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はてなキーワード: 西安とは

2020-05-15

こじるりちゃんと生年月日が同じ

12月23日まれの顔触れはなかなか豪華だ。

まず何といっても、上皇陛下あなたのおかげで、20余年間僕の誕生日は毎年休日でした。

再度祝日になるのは陛下がお隠れになってからというのが、なんとも複雑だ。どうか長生きしていただきたい。

次に、山崎まさよし兄貴子ども音楽的嗜好は、親が車内で流す曲によって決まる。

母はさして音楽に興味がなかったのに、なぜか兄貴アルバムドミノ』が置いてあって、惰性のようにかけていた。

「僕はここにいる」なんかを聴くと、今でも胸がキュッと締まる。好きな子CD貸したりしたなあ。

残念ながらまだライブに行けていない。いつまでもその甘く鋭い声を聴かせてください。

さらに、倉科カナさん。可愛い女優の尻を追っかけている僕にとって、最初ミューズになった人だ。

深夜に何となくテレビを点けたら、あるドラマが流れていた。甲斐性なし片桐仁が営む喫茶店で、チャキチャキ働く女の子

まぶしい笑顔と、はち切れんばかりにたわわなお胸。極太の眉毛チャーミングだ。メロメロになった。ほぼ毎日ブログをチェックしていたっけ。

(「根津サンセットカフェ」という超短編ドラマ熊本から上京したての頃の初々しい姿が収められている。蒲田TSUTAYAレンタル落ちDVD投げ売りされていたので確保した)

その後の演技派女優としての活躍ぶりはご存じの通り。特に名前をなくした女神」での性悪ヤンママ役には目を瞠った。

最近舞台に重心を置いているのか、映像作品が少なくなっているのでさみしい。お元気でしょうか。

本人はちょっと嫌かもしれないけど、深キョンみたいにグラビア復活してくれないかなあ。

そして、小島瑠璃子ちゃん。これは最近知った。ウィキペディアの「12月23日」のページで見つけた。

通常なら、ほーんと悦に浸る対象が増えて満足するところだが、今回は事情が異なる。

小島瑠璃子1993年12月23日まれ、26歳。僕と同じ生年月日だ。

この事実を知った僕は、ひどく落胆した。

片や、抜群のトーク力でバラエティ番組に引っ張りだこで、小麦色のムチムチボディで日本中男子を虜にする26歳。

片や、東京で夢破れ都落ちし、地方都市の湿気た会社でのブルシットなジョブに消耗する浅黒い26歳。

僕たちは同じ日に生を受け、よーいドン‼でスタートした。それなのに、どうしてこうも差がついてしまったのだろうか。

それ以来、テレビ雑誌彼女を見かけると、脊髄反射で溜息をつくようになってしまった。

こんな似ても似つかぬ二人だが、一つだけ共通点がある。中国語勉強していることだ。

https://www.youtube.com/watch?v=ZsFApxMqYWM&vl=ja

彼女努力の人なのだと思う。多忙だろうに、1年間の勉強でこんな綺麗に発音できるのはすごいよ。(特に"湯"がちゃんと"-ang"になっているのが很好)

しかも始めた動機が「西安料理がめちゃ旨かったから」で、将来の夢は「湖南省テレビに出ること」っていうガチぶりがまたいいよね。

営業目的で雨後のタケノコのように微信を開設するAV女優とは大違いだ。蛇足失礼)

もう勝手に落ち込むのはやめた!

こじるりちゃん、同じ日に生まれた一人として、ちょっとでも君に追いつけるように、僕もがんばるよ。

応援してます

2019-10-24

anond:20191024170355

西安出張の話があったら目を輝かせて大きめの声を出して立候補しそう

2019-04-13

西安

あのな、おれおまえのえとまんがすきなのよ

でもね、いっこだけゆるせんことがあるの

なにかっていうとな、

ろりものJKもの単行本人妻みたいな年増ものの話をいれんなってこと

まじでなえるから

そういうのはそういうのでまとめてべつで本にしろ、な

おまえがぺどからおばさんまでかけるのはよーしっとから

ほんまたのむわ

2019-03-21

anond:20190321091125

現代近未来舞台SFを書いても、それは和風にはならないのではないか

和風……明治よりも前に時間を戻す。そこから西欧化しない歴史時間軸を設定し、SFといえるような科学技術の発達を加える。

明治から西欧化なしに、科学技術が発達する未来を描くのが難しいぞ。

セイバーマリオネット SFである移民船の生き残りの一人が「日本人」そのクローンによって構成される都市国家江戸時代である

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88

22世紀末、人口増加に苦しむ地球から新たな天地を求めて外宇宙に乗り出した宇宙船団の船の一つ恒星移民船「メソポタミア号」が惑星テラツーに不時着し、生き残ったのは徳川家安、ゲルハルト・フォン・ファウストアレクサンドル・キーシンジョイヒューリック、王庸平、ヴィレイ・メディチの6人で、女性がいないために彼らの細胞からクローン技術で子孫を作り、都市国家建設した。

惑星テラツーの都市国家日本江戸時代モデルにした「ジャポネス」、ナチス・ドイツモデルにした「ゲルマニア」(アニメではガルラント)、ロシアモデルにした「ペテルブルグ」、アメリカモデルにした「ニューテキサス」、中国モデルにした「西安」、イタリアモデルにした「ロマーナ」の6か国が存在する。

2018-09-27

anond:20180925183624

麻婆焼きそば ×

1970年代前半に、仙台市内の中華料理店「まんみ」にて賄い料理として提供したのが始まり

//ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%BC%E7%84%BC%E3%81%9D%E3%81%B0

せり鍋 ○

河北新報の「仙台やすこ歩き」によると、

発案者が思いついたのが10年前と言っていたので、

2000年代の真ん中から広まったのではないでしょうか?

//detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11156573366

ただし他にも元祖を名乗る店がある。

チーズタッカルビ

16年2月に「チーズタッカルビ」を発売

//www.itmedia.co.jp/business/articles/1802/20/news021.html

塩焼きそば ×

1959年 4月

清ちゃん1959年4/10開店となる!

ここから小松名物塩焼きそば伝説が産声をあげる!

//www.sio-yakisoba.com/

ツナマヨおにぎり ×

1983年(昭和58年)に「ツナマヨネーズおにぎり」を発売

//q.hatena.ne.jp/1256202677

パン

14〜15年前ですかね。パンって、夏は本当に売れないんですよ。暑いからみんなソーメンを食べたり、おやつスイカになったりしてね。なんとか夏に売れるパンができないかなぁと思って開発したのが、塩分補給もできる塩パンだったんです

//tabi-labo.com/287605/painmaison-yawatahama

2018年のインタビューなので2003年頃か。

ししゃもっこの軍艦

1970年代以降、シシャモ代用魚として輸入が急増

//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%B7%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%A2

寿司メニューになった時期は不明

豆乳鍋

当店が1991年に開発したオリジナル

//irori.owst.jp/foods

ただし他にも元祖を名乗る店がある。

おにぎらず

【第22巻・第213話】いま話題おにぎらずクッキングパパ発祥

//cookpad.com/recipe/2831394

第22巻は1991年発売。

フルーツグラノーラ

91年にフルーツを加えた「フルグラ」(当時のブランド名は「フルーツグラノーラ」)を発売

//www.cross-m.co.jp/column/insight/insight82/

恵方巻 ×

1970年代半ばからマスメディアに取り上げられるようになり、以降は再び定着するようになった。

//ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%96%B9%E5%B7%BB

ご存知のとおり発祥には諸説ある。

魚のカルパッチョ ×

落合「僕が帰って来たのが1981年で、前のお店を開けさせていただいたのが1982年ですから

(中略)

干場「実は、魚のカルパッチョを作ったのは落合さんなんですか!?

