はてなキーワード: 講演会とは
「iOS 7にすると防水になるよ!」――悪質なデマ&偽広告が海外で広がる: http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1309/26/news065.html
読んだ。
ほとんどの人はネタとして受け止められるけど、たぶんごく少数の人は真に受けると思う。
Googleアカウントにログイン→Gmail開く→添付ZIPファイル落とす→ZIP解凍っていう作業が1人でできない。
Wi-FiとBluetoothとインターネットの区別も分からない。
以前、講演会に参加したら、主催者のおじいちゃんがカセットテープで講演を録音してた。
コンビニにもTSUTAYAにも、未だにカセットテープやビデオテープやMDが置いてある。
アホなの?死ぬの?
●意見交換のため府庁に来た女子高校生を相手に思いっきり論破。女子高校生を泣かす。
「大阪の財政を良くするというのは私たちが苦しむことなんですか? ちゃんと税金取ってるんだったら教育、医療、福祉に使うべきです」
橋下市長「じゃあ、あなたが政治家になってそういう活動をやってください」(2008年10月23日)
「こんな猥雑な街、いやらしい街はない。ここにカジノを持ってきてどんどんバクチ打ちを集めたらいい。風俗街やホテル街、全部引き受ける」(2009年10月29日)
「日本はギャンブルを遠ざけておぼっちゃま、お嬢ちゃまの国になっている。小さい頃からギャンブルをしっかり積み重ね、勝負師にならないと世界には勝てない」(2010年10月28日)
「普天間の司令官に「もっと風俗業を活用して欲しい」って言ったんですよ。そしたら司令官はもう凍り付いたように苦笑いになってしまって、「米軍では禁止だ」と。そんな建前みたいなこというからおかしくなる」(2013年5月13日)
●ツイッターで
「なぜストリップに助成金はダメなのか。自称インテリや役所は文楽やクラシックだけを最上のものとする。これは価値観の違いだけ。ストリップも芸術ですよ」(2012年8月12日)
●市立桜宮高校の男子生徒が体罰を受け自殺した問題を協議する教育委員会臨時会議で
「クラブで勝つより大事なことがある。桜宮高校の入試を継続すれば大阪の恥だ」(13年1月21日)
●保護者に「もうあんまり、やってないの?」「僕と会えなかったら寂しい?」10代少女に「もうやったん?」などと言った公募校長に対し
声優のL先生が、とある専門学校で講演されるという情報を小耳に挟んだのね。
その学校の授業としてなんだけど、外部の人間も自由に参加できる講演会っていう形だった。
通りに面したファザードに入り口の扉があって、外からすぐにひょいと入れちゃう。
くぱぁ(扉を開ける音)
DQN2「うwwけwwるww」
バタン(扉を閉める音)
Nexus買えば良かった。
ええと、目視で確認っと(ウエストバックから会場案内図を取り出す)。
……ん?
やっぱここだぞ……
き、ききき、きっとさっきのDQNは通りすがりのDQNだよ(震え声)。
もう一度「くぱぁ」したあと、膣内、違う、那珂、違う、中に入ったの。
そしたら「通りすがりのDQN」がいっぱいオッパイいるわけ。早くドンキ行ってくれよ。
大学の階段教室みたいな場所なんだけど、DQNたちが後ろの方で騒いでる。
前の方にはパッとしない、スクールカーストの底辺が人のカタチになったみたいな学生たちがおとなしく、互いに微温度的な距離を保ってポツンポツンと座ってる。
僕は最前列で、生まれたての子鹿のようにプルプル震えながら待機。
「L先生がいらっしゃる→騒ぐDQNを叱る→でも静かにならない」っていう展開が、コンマ5秒くらいの演算で予測できて、5分後くらいにはそうなった。
この講演、なぜ外部に公開したし。
コミケのサークルチェックリスト作る時のようなルンルン気分で、前日に書いた。
だから、背後に感じるDQNたちの視線が怖かったけど、勇気出して挙手したわけ。
そしたら、コンマ5秒前までDQNたちの奇声で喧しかった講堂が、水を打ったように静かになった。
普段おとなしい奴がうわずった声だして、クラスのみんなが急に黙りこくる感じ。
僕「声優のランク制についてどう思われますか? ベテランの方になられると、予算の関係で仕事が減り、三石琴乃さんのように自ら事務所を開設する方がいらっしゃいます。後学のために先生のご意見を伺いたい次第です」
僕は大きな声で滑舌よく言ったし、講堂内アホみたいにシンとしてたから、L先生には聞こえたはずなんだけど、先生Windows95みたいにフリーズした。
L先生「……ええ、あとでキミだけに教えてあげるね」
氏にたい。
あと、何も教えてくれなかった。会ってもくれなかった。光速で先生帰った。業界の暗部怖い。
DQN「ほら、涙拭けよ……」
そういう考えを持ってた意識高い系の僕は、少し前に東京で開かれた講演会に行って気づいたことがある。
「体験し続ければ、今まで見えてなかった存在を知れる。ただ知れただけでも考え方ってちょっぴり変わってるんだな。。。」と。
初めて一人で新幹線に乗ったり、
ホテルって予約するもんだと知らなかったり、
初めてネットカフェに泊まってみたり、、、
最後に、「まぁ、こんなもんかぁ。。。」と思った講演会。今でも細かく覚えてる。
ただ、初めてのことばかり体験、非日常をたくさん体験して、
「こういう体験をし続けていけば、人生が変わるんじゃなく、考え方が変わっていくんだなぁ。。。」と気づいた。
「知れたことに意味がある」ということに気づいた。
新しい管理職や役員が異動してくる、もしくは天下りしてくるとなったら、
業界人名録や著書は当然調べるとして、範囲を広げて各種インタビューや講演会録まで入手した上で
その人となり、趣味嗜好、価値観くらいをあらかじめ共有しておくのは我々事務職の仕事のひとつであります。
歓迎会の都合ですぐ知りたいのが「お酒を飲むか飲まないか」なので、SNSがあるなら非常に便利です。
(見つからなかったら人脈を伝って電話で聞くまでの話ですが・・・)
管理職や役員に対してはやって当然「なのに」新人に対して同じことをやるとドン引きされるのか、
管理職や役員に対してはやって当然「だけど」新人に対して同じことをやるとドン引きされるのか。
それはわかりませんが、新人についてまでやってる暇と実益がないというだけですね。
念のためではありますが、インターネットを使用するかどうかは別として、
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.yomiuri.co.jp/national/news/20130808-OYT1T01677.htm
http://nueq.exblog.jp/20276833/
ここまで情けなくなった日本人
8月7日 追記
「 エスカレーター キャンペーン 」 で検索してみて下さい。
よっぽど、恐れを為したらしい。
なんとも哀れな骨抜きニッポン人 ( にほん人ではない ) の へなちょこ根性だ。
※ ニッポン と にほん については、
Japanって、どこの国よ?
を参照下さい。
先日の大阪講演会( 4月7日 )で、最近( ここ10〜15年 )ほどの間に、エスカレーターでじっとしてる人が増えて嘆かわしい限り。 エスカレーターは歩くもの!
ピンヒールや重い荷物を持ってる人、身体に問題のある人は止まってても良いが、その他の連中はエスカレーターを歩いて昇り降りすべき!!!
それを最近では、「 危険ですのでエスカレーターを歩かないで下さい。」などとアホゲたアナウンスまでするようになっている。 と、糾弾した途端、
朝日新聞に「 転倒事故多発、恐怖のエスカレーター歩き 」など云うアホな記事が。。。
http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201304100691.html?ref=nmail
エスカレーターは歩く人のため片側を空けて――。
都市部では定着した習慣だが、本来は「歩かない」のがルールだという。
■ 本来は立って、ベルトつかむ
左側は乗るのを待つ人の列が…
アホ抜かせ!!!
あんなもの歩いて転倒するとは、、、、一体どんな運動神経してるのか?
どのみち、一人二人が転んだだけで、このような大げさな事になってるのだろうが。。。。
前に東名高速で飲酒が原因の居眠り運転で前の家族が乗ってた自家用車に追突し、幼い子どもが二人焼死した悲惨な事件があったか、その事件をもって飲酒運転の暴虐な取締り = 高額罰金が始まってしまった。 実は適度な飲酒は運転能力を向上させるのである。 警察発表の飲酒に依るブレーキ操作に至る反応時間の遅延はイン・ビトロ = 実験室内の閉じられた系 での反応時間の話しであって、開放系 = イン・ビボ 環境では逆に反応速度も運動神経も向上するのである。 尤も酔っ払ってしまっては逆効果になるが。
このデータを週刊プレーボーイ誌上で公表した千葉大の教授は即刻クビなると云う弾圧が行われたのである。 この高額罰金により、田舎の美味しい料理屋さんは軒並み経営不振に陥ってしまっい、「 地方の活性化 」とはまるで逆方向のベクトルが動いてしまった。
ポチ公のそのまた飼い犬のミドリムシによる駐禁取締といい、警察の2大ドル箱路線となっている。 しかもその罰金の用途は一切公表されてない! 信号や交通標識、そして国庫への編入とされているが詳細は一切公表されることなく、どのみちそのまま工作費や飲み代、退職後の保険に回されているのは明らかである。 ミドリムシ登場直前、警視庁の全パトカーがゴージャスに刷新されたことをみなさん、ご存知だろうか?
