はてなキーワード: 計画経済とは
私は共産趣味者だ。歳は20代。共産主義のシンパではあるし、社会主義者ではあるかも知れないが、共産主義者ではないと自己規定している。
共産趣味にもいろいろある。私はソ連の音楽が好きだが、映画やポスターやスローガンに惹かれる人もいるし、ミリタリー方面が中心の人もいる。地域についても、東ドイツはじめ東欧諸国やユーゴスラビア、東南アジア、南米などの東側諸国だけではなく、日本や西欧などの西側諸国で見られた共産主義の関わる文化活動に惹かれる人など様々だ。
ソ連の音楽や社会主義者の音楽の何が私を惹きつけるのだろうか、と思ったので書いてみる。多少ガチの共産主義者っぽい部分もあるかも知れないし、不勉強なので思想の細かいところは間違っているかも。
世界の半分で、少なくともその当初は熱狂的に支持された思想であり、いくつかの分野では一時とはいえ西側を圧倒する成果を生み出しもした。つまり強かった。
ブルジョアの打倒、プロレタリアートによる平等と平和の建設!惹かれないわけがない。
対する資本主義陣営も自由と民主主義を掲げて戦ったし、これも強力な思想だが、その登場はあくまで共産主義に対するカウンターでしかなかった。資本主義陣営の根幹にある思想はあくまで資本主義の維持だったからだ。戦う相手は社会主義陣営というよりは資本主義陣営の労働者階級だった。社会主義陣営が実際に自由と民主主義を侵していたからこそ、この主張には効果があった。
プロパガンダ的な作品には共産主義社会への魅力が詰め込まれているのだ。私はプロパガンダに乗せられていると言っても良い。乗せられやすい性格なのだ。
ソ連中央テレビジョンのソ連国歌と一緒に流れるビデオ (https://www.youtube.com/watch?v=rHomETco0MI) なんかは最高で、労働者たる人民が労働の喜びに溢れている様子が流れ、十月革命の労働者の怒り、ブルジョワジーの打倒の精神が示され、人民の力で支える連邦の強大さが示され、レーニンの党と人民の力が我々を共産主義へと導く!という具合でひょいひょいと感情を揺すられてしまう。
お馴染みのインターナショナル (Интернационал, The Internationale, https://www.youtube.com/watch?v=t8EMx7Y16Vo)、国際学連の歌 (日本語、https://www.youtube.com/watch?v=SCdlGH6RhBw) なんかは私の中ではこういう類の歌だ。
こういうこと言うとクラシック畑の人には笑われそうだが、ショスタコーヴィチの5番や11番も大好きだ。
音楽ではないし、およそ普通の意味ではプロパガンダでもないが、ソウル五輪の体操女子団体のメダル授与式 (https://www.youtube.com/watch?v=l7lAZ89Pu_c) がもう最高である。彼女らがステート・アマで国家に大変な恩義があるというのは確かであるにしても、私の目に映る、エレーナ・シュシュノヴァ選手が赤旗を見上げながら国歌の「我らを共産主義への勝利へと導く」という歌詞を口ずさんでいる姿は、紛れもなく共産主義への希望と勝利への確信に溢れたソビエト連邦人民の姿なわけですよ。こんなに晴れ晴れとしたことはないじゃないですか。
正直私はかなり危ないと思う。実際に共産主義に走った連中もこんな奴らだったのかも知れない。この先本当に扇情的なプロパガンダが私に向けられたときに私は正気で居られるだろうか。
もっともプロパガンダが全てではない。90年代のロシアのポップスには体制の変革と自由を喜ぶような歌も多く、味わい深い。こちらは「作り物」ではなく本物だと思う。Комбинация の American Boy (https://www.youtube.com/watch?v=W7hAo28NCXc) とか Наташа Королева の Жёлтые тюльпаны (黄色いチューリップ、https://www.youtube.com/watch?v=E57T8XYa7OM) とか。
理想的にはこれを一番の理由に挙げるべきだと思う。ロシアの旋律は情緒があっていい。アコーディオンやバラライカの音色、ロシア語自体の響きによく合う。
ウクライナの Розпрягайте коней, хлопці (若者よ馬の軛を外せ、https://www.youtube.com/watch?v=MCuqR4Jz9DU) なんかは民族的でよい。
ただしそれでも一切忌避しないと言うわけにはいかない。まさに現代、冷戦の構造がそのままここにあって、新左翼の連中が日本で革命を起こそうとしていたら(しているが)、私は反対する。マルクスの主張するように暴力革命によって社会を変革するべきだとは、革命権を行使すべき状況にならない限りは思わない。共産主義建設の名のもとに数千万の命が失われたことは紛れもない事実だし、少なくとも過去のソ連型社会主義国家の遺産を消費して楽しむ上でここを批判せずにいることは危険すぎる。
東側陣営はなぜ冷戦に敗北したか?計画経済は市場経済に比べ資源配分の効率が悪かったので人民の生活を維持しつつ経済の発展を続けることができなかったからだ。
西側陣営の掲げた自由と民主主義は本当に勝利したのか?東側陣営との対決のために自らもまた市民の自由を制限し、アメリカはドミノ理論を振りかざして世界中に開発独裁の政権を打ち立て、現地の市民を抑圧した。21世紀の紛争の種を撒いたのは紛れもない事実だ。結局のところ西側陣営が実際に対抗勢力に対して振るった武器は自由と民主主義ではなく資本主義だった。
共産主義にしても、本来は人民を抑圧し民主主義を否定する思想ではない。
これをもって社会主義は喧嘩に負けて勝負に勝ったのだなどと言うつもりはないが、思想的に決着が付いたとは言えないと思う。競争相手がいなくなったから勝敗という言葉が使えなくなっただけで、今我々のいる陣営もまた行き詰まってしまったというのは確かなことではないか?
