたらした物質的な理由を強調しているため、彼らが満足していないのはこのためである。
これは些細な問題ではない。私たちが今直面している気候危機は、人類が新しい技術と新しい環境に適応するために、社会をどのように変えていくかという問題を浮き彫りにしている。平等や人類存続のための政治は、今や深遠なまでに唯物論的でなければならない。
グレーバーとウェングローが環境や人間存在の物質的基盤にほとんど関心がないことは、これまで見てきたとおりである。
同じように、彼らは階級という概念や、階級関係や階級闘争についての議論をほとんど宗教的に避けている。グレーバーは確かに、そしておそらくウェングローも、階級関係と階級闘争について理解している。彼らは、階級が何をするのか、そして実際、自分がどの階級の人間なのかを知っているが、階級関係を社会変革の原動力として扱うことはできないし、また扱おうともしない。
これと同様に目を引くのは、グレーバーとウェングローがジェンダーの社会的構築に対して関心を示さないことである。彼らはミノア・クレタ島における母系制のほぼバコフェンを再現する一方で、女性は養育者であり、男性はいじめっ子であるという家父長制的なステレオタイプを散見する。
不平等は常に私たちとともにあったというのが彼らの主張であるため、グレーバーとウェングローは、人類の性別による不平等の起源についてほとんど何も語っていない。
男女関係の進化については、基本的に3つの学派がある。まず、進化心理学者たちであるが、彼らの主張は非常に保守的である。ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーは、不平等、暴力、競争は人間の本性の基本であると主張する。彼らは、男性は進化によって他の男性と競争するようにプログラムされているため、強い者が女性を支配し、より多くの子どもをもうけることができるからだと言う。これは残念なことであり、幸いにも西洋文明はそのような原始的な感情を部分的に手なずけてきたとピンカーは言う。
偉大な生物学者であり、トランス活動家であるジョーン・ラフガーデンは、こうした考えを『薄く偽装されたレイプ物語』と正しく表現している。このような議論は実に忌まわしいものであり、そのためだけにグレーバーやウェングローが否定したのは間違いない。
非常に長い間、フェミニスト人類学者の間では、第二の学派の考え方が支配的であった。この学派もまた、女性と男性の間の差異を本質化し、女性と男性の間に何らかの不平等があることをあらゆる社会で当然のこととして受け入れていた。
私たちが支持するのは第3の選択肢である。歴史学、人類学、考古学の記録に顕著な特徴がある。人々が経済的、政治的に平等な社会で暮らしていたほとんどの場合、女性と男性も平等であった。また、経済的に不平等な階級社会が存在したところでは、そこでも男性が女性を支配していた。
私たちにつきまとう疑問はこうだ:なぜなのか?
グレーバーとウェングローはこの問いに取り組んでいない。彼らは性差別について何の説明もしないし、男女関係がどのように、あるいはなぜ変化するのかにも関心がない。しかし、彼らは性差別主義者ではない。彼らは何度も女性抑圧の事例に触れているが、それは一過性のものである。彼らの関心事の中心にはないのだ。だから、私たちには印象的な一致に見えるが、彼らにとっては蜃気楼なのだ。
グレイバーとウェングローの説明の重要な部分は、農耕と階級的不平等、そして国家の出現との関連を軽視しようとする決意のもと、階級的不平等や戦争、さらには奴隷制さえも存在した狩猟採集民のグループに焦点を当てている。考古学者は彼らを「複合狩猟採集民」あるいは「複合採集民」と呼んでいる。
グレバーとウェングローは、先史時代の人々が無国籍で平等主義的であったか、暴力的で不平等であったかのどちらかであったという証拠として、これらの人々を取り上げている。それは証拠が示すところとは違う。[7]
典型的な例は、フランツ・ボースによって研究されたクワキウトル族と、カナダの西海岸、コロンビア川とフレイザー川の近隣の人々である。この川と海岸では、莫大な数のサケが遡上していた。限られた数の隘路や漁場を支配する者は、莫大な余剰を蓄えることができた。コロンビア川のギャレスがその一例だ。少人数で10万ポンドのサケを獲ることができた日もあった。