さて、エスカレーターの話題に戻すと、それにしても、いくら僕の電話やメール、講演会が公共放送になってるからって云っても、この素早い反応には驚いた!
日本人は洗脳が行き届き、頭の中が狂牛バーガー状態になってる上に、毒の素( 一般的に「 アミノ酸 」と表示されている )漬けでヘタリ牛・たれパンダの骨粗鬆症と脳内スポンジ化がかなり進行し、鉄棒から堕ちて骨折はするわ、エスカレーターで転倒はするわ( って、ホントかよ? 植草痴漢事件みたいなもんじゃないの? )と、運動神経・骨とも軟弱化があまりにもひどい状況となってしまっている。
それに、人の歩行スピードが90年代以降全然ノロくなってしまっている!
駅の階段も一段・二段飛ばしで昇降する人を最近は殆ど目にすることがなくなった。
◆ 60代以下の男女はエスカレーターを歩くべしッ !
※ 但し、身体の不自由な方、ピンヒールの女性、小さな子ども連れ以外。
http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201304100691.html?ref=nmail
エスカレーターは歩く人のため片側を空けて――。
都市部では定着した習慣だが、本来は「歩かない」のがルールだという。
エスカレーターは自動車や鉄道と同じく目的地により速く着くために作られた。
従って、階段を登るスピードより遅くなるエスカレーターでの立ち止まりは本来の目的に整合しない。
「 余計なお世話 」であるばかりか、「 アホ 」としか言いようが無い!
■ 本来は立って、ベルトつかむ
だれがそんな「 本来 」を決めたのか?
左側は乗るのを待つ人の列が続くが、右側に立って乗る人はいない。
飼いならされ、何事にも疑問を持てなくされてしまった哀れな羊:日本人の姿である。
だが、日本エレベーター協会によると、エスカレーターは
本来、立ってベルトをつかんで乗る前提で安全基準が作られている。
その「 安全基準 」とは、日本エレベーター協会の責任回避のために「 作られた 」言い逃れに過ぎない。 日本人全体が「 官僚化 」し、責任の所在をとにかく自分のところには置かなくすると云う卑屈な根性の顕れである。
1段ごとの踏み面(奥行き)が階段より大きいため、歩くとつまずきやすい。
転倒すれば、周囲の人を巻き込み大事故につながりかねない。
従って高さ・奥行きもまともな運動神経を持っていれば何ら問題はない。
問題は、そんな運動神経、、、どころか身体の基本的な機能や免疫力などを奪う味の素・サントリー・ハウス・雪印・山崎製パンなどに代表される化け学物質を垂れ流す食品業界にある。 今度は狂牛肉や遺伝子組み換え食品がTPPによって大手を振って日本人の口に詰め込まれることになる。
協会の5年ごとの調査で、2008~09年の2年間に発生した事故は1200件。
その5年前の1・8倍に増えた。7割が段上や乗降口での転倒だった。
この数字は本当だろうか? と、まずは疑ってかかるのが初歩的アプローチ。
次に5年間で1.8倍に増えたとするなら、なぜ増えたのか?
5年前に比べてエスカレーターを歩く人は確実に減っている。
減っているにもかかわらず、事故が増えるのはなぜなのか?
つまり、立ち止まってるがために、注意力が散漫になるからである。
スピードを出してないので注意力が散漫になる。
一番の安全運転とは少しスリルを感じるくらいの快適なスピードで転がすことである。
少しの緊張感があるので360度全方位に注意力が隅々まで働き、前方方向に関してもより遠くまで見えるようになる。
交通法規を改悪してるのは、罰金稼ぎを増やしたい警察官僚と自分では運転しない国会議員「 先生 」たちである。
道路脇の標識に数字があるが、あれは道路事情も自動車の性能も今から比べると劣悪だった1968年の東京オリンピック当時のものであり、あの数字は「 最低時速 」を表示している。 「 最低時速 」以下で走行すると、交通のジャマになるだけでなく極めて危険でもある。
怖い思いをしている人もいる。
横に並んで支えたいが、押しのけて上がっていく人も。
「 弱い側が自分の身を守る方法を考えなければならないなんて 」
エスカレータを歩く人はたとえ急いでいても止まってる人に充分に注意し、ケアすべき人はケアしなければならない。 自動車の運転と同じようにスピードが上げれば上がる程、注意力は高まるものである。
片側を空ける習慣はいつ始まったのか。
元技術者で、エスカレーターの歴史に詳しい後藤茂さん(71)によると、
1944年、混雑解消のために役人が考えたとされる。
日本では、長いエスカレーターができ始めた70年代に広まったとみられる。
後藤さんは「歩くのは安全性からも輸送効率の点からも問題」と指摘する。
マスゴミの得意技である やらせ発言であることをまずは疑うべきである。
日立のUFOみたいな建物に登っていく長〜〜〜〜いエスカレーターは鉄腕アトム的未来技術の象徴の見えたものである。
阪急電鉄(大阪市)はかつて、「お急ぎの方のため左側をお空け下さい」
と放送を流していた。
「 右手が不自由な人もいる 」と苦情を受け、98年にやめたが、今も習慣は残る。
甘え過ぎ!
見上げたもんだ!
JR東日本など25の鉄道会社は昨夏、「手すりにつかまって」と呼びかける
キャンペーンをした。
遠回しに歩かないよう促す戦略だが、隣に階段がないところもあり、
歩行禁止までは呼びかけていない。
という事情もある」ともらす。
当たり前だ!
横浜市営地下鉄では、歩行禁止を呼びかけるポスターをはっているが、
アホもここまで極まれり。。。。
今も右側を歩く人が少なくないものの、意識は変わってきたという。
以前は右に立つ人を怒る人がいたが、
今は急ぐ側が「すみません」と声をかけている。
「5年くらいかけ、少しずつ認知された」という。
さ〜〜〜すがは、名古屋ッだぎゃァ〜〜〜〜〜ッ!
カタチと見栄を重視するナギャオならではッ!
利用者はどう考えているのだろう。
ツイッターで聞いてみると、「 片方空いてないと不便 」という声の一方
「 怖い思いをする 」「 歩くなら階段を使うべきでは 」という声も多かった。
これまた マスゴミの得意技!
少数意見・誘導意見・洗脳意見をさも大多数であるかのように見せかけるマスゴミの得意技!
「 一律禁止より、声をかけあい、譲り合う社会の方が健全では 」と提起した。
急ぐ人間がいちいち声をかけてる暇はない!
注意して登り降りすればいいだけのこと!!!
これだけの簡単なことが何故問題になるのか?
歩くことでどのくらい時間が短縮できるのか、計ってみた。
エスカレーターに立って乗ると約16秒。
流れに合わせて歩くと8秒だった。
エスカレーターが2段階であれば、合計16秒差。
閉まる電車のドアに突入するには、最後の0.3秒が問題だ!!!
16秒だの、8秒だの、気が遠くなりそうな程 長大な時間である。
暇人は、なんとも呑気なもんだ。。。。唖〜〜〜然。。。。
5年前の1・8倍に増えた。7割が段上や乗降口での転倒だった。
にある。
ここに 「 段上 」 と 「 乗降口 」 と表記されているが、「 乗降口 」とは、「 乗り口 」 と 「 降り口 」 のことである。
ならば、「 段上 」とは一体何を意味してるのだろうか?
と、すると、乗り口 〜 途中のステップ上 〜 降り口 とエスカレーター利用の全行程で起きる転倒が7割と云うことになるが、転倒以外の事故が3わりあったと云うことなのだろうか?
転倒以外の事故ってなんだろう?
まるで想像することが出来ないのだが。。。。。。。
さて、5年間で、1.8倍になった転倒事故、先にも書いたが、歩く人がこれに絡んでるのだろうか?
先にも書いたように5年間で確実に歩く人の数が減少してるにも関わらず、
と、云うことは、これはエスカレーターを歩くことが事故の原因ではない!
と、いうことを示唆してる。
と、なっている。
つまり、歩く人がいることで事故が倍増してる。 かのような印象を読者に与えるべく、歩く人への非難の声を中心に記事を捏造してるのである。
この情報操作の 「 意図 」 は、どこにあるのだろうか?
もちろん、従順な奴隷をより従順な奴隷にするための 「 洗脳 」 の一環である。
自分たちが何をしでかしてるのか、よ〜〜〜〜〜く考えてみる事だ。
朝日新聞は大東亜戦争前、日本が支那と戦争するように記事を捏造し、デッチ上げた張本人である!
