はてなキーワード: 著作とは
画像引用してブログで紹介したら、著作権者から著作権侵害だと訴えられたでござるの巻。
スクリーンショット違法化の話が出てきて、著作権侵害の範囲が拡大されようとしている中でのこの話題。
この程度で50万も取られたら、インターネットが窮屈で何もできない!って思うだろうけど、本当それな。
でもさ、まとめサイト叩きで「他人の著作権を勝手にパクっておいて金儲けしやがって」って言ってた人が多かったように見えたけど、
今回は弁護士側を叩いている人が多いのを見て、非常に興味深いです。
今回のブログ主とまとめサイトって、他人の著作物で金儲けしようとしている点では一緒って思っちゃうんだけど、どこが違うのかな。
結局は著作権がどうとかじゃなくて、本質は「金儲けしようとしてるヤツをやっつけちゃえ!」じゃないの?
とりあえずポイントとしては以下の感じかな。
確かに著作権は引用の範囲内で使用することが認められているけど、主従関係をはっきりしなきゃいけないとか、
引用の範囲は必要最低限じゃなければならないとか色々とあるみたいだよ。
とりあえず、著作権者からしたら、「何勝手に人の作ったものにフリーライドしてアフィで金儲けしようとしてんだよ、この田吾作が」って思っちゃたんだろうね。
2ちゃんまとめとかの場合、引用したテキストが「著作物なのか」が争点になるけど、ただの書き込みに「著作性」がなければ、引用しても問題なさそうね。
画像検索の場合は特定の条件下で許されてるよ。著作権者がロボット避けしてたり、Googleに消してねって言えば消してくれるそうよ。
★どこに50万の妥当性があるんだよ
本当それな。ここが一番の問題になりそうね。
写真素材サイトとかだと、それが売り物として価格を提示してたりもするから、1PVあたりいくら請求しますとかもあるみたいよ。怖いね。
★これが許されるなら、適当な写真とかイラストとか載せておいて、掲載したヤツ訴えたら金儲けできんじゃね?
うん、金儲けできると思うよ。
それが他の人にとってスクショしてネット上にアップしたいと思わせられるくらいのクオリティならね。
でも、今回みたいにそれで訴えたらめっちゃ叩かれるかもしれないね。辛いね。
基本的に他人の著作物をスクショしてネット上にアップロードする行為ってかなりアウトな行為に見えるんだけど、実際に訴えられるとびびるよね。
これがネット上にアップしなくても、スクショしただけで違法化される方向になってるってんだから、利用者にとっては面白くない流れだわね。
ただのイラスト、いわゆる健全な二次絵のネット公開が問題って話じゃなくてそのまさに人格権に触れると取られる可能性のある内容の二次創作の話をしてるんだよ
元増田の色紙の話じゃなく上の増田のタダで公開すればいいだけなのに現物で売るのは儲けたいからって話に対してのものだから
BLエロも含めて著作人格権の問題に対してブラックに近いグレー寄りなものは人格権の主旨としても値段付けて売る事より多くの人目に晒す事の方が問題だと思うって話
半ナマ以上は昔から検索避けとかパスワード制とか今でもよりそこが顕著な傾向があるから例にした
公式やファンの目に触れない自制するって意識が他ジャンルより強いから
まさに後ろ暗さだしそれは著作人格権の分野で公式にも迷惑をかける可能性の自覚があるから公式がオープンな作品でもないと全年齢向けでもWEB再録やらない、通販も大手に委託しない人の割合が他より多い
洋画クラスタが国内のものよりオープンなのはそこの感覚や公式の寛容さが海外寄りだからそれでも検索避けはしてる場合多いけど
