はてなキーワード: 視覚とは
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.itmedia.co.jp/news/articles/2210/05/news181.html
「数年前なら同じシステムでもAIって言葉は使ってなかっただろ。」
とあるんだけども、槍玉に挙げて申し訳ないんだけども、これはAI技術そのものなんだよ。
というか、これをAIと言わなかったら何をAIというのか、というものなんだけども。
(強いAI弱いAIとかいうややこしい話があって、まだAIはないとかいう議論はあるけども、
とりあえず世の中のAIと言われるものの筆頭技術だよ、という意味で。)
これは、ディープラーニングの物体認識の技術を応用しているんだけども、
その精度がすごく上がって、今では人間が識別するより精度が高くなっている、というもので、
それを応用して、人間が残っていないかを識別できるようにした、という事なんだよね。
だから、バスワードだから、そうじゃないものにも勝手に当てはめてる例はあるだろうけども、
少なくともこれは、そうじゃないのね。って事で。
トップコメの人、消しちゃった。晒しちゃったからかな、ごめんねー。
でも他にも同じような事書いてる人は散見されるので。
それで、センサーとか動体検知のようなローテクでもできるんじゃねって意見はあるけども、
それより人の目でざっと見た方が正確って話もあるんだよね。それだけ視覚情報は情報量が多いんだけども。
それを人の目以上の精度で認識できるようになったから、これだけ持て囃されてるのね。
という意味です。
ブコメに返信
>機械学習とアルゴリズムとディープラーニングとAIと人工知能の違いがわからない
AIと人工知能は一緒(Artificial Intelligenceの略がAI、日本語訳が人工知能)
機械学習は関数のパラメータフィッティングの方法の事、ディープラーニングはニューラルネットワークという関数での機械学習の事
(正確には多層のNNに対してだけど、どこから多層とするかは曖昧だし実質ニューラルで機械学習すればDLって事になってる)
アルゴリズムは問題を解く方法の事で、それをプログラム言語で書いてコンピュータで実行できるようにしたのがプログラム
そしてアルゴリズムやプログラムの中で機械学習やディープラーニングを使ったりする、という関係になるかな。
これで良い?
ごめん、ミスタイプです。出かけ前に慌てて書いたので(なので2重投稿してしまってる)。
申し訳ないけど、そんな余裕なかったです。単なるミスタイプです許して。
だからゴメンて。いっぱい指摘されてかかってるの気づいたよ。
あれ? 第三世代じゃなかったっけ?
(推論と探索が第一、エキスパートシステムが第二で)
>AIという言葉にいろんな色付けをして使いまくった結果、本来の使い方をするとツッコミが入るパターン、よくある。
それは確かにそうなんだけども、言葉流行っちゃうとしょうがない部分はあるのと、AI自体が定義が定まってない用語なんでね。
>実際にAIが使われているか否かではなく、一昔前なら人体検知機能とか命名してAIを主題にもってこなかったよねってことを言いたいのでは?
それはそうかもしれない。でも「本来AIではないものにまでAIという用語が使われている」ってニュアンスはあったよ。
(今残ってるコメントにもそういうの散見するし。意味なく名前だけ使う、とか。)
それに対して、DLの物体認識は今のAIブームのど真ん中だよって指摘したかった訳です。
>物体認識に深層学習を使ってるだけなんで「人工知能」でないことは明白なんだけど
今は深層学習(ディープラーニングの事ね)使えば人工知能って事に普通はなると思うんだけど、「明白」なんですか?
逆に何ならAIになるか、聞いてみたいです。
みたいな話を聞くんだが、俺の場合はその両方なんだよな。
目の前にあるものを直接見るというより概念だけを見ている感覚だ。
まあ夢の中にいるとある種の催眠状態にあるからそれに違和感はないんだが、思い出すとあのボンヤリした世界に対してリアリティを感じていたのが信じられない。
実際どうなんだ?