日本政府の現在の方向性に少なからず疑問を持ちながらも、どう行動すればよいのかわからない人々がいるはずである。
私がこれから書く内容はデモや集会への参加を促すものではない。私に言わせればデモや政府への反対集会は表面的な抵抗に過ぎない。必要なのはまず政府が何かを理解することである。
政府とは何だろうか?それはシステムだ。だがそのシステムを動かすにはエネルギーが必要だ。現在この国ではそのエネルギーは兵役や労働役などの形ではなくもっぱら徴税の形で調達されている。
そして、その徴税で政府に渡されるのはそもそも政府が保証したのでなくては、何ら価値のない紙幣だ。つまり、政府は紙幣の価値を保証することによって、エネルギーが滞りなくシステムを動かせるように調整していると言える。
この滅亡への道を加速しながら進んでいくシステムを止めるために我々が取れる行動は二つある。
一つはそのシステムを外部から停止させること。革命である。これはあまりにもよく知られすぎている。
もう一つはそのシステムを内部から停止させることである。システムの維持にはエネルギーが必要である。そしてそのエネルギーは人々が政府を信用することだけによって価値を持つ、紙幣によって調達されている。ならばエネルギーを減少させるためにはその紙幣の価値を下げてしまえば良い。端的に言えば政府に対して「現在のあなたたちのやり方を支持しない」と言うことを伝えたいのであれば、「この紙幣に自分はもはや価値を見出さない」と表明するだけで良い。
ではどうやって表明するのか。まず、今すぐには使うことがないであろう貯金を日本円ベースではなく、別のもので置き換えることだ。外貨は手っ取り早いが、実のところどの国も内実は統制・計画経済という似たりよったりの内容である。また、国家主体を信頼しなければならないという点で損失のリスクは大きい。
では金はどうか。しかし、いざ金を蓄えると言っても家に置くわけにもいかない。やはり金庫を使ったりせいぜい「金を持っているという権利書」をやりとりすることしかできない。それに、金の価値は需要によって左右される。つまり、金原子を用いた革命的な産業が興ることによって金価格は上昇し、代替素材として安価な炭素が使えるようになれば価格は下落する。多くの人々の人生にとって金とは表面を眺めて楽しむ程度の使い方しかないはずだが、こうした別の要因で需給が左右されるのは資産の置き場所として適切とは言えない。
暗号通貨はどうだろうか。例えばビットコインには開発者コミュニティが存在している。彼ら自身が保有するビットコインの価値を上げたいと思うならば、より安全な貨幣を作り、信用を得る以外にない。もし開発者たちが利用者たちの声を聞かなくなれば、利用者たちは開発者を信用しなくなり、結果としてビットコインは暴落するだろう。他にも実用に耐えうる暗号通貨と開発者たちは存在している。ビットコインを使わなくても別の暗号通貨の割合を増やせばよいだけだ。
翻って、現実の国家では、貨幣の発行機会は政府によって独占されている。いくら独自の「ポイント」を考案しようが、それが日本円ベースで取引されていることは明らかだ。だから政府は国民を舐めきっている。いくら誤った方法で貨幣を作り、裁量で人々の価値に介入しようとも、誰もシステムのエネルギーを滞らせずに使ってくれるからだ。
政府が隠し切れない量の借金に振り回されていることは誰もが知っているはずだ。簡単に言えば事態はこういうことだ。一昨日は頼まれたので一万円貸したら一万二千円になって戻ってきた。昨日は頼まれて十万円貸したら十三万円になって戻ってきた。今日、利子をつけて返すから百万円を貸してくれと言われている。金額が少ないうちは誰かが貸してやるだろう。しかしいつまでもは続かない。この借金をどうにかするためにはすべて踏み倒すか、自分で貨幣を大量に刷って「言われた分は返しました」と言うしかないだろう。このようなことがあった後も、政府の発行する貨幣が唯一の貨幣として信用され使われるのであれば、いずれ同じことを繰り返すだろう。
もし我々が政府のエネルギーの使い方が間違っていると気づかせたいのであれば、貨幣が独占されたものだとみなすのをやめることだ。そして、常により信頼できる暗号通貨のような資産への乗り換えを検討すべきだ。もしあなたが反政府デモに参加した帰り道に、政府の発行した貨幣で飲み物を買って飲んだことがあるのであれば、それは政府に対する暗黙の支持を表明したのと同じである。
つまるところあなたは代わりに通貨としてのビットコインを日本円と交換して、その買い物をビットコインで決済すべきだったのだ。
*筆者はビットコインを全面的に支持しているわけではないが、有名な暗号通貨ということで代表としてビットコインの名前を出している。暗号通貨は詐欺が多く、現状をよく調べずに買うのは危険であると警告しておく。
政府は3世帯同居だの言ってますが、まあ、現実味は無いわけで。
例えば北海道とか四国を閉鎖して、姥捨て自治区とします。通貨も「姥捨て円」とかにします。
姥捨て政府は姥捨て自治区民で選挙なりして決めます。法律や制度は日本と同じでも良いし、違っていても構わない。
自治区は基本自給自足ですが、日本やその他の国から輸入もできる。もちろん輸出もできる。
自治区は自由経済でも良いし、計画経済でも良い。住人たちが決めればOK。
日本は自治区には口も金も出しませんが、外国からの侵略に対しては自衛隊を派遣します。
自治区が独立戦争などを仕掛けてくれば制圧します。基本的に日本は自治区の独立を認めません。
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どうかな?
老人のサザンクロスシティみたいになるかな?
