はてなキーワード: 診断基準とは
自己愛性パーソナリティ障害は誇大性,賞賛への欲求,および共感の欠如の広汎なパターンを特徴とする。診断は臨床基準による。治療は精神力動的精神療法による。
自己愛性パーソナリティ障害患者は自尊心の調節に困難を有するため,賞賛および特別な人物または機関との関係を必要とする;優位性を維持するために,他者を低く評価する傾向もある。
自己愛性パーソナリティ障害の推定生涯有病率には大きな幅があるが,米国の一般集団では最大6.2%にも上る可能性があり,女性より男性に多い。
併存症がよくみられる。患者は 抑うつ障害(例,うつ病,持続性抑うつ障害), 神経性やせ症, 物質使用障害(特に コカイン),または他のパーソナリティ障害(演技性, 境界性, 妄想性)を有していることも多い。
NPDの病因
自己愛性パーソナリティ障害に寄与する生物学的因子に関する研究はほとんど行われていないが,発症に関わる有意な遺伝要素が存在すると考えられている。養育者が子供を適切に扱わなかった(例えば,過度に批判的であったり,過度に子供を賞賛,称揚,または甘やかしたりすることによる)可能性を仮定する理論もある。
特別な才能や能力をもっており,自己像および自己感覚を他者の賞賛や尊敬と結びつけるのに慣れている患者もいる。
自己愛性パーソナリティ障害患者は自分の能力を過大評価し,自分の業績を誇張する。自分が優れている,独特である,または特別であると考えている。患者の自分に関する価値および業績についての過大評価はしばしば他者に関する価値および業績の過小評価を含意する。
患者は大きな業績という空想―圧倒的な知能または美しさについて賞賛されること,名声および影響力をもつこと,または素晴らしい恋愛を経験すること―にとらわれている。普通の人とではなく,自分と同様に特別で才能のある人とのみ関わるべきであると考えている。このような並はずれた人々との付き合いは患者の自尊心を裏付け,高めるために利用される。
自己愛性パーソナリティ障害患者は賞賛を受ける必要があるため,患者の自尊心は他者からの肯定的評価に依存し,このため通常は非常に脆弱である。この障害を有する患者はしばしば他者が自分のことをどのように考えているかを注視しており,自分がどれだけうまくやっているかを評定している。他者による批判ならびに恥辱感および敗北感を味わわせる失敗に敏感であり,これらを気にしている。怒りまたは軽蔑をもって反応したり,悪意をもって反撃したりすることがある。または,自分のうぬぼれの感覚(誇大性)を守るために,引きこもったり,その状況を表向きは受け入れたりすることがある。失敗する可能性のある状況を避けることがある。
NPDの診断
診断基準(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth Edition[DSM-5])
自己愛性パーソナリティ障害の診断を下すには,患者に以下が認められる必要がある:
このパターンは,以下のうちの5つ以上が認められることによって示される:
自分の重要性および才能についての誇大な,根拠のない感覚(誇大性)
途方もない業績,影響力,権力,知能,美しさ,または無欠の恋という空想にとらわれている
自分が特別かつ独特であり,最も優れた人々とのみ付き合うべきであると信じている
共感の欠如
傲慢,横柄
また,症状は成人期早期までに始まっている必要がある。
鑑別診断
自己愛性パーソナリティ障害は以下の障害と鑑別することができる:
双極性障害:自己愛性パーソナリティ障害患者はしばしば抑うつを訴えて受診し,その誇大性のために,双極性障害と誤診されることがある。自己愛性パーソナリティ障害では 抑うつがみられることがあるが,他者より上の立場にいたいという欲求が常にあることで,双極性障害と鑑別される。また,自己愛性パーソナリティ障害では,気分の変化は自尊心に対する侮辱によって引き起こされる。
反社会性パーソナリティ障害:自分のために他者を利用することは両方のパーソナリティ障害の特徴である。しかしながら,その動機は異なる。反社会性パーソナリティ障害患者は物質的な利益のために他者を利用するが,自己愛性パーソナリティ障害患者は自尊心を維持するために利用する。
演技性パーソナリティ障害:他者の注意を惹こうとすることは両方のパーソナリティ障害に特徴的である。しかし,自己愛性パーソナリティ障害患者は,演技性パーソナリティ障害患者とは異なり,注意を惹くために気取ったことやばかげたことをするのを非常に嫌い,賞賛されることを望む。
自己愛性パーソナリティ障害の 一般的治療は全てのパーソナリティ障害に対するものと同じである。
基礎にある葛藤に焦点を当てた精神力動的精神療法が有効なことがある。境界性パーソナリティ障害のために開発されたアプローチの一部は,自己愛性パーソナリティ障害の患者用に効果的に改変できる場合がある。具体的には以下のものがある:
これらのアプローチでは,自分および他者を感情的に経験するあり方の問題に焦点を合わせる。
自己愛性パーソナリティ障害患者は,習熟度を高める機会を魅力的と捉えることがあるため,認知行動療法が患者にとって魅力的となる場合がある;患者の賞賛への欲求により治療者が患者の行動を方向づけられる場合がある。自己愛性パーソナリティ障害患者の中には,マニュアル化された認知行動療法のアプローチを簡単すぎる,または自分の特殊な欲求を満たすには一般的すぎると考える。
quiz link
TEST YOUR KNOWLEDGE
確かに本気で演技すれば通るやろうな
https://www.jspn.or.jp/uploads/uploads/files/activity/gid_guideline_no4_20180120.pdf
