わからんことは無理にコメントしないようにしようね
自分も気をつけてるけど
]]>2023-02-05
間違った認識で草しか生えない。
中露の戦略は墨家だよ。
全く分析できてない。
さらにロシアは孫子兵法もつかう。
AIで確率も使う。
Permalink | 記事への反応(1) | 09:16
政治に不満を持った民衆が暴れることもあるが、その革命が上手くいったとしても
ボトムアップ型の政治になるんじゃなく、トップが倒れて新たなトップが立って、またトップダウンの政治を始めるだけ
]]>人類を崩壊させる恐ろしい思想家だと思う
マルクスレベルだと思う
<追記>
中国人ですら荀子のヤバさ理解してなくてワロタ
その結果がいまの独裁虐〇国家なのね
]]>by 荀子
]]>それに反論したのが荀子
孔子は人格よりもっと人間としての仁義・情愛みたいなものを重視していた
]]>いつから政治家は「素晴らしい人格者」じゃないとダメになったのか
そもそも、役人ともヤクザ者と話をつけたり金で黙らせたり、国に必要なことを多少荒々しくても実行してきたのが政治家じゃないの?
いつから政治家は清廉潔白な人格者じゃなければいけなくなった?
違法集団の旧統一教会のことは罰すべきとしても、そんな半犯罪集団ともうまくやっていくことも、多少は必要じゃねえの?
孔子か董仲舒かそのあたりの頃からだと思う。
だから、遊就館のことも当然知らない。
遊就館の名前の由来は、中国の古典、『荀子』勧学篇
「君子は居るに必ず郷を擇び、遊ぶに必ず士に就く」
から「遊」「就」を撰んだものであることから、
日本がいかに中国の文化を大切に扱っているかを知っている中国人もほとんどいない。
さいわい、今はYOUTUBEで遊就館の内部の様子が動画で見られるのであるから、
これを機会に見ておくのがよかろう。
]]>馬鹿が古典に興味を持つと決まってたどり着く作品がこれ。
大学に入って突如「教養」に目覚めた大二病、リアルが充実していなくて読書に逃げる社会人などが、古典などを漁り出す傾向にある。しかし、そういう連中は大抵、基礎学力が足りておらず、安易に「読んだ気」になれる本を求める。その代表格が孫子である。
なお、「馬鹿が孫子を読む」と言っているのであって、「孫子を読む奴は馬鹿」と言っているのではない。もちろん、中国文学や歴史等の研究で孫子を読む人を馬鹿だと言っているのではない。また、孫子の内容を批判しているわけでもない。
なぜ孫子が馬鹿に読まれるのか。その理由は2つある。
まず、孫子は短い。他のまとまった漢文の文章、たとえば荀子や韓非子などと比べても1/4未満の分量しかない。そして、使われている漢字や構文なども特に難しくはなく、レ点等が適当に打ってあれば書き下し文で読める。つまり、漢文の基礎力が足りない馬鹿がちょっとしたパズル感覚で読むのにちょうどいいのである。実際、孫子にたどり着いた人が他の漢籍に手を出すことはほとんどない。
そして、書いてある内容は正直どうとでも取れるようなものが多い。これが読解力のない馬鹿にはちょうど良いのである。彼らは、文章に書いてある事実関係を読み解くことができず、抽象的な内容を自由に解釈し「深い」「含蓄がある」などと思うことを好む。そのため、一見して日常に通ずるような格言・警句が満載のこの本は、馬鹿にとってうってつけなのである。
要するに孫子は、学力の低い人が「何かを考えた気分」になりたいときに、ちょうどいい本なのだ。
馬鹿は短い文章が好きである。理由は単純で、長い文章が読めないからである。
文学が好きな人は大抵、短編長編を問わずにいろいろな作品を読んでいる。それは文章の長さで選んでいるからではなく、内容に関心があるからである。ある本に何が書いてあるかが気になり、それが正しく読める人は自然といろいろな本を読む。
しかし、孫子を読む馬鹿にとっては、まず短いことが重要である。そして馬鹿は、ふつうの文学愛好家などとは異なり、孫子以外の古典は読まなくなる。馬鹿は、書物に書いてあることに興味があるのではなく、安易に読めることだけが重要だからである。
馬鹿が孫子を読むと必ず抱く感想が以下である。
孫子の考え方は○○(e.g. 経営など)にも活かせる