教えてくれ
『北斗の拳』が大ヒットした当時、学校の見学旅行でプラネタリウムを訪れたことがある。その際に、解説役の女性ナレーターが、おおぐま座・北斗七星について語る場面で「誰ですか?『死兆星が見える』なんて言っている人は」とジョークを挿入してきたことを、場内が爆笑の渦に包まれたことと共に、今でも記憶している。
『北斗の拳』がヒットして以降「北斗七星は死を司る星辰(星座)」という認知も、神話伝承にそれほど明るくない人々にまで普及した。特に、プラネタリウムでもジョークに用いられた「死兆星」は、たとえ天文学的な正式名称(ミザールとアルコル)を知らなくても、当時の少年ジャンプ読者で知らぬ者はいないと言っても過言ではない。
この北斗七星の柄杓の柄の端から2番目の星が、二つの恒星から成ることを見分けられるか否か、それを尋ねることで兵士の視力を検査するという手法が、古代エジプトでは採用されていたという。しかし、古代エジプト人が寿命の長短を判定するのにこの二重の星を利用していたか否かは、寡聞にして知らない。西欧の星座伝承の大部分は、古代エジプト以外で言えば、古代バビロニアや古代ギリシア・ローマ等に起源を持つと思ってさほど間違い無いと思うのだが、これらの方面でも寿命の長短を見分けるのに使われたという形跡は、今のところ見かけた記憶が無い。単に私が不勉強で知らないだけかもしれないので、有識者の意見を知りたいものである。
死兆星の元ネタとして、とりあえず直ぐに思いつくのは、この二重の星が日本では民俗的名称として「ジュミョウボシ」と呼ばれていたことであろう。この名称を個人的に初めて知ったのは、星空に関する多数の優れた本を著し、我が国における少年少女の天文ファンの数を増やすことに貢献した、作家・野尻抱影(SF作家・野尻抱介のペンネームの元ネタである)の本で読んだ時であった。野尻抱影の本には、次のようなことが記されている。
この名の由来は、二重の星を見分けられなくなった者は、それから遠からず一年かそこらで、御迎えが来ることから付けられたものらしい。主に、漁業従事生活者たちの間で用いられていた名称のようである。海上での航海が主要な部分を占める漁業において、視力の良さは要であった。そのため、視力の衰えは即ち食い扶持を稼げなくなることを意味し、そこから、星が見えなくなることで寿命が来たのを悟るという話になったのであろう、と。
つまり、ジュミョウボシは、死兆星とは正反対に、見えなくなることが死の予兆というわけである。おそらく『北斗の拳』の作者たちは、星が見えなくなるよりも、見えるように変化するという現象にした方が、視覚的に表現することが容易である(見えない星では絵に描けない)という漫画表現上の要請から、これを改変したものであろう。
これ以外に、北斗七星が人間の生死に関わる星辰として語られる起源を遡れば、中国は東晋の時代の人・干宝が著したとされる志怪小説『捜神記』に収められた物語に行き着くことになる。
原典の漢文を読んだわけではないし、若い頃に読んだ日本語訳(私は平凡社東洋文庫で読んだ)の記憶を掘り起こすだけだが、おおよそ次のような物語である。
「或る農夫が、息子と共に畑仕事をしていたところ、その傍らを方士が通りかかった。方士が、農夫の息子の相を見て『この子は、このままでは十六の歳で死んでしまう』と彼らに伝えた。驚いた農夫が、方士に『それを避けるためにはどうすればいいのか』と尋ねると、或る策を授けてくれた。方士の言葉に従って、農夫は、用意できるだけの酒と干し肉を携えると、南の畑の桑の木が植えられた場所へと赴いた。
方士が教えてくれたとおり、南の畑の桑の木陰では、二人の老人が囲碁に打ち興じていた。囲碁に夢中になっている老人たちは、農夫が傍に来たのにも気づかない様子であった。方士に言われたとおり、農夫は無言のままで、酒と干し肉を老人たちの手元にそっと差し出した。碁を打ちながら老人たちは、差し出されるままに干し肉を食べ、酒を飲み続け、農夫はお代わりを差し出し続けた。さんざん飲み食いし終えた後で、ようやく二人の老人は、農夫の存在に気がついた。