日常生活の状況、たとえば、服装、人間関係、職業歴などを詳細に聴取し、現在のジ
ェンダー・アイデンティティのあり方、性役割の状況などを明らかにする。また必要に応
じて、当事者の同意を得た範囲内で、家族あるいは当事者と親しい関係にある人たちか
ら症状の経過、生活態度、人格に関わる情報、家族関係ならびにその環境などに関する
情報を聴取する。そのうえで、ジェンダー・アイデンティティについて総合的多面的に検
討を加える。ただし、これらの人たちから情報を得るに当たって、当事者との関係に重
DSM-Ⅳ-TR1)やICD-108)を参考にしながら、以下のことを中心に検討する。
自分の第一次ならびに第二次性徴から解放されたいと考える。自分が間違った性別に生ま
れたと確信している。乳房やペニス・精巣などを傷つけたりする。FTM では声をつぶそう
と声帯を傷つけたりする。
②反対の性別に対する強く持続的な同一感
反対の性別になりたいと強く望み,反対の性別として通用する服装や言動をする。ホルモ
ン療法や手術療法によって、でき得る限り反対の性別の身体的特徴を得たいとの願望をも
っている。
③反対の性役割を求める
WAISやWISCで発達障害の有無が分かることはありません。基本のキが分かってない。診断基準を読むところからやり直してきなさい。
「全てが先天的な生まれつきの脳の問題」「親の育て方は一切関係ない」というのは無理があると思うんだよなあ
ケアレスミスだの注意散漫だの忘れ物だのって、どう考えたって後天的な影響で変わり得る要素ばっかりじゃん
全部先天的だと決め付ける方がよっぽど偽科学にしか思えないのに、ちょっとでも親の責任を問うと偽科学認定されるのが納得いかない。
あとホントに誰にでも当てはまるような項目ばっかりだしバーナム効果の見本のような列挙だよね
https://ymcwakayama.sakura.ne.jp/byoumei5.html
DSM-5における注意欠如・多動性障害(ADHD:Attention Deficit Hyperactivity Disorder)の診断基準
A1:以下の不注意症状が6つ(17歳以上では5つ)以上あり、6ヶ月以上にわたって持続している。
b.注意を持続することが困難。
c.上の空や注意散漫で、話をきちんと聞けないように見える。
その中でも特に「直接話しかけられたときに、しばしば聞いていないように見える」という基準が入っているのはヤバイ気がする
事実と評価は分けろって、文系の法学ですら口を酸っぱくして言われるのに、理系の医学でそれをやっちゃうの?
他も大概だけど、物をなくすとか用事を忘れるとかは一応客観的な基準であるのに対し
当人の自己申告での「聞いていなかった」ならまだしも、第三者からの『見える』という勝手な評価で発達障害と決め付けちゃうの?
自分もよく他人から「聞いてる?」と言われるんだけど、他人の視線が苦手で話の内容に集中するために目を逸らしていると、よくそう言われる
でも目を合わせると寧ろ聞けてないんだよな…
まあどうせそれも発達障害の特性だとか言われちゃうんだろうけど、少なくとも「聞いていない」訳ではないよ
あと本当に他の基準も誰にでも当てはまるようなものばかりで…この基準で行くと人口の1割どころか8割くらいはADHDにされそう
トランスジェンダーをめぐるあれこれを見てるとこれからトランスジェンダーがどんな存在かを知ってもらう段階なんだろうなって思う。
日本では診断基準があるのでそれを定義として「トランスジェンダーとはこういう人たち」と理解を求めるしかないんじゃないか。
今は「わたしの考えた最悪のトランスジェンダー」を各々頭に浮かべて集団ヒステリーを起こしてるだけにしか見えん。
2010年代に当事者が生い立ちからSRSを受けた後までの体験記を漫画として出版する流れがあってそれで当事者からの発信を知ることがあったけど、マイナーな出版社からばかりだし見る人の多い場所で発信しなきゃいけないんじゃないか。
回避とHSPの併発って言われると、それもう回避じゃなくてNPDの過敏型が正体じゃないの?
ㅤ
ㅤ
ㅤ
回避傾向を持つ群
騒々しく見栄っ張りで、傲慢で人を利用するという明確な自己愛性パーソナリティ障害の人物像とは対照的に、過度に傷つきやすく、失敗を恐れ、恥をかかされることを心配するために人前に出ることを避ける過敏なタイプの自己愛性パーソナリティの人々がいる[48]。彼らは周囲の人が自分にどういった反応をするかに非常に敏感で、絶えず人に注意を向けている。批判的な反応にはとても過敏で、容易に侮辱されたと感じる。人に非難されたり、欠点を指摘されることを恐れ、社会的に引きこもることで葛藤を避け、自己の万能世界を築きあげようとする一群である。自分は拒絶され軽蔑されるだろうと確信しているために、スポットライトを浴びることを常に避ける。表面的には内気で抑制的に見えるが、その実、精神内界には誇大的な幻想を抱えており、自己愛的活動の大部分を空想の中で行い、それを人に知られないようにしている。彼らの内的世界の核心には、誇大的で顕示的な秘められた願望に根ざした、強い羞恥心がある。
一見すると慎み深く、ときに深く共感的に見えることもあるが、それは他者に純粋な関心があるように見せたいという彼らの願望を取り違えているだけである。彼らは自分の心的防衛の最終段階にある抑制的な行動しか目に入らず、自分のことを恥ずかしがり屋で自己主張ができない人間であり、当然受けるべきものも得られない性格だと考えていることがある。現実には持続的な人間関係を持つことが出来ず、共感性の欠如を示し、内に秘めた誇大的な自己像は慎重な面接を繰り返していくことで徐々に明らかになっていくのが、潜在型のナルシストの特徴である[48]。