落合「実はそうですよ(笑)

//www.tfm.co.jp/cruise/index.php?itemid=91890

1982年に魚のカルパッチョを作ったとは語られていないが、近い時期であることが示唆されている。

塩麹 ×

古くは本朝食鑑の鱗部の巻「鰯」の箇所に「或有甘塩者有糟漬者有塩麹漬者号曰黒漬」という下りがあり、「塩麹漬」という文字列が見られる。

//ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E9%BA%B9

本朝食鑑は1697年刊行

レバ刺し ×

日本人はいから牛の生肉生レバーを食べるようになったのか。

焼き肉などの食文化に詳しい滋賀県立大鄭大聲(チョン・デ・ソン)名誉教授は「戦後在日韓国朝鮮人が家庭で食べていたもの焼き肉店で出すようになり広まったのではないか」という。

//sankei.jp.msn.com/life/news/120428/trd12042822020023-n1.htm

万葉集内臓生食示唆する歌があるとの話もあり。

魚介つけ麺

つけめん」が定着するきっかけとなったのは2000年頃からのことです。つけめんの考案者である東池袋大勝軒の店主 山岸 一雄氏のお弟子さん達が独立し始め、大勝軒系列の店が増えたこと、大勝軒常連から人気店になった「べんてん(高田)」、「道頓堀(成増)」といったお店が繁盛したこと、そして川越にある「頑者」が「自家製極太麺×魚粉×濃厚つけだれ」という新しいジャンルつけめんを生み出したことが影響し大きなエポックとなりました。

//web.archive.org/web/20130622095039///www.asahi.com/business/pressrelease/ATP201005190013.html

サーモン寿司 ×

プロジェクトが始まったのは86年。当初の計画では、輸出の要はカペリン(カラフトシシャモ)だった。しかし、その前年、時の漁業相らが日本を視察して方針が変わった。日本には生のサーモンを食べる文化がない。江戸前寿司にもない生サーモン握り寿司を考案し、試食会を重ねた。

//trendy.nikkeibp.co.jp/atcl/pickup/15/1008498/061500791/

ティラミス ×

日本イタリア料理史の中で、最大のブームとなったのは「ティラミス」と言って間違いありません。80年代半ばから評判を呼び、90年に雑誌Hanako」で特集が組まれるや、人気は最高潮に達します。

//www.metromin.net/feature/15133.html

アボカド ×

日本の輸入量は1970年代までは微々たるものだったが、1970年代後半から増え、1980年には479トン、1990年2163トン、2000年14070トン、2005年は28150トンと急増している。

//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9C%E3%82%AB%E3%83%89

オリーブオイル ×

1908年明治41年)、魚の油漬け加工に必要オリーブオイルの自給をはかるため、農商務省アメリカ合衆国から導入した苗木を三重県鹿児島県香川県試験的に植えた。香川県小豆島に植えたオリーブけが順調に育ち、大正時代の初めには搾油が出来るほどの実が収穫された。

//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%AB

バターコーヒー

「朝はヨーグルトより、バターを食べる」

//www.amazon.co.jp/dp/4478039674

チキンタツタ

1991年4月期間限定商品として初登場

//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%84%E3%82%BF

単なる竜田揚げとして見れば×。

油そば ×

1952年昭和28年)に創業した国立市一橋大学そばの「三幸」が、のびたラーメンをヒントに昭和30年代前半頃から酒の肴として提供を開始したとする説や、同じく昭和30年代武蔵野市境の亜細亜大学そばの「珍々亭」が中国拌麺をヒントに油そばを発売したという2説が存在している。

//ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B9%E3%81%9D%E3%81%B0

火鍋 ×

火鍋唐代に普及

//ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E9%8D%8B

日本のしゃぶしゃぶは火鍋をもとにして作られたとの説も。

発泡酒 ×

新規企業の太洋醸造が当時自由販売化していたイモとホップ使用したイモ・ビール試験醸造申請して認可され、1950年昭和25年)から新発売され、日本市販発泡酒第1号となった

//ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BA%E6%B3%A1%E9%85%92

食べるラー油

垣島在住の夫婦(夫は中国陝西省西安出身の辺銀暁峰、妻は東京都出身愛理)が、具材を食べるタイプラー油を開発し、2000年(平成12年)、石垣島にて開催されたイベント販売したのが始まりである(ただし、具の入ったラー油のもの中国にて古くから存在している)。

//ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%9E%A3%E5%B3%B6%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%B2%B9

2017-06-11

白紙に戻せぬ遣唐使教科書の読み比べ)

山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない」

http://anond.hatelabo.jp/20170604204919

これの筆者です。

id:netcraft3さんに「このままシリーズ化してほしい」と言われたんですが、そのつもりはないです。歴史学に対してろくな知識もないから恥をかきそうだし、人気の増田国会ウォッチャー)みたいに注目をあびるのは恐ろしいです。

  

なので今回で最後になるかもしれませんが、ひとまず「遣唐使」について見ていきましょう。

山川出版社『詳説日本史』の「遣唐使」という項は、次のように書かれています。全文引用します。

618年、隋にかわって中国を統一した唐は、東アジア大帝国をきずき、広大な領地を支配して周辺諸国に大きな影響をあたえた。西アジアとの交流もさかんになり、都の長安(現、西安)は世界的な都市として国際文化が花ひらいた。

東アジア諸国も唐と通交するようになり、日本から遣唐使は8世紀にはほぼ20年に1度の割合で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には留学生・留学僧なども加わり、多い時には約500人の人びとが、4隻の船にのって渡海した。しかし、造船や航海の技術はまだ未熟であったため、海上での遭難も多かった。遣唐使たちは、唐から先進的な政治制度国際的文化をもたらし、日本に大きな影響をあたえた。とくに帰国した吉備真備や玄昉は、のち聖武天皇に重用されて政界でも進出した。

朝鮮半島を統一した新羅とも多くの使節が往来したが、日本は国力を充実させた新羅従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた。8世紀末になると遣新羅使派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった。一方、靺鞨族や旧高句麗人を中心に中国東北部建国された渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。渤海は、唐・新羅との対抗関係から727(神亀4)年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から渤海と友好的に通交した。

これはひどい遣唐使派遣再開が何年だったかという記述がありません。

そもそもこの派遣が再開であるという基礎知識すら、この教科書では把握できません。ページを戻って第2章「1,飛鳥の朝廷」の「東アジアの動向とヤマト政権の発展」という項では、「倭は630年の犬上御田鍬をはじめとして引き続き遣唐使派遣し」たとあるのですけど、その後にしばらく派遣を中断した時期があることは記載なし。

一時期は中断していたからこそ、702年の派遣再開に歴史的意義があります。第1回の遣唐使派遣が630年ですから、何と、まだ大化の改新をやっていない時代ですよ? それくらい古い時代から派遣していたにもかかわらず、多くの教科書8世紀初頭の出来事として遣唐使のことを説明するのはなぜでしょうか。それは再開というターニングポイントを重視しているからです。本書もそれに従って、「3,平城京時代」という単元に「遣唐使」の項を配置しています。それならば、中断・再開の経緯について説明を載せるべきです。

  

ちなみに、他の教科書では、遣唐使派遣再開についての説明が次のようになっています

7世紀前半にはじまった遣唐使は、天武・持統天皇時代にはしばらく中断されていたが、702年久しぶりに難波津を出発した。」

東京書籍日本史B』(日B 004)

「また政府は、8世紀のはじめに遣唐使派遣して、669年以後とだえていた唐との国交を回復した。」

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

「日本は唐の文化積極的にとり入れようと意欲をもやし、ほぼ20年に1度くらいの割合で遣唐使派遣した。」

山川出版社高校日本史 改訂版』(日B 017)

白村江の戦いののち、30年あまりとだえていた唐との国交が、701(大宝元)年の遣唐使任命によって再開され、以後、遣唐使がたびたび派遣された。それまで、半島から渡来人新羅などに学びながら、ある程度の国家体制を整えてきたが、この年の大宝律令とともに、唐との直接交通を始めたのである。」

桐原書店新日本史B』(日B 011)

