はてなキーワード: 被写体とは
同人誌を書いて売っている。
1度に刷る冊数は1000冊くらい、ツイッターのフォロワーは1万人超。
コスプレイヤーがどうも苦手で好きになれない。
同性だからか、それともナメられているのか分からないが、全体的に態度が馴れ馴れしく上から目線が多い。
イベントで会って、そのあと数回リプライしただけでこちらにガンガン空リプを送り、
とにかくノリが馴れ馴れしい。
数回目のリプライでタメ口は当たり前で、友達なのか?というくらい延々と話しかけてくる。
そんなことをしてくるのはコスプレイヤーだけだ。
コスプレイヤーはノリが独特で、ツイート数や空リプが異常に多く、
そしていつもなにかしらモメて学級会を開いている。
私は人との交流が苦手で、ひとりで黙々とアニメを見てゲームをして漫画を書いているのが
好きなのでそういうノリは苦痛だ。
仮にも相手が美人のコスプレイヤーであればまだ納得できる部分もあるが、
自分よりも顔もスタイルも劣るアンパンのようなコスプレイヤーに「今回の本も結構よかったーwww」と
親しくもないのに言われると、なんだろう…となる。
最近ではツイッターを絶対にフォローし返さないようにしている。
ひとりで暗く漫画を書いている私では気の合うはずもない。
毎回売り子の申し出を断るのがめんどうでうんざりしている。
http://anond.hatelabo.jp/20160527041103
ブコメやトラバのコメみて思ったんだけど、この増田、指摘されてること、ちゃんと自己分析できてるよ。
>パンフォーカスよりも、被写体深度が浅い写真が好きなことを思い出しました。
>それでも軸上色収差が許せない、そんな心の狭い人間なんです。
この一節はカメヲタじゃないと意味不明だと思うけど、俺なりに言い換えると、
「一般人のような柔軟な価値観と広い関心事で生きることよりも、自分の狭い価値観の中の方が居心地がいい。
ただし、好きなことであっても、少しのノイズも許せない。そういう了見の狭い人間です」
って感じの意味だろ。指摘されるまでもなく、十分過ぎるくらい理解してるんだよ。人としては色々問題もあるけど、彼女作ってセックスまで持ち込んで、その上で「つまんねー」と評価したんだろ。努力していないわけじゃない。何もせずに思い込んでるわけじゃない。本人なりに努力してそう結論付けたんだから、外野が偉そうに「もっと性的に主体的であれ!」とけしかける必要なんて全く無い。そもそも、生まれてきたすべての人間が性に主体的で貪欲である必要なんて全く無い。増田みたいのは本来の意味で自閉的に生まれついてるんだろう。LGBTと同じで、そういうのも認めてやれよ。
世の中には幽霊となった人が恋人の危機を救うだとか素敵なメッセージを残していくだとかそういった話も多々あるようなので
そういう存在もいてもいいかなくらいには思うのだが、そういう世界の扉を開けたことは一度もない。
そういうものを見た、何かが写っていた、気持ち悪かった、などという話に聞くたびにいわゆる『霊界』『死後の世界』『あの世』などと呼ばれるものに疑問を挟んでしまいうまく信じることができない。
『死』を受け入れられないというわけではない。
私が死んでも世界は変わらんと思っている。私という存在が消え去るだけだ。
死んだという報せを聞けば何人か悲喜こもごもあるだろうが、それこそ49日ほど過ぎれば死んだことすらどこかへ行く。
たまに思い出されて、「ああいたなあそんなやつ」。そんな人たちもいなくなれば、完全に消滅だ。そういうもんだと思っている。
だからこそ確認したいのだ。本当に死の向こうに、霊体だけが暮らす新世界があるのだろうか?
あらかじめ書きたいが、別にかの世界や特定の宗教等を否定したいわけではない。
○○は××だからwwwwwはい論破wwwwwww などとやる気は一切ない。むしろ逆だ。可能であれば完全に存在を証明されて論破されたい。
これを見て、こういったモノに詳しい誰かが非の打ちどころのないコメントを残してくれるのを見たい。それを心待ちにしている。
(1)心霊写真ってどう思う?
昔々はちょっとしたブームになり、織田無道だとか宜保愛子だとかが毎週のようにTV番組に出てきていたこともあった。
今は「おわかりいただけただろうか」か。流行の強弱はあれ、ずっと続いている心霊写真ブーム。
ところで、あの手の番組に出てくる写真や動画、構図や被写体って似すぎてやしないだろうか。
人間の体は頭、胴体、両手両足、股間まわりと大まかに言ってもこれだけパーツがあるが、
心霊写真って、ぼやっと全身が写っているか部分的なものは頭と手ばかり写っているように思う。
「顔と手には思念が残りやすい」などという話を聞いたりもしたが、それならケツや乳に思念が残ったっていいじゃないかと思う。
短小をバカにされて自殺した童貞男の幽霊がいて、夜な夜な女の宿泊客の顔にBUKKAKEてくる……とかさ。逆にデスペニスでもいいよ。
もうひとつ言うと、人間が霊体を認知するのって圧倒的に視覚じゃないかと思う。
音は幽霊の描写としてよく使われる手段ではあるけども、この音がするから幽霊だというのはイマイチ証拠に欠ける。
においというのはある種個性として認知されるものだが、『この建物はなんだか幽霊くさいぞ』とは聞いたことがない。なんせチョコボっぽいし。
いわゆる『向こうの世界』からくるものが圧倒的に人間ばかりだと思う。人間すぎる。
旧日本軍の兵隊や髪の長い細身の女性の幽霊の話はごまんと聞くが、ヒグマやサメの幽霊が暴れて人が死んだという怪談話を稲川淳二がしたことがあるだろうか。
霊はこの世に未練があってなんちゃらかんちゃらと言うなら、人間さまのご都合で殺されまくった動物の悪霊なんてアホほどいそうなもんである。
忠犬ハチ公の幽霊はご主人が帰るまで待ち続けたのだろうか?そんな話も一切知らない。
地獄という場所も圧倒的に(宗教的に)悪いことをした『人間』を懲らしめることに特化した施設のように思う。
今どきはペットだって洗礼を受けるし、葬儀だって開くわけだろう?