もう誰も覚えていないと思うけど、3年ほど前、ここに、"Hello world!"というタイトルのエントリを投稿した。あの話の続きをしようと思う。
※このお話はたぶんフィクションです。実在の人物や団体とはあんまり関係ありません。
※前回のあらすじ:高校中退→工場派遣→プログラマ→ホームレス→自立支援施設→プログラマ→海外放浪→職業訓練→世界一周アプリを作る
あれから3年、いろんなことがあった。またプログラマとして働いたり、またホームレスになったり、福島で除染作業員をしたり、本当にいろいろあったけど、 今回の主題にはあんまり関係ないのでざっくりはしょる。今回の主題は世界一周についてである。
僕はいつか世界を巡る旅をする。10年くらいかけて。わりと本気で。その計画を立てるためのアプリケーションも作った。でもそのアプリは正式リリース以降、開発が頓挫している。開発を進めるにあたって、致命的な問題があることがわかったからだ。それは、開発者である僕自身が、この世界について何も知らないに等しい、という問題だ。
開発者は、システム化する対象に関して、誰よりも精通していなければならない。業務用アプリケーションの開発なら、 その会社の業務フローについて、社内の誰よりも詳しくなくてはいけない。システム開発とはそういうものだ。そして今度の対象は世界だ。すべての国だ。それを僕自身が知らなくてはならないのだ。
しかし世界は巨大で、そして複雑だ。
国連加盟国は現時点で193か国。それぞれの国の下に州や省や県があり、その下に市区町村があり、そういった階層的な行政単位以外にも、歴史的背景から自治区になっているところや特別行政区、連邦直轄領もあり……。
そういや連邦ってなんだろう。なんとなく知っているようでいて、詳しくはわからない。王国と共和国ってどう違うんだろう。国の形ってなんでこんなにいろいろあるんだろう。いやそもそも国ってなんなんだ。どうすれば「国」になるんだ。
国連に加盟していればいいのか。いや国連非加盟の国もあるじゃないか。国家の三要素(領域、人民、主権)を満たしていればいいのか。しかしそれを満たしていることを誰が認定するんだ。他国からの承認があればいいのか。その他国は誰が国だと承認したんだ。政治的問題から国なのか国じゃないのかはっきりしない地域だってたくさんある。国とか国じゃないとか最初に言い出したのは誰なのかしら。
それは世界一周アプリの開発中に国データをちまちま作っていたときにも思ったことだ。もしかして「国」というのは、僕が思っていたほど絶対的で、はっきりしたものではなく、相対的で、曖昧なものなんだろうか。
わからない。わからないことだらけだ。こんなもの本当にシステム化できるのか。複雑ってレベルじゃねーぞ。これが仕事だったら「うんこー☆」とかいいながら全力で投げ出しているところだ。しかしこれは仕事ではない。これは仕事ではないので、真剣に取り組まなければならないし、投げ出すわけにはいかないのである。
だけど、 どうしたらいいんだろう。世界はあまりに巨大で、複雑で、茫洋としている。何かとっかかりが必要だと思った。基点が必要だと思った。人でも物でも事柄でもいい。それをとっかかりにして、基点にして、少しずつ裾野を広げていけばいいのではないか。そう思って、自分の記憶を探ってみる。僕の基点、時間軸と空間軸の原点、それは子供のころ、ブラウン管の向こうに見た、落書きだらけの大きな壁だった。
1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。僕が9歳のときだった。ニュースは連日連夜、この話題で持ちきりだった。興奮気味に壁を壊す人たち、全身で喜びを表現する人たち、泣きながら抱き合う人たちもいた。世界中が大騒ぎになっているようだった。僕はその映像を、意味もわからずただぼんやりと見ていた。
それからしばらくして、社会科の教科書の世界地図が大きく書き換わった。ソ連という国がなくなり、新しい国がたくさんできたのだという。国がなくなる? 国が新しくできる? その意味もまたよくわからなかった。
時間軸は一気に飛び、ベルリンの壁崩壊から20年以上たったころ、僕は生まれて初めて日本を出た。半年かけて海外を放浪した。特に目的もない旅だった。だからその場所に行ったのも、ほんの気まぐれだった。
ベトナムのホーチミン市にある戦争証跡博物館。ベトナム戦争の記憶を後世に伝える博物館だ。旅の途中にふらりと立ち寄ったそこで見たものを、僕はいまでもフラッシュバックのようにありありと思い出せる。
銃器、対戦車地雷、その他さまざまな武器弾薬が「こうやって使われていたんだ」といわんばかりに、実際に使用している場面の写真と並べて展示されている。銃を突きつけられて悲壮な顔をしている男性、道ばたで血まみれになって死んでいる子供、虫の死骸のように雑多に並べられた人の死骸、そんな凄惨な写真がこれでもかと並ぶ。
何か、自分の中で価値観が急速に書き換わっていくのを感じた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、いろんな言葉が浮かんでは消えていく。
「資本主義」
「共産主義」
「イデオロギーとは何だ?」
そのとき同時に頭の中に浮かびあがってきたのが、子供のころに見たベルリンの壁崩壊のニュース映像だった。あれから20年以上たってようやく僕は、あの人たちがどうしてあんなに泣いたり喜んだりしていたのか、少しだけ理解できたのだ。
あの博物館で僕がもっとも強く感じたのは、「戦争は悲惨だ」という事実ではなく、「どうしてここまでのことになったのか?」という疑問だった。人が人を虫けらのように殺す、その理由が知りたい。そこには絶対にそれなりの経緯があるはずである。東西冷戦とは何だったのか、僕はまずそれを知らなければならない。
しかしこうなるともう最初から世界史をやり直したほうが早いんじゃないかと思った。よし、時間軸を一気に人類の歴史の始まりまで巻き戻そう。
まずは大河流域で文明がおこる。チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河。うわー、すげー懐かしい。そして農耕が発達する。食料を安定して収穫・保存できるようになると権力が生まれる。そこからは世界各地で似たような権力闘争が延々と繰り返される。