律令制度を整えた朝廷も、702(大宝2)年に遣唐使を復活させ、唐の文物制度摂取につとめた。[中略]

こうしたなか、朝廷は新都の造営や貨幣鋳造、国史の編纂などを次々に実行して、中央集権体制にふさわしい国家づくりに励んだ。」

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

  

引用者注教科書のページを戻って「白村江の戦い国内体制の整備」の項では、白村江の戦いののち、遣唐使が「669年を最後に中断した」という記述あり。]

この中では、桐原書店ダントツに優れていると思います

遣唐使が中断していた理由もわかるし、大宝律令の制定と遣唐使の再開という2つの出来事を結びつけて理解することができます

  

三省堂記述おもしろいです。私は前回、この教科書について、「時代の流れがよくわかる」「時系列にしたがった記述が多い」というようなことを書きましたけど、ここでもその特徴が出ています

大宝律令の制定、平城京への遷都、貨幣鋳造、国史編纂というのは国内政治です。一方、遣唐使新羅・渤海との関係は、外交政策です。普通教科書はこれを別項に分けますが、三省堂はこれを同じ項にまとめて一つの時代様相として語っているのがすごい。

  

東京書籍実教出版も、中断・再開に触れています。その点は『詳説日本史』より絶対にマシです。

  

山川出版社高校日本史 改訂版』(日B 017)は、教科書のページ数が少なくて、内容もぺらぺらに薄いです。『詳説日本史』と同様、これでは大雑把に奈良時代の初め頃だったということしか分かりません。(しかも正確には702年に派遣再開されたので、これを奈良時代出来事と把握すると誤りになります)

  

  

  

東大入試でよくわかる遣唐使

東大入試2003年)は、遣唐使の本質にせまる問題を出しています

次の(1)~(4)の8世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。

(1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。

(2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。8世紀には、日本は唐に20年に1度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。

(3) 743年、新羅使は、それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷は受けとりを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。

(4) 8世紀を通じて新羅使は20回ほど来日している。長屋王は、新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし、使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また、752年の新羅使は700人あまり大人数で、アジア各地のさまざまな品物をもたらし、貴族たちが競って購入したことが知られる。

  

設問:この時代の日本にとって、唐との関係新羅との関係もつ意味にはどのような違いがあるか。たて前と実際の差に注目しながら、6行以内で説明しなさい。

これの答えがピンポイントで載っている教科書があります

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)です。これ以外は、どの教科書も上記引用した『詳説日本史』と似たり寄ったりの内容ですからいくら熟読をしても答案を書くことが難しいと思います。(三省堂のぞく。後述)

8世紀に入ると、日本は20年に1度の回数で大規模な遣唐使派遣した。日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢であり、使者正月の朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。[中略]

一方、日本の律令国家内では天皇皇帝であり、日本が中華となる唐と同様の帝国構造を持った。日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけており、従属国として扱おうとした。

白村江の戦いののち、朝鮮半島を統一した新羅は、唐を牽制するために日本とのあいだにひんぱんに使節を往来させ、8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった。やがて対等外交を主張したが、朝廷はこれを認めず、藤原仲麻呂新羅への征討戦争を準備した。一方で、新羅民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きくなった。現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には、新羅商人仲介したものが多いと考えられる。[後略]

  

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B018)

以上に準拠しながら、私なりに要点をまとめておくと、次のとおりです。

  

(1)は、日本が唐から律令を学び、その中華思想の影響を受けたことを言っています。つまり、日本はみずからが「中華となる」という「帝国構造」を作ろうとしたのです。「日本は新羅や渤海を蕃国として位置づけ」て、彼らを野蛮だと侮蔑し、従属国として扱おうとしました。ですが、唐だけは別格です。あのような大国を敵にまわすと、恐ろしいことになりかねません。そういう遠慮があって、唐のことだけは尊重して隣国と呼びました。

(2)は、「日本は唐の冊封を受けなかったが、実質的には唐に臣従する朝貢」をしていたということです。唐の臣下となって朝貢する国々の中にも、その立場にはランクがありました。日本と新羅はともに唐の臣下だったのですけど、日本は新羅より格上の臣下になろうとしたのです。

(3)は、日本と新羅関係悪化について述べています新羅が「8世紀初めまでは日本に臣従する形をとった」ので、その間は関係がうまくいっていました。しかし、新羅が「やがて対等外交を主張」するようになったから、両国関係はこじれてしまったのです。それが最終的には藤原仲麻呂が「新羅への征討戦争を準備」するくらいにエスカレートします。

(4)は、日本と新羅政治的には対立しつつも、経済的には交流が盛んだったという内容です。「新羅民間交易に力を入れ」ました。「新羅商人仲介し」、日本へ「唐や南方の宝物」をもたらしたのです。それは貴族たちが競って購入したがる垂涎の的でした。現在「正倉院に所蔵され」ている宝物も、そういうルートで輸入したものが多いのです。

  

教科書の読み比べをすることの目的は、なにも入試対応するためだけではありません。

例えば『詳説日本史』には、最初引用したとおり、「日本は国力を充実させた新羅従属国として扱おうとしたため、時には緊張が生じた」とか、「8世紀末になると遣新羅使派遣はまばらとなるが、民間商人たちの往来はさかんであった」という記述があります。この短い記述が伝えようとしていることの本当の意味は、『新日本史B 改訂版』(日B018)のような他の教科書と併読することにより、はじめて正確に把握できるのです。

  

ところで、この教科書の著者は、東大の先生が3人、京大の先生が1人です。本書だけに載っているネタを使って入試問題がつくられたのは、そのへんの事情もあるのかなと勘ぐってしまます

もしくは、これは2003年入試問題ということだから、ちょうど講談社の『日本の歴史シリーズ2000年2003年)が発行されていた時期ですし、そちらの内容を意識しているのかもしれないですね。一応、そっちのシリーズから引用しておきましょう。

国内及び新羅などの諸国に対する時と、唐に対する時とで天皇の顔を使い分けるという、まことにすっきりしない状況でもあった。このような努力・苦心を払って日本が手に入れようとしたのは、東アジアの有力国としては新羅より格が上、という地位の確認であり、また初期の遣唐使が唐の高宗蝦夷を見せたことに示されているように(『日本書紀』斉明五年七月三日条)、日本は隼人蝦夷などの異民族をも支配下にいれた大国かつ君子国であるという評価であった。いわば唐を盟主とする諸国の中での相対的に高い地位を求めるとともに、自らの小帝国であることを唐に認めさせようとしたのである。(石母田正天皇諸蕃』)

  

坂上康俊『日本の歴史05巻 律令国家の転換と「日本」』

さきにもふれたように、「日本国」は唐帝国との公的な外交関係では「天皇」の称号を用いることができず、実際には二十年に一度の使い――遣唐使――を送る唐の朝貢国位置づけられていたと考えられるが(東野治之「遣唐使船」朝日新聞社、一九九九年)、国号「倭」から「日本」に変え、「天」をつけた王の称号を定めたのは、唐帝国に対し、小なりとも自ら帝国として立とうとする意志であったことも間違いない。

実際、「日本国」は「蛮夷」を服属させる「中華」として自らを位置づけ、「文明」的と自任するその国制を、周囲の「未開」な「夷狄」におし及ぼし、国家領域を拡げようとする強烈な意欲を、その発足当初は持っていたのである

[中略]

このように、朝鮮半島に対しても圧力を加えて、朝貢を強要する姿勢を示す一方、「日本海」をこえてたびたび使者を送って交易を求めてきた渤海については朝貢国として扱うなど、「日本国」は自らを「中華」とし、帝国として四方に臨もうとしていた。しか東北侵略を止めた9世紀に入ると、こうした「帝国主義」的な姿勢列島外の世界に対する積極的な動きはしだいに退き、十世紀になれば、ほとんどそれは表に現れなくなっていく。

  