それは例外的なことだった。場所によって差はあった。しかし、沿岸部や河川全域にわたって、サケの資源が豊富であればあるほど、考古学や文献記録には階級間の不平等が表れている。富の不平等はしばしば極端であった。また、これらの人々は複雑な軍事技術を持っており、大勢の戦士を乗せ、数人で何カ月もかけて作るような大きなカヌーを使っていた。
事実上、農民が田畑に囚われていたように、これらの人々は漁場に囚われていた。そして農民と同じように、サケ漁師たちにとって貯蔵は不可欠だった。考古学上の記録を遥かに遡ると、彼らの骨や歯を調べると、年間の食生活の40%から60%がサケからもたらされていたことがわかる。サケは数週間しか獲れないので、その食生活の大半は乾燥サケによるものだったに違いない。
農民と同じように、環境的制約と新技術が階級社会の可能性を開いていたのだ。こうした過程は、『万物の黎明』にはまったく見られない。そのかわりに、50年前の学部生がクワキウトル族について語った、浪費的で貪欲なポトラッチの饗宴の民という、お決まりの説明がなされている。この説明は、その後の膨大な研究成果を無視している。
天然痘と梅毒で人口の6分の5を失い、金鉱探鉱者によって征服され、そして蹂躙され、最終的にはカナダ政府によってポトラッチの宴が禁止された人々の中で、あの無秩序な宴は、権力にしがみつこうと必死だった支配階級によって管理された伝統的な生活の祭典であったことが、今ではわかっている。深い物質的な悲劇が、非合理的な茶番劇として語られている[8]。
西海岸の漁民だけが「複雑な採集者」だったわけではない。世界中には他にも例がある。しかし、それがいかに少ないかは注目に値する。さらに考古学者たちは、現在より7,000年前より古いものはひとつも見つかっておらず、14,000年前より前に戦争があった証拠もない。
複雑な採集民の数が少なく、その起源が新しいのは、技術の問題かもしれない。確かに、カリフォルニア沿岸のチュマシュ族が不平等と戦争を発展させたのは、紀元600年以前に大型の外洋用板カヌーの建造を習得してからである。
彼らは「複合型採集民」の第三の例として、フロリダ南部のカルーサ族を選んでいる。ある意味では、これらもまた、支配的な首長、戦士、階級格差、奴隷制度、高価な戦争用カヌー、海の哺乳類、ワニ、大型魚の漁業に依存する漁民であった。
グレーバーとウェングローは、カルサ人を「非農耕民族」と表現している。しかし、彼らが認めているように、カルサの漁民はもっと大きな政治の中で支配的なグループであった。他のすべての集団は農耕民であり、カルサ人の支配者に大量の食料、金、奴隷にされたヨーロッパ人やアフリカ人の捕虜を貢納していた。その食料によって、カルサ族のエリートたち、そして300人のフルタイムの戦士たちは働かずに生活することができた[10]。
「この前吉本新喜劇を見に行ったけど何度も同じことをしていて全く面白さが分からない。なにが面白いのか」という意見をいただいたので、生まれも育ちも大阪の増田から、これに対する回答を書いてみたい。
結論から言うと「吉本新喜劇は面白いか面白くないかを判定しに行く場所ではなく、みんなで同じノリを共有し、楽しむ場所である。吉本新喜劇の価値は、関西圏内に住んでいる人間であれば老若男女誰でもわかるボケとツッコミのセットを発信し続け、それを文化として確立させているところにある。」と増田は考えている。
まず増田は生まれも育ちも大阪であるが、関西の人間が吉本新喜劇を見て笑い転げ、毎週楽しみに見ているかと言えば全くそんなことはない。最後に見たのが何年前か分からないし、なんなら見慣れてオチも全て分かっているのでテレビで一人で見るときなんかは普通に真顔である。
関東の知人が言う「何回も同じことをしていて面白くない」については、たしかに同意できるところはある。
たとえば「邪魔するで〜」「邪魔するなら帰って」「はいよ〜」の流れを知らない関西人はいないのではないだろうか。この流れのセットは増田が物心ついたときから、今現在いい大人になるまで最低でも約20年くらいは吉本新喜劇内で繰り返されている。
この流れを知らない関西人がいないということはつまり、老若男女関西人のほぼ全員が「邪魔するで〜」がボケだとわかり、「邪魔するなら帰って」がそれに対するツッコミ(ボケか?)とわかり、笑いが生まれるということである。
これって結構すごいことではないだろうか?
