はてなキーワード: 論述とは
社会的合意主義、そんな名前があるのか知らんけど、共産党に問い合わせた人の記事が流れてきたので読んでみたら、そんな感じの内容が書かれていた。
https://note.com/takahashishogo/n/nfcacb9ba354c
『確認をする限り、法規制の代替のように『社会的合意』を求めている状態だというのが私の率直な感想である。それが国政選挙という日本の重大な岐路において行われているためだ。』
「社会的合意の妥当な形成は可能か?」という疑問がこの記事の論述的な到達点なので、ブクマとか言及ではこの疑問について回答いただくのがよいと思う。
社会的合意主義、って、率直に言って「便利」そうな気がするな。
だって狭くは家庭内の躾けから、広くは意思決定の過程で「どうしてダメなの?」「素朴にみんなが悪いって言ってるからダメなの」で済むってことだよな。
当然「みんなって誰だよ」ってことになるんだけど、そこまで踏み込まれると「うるさい」って暴力が飛んでくるの。体罰・いじめ蔓延期の20世紀末に見た。
あと便利なのは「社会的合意でサンドバッグが出来上がる」のが便利。もちろん実力行使に出ちゃダメだよ。でも直接手を下さなければいいよ。
そうやって「対象」が決まる。まあ昔の子どもはアホなのでバンバン手も足も出すわけだが。今の子どもは手も足も出さないと思うけど、口は出しそう。
いずれにせよ息が詰まる世界が出来上がっていたように思える。
たいていは社会的合意がなされている、と喧伝するほうが強くて、そういう喧伝をするのは、ネタを売り込まれたマスコミとかの仕事だった。
昔の政治家は、なんか人が多そうだなあって思ったネタにしか食いついてこない。
(今の政治家は、自分の動きで人が動かせると分かったら、すごくよく働く。)
今はなんですか、ユーチューバー?みたいな人の役割になってるのかな。
狭い世界ならその社会の「実力者」ってやつ。あるいは喧伝することで何らかの社会的合意を形成出来た奴。
あとから「実力者」になるタイプね。今ならインフルエンサーって言われるんですかね。
ひどい話だと思わない? だってその後付けインフルエンサー気取りの奴から勝手に「おもしろい奴」「いじっていい奴」扱いされるんだよ。
そうなったらもう危険を察知して「どうぞここを殴って下さい」みたいな振る舞いでダメージコントロールすることを強いられることになる。
打たれ強くなると言えば聞こえはいいけど、まあ心を麻痺させて頑なになってしまう。
ありのままの心を守って、なんて贅沢なことは言ってらんなくなるよね。
そんな生き方にならざるを得なくなる。運ゲーってやつかもしれない。
そういう社会的運ゲーに巻き込まれると、だいたいそういう社会的理不尽から距離を置ける(と本人は思っている)分野に憧れを抱くようになって、
一方、評論家とかそういう輩は蛇蝎のように嫌うようになる、のかもしれない。なんとなく。今更ながらこのへんは隙自語が酷いかもしんない。
ここまで書いてみて、どうも自分は『社会的合意』とはどのように行われるものなのか? というところが分かっていないことに気づいた。
どうもこの元増田は「社会的合意? わからんなー、なんかいじめの対象決めるようなもん? みんながダメだって言っても文句言われないものを決めるようなもん?」としか考えられていないようだ。
なので、ここまでこれ読んだ奇特な人はもっと冷静に「社会的合意の妥当な形成は可能か?」という部分を論考してほしいと思う。
元増田は過去の経験が邪魔をしてうまく判断出来ない。分かっているのは「なんか危なそうだから回避しよう」くらいなものだ。
いたたまれない帰りの会を思い出すような、クラスのなんかうるさそうな奴らの匂いが鼻につく、そんな舌戦が、まあまあしんどい。
男性が常に強者で勝者であるとするならば、あの真夏なのにエアコンなんてものはなく巨大扇風機が生ぬるい風をだらだらと放出し続ける倉庫で、全員時給1000円で集められた日雇いの現場で、女性にはビールの段ボールにベルトコンベアの上で景品を貼り付ける仕事があてがわれ、男性にはびろんびろんに伸びきったまさに言い訳程度のコルセットと安全靴を装着させた上で、ビール350mlが2ダース入った段ボールを上げ下げする仕事があてがわれた思い出はどう処理すればいいんですかね(挨拶)。
むろんこの場合女性を憎む……のではなく、日雇いという弱者同士で連帯してそこでボーッと突っ立ってる監視役の倉庫社員をぶん殴る……のでもなく、倉庫社員とも連帯してサントリーを誅して社会主義革命を起こすのが唯一の正解であることは皆さん御存知の通りである。
さて、この増田では2009年に出版された澁谷知美『平成オトコ塾―悩める男子のための全6章』の内容を紹介する。澁谷は上野千鶴子ゼミの出身であるようだが、いわゆる「フェミニズム」的なテーマではなく、『日本の童貞』『立身出世と下半身』などを出版している、個人的に信用している書き手である。
目次は次の通り。
第1章 その「男の友情」は役に立つか?