孫子に限らず、本を読んでこの種の感想を抱く奴は、その本を読めていない(元々読み取るべき内容が大して無い新書等は別として)。典型的な「文章が正しく読めず、妄想を膨らませて自分の世界にこじつけている」タイプである。彼らは、「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という言葉を聞けばビジネスに結びつけたがるし、「戦わずして勝つ」という言葉を聞けば平和主義を唱えだすし、孫子とクラウゼヴィッツの比較論を聞き齧って東洋思想の優位性を説いたりする。要するに、論じられている内容そのものを理解しようしない。
というか、馬鹿にとってはそれこそが「文章を読む」ということなのである。馬鹿の文章の読み方はこうだ。
孫子は、前後の文脈を無視しても意味の通る格言が満載であり、こういう読み方で「賢くなった気」になるのにぴったりな本なのである。
]]>※すべてWikipediaから
※代始改元はかつては非礼とされていた
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%A3%E5%A7%8B%E6%94%B9%E5%85%83-1359409
代始改元は,(中略)平安時代からは806年の平城天皇の大同の改元の場合を除き,皇位継承の年に先帝の年号を改めるのは非礼であるとしてこれを避け,翌年に改元するのを原則とするようになった。
※南朝の元号の出典、勧申者がのきなみ不明になってる。焚書にあった?それとも元号を考えられる教養のある人がいなくて適当につけただけだったりする?
※日本古典出典の元号も過去に一件のみ存在する(弘化)
※元号って漢籍から適当に二文字抜き出しているように見える。「百姓昭明、協和萬邦」から明和と昭和の2つの元号が作られているし。なんか規則あるんだろうか?
]]>性悪説=人は生まれながらに悪人
これは間違ってはいない。しかし多くの人が決定的に間違っているのは、その文脈だ。福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず…」と同じで、一番大事なのはその前後に書いてあることだ。
まとめブログのタイトルを見ただけでしたり顔で語り出すのと同じような反応をしたくなければ、その前後の文章をこそ読むべきだ。
ざっくり言うと、
性善説=人は生まれながらに善人なのにこれほど国が乱れているのは、王であるお前がクソみたいな政治をしているからだよ!あぁ?わかってんのかおい!?
と王に孟子が説教をぶちかますというもの。孟子はゆるふわ愛され哲学者じゃない。一国の王に向かって「お前さぁ…」と啖呵を切れる激する哲学者だ。
理想のために現実に挑みかかる熱い男、それが孟子だ。
有名な「五十歩百歩」も、孟子が王に「あんたの政治は全然良くないからね?」と説教するときに例えに出したものだ。
それに対して
性悪説=人は生まれながらに悪人だ。教育がなければ獣のような行動を繰り返すだろう。人間の善なる行いというのは、その人が学び、行動した結果なのだ。(だから素晴らしいのだ)
と荀子が語ったものだ。荀子は極めて現実的な思考をしていた人で、東洋のアリストテレスとも言われる。
現実を見据え、できることを行えば世の中は良くなっていくと冷静に語るのが荀子だ。
両者の言い分は異なっているようだが、そのベクトルは全く共通している。
「どうすれば世の中は良くなるのか、充実した人生を生きられるのか」という大前提があり、また人間に対しての信頼があるからこそ、「こうすりゃいいじゃん」「こうすればよい」とそれぞれに熱く、また冷静に語っているのだ。
こういったことも知らず、知ろうともせずに「俺は性悪説だから〜」などと語り出す奴は孟子の如く「お前さぁ…」と説教したくなる。
ここ数日、はてブで性善説、性悪説と書いてる奴がことごとく勘違いをしているので、書いておいた。見るかどうかはしらんが。
「俺は性悪説の信奉者だからこそ、人の善を信じ、それが素晴らしいものだと確信できる」という風に「性悪説」を使っている人はほとんど見かけないな。
というか、性善説は政治に対して言っているもの、性悪説は個人に対して言っているものだから、どっちを選択するものではないはずなんだがな。
いずれにしても、孟子と荀子はこう言っている。
「君主と国民の信頼関係が何より大事だ。君主が信ずるに足りないなら、さっさと出て行こう。真価や国民に出て行かれたくなければ、君主は自らを戒めることだ」