だから単純に著作権的には値段つけないで無料公開にしとけば企業側にも問題ないしいいじゃん誠実じゃん、てそんな話でもないってそういう事を言ってたんだよ
そんな内容なのに普通に全世界に向けて公開なんて無料を言い訳にグレーをホワイトかのように開き直ってるよね?無料だってグレーはグレーだしアウトはアウトなのにってそういう話
現代の日本では、男性たちは弱音を吐きづらいし、なにかと「男らしくない」と言われるプレッシャーがあるのは、確かだと思う。
男たちには、現代の日本では多くの「足かせ」がついているよね。
ワレン・ファレルが、1970年代に「男性権力の神話」の中で「フェミニズムのガラスの天井ならぬ、《ガラスの地下室》に閉じ込められて男たちは危険なことを無理やりさせられている」といって、男たちばかりが致死率の高い、危険な仕事に従事している様相を比喩したように、未だ日本の社会では男性特有の困難感は内在すると思う。
あと、精神科医の松本俊彦が「アルコールとうつ」に関する著作の中で「女性の方が精神疾患の罹患率は一見すると高く見えるけど、実際の精神科医としての感覚はそうじゃない。男性の方が問題が大きくなるまで助けを求めない」と言っていたみたいに、これはジェンダーという社会構造の問題だと感じたりもする。
もちろん、ファレルに対する批判もあって、「いやいや、社会構造としては、男性が有利な社会じゃん?片手落ちじゃね?」という話もある。
もちろん、それはそうなんだろうけど、もう1つの流れとして、支配力を手にして、そうした社会背景の恩恵に預かっている男性もあれば、そうじゃない人もいる、という視点もある。
dominantな男性性とか、その周辺の男性性とかってヤツ。
この辺りの議論がさ、比較的理知的に感じる、増田でさえも入り混じってしまっているのは不思議にも感じる。どうしてなんだろ。
アレかな、なんというか、そうしたことの理由には「持って生まれた身体という、簡単には変えられないものに対する無力感」がベースにあるのかもしれない。
つまり、男性性とその周囲の状況が批難されるとき、私を含む男性は、自分の変えられない部分が批難されたように感じてしまうのかな。
あと、もう一方で、私たち男性は「弱音を吐くのが恥ずかしいことだ」という男性性規範に駆動され、援助希求能力は決して高くないと思う。
女子はすごい。鍛え方が違う。
(もちろん、そうでない人もいるだろうけど、傾向として、というお話です。念のため。)
だからさ、男たちも「自分たちの苦悩」を安心して話せる場が必要なんだと思うのですよ。
それが、それこそが、よりよい多様性のある社会を作るための、橋渡しになるじゃないかなぁ。
まあ、個人的には弱音を吐くことって、スキルが必要だなぁとは思う。
これ、学術書とかも同じ問題抱えてると思うんだけど、会員制のWikipediaみたいなのを作って身元の確かな人しか更新できないデータベースみたいにして、皆で中身を直していくことってできないんだろうか。
あくまでも自分の論文とか自分の本だと主張したいなら原作者以外更新不可という設定にする。あと、どこを誰が直したか確認できる履歴機能もあると良いかな。
読みやすさは紙の本の方が勝つと思うけど、専門書って「そもそも著作に時間と金がかかる」「関係者にしかニーズがない」「よって値段が上がり、必要な人の手に渡らない」という悪循環を起こしているように見えるので、更新や販売のコストを下げないとダメなんじゃないかと思うんだけど、どうだろう?
