はてなキーワード: 親衛隊とは
独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。
しかしナチス・ドイツは東ヨーロッパのユダヤ人スラヴ人を処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。
弁務官としてウクライナの統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツに必要な生存権と食料のためである。」
ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財は没収された。
医療制度や教育制度も廃止。算数も禁止された。法律については交通標識を理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒、避妊薬と中絶手術は奨励された。
こうして人権を剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場で強制労働が課された。
反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。
またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件は長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。
こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。
最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。
そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊の特殊部隊アインザッツグルッペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。
そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊でねこそぎ処分するという計画を立てていた。
彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。
処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収し塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。
その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。
この方法は効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分に成功したこともあったそうだ。
また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。
労働条件は過酷であり食料不足や労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。
ネタ元はここな
歴史修正主義者か?
独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。
しかしナチス・ドイツは東ヨーロッパのユダヤ人スラヴ人を処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。
弁務官としてウクライナの統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツに必要な生存権と食料のためである。」
ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財は没収された。
医療制度や教育制度も廃止。算数も禁止された。法律については交通標識を理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒、避妊薬と中絶手術は奨励された。
こうして人権を剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場で強制労働が課された。
反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。
またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件は長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。
こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。
最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。
そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊の特殊部隊アインザッツグルッペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。
そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊でねこそぎ処分するという計画を立てていた。
彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。
処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収し塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。
その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。
この方法は効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分に成功したこともあったそうだ。
また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。
労働条件は過酷であり食料不足や労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。
ネタ元はここな
独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。
しかしナチス・ドイツは東ヨーロッパのユダヤ人スラヴ人を処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。
弁務官としてウクライナの統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツに必要な生存権と食料のためである。」
ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財は没収された。
医療制度や教育制度も廃止。算数も禁止された。法律については交通標識を理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒、避妊薬と中絶手術は奨励された。
こうして人権を剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場で強制労働が課された。
反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。
またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件は長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。
こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。
最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。
そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊の特殊部隊アインザッツグルッペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。
そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊でねこそぎ処分するという計画を立てていた。
彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。
処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収し塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。
その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。
この方法は効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分に成功したこともあったそうだ。
また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。
労働条件は過酷であり食料不足や労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。
ネタ元はここな
そうなるとこうなるからな
独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。
しかしナチス・ドイツは東ヨーロッパのユダヤ人スラヴ人を処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。
弁務官としてウクライナの統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツに必要な生存権と食料のためである。」
ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財は没収された。
医療制度や教育制度も廃止。算数も禁止された。法律については交通標識を理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒、避妊薬と中絶手術は奨励された。
こうして人権を剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場で強制労働が課された。
反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。
またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件は長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。
こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。
最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。
そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊の特殊部隊アインザッツグルッペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。
そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊でねこそぎ処分するという計画を立てていた。
彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。
処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収し塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。
その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。
この方法は効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分に成功したこともあったそうだ。
また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。
労働条件は過酷であり食料不足や労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。
ネタ元はここな
こうなるより一か八かで、日中戦争みたいになるのを狙ってるんでしょ
独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。
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弁務官としてウクライナの統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツに必要な生存権と食料のためである。」
ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財は没収された。
医療制度や教育制度も廃止。算数も禁止された。法律については交通標識を理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒、避妊薬と中絶手術は奨励された。
こうして人権を剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場で強制労働が課された。
反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。
またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件は長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。
こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。
最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。
そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊の特殊部隊アインザッツグルッペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。
そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊でねこそぎ処分するという計画を立てていた。
彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。
処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収し塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。
その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。
この方法は効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分に成功したこともあったそうだ。
また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。
労働条件は過酷であり食料不足や労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。
ネタ元はここな
独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。
しかしナチス・ドイツは東ヨーロッパのユダヤ人スラヴ人を処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。
弁務官としてウクライナの統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツに必要な生存権と食料のためである。」
ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財は没収された。
医療制度や教育制度も廃止。算数も禁止された。法律については交通標識を理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒、避妊薬と中絶手術は奨励された。
こうして人権を剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場で強制労働が課された。
反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。
またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件は長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。
こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。
最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。
そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊の特殊部隊アインザッツグルッペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。
そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊でねこそぎ処分するという計画を立てていた。
彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。
処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収し塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。