アメリカ精神医学会は精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)において、自己愛性パーソナリティ障害の人物は批判や挫折に伴う傷つきに非常に敏感なため、社会的ひきこもりの人々にも見られることを報告している[49]。グレン・ギャバードは、潜在型の自己愛性パーソナリティ障害の人々は回避性パーソナリティ障害や社交恐怖と多くの点で関連していることを指摘している[50][51]。また牛島は、現代の操作的診断基準(DSM)においては顕在型の傲慢なタイプは自己愛性パーソナリティ障害と診断されるが、潜在型の過敏なタイプは回避性パーソナリティ障害(あるいはスキゾイドパーソナリティ障害)と診断されてしまうことが少なくないと述べている。これらは精神力動的には同じもので、単なる表裏の問題に過ぎず、背景にある自己愛性の問題を把握することが必要であることを指摘している[52]。また丸田は、典型的な症例は無関心型と過敏型の特徴のどちらかを示すが、臨床的にはほとんどが両者の混合型であり、ひとつの症状軸である「他者の反応に意を介さない vs 他者の反応に対して非常に敏感」を取り上げても、その反応は振り子の両極のように大きく揺れ動くのが特徴(健康な人は揺れが少ない)という点を指摘している[53]。現実の自己愛性パーソナリティ障害は、ギャバードの分類した無関心型の極から過敏型の極へと至る線上のいずれかにプロットされると考えられる。
自己愛性パーソナリティ障害は、対人関係における搾取的行動、共感性の欠如、激しい羨望・攻撃性・自己顕示欲という諸々の特徴を示す[57][58]。彼らの持つもう一つの側面は、その傷つきやすさである。意識的なレベルでは、それは無力感、空虚感、低い自尊心、羞恥心に由来するものである。それは彼らが求めたり、期待する支持が与えられない状況や、自己主張が不可能なために退避するような状況において、親しくなることを回避するという行動で表現されることがある[58]。自己愛の病理は軽症から重症まで連続的な広がりをもち、その自己表現形式も多様である。
国によって平均身長が違ったり人種によって病気のリスクが違うのだから、性別違和の人口比が国によって違うのは普通に考えられることだよ。
ただ精神疾患の診断は従来、わりと医師の感覚に左右されるところが大きかった(今も)のと、診断基準自体に生活上の不都合という項目が入ってる疾患が多いことから、文化・社会の影響も大きい。
でもうつ病が「脳の病気」だと広く知られたことで発病に対する偏見(「サボってるだけだ、根性が足らん、みたいなの)とか治療に対する偏見(精神病患者は社会から隔離しよう、みたいなの)が減ってきているように、性別違和についても客観化がノーマライゼーションに繋がると思う。
ふむ
捜査関係者によると、女性は調べに対し、避妊手術をしなかった理由について「収入が少なく余裕がなかった」「昔飼っていた犬を避妊手術で失ったので犬を死なせたくなかった」などと話したというが、供述内容の真偽は分からない。一方で「ほとんどの時間を動物の世話に費やしていたが、苦ではなかった」とも述べたという。少なくとも、動物への「愛情」は持っていたものと思われる。
本人に確かめようと女性宅を訪れたが、直接会うことはできなかった。犬たちは保健所に引き取られ、女性宅の周辺は穏やかさを取り戻していたが、近所の住民たちも一様に口を閉ざした。
◇30メートル先でも鼻を突く異臭
そんな中、昨年10月から女性と繰り返し話し合いをしてきた人物に話を聞くことができた。同県市川市の動物保護団体「ガンドッグレスキューCACI」の金子理絵代表だ。別の保護団体を介して問題を知り、女性と交渉することになったという。
金子さんは「このままでは女性にとっても犬たちにとっても良くない」との思いから、犬を手放すよう説得した。だが、女性は「自分にとっては子どもだ」と譲らなかった。約30メートル離れた場所でも鼻を突く異臭がしていたが、女性は気にする様子もなかった。「利己的な愛情、物に対する執着のようなものを感じた」と振り返る。
◇「アニマルホーダー」という病気の可能性
こう指摘するのは、公認心理師として心の病を抱える人のカウンセリングに取り組んできた矢野宏之さんだ。
矢野さんによると、物を捨てることができなくなる「ためこみ症(ホーダー)」という病気がある。日本ではあまりなじみのない病名だが、アメリカ精神医学会は独立した精神疾患と位置づけている。このうち、特に動物をため込む人は「アニマルホーダー」と呼ばれる。①収集する②管理できない③捨てられない――の三つ全てが当てはまるかどうかが診断基準となっている。
2000年: DSM-Ⅳで診断基準が緩くなり発達障害ブームが起きる。ADDの概念によって見過ごされやすい目立たないタイプもいると理解されるようになる
2004年: 発達障害支援法が出来て発達障害支援職ブームが起きる。補助金詐欺、過剰診断が指摘されるようになる
2007年: 乱用が問題視されていた医療用覚せい剤(リタリン)の新型(コンサータ)が日本で認可されるも、診断と処方を求める者の増加は続く
自殺した彼は2000年生まれで、ADHD診断が降りたのは18歳(2018年)。
すなわち発達障害ブームの真っ只中、スクールカウンセラー・発達障害児の支援職・放課後デイサービスの担当者・大人の当事者らが血眼にして「発達障害の疑い」をかけまくっていた時代に子供時代を過ごしている。
かつての診断基準は幼児期から症状が出ていることが発達障害(=先天性で治らない)の条件だった
しかし2013年に思春期以降から症状が出始めることに基準が変わったので
養育環境/生活習慣の問題、思春期の情緒不安定など後天的で治りうるものも発達障害と呼ぶ。
彼の脳には自殺に値する先天性で治らない障害があったのだろうか??