特に印象深いのが「カノッサの屈辱」だ。十代のころ、学校でこれを習ったときは意味がわからなかった。この人たちは何をそんなに必死になっているんだろうと思っていた。いまならわかる。目的は、権力そのものなのだ。人の頭を踏みつけること、人を思い通りに動かすこと、それ自体が目的であって、権力によって得られる富や名声は二の次なのだ。それは自分の経験を振り返ってみてもわかる。ヤンキーの世界でもエリートの世界でも、どんな場所でもどんな階層でも、人間が集まれば、始まるのはいつも頭の踏みつけあいである。それが直接的か間接的か、下品か上品かという違いはあれど、やっていることは同じだった。だから世界史に記されたこのくだらない争いの数々も、いまは実感を持って理解できる。
そして絶対的な権力者である神によって凍結されていた歴史が、ルネサンス以降、急速に動き始める。宗教改革、名誉革命、フランス革命。それまで聖職者や王侯貴族が持っていた権力が少しずつ引き剥がされていく。そしてフランス王国はフランス共和国に。ああそうか、王国と共和国の違いって「王様」がいるかいないかなのか。さらに現代の「国」という概念、国民国家というのも、このころに生まれてきたもののようだ。人類の歴史から俯瞰すれば、ここ200年くらいの「流行」にすぎないのだ。
しかしフランス革命って華々しいイメージだったけど、こうして改めて調べてみると、革命政権の恐怖政治によって何万もの人間が処刑されていたり、何度も王政に戻っていたり、混沌としすぎていて、華々しいなんてとてもいえない血まみれの革命だったのだと気づかされる。
そんな混沌の中、産業革命を経て、歴史はさらに加速する。権力のあり方も変わる。聖職者や王侯貴族に変わって資本家が台頭してくる。資本主義が加速する。貧富の差が拡大していく。賃金労働者は悲惨な労働環境で搾取され続ける。暗澹とした空気の中、社会主義・共産主義という思想が台頭し始める。ロシア革命が起こる。世界初の社会主義国、ソビエト連邦が誕生する。
いままで社会主義ってあまりいいイメージはなかったけど、こうして順序立てて成立の経緯を追っていくと、歴史の中での必然性がわかる。みんな、もう誰も頭を踏みつけあわずにすむ世界が欲しかったのだ。だから既存の権力や富や労働のあり方を強制的に変える。そしてそれが国の形を変える。そうか、国の形ってこういうふうに決まるのか。
しかし計画経済ってなんだろう。どうしてそんなものが必要になったんだろう。と思って、初心者向けの経済学の本を何冊か読んでみた。めちゃくちゃおもしろかった。経済ってこういうものなのかと思った。市場経済では必ず景気は好況と不況を繰り返し、いつかどこかで恐慌を引き起こす。そんな繰り返しをさせないために、計画経済では政府の計画にしたがって商品を生産する。そうか、そんな経済の形もあるのかと思った。ずっと現代日本で生きてきた僕にとっては、市場経済があたりまえすぎて、市場の自由がどうの規制がどうのといわれても、これまでピンとこなかった。「あたりまえ」のことは、対比されるものがないと、それを知覚することさえできないものなのだと知った。
その市場経済へのアンチテーゼとしての計画経済は、しかし破綻する。いつ、どこで、誰が、何を、どのくらい欲するか、なんてことを計算し尽くすには、リソースが足りなさすぎたのだ。結果が出ているいまだからいえることなのかもしれないけど、少数の頭のいい集団の演算能力よりも、多数の平凡な人間の無意識的な分散コンピューティング(見えざる手)のほうが演算能力は遥かに高いのである。
そして社会主義自体も破綻する。ソ連型の社会主義では一党独裁を必要とする。しかし絶対的な権力は絶対的に腐敗する。それは歴史が証明している。独裁政権は必然的に暴走していく。これも僕は経験として知っている。「いじり」がいつも「いじめ」に発展するのと同じだ。他人をおもちゃにできる、自分の思い通りにできる、これは権力である。そして「いじり」は場の空気によって正当化されるので抑制がない。抑制のない絶対的な権力は暴走する。だから 「いじり」はいつも「いじめ」に発展する。企業内のハラスメントや家庭内の虐待も同様だ。人間は好き勝手にできる状況に立たされたとき、好き勝手に振る舞うものなのだ。そうか、チェックアンドバランスってそのために必要なのか。絶対的な権力は絶対に生み出してはならない。権力は絶対的に抑制されなければならないのだ。三権分立を唱えたモンテスキューさんマジパネェすわ。
こうして自由主義・資本主義の矛盾への疑問から生まれた社会主義・共産主義は、自身に内包していた矛盾によって自壊していく。そして時間軸と空間軸はまた原点に戻る。冷戦の象徴であり、永遠に世界を二分し続けるかのように思われていたベルリンの壁が、ささいな行き違いからあっけなく崩壊する。ほどなくしてソビエト連邦から次々に構成国が離脱し(国が新しくできる)、連邦は解体される(国がなくなる)。
天秤の片方から社会主義・共産主義が脱落したことにより、その後、世界はまた自由主義・資本主義へと大きく傾いていく。混合経済の社会主義的な部分が次々と取り払われていく。その結果が、派遣法改正だったり、リーマンショックだったりするのだ。そしてそれらは僕の人生にも多大な影響を与えている。そうだ、これはひとごとではない。遠い昔にあった「歴史」でもない。僕がいま生きている「現代」の話なのだ。
そうか、世界ってこういうふうに動いていたのか。少しずついろんなことがわかってきた。国とは何か。イデオロギーとは何か。なぜ法の支配が必要なのか。なぜ憲法が必要なのか。しかしそれよりも何よりも、ひとつ重大な事実を確信した。それは、世界のすべてを知ることは絶対にできない、ということだ。
ミクロの領域――個人の感情や行動、これはわかる。マクロの領域――世界の市場や情勢、これもわかる。しかし両者がどのように関連しているのか、個人の感情や行動が、どのように影響しあい、どのような力学が働いて、世界の市場や情勢を動かすのか、逆に、世界の市場や情勢が、個人の感情や行動にどのような影響を与えるのか、それを計算し尽くすことは、誰にもできない。それは人間の演算能力の限界を遥かに超えているからだ。
「俺は世の中の仕組みをわかってる」「裏の論理まで知ってる」と嘯く人にはたまに出会うけど、そういう人が本当に世界の仕組みを知っていたことは一度もない。本当にただの一度もなかった。陰謀論はマクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路をショートさせただけの反知性主義にすぎない。僕はそんなチートに興味はない。僕は真正面から、正攻法で、その回路を解析したいのだ。そうでなければ意味がない。