『動物には動物の天国や地獄がある』と主張する人もいるようだが、その世界観が取り上げられたものはほぼないように思う。
どうすれば天国でどうすれば地獄か、どうすればより高次の生き物に輪廻転生できるか、などという判断も人間さま向けの基準だ。
吸血や捕食を生業とする生き物に転生したら、殺したり奪ったりしないと生きられんわけで。
そんな生き物に転生させといて殺すな奪うなと言ってもじゃあどうすりゃいいんだよ……ってなもんじゃないか?
(2)ともちょっとリンクする部分があるが、見出しのままだ。あの世でパンは焼けるだろうか?酒が作れるか?と言ってもいい。
例えばパン職人ひとすじでこの世を去った人がいたとしたら、天国でボサッと呆けてるとは思えない。そりゃ、いっちょ自慢のパンでも焼くかと思い立つだろう。
逆にパン職人だったお父さんを見送った遺族だって、「お父さんはきっと天国でもおいしいパンを焼いてるよ……」とか言うだろう?
お父さんの生き生き天国ライフをかなえるには穀物と菌の存在が必要である。まあいい。生きたものがあの世には行かれないだろうから生きてはいないはず。
つまるところ、『植物や菌類の幽霊』なるものが存在するかどうかだ。
存在するとして。
パンを作るためには穀物をすり潰して粉にしたものをアレコレしたあと菌によって発酵させて、焼くという工程が必要だ。
工程の最中、穀物は当然として菌も死ぬよね。焼かれるわけだし。だとして、幽霊が死んだらどこへ行くんだ??
すぐに生き返って元に戻る、だとしたら最悪だ。イースト菌の霊からしたらなんべんも焼かれては生き返ってまた焼かれるわけだ。
ダンテの神曲に出てきた地獄の図とまったく同じことが天国にいながら天国に行ったパン職人によって引き起こされる。鬼かオヤジ。
さらに死んだ者用のナニガシが存在するとなると、それは無間地獄である。天国にいながら地獄という図は変わらないのではないか。
存在しないとして。
パンはどうしたら作れるだろうか?
墓参りの時に、生前好きだったものを供える習慣がある。寺の坊主に言わせると、お供え物の霊的なナニガシだけを受け取るのだとかなんとか。
これを使えばイケそうな気もするが、毎日墓前に小麦粉とイーストパウダーをお供えする遺族なんて存在しないだろう。なんせ傍から見てどう考えてもおかしい。
せいぜい跡継ぎ息子が焼いたパンをお父さんもぜひ試食してくれ旨いだろうと供えられる程度である。
お父さんも天国でパンを焼きたいのだが、このままではこの世に未練が残ってしまいお父さんが化けて出てしまう。
焼くことが可能だとして、パンはどうなるのだろう?幽霊はパンを食うだろうか?
死んでるんだから食わないというのなら、飢えに苛まれる地獄というのはよくわからない存在になりそうだ。
それに、そう、お供え物だ。我々が良かれと思って供える故人の好物や茶などは、実はありがた迷惑ということに……。それは悲しすぎる。
かと言って普通に食べるということにしてしまうとそれはそれで大変だ。これまでン万年の間に死んだ人間はそれこそ星の数ほどいるわけで。
食い物が、足りなさすぎる。
高校を卒業した2006年、大学へ進学した友人の招待でmixiの会員になった俺は、
予備校から帰宅すると、彼らの楽しそうなキャンパスライフが語られた日記を読んでいた。
何か月か前まで、時にはオナニーした日まで報告し合う、常に一緒だった馬鹿な友人たちとの仲も、
こうして立場が変わり、歳を重ねるごとに疎遠になってしまうのだろうか
という漠然とした不安を払拭してくれた、画期的なツールだったように思う。
そして、SNSの主流はFacebookやInstagramに変わった。
会って接する時と違う一面を文章で見せられたり、
招待されて仲の良い友人たちと、こそこそネット上でつながったりすることが
楽しかったのだと思う。
FacebookやInstagramのようなSNSの存在を否定するつもりはないが、
・こそこそ感
これなんじゃないかと思う。
今見てきた、63人いる俺のマイミクの中で1日以内にアクセスしていたマイミクは2人だった。
ミクシィは、モンスターストライクが柱で株価も昔より良いから、
オワコンなmixiなんて放置しとくかってことかもしれないし、63人中61人が非アクティブという、
こんなものを取り入れたら、また、画期的なmixiが復活するのではないだろうか。
新システム移行のため、mixiへの関心がないユーザーを排除。
招待制を復活させると共に、3,4人といった複数人から招待されないと会員になれないシステムを導入。
これによって、知人ではなく、「仲の良い人とだけつながるSNS」というスタンスを構築。
mixiでも他のSNSでも、友人の更新のお知らせをタイムラインで確認できてしまう、
この便利さを、最大3人までの「とびきり仲の良い人枠」に制限。
基本は、「その人の近況を知りたいならお前が自分で見に行けよ」というスタイルで、あえて不便にする。
こうすることで、自分にとって興味のある人とのつながりを促進。
必ずしも興味のあるという想いが双方で確立しているとは限らないので、
SNSで問題になっている、そこまで仲良いわけじゃないんだけど、もしくは、会社の上司で
仕方なく友人として登録してしまったがために、発言や写真に気を使うことも増え、
“お互い”が登録当初は1か月、3か月、6か月…最長1年という具合で無アクセスの場合、運営側のシステムでマイミク関係を自動解消。
結果、仲の良い友人だけと、こそこそとしたつながりを実現。
関東の桜は満開のピークをすぎました。
写真がデジタルになった恩恵の一つは、撮った写真データの合成が容易にできるということです。
桜の花びらが舞い散る様を撮影して、いざ写真を見てみると花びらの少なさにがっくりすることがありませんか?