滝川一廣「診断とは何かということです。医師が風邪と診断するのは、自然科学です。疾患が起きている体の場所、起きる仕組み、病気の原因が共通しているとき、同じ種類の病気だと診断できる。しかし精神障害は、外から見たその子の行動の特徴を分類し、引き出しに入れることにすぎません。自閉症の引き出しに入る、あるいは知的障害の引き出しに入ると。精神障害の診断は医学的診断ではありません。社会的判断です。」
昔は子供達を規格化しようとしてるって日教組批判したり、自由な教育進めてきたのに
多様性を重視しよう=発達障害は発達障害向けの所にいろよそれが幸せだよ
と隔離されるようになったな
https://toyokeizai.net/articles/-/413292?page=2
果たして診断結果は「ADHD (注意欠陥・多動性障害)。ASD(自閉症スペクトラム、アスペルガー症候群)の傾向もあり」というものだった。
話はずれるが、ここで私が発達障害当事者の人たちの取材を通して疑問に思っていることについて少し言及したい。
それは医師による診断基準のばらつきだ。例えば、「大学を出ているのに発達障害のはずがない」「話し方が発達障害らしくない」などという謎の理由で門前払いを食らう人がいる一方で、受診したその日にいとも簡単に発達障害と診断されたという人もいる。そうかと思うと、即日診断された挙句、そのまま精神科病院に強制入院させられた人も知っている。
俺は専門校卒の24歳。某障害者支援施設で働いている。そこで池沼の世話しているんだけど、入って驚いたことがある。女の知的障害者って驚くほどBLが好きだってこと。むしろBL好きじゃない女池沼みたことないわ。入所するときに親からBL本渡されるらしい。おそ松、ヘタリア、BL同人、種類は様々だ。で、あいつらはそれを毎日狂ったように眺めてるんだよ。キモイ顔でニタニタしながら食い入るように見つめる姿は下手なグロ画像よりインパクトがある。(あいにく俺は美人の池沼というものを見たことがない。あいつらが美人ならまだマシかもしれんが、池沼って揃いもそろってブサイクばっかだからな)軽度から意思疎通すら困難なレベルまでみんなBLが大好きだ。字が読めないレベルの池沼は、エロ同人しか読まない。腐女子はシチュエーションで抜くというが、重度はそれすら理解できない。だから、男同士がやり合っているという構図があれば満足なんだろう。字すら読めない奴がどうやって入手したのか疑問だったが、ある日同僚が教えてくれた。ガイジの親同士のコミュニティーがあって、情報交換し合うそうだ。そこで必ずと言っていいほど言われるのが女ガイジは皆BL好きだと言うことだ。親もうちの子が気に入るのだろうかと恥を忍んで買うらしい。それさえ与えれば大人しくなることが多いので親は助かるそうだ。大人しくならないパターンもあるが、取り上げようものなら、暴れ出して手に負えないので、結局BL本を手にしたままだ。
性欲溜まるとあいつら人前でBL本眺めながら「トッティィィィィ!!」とか「尊イヨォォオ!」って叫びながら自分の股間こすり出すんだよ。うっ、思い出しただけで悪寒が。そんなんだからある日、取り上げようとしたことがある。そうするとそのガイジは意味不明な金切り声を上げて暴れ出した。まるで野生動物が我が子を守るかのようだ。ただ、自然番組と違って、ものすごくおぞましい光景なんだが。とにかく手足を振り回してパワー全開で暴れる。それで職員が一人怪我をしたので、今度を隙を見て取り上げることにした。施設内でパーティーを開いて、それに出席させている隙を狙った。唾液が染みついてボロボロで異臭を放つ銀魂のエロ同人。うんこ処理をする様な気持ちで処分した。そしたら、後が大変だった。戻ったガイジが宝物の消えたことに気づくと、暴れたんだ。人間ってこんな大声出せるんだって驚くほどの声を上げる。それで泣くわ叫ぶわ、壁をバンバン叩いて、近くの物を片っ端から投げるわの大騒ぎ。仕方なしに拘束したが、もう泣き止まない。書店に駆け込んで18禁のBLを買った。レジに立ったときは死ぬほど恥ずかしかった。店員さんに「俺が読むんじゃないですよ。施設の障害者さんが読みたがってたので」って説明したら店員も「そうですか」って苦笑いを浮かべてて気まずかった。施設に帰って与えたらそいつは大喜び。泣き叫びながら本に顔を押しつけ、下半身に手を伸ばしだした。もう二度とあいつらの物を処分しないと決めた。あー、植松聖みたいな救世主が訪れないかな。他の施設でもメスガイジはみんな腐女子らしい。
メスガイジはBL好き。これは自明の理なんだが、まだ科学的に証明されていない。じゃあ、診断の時にBL本を見せればガイジかどうか一発で判断できて便利じゃんと思うかも知れないが、現実はそこまで楽じゃないらしい。そんなもので判断すれば「趣味で人を差別するな」って非難されるのが目に見えている。心理学か精神医学の研究者が調査して、論文に纏めてくれれば知的障害の診断が楽になるかも知れない。一応、どっかの大学がBLが好きな女性は一般的な女性と比べてIQが低く、攻撃的で、非社交的な傾向にあるという結果を発表したようだ。いずれ、知的障害の診断基準にBLが好きかどうかが加えられる日もそう遠くはないだろう。
そうしてみるとやっぱり腐女子って脳に欠陥を抱えた生物なんだなって思う。そうしてみると嘘松ツイートしたり、リアルで銀魂の口調まねるのも納得だわ。あいつらも池沼と本質的には同類なんだな。まあ、かなりマシな部類なんだろうけど。知能が低いからあんな低俗な者にはまる。そして、周囲の事なんて気にしないから、平気で迷惑かけられる。傍から見たら地獄そのものだが、本人からしたらBLのことだけ考えていればいいから幸せそのものだろうな。つくづく、一番幸せなのはバカな奴だって思い知らされる。
どうしてこんなことになったんだろう。ここ数年で何度も思ったことだ。