アホなのか?そうは見えなかったが。まあ、その著作は読んでいないが。
判例で法解釈が確定されたものでないと「1弁護士の意見=合法」ではないぞ
テレビはググってもでないね。巨峰は17年前だね。不競法は平成に入って5~2年に一回ペースで改正してる新しいバンドエイドだよ。あっバンドエイドも商標だから正しくはパッチだな。
ちなみにマジコンも不況法だったり。著作、商標、不況全部やったほうが面白いよ。
商26条はそれより新しいのかね。
20☓☓年の日本ではクリエイターの権利は神聖不可侵のものとされていた。日本のコンテンツを海外に売り込もうという政府の意向と、表現の自由を最大限にしたいというクリエイターおよびそのファンの願望が合致したのである。保守派の議員が表現規制を推進しようとした時代はとうの昔に終わり、いまや与党の中枢は表現の自由戦士で占められていた。
刑法が改正されて「クリエイター侮辱罪」が制定され、表現の自由を侵害するフェミニストの一斉弾圧が行われた。それは表現の自由の侵害であると主張した憲法学者や弁護士たちも逮捕された。
現在、逮捕された彼/彼女たちは思想改造のため、強制収容所に収監され、萌え絵やエロ絵に囲まれて生活している。しかし、その一部は弾圧を逃れ、「隠れフェミ」として地下活動に励んでいるとされていた。警察はいまもその行方を追っている。
街角でも、萌え絵やエロ絵に対する批判はいっさい禁止され、公共の場に氾濫するエロ絵に「違和感」でも表明しようものなら、即座に密告され、逮捕・収監される状況になっていた。コミケでは、エロ絵のバッグが大々的に復活し、終了後のりんかい線やゆりかもめには幼女の裸のイラストが溢れる事態となった。
渋谷の大通りに幼女の裸体イラストの広告が大々的に掲示されたときには、CNNやBBCは「二次元ポルノ大国日本」として報じたが、そうした記事をSNSで紹介するだけでも「出羽守」「売国奴」とみなされ、たちまち糾弾の対象となった。
街角の書店はほぼ全滅し、大規模書店が大都市の中心地にみられるだけになっていたが、そのなかで大部分の書籍の表紙は萌え絵になっていた。夏目漱石や森鴎外などの小説の表紙は言うでもなく、ハンナ・アレント『人間の条件』の表紙は当然のごとくデフォルメされた美少女アレントであり、アリストテレス『ニコマス倫理学』の表紙にはニコニコしながらマスをかいている美少女のイラストが描かれていた。フェミニストの書籍は言うまでもなく大部分が発行禁止になっていたが、ストロッセンや初期の牟田和恵などの著作は大々的に宣伝されていた。
この頃になると、全国民のあいだで「二分間憎悪」が行われるようになっていた。ある時刻になると、街角のスクリーンや各々のスマホの画面に「パブリック・エネミー」が現れる。それを国民全員で罵倒するという儀式である。
そのパブリック・エネミーには、かつて名を馳せ、いまは地下で活動しているとされるフェミニストが選ばれていた。そのフェミニストたちがスクリーンに登場するや否や、国民は男女を問わず「フェミナチ!」「全体主義者!」「表現の自由の敵!」といった罵詈雑言をぶつけるのである。二分間憎悪の最後には、そうしたフェミニストたちが性的に陵辱されるアニメが映し出された。これも「表現の自由」により擁護される表現なのであった。
そうした体制に違和感をもち、密かに「隠れフェミ」に関心をもった女性がいた。やがて彼女は『フェミニズムと表現の自由』なる著作を手に入れ、その内容に惹かれていく。だが、実は「隠れフェミ」は彼女のような異端者を駆り出すための仕掛けにすぎず、『フェミニズムと表現の自由』もその餌にすぎなかった。
熾烈な拷問の結果、彼女はクリエイターへの忠誠を誓って解放される。彼女はただ処刑されるのを待つだけの身である。彼女が見上げると、そこには巨大な幼女の裸体のイラストが掲げてあった。そうして彼女は泣きながら、自分がそれを愛していることに気づくのであった。
賢い人間はそれを知っている。賢い人間はいつの時代も少数の存在だった。彼らは多数の一般人に対して、我々と同じようにあれ、賢い人間であれ、とは言わなかった。なぜなら賢い人間はいつの時代も少数だからだ。彼らは多数の一般人が賢くなりえないことを知っていた。
多数の一般人の知性はたかが知れてる。そして彼らはいつでも多数存在する。それだから、どんな教育改革を行うにせよ、多数の一般人なるものはいつでも多数存在するのだ。どんなに諭しても、どんなに偉大なる著作が本屋の店頭に並んでも、多数の一般人は存在するのである。