二人のうち、険しい顔つきの老人が『何者だ貴様は?いつから傍にいた?人間が儂らの傍で何をしておる?』と責め立てたが、方士に言われたとおり、農夫は平身低頭して無言を貫いていた。すると、柔和な顔つきの老人が『この者が振る舞ってくれた酒と干し肉を、儂らは楽しんだのだ。そう怒るな』と、怒る一人を宥めた。そして『この者に、酒と干し肉の返礼をせねばなるまい』と柔和な顔つきの老人が言うと、険しい顔つきの老人と共に何やら帳面を捲り、農夫の息子の寿命が『十六』と記されている箇所を彼らは見つけ出した。険しい顔つきの老人が、渋々それを『六十』と書き換えると『これでよかろう。もう去れ』と農夫に言い渡した。農夫は無言のまま、二人の老人に頭を下げて感謝の意を示すと、その場を去って家に帰った。
家で待っていた方士に農夫が一部始終を伝えると、方士は『これでお前さんの息子は、もう心配が無い』と言った。農夫が『あの人たちは何者なのですか?』と尋ねると、方士は次のように語った。
『あの者たちは、北斗と南斗である。柔和な顔つきの方が南斗六星、険しい顔つきの方が北斗七星である。人は南斗から生まれ、その生涯は星々の間を辿り、北斗へと還る。それで、人が寿命を延ばすためには、北斗に祈りを捧げねばならないのである』と」
現代人の目から見た感想を率直に言えば「これ、お人好しの農夫が、単に詐欺に遭っただけじゃねえか?」と思うところであるが、それは置いておく。
天空の天体、太陽や月や星や星座の動向が、地上世界で生きている人間に影響を及ぼす、或いは逆に、人間の運命その他の動向が、星など天空の現象に反映されるという考え方は、洋の東西を問わず広く見られる文化現象である。そういう意味では『捜神記』の物語も、ごくありふれたものだと多くの人は思うかもしれない。
しかし、私が『捜神記』の物語を面白いと思うのは、最終的に北斗七星と南斗六星のように夜空で目立つ星座が重要な役目を果たすにせよ、社会的に見れば無名の人にすぎない農夫の息子のような人間にも、個別に対応するような名も無き天空の星が存在しているという考え方を示している点である。
古代ギリシアには、現代の民主主義政治の源流があったけれども、無名の市井の人であっても天空の星との結び付きを得ることが出来る、という古代中国のような発想には至らなかったようである。してみると、天空の星との結び付きに関しては、古代ギリシア・ローマは、神話の登場人物レベルの選ばれた者にのみ許されるという選民思想だったわけである。そう考えてもらえれば『捜神記』の物語のユニークさを分かってもらえることと思う。
北斗七星・おおぐま座のように、明るくて目立つ恒星とそれらが形作る星辰(星座)は、自然と人目を惹くものだから、古今東西の人類の記録に残されている。金星・火星・木星などの惑星もそうである。太陽や月は言うまでもない。しかし、観測技術が発達するまでは、星辰(星座)の構成員になるほどの明るさを持たない目立たない星々のことは、一々観測して天球上のどの位置に存在するのか、動いているのかいないのかと確かめることは非常に困難であったことは想像に難くない。しかし、事実として夜空には、命名も位置確認も追いつかないほどの無名且つ無数の星々が存在することを、昔の人は知っていたのである。科学的な知識を持つ我々現代人よりも、むしろ昔の人々の方が、実感としてそれを知っていたはずである。現代の文明社会のように至る所に夜間照明がある条件下とは異なり、太陽が沈んで「本物の夜の闇」に包まれて空を見上げた昔の人々の肉眼には、文字通り無数の星々が見えたのだから。現代人も、もし口径が大きい双眼鏡の力を借りて夜空を眺める機会を得たならば、その時は、名前も知らない星々の多さを実感して驚くことだろう。私は今でも時々、双眼鏡で星空を見て感嘆する。
こういった、存在することは分かっていても昔の技術では天球上の位置を確定することが困難であった無数の星々については、占術師たちが「実は、天球上の無数の星々は、消えたり現れたり移動したりしているのだ」と主張したとしても、民衆も確認しようが無く、比較的簡単に信じてもらえたことだろう。恒星の間を動き回る「惑星」、何処からともなく現れる「彗星」、明るさの変化する「新星」など、変化を示す天体現象が現実に見られることも、占術師たちの主張を補強してくれたに違いない。
ただし、庶民が自分個人の運命専用の星を天空の何処かに持つことができたとしても、自分の意志でその星を動かせる訳では無い。天空の星の動きでも人生でも、同じことである。王侯であろうと庶民であろうと、現代人であろうと昔の人であろうと、人生を己の自由にするというのが困難なことに関しては、立場は同じである。自分の人生がままならず、自由意志で動いているのではなく、自分以外の超越的な何者かによって動かされているのではないかと感じるという感覚は、古今東西の汎ゆる宗教的な思索の出発点となる。