人の目で見ているときは時間の経過があるので、次々に花びらが舞っていく量を体感することができますが、いざ写真に撮ってみるとその時に舞っている花びらしか写らないので量を感じるには乏しい物になってしまいます。
これは、写真が瞬間を切り取るものであるからこその悲劇と言えます。
そんなときは、カメラを高速連写モードにして3~5枚ほど一気に撮影しましょう。
その後、撮影した写真データをそれぞれ重ね合わせて合成します。
フォトショップでいうところのレイヤーの描画モードや、スマートフォンアプリなど可能です。
そうすると、それぞれの写真の変化があった部分だけが合成されます。つまり、舞い散る花びらの量だけを増やすことができるのです。
ちょっとした角度の違いで背景がブレてしまうようであれば、舞い散る花びら以外の部分は消しゴムで消してしまいましょう。
あとはお好みで合成する枚数を増やしていけば完成です。
手持ちで撮って余計な部分は消してしまえばいいという手軽さです。覚えておくと便利です。
スローシャッターとは、シャッタースピードを遅くして故意に被写体ブレを起こさせるテクニックです。
花びらや桜の枝を故意にブレさせることによって桜の散る様を表現してみましょう。
シャッターの開いている時間が長くなるということは当然それだけ手ブレのリスクが増えます。
そうなると三脚が必須ですが、人通りの激しい花見の季節にはなかなか取り出せません。
そこでオススメなのはスタンド機能がついている一脚です。マイクスタンドの用に一脚の下の部分がパカリと開きます。
注意して使えば軽いミラーレスでなくても数秒は安定してくれます。
次に大切なことは、光量です。
日中の撮影でスローシャッターをすれば当然露出オーバーになってしまいます。
そこで登場するのがNDフィルターです。
減光フィルターとも言われ、文字通りレンズから入る光の量を減らしてくれます。
フィルターには減らす光量に応じて種類が用意されていますが、光量を可変できる安価なものがあるのでひとまずはそれで十分です。
この時、設定をカメラ任せのままにしていると一向に思った通りの写真ができあがりません。
まずはISOを最低感度に固定。
モードをMにしてF値は11を上限に、シャッタースピードを下げていきましょう。
F値の数値が大きくなれば露光量は下がり、シャッタースピードが遅くなれば露光量は多くなります。
まずはその時の散り具合や風の強さに合わせてシャッタースピードを決め、露出が適正になるようにF値を絞っていくのがいいでしょう。
最後のちょっとした微調整は、NDフィルターの明暗を調整することでも可能です。
デジタルになって一番の恩恵は、なにより撮影結果をその場で確認できるということでしょう。
それまでは高度な技術と知識が必要だったスローシャッター撮影も、撮影結果を確認しつつのトライアンドエラーですぐに成功させることができます。
その場合、液晶に写る写真そのもので成否の確認を行ってもいいのですが、せっかくなのでヒストグラムを確認しましょう。
右や左にはみ出してしまっている量が多いと、つまり白飛びや黒つぶれが起きている証拠であり、レッタッチでは情報を取り戻せない状態です。
中央に向かって山型が描かれていれば、あとはレッタッチでどうにでもなります。
ちなみにNDフィルターを用いたスローシャッター撮影にはもう一つのメリットがあります。
それは、動いているものがブレるために写っている人のプライバシーを守れるというものです。
そんな時にスローシャッターで撮影すれば、当然人は動くので被写体ブレが起きて顔の判別ができなくなるというわけです。
スローシャッターを使った写真をうまく撮影するコツは、写真の中にブレていないポイントしっかり写しこむということです。
なぜなら、写真にピンぼけやブレがあると人はその写真が失敗写真だと感じてしまうからです。
例えば揺れない桜の幹、桜の花の背景など、ブレないものを一緒に写しこむことで桜の枝や花の動きを表現しましょう。
つまり、動きを表現したい背景は表現したいものよりも暗いものを選ぶとより動きが表現できるようになります。
これ以外にも、カメラの世界には表現したいことに対するアンサーが沢山用意されています。
手持ちの機材で限界を感じ始めたらまずは色々とためしてみることで更に世界が広がっていくことでしょう。
またそのうち!