だれしも生きていれば色んなコミュニティに属し、コミュニティ内での定番のノリなどがあると思うが、コミュニティ内の人間にしか通じなく、例えばコミュニティ外の人が同席していた場合、その人間はポカンとなってしまう。
はたまた、お笑い芸人の定番のツッコミなんかが流行ることもあるが(最近だと千鳥の「シンプルに口がくせぇ」とかだろうか。最近ではないね)、ほぼ一年単位で入れ替わり、かつなかなか老若男女全員か知ってるとは言いづらく、若者間で通用しても中年以降は全く知らないといったことも普通にある。
それに対し、吉本新喜劇内で行われているボケ、ツッコミは、老若男女、知人初対面関係なく通用するノリなのだ。
吉本新喜劇は劇を通し、その定番と言われるボケ、ツッコミの流れを数十年にわたり発信し続け、関西圏内に定着させ、それを文化として確立させている。
ちなみに関西人のノリの良さや、あらゆる場でも笑いを作る貪欲さみたいなのも、この誰しもが共有できる笑いがあることが起因しているのではないかと考えている。
吉本新喜劇はいわゆる漫才のように、新しいネタを期待し、面白いか面白くないかの判断をする場ではなく、老若男女関係なくみんなで同じノリを共有する場。それを文化としてきちんと確立させているところに価値がある。
この投稿を読んで、関西に無縁だった方々にも吉本新喜劇を楽しんでもらえると、さらには関西を好きになってもらえると、増田としてはとても嬉しい。
https://anond.hatelabo.jp/20230731103637
電鉄会社は始発駅にデパートを持っているが、この二社はちょっと特別で文化をブランド化している。
両社ともデパートの一部に美術館を持ち、古典よりも現代美術などを扱う傾向が強かった。
また西武はレコード店WAVEや巨大書店LIBROなども併設して文化/流行の発信者的立場であった。更にこれら文化/流行事業がブランドとなってルイヴィトンなどのハイブランドの出店の寄せ水ともなっていた。
現在ヨドバシ西武出店で豊島区がクレーム出しているのはこういう背景があるから。
2.本屋
巨大書店が何棟かあるが、神保町三省堂、池袋LIBRO、池袋ジュンク堂、六本木青山ブックセンター、新宿紀伊国屋などは毛色が違って、売れ線の本を並べるのではなくて「推し」を優先して陳列するという特徴があった。「話題の本」が話題になる前にそこにあるという感じだ。売っているのは本じゃなくて文化文脈という感じか。ヘイト本陳列などで紛糾しているのはこの辺の事を知っていないと理解が出来なかったかと思われる。池袋ジュンク堂以外は退潮傾向。
3.レコード屋
渋谷その他のタワーレコード、西武系列のWAVE各店、CISCO、新宿/下北沢のディスクユニオン、秋葉原の石丸CD館など特徴的なレコード店があり、これらでは売れ線のJPOPなどは余り売っていない。これも流行のアンテナショップ的な感じでマイナーシーンでこれから流行るもの、ここでしか買えないものを揃えていた。
CDの退潮によりこれらも退潮傾向(石丸は大火災)だが、CDにかわりビニール盤(レコード)が復活してきたのでタワレコなどは盛り返しつつある。
広尾、六本木の欧米系、新大久保の韓国人、西川口、池袋の中国人、など外国人が集中して居住する地域があり、彼ら向けの商店など外国の風が吹いてるかの如くの雰囲気がある。またその地域では国内で見かけない外国製品が売られているなどエキゾチック。文化的な対立などの問題も起きるが都会や資本主義というのは異物に包容力があるのでなんとかやっている。外国人との対立問題で刑事事件などが根拠にされる場合があるが根本原因ではない。文化間の接触域では「文化を浴びる」感が日常で起こり、それが浸食されるという不安を産んでいることを忘れている。