第2章 「僕がキミを守る!」と思ってる?
第5章 包茎手術はすべきか否か
2009年の本で、いま論じられているテーマの大体が既に出ていることに驚くだろう。我々は弱者男性問題それ自体だけでなく、議論が12年でほとんど進んでいないこともまた嘆くべきだろう。というかこういう話になると非モテ論壇とか言って侃々諤々やってたのが昔のはてななんだよな今の新参は昔のはてなを知らないから困る。失われた10年……。
それはともかく正直、456章はそれまでの言ってきたことと関連性が薄く、また前の章ほど爆発的に面白いわけでもないので、言いたいことはわかるのだがこの本にいるか?という感じはする。なので、とりあえず3章から見ていくことにする。
3章の冒頭でいきなり研究者としての特大のお気持ちがドロップされていて面白いので少し長くなるが引用しておこう。
ヘテロ男性の非モテ現象だけを扱うというと、必ず来るのが「ヘテロ女性の非モテの方が、あまり苦しみが言語化されないだけに問題が多い。なのに、なぜあなたはヘテロ男性の非モテを扱うのか」という反応です。世の中には、Aという現象を扱う人に対して「A以外も扱え」と指摘することがエライのだ、これこそ目配りというものだ、と思う方が多数存在するみたいで、かなりの確率で前述のような発言に出会います。
が、そういう発言は魚屋に対して野菜を売れと主張するに等しい。非モテ女子の話がそんなに重要なら、重要と思う人がすればいい〔澁谷注:私もいつかはしたいと思っていますが、「非モテ女の話の方が重要だ!」って言う人はどうぞお先に。止めませんよ。〕。それに、その手の話が見当たらないということは、苦しみがそれだけ大きいことを表しているのかもしれませんが、苦しみの不在を端的に表しているだけかもしれません。有力な傍証でもないかぎり、言語化されていないということから苦しみの有無を推定することはできないという、当たり前の事実も指摘しておきます。(p.75-76)
「女性の問題を扱え」といちゃもんつけられたことが一度や二度ではないのであろうことが怨念の籠もった書きぶりからわかる。まあ、それは12年後のネットを見ていてもよくわかるところで。
男性について語れば女性の方がつらいから女性について語れと言われ、女性について語れば男性の方がつらいから男性について語れと言われる。もういい加減そういう「やってる感」を出すための100字ですら余るようないちゃもんはやめにしませんか。お前がやれ。俺もそいつもやったのだから。
澁谷は非モテを3種類に分類する。
a-1 性的存在としての異性との関係性を欲しているタイプ(セックスをしたい、「女性」の存在に癒されたい)
a-2 とにかく他者承認を欲しているタイプ(オレを認めてほしい!)
「恋愛」を押しつけてくる世間や、いま現在「恋愛」と呼ばれている行為の中身や、それを統制するルール等々に違和を感じているタイプ(p.90)
この分類に対して何か意見を言うことは誰にとっても容易であり、それは分類表の絶えざる細分化を招くだろう。むろんその行き着く先は完全に無意味な、総人口分のパターンである。だから、ここでは非モテ男性に最低でも三種類ある、という点を強調しておくことが必要だろう。
男で、かつ非モテ、という狭く見えるテーマに絞っても最低これだけのバリエーションがある。そのことを非モテ男性当人達ですら大抵わかっていない。aのタイプの非モテ男性が「今すぐ女をあてがうべき」とまでは言わなくても「女をあてがってくれると嬉しいのは確か」ぐらいに思うことは自然であるが、bのタイプの非モテ男性から見ればまったく話が合わず、「非モテの中でも過激な野蛮人」と感じられることだろう。それをきっとaは「すかした奴だ」とか「きれい事を言っている」とか感じるだろう。まして女性が受け手の場合はさらに混乱が深まるだろう(男女の非対称性については後で論じる)。
澁谷は当時の主流であった「経済的問題が解決すれば結婚は増える」「機会をつくれば結婚は増える」といった主張を論駁し、「フリーター論壇」が経済について述べたフレームワークを非モテの問題にスライドさせることを試みている。その過程で澁谷は「あてがえ論」について、2009年の時点ですでに考察している。
非モテ問題の場合、これ〔若年労働者問題におけるベーシックインカム〕を「ベーシック異性」によって解決する発想がありえます。女性をもれなく男性に分配する制度です。(p.95)
澁谷はこの論が全くの荒唐無稽でないことを、19世紀半ばの宗教的コミュニティ、オナイダコミュニティを例に挙げ示すが、結局現代においては不可能であろうと言う。