網野善彦日本の歴史00巻 日本とは何か』

日本が置かれている立場としては、唐への朝貢という屈辱外交をやめるためには、遣唐使派遣を中止するしかないわけです。しかし、日本は唐と断交して敵対的にのぞむ国力も、その覚悟もありませんでした。

いっぽう、遣唐使は唐の皇帝から賜った国書日本国王へ勅す)を持ち帰るわけにはいきません。日本が唐に朝貢していると認めることは、天皇の威信を傷つけることになるからです。

こうなると、実際には日本が唐に朝貢していることが明らかなのに、国内での建前としてはそれを否定してみせる必要が出てきます。要するに、「遣唐使派遣は朝貢ではない。天皇が唐に臣従しているという批判は当たらない」という建前をでっちあげ、国内的にはそれをゴリ押しすることで、この矛盾を乗り越えようとしたのです。

  

私がこのエントリ題名に「白紙に戻せぬ遣唐使」と付けた由来は、多分みなさんもご存知の、894年に遣唐使が廃止されたことを指す語呂合わせ「白紙に戻そう遣唐使」です。しかし、日本がほんとうに、この"遣唐使"的なるものを白紙に戻せたかというと、それは甚だ疑問です。為政者国内国外で異なる顔を見せたり、外交姿勢の実態と建前を使い分けているというのは、室町時代に明に朝貢して「日本国王」となった足利義満に、ほとんどそのまま適用できる視点だと思います

それに、このことは現代外交問題についても、重要示唆を与えてくれます。例えば政府国内に向けて愛国心ナショナリズムを煽っておきながら、それと同時に国外に向けて国際協調アピールをするというチグハグな状況は、まさにこの延長にあるんじゃないでしょうか。

あるいは唐側の視点で見ると、日唐関係はこんな見方もできるかもしれません。唐は日本がおとなしく朝貢するかぎり、細かいことに目くじらを立てなかった。唐としては蕃国をヘタに刺激して事を荒立てるより、多少その尊大なふるまいを黙認しておく方がメリットがあった。すなわち唐は日本と妥協しあって、朝貢関係があるとも無いとも、どちらとも言える状況を作りあげた。――こういう分析がどれだけ妥当か分かりませんけど、2国間に争いがあるとき玉虫色の決着をつけ、両国政府がそれぞれ自国民の耳に心地よい解釈で説明をしているというのは、これまた現代によく見かける話でしょう。

  

  

  

教科書の読み比べ

遣唐使についての解説が長くなりすぎましたが、じゃあここから、各社の教科書の読み比べをしていきます

  

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

遣唐使船はふつう「よつのふね」とよばれ、1隻に100人まりが乗りくみ、多い時で約500人の大使節団であった。

悪くはないですが、遣唐使について普通説明があるだけです。

おもしろい特色がありません。

無理に良い所探しをするなら、「よつのふね」という文学的呼び方を紹介し、その規模がいかに大きかったかを強調していることです。

華々しく飾り立てた大使節団というのは、それを送りだす側も、それを受け入れる側も、両国にとって国威発揚イベントになったと推測できますもっとも、沈没行方不明になることも多々あったので、華々しさとはかけ離れたのが実態だったかもしれませんし、どうなのでしょう?

  

  

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

  

……って、今回はここで文字数制限なのか。

引用をしていると、あっというまに文字数が膨らみますね!

つづきを書きました→ http://anond.hatelabo.jp/20170611234459

2015-05-15

http://anond.hatelabo.jp/20150515155531

いやいや、既存北京南京に対抗して江戸東京改名したわけでしょ ww

あと、西京はないけど西安はあるし。

.... って、釣られたかな?

2014-05-19

27歳プログラマの好きなエロ作家ワンポイントまとめ

[オナ禁]1日目

今日からオナ禁開始するにあたって書き出してみたよ。

スペック

オナ禁開始する理由

主なおかず

二次ロリロリじゃなくてもいける。

同人、非同人区別なし
同人
同人
好きだけど新作出ない
その他作家
好きだけどもう一生新作見れない
  • 堀部秀郎(お亡くなりに・・・臭作、鬼作最高。PC Angelの表紙と言えばわかる人も多いか。)
  • もしゃ(311以後音沙汰なし。たぶんそういうこと)
逆に興味ないもの
ネタ

備考

エロ漫画家のエロ傾向一覧とは (ヘンシュウシャタチノセイテキシコウイチランとは) [単語記事] - ニコニコ大百科を見ながら書きだしたけど、東山翔とかがいないあたり、編集者の好みで偏ってるからあんまり参考にならんね。

でも三峯徹が座敷童扱いされてて吹いたwwww

いかんエロについて語りだすとキリがない。もっと語りたい!語り足りない!

男一人の人生におけるエロ遍歴ってそれだけで一冊本書けそうなくらいやね。

うおおおおおおおいっこネタ思いついた!これでpixivマンガ書こう!!!マンガどころか絵なんか書いたことないけど!!!!うっひょー興奮してきた!!!!このリビドーをすべて創作にぶつけろ俺!!!!!

おすすめ単行本とか同人誌も書きたいなー。

増田に潜んでるエロソムリエ意見も拝聴したい。ぜひ書いてくれ。

しっかし月曜から出向先でエディタにこんな文章3000字も書いて何やってんだ俺・・・

2014-05-07

中国の人気ツアー

東洋西洋が混在する上海はとても人気があります!また、チベット特集も見逃せないです!絶景の高原鉄道に体験できます神秘的で憧れの中国へようこそ!また、九寨溝、桂林、シャングリラー、厦門福建土楼など中国観光スポットがいっぱいあります!では、中国の人気ツアーを皆さんに詳しく紹介いたします!

1、万里の長城旅行専用線

世界文化遺産として知られる万里の長城はユーニクな魅力と神秘感が富んでいます

2、上海全景(城隍廟、ワイタンなど) 一日間観光

アジア大都市として上海民族風習をゆっくり体験するなら、このツアーを選択しよう!

3、クルーズで三峡への5日間観光

圧倒的な世界級な三峡ダムプロジェクトゆっくり体験できる!

4、<桂林ハイライト>5日間観光

素晴らしい桂林風景

5、<九寨溝-牟尼溝>5日間観光

世界自然遺産九寨溝は絶美である

6、<西安-兵馬俑-華清池-華山-乾陵-法門寺> 5日間観光

海外でもとても有名な兵馬俑の旅を体験できる!

7、<中甸シャングリラ+昆明+大理+麗江>  六日間観光

ここで中甸シャングリラ風景を楽しめるだけでなく、地元ユニークの風習も体験できる!

8、<海南5日間観光>

魅力がある海南へ行くなら、このツアーを選択しよう!

9、シルクロードの人気ツアー

我社厳選のシルクロードの旅/ツアーで未体験の中国体感しよう!

10、<杭州-蘇州> 2日間観光

世界一華やかな街と称された湖畔の街「杭州(コウシュウ)」と中国庭園代表蘇州を訪れるツアーをご紹介。 上海とはまた違ったゆったりとした時間が流れる杭州蘇州のんびりと流れる時を感じてみてください。