東京とその近郊は戦前は軍都でもありそれらが全部占領されたのでその基地や居住地付近は米軍の文化に染まった。
占領解除と基地返還でこれらは忘れられつつあるが、近郊には所沢、横須賀などアメリカテイストが残り、それを維持しようとする住民がおり、ニューイングランド様式の家+アメ車などの組み合わせを見る事がある。東京郊外だが埼玉の入間市には米軍住宅をそのまま残したジョンソンタウンという街がある。
6.裏原宿
原宿は西から原宿駅\竹下通り\明治通り-渋谷川暗渠地域/青山(線の傾きは高低差)となっているが、この渋谷川暗渠に沿って民家改造した古着屋、インポートショップが乱立した。両方とも若い経営者が米国や西欧に行って古着市場や日本に入っていない若手ブランド服を買い付けて一般民家を簡易な改造した店舗で売るというモデル。全国展開しているBEAMSなども裏原出身。今では地方都市やショッピングモール、観光地周辺でも見られる業態だが、わざと「簡易な内装」を作るのは裏原の文脈があるから。若者のスモールビジネスからセレクトショップやアンテナショップ業態に移行しつつある。なお、渋谷川暗渠に密集したのは、暗渠沿いには高いビルが建てられず地下が低かったから。
7.お祭り
地方より東京の方が中間共同体が残っている事が多く、お祭りが維持できているケースが多い。
道路上での演奏は禁止なのだが路上演奏者は多く居て、警察が来るとダッシュで逃げるというのを繰り返している。特に外国人が民族衣装を着て民族音楽を演奏するものなどは人気がある。
単にオタクが好きなアニメの服着てるだけに留まらないレベルの人が結構いる。そういう人は総じて相当な美人/美男であり服の装飾や裁縫レベルも高くて高級感もある。文化文脈の摂取に貪欲で外国に出かけて実際の文化を見て吸収しようとするし写真のレベルも高く、サブカルなのにハイカルチャーの趣きがある。SNSの過去ログを手繰ると、昔から美人だったのではなくて文化の吸収や意識の向上に従って外見が変化している。だとするとそれを生ぜしめたコスプレという行為も文化現象として上等と結論づけるしかない。
クラブ遊びもちゃんとやろうとすると音楽の知識、海外の文化現象の理解などが必要になる。カッコだけの真似だとダサイ、浅いという評価になる。
環状八号線の世田谷地区には外車ディーラーが並ぶ。外車は単に高級品というだけではなく、その国の文化というものを纏っているもので、特に米国、イタリア、フランスがその傾向が強い。故に環八の外車ディーラーが並ぶ風景は車好きには外国の風が吹いているように見えるものである。
「ビルの内装はがして壁も天井も配管も白いペンキ塗っただけ」みたいな小さいギャラリーが多くあり、マイナー作家やマニアックな展覧会が催されている。その辺の敷居の低い部分があるのを利用してお上りさんやオタクつかまえてサブカル絵やラッセンの絵を高額ローン組ませて売りつける商法をしていた連中は万死に値するな。
13.商店街
地方ではすっかり衰退してしまった商店街が東京では幾つか健在で、若者文化を取り込んで混在する下北沢とか吉祥寺とか買い物以外でも面白いところがある。増田のおススメは赤羽で、昭和のマーケット形式の商店、カゴに小銭入れてゴムで吊るしている八百屋とかも健在で、新しい飲食店も沢山あって混在している。更に飲食店にやたらとテラスがあるのが特徴で日本じゃないみたいな感じになっている。小奇麗なカフェから昭和の立ち飲み焼き鳥屋にはしごとか出来る。
14.モグリ