そして大東亜戦争中は、「 大本営発表 」 を垂れ流して日本人の戦争指向を煽り、戦線での事実を隠蔽・歪曲・捏造した張本人でもある。
ゾルゲ事件の首班となった尾崎秀実は、朝日新聞の幹部でもあり、コミンテルン( ユダヤ世界支配の道具 )の巣窟が朝日新聞である。
まさに、第2次世界大戦突入前の大政翼賛会と朝日コミンテルン新聞の様相である。
このエスカレーター記事も戦争〜徴兵制を睨んだ 「 より従順でなんでも従う日本人 」 づくりに向けた下準備である。
「豪、河野談話見直し望まず」
豪 「そんなことは言ってない」
http://maaz2.iza.ne.jp/blog/entry/2977220/
NHK
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現在も中継中
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http://live2.ch/jlab-fat/s/fat1362718811183.jpg
<参考>
「FLASH」(9.11号)
http://abirur.iza.ne.jp/images/user/20120830/1911502.jpg
http://abirur.iza.ne.jp/images/user/20120830/1911468.jpg
http://abirur.iza.ne.jp/images/user/20120830/1911503.jpg
「慰安婦問題は、日本の左翼が種を蒔き、それに韓国が乗っかって花を咲かせたのだ。
では、この問題を大きく育てた朝日新聞は『捏造批判』にどう答えるか。
『締め切りまで時間がないので回答できません』。
日韓関係をここまでめちゃくちゃにした謝罪の言葉は、いっさいなかった」
http://www.kobunsha.com/img/sys/magazine_number/cover/flash_20120828.jpg
以上!
元増田です。
本文に書きそびれていたけど、結局委員長の役は引き受けなかった。
断ったことでその後も責め立てられたり一部の人から嫌みを言われたりで参ってしまい、そのストレスも引き金になったのか持病再発→夏前に退職してる。
全部少し上積みして大げさにまるまる話して相手をどん引きさせてもいいんじゃないかな
あ、もちろん招集は平日の深夜ね
どん引きされるどころか「生活が大変なのは皆さん一緒ですから!」って言われてしまったw
断る人はみんな似たようなことを言うみたい。
そう、きっと相手も嫌々やっているんだよね。
相手もプライベートな時間を割いてこんなのに対応しなきゃいけないんだから申し訳ないと思った。
みんな嫌々やっているのにやらない人がいるなんてズルいでしょっていうのも言われる。
じゃあみんなで辞めちゃえばって思うけど、変えるための苦労や努力なんて誰もしたくないよね。
変化を嫌って反発する人達も当然いるしさ。
PTAはその学校だけじゃなくて縦や横のつながりもあるし実際は変えられないんだよね。
運動会の来賓に誰がお茶を出すか、誰も自主的に見に来ないような講演会をどうするか、みたいなことを平日午後に延々話し合っているのを見てるとバカらしいなと思うのだけど。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2013073102000110.html
そりゃこの文章だけ読めば「あの手口を学んだらどうか」というのはマズイけど、実際はこれ講演会でのスピーチで話したことだからね。ジョークの一貫として軽口叩いただけでしょ。お固い表情でそれまで喋ってて、ちょっと場の雰囲気を緩ませるために、表情崩して「あの手口を学んだらどうか」。場内は苦笑失笑が漏れ、場が和む。ジョークで話したことだから、「ナチに学べ」と本気で思ってるわけじゃない。むしろ逆でナチスはマズイと思ってる。
麻生の「あの手口を学んだらどうか」が全然問題ないということは朝日、毎日、時事が無視していることからも分かる。この発言を問題視してるの共同だけじゃん。後追いで読売が追っかけただけで。そういえば読売・共同のラインってiPS細胞で誤報やらかしたコンピじゃん。
少なくともテレビや他の分野での発言は、全くもって無意味、と言うかむしろ悪。
ちょっとテレビが絡んでたんで講演会みたいので何故か茂木が来て話をしてたが、
驚くほど的はずれな話ばかりしてた。
素人質問するのは別に構わないし、そのために呼ばれてるんだろうけど、
ちょっと知ったかするから一般の人にも意味ない内容だし、専門の学生からしてもどうでもいい内容。
(それもつたない英語で。
教授の方も内容が意味不明なのか英語が意味不明なのか分からない、と言った感じで、
なんとなく差し障りの無い内容で答えてたが...
もっと一般の人が知りたい答えを引き出せるしよっぽどマシ。
http://latitude.blogs.nytimes.com/2013/06/07/margaret-thatchers-advice-for-abe-from-beyond-he-grave/
Maggie and the Medium
By GRAEME WOOD
訳はとっても適当。
2002年にマーガレット・サッチャーが老衰のために公の場から引退すると発表した時、彼女の敵対者たちはこうささやいたーーあんな手練の政治家を、完全に息絶えさせるのは難しいだろう。
どうも彼らは正しかったようだ。4月9日、サッチャーがロンドンで亡くなって19時間後に、日本の幸福実現党の党首であり霊媒でもある大川隆法が東京でイギリス前首相へのインタビューを行ったのである。
選挙区ごとに候補者をたてたにもかかわらず国会では一議席もとれなかった大川の党だが、東京では純真な信奉者たちが路上で熱心にパンフレットを配っていることで有名である。パンフレットの内容の大半は政治的で、対外強硬主義的なナショナリズム、移民政策や原子力の推進等を妙な具合に混ぜあわせたものである。とはいえ根っこのとこではこのグループは宗教団体であり、その目的は、人生を支配する6つの見えざる真理について人々を教化することで幸福をもたらすのだという。大川(彼は証券マンとしてニューヨークで働いた後、1986年にこの宗教をはじめた)はこれまでに霊界の金正日や預言者ムハンマドと話したと主張している。そして今度はサッチャーだ。
「なんですって? 私、まだ生きてるわ」非常に具合の悪そうな声で彼女は大川に言ったそうだ。(このインタビューを公開したサイトによれば、驚愕と混乱は呼び出された死者における典型的な反応である)「日本? あなた、日本って言いました?」
サッチャーはここでは人気のある人物だ、彼女の強いリーダーシップへの感謝の念や、労働階級出身でありながら男性優位社会で成功したという点。彼女はまた、英国がフォークランド紛争でアルゼンチンに勝利した時期、1980年代のナショナリズム復興の主導者として名をあげた。彼女の政治的信念によって政府の役割は縮小され、またインフレは積極的に抑制された。
大川のグループはアベノミクスを全面的に支持しており、日本政府は、インフレやマイナス金利を通じて経済を勢いづける試みに今のところは成功している。しかし大川とのインタビューではサッチャーは、一国の経済的命運は、究極のところ、積極的な金融・会計上の政策ではなく、ビジネスしやすい環境をいかにつくるかにかかっているのだと語った。
「政府に必要なのは産業の民営化をサポートすることだけです」と彼女は語った。あまりにも多くの法律が「私企業の成長を阻害している。ですから彼らを自由にさせ、成功を目指して皆が戦うよう教えるのです」
これは、安部首相のインフレ政策が経済を傷つけるんじゃないかと心配し始めている日本の大衆にはアピールするのかもしれないーーもしそうだとしたら、彼らはサッチャーの成功が緊縮財政と福祉の抑制によるものだったということを忘れてしまっている。
安全保障の話題になると、サッチャーはえらく軍国主義的なようだった。まるで大川みたいに。この点では彼女は安倍よりさらに上を行く。中国と韓国について、彼女はこう語った。「侵略を絶対に許してはなりません! あなたがたの素晴らしい、美しい、歴史ある伝統と文化を守るために彼らを攻撃しなさい。誇りを持つのです!」彼女は力説した。「自分たちの領土だと信じるのなら、私たちはそれを保持し、守らねばなりません。そして私たちの敵、侵略者を攻撃し、滅ぼすのです!」この"私たち"という言葉から判断するに、彼女は死後の世界で日本人になってしまったようだ。
このインタビューはリバティwebで公開された。幸福の科学の宣伝サイトである。記事の長さは数ページだ。サイトいわく「死後24時間は、死者の身体と魂はいわゆる"銀色の紐"でまだ結ばれている」死のショックが生々しいので「通常の死の直後は、話すことは極めて難しい」というのが普通だそうだ。しかしわれらがサッチャーはいつだってサッチャー、見当を失っていたのは僅かな間で、すぐに明晰かつ猛烈、傲然たるいつもの彼女に戻ったのだった。
反応
http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=6151
サッチャーの霊言を米一流紙が紹介 日本のマスコミは置いてけぼり?