学校のクラスを想定してみるならば、いかなる学校でも、そのような構造が見出されるだろう。そして、あなたが賢い人間であるときは多数の一般人が存在し、あなたが多数の一般人の一人であれば、クラスのなかに必ず賢い人間がいるのである。
https://twitter.com/fukuikensaku/status/1065398724573179905
昨日の件。「ミッキー(クラシック・ミッキー)は日本では著作権切れなのか」というお尋ねがあったが、これにはいくつか説がある。
まず、①「既に日本ではPD」説で、映画公開の1928年に、以前の映画の保護期間である「公表後50年プラス戦時加算」で1989年には切れた、という神をも恐れぬ意見^^;→
https://twitter.com/fukuikensaku/status/1065399465526214656
次いで、映画の著作物ではなく当初のミッキー原画の保護として考えつつ、②「その著作名義はディズニー社なので、映画と同様に既に著作権消滅」説。(①②とも旧著作権法を加味してもPDの結論は恐らく変わらず。)→
https://twitter.com/fukuikensaku/status/1065400827836166144
③「ミッキー原画の著作者はウォルトなのでその死後50年プラス戦時加算で、2027年に切れる予定だったが今回の延長で更に20年」説。④「原画の著作者は相棒のアイワークスなので死後50年プラス戦時加算だと2032年で、やはり今回の延長で当分切れない」説、など。さあ、どれを取るか^^
クラシック・ミッキーの著作権は日本ではいつまで有効か。次の通りらしい。
3.2047年に切れる。
4.2032年に切れる。
なお、仮に商標として登録されても、商標権では著作権を延期したり、切れた著作権を復活させる効果は無い。商標権は、「商標」としての役割を持った使い方にしか権利が及ばない(商標的使用論参照)。
https://www.kottolaw.com/column/000042.html
つまりは、保護期間が切れて新訳ブームを起こした『星の王子さま』と同じ原則が働くのだ。商標として主張したところで、一度切れた著作権を復活させたり、無限に延命させる効果は、当然ない。
こんな意見もあった。
https://twitter.com/eggmanpat/status/1065423525689737216
ディズニーに日本国内での実施許諾を願い出て対価を聞けば、少なくともディスニー側の見解はわかるのではありませんか? 著作権が切れているとの認識であれば対価は要求しないと思いますが。
当事者の見解は分かるので、それも一つのアイデアだ。しかし、パブリックドメインに対して金のやり取りをするおかしなケースもあるらしい。ディズニーがそうだとは言わないが。
https://www.kottolaw.com/column/000042.html
しかし日本では、時に延命できてしまうのである。一見「知財権のような」もっともらしい権利主張に出くわすと、特にその者が欧米の権利者で複雑そうな警告表示をしていたり、強い後ろ盾があったりすると、とりあえず権利があるかのように許可を申請し、高額な使用料すら払う。ライセンス契約にはしばしば、こちらを将来まで拘束するような条件が記載されている。ライセンスを受けたという前例が既成事実化して、自分たち自身をしばる不思議な業界秩序ができあがる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%80%88%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%80%89%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F
『〈子供〉の誕生』(こどものたんじょう、フランス語:L'Enfant et la Vie familiale sous l' Ancien Regime)は、フランスの歴史学者フィリップ・アリエスの著作である。1960年に公刊された。子供と大人の一線を当然視し、学校教育制度を当然視する現代の子供観に対して、疑義を呈する書物である。フランス語の原題は『アンシャンレジーム期の子供と家族生活』という意味であり、「〈子供〉の誕生」は、日本の翻訳者がつけたものである。