人気講師がいる大学には偽学生のモグリが発生する。在籍していないのに勝手に講義を聴きに来るやつだ。大学によってはそれを止めるつもりもない。更に学外者が立ち入るのが当然のように大学内で展覧会を開催したりする。
15.TV局
テレビ局は働く人が多いので企業城下町的なものを形成していたりする。いけ好かないギョーカイ風でもあるがTVの地位低下とオフィス街と一体になった再開発などによりオフィス街と混じる形になって衰退傾向(例:TBS@赤坂、TV朝日@谷町、六本木)
16.建築
近代建築も多く残り、有名建築家の作品も多い。中に入って素材の質感、施工の程度などを触って確認できる。隈研吾のなんか食傷気味でもういらねぇとか思ったりする。但しザハ・ハディッドのは無い…。
今までも歩行者天国は色々なサブカルチャーを生み出してきた。だが加熱しすぎて警察に禁止されたり通り魔が起きたりと都度潰されるという道を辿ってきた。今ではフェアなどで自治体が大道芸を支援するような動きがある。
18.大学
身も蓋も無いが地方の大学と東京の大学では学生生活の質が違うというのはある。東京で大事なのは同質性の低さで、地方から出てきた者、エスカレータ組、留学生、帰国子女が混在している。特に帰国子女は「似た外見を持った異人」であって同質的な学校空間で育った学生に異化作用を齎す。概ね彼らはその異文化経験によって判断基準を「みんながそう言うから」に置かず、成熟して大人びていている。帰国子女とも留学生とも邂逅しない大学というのは大学と呼べるのか。
ホームレスに日常的に遭遇し、自殺の現場に居合わせるなどの経験(鉄道など)により、落伍への強烈な強迫観念が刷り込まれる。当然これはいいことではない。だが影響を強く受ける文化現象として外せないと思われる。
AmazonPrimeVideoオリジナルコンテンツであるイギリスのドラマ、グッドオーメンズ(以下GO)
日本でも人気があったシーズン1だったがこの度シーズン2が配信された
個人的にとんでもない駄作だったのだが誰とも共有できないのでここに盛大に吐き出しに来た。お察しの通り駄文です。
GOとはざっくりと言えば、神の計画によるハルマゲドンを阻止するべく右往左往する天使と悪魔。そしてそれぞれの理由により巻き込まれていく人間たちと、天国地獄両陣営の戦いの行方、というような骨太のストーリーの元繰り広げられる群像劇だったと思っている。
主役と言われればキービジュアルにもなっている天使アジラフェルと悪魔クロウリーなのは間違いなく、私自身その二人が好きで見ていた面もあったが、その周りのキャラクターたちのドラマも間違いなく作品の面白さを作るものだった。
そしてそれらがハルマゲドンという目的の元集まった末のてん末にカタルシスを感じられるというオカルト的魅力も含んだしっかりとした「作品」だった。
ところが今作ですよ。
とにかくアジクロ(カップリング的深い意味は無い略称で使う)がイチャイチャしているだけ。
いかにも重大な事件が始まるのかと思わせていた記憶喪失のガブリエルは、物語終盤までほぼ本屋から動かず変なキャラを振りまくだけ。
物語のキーになるのかと思った人間のレズカップル(未満)二人は特に何もしないままこれまた終盤にちょっと活躍するだけ。
ガブリエルを追ってる天国も特に何か事件が起きてたわけでもなく、クビにした幹部が処分前に消えたから探してるだけ。
ガブリエル記憶喪失のネタバレもなんの事もないベルゼブブと駆け落ちしたくて自分で記憶移しただけ。
中身どこ?
とにかく誰がなんのために動いていて、どこに向かっているのか、何を目的としているのかが弱い!弱すぎる!