これが儒教の根源であって、一方的な搾取を良しとするものではないのだ。
]]>本当にしっかりした女の子は、本当にしっかりした関係を持たないかぎり、そういうメールは送らないものであると、かの荀子も言っている。
]]>人の良心や理性にどんだけ期待してるんだ
荀子だって呆れとるで
]]>ジューウェル
賢者が愚者から学ぶことのほうが、
愚者が賢者から学ぶことより多い。
モンテーニュ
くだらない質問には答えぬがよい。
ろくな答えのできないものには、問いかけぬがよい。
くだらない話には耳をかさぬがよい。
あげ足をとるような相手とは議論せぬがよい。
道をふんで訪れるものとだけ交際して、礼儀しらずは相手にせぬことだ。
荀子
争気ある者とは与(とも)に弁ずる勿れ。
やたらに人と争い競う性質の者とは
事の是非を語り合うことはしないほうがよい。
荀子
]]>「あなたを大切にしない人のことを、あなたが大切にする必要はない」
カウンセラー
あなたに敬意を払わない人に、あなたが敬意を払う必要はない。あなたのことが嫌いな人を、あなたが好きになる必要はない。あなたを大切にしない人を、あなたが大切にする必要はない。しかし、そういう人たちのことを心の片隅にちょっとおいておく。自分と対する人にも、その人の大切な人生があるのだ。
— 小池一夫 (@koikekazuo) 2015年9月5日
公益目的でなければ、他人に関する思いで君の余生を消耗してしまうな
なぜ怒鳴りつけたのでしょうか? - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)
【人間関係】他人を許すのは、他人の意のままにならないための手段なのである。
[相互主義][目には目を]人間関係とは鏡のようなモノである。
しつけとは、他人のことをどれほど考えていないかを隠すことである。
[語録][エピクテトス][エピクテートス][Enchiridion][Epictetus]
http://anond.hatelabo.jp/20130608045638
http://anond.hatelabo.jp/20131030223110
http://anond.hatelabo.jp/20131118210051
http://anond.hatelabo.jp/20131221145152
http://anond.hatelabo.jp/20090914172538
http://anond.hatelabo.jp/20140127212624
http://anond.hatelabo.jp/20140315224757
]]>とりわけ私にとって重要だったのは、功利主義に対する批判者の多くが、「行為功利主義」と「直接功利主義」を念頭に置いたワラ人形攻撃をしている、という話(p.83)。ちまたでは功利主義批判をしばしば目にするけれど、そこで批判されているのがワラ人形でないかどうか、考えるための一つの目安を手に入れることができた。
逆に言えば、本書では、ベンサム説やJ.S.ミル説がそのまま示されるだけではなく(当たり前か)、それらへの批判を経てより洗練された形の功利主義が紹介され、擁護され、さらには今後の課題が提示されている。単に昔の人の思想を勉強するのでなく、論争(と現実的事例への適用)を通じて倫理学に触れられる本書には、「はじめての倫理学」という副題がよく似合うと思う。
功利主義(と功利主義批判)そのものの解説以外にも、公衆衛生に関する政策、幸福論、心理学や脳神経科学による研究、ビルゲイツの寄付先の決め方など、色々と興味深い話題が盛り込まれ、また、倫理学を武道になぞらえた説明にも色々な点でとても納得できた(日常会話で友人の意見を批判するのは、通行人に大外刈をかけるのと同様に危険!)。J美の出番がもっと多ければより楽しい本になっていたと思うが、それを望むのは欲張りだろう。
以下、思ったことのメモ。
p.20)食事のときに音をたててよい文化のルールが、「食べるさいには周りの人を嫌な気分にさせるべきではない」という(より深い)ルールに基づくものと理解できる、というのがどういう解釈なのかよく分からない。音をたてることを禁止したがる人は周りの人を嫌な気分にさせるから、音をたててよいというルールがあるんだということ?