アリエスは、中世ヨーロッパには教育という概念も、子供時代という概念もなかった、と言う。 7〜8歳になれば、徒弟修業に出され、大人と同等に扱われた、と言う。飲酒も恋愛も自由とされた、と言う。なぜ大人と子供の一線を7〜8歳に引いたのかと言えば、この時期に言語によるコミュニケーションが可能になると考えられたためである、と言う。 7〜8歳以前の子供は動物と同じ扱いであり、大人がフリスビー代わりに投げ遊び、落として死なせたこともあるという。乳幼児死亡率が高く、5歳までは頭数に入れられなかった。もっとも、乳幼児死亡率が高かった理由として、医学水準が低かったことだけではなく、両親のベッドの中で、あまりにも頻繁に窒息により非業の死を遂げる子供が多かったといった理由も挙げられている。
教会は、嬰児殺しを厳禁していた。が、両親があれは事故だったと主張してしまえば、それ以上追及する者はいなかった。
近代的な学校教育制度が現れたのは、17世紀のことである。当時の教育者たちは、古代には存在した学校教育を倣い、「純真無垢」を理念とした。「純真無垢」とは何か。子供と大人を引き離すこと、特に子供にとってセックスを禁忌にすることだった。また、子供として保護される期間の延長も提唱した。この時期から、美術も子供をテーマにし始めた、それ以前は美術が子供をテーマにすることはなかった、と述べる。
近代学校教育制度は、大人とは異なる、子供服というものを編み出した、と述べる。この傾向は特に男児に顕著で、男児の特徴的な衣装である半ズボンが考案された。それに対し、女児の服装の変化には無頓着であった。女児は家事に専念すればいいのであって、学校教育を受ける必要性が少ないと考えられたためだ、と述べる。
これを受け、近代的な学校教育制度は、同年齢の子供を同一のクラスに編成した、と述べ、極端な場合には、寄宿舎制度を設け、子供を外部から遮断した、と述べる。
https://anond.hatelabo.jp/20181104013756 の続き。
ねとらぼの本キャンペーン記事のブクマでオススメされてた短編集。SF多めだけどそうじゃないのもあってごった煮。どれも面白かったけど、頭抜けてるのが『バイパスの夜』。バイパスを走るタクシーが舞台であり、それが最初から最後まで最大限に活用されている。無駄がひとつもない完成品。
他には『悪魔の開幕』と『帰還者』がオススメ。『悪魔の開幕』は何を言ってもネタバレになるので騙されたと思って最後まで読んでほしい。『帰還者』はアレな言い方だけど、富樫のレベルE読んだような読後感。手塚治虫が天才で、本当になんでも描けるんだなということがよく分かる。
父の仇を追って新選組に入隊した深草丘十郎。そこで彼は後に親友となる謎の剣豪少年・鎌切大作と出会う。幕末の動乱を、ふたりの少年はどう生き抜くのか。
ブコメでオススメされてたから読んでみたけど、うーんこれは傑作だ。
ひとことで言うと美しい『アドルフに告ぐ』。物語を彩る様々な立場のキャラクターたち、実際の歴史を背景に躍動する主人公、そして全てはラストに結実する。美しい。圧倒的に美しい。子どものときに出会えていたら本当にたまらなかっただろうなー。これから何度も読み返したい一冊。
北村市郎、通称イッチはとある夜、幽霊の行進と出会う。偶然知り合った記者と情報交換することになるが、彼は交通事故で死んでしまった。本当にあれは幽霊だったのか? 駅のホームで見かけて以来、つきまとってくるようになった美少女の正体は?
これもブコメから。ホラーものかな? と思ったら斜め上に話が転がっていくのがさすがというかなんというか。気負わず笑いながら読んでいいやつだと思われる。「歓声とファンの数とは比例します」「ンン?」「これ歓声の法則」といった切れ味抜群のギャグもあったし。
これもブコメより。手塚治虫の自伝的な作品を集めた短編集。悲惨な戦争体験と、そんな中でも漫画を描き続けた戦中、ようやく悪夢のような戦争から解放され漫画家として立身していくぞ(でも漫画雑誌もない荒野でどうやって?)っていう戦後が主。
特に響いたのは表題作でもある『紙の砦』。時は戦中。特殊訓練所にいながらも隙あらば漫画を描く大寒少年はオペラ歌手を目指す美少女と出会う。
戦争って悲惨だしいいこと何もねーなっていう感じが色濃く描かれる。司馬遼太郎も終戦の時に浜で泣きながらなんでこんな馬鹿な戦争をしたんだって嘆いたらしいが、手塚のそれは叙情も何もなくただただ早く終わってほしい悲惨なものとされているように思う。