この何者かに動かされているという感覚を『捜神記』の筆者は、南斗・北斗の両老人が打つ囲碁の対局という形で表現している。つまり、ここでの囲碁の盤面に配置されている碁石とは、夜空の無数の星々の象徴ではあるまいか。将棋やチェスの駒とは異なり、碁石は没個性的である分だけ、名も無い星に擬えるのには都合が良い。囲碁という遊戯の起源がどのようなものであるか、それを現代人の我々が確実に知ることは不可能であろうが、もしかしたら、星々の配置を操作することによって人間の運命を変えようと働き掛けるような、呪術的儀礼としての遊戯にその起源の一端を持っているのかもしれない。
もっとも、これはあくまでも個人の勝手な空想に過ぎないので、南斗六星から北斗七星へと星空を動くというのであれば、この場合には囲碁よりもむしろ双六の方が象徴的な遊戯には相応しいのではないか、といった具合に幾らでも異論を唱えることは可能と思う。
それに、南斗と北斗の囲碁の対局結果は語られていないので、囲碁の対局によって星々が動かされ、運命が左右されるという仮説は、正直に言えば我ながら牽強付会であることは否めない。まあしかし、たとえ学問的専門家ではなく、実生活に役立つわけではなくても、こういった空想をすることは非常に楽しいので、なかなか止められないのである。
農夫が酒と干し肉を提供した行為が、祈願の対象である神への御供え行為であることは無論言うまでもないが、この他にも、無言を貫くという後代の神事や魔除けにおける物忌と通底する行為が見られる点や、南斗・北斗の翁神に邂逅する場所が霊樹の一つである桑の木の傍である点など、興味を惹くところがまだまだある。いずれまた暇を見つけて『捜神記』を再読してみようかな。
これ俺もまったく同じで、全部文字の情報としてそのまま頭の中に入ってくる。
友達の話聞いてる時にいちいち頭の中にデティール思い浮かべたりしないように、
友達はこの真逆で、全部描写が頭の中に勝手に構築されるので小説が読みづらい。
例えば「私はその部屋でまんじりともせずにただ椅子に座っていた。」みたいな文章があったら、
部屋の広さや机や椅子の形が自動で頭の中に出てくるので、その後の描写で椅子の形や部屋の調度品とかに言及されると、
いちいち頭の中にある部屋を修正しなくちゃいけないので面倒だから小説は好きじゃない、って言ってて、
旧字で旧仮名使いの古い本を読むわけでもないのに、どうしても活字の本の中での描写が頭の中でイメージしきれない。
読めない本の種類としては圧倒的に小説が多い。
一番の問題は、風景などの視覚的な描写を頭の中でしっかり思い浮かべるのができてないことだと思う。
知識が足りてないという事もあるし、ひとつひとつのパーツは理解できてもそれを頭の中で映像化するのが難しいのだ。
例えば
私は墓地の手前にある苗畠の左側からはいって、両方に楓を植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。 するとその端れに見える茶店の中から先生らしい人がふいと出て来た。
夏目漱石はかなり分かりやすい素直な文体の作家だと思うけど、自分にはこういったちょっとした描写ですらイメージするのが難しく感じる。
墓地は思い描ける、苗畑は普通の畑とは違うのか?と不安になったのでググった画像で補完するがまあ大丈夫。
楓、広い道、茶店、どれも単体では想像できるけど、問題はこの光景が俯瞰で見えない、地図のように絵を描こうとしてもかけないのだ。
まず「左側」でつまづいて、苗畑と広い道の位置関係もわからない。
漫画ならこれらが全て背景絵として描かれてると思うので、なんの引っ掛かりも感じないだろうと思う。
小説だと光景を事細かに描写する必要もない場合もあるわけで、そういう時はある程度読者が好きにイメージすればよいんだけど、自分の場合あまりに曖昧にしかイメージできなくてその場面の全てがぼんやりしたものになってしまう。
小説自体は、場面ごとの描写がはっきりと頭の中で映像化できてなくても読み進めることはできる。
でも頭の中で映像化されていないとぼんやりした空間に登場人物がそれぞれ現れるだけという味気ないものになる。