米ニューヨーク・タイムズ紙の国際版であるインターナショナル・ヘラルド・トリビューン(IHT)紙が7日、大川隆法・幸福の科学総裁によるサッチャーの霊言を紹介した。
(中略)
同記事では一部、一方的な思い込みも散見されるが、米一流紙が霊言の内容を冷静に分析して議論を行なっている点は注目に値する。たとえば、「霊子線」などの霊的な用語も、当然のように受け入れて議論しているのだ。大川総裁の霊言について取り扱うことがほとんどなく、週刊誌等が取り上げたとしても、「霊言があり得るのかどうか」で議論が止まってしまっている日本の大手マスコミとは対照的だ。
大川総裁は、世界の5大陸すべてで説法を行っており、各国の現地マスコミも大きく取り上げている。インドやアフリカのウガンダでは、講演会がテレビで生中継されたほどだ。世界的に見れば、宗教家の説法や「霊言」などの霊的な現象は、ニュース価値があると考えられているのだ。このまま日本のマスコミが宗教や霊界の話題を無視したままでいれば、世界のメディアから取り残される一方だろう。(晴)
http://anond.hatelabo.jp/20130522180539
どこかの高校生が夢に敗れたらしい。
とりあえず思ったことを少しだけ書いてみる。
いや、思ったことというか、今まで色々考えていたことをまとめる。
もし自己啓発本しか読まない人であればまず知らないのではないかと思う。
死滅回遊というのは無効分散とも呼ばれる回遊魚の異常行動の一種で、言ってしまえば生きていけるはずのない場所へ旅立ってゆく群れのことだ。
それによって環境が激変した際などは、偶然それらのグループのほうが適切な環境にめぐりつき、種の存続が可能になる。
もし偶然環境の変化によって生まれた新天地に巡りあえば彼らはライバルの少ない環境を謳歌できるだろう。
まさにノマドや意識高い系の行動原理がソレに当たるし、そのように統計的に分析されれば確率的な危険度が顕になるためこういう概念が自己啓発本に載ることはないだろう。
ここまで書いてだるくなってきた。
まぁ、つまり日本というコミュニティーのための貴重な犠牲なんじゃないかという話です。
かっこ良くタイトルまでつけたのにハーメルンの笛吹き云々いってる時間ないや。
そこら辺は想像で補って下さい。
功利主義的に安藤美姫とかがノマドを煽るのは正しいじゃないかって可能性を考えてみたというお話。
というか滅びそうだし此の国
で、ハーメルンの笛吹きをやるほうもまぁ、自分たちの欺瞞とか当然知ってるだろうし。
それがわかった上で100人の若者犠牲にしても10000人の市民の命守る形になるんじゃないかなーとか
そしてそれって凄い辛いことなんじゃないかなーとか
そして、この僕も数々の講演会で彼ら言論人の言うことを純粋に真に受けて今の身分にまで堕ちた人間だ。責任をとれとは言わない。勉強を全然して来なかったのは僕自身の怠慢だからだ。
でも、「学生よ、もっと海外に出ろ」とか、「いい大学に入って、いい会社に入って、それで終わるつもりか?」とか、「安定を求めるな」とか言う前に、「当たり前だけど、勉強は大事だよ」という「前提」ぐらいは、講演会や学生向けの集会なんかでも言って欲しかったな、と。
という意見は最もだが、
あちゃーwww
最悪のタイミングでこんな講演が…
入場料: 無料 (席に限りあり。車椅子の方は事前連絡が必要)
問合せ: 0829-30-9136 廿日市市自治振興部
大企業の一ケース
・基本的に表に出ない。
・不況時は社員に少しでもモチベーションを上げられるよう懇親会等を経費で行う。
・サービス残業を強いらない。
・残業を強いても残業代は1円単位で支給する。(約25%増し)
・休日出勤はできるだけさせない。
・出来る限り社員全員で定時帰りをさせる。
・同族経営でない。あるいは同族でも有能でない者は起用しない。
・M&Aに消極的だ
・離職率より定着率を重視する。
・社員が独立したり離職したりする場合餞別を渡すか慰労会をしてやる。
・有給休暇の消化などを積極的に勧める。
・お歳暮
・その分実力や人脈がすごい。
・フレックスタイム制を導入してる。
・常に新しい試みを社長自ら率先して行う。
・失敗を部下のせいにしない。
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その後、空っぽになった僕は地元に連れ戻され、予備校の寮に叩き込まれて今に至る。休憩時間にこつこつと書き続け、ようやく回想が終わった。
結局、どこで間違えたのか。学校を選び間違えたのだろうか。何かのイベントや団体を組織しなかったのがいけなかったのか。そもそも東京に行ったこと自体が間違いだったのか。
皮肉にも夢破れて地元に帰り、死人のように予備校で勉強しているうちに、今更ながらわかったことがある。
「何事も基礎が大事」ということだ。W塾の先生が言ってた「前提」がそれだ。
勉強も、基礎がわかっていないのに発展問題をやろうとしてもそれは無理があるのと同じで、一高校生の身分で大学生や社会人の真似事をやろうにも所詮限界というものがあるのだ。
ここまで読んでもまだ、「いや、コイツは残念に終わったけれどオレはビッグな高校生になれるはずだ!」とか、「何言ってんだ、マークザッカーバーグやスティーブジョブスを見ろ。彼らは皆学校を蹴って新しく起業したんだ」とかいまだに思い過ごしている学生がいるかもしれない。
断言する。お前には無理だ。
「何を言う!まだわからないだろう!」と、画面の向こうから叫びが聞こえてくるが、言い分としてはよく分かる。かつての僕も同じだったから。
だがな、じゃあ何でそんなに崇高な志を持っているのに呑気にPCしてこのダイアリー見てるんだ?
本当の意味で「突き抜けている」学生は、たいていの場合自分が突き抜けていることにさえ気がついていない天才肌なのだ。確かに、「これこれこうで、こうしたいから自分はこうする」と、自らの情熱を制御して結果的に周りから見て突き抜けている学生も、いるにはいる。片手で数えられるほどには。
それ以外は、「気がついたら自分は周りから持ち上げられていて、テレビや雑誌からも取材を受けて、なんか大学にも推薦で合格していた」ってタイプだ。
これは起業とかにもいえるだろうが、どちらにしろ、本気で高校生時代に才能を開花させ、抜きん出ることのできる学生はほんの一握りだということを肝に銘じておいたほうがいい。あくまで僕の予測だが、そんな人は興味を示し集まってきた中で一万、いや十万人に一人いるかいないかだろう。
それでも自己顕示欲、フロンティア・スピリットとやらを押さえつけられないのならば、それは仕方ない。どうぞ自己責任でご存分に持ち前の力を発揮してくださいとしか言いようが無い。
今更になるかもしれないが、僕はそのとてつもないエネルギー自体は否定していない。成功して世の中のためになることもあるからだ。だけど、たいていの場合よく分からない方向へ向けられて、結局エネルギー切れになって方向性もうやむやになり没落する、それをもう見ていられないのだ。そもそもそれは今やるべきことなのか。
W塾でのあの一件以来なんとなく考えていて、地元に帰ってくる羽目になってようやく気がついたことがある。
何事もやはり学力が大事・・・なことももちろんそうなのだが、どうやら僕がそれに気づかない「空気」の中に3年間ずっと浸り続けてきたのだ。
例えば、脳科学者の茂木健一郎氏が、自身のblog上でこんなことを言っている。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2013/03/post-cfd5.html
然るに、「偏差値という縛りから日本の大学は早く抜け出すべきだ」とでも言いたいのだろうか。
しかし、その茂木氏のWikipediaを見てみると何だ。出身校に日本の最難関大学の名前が出てきているじゃないか。
これはどういうことなのか。
もし茂木氏が偏差値30の大学を出て、「僕もこんな大学出たけれど、それなりにつつましく生きています。日本は偏差値教育をやめるべきだ。」というのなら、まだ話は分かる。
茂木氏のほかにも、日本のオピニオン・リーダーと言われてる言論人や政治家、経営者のほとんどが難関大に入っていた。例外としてとらえるべき人は、GMOグループの社長で、放送大学卒の熊谷氏ぐらいだろう。
そんな偏差値70もあるような人が、「偏差値教育は悪い」と言う。抜けているんだよ、「前提」が。そりゃ彼ら自身は一流校を出て、そしておそらくその後も努力して今のポストにいるんだから、それは注目されてしかるべきだろう。そこは当たり前だ。
だが、その言葉を真に受けて結果BF大にしか通らず、企業の学歴フィルターに引っかかって無職やブラック企業、フリーターにしかなれなかった人たちには、どう説明するつもりなのだろうか。
そして、この僕も数々の講演会で彼ら言論人の言うことを純粋に真に受けて今の身分にまで堕ちた人間だ。責任をとれとは言わない。勉強を全然して来なかったのは僕自身の怠慢だからだ。
でも、「学生よ、もっと海外に出ろ」とか、「いい大学に入って、いい会社に入って、それで終わるつもりか?」とか、「安定を求めるな」とか言う前に、「当たり前だけど、勉強は大事だよ」という「前提」ぐらいは、講演会や学生向けの集会なんかでも言って欲しかったな、と。