ああ、そうか、経済学とは、それを解き明かそうとする学問なのだ。マクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路。それを解析するのが、経済学や、その他の社会科学なのだ。僕はそれを、もっと深く学ばなければならない。
進むベき方向性は見えてきた。しかしここからどうするか。独学ではもうこのへんが限界のような気がする。つぎはぎだらけの学習じゃなく、もっと体系的に学びたい。でもどうやって学べばいいのかがわからない。僕はまず、学び方を学ぶ必要があるのだ。それには、どうしたらいいのか。
大学に行く。どうしてそんな選択肢が浮かんできたんだろう。これまで僕の中にそんな選択肢は存在していなかった。そのはずだった。これまでずっと金も時間もなく、ただ日々の生活に追われるばかりで、そんなことを考える余裕は一切なかった。そんなことを考えるくらいなら明日の飯の心配をしたほうがいい。ずっとそう思って生きてきた。
何より僕には自信がなかった。自分みたいな中卒の人間が高等教育を受けたところで何の意味もないと思っていた。そんなの僕にはまったく関わりのない知識階級の人間の世界だと、大学なんて僕にはまったく何の関係もない、別の世界に存在するものだと思っていた。
でも思い返してみれば、その認識は少しずつ変化していた。いろんな仕事をしたり、あとさき考えず旅に出たり、プログラムを組んだり、文章を書いたり、そしてそれを不特定多数の人の目に晒したり、ずっと何かに追われるようにそんなことを繰り返してきたけど、その過程で、僕は何か大切なものを拾い集めてきた気がする。それはたぶん、自尊心と呼ばれるものだ。幼いころに失い、ずっと欠けたままだったそれを、僕はこの歳になって、ようやく取り戻すことができたのだ。
だからいまは自分が高等教育を受けることに意味がないだなんて思わない。大学が別の世界に存在するものだなんて思わない。ああそうか、だからいま、このタイミングで、「大学に行く」という選択肢が、僕の前にあらわれたのか。
あとはこの選択肢を選び取るかどうかだ。
いまの時代、大学に行くなんてそんなにたいしたことじゃないのかもしれない。だけど少なくとも僕にとってそれは、とてつもなく勇気とエネルギーが必要なことだ。ホームレスになることよりも、右も左もわからないまま海外に飛び出すことよりも。
現実的な問題もたくさんある。資金、学力、人生の残り時間。いろいろと考え始めると、解決しなければならない問題が多すぎて、わけがわからなくなってくる。もうどうでもいいじゃないかと投げ出したくなってくる。でも僕の中の何かが、そうさせてくれない。僕の中の何かが、そうじゃないだろうと責め立てる。
これには覚えがある。この熱には覚えがある。これは、あの旅の途中、自分の中に発見した、マグマのような熱量だ。感情になる前の感情。行動になる前の行動。名前なんてつけようもないほどプリミティブな衝動。僕はいままさに、それに直面している。そしてその熱量からは、どうあがいても逃げられない。それだけは確信できる。
だったらもう、覚悟を決めるしかない。本当にもう、そうするほかどうしようもない。
僕は大学へ行く。
そうやって覚悟を決めてみると、ものすごく気が楽になった。気分が軽くなった。
ああどうしていままでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。その想いはずっと自分の中にあったのに。
yoko-hiromが頭いいとか…何言ってんだこの人。
以下のブコメとかひどいもんでしょ。
・ブコメの大勢に対する反論なんだろうけど、どこが反論になっているのか全然分からない。
http://b.hatena.ne.jp/entry/253581516/comment/yoko-hirom
・日本がAIIBへの参加を現状拒否しているのは、運営の透明性が担保されていないため。ブコメの意味が不明で、完全なはてサ脳。
http://b.hatena.ne.jp/entry/252996772/comment/yoko-hirom
・そもそも「広島長崎の加害者でも無い中国がなぜ責められるのか」なんて中国は言っていないのでその後のブコメとの対比ができていない。
また、yoko-hiromは普段左翼的な発言が多いのにこういった中国の右翼的な動きは批判できないというダブルスタンダード感が露見。
http://b.hatena.ne.jp/entry/251778017/comment/yoko-hirom
・レッテルをはって人格批判をする筋の悪いブコメ。思い込み、決めつけでしか判断できていない。
http://b.hatena.ne.jp/entry/251591176/comment/yoko-hirom
・ありえないことはない。安保があるから可能性は低いだろうけど。こういったことを言い切るのは知的な誠実さに欠ける。
http://b.hatena.ne.jp/entry/251342941/comment/yoko-hirom
・「根本的な解決策は計画経済の導入。」って大丈夫かこの人…。
http://b.hatena.ne.jp/entry/251095143/comment/yoko-hirom
・自分が支持している政党が何らかの経済政策を行ったら、yoko-hiromはそれを支援するためにじゃぶじゃぶお金を使うの?意味不明。
http://b.hatena.ne.jp/entry/250964457/comment/yoko-hirom
http://b.hatena.ne.jp/entry/249548264/comment/yoko-hirom
たった過去2,3週間でもこの有り様。例示はこのくらいでも十分でしょ。
というか、まともな経済学史はガン無視して、需要と供給の観点から
その結果、経済的新自由主義と呼ばれるものが世界を席巻したわけ
レーガンとかサッチャーとか、まあ、おっさん世代には懐かしい名前だよね
内容としてはサプライサイド経済学という名前からして供給に重点を置いた考え方だ
・民間投資を阻害したり非効率な経済活動を強いたりする規制の、緩和・撤廃(規制緩和)
・財政投資から民間投資へのシフトを目的にした「小さな政府」化