ミステリー小説なんかでトリックとして建物の構造だとかが描写されてる時もだいたいよくわからない。
特に空間把握能力が著しく欠けているのかなとも思う、実際地図を読むのは下手だし方向音痴だし。
ただそれだけじゃなくてちょっとしたディテールとかも掴めない事が多いし、それが気になって中々先に進めなくなったりする。
小説の中で描かれる描写が、全部ちゃんと自分の頭の中で思い浮かべることができたらどんなにいいだろうと思う。
でもどうしてもそれができなくて、結局集中しきれず最後まで読みきらないことが多い。
子供の頃からあまり読書はしてこなかったし、漫画ばかり読んでいた。
今は漫画はたくさんあるから漫画でいいじゃんと開き直ってもいいんだけど、やっぱり小説をもっと読み込めたら楽しいんだろうなと思う。
なにか特訓の方法などあるんだろうか?
追記:
コメント色々ありがたい。
一番驚いたのは「そこまでイメージする必要はないのでは」という意見が多いことだった。
みんな小説など読んでる時は頭の中である程度具体的にイメージしながら読んでるものだと思いこんでいた。
ただ、言われてみれば登場人物の顔はおぼろげなまま読んでるのにそこは気になってないとか、自分の中に矛盾もあることに気づいた。
アファンタジアではないかという意見もあり、初めて知った言葉だけどこれも興味深かった。
自分がアファンタジアかどうかは分からないが、記憶をイメージとして思い出すことはできるので、そういうのとはちょっと違うのかもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=_R-tN9l6onQ
ゲーム的に出来ない事が作られるんだけど
それくらい乗り越えろよとか
そこに落ちてるやん拾えよとか
さりとて、出来るようにすると、スカイリムやFalloutみたいになる
そこらにあるものがオブジェクトとしての判定と、他人の物としての犯罪判定をもってて、ちょっとした誤爆でNPCが敵対、阿鼻叫喚とかなりがち
あと、人の家に入って箪笥を開けるとか壺を割るとかが、ありえなくなる
こういうの、ゲームとしてのデフォルメ感を残すべきものと、そうでないもの
きちんと分けて考えるべきで
ドラクエ的なやり方が良いと思ったりしている
勝手に自縄自縛で制作環境を上げて、コストのわりに売れないと嘆き
ゲーム作りは大変になったと嘯くくらいなら
スプラトゥーン2から始めてずっと一人で遊んでいたのですが、3が発売されてから周りの友人がこぞって購入し「勝てないんだけど!」と相談を受けてました。
今作から便利なメモリプレイヤー?なるものが追加されているので、それで始めたばかりの人たちのプレイ画面をいくつか見ていたのですが共通点らしきものがあったので書きます。
ちなみに書いてる自分は前作最高XP2600超えたぐらいです。めちゃめちゃ上ぶれてそれなので、普通だと24ぐらいな気がします。
※母数に関して、具体的には3です。
全員上向き過ぎで、足場が殆ど見えてないような状況になっていました。
これはエイムがいらない武器と言われて、ヒッセンやホクサイを勧めた結果、インクをかけるようなイメージで武器を使っていたのもありそうな気がします。
塗るゲームという意識が高すぎてか、塗範囲を広げるために最大限敵陣にインクを出すために前に出すぎているようなことが多かったです。
基本的には自分の視覚内に味方が見えている状態を維持したほうが良いと伝えました。
塗るという行為のリターンが明確すぎるあまり、TPS,FPSの基本である待ちが出来ていなかったです。
HPがプレイヤーごとに変動しない以上、武器性能を加味しなければ最初に攻撃を当てたほうが打ち勝てるゲーム(対面能力が同じとして)なので、敵位置の把握および敵に位置バレしないことは重要と考えています。
ケースバイケースでの判断は初心者には難しいと思い、敵全員の位置がわかるまでは塗りの境界線に近づかないように伝えました。
この2つなのかなと思いました。
ジャイロ慣れはプレイし続けるしか無いと思いますが、敵位置の把握は塗る時間を削って見る時間を増やせば少なからずなんとかなるかなと思い、そう伝えました。
自分も昔は初心者だったはずですが、何年も経つと自分がどんなだったか思い出せず、スプラトゥーンがアドリブを必要とするシーンの多いゲームでもあり適切なアドバイスが難しかったです。
なにかあれば教えてください…!