これでは、自分のポジションを守るためにわざと偏差値にとらわれるべきではないと吹聴していると感じとってしまう人がいても文句は言えないだろう。僕は騙されてしまったのかもしれない。彼等だけでなく、自分自身にも。勉強もすればよかったのだから。
僕も、偏差値は人間性とか社会性とかは含まれていないのだから、偏差値至上主義にはもちろん反対だ。けれど、高い偏差値というのはしっかりと努力して勉学に励んだ証拠でもあるということも、決して忘れてはいけないと思うのである。
同じ事は、読書にも言える。よく読書週間などで読書が世間でも勧められている。書店に行けば「もっと本を読もう!」とあるし、大抵の大人も読書を勧めてくる。
しかし本来は、「自分のやるべきこと(僕の場合は勉強)もした上で、本を読みましょう」と言うべきではないのか。
僕のように新書などを何十冊何百冊と自らの興味のあるままに書籍を読んだって、大学に入れなければ先はないのだ。恐らく、就活とやらにも同じことが言えるだろう。
こんな所にも「前提」が抜けているのである。
最も、「こんな本を脇目もふらず何千冊も読みました。でも勉強はできませんが入れさせてください」「はい合格」という大学や企業があれば話は別であろうが。今のところ、聞いたことはない。
本を否定はしないが、本に逃げたり本に溺れたりして他に何もしないのもいけないのだ。
結局、この約3年間の時間は何だったのだろうか。
それも綺麗事を言って。これが世間でもある程度は通用するからよほどたちが悪い。
こんなんだったら、授業中は寝ててもいいから毎日学校に行くべきだった。その分、今償わされているのだろう。
だが、3年という長い期間のハンデは、そう簡単に取り返せる代物ではない。それでも、地道にやるしか僕の前に道は残されていないのだ。
おまけに先週、風のうわさでかつて僕が通っていた高校、つまりこの地元の高校から同じ学年の生徒が自己推薦でとある大学に入学していた事実まで耳にした。いよいよ、僕のこの3年間にわたる行いの無意味さが証明されたのであった。
さて、長らくに渡った懺悔の文も以上で終了である。本当に、多くの方々に迷惑をかけた。
ここを読んでいる方には、間違っても僕のような判断ミスを犯してほしくはない。
そしてもし中学生や高校生がこのエントリーを見ていたら、直ぐにPCや携帯電話から離れて、一心不乱に勉強して貰いたい(最も僕が言える立場ではないかもしれないが)。
時の流れというのは早いもので、2013年ももう5ヶ月過ぎた。
いつもこの時期になると聞こえてくる言葉の一つに「5月病」というものがある。意味は知っている方も多いと思われるが、簡単に説明すると意気揚々と4月に飛び込んだ新しい環境に馴染めず鬱状態になったり「本当に今のままでいいのだろうか」とやけに軽く焦ってきたり(これはもしかして僕だけだったのだろうか)する精神状態のことを言うらしい。
何分僕もその頃、まだ若いというのに人生の意義や今後の進路について過剰に煩悶していた張本人であった。当時、高校1年生の頃だった。そして、なんと勝手に地方から東京に出、結果的に約3年間を無駄と化してしまったのである。
これから僕が書くのは「懺悔」の文だ。と同時に、今頃僕と同じ、正確には3年前のあの頃の僕と同じ精神状態に陥っている高校生(もしかしたら中学生も含むかもしれない)への、ちょっとした戒めの文でもある。稚拙ながら、その点ご容赦願いたい。
先に言っておくと、僕は現在とある地方の予備校生だ。まあ、タイトルからして分かるだろう。全くといっていいほど勉強していなかったから、大学なんて受かるはずもなかった。
ここまで書くと、「なんだ、予備校生なんて日本に何万人といるよ」と思われるかもしれないが、そういう類ですらない。学校でも全く勉強という勉強はしなかった、授業すらあってないようなものだったのである。
正直に言うと、現在の僕の学力は高等学校普通科に換算すると1年の1学期ほどまでの学力しかない。いや、3年間ほったらかしにしていたからそれからさらに落ち、中学校程度しかないのではなかろうか。(参考程度に12月に受けた河合模試の結果を書いておくと、国英社平均して偏差値30台後半だった。)
はい、全くもってその通り。が、気づくのが遅すぎた。
ただ単にさぼっていたというわけなのだが、学校で寝たりしていたのではない。むしろそれ以下だった。学校という学校に通ってすらいなかったのだ。あの頃の僕は本気で「勉強よりも今やるべきことがあるはずだ」と思っていたのである。「学生」なのに。
というわけで論より証拠、僕のこの3年間の動きについて、書き綴ってみようと思う。まさかこの年で自分の行いを振り返る事があるとは思わなかった。しかし、これもあの頃の僕のように著しい思い違いをしている高校生を一人でも思いとどまらせるためのものだ。
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今となっては途方もなく堕ちた僕だが、小、中とまでは何処にでもいる学生だった。高校もまずまずの進学校、といっても地方なのでその高校の偏差値も50台半ばだが、とまれ当時の僕はそれぐらいの学力はあったのである。
しかし、その僕に変貌が訪れてしまうきっかけとなる出来事が3年前、高校1年生の今頃に起こってしまう。
僕は丁度、テレビを見ていた。すると、僕と同じ高校生なのに、学校とは別に団体を作ってボランティア活動に従事したり、あるいはビジネスで大人の人と渡り合い、あるいは海外で外国の経営者や政治家と直接話し合っている高校生が特集されていた。いわゆる「意識の高い学生」である。
今ではどうやらこの言葉は大学生を主として使われているらしいが、僕の場合この意識の高い高校生を見て衝撃を受けたのである。そして、「これこそ今僕がやるべきことだ」と「気づいて」しまったのであった。
その頃の僕は大多数の同世代の例に漏れず、思春期特有の将来に対する漠然とした不安というものがあった。皆さんも「このまま何となく大学を出て、何となく会社に入って・・・というつまらない人生でいいのだろうか」と、自分の進路に悩んだ方、悩んでいる方も多いのではないだろうか。こういうのは本来時間の経過とともに治まっていくものだが、僕の場合、変にこだわりが強いせいかそれはもう延々と悩み続けた。そこに前出のスーパー高校生の登場である。
もちろん、一地方の田舎でそんな活動ができるわけはない。特集されていた高校生も、みな東京の学生だ。元々上京意識が高かった事もあったが、彼等を見てついに僕も上京を決心する。
早速両親に上京を掛けあってみたのだが、勿論のごとく変えてくるのはありきたりの言葉だった。
「なんで今なんだ」「大学出てからにしろ」「そんなこと考えてる暇があるなら勉強しろ」「その高校生は特別なんだ」「そもそも具体的に何するの?」
今となっては、実にあたり前のことだった。しかし、僕は知っていた。いや、知ってしまっていた。世の中の偉人と言われる人は皆、周囲の反対を押し切った人が成功しているのだと。
繰り返しになってしまうのだが、あの頃の僕は本当に前しか見ておらず、成功者の自伝などを読みまくり、その結果としてこれはある経営者の高校生時の状況と瓜2つだということを感じ取ってしまった。SoftBankの孫正義である。彼も高校生時代に、周囲の反対を押し切りアメリカへ行ったのだ。アメリカと東京という違いはあれど、まさしく今の僕と同じ状況ではないか。
・・・その頃の僕は気づいていなかった。1人の「成功者」と呼ばれる人物の裏では、何百人という人々が涙を飲んでいるという事実に・・・
かくして僕は、とうとう貯めていた貯金の全てを使い切り、抗議の意志を示すかのごとく断りなく一人単身で東京に行ってしまったのである。安い旅館に何日も泊まり、東京行きを正式に認めてもらうまで家には帰らないと突っぱねた。その頃、季節はもう夏になっていた。
そしてついに両親は根負けし、東京行きを認めることになった。マンションの一部屋を借り、学校にも転入届を出すことになる。
ここに、間違いがあった。転入先の高校を通信制高校にしてしまったのである。池袋駅東口をでて大通りを歩くとビルの上にでかでかと緑の看板があるあそこだ。前にも書いたが、勉強なんてそっちのけでやるべきことがある(が、はっきりとはしてなかったし結局しなかった)というのが僕の持論だったのだ。根拠のない自信である。「ただ単に勉強にあくせくするだけの高校生活では後悔する。それよりもむしろ高校生という立場を利用して、社会的にコミットしていくべきではないか」と。勿論、学習塾の類にも通わなかった。
・・・いや、「学生」の意味わかってるか?と今になって突っ込んでも、もう遅いのだ。
さて、東京に来た秋から卒業してから連れ戻される今年3月までは、すべてを語るともう読むだけで日が暮れてしまうだろうから、かいつまんでだけ説明する。
まず、多くの本を読んだ。上京する前から本は読んでいた方なのだが、上京してからは大型書店がたくさんあったこともあり、大量に購入してむさぼり読んだ。内容としては社会問題(震災、ボランティア等)や政治経済、自己啓発書、著名な経営者が書いた本などが主であった。
次に、自由に使える時間を利用して、様々な講演会に出かけた。これは東京でだからこそ出来る代物であろう。政治家、各省庁の役員、NPO団体の代表、大学教授や評論家、新聞記者さんなどが開催する講演会やシンポジウムである。僕は前もって作った名刺(といっても名前と電話番号、メールアドレスしか描いてない素朴なものだった)を持って行き、終了後に社会人に混じって名刺交換に励んだ。「学生です」と言うと「こんな若いのに立派だねえ!」と返してくれる。それが嬉しかったのか、どんどんと基本的に社会人向けの講演やシンポに出席するようになった。周りがスーツだらけの中1人洋服だとしても、全くお構いなしだった。