([wikipedia:サプライサイド経済学])
ようするに、ときどき増田にも出てくる、金持ちを優遇したほうがいんじゃね、というあれ
お金持ちはお金をもうけるのが得意なんだから、より多くお金があればより有意義に投資をして
イノベーションやなんかを起こして経済を活性化するから結局みんなが幸せになると
確かにこれは旧共産国や途上国ではかなり上手くいった。少なくとも最初のうちは
もともと、こういった国では計画経済やなんかのせいで供給がぼろぼろだった
だから、需要はたっぷりあって、供給側の企業を税金面などで優遇して、邪魔な規制を
撤廃してやれば、どんどん供給が増え、増えたものはちゃんと売れて、みんな豊かになった
(実際には、きちんとした資本を整備するというのは、もっと繊細な仕事で、そこらへんは
そして、このころ、いわゆる伝統的な金融政策というものが強固になった
・景気が良くてインフレが加熱してきたら金利を引き上げる⇒企業はお金を借りにくくなり
経済活動を減速させる
・景気が悪くて困ったら金利を引き下げる⇒企業はお金を借りやすくなり、経済活動を活発化する
ちなみに、これも、読んでわかるように供給側(企業)に注目した政策だね
もちろん、この政策を実行した国は格差が拡大したし、途中から不調に陥る国もあった
ただ、格差自体は経済の問題ではないし(トリクルダウンが起きるはずとか)、汚職や教育に
由来する問題が足をひっぱているだけだと思われていた
社会問題として改善の余地があるが、経済政策としては問題ないはずだった
バブル崩壊以降、日本はサプライサイド経済学で頑張ろうとした
でも、景気は回復しなかった
確かに、金融機関は不良債権で困っていた。でも、優良企業には貸さないと業績が上がらない
ところが優良企業は借りてくれなかった
でも、景気は回復しなかった
規制を緩和した。もりもり緩和した
金融ビッグバン、非正規雇用、大店法、酒タバコ医薬品販売、タクシー台数制限撤廃にいたるまで
でも、景気は回復しなかった
それでもサプライサイド経済学のひとは、うまくいかないのは政策が徹底していないからという
ただ、ここまでくれば、もういくらなんでもおかしいだろうと思われだした
サプライサイド経済学が正しければ「セイの法則」が発動するはずだった
もういちどさっきの例を書いてみる
お金持ちはお金をもうけるのが得意なんだから、より多くお金があればより有意義に投資をして
イノベーションやなんかを起こして経済を活性化するから結局みんなが幸せになると
もう、みんな答えを知っている
減税や人件費の圧縮で作り出された資金は、イノベーションへの投資ではなく値下げ競争に使われた
だって、それが市場の出した答えなんだもん。イノベーションへ投資した企業は死んだ
需要のない市場で資本を優遇しても、溜め込まれるか値下げに回る
そりゃ企業も売れる見込みもないのに、投資もしないしお金も借りない
ここに至って、今まで供給の付随物と軽視されていた需要が景気のカギになると認識されたわけだ
さて、どうやら需要が景気の動向に大きな影響を与えるらしいということがわかったけど
そこで登場したのが期待インフレ率
需要が多ければ、商品をほしがる人が多いので、値上がりしてインフレになるだろう
需要が少なければ、売れ行きが悪くて、値下がりしてデフレになるだろう
なにより素晴らしいのは、金利とあわせることにより、以前の経済学に需要を接続することができた
期待インフレ率が高ければ、たとえ金利が高くても、将来的にお金の価値が下がるので返済は楽
期待インフレ率がデフレなら、たとえゼロ金利でも、将来的にお金の価値が上がるので返済は苦しい
さて、じゃあ期待インフレ率を上げるのはどうしたらよいか
確かに、個々人の購買力が需要につながるので、究極的な需要の制約条件ではある
しかし、財産を多くもつ高齢者が金を使うかというとそうではないように
本当に有効な使い道を官僚や政治家が決められるのか。汚職や財政規律の問題がある
まあ、ほかに人口動態のせいとかで、そもそも需要上げるの無理という人もいる
そんなこんなで最終的に期待インフレ率が貨幣に結びついているのを利用することにした
つまりお札を刷って物理的にインフレを起こし、需要を上げやすくお金を借りやすくした
あえて書くまでもないかもしれないけど、第一の矢はリフレ政策だけど
第三の矢は昔ながらのサプライサイドの政策に近く、あまり期待できない
というか、需要を重視する立場からは足を引っ張るだけと思うので止めてほしい部類だ
消費税が需要の足を引っ張るのは長引く「反動減」で、もううんざりするくらい明らか
この3月が消費税の納付期限なので企業業績がどうなるかで場合によってはリストラや
倒産などひどい影響が出るかもしれない(出ないことを祈るが)
消費税が消費への罰税であるのと同じように法人税を企業活動への罰税と思ってる人もいるが
端的にそれは間違い
設備投資や人件費など経費にはかからないのだから、利益が出たのに事業を拡張しない
ことに対する罰税なんだ。働かないことに対する罰税ね
また、一部の人は法人税が節税のための無駄な投資を生むから良くないという
しかし、良くないというのはやはり供給から見た視点で、需要から見れば特に問題はない
というか、推奨すらされる
それに対し法人税の減税は、何もしない溜め込みに有利に働く。これは最悪
ここから伝統的な金融政策に代わる理想的な経済政策が考えられたりする
つまり、期待インフレ率が高いときは法人税を下げて消費税を上げ
まあ、実際には税金をいじるのは大変なので、最低限、消費税を上げるなと
それだけ
サプライサイド経済学はもうやめよう
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2015-3-10追記
皆様たくさんコメントをいただきありがとうございます
財政出動の項で話としてややこしくなるけど出しといたほうがいいか迷った点
id:cider_kondo これを完全反転させた「全部ケインズが悪い流れ」も割と簡単に書けるよなー、と思った。散髪行くから書かないけど(嘘
共産主義は共産主義で左翼では合っても、リベラルじゃねーぞ。リベラルは中道から中道左派だから左派には含まれるが、真左じゃぁない。
そもそも、右翼というのは国王派 左翼というのは民主派であって 現在までいろいろな定義のもと定義変更がなされているが・・・