当然のことながらこれを現代日本でやることは不可能です。「分配」される側の女性の中には、どうしても相手のことが好きになれない人が出てくるでしょうし、男性とつがいになりたくない人だって居ることでしょう。そうした女性に男性との共同生活やセックスを強要するのは、現代日本の常識においては、「人権侵害」となります。
もちろん、男性にとっても全く同じことが言えます。あなた好みの女性があなたのもとに「分配」される保証はありません。〔…〕「なんであいつには美人が来て、おれのとこにはそうでないのが来るんだ!」なんていう新手の「格差問題」も生じるかもしれません。(p.97)
この「格差問題」という未来予測は面白い。「チェンジ」なんて贅沢は、限られた資源(女性)をやりくりしないといけない政府が許すはずもない。チェンジOKをうたう風俗でも2回目以降は有料だったりするのだから。
個人的にはこの例示こそ「あてがえ論」に対する何よりのカウンターであると感じる。仮に「あてがえ」とガチに主張する人がいたとして、その人に人権を説いても馬の耳に念仏だろうが、こっちの懸念は聞いてくれるような気がするのである。
澁谷は続いて、経済問題における社会保障にあたるものとして、思想的セーフティーネットの構築を提唱する。まあそれ自体は正しいと思うのだが、本田透『電波男』における主張ほど面白いものではないのでここでは省略する。『電波男』を読め。
暴力的だったり、女性にたいして思いやりがない場合をのぞき、ある男性が女性から選ばれないのは、その男性のせいではありません。女性にとっての「よき男性像」が特定の偏り――収入と学歴が一定以上あり、ある水準以上のルックスをしていて、会話が続く――を見せている限り、そこに当てはまらない人や当てはまろうとしてもできない人が出てくるのは当然のこと。それは、男性陣が特定の偏りを持った「よき女性像」を持っており、そこに当てはまらない女性(非モテ女性)が出てくるのと同じことです。(p.100)
おそらくこの記述で多少救われる人もいるに違いない。KKOは来世に期待するしかないが、それはあなたのせいではない。
ただここで考えたいのは、「暴力的だったり、女性に対して思いやりがない場合」をしれっと除外している点である。そんな男でも「女をあてがわれた」のがかつての日本社会であったことは、澁谷も指摘している。
とはいえ、ちょっと脇道にそれますと、「分配」の方法は問わずに「男性にもれなく女性がくっついた」という現象だけを切り取ってみれば、それに近いものを一九五〇~六〇年代の日本に見出すことができます。当時の男性の生涯未婚率(五〇歳時点で一度も結婚したことのない人の割合)はわずか一%台でした。九八%の男性が一度は結婚したことがある、つまり女性を「分配」されたことがあったのです。
何故これだけ広範囲の「女性の分配」が可能になったのか。「男女とも結婚して一人前」という社会規範が強かったこともありますが、なにより男女の経済格差が今以上に大きかったことが上げられます。
この時代、一部の職種を除いて、女性が一生続けられるような仕事はありませんでした。有名企業に就職できたとしても、当時は、女性にのみ適用される「三〇歳定年制度」によって追い出されてしまったのです。一方、男性には安定した仕事がありました。給料は毎年上がり、先の見通しも明るい、なんといっても高度成長の時代です。(p.97-98)
ちなみに本書では2005年の男性生涯未婚率15.4%という数字を引いているが、2020年には23.4%になっているらしい。
それに加えて、上で述べた加害性が必ずしも本人の責任ではないということも、90年代以降の精神医学や社会学が明らかにしてきたのではなかったか。
とすれば、KKOのみならず、KKKO(キモくて金が無くて加害性があるおっさん)もまた、必ずしも本人のせいとばかりはいえず、社会に包摂すべき、という話になってくるかもしれない。その際には「ラベリング」「過剰包摂」など、社会学が障害者やホームレスなどについて積み上げてきた知見を生かすことができるだろう。というか、福祉の現場の人たちはいまもKKOだけでなくKKKOも社会の内側へと復帰させるべく頑張っているのではないか。
なぜ、おっさんが問題なのだろうか。あるいはより学術的な言い方をするならば、非モテはなぜ男性の問題になるのか。本書はその問いに直接的に答えてはいないが、ヒントは与えてくれる。以下は1章のはじめの方の記述である。
皆さんは、なーんか気分が晴れない、ってことありませんか? あるいは、漠然とした不安があるとか。原因不明の体のだるさがあるとか。そういった不快な状態、つまり精神的に健康で無い状態を「ディストレス」といいます。そのディストレスが、独身男性と既婚男性とで、どちらが高いかを測った調査があります。〔…〕結果は〔…〕二八歳から七八歳まで、どの年齢層においても既婚男性のディストレスのほうが低かったのです(稲葉昭英「配偶関係と精神的健康」『日本の男性の心理学』二〇〇八)。男性にとって、そばに異性(=妻)がいる人生は、いない人の人生にくらべて、ハッピーなようです。(p.15)