他にも参宮橋近くにあるいわゆる意識の高い人達がいっぱい集まる某センターに何度も紛れ込み、迷惑になるので名前は明かせないが様々な団体と交流したり付属の宿泊施設に泊まったりすることもあった。
その他にも興味のある大学の授業にひっそりと出席したりと、まあ思いついたことをそのままやってみせた。
ここまで聞いて、「何だ、結構すごい事やってんじゃん」と思った方もいるかもしれない。
確かに、当時僕が交流していた学生にはテレビや雑誌で紹介された経験もあるようなすごい人もたくさんいた。が、彼等意識の高い学生と、僕とが全然違うファクターが1つだけあったのである。
それが、「学力」だ。
僕は、一般の高校生が学校に行き、その後学習塾に行き、ヘトヘトになって帰宅して更に課題に追われているその間に、好きなまましてきただけのことだった。先述した他の学生は学校に行った上で、その他の活動もしていたのだ。この時点で差は明白だったのだが、これも今だから言えることである。
とは言え、当時の僕がいかに学力で劣っているかは、当時の僕自身も知っていたことではあった。
3年生になった。そろそろ進学先を決めねばならない。しかし、学力は無い。じゃあどうするか。
学力の無い僕にとっては大学に行く手段としては自己推薦・AOしかないわけで、実は上京した当初からそれを狙っていた。そのためにこれまでたくさんの一般高校生とは違う活動をしてきたんだ。この経験は大きいだろう・・・
とまれ、そのためには小論文や自己推薦書の練習をしなければならない。偶然にもイベントで何度も同席していたとある都立高校生が、論文対策にこれまでも同試験で多数の大学に合格者を出しているW塾を教えてくれた。
が、ここに相談に行った時に、僕のこれまでの一連の楽観的考えを一気に叩き潰される出来事が起こるのである。
推薦対策のコース説明を聞き終わり、帰宅前にアンケートを書いていた時の事だった。
「あ、〇〇高校さんなんですか。」
「ええ、そうです。」
「あの、確かそこって通信制高校でしたよね。」
「はい、そうですが。」
「・・・言いにくいことですが、通信だと推薦やAOは難しいですよ。」
考えてみれば確かにおかしな話である。「今までの画一的な学力入試にとらわれない多面性を重視した新しい入試方式(うろ覚え)」なのに、どうしてそんな差別があるのか。
そこから先は、今まで何度かこの文章の中で自分自身でつっこんできたことそのままだった。手短くまとめると、背伸びをする前に学生としての本分を果たせとのことだ。反論できなかった。呆然とするしかなかった。
しかし、今まで普通科以外の高校から合格した人もたくさんいるのではないか。苦し紛れに反論した僕に、更なる追い討ちをかける。
「何か、これだけは日本一だと誇れるものはあるか?」「何かの大会で優勝したり入賞したことはあるか?」「テレビか、ニュースで報道されたことがあるか?」「まあそうじゃなくても、せめて何かの団体を率いたり、主催をしたことがあるか?」「そもそも、東京に来た目的ははっきりしたか?」
・・・今考えると、最後は「それをはっきりさせるためにここに説明を聞きに来たんでしょ!」と反論できなくも無かったかもしれないが、その他の部分ではもはや撃沈であった。
どう帰ったかは、よく覚えていない。こんなにはっきり言われたのは、初めてだったのだ。確かに通信制の学校で、何も勉強せずに大学に通った例は、たとえば芸能人とか、ゴルフなどで優勝したとか、ケン玉で日本一になったとか「特筆すべき何か」を持ってる人ばかりだった。
だが、一般高校の場合はまた違ってくるだろう。僕も今まで、さまざまなW塾出身の合格者に出会ってきた。しかし、その人もたいてい何らかの(小さいながらも)組織の代表を務め、さらに将来に対する明確な目標や問題意識を持っていた。
冷静になって考えてみると、通信云々という前にこの時点でアウトだったのかもしれない。僕は「東京に一大決心をして来る」ということを「目的」としてしまったのだ。その後にやってきたのは皆、講演会にしてもイベントにしてもシンポジウムにしても、ほかの誰かが開催したものにただ参加したというだけ(しかもお金まで払って)の、単なる「客」だったということだ。はっきり言って「受動的」。これではダメだ。
誰が、こんな人を入学させるのだろうか。
しかも僕の場合はさらにひどく、このような活動をしていないほかの高校生を見下してさえいたのである。先述したとおり、「学生」の本分を完璧に忘却していた。当時僕が「見下していた」多くの学生は、今頃大学で楽しい生活を送っているのだろう。対して僕は予備校詰めだ。これはある種の罰なのだろうか。
話がそれた。
W塾での出来事は相当こたえたが、だからといってあきらめるわけにもいかない。これで受からなければ、とても大学には進めないのだ。僕はありとあらゆる大学の資料を取り寄せ、自己推薦書や小論文を書き出願した。やみくもに書いたわけではない。このころになると都内の有名どころの大型書店の地図は全て頭の中に入っていたから、何店舗か回って関連書籍を買い漁った。文の書き方から何まで丁寧に指導してくれていた本もあり、それも参考にしながら今までやってきたことや思ってきたことを全て提出用紙に書きなぐった。何が「お前じゃ難しい」だ。今に見ていろ。何校も受かって、鼻を明かしてやるからな。
帰ってくる不合格通知の山。僕は、目の前が真っ暗になった。今までやってきたことは何だったんだ。
伊達にW塾は毎年何十人も推薦合格者を出してきたのではなかったのである。
しかも、出願前に必要事項を記入していてわかったことなのだが、大学側が求めた記入事項にも、それを裏付ける所があった。人間性のみを見るはずなのに、通っている高校が「普通・定時・通信」のどれなのかを記入しなければいけなかったのだから。
久しぶりのスクーリング日。担任の先生に言われた。「そろそろセンターの準備はできてる?」
もう、2012年も残すところ1ヶ月だった。
12月、僕は初めてセンター模試というものを受けてみた。といっても、これは今年のセンター模試の最終回だったらしいが。
結果は、始めの方に書いたとおりだ。センターまであと1ヶ月ちょっと、このままの成績で大学に受かるなど、ドラゴン桜のカリスマ先生が今一堂に会しても不可能だろう。そもそも、勉強の習慣さえついてない。
もちろん、模試の時書いた志望校の合格可能性欄は軒並みEだった。・・・いや、1つだけA判定があったな。ちょっと前に2ちゃんねるで騒がれていて、ネタのつもりで書いたBF校、日本橋学館大学。進学させてくれなかったけど。
卒業式には、行かなかった。
よく覚えていないが、このころは全ての夢が潰えたショックで、ただひたすらに家でぼーっとしていたような気がする。
―――Check mate―――
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
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ぼくはチャーリイ。みんなからは"社畜らしい社畜"って呼ばれている。
でも、良いんだ。ちゃんと働いてお金をもらってるし、みんな喜んでくれてる。
ちょっとノルマはキツイけど、飲みにも連れてってもらえるしね。
久しぶりに日記をつけてみた。
今日はついにMacBook Proを買った!やっぱりMacは質感が良い。
ニートでも海外就職する人も居るし、これからは会社にしがみつくだけじゃ、いけないのかもしれない。
上司に誘われて飲みに行っていたけど、確かにこれは仕事とプライベートの混同かも。
自分の頭で、よく考えてみよう。
年末年始も短かったけど、多くの記事を読んだ。
(こういった日々のメモもブログにポストすべきなんだろうけれども、やはり推敲してからにしないといけない)
みんなも言っているけれども、やはり脱原発すべきだろう。太陽光や風力で十分に電力はまかなえるし、危険な核燃料リサイクルにも問題が多い。(最終的な廃棄処理が問題とのこと。要調査)
それに、社畜という生き方も問題だ。ノマドに比較して、リスクが高すぎる。
ポータブルな技能を持たない会社員は、サラリーをもらうだけしか能がなくなってしまう。
結局、既得権益にしがみついている以上、理不尽な上司の横暴にも、顧客を選ぶこともできずに耐えるしかなくなる。
年収150万だって生きていける。ニートだって楽しく暮らせる国なんだから。
今なら持っている技術を活かして、どこでも、海外だって働ける。
電源付きカフェのマップもググれば簡単にわかるし、いずれは講演会や著作活動で稼げるようになるだろう。(レンタルオフィス、私設秘書箱等、要調査)
政府も、はやくBIに舵を切るべきだろう。人間の創造性や、少子化問題も一気に解決できるのに、結局政党が変わっても口ばっかりなのは変わらない。政府には何も期待できない。
いずれにせよ、今の状況に安穏としているのはマズイ。
今年は変革の年にしないと。惨めな社畜のままでいる限り、心の平穏は訪れない。
一刻も早く、自らの頭で考え、自らリスクを引き受けて大きなリターンを得る真の人生を歩み出さないと!