そしてラストが特に辛い。仮に――戦争で手塚が両手を失っていたら、手塚は、日本の漫画界はどうなっていたであろうか。
悲惨な戦争話が多い中で『という手紙がきた』は一服の清涼剤。『トキワ荘物語』はとてもしんみりさせてくれる。『動物つれづれ草』も好き。
人類が退化し、代わりに鳥類が惑星の支配者になった世界を描く。その新たな世界で鳥人は高度な文明を築き、ホモ・サピエンスは鳥人の家畜になっていた。そして鳥人たちはかつての人類のように相争い、滅亡の道をたどる。
短編連作の形を取りながら鳥人たちの誕生、栄華、末路を描くんだけど、風刺的な要素の強く出過ぎてて胸焼けする。『むかしむかし……めでたしめでたし』みたいなただの焼き直しにすぎない作品もあって、低調な短編はとことん低調。
ただそこは手塚神、すげー読ませるのもあって、『うずらが丘』は物語の展開力とオチの冷淡な語りおよび視線がさすがの一言だし、『トゥルドス・メルラ・サピエンス(ブラック・バード)』のような掛け値なしのイイハナシダナーにはホッとさせられた。
とはいえかなり疲れさせられるお話であることは間違いないかな……。
時は幕末。世渡り下手だが一本気な府中藩士・伊武谷万二郎と女好きだが顔の広い蘭方医の卵・手塚良庵は最悪の出会いを果たす。だがふたりは腐れ縁のように固く結びつき、ともに動乱の時代を駆け抜けていく。万二郎は下級武士ながらとある事件がきっかけで出世街道を上り、一方の良庵は大坂の適塾を経て江戸の種痘所開設に尽力する。ふたりの青年と、日本の未来はいかに。
うーん、感想の言いにくい作品。面白かったけど、中盤から物語に暗い影が落ち始め、読むのがちょっとしんどくなってしまった。手塚作品にしては長く、それでいて物語が綿密に練り上げられていることは間違いないんだが、同時に間延びしてしまった感も否めない。万二郎を主人公に据えたがゆえの限界という面もあり、愛すべき馬鹿には違いないけど、もうちょっとどうにかならんかったのかというのはある。同じ幕末を扱った『新選組』が青雲の物語であるならば、『陽だまりの樹』は凡庸な人たちの物語、という感じ。
人生に思い残しがある者は死に場所でしか生きた証を残せない、という話はあって、彼女(名前だすとアレなのでボカします)にそれが与えられたのはしみじみ良かったなーと思う。ひきかえ万二郎はそういう悲愴さとも無縁で、さいごまで読者をすっきりさせてくれないやつだった。だけどやっぱり憎めない。
お気に入りのキャラクターは、平助、お紺、お品。三人にはいっしょに酒を飲んでもらって、生きてりゃそりゃ辛いことのひとつやふたつあるよなーって盛大に愚痴ってほしい。
2日目の昼ぐらいに気づき、結局それからひたすら読んでた。ああ、もっと早く知っていれば!(BJとか火の鳥とかが入ってないのは読んだことがあるから。火の鳥は再読しておきたかったけど、せっかくの機会なので未読作品を優先した)
全体的な感想を言えば、俺がおっさんだからだろうけど、青年向けの作品の方が読み応えあった。『ジャングル大帝レオ』や『海のトリトン』は当時革新的だっただろうけど、さすがにいま初読だと平凡って印象が拭えない。それらに並ぶ子ども向け作品の『リボンの騎士』は、今でもおもしろいし、男の子の心と女の子の心が入った王女様が王子様のかっこうをしなくちゃいけなくて……という設定を思いつく手塚神ほんと神ってるなと。
大人向け作品はやはり『アドルフに告ぐ』が文句なしの傑作。行き当たりばったりで連載していたというブコメがあったけどマジか。震える。
短編のイチオシは『バイパスの夜』かなー。「極限まで削ぎ落とした体に鬼が宿る(byライスシャワーCM)」じゃないけど、無駄が何一つ無い完成品とはまさにこのこと。
今回よんだ中で一番好きなのは『新選組』。あそこまで美しい作品はなかなかない。
一番好きなキャラクターは『リボンの騎士』からヘケート。容姿、性格、行動力、作中での立ち回り、どの要素も俺の心を惹きつけてやまない。心に残るキャラクターだった。次点で『陽だまりの樹』からお品さん。
それにしても本当に手塚神がいてくれてよかった。日本漫画界に残した足跡の大きさからしてもそうなんだけど、それ以上に何十年たってもその著作が色褪せずに面白いってほんとすげーこと。これからも多くの人に手塚治虫の諸作が読みつがれていくことを確信して筆を擱く。