その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。
この方法は効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分に成功したこともあったそうだ。
また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。
労働条件は過酷であり食料不足や労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。
独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。
しかしナチス・ドイツは東ヨーロッパのユダヤ人スラヴ人を処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。
弁務官としてウクライナの統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツに必要な生存権と食料のためである。」
ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財は没収された。
医療制度や教育制度も廃止。算数も禁止された。法律については交通標識を理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒、避妊薬と中絶手術は奨励された。
こうして人権を剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場で強制労働が課された。
反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。
またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件は長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。
こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。
最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。
そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊の特殊部隊アインザッツグルッペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。
そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊でねこそぎ処分するという計画を立てていた。
彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。
処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収し塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。
その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。
この方法は効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分に成功したこともあったそうだ。
また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。
労働条件は過酷であり食料不足や労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。
戦わないとこうなるけどな
独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。
しかしナチス・ドイツは東ヨーロッパのユダヤ人スラヴ人を処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。
弁務官としてウクライナの統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツに必要な生存権と食料のためである。」
ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財は没収された。
医療制度や教育制度も廃止。算数も禁止された。法律については交通標識を理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒、避妊薬と中絶手術は奨励された。
こうして人権を剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場で強制労働が課された。
反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。
またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件は長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。
こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。
最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。
そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊の特殊部隊アインザッツグルッペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。
そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊でねこそぎ処分するという計画を立てていた。
彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。
処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収し塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。
その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。
この方法は効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分に成功したこともあったそうだ。
また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。
労働条件は過酷であり食料不足や労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。
第二次大戦でドイツに降伏したウクライナ地域がどういう運命をたどった書いていこう。
独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。
しかしナチス・ドイツは東ヨーロッパのユダヤ人スラヴ人を処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。
弁務官としてウクライナの統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツに必要な生存権と食料のためである。」
ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財は没収された。
医療制度や教育制度も廃止。算数も禁止された。法律については交通標識を理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒、避妊薬と中絶手術は奨励された。
こうして人権を剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場で強制労働が課された。
反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。
またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件は長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。
こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。
最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。
そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊の特殊部隊アインザッツグルッペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。
そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊でねこそぎ処分するという計画を立てていた。
彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。
処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収し塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。
その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。
この方法は効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分に成功したこともあったそうだ。
また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。
労働条件は過酷であり食料不足や労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。
第二次大戦でドイツに降伏したウクライナ地域がどういう運命をたどった書いていこう。
独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。
しかしナチス・ドイツは東ヨーロッパのユダヤ人スラヴ人を処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。
弁務官としてウクライナの統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツに必要な生存権と食料のためである。」
ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財は没収された。
医療制度や教育制度も廃止。算数も禁止された。法律については交通標識を理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒、避妊薬と中絶手術は奨励された。
こうして人権を剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場で強制労働が課された。
反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。
またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件は長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。
こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。
最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。
そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊の特殊部隊アインザッツグルッペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。
そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊でねこそぎ処分するという計画を立てていた。
彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。
処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収し塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。
その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。
この方法は効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分に成功したこともあったそうだ。
また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。
労働条件は過酷であり食料不足や労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4715993805323770530/comment/hanajibuu
第二次大戦でドイツに降伏したウクライナ地域がどういう運命をたどった書いていこう。
独ソ戦がはじまるとウクライナ人たちはソ連への反発もあり大した戦意もなくあっさりドイツ軍へ降伏していく。
しかしナチス・ドイツは東ヨーロッパのユダヤ人スラヴ人を処分し、ドイツ人を入植させる大ゲルマン帝国の構想をもっており、そのために活動を行っていく。
弁務官としてウクライナの統治にあたったコッホはこう述べている「我々がウクライナを開放したのは恵みをもたらすためではない。ドイツに必要な生存権と食料のためである。」
ウクライナ人は「人間以下」と認定され図書館劇場の立ち入りは禁止され、書籍などの文化財は没収された。
医療制度や教育制度も廃止。算数も禁止された。法律については交通標識を理解することのみがゆるされた。ウクライナ人の人口を減少させる薬物飲酒、避妊薬と中絶手術は奨励された。
こうして人権を剥奪されたウクライナ人はドイツ人が管理する大農場で強制労働が課された。
反対するもの処刑はもちろん見せしめのため集落ごと焼き討ちがなされた。
またドイツで不足した労働力を補うためにウクライナ人の募集を行うが、労働条件は長時間労働かつ賃金はなしトイレに行く時間もない。
こういった事が知れわたると応募がなくなるが、これに対して誘拐部隊を編成し村を襲撃し労働力を確保していった。
最終的にはウクライナ人は根絶されるドイツ人と入れ替わる計画となっていた。
そために「劣等人種」および共産主義など敵性分子をより効率的直接的に処分するため、親衛隊の特殊部隊アインザッツグルッペン -別名「移動虐殺部隊」 - を組織する。
そして彼らが取り逃がした敵性分子を現地の警察親衛隊でねこそぎ処分するという計画を立てていた。
彼らがこの地域で好んで使用した処刑方法はイェッケルン処刑法と呼ばれる方法だ。
処刑場の犠牲者の所持品及び衣類を没収し塹壕にに寝かせられる。機関銃により全員が処刑される。
その上に土をかけ、また別の犠牲者達を並べる…ということを繰り返して処刑していった。
この方法は効率的だったようで、記録によると2日で25000人もの「劣等人種」の処分に成功したこともあったそうだ。
また、「労働による絶滅」というに計画によりレンベルクからロフトまでの約2000kmアウトバーン建設していった。
労働条件は過酷であり食料不足や労災により大量の死者が発生また、働けなくなった者は処刑。完成後も感染症対策として労働者を処刑した。
そんなに知識ある人なの?この人って。
こいつ、つまんねえこと書いてるなあっていうのだけ理解してほとんど読み飛ばしてるからよくわかんないだけど。
こんな正確かどうかわからない細かな知識で武装したところでハリボテだと思うんだけどねえ。
それよりは広く世界史とかから状況を引っ張ってくるほうがこの辺の歴史も理解しやすくなるのでない?
例えば仮に明智光秀は近畿圏を管轄する軍団長のような人であったという研究を是とするじゃない?
その場合には本能寺の変というのはローマ帝国の首都ローマで突発的に皇帝を暗殺してしまった親衛隊長とかと立場的には同様のものと類推出来るのでは?
とか考えることが出来るじゃない。そこでさ、そういう人たちは結局どういうふうな状況へと追い込まれていったかって言ったらさ、ほとんどの謀反は成功してないんだよ。
つーかそもそも主殺しなんて大技が決まるのは、主の権勢を臣下のほうが上回った場合のみだよ。
それもコソーリと人から注目集めないようにやっちゃうか、あるいは大義名分がしっかりとある場合に派手にやるかだよ。
光秀みたいに何の根拠もなくいきなり主を殺して、それで上手く立ち回って何とかなるほど世の中甘くないだろ。
この辺の感覚も架空戦記好きの人らと俺とでは異なる部分なんだよなあ。
俺はあくまで現実に生きた人としての信長とか光秀を乏しい想像力ながら頑張って考えようとするんだけど
この人らのはどうやっても物語とかゲームの世界から抜け出さないんだよ。
できるだけ噛み砕いて一番わかりやすい桶狭間という例題を出して
いかに昔の合戦の趨勢を現代から予測できないものかを想像してみてよ、
じゃあ、なんだったらいいんだよ。
なんかねえ。
まあいいや。もうすぐ休みだからちょっとこのへんことはあらためて書くよ。
なんとか架空戦記の人とも話が通じるように頑張ってみる。
横だけれど、この元増田のブクマで自民や安倍前総理(だよね?>SHINZO法師親衛隊)のコメントをしてる人は、一体どこをどう読んでそうなったのだろう。少なくとも元増田は政治系の話題には触れてなさそうだし。(左翼右翼は、自分は思想に関する話題の認識)
b:id:Euterpe2 SHINZO法師親衛隊が火消しに必死過ぎて草
b:id:quick_past こっちのことなんてどうでもいい。あんたらがそこまで自民党と統一協会/統一教会のつながりを直接否定せず、オウム返しに必死になってる理由はなんだ?