ついに会社を辞める事にした。
この数ヶ月考えてきた会社での問題点(業務上、経営上、今後の戦略を含め)を上司に直接ぶつけてみた。
当初半笑いで対応していた上司も、こちらが何度も食い下がると真剣さが伝わった(残業を前提として間延びした薄らぼんやりとした意識も覚めたのかもしれない)のか、対応を検討してみるという。
しかし、期日も切らないし、具体的なステークホルダー名も出さず、何らコミットメントを行わない誠実さ真摯さを欠いた対応だった。
あげく、忘年会では部長や課長も来るから話そう等と、悪しきノミニケーション()で誤魔化そうとしたので激高して、改善提案書を叩きつけて帰ってきた。
今、退職に向けて準備をしているが、この退職願というのも噴飯モノだ。なんだ願いって。
その割に、離職票や雇用保険被保険者証はすぐには出てこないらしい。
ハローワークがどうのと言っていたが、人事が仕事をしたくないのは明白だ。
杓子定規で規則でがんじがらめで、減点法だから何もしようとしない。
辞めて正解だ。時期もちょうどいい。
どこも人は少ないし、イベントが終わった後だから少し寂しいけど、その閑散さが逆に良い。
最近は、iPhoneで何処でもヒアリングの勉強ができるし、旅先でも問題なく継続できる。
引き継ぎだの何だのと五月蝿く言って来ていた前の職場からもやっと連絡が途絶えてくれた。
お前がいないと仕事の進め方がわからなくて困るなど、こちらの人間性を見てタダ働きさせようとする人間が多いのは、逆にびっくりした。
理解のあった同僚も、結局社畜ってことだ。
ブログのPVも順調に伸びているし、最近は狙って炎上させるのも成功率が上がってきた。
セルクマとFacebookの友人からのブクマで新着にも載るし、なんでみんなやらないんだろう?
黒字化するまで後少し、旅先から分析できるなんて、良い時代だ。
久しぶりに友人と飲んだが、なかなかノマドという生き方は理解されない。
カフェでぺちゃくちゃとずっと五月蝿くしていたオバサン二人に注意したという話をしたら、そういうのは止めた方が良いと、オマエも同じだ、などと言っていた。
確認すると、どのへんが同じなのかきちんと説明できないし、最終的には人格攻撃だ。
少ないながらもきちんと稼いでいるし、経費精算できるように領収書も集めている。
社会に寄生しているわけでも、言われたことだけやっていれば良いアルバイトでもない。
当初はノマドだ個人事業主だ、企業との直接契約だと食いつきが良かったのに、実際の業務の話で失敗したのかもしれない。
確かに地味かもしれないが。
その後のベビーカーのマナーの話も、防災の日の話も、ちょっと引き気味だったかも。
難しい話はなしにして、馬鹿になって盛り上げるべきだったかな。
でも、備蓄した防災用品は、計画的に使わないと意味が無い。パニック買いなどもっての外だ。
家にあるものだけで暮らしてみて、正しく数字で理解&確信出来れば、問題など何もない。
備蓄のスタートラインは、「自分は何が必要なのか」を理解することだ。
ってことは、確かに面倒だし難しいから、理解されにくいのかもね~
なかなか景気が上向かない。
今回もひとつ得意先がなくなった。元々自転車操業気味の中小だったから、痛手は少ないけどね。
、、、とも言えない。結構マズイ。
自民党の憲法改正草案もヤバイし、選挙したって結局何も変わらないんだろう。
そもそも、いつ投票かもイマイチわかりにくいし、ネット選挙を解禁しないなんて、ちょっと陰謀説チックだけど、どう考えてもおかしい。
新規開拓にブログは向かないのか?Twitterからの流入も減ってるし、思うようにPVも伸びない。
イオンの初売りに行ったら、既に無印の福袋はなくなっていた。ガッデム。
アベノミクスとかなんの実感もない言葉を使うマスゴミだけが楽しそうだ。
物価ばっかり上がって、結局企業から落ちてくるカネは変わらねえんだろ。
、、、正直な所、かなりマズイ。
ATMでエラーが出るから記帳したら、下ろす分だけ入ってなかった。
家賃滞納も結構溜まってるし、次も入金が遅れたら本気でマズイ。
でも、いまのところあそこしか仕事無いから、きるにきれないし。
なんだよ。どういうことだよ。
結局、マトモにカネも払わないような相手にも頭下げてて、なにしてんだろ。
もう何も残っていない。
これも電池がきれたら終わりだ。
住所もなくなったし、マックもさっき追い出された。
家に帰れば奥さんも子供もいるサラリーマンと、どっちが惨めだろう。
涙が止まらない。どこで間違えたんだろう。
伯父さんのところで働かせてもらって、一ヶ月すこしたった。
"ノマド坊や"って言われることが多いけど、冗談だってわかるし、いやな感じはしない。
社畜ってほど大きなところじゃないけど、来月は資格試験もあるし、手に職って悪くない。
ちょっとノルマはキツイけど、飲みにも連れてってもらえるしね。
久しぶりに日記をつけてみた。
どんなことがあったのか載せることは、どこかのだれかには役にたつだろうから。
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2013/5/5名古屋市教育館にて鈴木邦男氏の講演会が開催された。
新右翼一水会の最高顧問でありながら、現在は思想的にはリベラルであると自他ともに認める鈴木氏。「右からの脱原発」をテーマに講演会はこの日14時に始まった。
ゲストは地球上で唯一人封建主義者を自称する評論家、氏の過去の著作名の如く「危険な思想家」である呉智英氏だ。
彦摩呂似の司会者の合図で先ずは鈴木氏が登壇、呉氏がゲストという事で近著「真実の名古屋論」、「吉本隆明という共同幻想」を紹介し話は呉氏との過去の逸話や他の作家の話などを織り交ぜ、終盤思い出したかのように脱原発の話をして30分ほどで鈴木氏単独の公演は終了。公演は3部構成、2部は鈴木、呉両氏の対談形式で話が進められ、3部は質疑応答の時間。参加者は30~40人程度といったところか。新右翼の代表的人物である鈴木氏の公演であり、過激な発言で知られる人気作家の呉智英氏がゲストであれば会場は満員になっても何らおかしくはない。しかし、この公演に関してほとんど告知がなされていないせいか、最大収容人数200人の会場で二人はマイクを置いて地声で話していた。それほどに参加者の数は少なかった。
筆者がこの講演会を知ったきっかけは毎週欠かさずチェックしている鈴木氏のHP「鈴木邦男をぶっとばせ!」の今週の主張という毎週月曜に更新される記事によってだった。しかもこの講演に関してはその長~い記事のそれこそ最後まで目を通さねばわからないほど下の方に告知が載っているだけ。筆者は知らないが鈴木氏はTwitterをやっている為、そこでは告知をしていたのかもしれないが…。他にも一水会のHP、会場の名古屋市教育館のHPを覗いてみたが、特に告知らしきものは見当たらなかった。因みに筆者はイチ鈴木邦男ファンとして今年2月同じく名古屋の日本キリスト教団名古屋教会で催された鈴木氏による講演「いま、“愛国”について考える−排外主義への異論−」に参加したがその時は会場は満員であった。あくまでその教会のいち催し物である為に信者がほとんどであったし、一概に比較出来ないが…。何より福島原発事故から2年以上経てそれは既に風化し、もはや「反原発」というスローガンに訴求力がない事の証明であったように思う。20代の参加者はおそらく筆者1人であったし周りを見渡すと皆頭に白いものが…、中には自ら朝鮮人を名乗る者もいたし、聴講者の多くが戦後民主主義・人権主義思想に凝り固まった、言ってしまえば絶滅危惧種のサヨクだったと見える。そうなると呉智英氏の天敵が集まったことになるが…。筆者は思想的には新右翼寄りと勝手に思っている者だが、少なくとも一般聴講者の中に右派、保守系の人は見受けられなかった。新右翼の代表的論客・鈴木氏の講演であるし題目は「右からの~」だし、呉氏が来るのだからてっきり右の人がたくさんいるのだろうと思っていたのに意表をつかれた形になった。
今回の講演会のテーマは脱原発。しかし、おそらく遅れて呉氏がゲストに決まったと思われる為、急遽テーマからの脱線は止む無し、むしろ脱原発は公演の一要素に過ぎないといったところだった。2部の両氏による対談形式の講演は1部以上に話題は多岐に渡った。呉史は現在名古屋在住、名の売れた作家であるにも関わらず今は家賃7.9万のマンションに住んでいるとか、ライフワークである儒教についてや思想から政治、氏の私生活までその著作と違わぬ軽妙で鋭い語り口で会場を盛り上げていた。中でも印象的だったのは改憲についてだ。9条は戦略的に活用せよというもの。メモを忘れた為うろ覚えだが、憲法9条が現行のままである限り安全保障は続くのであるから改憲せず、これまで日本がやって来なかった謀略戦に特化しお隣りの2つの国を戦争させて漁夫の利を得よといった内容だった。もちろん危険極まりないラディカルな意見ではあるが、常々自衛隊の国軍化は必要だと考える凡人右派思考の筆者はそんな考え方もあるのかぁと目からウロコだった。もちろん本旨の脱原発についても忘れていない。呉氏は反原発派でありながら既存の脱原発デモを批判し独自の方法論を提示していた。封建主義者の面目躍如とばかりに鈴木氏の出る幕もないほど冗舌に語っていた。筆者にとって2部の二人の対談はとても勉強になったし何より刺激的でとても楽しく拝聴していた。