pp.154-155)選好充足と幸福のつながりを疑うための2つの思考実験から、「すべての選好を充足させることが幸福につながるわけではな」いということになりそう、という結論が導かれている。つまりここでは、「選好充足しても幸福にならない」感じのするケースが挙げられているわけだ。しかし、これら2つのケースで想定されている選好充足は、選好充足とは思えない。例えば、ある学者が「ノーベル賞をほしい」と思っていて、その後に政治的理由で「ノーベル賞なんか欲しくない」と思い直して、その直後にノーベル賞受賞発表があった場合、それは明らかに(かつての彼の選好に合致するものではあるが)彼の選好充足にはならないだろう。それと同様で、1つ目のケースでは、現在の妻の選好はかつての彼女の選好とは異なるし、2つ目のケースでは、受賞者発表の時点でカナダ人研究者は(死んでいたので)ノーベル賞受賞を選好しておらず、受賞発表は選好を満たさない。したがって、これらは「選好充足しても幸福にならない」ケースではないのではないか。…と書いてる途中で、「じゃあたった今の選好しかその人の選好として認めないの? それ色々まずくね」という批判が浮かんだ。まあだから、どちらにしても、幸福につながる選好の定義は難しい、ということなんだろう。
p.204)「カントの引用は…」。どこに引用されてるのか、本気で見つからない。
p.219)「同時に日常底に用いたりするのでなければ」。「日常的」の誤植?…と思ったら、仏教用語で「日常底」という言葉がある模様。あとで調べる。
以上。
ところで、最近私が(本書とは無関係に)手に取ったいくつかの本によれば、功利主義者は必ず利己主義的傾向を持っていて、極端な場合、世界は亡びても自分だけ助かればいいというところまで至る(*1)、のであり、また、ベンタムの思想は、ヨーロッパの恥ずべき日々に確立された「快楽と苦痛に関する皮肉な簿記学」であり(*2)、もはや、日本の精神界では「浅薄」なものとしてあまり顧みられず英国でもムーアによる批判以来(理論的倫理学説としては)過去の思想となっている(*3)、のであった。そんな中で、私が本書によって功利主義に入門できたのは、幸運だったと言えるだろう。
==========
(*1)井上哲次郎「日本魂と米・英の功利主義」、『日本公論』1943年8月号所収、p.6。なお井上によれば、ベンタム・J.S.ミル・シジウィク・墨子・荀子・荻生徂徠・太宰春台などが功利主義者である。
(*2)アンドレ・ブルトン(澁澤龍彦訳)「ルイス・キャロル」、『澁澤龍彦翻訳全集12』所収、1997年(仏語底本は1950年)、pp.313-314。ベンタムへの言及は、ルイ・アラゴンの言葉としてブルトンが引用しているもの。
(*3)『世界の古典名著:総解説 改訂新版』自由国民社、2001年、p.204。
]]>だって2chの元管理人がネタにするんだもん。そうだと思っちゃうよね。
でもさー、ステマとかカオスラウンジとか…いや些細な祭とかみてて思ったことは無敵な人って普遍的にそこら辺に居るんだなって。
でも、みんな気にしないんだな。だって俺でも道端にホームレスの人に訴えるぞとかに言われても気にせず素通りしちゃうもん。
信用無い人はともかく普通の人もまた信用を失うって簡単なことなんだよね。
でも俺は他人の信用を損ねるようなそんなことはしないかな。だって道端歩いているときに横腹を刺されたくないし。
そんなこと気にせず過ごしたいじゃん。引きこもりの人はいいのだろうか。
たとえこの世が性悪説だったとしても荀子のごとく努力してモラルを保とうとするよね、