もともとそういう作風ならいいよ、天使と悪魔のイチャイチャ日常ものでーすならそれでも良かったんだよ。
今作で真っ先に思い浮かんだのが、ヤマなし・オチなし・意味なし、という古の呪文だった。これぞやおい…
公式が人気カプイチャイチャさせて中身はやおいで腐女子ファン大喜びってもうファンディスクでしかねーのよ…
奇跡を封じられた手品ショーでクロウリーがアジラフェルに向って銃構えてやけに深刻な空気が流れてた時は「今何を見せられてるんだ…?」という気分になったよ。
ちらりと腐女子の話をしたけど、ここからが本当の深淵だ。(私の)
GOはそもそもブロマンスモノとして人気あった作品だ。それはわかる。
公式からも「これは天使と悪魔のラブストーリー」とまで言われている。
でもそれは作品外での話だ。
作中での彼らは、地球の暮らしを気に入り過ぎたが故、神の計画を阻止しようという、ある種の反逆者同士で協力者であり、敵陣営同士でもありつつお互いが唯一の仲間という特別な間柄ではあった。そしてそれは「友情」として描かれていた。
元々海外発の言葉のため、専門家でもない私が定義などしっかり理解しているとは思っていないが、
ロマンスと思えるほど深い男の友情を描くものだと思っている。あくまで友情。
激重感情は大好物だけど、それが恋愛感情にされてしまうとスンッ…としてしまうのは私の癖によるところ。何でもかんでも恋愛にすんじゃねーよという、バトル漫画の恋愛描写や映画化で足される恋愛要素に激しく嫌悪感を覚えるめんどくせー女。男女問いません。トリックは今でも残念です。
ここまで書けばおわかりかと思いますが、今作はっきりとクロウリーの「恋愛感情」表に出して来たんですよね。
そうじゃねえ…そうじゃねえだろ〜
クロウリーがS1のときからアジラフェル大好きなのは知ってるけどさ、パシリのように使われたりスパダリのごとく助けを出したり悪ぶってるくらいじゃ隠せない愛情はもうずっと描かれてはいたけどさ。
それ恋愛じゃないと駄目ですか?友情って言ってたから友情で良くないですか?!
あとアジクロの二人はですね、なんだかんだ言って天使と悪魔っていうところが良かったんですよ。
いくら地球が好きで人間に情を持っていたとしても隣人では無い。
人間は最終的には奇跡でなんとでもできる下位的存在であり対等な存在ではない、意図的にそうしない限り眼中にない。そんな人外っぷりが良かったんですよね。
(だからS1で二人の相手は天使か悪魔かアダムだけであって、そのアダムが天使でも悪魔でもなく人間らしく育って普通の犬と一緒に普通の人間の少年らしくその後を送るだろうラストはとても良いものでしたね)
それが今作ラスト、クロウリーが人間の女二人に言いくるめられるってどんなよ。お前表向き一番人間軽く扱ってたじゃん(内面は一番まともに扱ってたけど)
ここまで書いて気づいたけど、アジラフェルは結構平常運転のペルソナ的天使だったな…
なんならもうキスが決定的でしたね。あれさえなければ外国語特有の言い回しだの翻訳の都合だのと自分に言い訳出来たんだけどね。
はー激萎え
そもそもやっぱりGOって腐女子ファン多いんですよ。流石に全部とは言わない(言いたくない)けど。
公式SNSでもBL系のファンアートや女性のコスプレ写真とかリツイートしてるくらいだし、PixivもBLとしてイチャイチャしてるやつばっかりだし(そんな中友情レベルのイチャイチャだけを探してお気に入りする作業に明け暮れていた頃もありました)
とにかく公式がファンとのふれあいに貪欲な印象があって、フォローしてるとどんどんTLがBL色に染まっていきそうになってフォロー外したんだけど。
少なくともS1作ってた頃の作者及び公式はそこまでじゃなかったと思うんですよね、S1という結果が物語ってるけど。
それがほぼ腐女子なファン達と交流した事により、そういった物が求められていると思った結果があのS2なのだとしたら、これも立派な公式逆輸入だよなと思ったり。
マイノリティのつらみか。
S1のサブは本当にみんな魅力的だった。
天国側も地獄側も人間も。キャラ立ちという点でもそうだが、ビジュアルとしても秀逸で世界観を作ることに貢献していた。
S2ではそもそもビジュアルで惹かれるキャラが皆無だった。前作引き続きのキャラは劣化してるし、新登場のキャラは何の印象もない見た目だった。あ、ムリエルは良かった。
特に地獄側、なんかボロくて緑っぽくしとけばいいだろとばかりに普通のボロイ人間。S1の頃からいるうさ耳雑魚悪魔のデザインが一番輝いて見えた。
だいたい地獄の幹部たちはだいたい頭に何か生き物載せてる設定はどこいったん?