澁谷はディストレスと妻帯のどちらが原因でどちらが結果かはこの調査からは分からないと述べるが、続いて妻に感情を見せることによって、夫が精神的に健康になっていくことを示す調査を引用し、「つまり女性と一緒に暮らすことがディストレスを低くすると考えるのは、間違っていないようです」と一旦の結論を置く。そして次のように続ける。
ならば、男性は女性から精神的なケアを引き出している、といえる。「女性だって同じことでは?」という反論に答えておくと、女性は独身か既婚かでディストレスに大きな差はありませんでした。〔…〕統計的な傾向でいえば、男性の精神的健康に女性の存在は欠かせないが、その逆はない、ということです。(p.16)
この下りはまったく読んだ記憶がなく、今回読み返して一番驚いた部分である。増田の実感としては「男がいないと鬱病になって死にそうな女」はよくいるが、その逆はあまりいない印象であるが、それはどうやら必ずしも正しくないようである(むろん男がいる=結婚ではないとか、ディストレスが高い=鬱病になって死ぬではないとか、そもそも元の調査やその読解がどうなのか、とかは考えなければいけないだろうがそれはそれである)。
上の論述は、女性(強者弱者フェミニスト非フェミニストを問わず)による「女に頼らずに男同士の友情で満足すればいいじゃん(私であればそれで満足するのに)」という主張が、必ずしも的を射ているとは言えない可能性を示唆している。もちろん逆もしかりで、「男性と夫婦になれば女性だって幸せになるはずだ(俺のように)」という男性の主張が間違っている可能性も同時に発生している。
ここに性にまつわる問題の隠れた難しさがある。「相手の気持ちになって考える」ことと「相手の気持ちになって考えたつもり」を区別することは、専門家であっても難しい。さらに加えて、先に述べた非モテ男性の三分類といった差異も隠れている。とにかく、話題への参入障壁が低い(男もしくは女であれば誰でも一家言持っている)わりに、トラップが多すぎるのである。これが2009年から今に至っても議論が終わらないし前に進んでもいない一因だろう。
こうした非対称性が発生する原因として澁谷は、現在の社会において女性が男性より相手の話をよく聞くように育てられており、それに対して男性は競争的に育てられていることを挙げている。その結果として男性は女性に癒やされているし、女性も女性に癒やされているのだろう。
一応言っておくとここで澁谷や増田は「男性と違って女性は人を癒やすべきだ」とか、まして「男は働いて女は家にいるべきだ」とか主張しているわけではない。ただ、そういう傾向がいまの社会にあるようだ、と言っているだけである。それを望ましいとか望ましくないとか考えるのは社会科学の領分ではない。「〈こうである〉から〈こうであるべし〉を導くことは不可能である」(ウェーバー)。
12年後のいま、澁谷の主張に触れると、多くの部分はそのまま現在に流用可能であると感じる。しかし、目配りが足りていない部分もある。おそらく澁谷は包茎手術と高須クリニックの関係よりも、男性における経済的問題について語るべきであっただろう。「女はホームレスにならなくて済むからいいよな」「いや危険だから女はホームレスになれないのだ」「それでも事実として死ぬでもホームレスになるでもない選択肢がある女は恵まれている」云々のあれである。むろんそれは今だから言えることであるのだが。
それでも増田が望んでしまうのは、そうした議論が両者ともにマジでクソだと考えるためである。ホームレスと実地で接しろとは言わないからせめて、ホームレスに女性は本当に少ないのか、少ないだとすればホームレスになるはずの女性はどこへ言っているのか、それはほんとうに「恵まれている」といえるのか、といった事実についての認識は両陣営ともに共有すべきであるし、その時点で認識に差異があるならどの点で異なるのかを明らかにすべきである。
そうした仕事を澁谷が12年前に済ませてくれていたら、と思う。思うのだが仕方ないことなので、現在を生きる我々がやるしかあるまい。というところまでは澁谷の背中に乗って増田が到達させたので、ここから先はお前の仕事だ。頑張ってください。たまに手伝いに行くかもしれない。
===
(追記)
バズったので宣伝します。狐火という、この記事や通念における弱者男性というカテゴリーからはみ出す部分はありながら、それでも弱者男性であることを納得せざるを得ないリリックを10年以上紡ぎ続けているラッパーがいます。売れろ!