動画や写真の被写体が本人であるかどうかなんてことは、つまるところ、その場にいた人間にしかわかり得ない。
もっと言えば、その場にいた人間ですら、本当にそれが本人であるかどうかなんて証明することなど不可能だろう。
その人物が本人であるかどうかなんて本人にしかわからないし、本人ですら自分が本当に自分であるかなんてわからない。
赤の他人の空似かもしれないし、生き別れの姉妹かもしれないし、どこか宇宙の科学力によるコピーロボットが決して存在しないとも断言はできない。
(ただし鼻が赤くないのであればコピーロボット説は否定してもいいだろう)
1秒前の私も1秒後の私も今この時の私とは別人なのだ、と言う人だっているだろう。
従って、我々は信じることしかできないのだ。
「この映画の撮影において動物の虐待は行われていません」と明記してあれば動物は虐待されていないのであるし、
「このゲームの登場人物は全員18歳以上です」と明記してあればその登場人物たちは18歳以上なのであるし、
何人も18歳未満の者(以下、「児童」)に対する性行為、性的接触、性的搾取及び性的虐待並びにこれらに準する行為をしたいという志向・思想を抱いてはならない。
児童が上記の行為をされている、又はされている様な表現が含まれていると看做されるポルノは、これを全面的に禁ずる。
○写真・映像の場合、被写体・出演者の年齢・性別を問わず(例えば成人男性が女子児童としてポルノに出演した場合も)禁止の対象となる。
○CG、イラスト、絵画、彫刻、漫画、小説、アニメーション等によって、擬似的に児童への性行為等を表現したものもこれに該当する。
これらに該当する児童ポルノを製造・譲渡及び所持した場合、法律により摘発及び後述の施設入所義務の対象となる。
更に、全ての成人した国民は、定期的に国の定めた小児性愛検査を受ける事を義務付けられる。
検査により小児性愛者と判断された者や、上記の児童ポルノに関する規定に違反した者は、性癖矯正施設への入所を義務付けられる。
矯正施設へ入所した者(以下、「入所者」)は原則として施設に矯正が完了したと承認され出所するまで外出をすることはできない。
入所中は主に以下の行為が禁じられる
○児童の写真、絵やイラストが載っている書物を所持する。児童が出演している映像・番組を視聴する。
○その他、施設の許可を得ずに外出する等、施設が定めた規則に反する行為。
やむを得ず入所中に外出の必要がある場合、入所者は厳粛な条件の下で許可を得た上で指定時間の間だけ監視員の同伴で特別に外出が可能となる。
施設外での用事が完了したら、その時点で指定外出時間にまだ余裕がある場合でも速やかに施設に帰宅する。
・半径5m以内に入る。
・話しかける。声をかける。
・写真を撮る。
○児童の教育施設(幼稚園・保育園・小学校・中学校・高等学校等)の敷地内のみならず、付近1km以内に立ち入る。
○その他、指定された時間以上外出する等、施設が定めた規則に反する行為。
尚、入所者が上記の禁止事項に触れる行為を行った場合に於けるその場の処置については監視員の判断に委ねられる。
また、小児性愛者と判断された者が施設への入所を義務付けられたことにより生じた損害・不利益等はその責任・賠償を政府又は施設に問う事は一切できない。
「アニメだから駄目なのじゃなくて、こういうポスターは三次元でも駄目だ」
「オタクが差別されているんじゃない。こういうポーズをグラビアアイドルがやっていてもアウトになる」
私は二次元に比べて三次元の方が卑猥に感じる。三次元のグラビアアイドルの写真は直接的に女性の肉体を見せつけるのに対して、二次元はただの絵だ。写真と違って、絵はその向こうに実在の女性がいるわけでもないから、そのイメージは現実世界にいる女性と結びつきづらい。しかも「萌えキャラ」の描き方は抽象的すぎて、もはや完全に現実離れしてしまっている。あれは人間の体ではない。
だから対象が同じポーズを取っているとしても、二次元は卑猥に感じにくいという気持ちがある。
グロ画像もそんな感じだ。例えば現実にむごたらしく殺された人の死体写真を見ると、私は恐ろしいと感じて直視できない。一方、マンガになって死体が描かれているならば、その死体に現実のモデルがあるにせよ、絵がすごく写実的に作られているにせよ、それを見るときの拒否感は緩和されるだろう。
追記
「セクハラ」という観点で考えても、やはり二次元より三次元の方が問題になるんじゃないかと思う。
グラビアアイドルのちょっとエッチな写真というのは、女性の体を売り物にしているし、それを男目線で一方的な消費対象にするものだ。だからフェミニストから女性差別で侮蔑的と言われると、私もそりゃそうかなと思うわけだが、二次元の萌えキャラの絵を三次元のグラビアアイドルの写真と同列に語るのはいささか違和感がある。
二次元に実在の被写体があるわけではないし、前述のとおり萌えキャラは抽象的で現実離れしている造形だ。「この絵に描かれているのは人間の女性ではない!まったく別の存在だ」というふうに感じる節さえある。それゆえ、「女性差別で侮蔑的」という指摘をぶつけられても、グラビアアイドルの写真ほどにはそのフェミニズム的な見方を承服しづらい。
前回のアイレベルは全く鳴かず飛ばずだったけど、今回も頑張るよ。