国粋主義というものはあるが、必ずしも天皇制を支持しているかというと、そうではない。
今どき、天皇制か、民主主義かで国民がもめることはない。 もめるとしても、資本主義vs共産主義 or 国粋主義vs開国派だ。 そして開国派は共産主義ではない。
現代社会では 資本主義なのか共産主義(計画経済性)なのか?というベクトルと 国粋主義なのか? 開国派なのかは分けて議論されるべきだ。
企業は人を選ぶ
そして、人は企業を選ぶ
だが、現実を見ると、企業側の力が非常に強く、人によっては百社受けても受からないことがある
もし、その人間が生活保護を受けていたら、受からないということで就労意欲をなくしてしまう
国家にしてみればたまったもんではない
なのでケースワーカーたちは生活保護受給者の尻を叩いて働かせようとしている
企業が人を選ばなければ、おそらくこういった現象は見られないはずだ
国家財政も厳しいことだし、ハローワークが中心となって企業に人を振り分け、企業も労働者もお互いに選択の自由をなくす
(労働者側は希望の職種を選ぶことができるが、どの企業で働くかは選ぶことができない)
(企業は送り込まれた人を必ず受け入れなければならず、首にすることはできない)
あのー、旧ソ連の崩壊は、別にフェミニズムがどうこうではなく、単純に計画経済が行き詰っただけでは……
実際、フランスにしろ北欧諸国にしろ、別に女性が社会進出したせいで、社会が崩壊なんかしてませんし。
離婚率は上がりますが、これはむしろ両親が喧嘩し続ける不幸な家庭が減ったとみるべきでしょう。
両親がぎすぎすしているのに、無理やり維持されている家庭で育つのは、あまり子供にとっても幸せではないでしょう。
あと、肌の密着は別に父親がやっても他の他人がやってもできる、それでいて重要で大切なことでしょう。
大事に抱きかかえて、哺乳瓶からお乳を飲ませるのも、赤ちゃんにとって大切なことです。
何も絶対に母でなければならないという理由はありません。
というか、お乳が上手く出ないせいで、哺乳瓶育ちでまともに育った人がごまんといる中で、何が何でも母乳という圧力は、かえって親にも、ひいては子供にも良い影響を与えないでしょう。
また、何度も書きますが、仕事に向いていて育児に向かない人に無理やり育児だけさせるのを問題視しています。
そういう人は職場から受けるストレスより、育児から受けるストレスの方が多いでしょう。
無論父親でも同じですが、それこそ女性でなければならない理由がないからこそ、同じだといえます。
重要なのは、育児に向いた人が、育児を行うという環境でしょう。
保育所育ちで立派に育つ人が多い中、保母さん保父さんの存在を否定するのはどうかと。
乳幼児期だけは、専門的に一対一くらいで見られるよう、お金をかけた育児が必要かもしれませんが、それ以降は現在の保育所のな形式で充分ですし、現実的に可能かと思います。
一時的に私有財産制の原則を停止する、当然資本主義の原則もかなり無視する、ということまで踏み込んだ話なら、別におかしな意見ではないですよ。
(もっとも内容次第では、憲法違反になりかねませんが・・・)
ただ実行面では問題だらけです。
・原状回復を行うにせよ、何が「原状」だったのか、国は家一軒一軒レベルの情報を持っていません。
・どこまで回復を行うのか、線ひきが難しすぎる。どんな線引きもある程度不公平で、どう決めてもそれが軋轢を生む。
・そんな大規模な復旧活動を行うにあたって、その計画を立案・実施できるだけの人的/組織的リソースを、国/自治体は持たない。
・基本をマーケットメカニズムで運用してきたのに、計画経済的なやり方で復旧計画を遂行するなんて無駄だらけになるのがわかりきっている
もし「一時的に私有財産制の原則を停止する、当然資本主義の原則もかなり無視しても、復興を早めたい」というなら、
「公主導で私有財産を含めたあらゆる財を再建する」ことより「被災者全員に一律○千万円配る」なんかの方がまだ有効でしょう。
「被災地にいけば金と需要がある」となれば、人や技術は計画なんかなくてもすっ飛んで集まって来るものです。まあ、配られた金を
日本と中国が、尖閣諸島周辺海域で軍事的衝突を起こした場合、米軍が介入するのかどうかを、中国は知りたがっている。そして、アメリカの意向を聞き出すだけではなく、介入しないという言質を引き出そうと、躍起になっている。
竹島や東シナ海の地下資源の時には役に立たなかった番犬が、本当に役に立つのかどうか、これでわかるであろう。
アメリカでは内政だけの民主党が政権を取り、日本の政治は民意を汲めない政権が続いて迷走するという状況が出ているが、グローバリゼーション後の世界をどうするかについて、特に、太らせた中国をどのように料理するかについて、アメリカの意向がぼやけてきている。
このような場合に備えて、日本は十分な軍備を持つべきであるのだが、軍隊が戦争を起こすと思い込んでいるナイーブなサヨクが沢山いて、妨害している。
少なくとも、国境を接する他国の軍事力増強と同じ比率での軍備増強をしないと、野心を持たせてしまい、戦争以外に後始末がつけられなくなるという歴史を学んでいないのであろう。
中国は、不動産バブルを引き締める為に融資規制をはじめているが、既に作られてしまった投機用不動産は、値崩れさせないと、庶民が買えるようにはならない。人民の所得を引き上げると、人件費の上昇から輸出製品のコストが上昇し、競争力が無くなる。製品を値上げしたくとも、新製品・新技術による需要の掘り起こしが行われていない以上、値下げは出来ても値上げは出来ない。
人民元のレートを低く固定しなければならないのは、自国の産業が山塞品ばかりのコピー業であるという自覚のあらわれであるが、そこから抜け出す為の行動を、行わなかったし、行えなかった。知的財産権の尊重を働きかけても、山塞品を作るしかない中国産業を潰す為の謀略であると捉え、山塞商売を続け、人民元のレートを低く据え置いた。通貨高は産業を破壊するのでレートは低く保持するべきというのは、産業を過保護にするという事に繋がる。
過保護な状態に最適化されてしまった産業は、為替レートという外的要因ではなく、労働者の賃金の上昇という内的要因によって、破綻する。この破綻を避けるには、技術革新が無い状態を正しいと受け入れなければならず、人民の必要量だけを生産し、公定価格で売買が行われるという計画経済を実現しなければならなくなる。人口の増加すらも、計画通りでなければならないという統制国家が、この変革の最終到達点である。