https://www.youtube.com/watch?v=tmJBGEFXOvU
勇気が欲しい
余裕で頭を下げられる
勇気が欲しい
勇気が欲しい
https://www.youtube.com/watch?v=MRLXZGylQRg
絶対こんなはずじゃなかった
オレこんなはずじゃなかったんだよ
https://www.youtube.com/watch?v=loWcv5VEObM
よく聞かれる
歌えないんじゃないですか?」
https://www.youtube.com/watch?v=z1J8BbnBLyQ
27才までに見ていた夢は全て叶った
の4要素を訴える運動のことと書いてありましたが、そこに非宗教を唱える方も現れてきている、ということなのでしょうか。
いずれにしても、これらはすべて、個人の尊厳を取り戻すために、これまで社会の(暗黙的ないし強制的)要請によって様々な形で抑圧され虐げられてきた方々の悲痛な叫びとして表れた動きだと受け止めています。
古今東西、あらゆる宗教が女性差別的思想の醸成に一役買ってきた歴史があることは私も理解しています。
日本においては、神社神道は現代でも女性差別的な側面は変わっていませんし、伝統仏教の各宗派も長きにわたって女性差別を繰り返してきました。各所各山で自浄・改善の動きが少しずつ見受けられるようになったとは言え、理想にはまだまだ程遠いのが現実です。大変に嘆かわしいことです。
お尋ねの件についてですが、信仰の自由は守られて然るべきですから、私は彼女たちの願いそれ自体は悲しみと共にうなずきます。やはりそこには、宗教を否定・拒絶するだけの動機があるのです。おそらく宗教によって何らかの理不尽や痛苦を味わわされた経験が根底にはあるはずです。
しかし、何事も行き過ぎるとかえってよくない結果をもたらします。極端な行動で解決するということは、往々にしてないのです。お釈迦さまが右でも左でもなく中道を歩めと仰せになったのも、こうした話にも通じると思います。
彼女たちが「宗教に属さない」、「自分のことは自分で決める」、と決意することは素晴らしいことです。自分の尊厳を守るための大切な選択だと思います。ただし、その思いが行き過ぎた場合、彼女たちが次に取る行動は、
ということです。自分たちの在り方が正しいと信じれば、そうではない人間が正しくないと信じるのが私たちです(これは僧侶にも言える難しい問題です)。そうすれば、差別され苦しめられてきた側の人間が、また別の人間の新たな苦しみを生み出すことにもなりかねません。それだけは互いに避けねばならないでしょう。
あの人は信じてる、自分は信じない、でも仲良し。そういう、違いを乗り越えて出会える道を、女性も男性も性的マイノリティも関係なく共に探ってゆかなければ、そこにはただの断絶と分断、怒りと憎しみしか待ち受けていません。そもそも、彼女たちがこうした運動を起こさざるを得なくなるような社会通念を生み出した不特定多数を変えない限り、問題はそうそう容易くは解決しないと思います。
このことは誰もが、ゆめゆめ肝に銘じなければならないでしょう。
現代の人々にとって、「宗教」という言葉の持つ意味合いがあまりに変容してしまったことを第一に考えねばならないのではないかと、日頃から感じております。
私がこうした事象について何よりも訴えたいのは、
すべての宗教は、その時その時の時代背景・社会構造の中でたびたび利用されてきました。そのために大切な教えまで歪められることさえありました。日本においてもイスラムにおいても、家父長制とうまく融合させて、男性優位の支配構造を作ってきたのです。これは宗教が求める人間の姿ではありません。宗教という、ある種神秘の領域を振りかざすことで、精神の内外から強烈な規範となって人々(特に女性)を抑え付けてきたのです。それを行ってきたのは“人間”(特に男性)です。
この“人間”をどうにかしない限り、私たちは未来永劫救われることはないという教えを私は信順しています。見渡せば、その通りとしか思えない世界が広がっているからです。
いささか乱雑な論述になってしまいましたが、これが私の思うところです。
合掌
公理から初めて論述によって命題を示すという手法は現代数学の基本
ユークリッド幾何学では厳密な論証を学ぶことができる
もしユークリッド幾何学を学ばなければ抽象代数学などが理解できなくなることは明らか
微分積分などだけを教えていると群論やガロア理論などが理解できなくなってしまう
ガロア理論では作図が主に扱われるからユークリッド幾何学応用になっている
ユークリッド幾何学はまず中初等教育において論述を教える題材として適している
代数などはただの計算であって厳密ではないがユークリッド幾何学は公理から始めて曖昧さなく命題を示す
これは現代数学の基本であって群論やガロア理論を学ぶ際に必要な能力
代数では多項式とは?集合とは?などが厳密に説明されていないがユークリッド幾何学には曖昧さは無い
ユークリッド幾何学が扱う題材は図形であって初等教育にも馴染みやすい
現代数学を厳密に展開するには公理的集合論まで遡らねばならないが
このような条件を満たす単元は他には無い
群論やガロア理論などの抽象代数学はユークリッド幾何学の考えを継承している
これらが確立されたのは18世紀であり微分積分などはそれよりも大分昔の理論だから厳密性がない
ユークリッド幾何学は現代数学のモデルであるから論述を教えることができる
群論やガロア理論は対称性を扱う数学で対称性とは回転や相似変換などの一般化だから
やはりユークリッド幾何学を学ぶことは群論やガロア理論を学ぶことに役立つ
特に群論では、群の正規群(特異点を持たない群)による商で対称性を分類する
この割り算にはユークリッドの互除法のアルゴリズムを用いることができるからユークリッド幾何学の応用になっている
群論の一部であるリー群ではユークリッド空間の回転である直交群を扱うからこれもユークリッド幾何学が直接役に立つ
ユークリッド幾何学では公理系から始めて命題を証明するがこれは現代数学の基本
群論やガロア理論もこのスタイルを継承していてユークリッド幾何学を学ばないと抽象代数学が理解できない
ガロア理論はユークリッド幾何学と同様に、対称性の公理から作図可能性を論ずる
これはいくつかの公理から始めて可能な手順の組み合わせを厳密に論述することで様々な図形を作図していく
ヒルベルトが提唱した円積問題などもこの応用であって、現代数学において極めて重要
ユークリッド幾何学は公理から始めて論述のみによって命題を証明する
これは現代数学の基本であってガロアの理論やヒルベルトの理論などがその手法を受け継いでいる
ユークリッド幾何学をやらないと抽象代数学などを理解できなくなってしまう
まずカミングアウトすると俺はネトウヨ…とまでは行かんが、まぁ右寄り思考だ
要するに日本を貶したり蔑ろにしてる過激派サヨとか、日本に国総出でヘイトしてくる某国があんま好きじゃない
でも、都合が良い野郎なので家電やPCパーツとかはLGだのサムスンだのを買うことがある、安いもんね
でも、若干右寄り故にこう考えてしまう、「あの反日国家がこっちに悪口言いながら売りつけてくるモノ使うのって正直、なぁ…」「敵国の情報を得るためにスパイウェアとか入ってんじゃないかな…」とかね
政治や国に限らない、人は絶対にバイアスという色眼鏡越しに見る
前科者や元イジメっ子が内心どうであれ今すごい真面目に頑張ってる姿を見て心から応援するか?