これは奇妙な巡り合わせで出会った私にそっくりの友人が大学卒業時に書いた文章の書き出しである。この鏡合わせの彼が書いた文章を何度も自分事のように反芻してきた私は今年大学院を出る。修了という立場に際して、私も少し自分語りをしてみようと思う。他人の自分語りなど興味の無いという方もたくさんいるだろうから、そういう方はこの時点で引き返してほしい。思うままに書き殴っているので読みづらいし長いと思うが、それに我慢できる人だけ読んでもらえればと思う。
・生い立ち
私はごく普通の環境で育ったと思っている。地方在住で金持ちでも貧乏でもない家で、両親は優しくて、友達もいた。小中学生のころの自分は一言でいうと優等生気質だった。学校の勉強はそこまで苦にしなかったし、危ないこともしなかった。先生の言うことには従っていたし、学級委員を務めたりするタイプの人間だった。強いて言えば両親が少し頑固だったくらいだ。
小学校では初めに陸上クラブに入った。運動は苦手かつ嫌いだったし、何よりブラスバンドのようなクラブがありそちらに入りたかった。父が無理にでも私を陸上クラブに入れたのは運動の楽しさを知ってほしかったのだと思っている。運動神経のいい父にしてみれば運動は娯楽だったのかもしれないが、運動神経が壊滅的な私にとっては純粋な身体能力を問われる陸上は苦しかった。そのため5年生からはブラスバンドをやらせてくれと懇願した。タダで許してくれるはずもないので中学では運動部に入ると交換条件を付けた。5年生から始めたトランペットは本当に楽しくて練習した。6年生の途中からは1stトランペットを担うこともできた。
中学では周りの部員が吹奏楽部に行くのを横目に約束通り運動部に入った。誤解のないように言っておくと別に部活動自体は楽しかった。ただ音楽室から聞こえてくる音を聞くたびに自分もこの中にいたらどうだったろうと思うことは度々あった。中学では同学年内でいじめもあって、被害者ではなかったものの学年中を巻き込みつつも教師が黙殺しているそれに優等生気取りの私は心を痛めたものだった。その頃の私はもっぱら公正世界仮説(当時この言葉は知らなかったが)の敬虔な信者であり、親や先生にほめられている優等生の自分はいつか報われるし、逆にいじめなんぞ加担している人間はその人間性からどこかで破綻すると思っていた。
高校は少し離れた進学校に入った。近隣の学校に行く人が多かったが、いじめの件もあり彼らと距離を置きたい気持ちも大きかった。流石にレベルの高い授業でもあったが、モラルや教養を持った人が多く非常に楽しい生活を送った。高校の部活は軽音部と兼任しようかなと考えていたが、他方の顧問が専任を希望するような言い方をしたので諦めた。別に悪い人ではないと思うが、他人に機嫌を取らせるタイプの人間だった。高校では成績をぐんぐん落とした。周囲のレベルの高さもそうだが、私には2点の欠陥が見え始めていた。1つは努力。中学生まであまり勉学に苦労しなかった私は勉強に労力をかける癖がなかったし。加えて苦手な運動は一向にできなかったし、好きな人にアプローチしても付き合えなかったし、理論武装して親に頼み込んだことも結局許されなかったり、努力してできた経験と言えば自転車の補助輪を外すときくらいのものであったように思う。努力の数と成功体験の数なんて鶏と卵かもしれないが、努力をした経験もおそらく人よりは少なく、努力が実った経験はもっと少ない人間だったように思う。もう1つは先天的能力の限界である。これまでの自分は「丁寧に教えてもらえば理解ができる」という能力を有していたと思っている。中学生までの自分が苦労しなかったのもこれが原因だと思っている。しかし高校3年生になると少しそれに陰りが見えているのを人知れず自覚していた。周囲の人間には見えていないようで、親や先生は褒めてくれるし、同級生からも勉強ができるという認識をされていた。
3年生になると嫌でも受験を考えなければならなくなる。私はどこに行って何をするのだろう。勉強は好きではない。高校では文芸部の本に部外から投稿してすごく評判が良かったし、文化祭の劇の脚本や演出を担当して最優秀賞を取れた。そのあたりの活動は楽しかったしクリエイティブなことがしたいかな、あと音楽。それとなく親に専門学校の打診してみたけど、4年制大学に行けといわれた。「いい大学に行けばいい企業に行けるからね」と言われてきていたし、親心としてはそんなもんだよねと理解した。自分としてもレールを外れることに恐怖はあったし、レールに従うことで周りと同じように大学に行って、就職して、結婚して子供を作って、今の家族のような生活が送れるならそれでいいと思っていたのでじゃあ普通に大学に行くねとなった。
問題になるのは何がやりたいかである。私がやりたいことって何だったんだろう。結局見つからなかった。そこで親がアドバイスをくれた。
「まだやりたいことが見つかっていないなら、ここに行けばいいんじゃない?」
親が指し示した大学は、入学時に専攻を決めなくてよいという特殊な制度をもつ大学だった。みなさん名前ぐらいはご存じの都内の大学である。幸か不幸か、私にはそこを目指せるだけの能力はあった。
1浪しなんとか2年目で合格して大学1年目。はじめに学んだ格言がある。
「大学では勉強、サークル、恋愛、バイトのうち2つしかできない」
勉強は好きではないので、サークルとバイトをやるんだろう、恋愛もあるのかななどと入学後の私は胸を躍らせていた。憧れのバンドサークルにも入った。周りは経験者なので食らいつこうと頑張った。大学から帰って仮眠を取り深夜の安いパック料金で明け方までスタジオで個人練、シャワーを浴びて大学へ。その生活をしていたら資金がショートした。親にバイト禁止されていたため練習や交流のためのお金が足りず、実力もつかず人脈もできずにフェードアウトした。