中国旅行と関連する詳細情報は下記のサイトをご参照ください。

http://japinchina.com/service/tour/qm.html#.U1c-l7Ls6gU

メールアドレスcs1@japinchina.com

スカイプcs@japinchina.com

電話番号:862864356252

携帯電話:8613524252624

2011-06-11

中国の人物名の中国語読み併記について

http://togetter.com/li/146741

http://alfalfalfa.com/archives/3527728.html

ヤンキー先生教科書で例えば「毛沢東マオツートン」と併記することについて

日教組偏向教育だと言って、賛否両論、話題になっている。

基本的に漢字というのは伝統的に現地読みで読むことになっていて、日本人日本語読みをする。

それは中国人日本人名前中国読みしているのと同様だ。

小泉って知ってる?」って聞いても中国人は誰も知らないが「シャオチュエン」と言えば分かるだろう。

「I'm from 大阪.」って言っても分からなくて、こいつ日本のこと何も知らないな、と思うかもしれないが「ダーバン」と言えば分かる。

「どうせ、カタカナで習ったって発音が通じないのだから教えたって無駄だ」と言う意見もあるだろう。

ならば、漢字を書けばいいのだ。それこそが漢字を用いる日本人の持つ武器だ。

まあ簡体字があるから、また話はややこしいのだけれど。

しかしながら、実際のところこれが大きな問題となるのは

海外の人たちと中国人名前が話題になったときである

Mao Zedong,、Deng Xiaoping,、Wen jiabao,、Hu Jintao。

これらが誰を指しているのか分かるだろうか。会話で、あるいは海外ニュースで出てきたときに分かるだろうか。

からないのは多分日本人だけで、「Who is Hu?」なんて聞いたら笑われる。

それぞれ、毛沢東、鄧小平温家宝胡錦濤中国語読みであり、世界共通語だ。

それは地名でもそうで、北京=Beijingあたりは分かるだろうが、四川=Sichuanなど大抵の人には分からない。

他の国に比べて日本人中国都市名や人名を知っているのに、いざアルファベット表記になるとほとんど知らない。

中国をバックパックで旅行中、外国人と話しているときに、地名が出てこなくて馬鹿にされたのを思い出す。

まり、「武漢西安そっから四川に行くんだ」と言いたいのにWuhan、Xian、Sichuanがぱっと出てこないし、言われても分からないのだ。

俺は漢字が読めて書けるんだぜと言いたかったが、彼らにとってそんなのはどうでもいいことだ。

実際、鄧小平に関してこんな話もある。http://www.silverboy.com/silverboy/op200022.htm


このような中国人名、地名中国語読み全部を義務教育で教えるべきだとは言わない。

ただ「毛沢東=マオツートン」と併記することで、中国では漢字の読み方が違うんだという重要な知識を教える一歩になると思う。

実際、かなりの人は「モウタクトウ」と言えば、「シセン」と言えば、通じると思っているのではないだろうか。

これは、中国経済的にも文化的にも政治的にも存在感を増していくなかで

日本が共通の漢字を使っていることで生じている重要な問題のうちの一つだと思う。

_________________

《追記》

id:menaが教えてくれた平凡社中国語表記ガイドライン。つい最近だね。ありがとう

学術的な根拠も含めて色々面白い。是非読んでね。文化雪かきhttp://www.heibonsha.co.jp/cn/

2009-10-12

屋台を取り締まる警官はちんぴらと変わらない。

中国旅行記 読者より)

 偉大なる中国国慶節)を目撃した直後の裏町では。。。。。

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成都甲府とが姉妹都市はなぜ?

四川省成都にいます。午前中、杜甫草堂、そして武侯祠に行ってきました。かなりゆっくりと回り十分に堪能しました。

成都甲府が友好都市になっているようで、草堂の記念室に銭其シンや楊尚昆らのオートグラフに並んで石和温泉などのパンフレットが並んでいたのには笑ってしまいました。

しかしなぜ甲府なのでしょうか? もしかして盆地つながり? まさか。ともあれ、いにしえの中国人の偉大なる事績に触れた後、宿を取っている春煕路の付近をぶらぶらしました。

連休も最終日とあって、繁華街若者たちが多く繰り出してたいへんな賑わいです。そんなところではよく見かける光景ですが露天の物売りが多く店を開いています。串肉を焼きながら売るリヤカーのおばあさん、串飴を背中に担いで歩くおじさん、バッグ類やアクセサリーをボロ布に広げるおばさん、自転車の左右のカゴに果物を満載したおねえさんなどなど。

その中にいた30前後女性が三輪自転車の荷台にかけたビニールシートをはずしました。大量の映画DVDが載っています。知らない作品ばかりですがちゃんとパッケージされています。

一瞬、ホンモノかと思いましたが、紙に挟んだだけのパッケージはいわゆる海賊版でしょう。何人かの人が目当ての盤を捜し始めたころ背後から怒鳴り声が聞こえます。黒制服姿の若い警官2人です。彼らはパッケージを20枚ほどわしづかみにしました。

そしてにやにやしながらパラパラとめくって見ています。物売りの女性は手を合わせて返して欲しいと頭を何度も下げようやく返してもらいました。そしてすぐに荷台にカバーをかけて立ち去っていきました。

▲庶民のささやか屋台破壊

サボテン観葉植物ビニール小鉢で売る自転車のおばさんも警官に呼び止められました。

彼らは、きれいに手入れされたサボテン鉢を数個ばかり地面にたたきつけすぐに立ち去るように命令します。おばさんは半笑いの表情でサボテンを拾い砂をすくっています。

事前に買った人も同情して一緒に砂を拾っています。おばさんはその人に律儀におつりを手渡し、警官背中をふり返りながらその場から離れていきました。

次に警官は飴売りのおじさんの背中から商品を引き抜いて何かまた怒鳴っています。

警官の手に何本かの串はありますが、3、4本の飴が折れて路上に落ちました。

おじさんは走って路地に逃げ込んで行きました。しばらくすると落ちた飴がなくなっていたのでおじさんが拾ったか誰かが持っていったのでしょう。

警官路上を取り締まる間、片手に飴を持ったままです。

これはどうみても警官と言うより、地回りのチンピラという印象を受けました。折り目も消えて薄汚れた服装もだらしなく、制帽も身につけていません。おまけに上着のすそから柄ものシャツがはみ出しています。彼らは串飴をもったまま物売りたちを次々に怒鳴り退散させています。

一方で、同じくゴロツキ風の若者に肩を組まれてなにやら笑顔で話してもいます。

物売りたちは警官の姿が消えるとまたすぐに店を広げます。文字通りいたちごっこを続けていました。

こうした様子は日本からの旅行者の目にはもの珍しいのですが、地元の人たちからすれば日常茶飯なのでしょう。すべて衆人百目の前で起きています。

権力をカサに着た傲慢非情警官と苦労しても報われない可哀想な物売りたち。貧民たちの警察に対する怒りはまだまだ蓄積しているように感じました。「偉大なる中国」の事績を見学した直後に目撃した光景だけに印象に残るシーンでした。

そういえば似たような経験がありました。古代ローマ人の造った壮大で緻密な遺跡群を巡った後、いい加減でその場しのぎな現在ローマ人と接した時です。

いま中国では建国60年に合わせて公開している映画「建国大業」がたいへんな入りなようです。

春煕路の映画館でも大入りの様子です。抗日戦争から建国までの指導者群像を描いた作品です。この前のレポートで書いた「解放」と似ています。なにやら172人のスターが登場するらしいのですが、毛沢東役にはもちろん例の唐国強。

ジャッキー・チャン、アンディ・ラウジェット・リーレオン・ライチャン・ツィイーなどの豪華スターも出演しているとか。

こちらのテレビでは相変わらず国慶節関連の番組をやっています。

成都でも西安でも観光地は、というより人が集まるところはどこも「60」あるいは「国慶」という文字や大きな花飾りが目立ちます。ただ春煕路では国慶セールの方が目立つでしょうか。もちろん30メートルおきに銃を持った公安警察が隠れていますが。

  (NS生、中国旅行中)

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宮崎正弘コメント)連日、精力的に中国各地を回っているようですが、食あたりに気をつけて下さい。

さて、成都甲府姉妹都市の理由は「盆地」だけではなく、「軍師」です。諸葛孔明武田信玄山本勘助)、ともに軍略の英雄ですから。

  「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 

    平成21年(2009年)10月9日金曜日

       通巻第2735号  

2009-07-14

新彊ウィグル自治区路地裏の真実

宮崎正弘トンデモ中国真実路地裏にあり』(阪急コミュニケーションズ)

 

(拙著からウィグルの紀行部分のダイジェストです)