しないだろお前ら、「罪は消えない」「外面がいいだけ」とか思うじゃん?俺も思う
過労死やブラック告発されたチェーン店がセールやお客様サービスを超充実させてきても、「でもあのブラック企業だろ?」「この安さの裏でバイトや社員が血反吐を吐いて苦しんでる」とか思うじゃん?
過去になんかやらかした有名人や政治家が正論言ってたり理解はできる持論述べてても、「コイツこうは言えど昔はあんなことしてるから信用できん」「過去のことは無かったことにしてんのか?」とか思うじゃん?
思ってない?おめでとう、心がきれいだね、でも「一度でも思った事はない」と言い切れはせんだろ
絶対にフィルターや偏見通して見てるから、キレイゴト抜かしてても絶対にな
まあ、これにつくうんち以外のトラバはきっと「そうはいえど韓国やパヨクはクソ」とか、「フェミは自分達を棚に上げる」とか、バイアス付きの発言か、或いは「俺は違うからな」という自己弁護ばかりだろうと、お前らへのバイアスがかかった偏見で語っておく
内面を自由に表現した文章がエッセイと言われる。事象と心象が交わる所から生まれる文章が随筆でありエッセイだ。だから、エッセイは必ずしも他人向けある必要はなく、自分専用であってもいい。
メッセージがはっきりしていて、何か意見を言う文章は論述なので、反論することができる。エッセイは心象を綴った物であり、事実と違うことがあればそこに異を唱えることはできるけど、心象に対して反対することは難しい。視野が狭いとか、持っている情報が間違っているので、そこから導き出した心象が間違っているということは指摘できるだろうけど。
エッセイを読むときに、「この文章の言いたいことやメッセージは何だろう」とずっと疑問に思ってきたけど、読み方が違っていた。事象に対して書き手が何を思ったか。その心象であったり視点、考え方を味わうものだ。「知らなかったことを知る」という情報提供の文章ではないので、読み終わった後に残る物がなくてもかまわない。
例えば風景画を見てみる。そこには必ずしもメッセージが含まれているわけではなく、ただ綺麗な物を絵に切り取っている。メッセージを読み取ろうしても読み取れない。そこにメッセージは含まれていないから。綺麗な風景をただ味わう。写真とは違うので見える物すべてが描かれるわけではない。何を描いて何を描かなかったのか、画家の目を味わう。エッセイにも同じようなことが言えるのではないか。事象について、考え方や切り取り方、視点を味わう。それだけでいい。
よく高校までの歴史は暗記中心で~って言われてることが多くて、随分大学の先生とかに大学での歴史学というものはそんなんじゃないんだぞってすごく強調されたりして、
また今日もそういう歴史が云々関連の記事が上がってるわけだけど、実際問題学校の歴史とやらってそんなに暗記だったか?