大学の授業はひどく不親切であった。大学のレベルも相まって何をやっているのか理解できなかった。高校の時に疑問を持っていた内容が解決されるかと期待していたが、それらは大体1,2回目の講義で解決してしまうものか、もしくは深くがっつり専攻しないと理解できないようなもののどちらかで、学ぶモチベーションにはつながらなかった。教える側も教科書も「説明してはいる」「書いてはある」という感じで、高校までのようにわかりやすくとはいかなかったから、「丁寧に教えてもらえば理解できる」タイプの私では太刀打ちできなかった。つまらないし時間の無駄に思えて次第に講義も休みがちになった。
それでも、とりあえず大学を出れば何とかなると思っていた。ここで耐えている自分はきっと報われると思っていた。好きなものが大学で見つかればいいし、そうでなかったら高校までの勉強ができるから教師になればいい。これが1年目の私であった。
・崩壊
初めてショックを受けたのは成人式のことだった。新成人代表として何人かの陽キャ集団が壇上にあがった。式の前後に彼らと会ったがある人はバツが悪そうに私から目をそらし、ある人は肩を組んで話しかけてきた。どちらもいい気はしなかった。彼らはいじめの関係者である。なんで彼らの方が人生を謳歌しているんだろうか。その時にふと思った。「結局彼らは世渡りがうまかったんだ」と。くだらない正義なんて捨ててその場で空気を読んで得なほうに回るっていうのが正解で、黙殺していた奴らもそうだったんだ、なんて自分は愚かだったのかと。そう考えてみると社会に明確な悪役はいなくて、したがって明確な正義も存在しない。正義と道徳に立脚した自尊心のなんと脆いことかと思い知らされた。
そして、もう一つ。親や教師というのもまた所詮人間だとこの年になって気づいた。この中の何人かが数年のうちに教師になって、親になる。はっきり言って話の通じない人だっているが、そんな人も年さえ取ればいつかは親や教師になりうる。だから、黙殺した教師も、話の出来ない親もおかしくはない。じゃあ私が優等生してきた、私が正しさの根拠としてきたものは何だったんだろう。優等生であることを数字で示してくれるものは成績くらいしかない。世渡りが下手で運動などの技能も持たず、それでも私が公正世界仮説を信じてこれたのは、案外「勉強ができること」に依存していたのかもしれない。勉強しかできないやつだけど勉強ができるから何とかなる、そんな風に自分の無能さを騙して生きていたのかもしれない。
さらに拠り所の勉学さえ崩れ落ちた。留年が確定したのだ。受験でも足を引っ張った物理がとことん苦手で何も理解できなかった。2年目は学費の負担を減らすべくバイトをさせてもらった。サークル活動は事実上全部やめ、バイトと勉強の日々が始まった。バイト先は学生が割と多かったため、みんなと仲良くなれた半面、繁忙期が重なった。私は試験前はむしろシフトが増加し、結果的に致命的な必修単位だけ落としてしまった。2留である。親に電話して事情を説明した。単位くらい取れとストレートに怒られるかと思った。代わってあげる優しさを評価しつつもやりすぎだと注意されるかもとも思った。
人にやさしく優等生してきた自分の生き方への批判と自分が仲良くしている人たちへの非難のダブルパンチで頭に血が上った。怒りで何も言葉が出ずに何秒か無言の後電話を切って、壁を殴った。
数日すると気分が落ち込んできた。親はそれを「単位を落としたから」と解釈したようであるが、全く違う。私は他の人が当たり前のようにサークルやバイト、恋愛を掛け持ちして進級している中で、バイトしながら進級できなかった。私は当たり前のことすら満足にできない無能であると、薄々感じていた自分の無能が隠せなくなってしまったのである。
3年目は再びバイトを禁止した。クラスでの試験対策の仕事もやり、その科目の勉強をしなければいけない状況を作った。サークルとしては冒頭の彼の紹介で新しいサークルに入った。サークルでできた友人とは本当に仲が良く、勉強を助けてもらったり、サークル関係なしに遊んだり大学での生活の基盤になった。助けてもらえる人も増え、自分で学習するようになり、この年の上半期では単位の取得ができた。しかし、私が感じていたことは決してポジティブなことではなかった。私がこの年の経験でわかったことは「お前はやればできるが、環境のサポートがあって自分で勉強してもちゃんとできるのは2単位」ということである。私は2年で70単位以上取得する想定のカリキュラムを、半年で2単位しか取れない脳みそでやっている。無能すぎてもはや卒業が無理なのではないかと思った。
公正世界仮説、評価軸としてきた大人たちへの信頼、自身の実力への評価の3つが音を立てて崩れて、この時私は確かに一度死んでしまった。このことに気づく前の自分に戻れなくなってしまった。中学のいじめがらみで「死にたいけど死ぬ勇気もない」って言ったときに「死ぬのなんて勇気って言わねえ」って怒鳴りつけてくれた友人がいた。
・専攻決定
4年目にして2年生。この年は諸々の事情でクラスから孤立した。喧嘩別れのようなものである。私としても仲良くする気はなかったので1人でどこまでできるかやってみようと思った。結果は惨敗だった。単位取得こそぎりぎりできたものの私はこの大学では人に寄生しないとやっていけないと気づかされた。
そして、4年前に選択を先延ばしにしたツケの返済期限が来ていた。専攻の決定である。結局4年間でやりたいことは見つからなかった。勉強は面白くないし、勉強以外の何かを思い切って始める余裕もなかった。教員になろうかとも思ったが、それもかなわないと思った。教職は卒業単位には含まれないため、追加でいくつも講義を取る必要がある。通常のカリキュラムすらまともにできない私にそれは無理だろう。ちなみに私と同じく成績の芳しくなかった冒頭の彼は教職を志して単位を取得しに行ったが、弊学では満足に教職まで取り切れなかった。教職を目指した世界線の私もきっとこんなものだろうと思ってしまった。