実はこの消失点はアイレベルとも密接な関係のあるキーワードなのだ。
でもなんとなくつまらない、今ひとついい写真にならないっていうレベルの人に向けた内容だよ。
いわゆる遠近法で使われる言葉で、最も奥行きがある場所、奥行き感が消失する場所が消失点です。
さっきあげたレベルの人というのは、言い換えると被写体はうまく撮れるようになった人と言えます。
それならば、次に大切になってくるのは背景の要素というわけです。
あなたは3分割のラインが交差する部分に被写体を置くようになりました。
この開かれた空間こそが、写真のドラマを演出する空間になるわけです。
まずは手始めに被写体と対になる交点に消失点を持ってきてみましょう。
奥行ある風景の中に、被写体が浮き出てくるような写真が出来上がりました。
被写体から放射状に広がる風景が、何か神秘的な物語を語りはじめそうな写真が出来上がりました。
このように、遠近法によって描かれるパースは、被写体を取り巻くストーリーを物語り始めます。
また、こうしてパースのラインが描かれることによって、写真を見る上での視点の動線が作られるようになります。
背景→被写体と、見る側の視点が迷うことなく導かれることによって、見る側の違和感が解消されていくわけです。
例えば消失点のない左右に平行な線が描かれる写真は、奥行き感の惑わされる不思議な写真として描き出されます。
このように消失点とは、奥行き感という演出を加える大切な要素なのです。
アイレベルでも触れた話ですが、子供の写真を撮るときに大人が直立のままシャッターを切ると消失点は写真の遥か上方向にあることになります。
せっかく愛らしい子供が映った写真なのに、その背景はただでさえおもしろみのない平坦な地面がさらに奥行き感の失われたつまらないものになってしまうわけです。
秋の行楽シーズン。
旅行先に限らず運動会などでもカメラ片手に東奔西走するパパママ達がこれでもかというほど目に入ってくる。
一生懸命に子供の姿を写真に収めようと奮闘しているわけだが、大半の方に惜しいと感じることがある。
一生懸命に走り回るところまでは良いのだが、いざ追いついてみると直立の姿勢でパシャ。また走っては追いついて直立のままパシャ。
惜しい。非常に惜しい。
当然大人の方が子供より背が高いので、大人が立った姿勢からシャッターを切ると子供は頭ばかりが大きくて足が短く写ってしまうことになる。
しかも大人目線から子供の顔を通り抜けた先は地面。周りの景色も写らなければ奥行き感の乏しい写真の出来上がりだ。
そこまで頑張って走ったなら、もう一頑張りしてしゃがんでみよう。
子供と目線の高さを合わせてみることで、その子供が見ている世界が見えてくる。
その世界とともに子供を写真に収めてあげれば、あなたの写真は「子供の写真」から「子供のいる世界の写真」に変わることができる。
確かに上目遣いの子供もかわいいものだ。でもそれは、子供が親に視線を向けている時だからこそ。
親の目線からの写真を表現するときにこそ使うべきアイレベルといえる。
このように、アイレベルとはつまり誰の目線かを表現するためのものである。
さて、写真が上手になってくると人から写真を頼まれることも増えてくる。
今までは自己満足でよかった世界に、急に他人の評価が入り込んでくるのだ。
ではどの高さにアイレベルを合わせるのが最も無難といえるのだろうか。
レンズの画角にも左右されるが、レンズ選びのできない方が使う標準的なレンズでは足が長く頭の小さい写真になる。
一見誰もが喜びそうな変化といえる。
しかし、写真に撮り慣れない被写体は、顔をあなたのレンズに向けてくるだろう。
引きすぎた顎は二重にたるみ、見下ろすような目線は威圧感に満ちあふれ、実に高圧的で傲慢な写真の出来上がりだ。
余談だが、それらを避けるためにこうした角度からの写真は被写体にやや上方向の遠くを見てもらうような姿勢をとってもらうことが一般的だ。
広がる空に目を向けることで、未来や世界に対する広がりを感じられるからである。
それは、女性なら鼻下からおでこ。男性なら鼻下から鎖骨に合わせるというものだ。
一般的な話になるが、女性は瞳が魅力的に写る写真を好み、男性は謙虚ながら存在感のある写真を好む傾向にある。
細かい説明は割愛するが、その黄金率がそれぞれ鼻下を中心に5~10cmの範囲に収まっているといえるわけだ。
あくまで一般論であり最初に立ち返ればアイレベルは表現の入り口に過ぎない。
しかし、頼まれた記念撮影に撮影者の表現が強く現れてしまうことが好まいくないことも確かだ。
記憶の片隅にでも役に立つ知識としてとどめておくと良いであろう。
子供の素晴らしい瞬間を切り取るために恥じらいなんてものは些細な問題だ。
尻を突き出し、時には地面に這いつくばってでも収めた瞬間は、その経験も含めてかけがえの無いものなのだ。
こうして皆の理解がすすみ撮影者が自由になれる世界を心から待ち望んでいる。
とは言え、下の子を抱いたままだったり激しい腰痛をお持ちだったりと簡単に中腰になれない方もいるだろう。
そんな方にはチルト(バリアングル)液晶のついたタイプのカメラが激しくおすすめだ。
カバンにフジのF900-EXR(2,3年前に2万円位で購入)を放り込んであるけど、めちゃくちゃ便利で手放せない。