なんか必死に暗記して知識を叩き込むとかいうの自分の経験だとしたことあんまり無いし、受験でもどちらかというと考えて選択肢問題の答えを出したり、論述を書くって方が中心だったんだが。
なんというか、歴史の理論というか、構造というか、そういうのの理解が求められたという記憶のほうが強い。
むしろ理科の無機化学とかのが文字通り無機的な暗記って感じで苦手だった記憶がある。文系だったから理系用の化学は受験ではやってないけど・・・
私立の高校で教師してる。生徒は真面目で大学進学希望者がほぼ全員なものの、勉強は少し苦手な子が多い。トップ層は偏差値60くらいの大学へ行くくらいの分布。
で、タイトル。今まではオーソドックスに、どこ出るか分かんねーから範囲はまんべんなく勉強しろよーという感じで指導してきた。真面目な子たちだから努力はある程度してくれる。でも結果が出ず、黄チャート(自分は数学の教師)すらままならない三年生になってしまうこともしばしばだった。
そんで、もう思い切って、この問題とこの問題とこれとあれとが出ます。数字と、少しだけ条件はは変えます。論述は厳しくチェックしますみたいに実験的に変えた。
すると、全体的に模試を含め数学の成績が上がった。とにかく基本を素振りのように頭に叩き込ませることにちょっとだけ成功できたのかな……どうだろう……って感じ。
出す問題は黄色チャートから選んだ。なぜこうなるか、問題を絞ったことで定義や定理や考え方からじっくり説明できた。ただこれだけじゃ難関大学は厳しいんだけどね。できることが限られてる……
僕は恵まれた環境で育ってきたと思う。幼稚園に始まり在学中の大学に至るまで、海外暮らしをしていた時期でも全て私立で過ごしてきた。
いわば無菌室のような環境で育ってきたが、小→中、中→高と上がると当然自分より貧しい出自の友人ができる。しかし中高は月に1万くらいしか渡されないし、金銭感覚は露骨には出てこない。しかしこれが大学に上がると話は別だ。実家暮らしで親からある程度小遣いとして支給を受け、さらにバイトも人並みにはしているのもあって他人より使えるお金の量は多いと思う。だがしかし、大学で上京してきた連中、勉強しかしてこなかった教養などの方面で貧しい人間の金の使い方の「質」はとことん自分とは合わない。
例えば、美味しい料理・酒を楽しむための5000円よりも安酒と不味い冷凍食品のような料理の飲み会2回で5000円を使うのを良しとする。はっきりいって何がいいのかわからない。酒をただの酔うための道具としか見ていないのではないだろうか?そんな連中が女をステータスとして見ることを批判すると笑えてくる。女をステータスとして見るゴミと酒を酔うために飲んでゲロってるアホ、何が違うのか?
それはさておいても、彼らには教養やマナーというものがないと思う。教養がないのは都内で育った自分と、まともな美術館やコンサートホールなどがない田舎で育ったガリ勉じゃ仕方ないのかもしれないが…そういえば以前どこかのブログだかで都内と田舎の文化面での格差について詳しく論述されていた気がする。まあ教養は仕方ないにしろ、食事マナーすらろくにできないのは人としてどうなのか?片膝立てたり肘をついたり犬食い、フォークとナイフがまともに使えない。私立トップ大学に入ってこんなやばい奴らに囲まれると思わなかったよ。本当に人としてどうなの?彼女がいるやつらは食べ方の汚さで彼女に振られてほしいし、いないやつは一生モテなくても構わないと思う。
はっきり言って自分はそのような育ちが悪そうな人間と関わりたくもないが、社会に出るとさらにやばいカスが山ほどいると考えると鬱だ。
さて、元発言は
分解すると多分こうなる
となる。
そんなバカな話はない。田舎という概念はおよそ汎世界的なものだ(都会がないような地域の語を除く)。何語に置換しようとも、田舎は田舎。故に上記の理論は意味をなさない。対置として別言語を使えば問題はないのか(反語)。日本人(推測は正しいがあくまで推測でしかない)が外国語を使えば責任は雲散霧消するのか(反語)。ならばその隙をハックして提示する必要がある。就中、対置するなら能うる限り邪悪な語を用いなければならぬ。
さて、続く発言は
だ
この文章で、問題の語は筆者が「使うべき語」として提示されているか?