この最終到達点においては、一定の人口という枠がある為に、民族毎に人口が割り当てられ、自分を支持する部族・民族を優遇する為に、他の部族・民族の人口割り当てを削るという行為が、"政治"になる。税をかけて予算を分捕るように、出生規制をかけて人口枠を取り合うのである。
社会主義や共産主義は、その理念を突き詰めていくと、人道的に許されない思想となってしまう。思想の自由はあるが、このような欠陥思想から未だに離脱できない精神的に未熟な国家が、核を保有し、日本の領土を狙っているというのは、いかんともしがたい現実なのである。
新成長戦略。
官僚の作文以下の出来である。
経済を活性化させるのに重要なのは、ポンプ役の働きにある。資本主義経済が計画経済や共産主義に勝ったのは、国内においてお金を回転させる役割を、企業が担った為である。
企業にお金を稼がせて、稼がせた分だけ使わせる事で、国内の経済は回るのである。
国家が税金を取って、それを国民にばら撒いて使ってくださいというのでは、誰も富を生産しない。自給自足が可能な国家や税金という制度が必要無い地下資源国でなければ、経済は回らないのである。企業という存在は、資本主義経済の根幹である。
資本主義国家において、貨幣を循環させるポンプ役は企業であり、企業に稼がせた分だけ使わせなければ、どんなことをやっても、お金は回らない。お金を回す為に企業という存在を許容するのが、資本主義の本質である。
消費税を上げるとか、法人税を下げるといった事をやって対策をしているというアリバイ作りをしても、事態は悪化するだけである。自民党政権時代にさんざんやった事であり、その失敗を批判してきた民主党が、同じ事をやろうとしている。
行政や企業で十数年間働いた人に、スピンアウトして起業する事を合理的であると判断させる状況を作り出さない限り、内需は回復しないし、日本の工業力や知的財産権の生産力も、衰えていくばかりとなる。その為には、法人税を引き上げる代わりに、配当を経費認定して、企業が内部留保や銀行からの融資に頼る仕組みを終わらせる必要がある。
銀行から借りたお金に対する元利返済は経費認定されるのに、株主から預かったお金に対する配当は経費認定されないという状況は、法人税を確実に取る為という建前と、資金繰りを銀行融資に依存させて行政指導や許認可に従わざるを得ない状況を作り出すという本音から始まったが、その体制を長く続けすぎて、土地資産の含み益や内部留保が溜まり、無借金経営で行政指導に従わないという所や、行政を取り込んで政治的に圧力を加えるという企業が現れるようになって、破綻した。
世界基準で見たときに、資本額のリストの上位に日本企業が並ぶようになると、不都合となったのである。japan bashingは、貿易黒字だけで始まったのではない。
国際的な企業になればbashingは受けなくて済むという事で、多国籍企業化を目指し、アメリカの不動産や企業を買い漁って大失敗したり、最近は、中国に進出して大火傷をしているが、資本の規模が大きくても、内部留保や不動産といった生産性の低い資産がほとんどで、見てくれに比べて実力皆無というのが、日本企業の実態であり、内部留保を株主に還元しろという意見が出てくるようになってしまった。
法人税が下がれば、内部留保を増やしやすくなる。銀行に頭を下げて融資を引き出したり、投資家を説得して増資を集めるよりも、内部留保を使う方が、はるかに簡単に動けるが、このやり方では、既存企業ばかりが太るだけとなり、起業をしようという物好きは出てこなくなる。さらに、競争をする意味が無くなるのだから、内部留保を、退職金として受け取るまで減らさない事が一番合理的となり、投資や雇用が消失していくだけとなる。
法人税を引き上げる代わりに、配当を経費認定する事で、内部留保よりも、従業員や株主にお金を出す事になり、従業員や配当を受ける株主は、当然、増資に応じるかどうかを判断することになる。既存企業に新規事業としてやらせるという判断もあるし、スピンアウトした元従業員に出資をつけてやらせるという選択も可能となり、起業する者に資金を手に入れる可能性が出てくるようになる。
あとは、接待費の査定を少し緩め、経費天国を復活させる事であろう。官僚には接待費がないからというひがみ根性で接待費を絞ったら、街のバーやクラブは軒並み不景気になるし、タクシーも深夜の長距離客が居なくなる。一生官僚やっているよりも、起業した方が豊かになれるし、それで失敗しても、水商売やタクシーの運転手という受け皿があるという状況を作り出さないと、天下り先や税金に寄生している人々を減らせない。
排他的独占的運用がなされている特許権や実用新案権も、上場企業のような帳簿が信頼できる企業については、権利者が定めた料金を支払いさえすれば利用できるようにする代わりに、最長15年という権利の存続期限を取り払うという運用基準の変更も必要であろう。上場企業の帳簿の監査は、弁護士・会計士の仕事であり、法科大学院で量産された弁護士の働き場所となり得る。医療賠償や国家賠償、筋の無いゴネ得狙いの訴訟といった屑仕事しかないのでは、ひまわりのバッジが泣いている。
国際価格に比べて10倍以上高価な日本の米価や農産物、半分近くが税金のガソリン代、年金や保険といった公課と、日本人は、税外の税を負担している。これらの負担は国民の税負担の統計には出てこないが、一般会計の3倍以上の規模の特別会計を支えている。見かけの実効税率を4倍したのが、実際の国民の負担と考えて差し支えない。見かけの実行税率を見て、まだまだ国際的に低い税率だから消費税を上げる余地があるというのは、特別会計を支えているお金が、どこから出ているのかを考えていないという事である。
他人の意見を聞くのは重要であるが、意見を聞いたら、その意見を言った人の背景について調べなければならない。大企業の幹部は法人税を引き下げて内部留保を増やし退職金として受け取れる金額を上積みした方がメリットとなるし、競争相手が出てこないような知的財産権や懲罰的賠償制度を望む。新聞社のような所得の高い人は直接税を引き上げられるくらいならば、消費税を引き上げた方が被害が少ないと判断する。たとえ社会的・経済的に間違っていても、個人の利益を優先するのが人間であり、嘘でも100回繰り返せば真実になる、騙される方が悪いというのが、そういう主張をする人の考えである。
[2010.6.20]