b:id:rgfx おっ効いてる効いてる。韓国カルトとズブズブな自民党をそこまでして庇わないといけないのか。ノルマも大変だねえ。
人気エントリーに載った範囲で関連記事を読んでるから自民党議員(山田太郎氏)が関わってるのは分かるんだけど、いくら何でもその一点突破でアンチ自民やアンチ安倍に繋げるのは、さすがに想像力が逞し過ぎないかと思う。
阪神淡路大震災とオウム真理教をめぐる事件で騒がしかった1995年に起きた、文藝春秋の雑誌『マルコポーロ』を廃刊にしてしまった事件の、そのホロコースト否定の記事の著者である西岡昌紀氏がその記事でも使った文章がこれである。
「なんと驚くべきことに、ガス殺の遺体は一体も見つかっていないのです」
西岡はそれ以来、繰り返しこのセリフを語った。今回はこれについて考えてみよう。
上の西岡が使う常套句は、実は微妙に嘘なのであるが、ほんとでもあるというややこしい話でもある。嘘であるというのは、見つかっていたという報告自体は存在するからだ。知られているのは二つあり、一つはマイダネク収容所のソ連犯罪調査委員会による報告書であり、1944年10月頃という早い時期にまとめられた報告書の中に、ガス殺遺体の発見の事実がさらっと書かれている。マイダネクはソ連赤軍の急襲にあって終戦前年の1944年7月にさっさとソ連に解放されてしまったので、ガス室やその遺体の処理が間に合わなかった、とされている。もう一つはロシア南西部の黒海に面するクラスノダールでもガス殺遺体が発見されたと報告されている。こちらの方は1943年初頭にさっさとソ連に占領されてしまっているので報告(裁判)の時期も1943年7月と最も早い。ガス殺遺体の写真まである。
このように実際には見つかっていたという話を知らないネットの否定派は多いようだが(西岡も1995年当時には知らなかっただろう)、見つけたのがソ連であるという理由で信じないのが否定派である。実は個人的にもマイダネクの報告書はちょっと怪しいと思っているが細かい話になるのでそれはここでは言わない。クラスノダールの方は写真まであり、その写真自体に「一酸化炭素中毒の死体」とまではっきりコメントが書いてあって、信頼性はあるように思うのだが、ソ連の裁判という理由で否定派は認めようとしない。当時ソ連は見せしめ的な裁判をやっていたらしく、それが信じない理由とされているようだが私は詳しくは知らない。
しかしこれが、否定派が主たる攻撃対象としている絶滅収容所、中でもアウシュヴィッツ収容所の話になってくると、確かに解放後に連合国によって一体も発見されていないのは事実である。定説では、それらのガス殺による遺体は全部焼却処分してしまったからである。が、ここでは少し否定派側の視点に立って考えてみよう。
確かに、そう言われると奇妙な気もしてくる。一般的に言って、死体なき殺人は肝心の殺された死体が存在しないため、その立証は困難である。かつて日本で起きた北九州一家連続殺人事件では家族七人が殺されたが、その死体は一体も見つからなかったどころか、犯行現場とされたアパートからも血痕の一つも見つからず物的証拠は何一つ存在しなかった。その為、主犯格の共犯者である愛人と逃げて助かった生存者の証言で事件を立証する以外になかったのである。
しかし、アウシュヴィッツは七人どころではなく、約百万人がガス室で殺されたとされている。ニュルンベルク裁判時点では250万人〜400万人という膨大な犠牲者数が述べられた。なのに、ガス殺死体は一体も見つかっていないというのは極めて異常な話ではないのか? ガス室による殺人は全く立証されていないじゃないか、と言いたくもなるのだろう。特に、青酸ガスという毒ガスで殺されたという類例のない事実を立証するには、遺体の検死解剖の一つくらいあっていいはずなのにそれすらないのだから、疑惑を持つ人がいても不思議ではない、とは思う。
では一体どうやって毒ガスによる大量虐殺を立証したのであろうか?
流石にニュルンベルク裁判やその他の裁判で具体的にどのように立証していったのかという全貌は知らない。よほどの研究者でもない限り、膨大な裁判資料に精通している人は限られると思う。ニュルンベルク裁判資料ですら素人には手に負えない。
しかし、物証の一つである文書資料もそこそこ裁判で採用されているようである。ナチス親衛隊は徹底的に大量虐殺の事実を隠蔽しており、例えば直接「毒ガスで殺した」などと文書に記述したりしなかった。ガス室についても、残されている図面には「死体安置所」としか書かれていないし、アウシュヴィッツの火葬場に関する使用データも一切残さなかった。収容所解放前にガス室のあったビルケナウのクレマトリウムは全て解体撤去・爆破処分しており、火葬炉の一つも残っていない。それでも、ある文書の中には「ガス室」とついうっかり書いてしまったのであろう記述があったりもしたし、クレマトリウムの残存パーツからシアン成分も検出している。
さらに、裁判で採用された証言者は何百人にも上り、その多くは非常に具体的にガス室のことを証言しており、詳細な証言もいくつもあった。ガス室での殺害の目撃証言も多数存在したし、ともかく大勢の元囚人がガス室に関する証言を行なった。中でも、遺体処理を担当したゾンダーコマンドの生存者の証言は極めて詳細であった。最も衝撃的だったのはアウシュヴィッツ収容所司令官を最も長く務めたルドルフ・ヘスのニュルンベルク裁判での証言であった。彼は、他の多くの加害者側の人間とは異なり、無罪を主張しなかった。それどころか、自分から進んで積極的にそのおぞましい犯罪の全貌を裁判で語ったのである。さらに彼は、拘置所において自らの意思で回想録を執筆し、裁判時の証言よりもさらに詳細な内容であった(この自伝は日本でも普通に売ってる)。
細かい話をすれば、例えばナチス親衛隊による大量虐殺の隠蔽に関する証言でさえも、囚人は証言している。「ガス室での殺害については、「特別処理」という表現を記載していました」などの証言も何人もしている。これは事務的な部署でも囚人が働いていたからである。さらにそうした証言をしている法廷で裁かれていた加害者側の被告であった親衛隊員たちは、ガス室を全く否定しなかった。それら親衛隊員が裁判で反論したのは、自らの意思に基づく非道な行い等についてのみであり、指示・命令で行っていた任務であるガス室に関しては否定しなかったのである。
結局、後々のナチ犯罪裁判を含めそれら戦犯裁判では誰一人、ガスによる大量虐殺を否定しなかった。少数の「知らなかった」と語った証人や被告が存在しただけである。果たして、こうした証言状況で、「ガス殺死体が一体も見つかっていない以上、それらの証言は全て疑わしい」と言えるのであろうか?