写真はスマホで全部OKとかいう話が一時出てたけど、そうじゃない理由を書きます。
フジのF900-EXRだと、鞄から出して起動してズームしてフレーミングしてシャッター切るまで数秒くらい。フレーミングしないと2,3秒。
一方、スマホだと手遅れになることが多い。(慣れてないだけかもしれないけど)
(2)シャッター音
スマホのシャッター音のせいでセレモニー会場とかで写真を撮りまくれない。コンデジはそこを気にしなくてよい。
(3)暗い場所でもフラッシュ無しでそこそこ撮れてズームが効いて被写体に緊張させずに自然な絵が取れる。
これはスマホとの比較じゃないけど、高級志向のコンデジとか一眼と比べカメラの存在感が薄いから
フジのF900-EXRは主張の薄い外見なので宴会場でズームで撮っていても撮られた方があまり気づかないみたいで
自然な表情の良い写真と褒められることが多い。フラッシュ無しでもそこそこ速く撮れる性能も効いている。
厳密にはカメラ持ち込みが微妙な場所でも私的な記録の範囲としてお咎めなしで通りやすいような気もする。
(そこはスマホと同じ)
インターネットの鬱屈としたセックスの文化がそのまま街に現れている。
神保町に飽きてしまったのが理由の一つだけど、一番はD810という自分にとっては高級なカメラを秋淀で触るためだった。
靖国通りを歩いて、万世橋へ行くと30歳以上は年をとったダウン症の男と、その父親であろう人間がいた。
どちらも白髪が生えていた。
秋葉原がすごいのは容姿格差が凄まじい、あまり仲良くなさそうな男女が一緒に歩いていることだ。
女は仕方なく歩いている。
メンヘラな容姿の良い女は性的魅力を武器に一生懸命子供のままでいようとしている。
秋淀の中では容姿の良い女の子とその父と母がオリンパスのミラーレスを買っていた。
いい買い物だ。
女の子の肌が黒いのは日焼けなのか、自分よりも薄い色だからいいだろう。
色白に生まれたかったが、キャノンのAPS-C機の前にいるアルビノの家族のうちの一人が40くらいの女が白杖を持っていたから、白すぎるのも考えものだった。
ホコ天を歩いていた、あの女になれないからD810を無理して買おうとか考える。
自転車コーナーに行ったら、美人になりそうな女の子がそのそばにある仮面ライダーのアーケード機で遊んでいた。
女はイケメンの父らしき人間に引っ張られていたが、顔は良くなかった。化粧をすれば化けそうではあった。
そしてちんたらちんたらと千代田区の高級住宅街の家まで歩いて帰ると、祖母らしき女とコンデジをもった140後半の背が低く、体がずんぐりした、生まれつきくびれなどができない運命の肌が黒くて顔がでかくて、顔のパーツも髪も全て悪い10代後半?の女が歩いていた。
貧乏性の父親から買い与えられたD5300が手狭になったわけではない。
そもそもD5300で何か撮ったかというとほとんど何も撮っていないわけである。
恐らく、レンズやフルサイズのカメラは買っても使わないだろう。
最近、父親の会社の就活サイトのページに自分が会社のミラーレスで撮った写真が掲載された。
ひどく下手な写真だった。
美人でない女を撮るのはなんともなかった。
自分はD5300で京都で美人を撮る機会は愛のあるセックスをする機会よりはまだチャンスはあるかもしれない。
見てないが、相手を太らせ、容姿を劣らせることにより、洗脳される側の立場が弱くなり、洗脳する側は有利になるそうだ。
つまり、平常時はナチュラルに容姿が悪いものが立場が弱いということだ。
ひどいすがたの自分は一人の美人を撮るのに苦労するかもしれないけど、美人は向こうからは大量のオファーがあるはずである。
知り合いの写真学校にも通わせてくれたから、なんとかひどいけど撮れる程度にはなった。
でも、撮るものがなかった。
ビルやら、鳥やら、海やらをとりあえず撮っていた。
先週、父親の会社でミラーレス機でだが、新卒募集用のサイトの写真を撮らせてくれたときは嬉しかった。
クソみたいな映像系の学部に通っている自分の技能や経験を頼ってくれたことと、若い女の写真を撮れるからだった。
顔がよくない女と、顔がいい女の写真を撮った。
手汗でカメラがねちょねちょした。
社員がなにも考えずに撮るよりも、うまく自分は撮らなければいけないという思いと、顔がいい女の目をディスプレー越しではあるが初めて見たので怖かった。
どちらも優しくしてくれるけど、顔がいい女の方が話すときも写真を撮るときも緊張した。
正直、顔のよくない女は雑に撮った。
なぜか自分はそうしたのだ。
顔がいい女には大量にシャッターを切った。
顔がよくない女の方はなんともおもわなかった。
顔のいい女を撮っている自分はただただ惨めだ。
それは被写体に金を払ったり、お願いをしたりしなくてもだ。金を貰ったり、逆に女からお願いをされてもだ。
惨めすぎて、悔しくなってくる。
どうして撮らせてくれたかというと、映像系の学部に行ってて、他の人たちよりもカメラに触っているという理由からだった。あと、自分の父親が雇用主なのもある。
自分は人物 特に若い女を撮ると通報される人間だから、イベントや書泉グランデの撮影会のような場所でしか若い女は撮ることができない。