理系科目はわからなかったので、唯一興味がわいた心理学を専攻しようと思った。しかし、成績が足りなくて進むことが絶望的だった。ここで初めて間違いに気が付いた。この大学のシステムは何をやりたいか不明瞭な人間を救済するシステムではなく、やりたいことや才能が複数ある人間に選択肢を与えるシステムなのだと。私などがこの大学には来てはいけなかったんだと激しく後悔した。
このシステムでは通常、成績が足りなければ次の年に再挑戦することができる。しかし、私は4年目であったがために在学年限が迫っており、この年で専攻を決定しなければならなかった。そのため、当時人気の低かった化学を選んだ。化学は苦手で高校化学すらわからないが「とりあえず大学を出れば何とかなる」のであれば、と苦渋の選択をした。
5年目、3年生。1限からの授業と週3回の実験があり、9時-18時のような生活になる。実験には予習とレポートがあるため、実際の拘束時間はこれより長い。何とか4月を乗り切ったところで、レポートを1つ残してしまった。GWに入ってレポートをやらなければと思って毎日机に向かおうとした。いや、向かったこともあった。だが、ペンを持っても何も書けない。そのまま時間が過ぎてごはん時になり席を外してご飯を食べる。そんな日が続いてGWの最終日、床にへたり込んで泣いた。書かなきゃいけないと思いつつも1文字も書けなかった。
3年生の必修は実験だけだったので、他の単位を犠牲にしてでも取ろうと考えた。1時間だけ講義を休んで...その1時間を何も書けずに終えた。これを繰り返してほぼ全ての講義を欠席した。次第にいろいろおかしくなっていった。頭痛もちでもないのに頭が痛みだした。文字が読めなくなり、教科書はおろかネットニュースくらいの簡単な文章でも字が滑るようになった。1日にできることがゴミ出しと洗濯くらいになり、起きて寝る以外に食事、入浴、ソシャゲの周回くらいしかしてない生活になった。
溜まりに溜まったレポートは夏休み前に呼び出しを食らったことで、無理やり夏休みを使って消化した。歯を食いしばりながら全部消化したことは覚えているが、歯を食いしばればできたことがなぜここまでできなかったのかこの時は疑問だった。
4年生になり、大学院へ進学することになったが、大学院の手続きと入試勉強、足りなかった単位の試験勉強などでタスクが溜まった瞬間、この症状は再発した。友人の勧めを受けて学生相談所に通うことになった。
学生相談所のカウンセラーはいい人だった。いろいろお話をして気持ちは和らいだ。専門的なこととしてはWAISの検査を受けた。結果は処理速度だけが異様にへこんでいる格好になった。別に数値は低くないので大丈夫と言われたが、「問題の有無は環境によって決まりませんか?能力の高い人が集まる環境ではそれなりの能力が要求されますよね?」という質問には満足のいく回答は得られなかった。
親にも何度か愚痴を言ったことがある。そのたびに「あなたは世間一般には優秀だから大丈夫」と返されるのである。何が大丈夫なんだろうか。”今の環境”が辛いと言っているのに”世間一般”という別の集団を持ち出して何の救いになるんだろうか。これ自体も言ってみたことがあるが「なんでそんなこと言うの」と言わんばかりの困惑した顔をするだけだったのでやめた。別に親以外でも同様のことを言う人はいる。世間一般の評価が邪魔をして、まともに助けを求めることすらままならない。内部の人間から見て無能で、外部の人間から見て有能な私は、共感を得られる対象がとても限られていて苦しかった。大学ブランドという呪いにかけられて苦しかった。
やりたいことをやれていればよかったのだろうか。サークルで作曲を体験させてもらう機会があった。でも続かなかった。結局忙しいとかいろいろ言ってインプットから逃げている自分がいる。クリエイターにはなれなかっただろうなと思った。好きなことも頑張れない自分に「自分が勉学を頑張れなかったのは勉強が嫌いだからじゃない、努力が嫌いなんだ」という事実を突きつけられてまた悲しくなった。あれほどに信じてきた公正世界仮説は「お前が苦しいのはお前が間違ってきたからだ」と自分に牙をむき始めていた。
・進学と私
大学院へ進学することにした私だが、実は私は望んでいなかった。学部生時代に夜遅くまで研究に勤しむ先輩たちを見ていて「私にこれは無理だ」と実感していたからである。研究への熱意はおろか、化学への意欲も知識もないのである。ただでさえ病む人が多く出る大学院という環境にこんな人間が行くのは自殺行為に他ならない。そのため、私は就職を強く希望した。しかし、親にそれを伝えると「今のお前に就職はできない」と言われた。就活を終えた今だから言えるが、これは正しかったように思う。議論は「就職はできないから進学しろ」「院でやっていけないから就職させろ」の平行線で、就職も進学もろくにできない無能をぼこぼこにリンチするだけで生産性はなく、結局「とりあえず進学はするがいつでも辞めてよい」という落としどころになった。
私は院試に落ちるのが最適解だと思った。学力もないので真面目に受けても受からないだろう。院試を受けたけど落ちましたというのが親にも研究室にも一番角が立たない。しかし、筆記試験が思ったより点数が低かったのか通ってしまった。面接をすっぽかすことも考えたが、会場に研究室の先生方がいるかもしれないことを考えると気が引けた。面接では辞退の意思を伝えるつもりだった。面接官と私だけの秘密である。私は院試を受けて落ちたのだと周りに言えばよい。
先輩の書き残した増田のダイアリーが自分の勉強にとても役に立ったのでコロナ禍で実施された2021年度脳神経内科専門医についてのメモを残させていただきます。
https://anond.hatelabo.jp/20190730114905