ネットに多い素人否定派程度では、まさかガス室・大量虐殺を認めることになる証言が何百件もある(裁判以外も含めれば何千件になるのか見当もつかない)だなんて知らないと思うし、それらの証言の一つもまともに読んだことすらないだろう。例えばその一つを任意に選び出してみよう。
証人:アウシュヴィッツで絶滅された子供たちの移送に関しては、ゾンダーコマンド(特別部隊)で働いていた同僚から聞いたことを繰り返すことができます。この子供たちはガスで殺されました。ビルケナウの最初の火葬場で行われたテストガスの犠牲者でした。
私は3週間の検疫を経て、クレマトリウム建設班に配属されましたが、そこで初めてグラブナーと出会いました。ある時、私の仲間が50キロのセメント袋を運んでいたのですが、その重さに耐えられず、グラブナーは私のカポーに向かってこう言いました。「あの犬にとどめを刺せ」と。カポーはシャベルの柄を折って、それと自分の足を使って囚人を激しく殴り、彼は本当に死んでしまいました。これはグラブナーの指示で行われました。
その後、私は火葬場から「カナダ」という兵舎に移されました。そこでグラブナーと再会しました。グラブナーは政治部の部長で、ガス処刑される人たちの書類をモルに渡していました。グラブナーはほとんどすべての輸送列車の到着に立ち会っていました。
ポーランドの戦争犯罪証言記録サイトに見る殺人ガスの証言証拠(2)|蜻蛉|noteより
人間の証言には、しばしば誤りが存在する。記憶間違いであったり認識間違いであったり誤解であったり、場合によっては意図的な嘘であったりもする。個人的に、こうした証言をたくさん海外のサイトから翻訳したので、そこそこ誤った内容を含む証言があるのも知っている。しかしだからと言って「ガス室」に関する証言のその全てが嘘になることなどあり得るのだろうか? 知っている裁判証言だけで数百件に上るのだが。
しかもそれらの証言に含まれる「ガス室」に関する内容は、ただ単に「ガス室があった」と言っているだけでなく、上にあげたたった一つの例ですらも具体的な内容を持つ証言の中で示されているのである。しかもそれらは裁判の中での証言であり、被告が法廷に存在しており、被告には証言者への質問の機会も与えられていたのに、誰一人被告はガス室を否定しなかった。
でも否定派は、それら証言をどんな難癖をつけてでも否定する。上の例では、「連合国の陰謀者によって、ガス室の証言をするように脅迫されている可能性がある」等。また、否定派が最も証言に対して使うセリフは「矛盾があるものばかりである」である。ルドルフ・ヘスに至っては、ほんの些細な記憶間違いとしか考えられない証言上の矛盾を元に、証言の全て(もちろんガス室・大量虐殺に関することだけ、であるが)が連合国によって強制的に嘘を言わされていることにされた。私はそれをいうネット否定派に対して、「ではあなたは数年前の出来事について一つの誤りもなく証言できるのですか?」と質問したがまともに答えが返ってきたことは一度もない。ひどい場合には、単なる翻訳上の間違いを元にして「この証言には矛盾がある」と難癖をつけられていたことさえある。
少なくとも、マルコポーロ事件の西岡昌紀は真面目とは言い難い。その理由は、絶対にただの一つとしてもホロコースト否定説には欠陥があることを認めようとはしないからである。実は、稀にこの「否定説の欠陥」に気付く否定派がいる。中でも否定説の最大の欠陥は、では「一体、数百万人に上るユダヤ人はどこへ消えたのか?」に答えられないことである。ユダヤ人がナチスドイツの手によって大量移送されたこと自体を否定する人はいないので(それすら知らない人は別だが)、殺されていないのなら数百万人の消えたユダヤ人はどこかに生存していなければならない。古くは、ソ連だった。ソ連のスターリンが収容所に収容しただとか、移住させたのだとか、色々言っていたらしい。だが、冷戦が終わってなお、そんなユダヤ人は全く確認することは出来ない。旧ソ連に関するそうした情報も公開されているのだが、どこにも出てこない。
ほんの僅かだけど、ネットで議論しているとそこに気づいた否定派もいた。確かにその質問には否定派は答えられない、と。欧米では、著名な否定派が、さらに高名な否定派の誰にそのことを聞いても「知らない」と返答されるだけだったので、否定派を辞めてしまった人さえいる。この重大な欠陥を認めるか否かが、ある種の分水嶺になっているとは思われる。
「ホロコーストは嘘」って主張自体が嘘である、と言うことは日本ではあまり知られていない。せいぜいが「ホロコーストを否定してはいけない」程度の認識であるようだ。私ほどの物好きでもない限り、そのファクトチェックを行うという面倒なことをする人は滅多にいないから仕方ない。欧米は否認論の本場なので、否認論に対抗する人もそれなりにいて「ホロコーストは嘘」自体が嘘であることはそこそこは知られているようである。Twitterなどで状況が意外と簡単にわかる。
だが「嘘」と言っても、その実態はややこしい。そのほとんどは事実を用いた印象操作のようなものであり、細かな具体的主張それ自体が嘘そのものであることは少ないからである。いわばホロコースト否定論はその主張をする人が意図的か無自覚であるかは別として「詐術」なのである。しかし、あなたの知性が正しく働いているのならその詐術に騙されることはない。例をあげよう。
「アウシュヴィッツには遊泳プールが存在し、親衛隊員や囚人が水球で楽しく遊んでいたという事実まで存在する。アウシュヴィッツ収容所は地獄のような過酷な収容所ではなかったのか?」というものである。後段の疑惑はともかく、これは事実であり、確かにアウシュヴィッツには遊泳プールが存在し、元囚人の手記によると親衛隊や囚人が水球などで楽しんでいたようである。
先に結論を言うと、遊泳プールがあったからと言って、アウシュヴィッツ収容所が地獄のような過酷な収容所であった事実は変わらない。登録囚人に限定しても(登録されずに殺されたユダヤ人が圧倒的に多いが)、毎月数千人単位で死者が出る収容所だったのである。だけど、そう説明されたところで、遊泳プールの存在は思っていたアウシュヴィッツのイメージと全然違い、かなり違和感があると思う人もいると思う。実は肝心なことは「思っていたアウシュヴィッツ収容所のイメージ」なのである。そしてこのプールの話は、実際、相当色々とよく知っていないと納得しづらい人もいて当然だと私も思う。