モスクに祈りの音楽が聞こえない

ウィグル自治区で殆どのモスクイスラム寺院)は静謐そのもの、宗教活動は地下へ潜ったと見られる。

新彊ウィグル自治区地理的にみると中国の西北に位置し、その面積は百六十四万六千八百キロメートル。じつに中国総面積の六分の一を占める。日本の総面積の四倍以上だ。

大半が砂漠である。だから中国は平気で核実験場としてきた。そのうえ新彊ウィグル自治区カザフスタンキルギスアフガニスタンパキスタンなどとの国境線だけでも五千七百キロに達する。

国境警備にも力点をおくわけだから長大な防衛戦において兵站の確保は並大抵ではなく、どこからでも駱駝は進入できる。ビンラディン一派に通じるイスラム原理主義過激派ゲリラ武器中国国内に運びこむのもさぞ容易なことだろう。

極めて厳しい自然環境乾燥した気候である。とても住み良い、暮らしやすいという環境ではない。砂漠では水の確保も簡単ではない。広大であっても貧しいこの地域におよそ千六百六十万人が住んでいる。そのうちウィグル族が約九百五十万人、言うまでもなく大半はイスラム教徒で、古くからマホメット信仰している。

漢族回教徒を目の敵としたのには歴史因縁がある。

中世から近世にかけて現在中国北西部を収めていた元は原住民イスラム信仰には介入しなかった。近代になっていまのカザフスタンから新彊ウィグルにかけて「東トルキスタン」が建国されると、復古を主張する地下運動が盛んになり、血の弾圧に屈しないばかりか、ますます闘志をかき立てて原住民漢族に立ち向かうようになった。

新彊ウィグル自治区の党書記・王楽泉(山東人)はすでに十年以上(駐 執筆時点。いま現在は17年)に亘って、この地域の党書記として君臨している。

あたかも欽差大臣のごとく居丈高に振る舞っているが、九八年九月二日の記者会見で!)宗教管理をさらに強める!)共産党員はイスラム寺院に行ってはならない!)女性が顔を隠すのを禁止する!)ウィグル青年が長期不在となれば「過激分子」とみなし「宗教の自由」を剥奪する、などと時代錯誤の対策を語った。

 

ウルムチへ入った。ウルムチ市内には西安チチハルの清真寺のように迷路の奥の路地裏の、さらに裏にこじんまりと立つ小規模なモスクもあれば、福建省泉州のように街の真ん中に公園化した瀟洒なモスク漢字で「清真寺」を一般的に充てるが、泉州だけは「清浄寺」という)もある。道路沿いに多くの信者が住んでいるが、各地で表向きの信仰生活がみられない。公安の警戒を懼れ、モスク信者がちかつかないのだ。

冷戦終了直後に旧ソ連領のカザフスタンウズベキスタンタジキスタンを歩いた経験があるが、随所で早朝から大きなスピーカーで「アッラーアクバール」とコーランが流れているのを聴いた。

ホテルでこの聖なる音に目覚め、やおら窓を開けると、♪アラーは偉大なり♪

イスラム圏のまっただ中にいるという旅情がわき上がってきた。バグダットでもイスタンブールでも、エルサレムアラブ街でもサマルカンドやタシュケントでも同じ情景があり、必ずそこに宗教音楽が付帯した。

しかし中国は違っていた。宗教音楽はおろか公然とした祈りさえないではないか。

▲ウルムチは「砂漠チャイナタウン

一方でアルカィーダ秘密基地に「東トルキスタン独立」を掲げたイスラム原理主義過激派が訓練を受けていた。

寧夏回族自治省のみならず新彊ウィグル自治区トルコ系住民のなかにイスラム原理主義が拡大している事態の到来は、五輪をひかえた北京中央にとっては鮮明なる脅威という認識である。

北京は「9・11事件」の事後処理に便乗し、ウィグル独立運動を「テロリスト」とそそくさと規定した。そのうえで米国に圧力をかけ、容赦ない弾圧を新彊ウィグル自治区で強化した。911テロ以降も一万人もの「テロリスト容疑者」を拘束、一部を拷問にかけた。

イスラムの動きに鈍感で敵対心を潜在意識に潜ませる欧米諸国は、ウィグルに関してはチベットに寄せる同情心と較べるとやや薄い。まして米国は02年八月にアーミテージ国務副長官を訪中させた際に「ウィグル独立運動」を中国が要求するまま「テロリスト」に認定し直した。イラク包囲網を実行し国連で武力容認決議を急ぐあまり米国拙速にも北京と妥協したのだ。

 (中略)

村全体がウィグル人だったりする農村では、当たり前のようにモスクに集う人々の姿がある。また西安のような大都会でも、中心部のイスラム寺院「清真寺」には人々の礼拝が絶えない。モスク近くでコーランテープCDを買おうと尋ねてみるが、一枚もない。一軒だけコーランの経文を売る店がトルファンにあったが。。。

あまりの弾圧ぶりに、宗教活動は地下に潜ったのだ。年齢によって差はあるが、人々の服装を見ても若者の一部はイスラム帽もかぶらず、ピアス茶髪ショートパンツが珍しくない。ウルムチにさえディスコカラオケがあって暴走族がいる。カザフ・カラーという独特の模様の民族衣装はかろうじて残るが、TVと新聞北京に握られている以上、イスラムの主張は宥和的、微温的にならざるを得ないようだ。

ウィグル族の首都であるにもかかわらず、ウルムチには圧倒的に漢族が多い。動物園にはパンダ市民公園遊園地漢族家族連れが目立った。いまやウルムチは「ウィグルチャイナタウン」ではないか。

街の看板漢字アラビア文字が併記されている。ところが目立つのはカラオケ、瀟洒なビジネスビル大通りに溢れるのはトヨタ日産ホンダの車である。

服装もあか抜けしたデザインが主流で、ウィグルカラー民族衣装を着た人は少数派になりつつある。自転車が道に溢れ、商店の物売りたちの活気ある呼び声。バザールの喧騒。中国全土のどの都会にも見られる風景で、設計思想は似通っている。

最近のおびただしい漢族の入植は、この地にも工業化をもたらし、経済的な発展を遂げた。生活が少しでも豊かになれば物質的な欲望が果てもなく拡大するのは致し方のないものであろう。