正直、キモメンに取られるのに慣れている性格があまり良くない人たちしか撮れない被差別民の自分が、普通の女を撮れるというのは嬉しかった。
ビルとかの建物しか撮っていなかった自分が、撮ることになって大丈夫かと不安になった。
WEB用だからJPEGで十分だけど、RAWもとりあえず保存する設定にしていた。
とりあえず撮れた。
どうして、セックスに困らない女を撮るのは苦しいのだろうか。
もう一人の優しいけど、冴えない女を撮っても何も思わなかった。
今後、撮る機会はないだろうけど、もう撮りたいと思わない。
イベントでレイヤーを追いかける人もいれば、猫写真専門の人もいる。
俺は風景写真、街撮りがメインで、被写体によってフルサイズとミラーレスを使い分けてる。
で、まあ女の子を撮りたいとか猫を撮りたいとか絶景スポットを撮りたいとかは理解できるんだけど、
バズーカみたいな望遠レンズを引っ提げて、航空ショーで戦闘機を撮ったり、カワセミを撮ったりする人たち。
自分が写真を撮るときは、「この夜景を長秒露出で撮ったら奇麗だろうなー」とか、
「こういう構図で撮ったら人の意表をついた写真になるんじゃないか」とか、人の心を動かすような
写真を撮ろうと思ってる。
でも飛びもの屋の人たちの写真は、「カワセミの飛翔をジャスピンで写しとめてるから凄い」とか
「羽の一枚一枚まで解像してるから素晴らしい」とか、そんなイメージ。
高速で動く被写体に、いかに素早く、正確にAFを合わせられるか。ファインダーの中央で捉えられるか。
まあこれは偏見だろうし、野鳥写真にも素晴らしい作品はたくさんあるんだろう。
それは思う。思うけれど囲まれて初めて感じる快感ってある。お姫様感みたいな?キモいなーって思いながら目線の下に男がひれ伏して隙あらばハミ肉でも撮ってやろうと狙ってるのが楽しくなっちゃう。
それとは別で実際問題被写体として映える人に群れるのは仕方ないし、そこで一列に並ぶって出来ないしね。やるとしたらカメラを構える時は膝立ちで腰を45度以上曲げない姿勢、カメラは胸の位置より下げない事。とかどうせ守りもしないルールを押しつけるぐらいじゃないかな。
どうせそこまでやるなら時間入りの整理券配ってそれ以外には別の日に個人撮影会の割引券でも配れば商売にもなって一石二鳥じゃないかなとは思うけど。
「目の前のおっさん、きもい(笑)」 若い女性の中高年盗撮、SNS投稿で訴訟も (1/3) はてブ 関連。
実は『盗撮罪』のような犯罪は存在しない。では、盗撮はどのような法律に基づいて取り締まられているのか、個別に見ていこう。
現在の日本国において、盗撮する行為そのものを規制する唯一の”国の法律”が軽犯罪法である。
言うまでもなく軽犯罪法は罰則自体が軽い上、取り締まる対象は『人が通常衣服をつけないでいるような場所を』だから、街中や相手の家のリビングを盗撮しても罪にならない。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO039.html
二十三 正当な理由がなくて人の住居、浴場、更衣場、便所その他人が通常衣服をつけないでいるような場所をひそかにのぞき見た者
盗撮すると国の法律上どんな罪になるかというと、結構多いのが住居侵入罪だ。
だがもちろん、これは『盗撮するために不当に侵入したこと』を罪に問うているのであって、盗撮行為そのものを罰しているわけではない。
(何か『どこに入ると罪になるか』については若干の議論があるらしいが、ここでは触れない)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%B1%85%E4%BE%B5%E5%85%A5%E7%BD%AA
http://www.geocities.jp/masakari5910/houritsu_j4.html (註・このページの情報は若干古い)
第五条
何人も、人に対し、公共の場所又は公共の乗物において、人を著しくしゆう恥させ、又は人に不安を覚えさせるような卑わいな言動をしてはならない。
第八条
次の各号の一に該当する者は、六月以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
2 前項第二号(第五条第一項に係る部分に限る。)の罪を犯した者が、人の通常衣服で隠されている下着又は身体を撮影した者であるときは、一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。
この項目に引っかかり、1年以内の懲役または100万円以内の罰金になる。
逆に言うと、『入ってはならないような場所以外で』『通常衣服を着けない場所(体の部位ではなく、撮影が行われた場所)以外を撮影したのでなければ』条例しか取り締まる法令がないので、飛行機の中で盗撮があった場合はただちにそれが何県の上空で行われたのか特定しないと罪にできない。
(参考リンク) http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1734331.html
実は数年前まで、県の迷惑防止条例には重大な欠陥があった。たとえば岡山県 新旧対照表 この新旧対照表が平成25年成立の平成26年施行とは悪い冗談のようだが、本当だ。