あまりに何もかもをここで説明するのは無理なので、アウシュビッツ収容所のみに限定して簡単に解説する。アウシュヴィッツ収容所はポーランドにあり、1940年5月ごろから実質的にスタートした強制収容所である。最初は、ユダヤ人のためではなく、政治犯を主体として収容するための強制収容所であり、ドイツ人やポーランド人などが収容されていた。翌年1941年6月を過ぎると独ソ戦によって発生した赤軍捕虜が大量に収容されるようになっていく。が、この赤軍捕虜に対する扱いはあまりにも非道であり、特に政治将校はその大半が銃殺刑で処分された。いわゆる国際法ガン無視のコミッサール司令である。また、アウシュヴィッツで行われた最初のガス室での殺害犠牲者はこのソ連兵捕虜だった。そして、元のアウシュヴィッツ強制収容所から三キロ離れたところにあるビルケナウ捕虜収容所の建設が始まると、そのソ連兵捕虜が建設労働に駆り出され、一万人くらいいたはずのソ連兵捕虜の大半は一年も経たずに大半が過労・餓死などで死んでしまったのである。
ユダヤ人については、当初からユダヤ人も含めて政治犯として収容はされていたものの、囚人登録もせず収容もしないで収容所到着時にそのままガス室送りにしてしまう、いわゆる「ユダヤ人の絶滅」がアウシュヴィッツで始まるのは1942年3月からであり、ビルケナウの敷地外にある農家を改造したガス室(ブンカーと呼ばれる)で最初の一年くらいは実施されており、1943年3月にクレマトリウムと呼ばれる火葬場が完成すると、その後はビルケナウのクレマトリウムで行われるようになっていく。アウシュヴィッツの基幹収容所のガス室は併設された火葬場の火葬能力が低いこともあり、実は絶滅にはほとんど使われておらず、1942年末でガス室の使用を終了している。ともかく、ビルケナウ収容所でのユダヤ人のガス室での大量殺害は、ヒムラーが中止命令を出す1944年の10月末ごろまで続いた。ガス室ではトータルで100万人程度虐殺されたと言われている。
もちろんだが、ガス室での殺害は何も囚人にさえしてもらえなかった非登録ユダヤ人だけではない。最初の選別では老人や14歳以下の子供、子持ちの女性などが労働不適格としてガス室送りにされたが(概ね到着したユダヤ人の75%、ただし選別条件に当てはまるのに例外的に囚人登録された人もいた)、囚人登録されたところでその大半は3ヶ月程度で役立たずになりガス室送りになるか病棟バラックで注射で殺されたりもした。こうした収容所内での「選別」は常時行われており、その選別方法も親衛隊の選別の担当長が適当に恣意的に選んでいるだけなのが実態だった。親衛隊員による囚人への暴行も日常茶飯事であり、殴り殺すことさえ珍しくなかった。些細なことでも見せしめ的に処刑されたし、収容所内での配給食料だけに頼っていたらすぐに死んでしまうほど食料の質も劣悪だったりもした。
……とまぁ、これだけ酷い話を聞いていたら、「プールで遊ぶなど考えられない」と思う人がいても全く不思議ではないと思う。プールの存在に対する疑念はこのアウシュヴィッツの悲惨なイメージとあまりにかけ離れているから生ずるのだ。だが……。
このプールの詐術に引っかかる人は、人間が斯様にも残酷になれるということを理解出来ていないのである。ここで一つ解説を加えておくと、このプールは絶滅の行われていた現場であるビルケナウではなく、アウシュヴィッツ基幹収容所の方にあったが、元々の目的は防火用であり、完成したのは1944年8月ごろであると推定される(フランクフルト・アウシュビッツ裁判の証言にある)。収容所の親衛隊員は、ユダヤ人囚人に命じて飛び込み台を作らせ、遊泳プールとしても使えるようにした。で、このプールを利用して遊んでいたのは親衛隊員と、上級囚人だけだったのである。上級囚人とはユダヤ人でない囚人のことであり、おそらくは過酷な労働をしていなかった囚人長であるカポなどであろう。つまりは、大半の囚人が毎日酷い目にあっているそのすぐ側で、収容所生活を存分に謳歌している人たちがいたというのが事実なのである。ビルケナウの方ではサッカーでさえ楽しんでいたそうだし、有名なアウシュヴィッツオーケストラに演奏会をさせたり、囚人に劇団まで作らせて劇場で公演させたりもしていた。また親衛隊員は当然として上級囚人も、ユダヤ人ら下等囚人の食事量・質とも全く違ったし、親衛隊員は恣意的に食品などを横流しさえしていた。さらに、ユダヤ人が持ってきた私物(「再定住させられる」と言って騙されて連れてこられているのだから、それらはユダヤ人の全財産と言っていい)を全部収容所の方で掻っ攫うのであるけれど、そこから横領しない親衛隊員などいなかったと言われるほどである(ただし横領は発覚すると厳罰な処分が下される)。
もちろん、囚人たちの多くはそうした私腹を肥やす親衛隊員たちの行動や、プールなどを楽しんで収容所生活を謳歌している姿も知っていた。だから戦後の地元法廷で、少ないとはいえ裁かれた親衛隊について証言者となった元囚人たちのほとんどは、それら親衛隊員被告の非道ぶりを存分に告発したのである。
ほんとに否定論の細かい具体的な主張ってこの手の話があまりに多い。例えば「ガス室の扉が木製だなんておかしいじゃないか。アメリカの死刑用ガス室は鉄製の部屋でありドアだって厳重なハンドルまでついていて非常に厳しい毒ガス管理をしているくらいだ。あんな木製の簡易な扉だったらガス漏れして外にいる人まで死んでしまうに違いないから、あれがガス室だったなんてあり得ない」ってのがある。んでこの話、たくさんの米国の死刑専用ガス室の写真とともに出回っている。
えー、青酸ガス発生用に使っていたチクロンBは害虫駆除用として当時一般に広く使われており、それなりに密閉処理さえすれば「どこでも」使えた。それなりの密閉処理とは空気漏れ起こしそうなドアの隙間などにダクトテープを貼る程度のものである。アウシュヴィッツ収容所にも、殺人ガス室以外に衣服などのシラミ駆除のための専用ガス室が複数存在し、現在も現存しているが、それらのガス室の扉も殺人ガス室と同じ木製扉であり、気密には隙間にフェルトが貼られているだけである。チクロンBの製造元であるディケシュ社の文書にも別に木製扉がダメだとは書いてない。専用の頑丈な鉄製のガス室でしか青酸ガスを発生させられないような害虫駆除剤だったとしたら、当時一般的に広く使われたはずがないだなんて、少し考えればわかることなのに。
「じゃぁ何故米国の処刑ガス室があんなに頑丈そうに出来ているのか?」と聞かれたって答えは知らないが、それなりの要求仕様があるとか昔からの慣習であるとか、何か理由があるからであろう。でもそーういうことは否定派さんは全く調べない。いずれにしても、実際にチクロンは当時広く使われていたのだから、米国の処刑用ガス室の構造は、アウシュヴィッツのガス室に関しては何の参考にもならないのである。どうしてそんな見た目の単なる印象に過ぎないことが、アウシュヴィッツのガス室を否定する理由になるのか?