都会のウィグル人の若者は懸命に北京語を学んでいる。言葉ができないと官として出世は望めず、給料も上がらないからだ。

中国沿岸部の人たちは競って英語日本語を習得し、外資系企業に勤め、うまくすれば外国人の伴侶を見つけて外国籍をとりたいと考えているようにムスリムのあいだにも漢族と同化し暮らしを豊かにしたいと考える若い世代が増えている。むろん村の古老たちはこうした現象を苦々しく見ている。

~~~~~~~~~(中略)~~~~~~~~~~~~

仏教遺跡はすべて破壊された

「交河古城」は岩の大地を上から発掘して造った、世界でも珍しい彫刻都市である。

南北一キロ、東西が三百五十メートルの大地の真ん中を道路が貫いている。寺院仏塔、住居跡が掘り起こされていて壮観であるが、どんな理由があってこんな苦労をして大地の中に都市を閉じこめようとしたのか。異民族の進入を防ぐための秘密都市だったのだろうか。

交河古城はそうした思惑の通りには行かず、漢族に滅ぼされ、城は徹底的に破壊され、新たに建てられた高昌城にとってかわられた。その高昌城とて後年には唐の大軍隊が侵略してきて滅ぼされた。数千年の間、仏教イスラムの苛烈な戦いが繰り返された新彊ウィグル各地の仏教遺跡には、一つとして満足な仏画仏像がない。偶像崇拝を禁ずるイスラム教徒の手によってことごとく破壊されたからである。

嘗てタリバン支配下のアフガニスタンではヘラートに近いバーミャン石仏イスラム原理主義過激派らはミサイル破壊した。「世界遺産」であれ、なんであれ狂信的教徒は他宗派を認めない。それは共産主義も同様である。

南に天山山脈を挟むクチャ、カシュガルともなるとイスラム教俄然、強い色彩を帯びる。カシュガルのエティカルモスク中国イスラム教徒メッカだ。ここに巡礼を果たしたイスラム教徒は仲間の尊崇を集めるという。 

現代の宗教の一つである共産主義は他の宗教指導者逮捕し、拷問にかけ、北京に刃向かうと見れば次々と処刑した。モスクを物置にされたイスラム教徒怨念はなまなかなものではなかろう。

血の弾圧を受けた新彊ウィグルの民は、チベットと同様にイスラム教への信仰をひたすら内面に押し込めた。その分、人々は心の中に蓄積された漢民族に対するルサンチマンを歪んだ形で膨らませだ。歴史的に蓄積されたこの反漢感情のエネルギーに火がつけば予想外の炎となって燃え広がるのは明らかである。

イスラム歴史と文化は漢民族に蹂躙され、独自の文明形骸化した。イスラム教は地下に息を潜めている。したがってもしイランホメイニ師のごとく強靱な精神指導者が現れたなら、かつてシャーを打倒したイラン革命のように漢族に対する一斉蜂起が起こるだろう。

 

拙著トンデモ中国 真実路地裏にあり』(阪急コミュニケーションズ)からウィグル箇所をダイジェストしました。同書は全33省を寄稿した、おそらく日本で唯一の本です。アマゾン ↓)

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%A2%E4%B8%AD%E5%9B%BD-%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%81%AF%E8%B7%AF%E5%9C%B0%E8%A3%8F%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8A-%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E5%BC%98/dp/4484082187

2009-06-04

グレートゲームの大激変、米国オバマ政権、闘う前に敗れたり。

イランのガスはパキスタンから中国ルートが確定、米国勢は敗退

▲第一幕 イラン悪魔、でもタリバン交渉相手だった

 

そもそもの新グレートゲームの始まりはクリントン政権のときである。

中東から南アジアにかけての資源争奪戦争冷戦後新しい局面を迎えていた。

ユノカル」は米国石油メジャーの後発企業で、カリフォルニアが地盤、ただし海外に鉱区の開発権を多く抱える。米国内での政治コネクションが薄く、主流のメジャー共和党系が多いため、ユノカル民主党を頼った。

出発からボタンの掛け違いだったかも知れない。

クリントン大統領ホワイトハウスに実習生モニカ・ルインスキーを招き入れ、情事にふけっていた。

後日、大統領弾劾裁判において、「あれは挿入していないからセックスではない」ととてつもない言い逃れの詭弁クリントンは危機を切り抜けた。

そんなおりに遠路はるばるとアフガニスタンから珍客があった。タリバン幹部である。

要件はなにか。

トルクメニスタンのガスを、アフガニスタン経由でパキスタンの港へ運ぶ。総延長1560キロのパイプラインを敷設する。これをユノカルが主導する。

米国を引きつけた魅力の第一は、このルートは「悪魔」のイランを通過しないこと。

第二にロシアを通過しないこと。クリントンは乗った。

ソ連崩壊後、世界帝国の輝きを取り戻したかの錯覚のなかに米国は酔った。

クリントン政権はこのプロジェクトに前向きで、カリフォルニアメジャーユノカル」はトルクメニスタンアフガニスタンを根回しし、それからパキスタンから分岐してインドへも輸出ルートを追加でつなげようとインドを訪問した。

インド工業化を急ぎ、ガスは必需品、プロジェクトに乗ってきた。

これをトルクメニスタンアフガニスタンパキスタンインドの頭文字をとって「TAPI」という。

直後、タリバン系アルカィーダがタンザニアなどの米国大使館を襲撃し数百の犠牲がでた。

クリントンは激怒し、ただちに報復としてインド洋上の米艦からトマホークミサイルを五十発、アフガニスタンのアルカィーダ軍事基地にお見舞いした。

当時、カブールタリバン政権に協力して電話工事をしていたのは、中国企業だった。不発弾トマホーク中国タリバン政府から買った。

もちろん1560キロのパイプラインプロジェクト[TAPI]はご破算になった。

▲第二幕 NATOの勝利が上海シックスを刺激した

01年9月11日、NY貿易センタービルワシントンDCのペンタゴンが、テロリストの奇襲を受けた。ブッシュ大統領はただちにアフガニスタンへの空爆準備に入り、まずはロシアを口説いた。

旧ソ連衛星圏のカザフ、ウズベク、キルギス、タジク上空を通過して爆撃機は飛んだ。

米本土からは長距離爆撃機ウクライナ上空をかすめ、NATOトルコ基地から旧ソ連イスラム国家の上空を飛んだ。

そればかりか世俗イスラム国家となったウズベキスタンキルギスンは空軍基地米軍に貸与し、タジキスタンには訓練基地パキスタンも四つの空軍基地を貸した。

この時点での図式は米軍NATOの大勝利だった。

グレートゲームの変質を知覚していなかった。表面的に米軍の装備が優れていたため、地上戦ゲリラ戦抵抗をかるく想定してしまった。

仇敵ロシアとその配下だった国々がテロ撲滅戦争に協力するという目的米軍NATOの活動を支援したことも見通しを曇らせた。

そしてアフガニスタンに米傀儡のカルザイ政権が発足し、カブールにしか統治が及ばない新生アフガニスタン誕生した。

一応は合法政権ゆえに外交権をもつ。

ユノカルは、「あの話」(TAPI)を復活した。カルザイ政権発足直後にトルクメニスタンアフガニスタンパキスタンの三カ国は、例のパイプライン敷設プロジェクトで正式に合意した。

これを不快に見ていたのは第一にイラン、第二にロシア、そして第三が中国である。

密かな反撃が準備された。

イラン中国と密かに武器輸入などを交換条件として、ガス鉱区を与え、さらには25年の長期契約でガス輸出を許可していた。イラン中国からえるものは武器と核技術である。

中国上海シックスの主導権をもつが加盟六ケ国(中ロ、カザフ、キルギス、ウズベク、タジク)にオブザーバーとして、イランインドパキスタンモンゴルを加え、あたかもNATOに対抗するかのような、東側の軍事盟主の立場を確保し始めた。

解体されたワルシャワ機構に変わるものとしてロシアは「全欧安保」を言いつのり、CIS間では個別あるいは集団的安全保障条約を結んだが、バルト三国グルジアと、そしてトルクメニスタンが加わらなかった。

プーチンはがむしゃらにロシア帝国の栄光の復活を夢見て、バルト三国ウクライナへのガス供給をとめ、グルジアには戦争を仕掛けた。

同時に欧州ロシアルート一本のガス供給ルートを多角化するためにナブッコ、ジェイハン・ルート建設を始めるや、同時に対抗して北方ルート黒海ルートを提示して欧州を揺さぶっていた。

とくにオーストラリアブルガリアドイツにはそれぞれが薔薇色のシナリオを提示し、欧州の団結をそぎ、利益誘導型で西側の分断パイプライン建設を妨害する。

 

▲第三幕 「中東金正日」=ニヤゾフ大統領の怪死

トルクメニスタン独裁者が「突如」死んだ。

トルクメニスタン砂漠の国だがイランやクエートの匹敵するほどの天然ガス埋蔵があり、いまのところ地政学的にロシア流通依存せざるを得ない。