日本人ならネトウヨが言うとおり民度が高くモラルも保ってるよね。
あー、インターネットって怖いなぁ。
]]>まぁ「あの人の門下のあいつだな」と思った人いるかもしんないけどスルーな。ほっとけよ。
んで、中国人研究者が日本に多く来る理由はやっぱり文革が一番デカいんですよ。
あのときにやらかしまくったせいで資料が相当焼失してる。当事の歴史的資料なんてのもそうだけど、
中国って国家のアイデンティティになるような資料まで相当燃やしたからね。ついでに、当局の検閲が現在でもバリバリ入るので
マトモに勉強したければ海外に求めるしかないっていう悲しい事情もあるようだね。
具体的に言えば、「孔子」に関する資料とかあるいは文化風習ヤ宗教に関する資料、歴史的遺物なんてのは下手したら日本の方が資料が残ってるんじゃないかと思う。
「批彪批孔」の嵐が凄まじかっただけ、多くのものが失われた。でも、中国大好きな日本は結構保存してたわけですよ。経典や歴史書、思想書の類は全部まとめて焼いたからね。実際、「批彪批孔」とは言うものの焼く人間に色んな思想家の見分けがつくわけなく、墨子も荀子もなんもかんもサックサク大学ごと、っつーか学者ごと焼いたからね。更には孔子とその弟子たちの墓までぶっ壊す始末。だから日本にこそ残ってた。日本人にとって漢文ってのは「教養」だったからね。
んで、これはとりもなおさず「日本が中国の絶大な影響下にある国家である」っていうことを端的に示す事実だし、
同時に中国が「歴史的資料をやらかしちまった挙句、現在でも学問の自由に乏しい」っていうことを端的に示すよね。
そういうわけで、研究者同士は比較的仲良しなんだよ中国と日本。母国に帰ると言いたいことも言えないらしいから、彼ら。
俺は中国研究してる人じゃないけど、師匠筋に当たる人が文革研究で有名な人なんで非常に接点があるんだ。向こうの研究者とは。
]]>この31歳、魔法使い。相当に痛い、絶望的にどうしようもないが、こんな男でも本気であれば恋人を作る事も不可能ではない。というのも、俺がほぼそれに近い状態から恋人を作ったから。今にしてみれば「なんだそんな事かー」と思えるような事も、当時は分からなかった。そんな、これを出来ていれば恋人が出来るであろう、幾つかを書いてみたい。
女性と言うものは、敬意をもてない男には魅力を感じない。これは断言できる。女性の恋愛感情は、相手への敬意によって立つ部分が大きい。お金を稼ぐ男がモテルのも、金うんぬんよりもそれを可能にした能力への敬意と憧れが、理由だと思う。従って、自分に自信を持てない男には、誰かが振り向くことなどありえない訳だ。
それをどう克服するか?簡単だ。努力を積み上げればいい。何でもいいが、女性が聞いて凄いと思えるものなら尚更いい。
個人的には、トレーニングとかジョギングをお勧めしたい。俺もこれをやった。日に10キロを走って年に数回フルマラソンの大会に出場し、締まった体を手に入れれば、出会う女性の幾人かはその努力に敬意を持ってくれるだろう。これなら、なんの能力もない、仕事が出来るわけでもない、魔法使いでも出来るはずだ。というか出来る。
繰り返すが、敬意を抱かせるに足る能力を持たない相手に、いい女は人生をたとえ一部でも預けたりしない。
友達の居ない男は、あまりにも悲しい。正直に言って魅力がない。同時に友達を作るのは恋人を作るのと同じくらいに難しいものだと思う。互いに教えあえるような共通の趣味を持ち、常に相手の立場になって、気持ちを予測する、それは恋人と付き合うときにも等しく必要なことだと思う。だから、友達の多い異性には安心感や包容力を誰もが感じるし、頼りたくなる。