HSPはHighly Sensitive Personの略で
ざっくり言うとめちゃくちゃ刺激を受けやすい人、繊細さん(笑)って感じ
慎重に行動してしまう、人に気遣いすぎてしまう、些細なことで悲しくなってしまう、感情移入しすぎてしまう…だから辛い…ってアピールしてる人が多い
いつも思うんだけど、「僕・私はHSPなんです」って人に言えるやつって自分の図太さに気付いてないのか
ガチで苦しんでる人もたくさんいるだろうが、ほとんどは環境に適合する努力をしないorできないだけなのにまるで周りが図太い・自分は繊細だと自分を正当化し、人の悲しみを案じて寄り添うというよりもただ勝手に自分ごとにして勝手に悲しんでるだけのお子ちゃまばっかり 何の役にも立ってない
mimicなるものが、今Twitterで物議を醸している。タイムラインに浮上するくらいにツイートされていると言うことだ。その中で一つ唸ったツイートがあった。「果たして二次創作をパロディの形で書いたり自身のエゴを満たすのに何の違いがある」とのツイートだ。全員が全員、イラストレーター全員が二次創作で私腹を肥やしたりエゴを満たす訳ではないだろう。中には姉なるもののような、正に理想の姉を描く素晴らしいぽち。先生や単純なラブコメでは説明できない、男女間の性に根差した秀逸なラブコメを描く西沢5㎜先生や、最高に素晴らしい関係を独特で流麗なイラストで描くmatch先生のように、少し思い出しただけでもざっと列挙出来る神クリエーターがいるのは承知している。
が、印象論で語るがコミケのコミックブースでは一次創作ではなく、二次創作で溢れているように見受けた。性質上有志による有志の為の、とまさに趣味性をコミケ全面に押し出している訳だが実際は金をやり取りして、要は商品として作品を扱っている。純然なマーケットである。印刷代の為との反論の向きはあるだろうが、私はなぜ二次創作を電子配信では無料で放出しない、と反論する。別の言い方をすれば、他人の褌で相撲を取るような連中の集まりだと言える。
二次絵ではない戦艦に関する考察本、或いはマイナーな民俗学を扱ったような、実にオリジナルとしか言えないものは本趣旨から完全に外れるのでここでは扱わない。
要はこの問題は、言うまでもないだろうが生活の糧を失いかねない人々の叫びだ。この生活の糧とはイラスト、及びそこから出る利益、である。
が、これは私の完全なる愚痴になるがAV新法が制定されたときイラストレーターは声を上げなかった。それは何故か。自分に降りかかる火の粉が無かったからだ。法律が縛るが故生活の糧を失いかねない人々に声を上げなかった者、その一部が今度は法律が見逃すが故に生活の糧を失いかねない状況に陥っている。世界から目を背け、自分の世界に籠ったが故に危機を察知出来なかった者の末路だ。
ここで私は富野由悠季の言葉を思い出す。漫画業界は、漫画しか興味がない者の集まりです、と。拡大解釈するが、ただの絵を漫画とするならストーリー性を持たせられない者が今回の被害者、となる。遅かれ早かれストーリーテラーそのものもAI、計算機に淘汰されるかも知れないが、これも本趣旨ではないので放置する。
私自身はイラストで食っている人間ではないが、各方面から集中砲火を受けることだろうと覚悟して敢えて言う。「予期出来なかったにせよ、AI如きに取って替わられる仕事を選んだのが悪い」と。また富野由悠季の言葉を引用するが、エンジニアとは元来作ったものが未来どう影響を与えるか、とかは一切考えない人間の集まりで、その最たる例が車でありFacebookでありTiktokでありTwitterであるのだろう。それが偶々イラストに波及しただけの話だ。