今年はホロコースト映画公開が少し多いようだけど、一つとして見に行こうとは思わなかった。あんまり興味が湧かなかったからだけど、しかし最近、古い映画にすごいホロコースト映画があるのを発見した。YouTube全編上がっているのだけど、惜しいのはポーランド映画であり全編ポーランド語でさっぱり言語がわからなかったりすることだ。日本でもDVDは発売されてるけど、買ってまで見ようとは思ってない。しかし何が凄いって、何気に再現度が凄い。興味がなければ何のことはないシーンだけど、ガス室にガスを投入する作業のシーンが思ってた通りの再現だった。ガス室というかクレマトリウムはすでに破壊されてなかったからわざわざセットで作ったのかと思うと尚更すごい。何気にあのチクロン投入煙突の位置が正確なのも素晴らしい。未完成で監督が死んでしまい、友人達で残っていた映像を繋ぎ合わせただけらしいけど、唐沢寿明の『白い巨塔』よりもずっと前にアウシュビッツ収容所をロケ地に使っていた映画が存在したというのも発見だった。
PASAŻERKA - POLSKI FILM PSYCHOLOGICZNY HD, WYSTĘPUJĄ: ALEKSANDRA ŚLĄSKA (SOUS-TITRES FRANÇAIS)
#kutooo 運動の創始者である石川優実氏が、ここ最近ビジフェミ界の猛り狂う邪神と化しているのを知って以来、野次馬根性からか彼女を観察するのをやめられなくなってしまった。「こうすれば炎上するに違いない」という打算と本物のヒステリックな怒りが入り混じった意味不明な言動、そしてそれを用いた猛獣の如き全方位攻撃は“”社会運動“”の神輿にまつりあげられてしまった人間がどう壊れていくかの貴重なサンプルであり、ドキュメンタリックな臨場感に溢れている。
彼女はいわゆる“界隈の姫”であり、石川氏がレスバに興じるさいにはフェミニストを自認する大量の男性アカウントがわらわらと湧いてきて彼女に援護射撃をしたり後ろから撃ち抜いたりしている。基本的に男性を男性であるというだけで異常に嫌悪し、「男は性欲のみを原動力とする恐ろしい化け物であるから彼らの娯楽は全て取り上げ檻にでも閉じ込めておかねばならない」と定義するツイッターフェミニズムを全面的に肯定しているというだけでかなり歪な哲学を持っていることが自明だし、その上で「自分はそのような怪物ではなく、フェミニズムによって浄化され女性を敬うようになった解脱者だから大丈夫」とでも言いたげな彼らの姿勢を見ていると“名誉男性”ならぬ(ラディカルフェミニズムにおける)“名誉女性”とでも呼びたくなってくる。
彼はとてもすごい。
クボ氏は石川氏と親しい間柄のようで、頻繁にリプライでやり取りしている姿を見ることができるし、ここでは特に言及しないが、石川氏のTwitterアカウントの運営に携わっているらしいという疑惑さえ出てくるほど石川氏に近しい。
では、彼の何がすごいか?