もっと踏み込んで言うなら。友達を作れ=人の気持ちを常に考えろ、ということ。概ね魔法使いは自分勝手で、我がままで、自虐的で、自尊心だけが以上に強い。そんな人間とは、男女を問わず、誰だって一緒には居たくはないもんだ。他人の気持ちを知り、痛みを知る、これは最低限のルールだと知って欲しい。
まずは、周りの人間に自分を晒し、相手の気持ちを受け入れ考えることから始めよう。友達が一人増えれば、その友達が彼女になるかもしれない女性をつれてきてくれる事もある。結婚すれば、祝福もしてくれる。苦しいときには支えてくれる。やがて、周囲の優しさが人格を丸く豊かにしてくれる事に、きづくでしょう。俺も色んな集まりに顔を出して、男に好かれる男を手本に、頑張った。お世辞にも友達は多くないけど、一緒に旅行したり、入院したら何も言わずとも見舞いに来てくれる様な友達は何人か出来た。掛け替えのない宝だと思ってる。
大量の本を読め、出来れば感情移入して。一冊の本を読み終えたとき、一つの人生を経験したと思えるほどに。
本を読み込むことで、圧倒的に足りない人生経験や、感情の動き、知識を多少でも補うことができる。本を読むという行為は、それを血肉にするつもりで読むことで、思っているよりも多くのものを与えてくれる。魔法使いの多くは、外見なんか問題にならないほどに、幼くて醜い内面をもっている。それを強制し埋め合わせる為に本を読むべきだ。また、話題の豊かさや語彙の豊富さは、そのまま魅力につながる。話題や会話の仕方に悩む必要がなくなった時に得られるアドバンテージを想像してみて欲しい。俺は多くはないだろうけど、年に150冊ほど今でも読んでる。生活の一部だ。
年に2回くらい、できれば海外へ行け。
なんだか分からない場所で、身振り手振りで、自分を伝えながら身一つで旅をして来い。
言葉の通じない場所で僅かな金でたった一人で行動することは、思った以上に勇気が必要だ。それも危険な場所なら、尚更だ。そこで、モノを買い、食事をし、宿を取り、道を尋ねる、そういう一つ一つの経験が日本で手に入れる何倍もの経験になる。見知らぬ他人の優しさや、その逆の厳しさ。お金の大切さ。命がある事のあり難さ。それを思い知った人間の魅力は、そうでない人間なんか及びも付かないほどに深くて温かい。俺は、去年はフランスへ行ってきた、旅はいいもんだ。
なんだかんだ言っても、男は仕事だ。仕事の出来ない男なんか、存在する価値すらないと言われても、俺は声を荒げて反論できない。
しかし、人間には能力の差がある。だれでも1流のプレーヤーにはなれない。だから、せめて打ち込める仕事を見つけよう。なんでもいい。必死になって頑張って、愚痴をこぼさなくてもいいような、そんな仕事を見つけよう。自分の仕事はつまらない、そう思っている男には魅力がない。例え1流でなくても、俺はこれが好きだと必至になってる、その横顔に人は惹かれるもんなんじゃないか。幸運な事だけど、俺にはそれが最初からあった。最初はその価値に気付いてなくて、出来ない自分が嫌で逃げ出そうとばかりしていたけど、今は足掻いている自分に誇りを持っている。
プロ野球の2軍や、サッカーのJFLの選手の様にリーマンよりも稼ぎのない男でも、いい女を引き連れてるのはなぜか?そういうことだ。
ここまで出来て、それでも誰にも愛されないなんてことはまずない。外見なんか清潔感を失っていなければそれでいい。良く貼られる写真で全身で60万の衣服をまとった男とイケメンの対比があるけど、あれがいい例だ。中身の伴わない奴は、どんなにいい服を着ても服に着られるばかりで意味がない。中身のある男なら、全身ユニクロでもカッコイイのは、あのユニクロの広告を見てれば分かるんじゃないか?顔も関係ない。自信を手に入れた時に、あなたの事をブサイクだなどと心から笑う奴なんか居なくなる。自分に磨きを掛けて黒の似合う男になろう。そうなれば、見た目なんか何の問題もなくなる。服の方で着て欲しいと言って来る様になればシメタモノダ