だからこそニヤゾフ大統領はガス輸出の多角化に乗り気でアフガニスタンルートの開発が急がれた。これを“脱ロシア”化と捉えるモスクワ不愉快である。

 

ニヤゾフが突如急逝、主治医ドイツ人は前日に逃亡していた。

直後、トルクメニスタンの中立路線は変更となり、新政権はややロシア寄りに外交姿勢を修復した。

そして延々と中国へ輸出される総延長7000キロものガス・パイプライン敷設工事が始まり、TAPI・ルートへの比重は軽くなった。

いや、というよりも投げやりになった。

(所詮、アフガニスタン戦争は片付かない。パキスタンは所詮、米国にはつかない)。

つまり米国事実上の敗北が見えた。

トルクメニスタンは変心した。

イランはこの機会を待ち望んでいた。

もともと内陸部のトルクメニスタンアフガニスタンを経由して、パキスタンの港を目指すというユノカル案は、「イラン回避」ルートである。

米国イラン悪魔と呼びつつけた。

だとすればイランはガス油田から運搬ルートを南下させ、南の港へパイプラインを敷設していた。全長900キロのうち、残すところはあと250キロ。

地図凝視していただきたい。この地点からパキスタンのグァイダール港は「となり」なのである。

中国は古くから、この地政学的利点に目をつけた。

すでにパキスタンムシャラフ政権のときから、治安の悪いバルチスタン地域に中郷は労働者を運び込んで道路建設し、資材を運び、グァイダール港を近代的港湾設備を持ったものに改築してきた。

つまりイランからパキスタンの隣町へ運ばれるガスを、この地で精製し、パイプラインパキスタン西安から北東へ貫き、しかもインドへは分岐せず、この点でイラン中国パキスタンの利害は完全に一致した。

これが「IPCルートと呼ばれる。

▲第四幕 パキスタンイラン反米

パキスタンは白昼堂々の裏切りを演じた(ここで「裏切り」と穏当でない語彙を用いるのは米国契約概念からみれば、そういうニュアンスだから)。

五月下旬にパキスタンイラン契約したのだ。

中国が最終ユーザーとなり、中国パキスタンがともに天敵であるインドへは分岐しない。

パキスタン西端に位置するグァイダール港は、すでに中国資本技術をもって港湾のかたちをなしており、大々的改築(新築に近い)が進み、アラビア海に面する深海は将来、中国海軍の原潜基地になりうる。

げんに中国の六隻の軍艦アラビア海ソマリア沖の海賊退治に参加している。

パキスタンから中国への高速道路も着々と工事がすすみ、嘗てのカラコルム・ハイウエィは完成しているため、ガスの運輸ルートはこれに添ってパイプラインを敷設すれば良いのだ。

中国がこのルートに執着するのはマラッカ海峡への依存度を低減させるためで、ほかにもアンダマン沖合のガス田から(開発成功後は)ミャンマーを南北に貫くパイプライン建設して、マラッカ海峡への依存度をさらに激減させる計画がある。

中国にとっては、ユノカル買収を土壇場で拒否された米国への心理的復讐劇にもなる。

パキスタンはこのパイプライン通貨収入を年間五億ドルと想定、つまりこれをAPAI計画では、アフガニスタンがもともと受け取る予定だったのだが。

イランパキスタンとの正式調印はイラン大統領選挙の直後に盛大にテヘランで開催される(アジアタイムズ、5月27日、6月3日付け)

敗者はインドアフガニスタン米国、勝者はイランパキスタン中国

くそ笑んだのはロシア、臍を噛んだのはトルクメニスタン、そして日本はいつものように、こうしたグレートゲームの変質さえ知らず、ユウセイの人事とか、セシュウ制とか、およそ世界現実とは無縁の矮小な論議にエネルギーを費やしている。

2007-12-14

コアに行こう エロマンガ10  (濃密増田野郎

http://d.hatena.ne.jp/dangerous1192/20071210/p1

酔拳の王 だんげの方さんの

エロマンガフユ10に応募します。

「濃密増田野郎」の「男」です。

数年たっても面白く実用性が高い、古典となりうるようなものを選びました。

作者名「作品名」発行年月 ジャンル出版社名)

うたたねひろゆき「COUNT DOWN」1992年5月発行 普通エロス富士美出版)

繊細な線で激しい動き表現し、鉛筆画でも鑑賞に堪えうる絵を描く作者。

10年以上前の作品だが、今でも十分に実用性に耐えうる。

最近は一般誌で活躍しており、げんしけん付録同人誌も描いていた。

成人向け同人誌UROBOROSシリーズもかなりお勧め

毛野楊太郎「正しい課外授業」1999年09月発行 調教(コスミックインターナショナル

もともと矢野健太郎漫画が好きだったので、この作品をはじめて見たときは衝撃でした。

両者は師弟関係にある別人だと長年思ってたのですが、同一人物らしいと知ったのは、ついさっき。

道を踏み外した一冊です。

調教ものですが、暗く痛く、結末も救いようがありません。

しかし、絵が好きなので買いました。

シリーズ物で「楽しい課外授業」「恥しい課外授業」「激しい課外授業」「アブナイ課外授業」「淫らな課外授業」と続きます。

あーる・こが「つるつる」2000年12月発 ロリ富士美出版)

なにが衝撃的だったかというと、この題名です。

一年後には「すべすべ」が出ました。

きのした黎平成にんふらばぁ弐」2001年5月発行 ロリ桜桃書房

ロリ絵・ストーリーとも優れた作品を安定して残しています。

作画表現が何度か変わっていますが、2000年前後が一番好きです。

他作品「Eden's Summer」「秘育幻想録」「妹館」もお勧めです。

影乃いりす「まなざし」2003年1月発行 ロリフランス書院

ISBN:9784829678572

半強制で少女を犯すパターンが多い。

この本の中の学園乱交物が好き。

どざむら「MARKING ALGOLAGNIA」2003年02月発行 ロリ晋遊舎

多作であり、ストーリーも優れた作品を残している作者。

少女が自分からやられるパターンが多い。

ひぢりれいUK(UNMORAL KIDs)」2003年10月発行 ロリ茜新社

線の細い少女が自分からやるというのが、良いです。

先日もたまごまごさんが絶賛してました。

http://d.hatena.ne.jp/makaronisan/20071209/1197101486

ヒヂリレイ☆DECOッパチ

http://decoppachi.moeblog.jp/

まぐろ帝國放課後奴隷倶楽部」2005年02月発行 調教(茜新社

ISBN:9784871827379

おっぱい筋肉ムキムキ女性ギャグ漫画で描くのが好きな作者。

編集部に、売れる本を描け、と言われてと描いた、学園調教物。

底にはギャグっぽい雰囲気が漂う。

倶梨伽羅「淫縛女教師M」2005年07月発行 調教(富士美出版)

ISBN:9784894216389

おっぱいおっぱい、のムチムチ女性を描くのがうまい作者です。

元気でムチムチな女性を明るく、痛み表現もなく、喜ばせながら調教します。

他の作品では魔法ファンタジーが入ることがあります。

他作品「多感少女」「秘唇責め」もお勧め

●桐乃梵人「痙攣隷嬢」2005年12月発 調教(オークス

ISBN:9784861052903

唄飛鳥という名前を使うこともあります。

半強制ながらも最後は女性が喜ぶというパターンが良いです。

ロリと調教がほとんどになりました。

他にも色々ありますが、メジャーであったり、新しい作品なので他の人が紹介してくれるでしょう。

おがわ甘藍板場広しほかまみつり甘詰留太水無月十三さきうらら(痴女が恋しちゃダメですか)、さだこーじたまちゆき、春籠漸

マーシーラビット(InVision(淫Vision))、西安制服戯画)、ここのき奈緒(Virgin)

MON-MON愛奴真奈美、露出妻麗子)、草津てるにょ(よがり妻)

あーる・こが」の「ー」は、本当は「から」なのですが、増田では表示されないので、このようになってます。

だんげの方さん、よろしくお願いします。

集計用一覧

作者名 作品名 ジャンル 出版社

うたたねひろゆき,COUNT DOWN,普通エロス,富士美出版

毛野楊太郎,正しい課外授業,調教,コスミックインターナショナル

あーる・こが,つるつる,ロリ,富士美出版

きのした黎,平成にんふらばぁ弐,ロリ,桜桃書房

影乃いりす,まなざし,ロリ,フランス書院

どざむら,MARKING ALGOLAGNIA,ロリ,晋遊舎

ひぢりれい,UK(UNMORAL KIDs),ロリ,茜新社

まぐろ帝國,放課後奴隷倶楽部,調教,茜新社

倶梨伽羅,淫縛女教師M,調教,富士美出版

桐乃梵人,痙攣隷嬢,調教,オークス

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