諸君ら福祉ナチスは、禁止語を見れば脊髄反射するが文脈をよく読んで考えてモノを言ったほうがいい。
【読んだもの】本を購入しようと思ったら、リアル書店やネット書店、最近では出版社による直販(弊社もやってます)などさまざまなあるかと思いますが、今回ご紹介したい『アーギュメンツ#3』という評論誌は「手売り」、つまり関係者による直接販売というきわめて珍しい流通チャンネルを選択した書籍です。売り方の時点でかなりチャレンジングな企画なのは明らかで、魅力的な論稿も多数収録されているのですが(レイ・ブラシエ(佐藤正尚訳)「脱水平化―フラット存在論に抗して」や、大前粟生さんの小説「断崖」もすごかった)、その中の波勢邦生さんの論考「トナリビトの怪」が本当に本当にすばらしかった。ので、今回はそれについて書きます。
当該論考のテーマをおおきくまとめると、理性的で自己判断できる存在としての近代的主体(いわゆる「強い主体」)の淵源にあるものとしてのキリスト教という一般的なイメージに対して、ハワイ・日本・沖縄におけるキリスト教受容史をふりかえることで別の可能性(本書でいう「隣人」)がたちあがる場としてダニエル書・イザヤ書を読みかえすという試みといえます。
いろいろ論じたい点はあるのですが、とくに筆が冴えるのは、小原猛『琉球奇譚 キリキザワイの怪』に紹介されている怪談「ジーマー」の話です。曰く、ある男性が「ジーマー」という老婆に「神様の用事の手伝い」を頼まれる。それは波上宮という砂浜で、彼女の三味線に合わせて民謡を歌うというもの。そこで事は起きる。
知ってる歌は歌い、知らない歌は手拍子をうつ。適当にこなすうちに背後の砂浜に人が集まりはじめるが、おしゃべりの中に英語やうめき声が聞こえるなど、奇妙な何かがそこにあった。徐々に不審なおもいにかられたその男性は後ろを振りかえる。「すると、そこには誰もいなかった」やがて夜も明けて、ジーマーの三味線も鳴り終わったあとに砂浜をみてみると、声が聞こえた場所には子どもをふくめた無数の足あとが残されていたという。こうした情景に、その男性は戦争(太平洋戦争のことか?)の傷跡を読みとり、波上宮の鳥居を抱きしめて泣く。「みんな死んでしまった。父親も、幼馴染の友達も、学校の恩師も、みんなみんな死んでしまった。自分は生き残ったが、果たしてこれは良いことだったのだろうか。自分のようなくだらない人間が生き残って、優しく勇気のあった友達や、才能のあった人々が死んでしまう。この差は何なのだろうか?」(30ページ)
この「ジーマー」は沖縄固有の物語ですが、波勢さんはここに「死者との交換可能性」という「怪談の本質」を見ます。生者と死者の想像力が同時に起動する場所、そこに怪談という物語は立ち上がる。そして同論考にとって重要なのは、この「怪談の想像力」はキリスト教のテクストにも見出されるという点です。
(「怪談として聖書を読む」というこの箇所は本稿でもっとも屈折し、そして読みでのある所なのですが、そこはあえて飛ばします。気になる方は「アーギュメンツ#3」をお買い求めください)
この怪談という想像力からみて、「西洋近代的自我による主体的区分による解釈は、恣意的でグロテスクな切断」(34ページ)となります。しかしバベルの塔の神話が示すように、神は常に「言語と文化を奪われたものの側に立ち上がる」。つまり強き主体の側にではない、という点が重要です。
「神は奪われ排除されたものの側に立ち上がる。歴史と非歴史の境界で『主体』と『弱い主体』を隔てる壁は消失し、ありうべからざるものが現れた。」「ぼくはそれを『隣人』という言葉に求めたい。なぜなら聖書において隣人とは、まさしく自他の交換可能性を示す言葉だからだ。」「隣人が現れるとき、『神を愛せ、己を愛するように隣人を愛せ』というイエスの声が、聞こえ始める。隣人は、神の赦しを伝達するぼくらの似姿であり、またぼくらの赦しを待つ異形のものでもあったのだ」(35ページ)
ここで提示された「隣人」は、大仰で圧倒するような<他者>、私たちの理解を拒む絶対的な<他者>ではないでしょう。どこにでもいるあなたであり、わたしであり、そして誰かです。これはブルーハーツの歌に出てくるような、といっていい。そう思います。(すこし恥ずかしいけれど、いや、しかしそう言ってしまっていい)
「隣人の思想」、波勢さんの論考が到達した地点をそう呼んでいいと思うのですが、ここで示された思想の内実とともに、この思想に至る論述があくまでもキリスト者としての波勢さんの信仰に貫徹されている。ここに本稿のもうひとつの傑出した点があります。
たとえば「昨年11月、九三歳で祖父が死んだ」ではじまる本稿は、「キリスト教信仰を告白せずに死んだ祖父が天国でないどこかへ行ったのではないかと不安になった」という文章が地の文で、鍵括弧抜きで出てきます。たぶん信仰をもたない人にとってこの一文は、理解の遠い、「向こう側の人」の言葉に聞こえるのではないでしょうか。(本稿の最後、註のラストの文章も「神に栄光、地に平和、隣人に愛と怪。感謝して記す」です)
「聖書を怪談として読む」という本稿の試みをもし信仰をもたない人がするならば、さじ加減をまちがえたとき即座に「他者の信仰否定」になるでしょう。でも、波勢さんはあくまでも信じることで聖典を読み替える(またはこれまで読まれなかったものを読み解く)という姿勢を貫く。そこにこのテクスト独特の緊張感と救いがあります。
イスラーム法学の中田考先生や、このたび『トマス・アクィナス』でサントリー学芸賞を受賞された山本芳久先生などもそうですが、これまで護教論や宗学として避けられがちだった信仰者自身による学問的考察のいくつかには、相対主義と決断主義のあいだでさまよう私たちの課題を乗り越える何かがあるように思います。私にとって本稿はまちがいなくその一つです。そう断言していいものがこの論稿にはあると考えます。
以上、編集Aは自社本を紹介していないどころか本すら紹介していないのではないか疑惑もあるのですが(広報誌とか、雑誌の特集号の論稿とか)、これにて「トナリビトの怪」の長文の感想を終わります。ご清聴ありがとうございました。