彼は人を苛立たせる才能にあまりにも長けているのだ。
石川氏が誰かを燃やしたり逆に誰かに燃やされていると気づくや真っ先に駆けつけ、侮辱的な屁理屈を投げつけるのがクボ氏の仕事なのだが、その鋭さたるや並大抵のものではない。
彼の言葉は、それを投げつけられた側がどうしてもカッとなって買い言葉をぶん投げてしまったり、なんか変な受け取られ方してると感じて誤解を解こうと一生懸命返信したりしたくなってしまう魔力に満ち満ちている。言い回しも刺々しく上から目線で、絶妙に相手の話を聞かずに少しずつ論点をずらし、勝手に勝ち誇る。また石川氏シンパ以外のフェミニストにも積極的に喧嘩を売ることで、人々の義憤を喚起しやすい選民思想も鮮烈に見せつけていく。あまりに技巧的だ。
そして彼が敵対者に貼り付けるレッテルもまた、非常に的確に反論をさそう「ズレ」で彩られており、本当に攻撃力が高い。
まともな思考回路の人間はたとえば「通り魔事件の被害者を悼むサイレントデモ行為をなかば揶揄した形の支援金の募集活動がTwitter上ではじまる」→「この支援活動に金を落とした連中は全員アンチフェミのオタクで声を上げる女性をおちょくりたいだけの粘着アンチなんだな!」という連想ゲームはできないし、ネタで思いつけたとしてもうっかりツイートしたりしない。むろん彼がこういうぶっ飛んだレッテル侮辱をするのはこれが初めてではない。
いくらなんでもそんな喧嘩の売り方しちゃダメだろと思うようなやり口のさらに下を行く、侮辱とか以前にあまりに倫理観に欠ける言葉をポンポン思い付きポンポン投擲できるのは間違いなく正常な精神に基づく行いではない。
クボ氏自身の存在それ自体もこの優れたヘイト管理能力の一部だ。彼のツイッターアカウントは、いわゆる“意識高い系アカウント”そのものの見てくれながら何をしている人なのか全くわからず、不気味さとあまり綺麗ではないビジネスの臭いを放っている。これによりそういったものを本能的に嫌悪し警戒しがちな人間が多数を占めているアンチフェミ界隈の、クボ氏および彼の擁護するものたちへの対する怒りを更に煽ることができるのだ。Googleでクボユウスケを調べようとすると真っ先に「クボユウスケ 何者」と出てくるのが良い。「職業」とか「経歴」とかそういうのではなく「何者」というなんとも言い難い問い。まさしく彼の立ち振る舞いを見た多くの人が「何様なんだこいつ……(ドン引き)」と思ってきたことの証左であろう。
ここまで読んで「こんな特徴を持つ石川氏親衛隊はいくらでもいるだろう、つーかだいたいそんな野郎ばっかりじゃんか」と思われる方もおられるだろう。確かにそれはそうなのだが。そうなのだが、だからこそトゥギャッターなどで彼がレスバをしている姿をきちんと見れば、他の騎士たち、そして何より石川氏の言動とも一線を画すクボ氏の横柄さ、異様さに圧倒されるはずである。
石川氏の“売り言葉”には、彼女の少々ゆがんだ価値観にもとづく失言や鬱憤やわがままや憤りなどが詰まっており、ある種の人間くささがきちんと感じられる。クボ氏以外の騎士団員の言葉もやはり、石川氏を思いやる気持ちや純粋さ故の間違った怒りが彼らの人間性を照らし出しているのを見てとれる。
翻ってクボ氏の発言を見てみると、彼はもしや人間を苛つかせるために開発されたAIなのかとさえ思えてくる。他の男性に見て取れる石川氏への媚びもほとんどなく、むしろ敵対者を的確に逆上させることで石川氏陣営とのレスバをさらにヒートアップさせるための布石を丁寧に並べていることが多い。そこには彼の驕り高ぶりと“まちがったふぇみにずむ”のあまりに恣意的すぎる印象が輝いているだけだ。機械的ですらある。なぜこんなに的確に人を怒らせ愕然とさせることができるのか。
それは分からないが、一つだけ確かなのはクボユウスケ氏のようなヘイト発生装置がエンジンとなっていなければ、石川氏は今のように暴走ロケットの如くブッ飛び続けることはできなかったであろうということだ。クボ氏がレッテル爆撃を行うことで呼応する様々な属性の義憤を掘り起こし、それらすべてを自身およびフェミニズムに対する攻撃とみなして迎撃しようとする石川氏の狭量さと溢れる攻撃性が両輪となって“フェミニズム”を彼方まで運び去り続ける。
ゆえにクボユウスケは#kutoo 運動における最大の功労者であり、拡散の立役者でもあり、世間への浸透後の歪な軌跡の象徴とも言えるだろう。
追記:石川氏のことをラディカルフェミニスト(女性を魅力的にとりあげたコンテンツをエロであるか否かに関わらず全て地上から一掃しようとしていたり等するヤバいひとたち。いわゆる“フェミ”の内でも抜きん出てイカれている。思想的には現代のそれよりも過激なカトリックやイスラム教などに近い)であるかのように書いていたが、彼女はその陣営ではない。当人はリベラルフェミニストだと思っておられるようだが、石川氏の行動は上野千鶴子氏などのそれとはいろんな方向であまり似通っていないので何と呼ぶべきなのかはよくわからない。間違えて書いちゃったのを思い出したので訂正しておきます。すみませんでした。
ガウガメラの戦いは、紀元前331年ヨーロッパ東方のペルシアにおいて、当時のアケメネス朝ペルシャの本軍と、アレクサンドロス率いるマケドニア軍が激突した戦いである。
これまで取り上げている二つの戦いから分かるように、戦争芸術の定義は「圧倒的な戦力差、戦略的不利を、指揮官の機転によって打破する」ことにある。このガウガメラの戦いはそのような意味合いで、戦争芸術の極致と言える。
当時ギリシャの一小国に過ぎなかったマケドニアは、アレクサンドロスの父であるフィリッポス二世の尽力によって急速な軍事・政治改革を遂げ、瞬く間にギリシャ全土を手中に収めると、フィリッポス二世の死後マケドニアの実権を握ったアレクサンドロスの指揮下、紀元前334年ボスポラス海峡から小アジアへと渡り、東の大国アケメネス朝ペルシャに対し征服戦争を仕掛けた。これが世に名高い東方遠征である。
その後十年の長きに渡って続いた戦いは、アレクサンドロスが企図した、アレクサンドロスによる、アレクサンドロスのための戦いであった。
アレクサンドロスは紛れもない西方世界の英雄であり、破壊者であった。当時アレクサンドロスが破壊し、虐殺・略奪を行った都市は数多に渡って存在している。