ここでも述べられている通り、症例については、面接試験で主にここからの出題となるのでなるべくシンプルな症例か、突っ込まれても答えられるように地方会で発表したような症例が良いように思われる。
考察が不十分な場合はそこで不合格にならずに一度差し戻されて再度書き直して提出するという救済措置がある。ただし、そのレポートについては2次試験の面接でかなり突っ込まれるので注意が必要。
2021年度はコロナ禍により元々6月であった試験が11月に、そしてさらに延期されて2022年2月に実施された。
試験時間を短くするため、以前は必修100問、一般100問、臨床100問であったものが必修100問、一般+臨床100問と出題数が減らされての出題であった。
内容、難易度については過去問とほぼ同等といった印象を受けた。
2019年度版の増田でも言及されている通り、「医学生・研修医のための神経内科学」の範囲からは大きく逸脱はしない。
自分はあまり熱心に勉強する方ではなかったので、上記書籍は通読せず参照するにとどめ、日本神経学会から出版されている「神経内科専門医試験問題 解答と解説」と復元された過去問2020年-2018年を2週行った。受験者ごとの点数の公表はないが、これくらいやれば平均点程度は取れるものと思われる。
また、一部繰り返し出題されている範囲があり、そちらについては真剣に覚える必要がある。
以下自分が気になった頻出される項目について箇条書きで述べる。
・頚椎症の局在を答える問題。後骨間神経麻痺やC8麻痺の鑑別など少し変えて出題されるパターンもあるが、頻出。
・筋病理。perifascicular atrophyなど一般的な知識は抑える必要がある。
・SCAに代表されるリピート病。SCAの番号についても覚えていないと解けない。
・排尿に関係する神経機構。各受容体、神経支配は詳細に覚える必要あり。
・側頭極病変を呈する疾患。CADASIL, CARASILの他に筋強直性筋ジストロフィーが何故かよく出る。
・ギランモラレの三角と下オリーブ核の腫大。下オリーブ核の位置をマクロ解剖で答えさせる問題なども出る。
・NIHSS, ABCD2スコア, CHADS2スコア, HAS-BLEDスコアは計算できるように。
・Balint症候群。臨床所見や画像で聞かれる(なぜこんなに頻出?)
・伝導失語
・家族性ALSの原因遺伝子(たくさんあるが、SOD1, C9ORF72, TDP-43, Optineurin, ubiquilin2, SQSTM1, ERBB4くらい覚えていればなんとかなる。また、面接でもよく聞かれるらしい)。
また、直前に出版された新しいガイドライン(本年は脳卒中治療ガイドライン2021, 頭痛の診療ガイドライン2021など)は読んでおく必要があると感じた。
みなさん苦手な病理であるが(失礼)、筋病理に関しては日本神経学会e-learningで勉強すれば十分である。
複数の講座があり、内容が重複しているため2、3講座見れば十分である。
筋病理以外の神経病理は「神経病理インデックス 新井信隆著」、東京都医学研・脳神経病理データベース(EBAN https://pathologycenter.jp)、「カラーアトラス神経病理 平野朝雄編著」などを通読するなどした。
今年の出題はなかったが、特徴的な脳腫瘍(髄膜腫、頭蓋咽頭腫など)については抑えておく必要があると感じた。
電子顕微鏡画像については再現も乏しいことや、出題数が少ないこともあり自分は捨てた。
実施会場は東大ではなかったが、概ね例年と同じような雰囲気と思われる。
問題復元を管理している某医局から各医局に復元の割当があり(1セクション2-3問)、それを暗記し試験時間が終わった瞬間にメモをとることが必要となる。
今年は問題数が少なくなった影響もあってか時間には余裕を感じた。
今年はZOOMによる遠隔面接となった。試験案内には「神経診察やレポートの内容、臨床神経学についての口頭試問」との記載があった。例年行われていた神経診察の実施試験はなくなり、ハンマーなどは必要なかった。
試験時間は30分で内容は主にレポートの内容から出題された。その中でレポートで提出した疾患に絡めて「●●の身体所見は?」や「●●が疑われる患者が初療室に運ばれてきたらどのように診察をしますか」など実臨床に沿った神経診察に関する質問がされることがあった。前述した通りレポートで不備があった箇所やこれまでの研修で経験が薄いと予想される分野(人によっては脳卒中など)が集中的に質問される傾向にあるようだ。
自分は試験前に「ベッドサイドの神経の診かた」などを通読して胸郭出口症候群の診察法などマニアックな箇所を覚えたが、特に役にはたたなかった。二次試験は面接官によって内容に開きがあるのでとにかくレポートの内容(レポートで言及した診断基準、遺伝子異常、必要な神経診察)を徹底的に深めておくことが重要と感じた。
1つ目も2つ目も、言っている趣旨がよく分かりません。そもそも、WAISでの診断基準は公表されていないため対策のしようがないのです。心理士であれば、現物を確認できるため覚えられるでしょうけど、WAIS検査は「正しい答え」を求めているわけではありません。それはなぜかと言いますと、「頭の良さ」をはかるための検査ではないからです。
そして1つ目の「真面目という状態を観測する」という話は主題から全く外れています。WAISについての議論には全くそぐわないです。趣旨がそもそも違います。
そしてIQは点数ではないです。もう、これだけ。そんなセンター試験1回目と2回目みたいな話じゃないんです。○か×かではありません。
これは私の憶測ですが、貴方はインターネット上のIQテストとWAISを混同していませんか?
以前調べたほどの興味があるのであれば、実際に心療内科や精神科でWAIS検査を受けてみることをオススメします。面白い"テスト"になるのではないでしょうか?