更に言うならば、かなり大きく乱暴に括った上で語れば、イラストとは情報である。線が複雑に絡み合って視覚情報に訴える、そのことこそがざっくりと言って情報そのものだ。そもそも情報自体が一種のお布施文化なのである。元々が消費者側のチップにより生活をする、昔で言えば観阿弥世阿弥の構造であろう。或いは新しい作品であれば犬王に近い。言ってしまえばチップで生活を営むものが現代のクリエーターなのである。
梅棹忠夫先生の言葉で語るのならば、農業、工業と二つの時代が代替され、到来した精神産業の時代が今なのである。そしてここからは私の言葉になるが、恐らく精神産業は次の産業に移り変わらねばならない。もう既にデザインの時代は終わったか、終わりが目の前にまで来ている。
イラストを単体で考えた上、頭の中で完結する可能性が極めて高い商品と言える。人間が見、脳に億のイラストを放り込み感覚器官で入出力を繰り返した結果生まれ確立されたもの。楽器演奏とDAWの関係に似ている。私は無知であるのでDAWが出てから食いっぱぐれたスタジオミュージシャンがどれだけいるか知らないが、それでもあらゆるデジタルエフェクトが開発され、果てはDAWで完結したホームレコーディングの作品がグラミー賞を取り、そのアーティストが007の主題歌を歌う現代でも、スタジオミュージシャンからDAWが音楽シーンを破壊した、或いは食いっぱぐれたなんて訴えるのは寡聞故か聞かない。
それでも音楽が今も、昔の勢いこそ削がれたが存在するのはオリジナリティ以上に、アイデアが重要視されるからだろう。今もyoutubeを覗けば昨日アップロードされたばかりの二重の意味で新鮮な音楽に巡り合えることもあるのだから。
問題はそもそもない。デジタルの恩恵に与り生活の糧を得てきたイラスト、画風なんて人間が模倣できるものを売り物にした産業構造、それに乗っかったイラストレーターがいるだけの事だろう。その産業構造の中で生じたmicmicなる癌細胞が産業全体の破壊に掛かっているだけのことだろう。もう次の産業モデルを考えねばならない時代が来ている。
私は予言する。micmicが我々の声で死滅させられたにしても、十年以内にまた、今度は別の強敵となってもしかしたらストーリーテラーでさえも呑み込む強度に成長して広義のコミック文化を破壊しに来る。それよりも少し遠い未来その流れはもしかしたらアニメーションにまで来てしまうのかも知れない。個人の解剖が、趣味や性格の傾向さえも分析される進んだ未来、個々人向けにカスタマイズされた娯楽を一つ一つ出力する未来が必ず来る。そこでは現代我が物顔でマーケットを荒らしまわるディズニーでさえも、単なる人間による珍しいスタジオの一つとして扱われる。特定の個人が最もドーパミンの出るシーンを映すことに特化した、娯楽に特化したAIが確実に出現する。無論、マーベルもDCも太刀打ち出来ない。
それを前提とした上で、漸く本題だ。以上は前置きである。ここまで読んでくれた読者諸君に敬意と心からの謝意を表明する。そしてここから先は、与太話がたんなる一つのアイデアだと思って読んでもらいたい。私には才がないから、実現する力はない。これに触発された、いるか解らない若い君に実現の道を切り開いて欲しい。私にはその時間が割けないので。
例えばArtist Shareと言うものがある。クラファンのアーティスト版と言ったところか。そう言うものを作ればよい。そこでは中抜きを極力排して、要はコミケのオンライン版のように運営にかける費用は抑え、出来るだけイラストレーターや漫画家に支払われる額を大きくする。Boothやfantiaのように、単なる消費者-クリエーターの関係を越えて、youtubeの投げ銭のように金持ちの消費者は好きなクリエーターに幾らでも投げ銭が出来る、その代わりに審査を厳しく、micmicのような精神産業破壊AIの会社と密に連携し、売られた作品を一度AIか人間かどちらでも構わないが審査解析を行い、過去の他人の作品をAIに掛けて描かれていないかを厳密に判断するシステムを作る。