アレクサンドロスの猛進を前に、時のペルシア王ダレイオス三世はペルシア西岸のイッソスにて、王自ら率いる五万以上の軍勢をもって決戦を挑み、敗北した。数的優勢に立ったペルシア軍は川を挟んでマケドニア軍に対峙し、防衛を試みるが、果敢にも渡河を遂げたアレクサンドロスを前に有効な機動戦法が取れず、壊走したのである。ダレイオス三世自身が率いるペルシア本軍敗北の衝撃は余りあるものであり、敗戦の後、ダレイオス三世は堪らずアレクサンドロスへと講和を願い出ているものの、アレクサンドロスはこれを一蹴している。
それから二年、ダレイオス三世はアレクサンドロス本隊を壊滅させるべくイッソスの戦いを上回る規模の軍勢を招集し、ガウガメラの荒野にてアレクサンドロス軍を迎え撃とうとしたのであった。これがガウガメラの戦いである。
この一戦のためにダレイオス三世はありとあらゆる準備を重ねた。
第一に、(当然のことながら)数的優位を築くこと。マケドニア軍五万弱に対して、この時ダレイオス三世の招集した軍勢は傭兵を含む十万以上であり、つまりアレクサンドロス軍の二倍以上に当たった。この規模の軍隊は当時の兵站で維持可能な最大レベルの軍隊と言え、当時におけるペルシア軍の威信の程が推し量られる。
また、彼らの戦いの数百年の後に行われたカンナエの戦いにおいて、勝敗を分けたのは騎兵戦力の優劣(とハンニバルの用兵)であったことは先述の通りであるが、マケドニア騎兵七千に対してペルシア軍騎兵の数は一万を超えており、質はともかくとして量においてはペルシア軍はマケドニア軍を圧倒していた。ここにおいても油断は無かった。
更にダレイオス三世は当時最新鋭の兵器の一つであった戦車(チャリオット)を陣中に大量に配置した。これは複数の軍馬によって牽かれる戦闘用の馬車のようなもので、車輪の左右には鋭利な刃物が取り付けられると共に、車上には弓兵が配置されており、通常の歩兵戦闘において絶大な威力を発揮する筈であった。ダレイオス三世はこのチャリオットの突進力によってマケドニア軍を圧倒しようとしたのである。
また、ペルシア軍は戦場の整備をも欠かさなかった。チャリオットの機動を阻害する石や木の根などの障害物を、決戦の事前に排除しておき、イッソスの戦い(ペルシア軍は閉所にて有効な機動ができず壊滅した)で舐めた辛酸を繰り返すまいとしたのである。
相手に倍する軍隊、奥の手としての秘密兵器、駄目押しにその秘密兵器の機動を有利にする戦場整備、限りなく万端に近い準備の上で、ダレイオス三世は決戦の時を待った。
紀元前331年10月1日、ペルシア軍とマケドニア軍の双方はガウガメラの地にて対峙し、戦闘を開始する。
この時、マケドニア軍の司令官であるアレクサンドロスの立てた作戦はシンプルなものだった。それは、緒戦から防衛に徹し、敵の隙を見て騎兵を突撃させ、敵の本陣を陥れるというものであった。
言うは易しだが、何しろマケドニア軍とペルシア軍の数的差は一対二であり、言い換えれば、敵軍には五万以上の余力があった。そんな状況で、本来であれば隙など生まれる筈はなかったのである。
開戦直後、アレクサンドロスは全軍を緩やかに右斜め前方へと斜行させる。本来であれば軍隊の斜行は自陣に綻びを生む可能性の多い行動であり、採用されることはまず無かったものの、アレクサンドロスは自軍の機動に合わせてペルシア軍の不用意な機動を誘った。案の定、折角整備した戦場から離脱されることを恐れたダレイオスは、三方(正面、右左翼)から雲霞のごとき兵数を動員し、マケドニア軍を包囲しに掛かった。
その大軍の王道とも言うべき用兵に対抗するべく、アレクサンドロスは自軍を純粋な横列ではなく、左翼と右翼を折り曲げた弓状に変形させており、この鉤状になった右翼と左翼を持ってペルシア軍の猛攻を受け止めようとした。
しかし兵数の差が決定的であったことから、持久戦となればマケドニア軍の敗北は自明であった。左右のいずれかを突破され、後方にペルシア軍の進撃を許した時点で、マケドニア軍の崩壊は決定づけられる。更には、マケドニア軍正面にはペルシア軍の虎の子であるチャリオット隊の猛攻が迫っていた。
とは言え結論から言えば、このチャリオット隊の猛攻をマケドニア軍は退ける。
曰く、マケドニア軍は軍馬というものの持つ本能――顔面に鋭利な物体(槍など)を突き付けられると足を停めてしまう本能や、チャリオット特有の旋回能力の低さを突いたと言われている。つまり、チャリオットの突撃を部隊の散開によって躱し、その後方から弓などの武装によって攻撃を仕掛けたのである。恐らくは事前の情報やこれまでの戦闘から、マケドニア軍は対チャリオット戦術を磨き上げており、どのような場面においても遅れを取ることはなかったのであろう。
これらの柔軟な対応によって、マケドニア軍に対する有効な戦果を挙げることのできないままチャリオット隊は壊滅することとなる。
さらには、マケドニア軍両翼はその圧倒的な数差にも関わらず極めて堅陣であり、容易に抜かれることは無かった。強いて言うならば、アレクサンドロス本人が率いる右翼騎兵に比べ、左翼を指揮するパルメニオン将軍は劣勢を訴えていたものの、それでもペルシア軍の猛攻をひたすら受け止め続けていた。
ダレイオス三世の予想に反し、戦況は膠着状態に陥る。ダレイオス三世は本来であれば本陣の防衛に充てるはずであった予備兵力の騎兵を動員し、マケドニア軍両翼の騎兵に対する圧迫を増大させようとした。短期決戦によってマケドニア軍を壊滅させようとしたのである。
この決戦から二千年以上もの時が流れた後では詮無い事だが、この時ペルシア軍が持久戦に徹し、その両翼での戦闘を維持し続けていれば、ガウガメラの戦いにおける帰趨は逆になっていたかもしれない。
アレクサンドロスは超人的な直感によりペルシア軍の崩壊を予知した。右翼の防衛に当たっていた自ら率いる騎馬隊を突如ペルシア軍正面へと転換させ、両翼へと予備兵力を割いたために手薄になっている、ペルシア軍本陣のダレイオス三世を狙ったのである。当時、マケドニアの率いる騎兵部隊、いわゆるヘタイロイ騎兵は世界においても有数の練度を誇っており、その突進力は歩兵にとって純粋な脅威であった。ヘタイロイ騎兵の突進により、ペルシア本陣のダレイオス三世の位置を告げる軍旗が大きく揺れる。ペルシア軍を支える精鋭である親衛隊は敢然とその侵攻を阻もうとするが、アレクサンドロスの猛進は止まることはなかった。
やがて、ダレイオス三世の本陣の上に翻る軍旗は逃走を始め、アレクサンドロスはその追撃へと移った。ガウガメラの戦いの勝敗はここに決したのである。
参考文献:ttps://www.youtube.com/channel/UC5dzkTCM0Jxnc5widb8arDw