ベルゼブブさんの役者…顔が変わってしまったのはまあ大人の都合で色々仕方ない事もあるやろと納得はできるけど、塩顔でシニカルな中性的可愛さだったブブさんがウェットな女性的可愛さになってしまったのは本当に残念です。
あとはもう箇条書きで
英語はよくわからんけど、日本語で今作タグ検索するともう絶賛の嵐なんですよね…
断末魔をあげている腐女子らしき書き込みとラストに心神喪失してる腐女子らしき書き込みと尊さに昇天してる腐女子らしき書き込みと…
なあ本当に良かった?
ドラマとして見れた?
結局イチャイチャしてればそれでいいのか?
S1好きだけどS2はクソだからオススメしないっていう貴重なツイートに思わず人生初いいねつけちゃったよ。
ケンカ別れとかどうでもいい程に本編がスカスカだったので、もうS3に期待することは無いんだけど
万が一に作者が思い直してしっかりとしたストーリーを作った作品をお出ししてきてくれる「奇跡」を願ってはいるよ…
頼むよ天使様…
もうあんまり色んな作品追わなくなって、久しぶりに楽しみにしてたシリーズだったからすげえがっかりした&久々の解釈違いパンチ食らって吐きそうだったので吐かせていただいた。
https://twitter.com/kazzuaki/status/1681307788864258049
①累進性が壊れてる最大の理由は分離課税+軽減税率の合わせ技。資本軽課=租税支出=補助金によって経済成長を実現できるとした時代があった(2000年代前半)。貧乏人に金を渡すとすぐに消費してしまう。リテラシーが低いので、投資といっても貯蓄に回してしまう。しかし、これからの時代は株式や金融派生商品の時代だ。直接投資を増やさないと経済成長しない。だから金持ちを優遇すれば 彼らは所得の割に消費しきれないわけだから、その余った金を貪欲に直接投資に回すはずだ。そうすれば経済成長する。貧乏人は誰も助けてくれないとなれば一生懸命働くだろう。この合わせ技で経済成長すれば貧乏人だっておこぼれに預かれる。金融立国、聖域なき構造改革とはこのことだ。
②日本の所得税がスカスカになってる理由は所得控除。特に給与所得控除と公的年金等控除がでかいが、これは減税額によってサラリーマンと自営業者(青色申告)と年金受給者との負担を調整してきた結果。所得控除の仕組みが高所得者減税になっていて、低所得層に恩恵がない形だったのは勤労を重視していた(小熊/井手)から、というのが通説だろう。
③福祉国家を維持するための財源として他の制度が重要であったこと。日本の社会保障の中心は社会保険(ビスマルク型社会保障)。社会保険料の負担の特徴は再分配を効かさないこと。リスクに応じた負担(民間保険)よりは定額保険料の方が社会的であるし、定額保険料よりは定額から所得に応じて負担が減少してゆく擬似比例負担の方が社会的。この社会保険の共助的公平性が日本の公平感の基礎にあり、それが諸税の女王たる所得税の地位を低いものとした。社会保険料控除も大きいし。そこに付加価値税が登場することになる。付加価値税に触れ始めるとこれはこれで長いが、直間比率を間接税に寄せた方が経済成長する(2度目の登場だが言説としてはこっちが古い)、高齢者の負担(年金所得を控除しといてなので減税スパイラル)が不当に小さい、などといった理由で所得税より付加価値税が好まれた。欧州的には輸入品に課税できるということ、輸出品に課税しない(租税支出=補助金)ということで、経済のグローバル化に対応した税だということだったはずだが。福祉国家の充実には、この新しい税制である付加価値税が鍵なんだと(事後的にではあるが)評価され、所得税へと注目が集まらなくなっていった。
この辺りの再分配の不味さに対して専門家はずっと苦言を呈してきたが、社会/政治的な支持は減税/増税阻止で安定してきたので、金持ち減税/勤労(プロテスタンティズムとは違った意味で)を重視する租税制度が出来上がって今に至る。ここにメスをれようてして失敗したのが新しい資本主義ね。