人間の描いた作品のみを取り扱う、それを可能にするシステムを構築する。可能ならば、有志達が本気ならばそこに参画したクリエーターを保証する為に、歴史から引用すればメディチ家のようにそのシステムの消費者全員、それは全世界さえも包括する億単位に達するか解らんが多くのスポンサーを受け入れる。その為に出来るだけ多くの言語圏に届けるために翻訳陣を用意する。勿論、ここでAIのGoogle翻訳のような機能を使ってはならない。我々の優位性が失われるし、各文化圏に最適化される必要があり、それは恐らく未だAIでは実現出来ないだろうからだ。まさかエロ漫画のようなオホ声が例えばイスラム圏に最適化されるライブラリは未だAIにはない筈だ。人間の生きた脳で翻訳が必要だ。
エロにフォーカスし過ぎた。エロだけではない、例えば今なろうが流行しているらしいが、そのテキストさえも、要はイラスト、ストーリー、果ては音楽も包括した組織が理想ではあるが、果たしてその組織が正常に作用してくれるかは私の頭では想像できない。要は作品として一から終いまで完結出来るだけのシステムを整える必要がある。
この、Micmicのような精神産業破壊AIは、法律や倫理で縛れるものではないことを前提としなければならない。幸いAV新法のように、今回は法律が縛るのではなく、むしろ縛るものがない。そこを利用し、利益を齎すシステムを作る必要がある。
だが陥ってはならない罠がある。最近で言えば確かネトフリが振るわない番組を製作途中で打ち切った、なんて報道があった。それはプロの観点からである。欧米の道徳である。利益重視である。それはクリエーターが下すべき判断であって、マネージメントの側からは判断してはならぬのである。
現代は高度に断片化され過ぎた。あらゆる音楽で言うところのレーベルが乱立している。集英社だけでも四つ以上はある。私の幼少では考えられぬことだった。
とは言え、現代では資本が全てなのが痛いところだ。暗号資産のように、純粋に資本とは言い難いものをベースにするわけにもいかない。何しろクリエータの生活が掛かっている故に、浮ついた貨幣を用いてはならぬので。
先に述べたシステムを生かすのならば、ある程度の出版社の力が必要となる。が、決してコミケのオンライン版と直接に結び付けてはならない。幾ら有志とは言え、ある程度以上となれば確実に企業としての体が求められるし、資金調達が出来なくなる。そうと言っても、本体と利益重視の団体と結び付けては、組織としての気風が崩壊する。それ故下位組織か、いっそ別組織で結びついた方がよい。
何よりも絶対にしなければならぬのが、出版社優位のシステムには絶対にしてはならぬことだ。私は出版業界は知らないが、組織化された集団は必ず利益の下に腐敗することを知っている。もう、出版社は腐敗していると言ってよい。が、彼らの力が最終的に必要になるのも現実だ。
それは考えねばならぬことであるが、現時点では解を得られない。君たち、読むか解らないが若者の頭で、考え出して欲しい。
些か理想に走った青写真であるのは認める。が、私が何よりも言いたのは、積極的に自衛手段を編み出さねばならない、と言うことだ。出来てしまったのは仕方ないし、事実この世界は自動化、効率化の下進んでいっている。それに抗うのは無理だ。第二第三の者が来る。それに対抗するには流れを利用する。幸い現代は資本主義が揺らいでいる。既存の資本構造が正解とは限らない。使える手段は全部使え、自ら生存の為に。それが君らの世代では可能なはずだ。嘆き悲しむのは誰にでも出来る。質で来るなら量で抗え、君らにはそれだけの頭数がいる筈だ。私は知恵が足りぬので出来ず残念だが、君らでも知恵が無ければ最悪大学の先生を使え、使えるものは親でも大学教授でもなんでも使え。