先に述べたとおり、参加者の多くは戦後民主主義・人権主義思想に洗脳された方々である。そんな彼等との質疑応答はまぁ無意味で退屈で不快なものだった。二人の質問者が、呉氏が講演の中で何度も口をついた「支那」という言葉を取り上げて「中国を『支那』と呼ぶことは差別でないのか?、石原慎太郎の真似でないのか?」(およそ60代の女性)続いて男が大声で「『支那』は不快!相手が不快に思うのなら中国と言うべきではないのか?」といった質問をぶつけた。呉氏はこれまで民主主義を否定し続け、ソ連解体で共産主義の崩壊とともに民主主義も終焉を迎えたと語る危険な思想家である。併せて氏は30年余り「支那」と呼ぶべき理由を、その正当性を、論理的に、何度も何度も口酸っぱく唱えてきた男である、石原なんかよりずっと前にだ!!その主張は呉氏の数々の著書に幾度も書かれている為詳細は省くが、中国を「支那」と呼ぶ事が差別であるかはともかく、氏は30年もそれを訴え続けているのである。何を今さら言うか!筆者は考える、参加者は今回の講演会に参加する限りは呉智英という男がどんな危険思想を持つ人間であるか少しでも知っておく、いや参加するには著書の2.3冊読んで予習しておく、それが無理ならさらっとウィキペディアでも覗いておく事が必要ではないのか?もちろんそれを強制するつもりはない。しかし知識人である呉氏への無理解、自身の無知を醜くさらけだし、それに気づかずにヒステリックに喚き立てる姿は憐れですらあった。他にも40代と思しき男が「反原発デモで左右連帯というが、グローバリズムを旨とする左翼が中国・韓国を非難する右翼と連帯するのは難しい、それについてどう思うか?」といった事を回りくどく長々と言い、鈴木・呉両氏を論破せんと意気込むも「じゃぁ別々にやれば良い」と冷ややかに返答されていた。当たり前だ。右翼が反原発に取り組む動機は、現在進行形で福島の大地が放射能に汚染され続けている現状を憂いての事であって最早ナショナリズムがどうとかそんな事は関係がない。サヨクの男は、今後中国・韓国を巻き込んでの反原発運動がどうたらこうたら言って、今そこにある危機を無視して下劣なイデオロギーの次元に落とし込む事を考えている。全く恐ろしい…呆れてものも言えない。右翼を非難し自分の論理を展開する事によって連帯の意味を履き違えている事を露呈し、さらには逆説的に左右連帯が不可能である事を自らが明らかにしてしまった。右翼は最初から反原発に限っては左右は関係ない、むしろ反原発の一点、そこだけ一致すればどんな思想の持ち主だって構わないという姿勢であるのに…。
そして最後の質問者の老婆は鈴木氏に対し「ウヨクってなんですかー!?全ッ然わからないんですけどー!!今日来た意味ないです!払った千円返してください!」だって。鈴木氏は最初はまともに返答しようとしたがとにかく態度と声のデカイ老婆の勢いに困ってしまい、封建主義者の呉氏がフォローを入れるという事態に。あぁそうそう、なんか8年前ぐらい前だっけ?騒音おばさんっていたじゃない、もうまさにあんな感じ…。両氏はもう顔を見合わせて苦笑い。そこでもう時間切れ、司会者が強引に中断して参加者一同二人に拍手。筆者はこれでもかってぐらい、もうババァ黙らせてやるって気持ちで拍手しまくってやった。それでも老婆は懲りずに怒声を発し続けていたけど。
今回講演会に参加して感じたことが幾つかある。先ずは主催者側の問題点を言いたい。やはり呉氏がゲストだからといってテーマは「右からの脱原発」であるからには、あくまでそこを中心に講演するべきであったように思う。脱原発の講演を期待して来場した人がほとんどのはずだから、その点で考えると参加者のほとんどが満足のいく内容でなかったはずだ。それに告知、今のご時勢ネットを活用すればもっと集客できたに違いないし、単純に参加者がもっと増えればより質の高い講演となったと思う。次に参加者について。まぁ誰が参加しても当然問題ないんだけど予備知識くらい入れてから来いよと言いたい。呉智英氏の事を少しでも知っていれば、氏が百万回くらい経験しているであろう不毛な「支那」問答に時間を取られる事も無く、参加者も不快な思いをせずに済んだのになぁ…。呉氏の思想を知っていれば来なかった人もいただろうに。まぁ本当に残念な講演会だった。最後の質疑応答さえ無ければ笑顔で帰り道を歩けたのに、あんな事になっちゃって全て台無し。参加者には文句言うまいという気持ちがあるにはあるが無知と無理解に無自覚なオソロシイ数人の人を前にして味わった事のない恐怖体験をしてしまったから、つい愚痴のひとつやふたつ言いたくなるよ。
http://anond.hatelabo.jp/20130404114003
昔の記事だと何が恥ずかしいの?
昔の産まれのババアのほうがよほど「はずかちーー!」ぞw
さらに、いい歳したババアがこれを使ってると思うと、かなり「はずかちーー!」ぞw
昔の議論で今でもこれだけ盛り上がるってことは
普遍性があって、今でも通用するってことだよねw
現実を見ようね オバサンw
http://blog.livedoor.jp/kekkongo/archives/1710440.html
おまえらはもう終わってるんだよw
営業やるにも車の免許
なくても出来るのはブラック企業
なくても出来るのは月給14万の医療事務
既卒っても3年以内は新卒扱いに見てくれるんじゃなかったのか?
変な黄色いシールを胸に貼らされて差別化して既卒枠といいながらも体よくお断りされて行く意味なかったんじゃね。
新卒がそんなにいいなら全職種全業種新卒のみ採用にしてろっていうんだ。
既卒が駄目って言うなら初めから既卒向け求人なんかしないでくれ。
既卒関係ないじゃん。完全にお遊びと宣伝で出してる会社だったよ
そういえば講演会のラグビーの人だったかが言ってた求人を出しても採用数が求人数に満たないって話。
アレは結局デモンストレーションで実際は雇う気が無くても参加することでメリットがあるんだろうね。
もう金輪際あそこの合説には行かない。
内容は、田舎の企業がソーシャルネットワークを駆使して利益を上げるものだった。
私自身、どのようにして田舎企業がソーシャルネットワークを駆使すると利益が出るのか気になったので
聞きに行くことにした。
結果、TwitterやFacebookなどを駆使して情報を発信、ネット上の顧客とつながりを持とうというものであったが、
私自身非常に驚いたのが「ハッシュタグってなんですか」「Twitterってなんですか」などの質問が出たことだ。
それもそのはず。講演会受講者は田舎の企業の中年層なのだから、講演の大半はTwitterやFacebookの説明で終わってしまったのだ。
しかし、いくら田舎であると言ってもTwitterやFacebookの使い方すら知らないのか。
私が工学系の世界で生きているからかもしれないが、あまりのデジタル無知に驚いてしまった。
ただでさえ物理的な発展が遅れてしまう田舎であるのに、唯一同じ世界で生きることのできるインターネットですら遅れているのだ。
今更Twitterの使い方を勉強し、商品の宣伝をした所でそれは大量の宣伝情報の波に飲まれて消えてしまうであろう。
ではどうすればいいのか。
その田舎のチラシを見ると、◯◯レンジャーという名前のご当地ヒーローが載っていた。
普通の赤、青、黃、緑、ピンクの特に何も装飾の無いスーツであるのに、名前すら◯◯レンジャーなのだ。
そんな地味なご当地ヒーローを作った所で今更使い古されたネタであるし、そんな中途半端に村おこしされたら
最近作ったゆるキャラも、どっかの丸い円盤に足が生えたようなキャラみたいに気持ち悪いわけでもなく、特出して可愛いわけでもない。
遅い、遅すぎる。
おまけに意外性が足りない。他と差別化がはかれないと注目されない上に面白くない。
そんな田舎企業が今更ソーシャルに踏み込んだところでたいした利益は測れないと思う。
もし田舎企業がソーシャルで注目を浴びたいなら、私ならアルファツイッタラーを金で雇って企業の公式アカウントとしてつぶやかせるだろう。
彼らにはツイッターでのコンテンツ力がある。それを利用して公式アカウントに意外性を組み込むのだ。
他と同じ事をしていては遅い。それこそこのソーシャルという広い海の中では一粒の水にすぎない。
海の中から一粒の水を見つけるには
水に他の水との差別化をはかっておくのだ。