2 何人も、婦女に対し、公共の場所又は公共の乗物において、婦女を著しく羞しゆう恥させ、又は婦女に不安を覚えさせるような卑猥わいな言動をしてはならない。
婦女に対し、である。男に対して羞恥させても軽犯罪法にしかならなかった。千葉県などはこの手の条文の後に「男子に対して行った場合も同様とする」ような文言があるが、一部の県ではそれすら存在せず、男性を羞恥させても軽犯罪法にしか触れない県がいくつかあったが、どうやら平成26年度までには改正されたようだ。
もっとも、この「著しく羞恥」は基準が曖昧だ。寝顔を撮影して捕まった事例があるがそれは本当に「著しく羞恥」なのか。逆に特定の男性を撮影してネットにアップするのは迷惑防止条例に触れないのかという疑問はある。
肖像権について日本の法律には明確な規定が無いが、判例上は『パブリシティ権としての部分』と『人格権としての部分』が認められている。
パブリシティ権の方は分かりやすい。ざっくり言うならば『その写真や映像で、商売をする権利』であり、従って芸能人などに認められる。(政治系の有名人についてはどうなっているのかは正直、よく分からない)
分かりやすい例としては、街中やコンサート会場でタレントを撮影した上で、その写真を販売したりするのは違法である。
コンサート会場などは主催者が撮影禁止を定めていればその通りだろうが、有名人が街中にいるところを撮影するのが違法であるかというと、実のところ曖昧だ。 http://lmedia.jp/2014/06/18/53942/
前述したように、『その写真を売ったりしたら違法』なのは明確だが、個人で持っているだけなら(おそらく)何の法律にも触れない。ではブログにアップするのは、そのブログにアフィリエイトがついていたら……という話になると、もはや違法とか合法とか言い切る以前に『そもそも、法律の整備が追いついていない』というのが現状だ。皆がカメラ付き携帯電話を持つようになって10年ほどでしかない。
(そして、前々から思っていていまだ答えが出ていないのだが、『有名人の昔のスキャンダル集』『放送事故映像集』的な本が出ているが、ああいう本こそタレントの肖像権に触れないのか?)
ちなみにタレントのプライバシーについては、認められる範囲は著しく狭い。SMAP(ジャニーズ事務所のあのスマップです)追っかけマップ裁判の判決で『住所及び電話番号は掲載すべきではないが、最寄り駅などの情報を掲載した追っかけマップを出版することは認められる』という判決が出ている。
http://www.translan.com/jucc/precedent-1998-11-30d.html
人格権としての肖像権は若干分かりにくいが、みだりに自分の姿を公開されたりしないための権利だ。もちろん、渋谷スクランブル交差点を撮影する際に写っている全ての人の許可を取るなどほぼ不可能だし、今のところ『不特定多数を』撮影したのであれば人格権を侵害したことにはならないとされている。
逆に、アイヌの民族衣装を着た子供時代の写真に『滅びゆく民族』というキャプションをつけた出版社が被写体本人から訴えられた(和解成立済み)例もあるので、人格権としての肖像権はその辺りが参考になるのだろう。
http://www.amazon.co.jp/dp/4773888024
何が言いたいかというと、『公共の場所にいる男性を無断で撮影し』『キモイとか犯罪者予備軍とか書いてブログやツイッターにアップ』した場合、被写体となった男性は(もちろん女性でも同じだが)撮影者を肖像権(人格権)の侵害で民事訴訟を起こすことができるだろう、ということだ。刑事上の罪になるか、というと3で書いた迷惑防止条例の『著しく羞恥』に引っかかれば可能性はある。
大学で、よく友人たちのスマホ内に保存された画像や写真を見ることがあるのだが
みな一様に食べ物と景色と友人と、マンガやアニメのイラストが8:2ぐらいの割合で保存されている
こういうのを見るたび感じるのだが、自分にとってそれらはあまり価値がない、らしい
Twitterでお気に入りの画像を見かけてもふぁぼするだけで保存なんてほとんどしないし
(友人はしているのをよく見かける)、
別にうまいもん食ったからって写真なんかとらないし、まして何の変哲もない昼飯の画像なんて
撮ったとしてもソーシャルメディアにアップした次の瞬間消してしまう
自分がカメラを向けられるのが苦手なものだから他人にカメラを向けるということもまずない
その結果、自分の写真フォルダはびっしりとゲーム画面のスクショ・写メでうめつくされている
他人の写真フォルダと違って、人に見せてもまったくおもしろみがない
(自分では思い返していろいろ感慨に浸れなくもないのだが)
その場では見ると満足してしまって、帰ってきてからなぜ写真がないのだろうと後悔する
他のひとはそういうことに気が回るので、友人と旅行にいけばちゃんと写真をとれる
一人旅だとせっかくあちこちまわったというのに合計で10枚も写真がなくてがっかりする
あれもこれも共有したいと思うのに写真に収めるよりその場で眺めて満足してしまう
どういう感性を磨けばああいうふうに自然と写真に残せるようになるんだろう
やはりあとのことを何も考えていないという考え方そのものがよくないのかもしれない