ナンパだの、出会い系だの、自分を下げるような事をするのは辞めたほうがいい。クダラン女を何人釣っても幸せにはなれないよ。そんな事をする位なら、自分の中身の価値を上げよう。
青と言う色は、藍という植物から取れるが、藍のもつ色よりも青は尚青い。積み重ねた努力は人を別物に変えてくれる。人は誰でも青になりうるんだ。と荀子は言った。30歳、魔法使いは、人生を諦めるにはまだまだ早すぎる。
]]>くだらない質問には答えぬがよい。
ろくな答えのできないものには、問いかけぬがよい。
くだらない話には耳をかさぬがよい。
あげ足をとるような相手とは議論せぬがよい。
道をふんで訪れるものとだけ交際して、礼儀しらずは相手にせぬことだ。
荀子
争気ある者とは与(とも)に弁ずる勿れ。
荀子
やたらに人と争い競う性質の者とは
事の是非を語り合うことはしないほうがよい。
]]>くだらない質問には答えぬがよい。
ろくな答えのできないものには、問いかけぬがよい。
くだらない話には耳をかさぬがよい。
あげ足をとるような相手とは議論せぬがよい。
道をふんで訪れるものとだけ交際して、礼儀しらずは相手にせぬことだ。
荀子
争気ある者とは与(とも)に弁ずる勿れ。
荀子
やたらに人と争い競う性質の者とは
事の是非を語り合うことはしないほうがよい。
愚か者でないかぎり誠実であることは危険である。バーナード・ショー
太古の昔から続く論争に、人間の性は善か悪かと言う問いがあります。
人間の性は善であるとの説(=性善説)を唱えた代表は孟子です。
孟子は、
「人間ならば誰しも生まれつき人の不幸をあわれみ悼む心がある。目の前に今にも井戸に落ちそうな子供がいたら、誰に教わった訳でなくとも、手を差し伸べて助けるであろう。これこそが人間の本性であり、人間の元々の性は善なのだ。」
と主張しました。一理あると思います。
人間の性は悪であるとの説(=性悪説)を唱えた代表は荀子です。
荀子は、
「人は誰でも生まれつき欲望を持っている。利益を追い快楽を求めようとする人間の本能のままに行動すれば必ず争いごとが起こり、社会が混乱してしまう。だからこそ法律による指導や、道徳による教化が必要なのだ。」
と主張しました。これも一理あると思います。
一方、私の知人に、人間の性を一言で表現するとすれば弱である(=性弱説)と考える人がいます。すなわち
「人は元来弱い生き物である。禁酒や禁煙の誓いは簡単に破られ、ダイエット計画はすぐに中止される。夏休み初日にたてた学習計画を最後まで守ったと言う人にいまだかつて会ったことがない。うまくいった時は自分の手柄にするくせに、うまくいかなかった時は他人のせいにする。少々褒められただけですぐに有頂天になり、ちょっと叱られただけですぐに落胆する。自分の努力不足は棚にあげて、他人の成功を妬み嫉む。 -- (中略) -- だからこそ、自分自身を含めて、人は誰しも基本的に弱い存在であると言う前提にたって付き合う必要がある。」
との考えです。
性善説や性悪説よりも、性弱説に強い共感を覚えずにはいられません。
]]>あなたを大切にしない人のことを、あなたが大切にする必要はない
人間関係は鏡のようなものです。
相手の貴方に対する態度は、貴方の相手に対する態度そのものと考えなさい。
ジョセフ・マーフィー
人間関係はこちらの出方次第。
あたかも鏡の前に立つようなもの。
こちらが笑えば向こうも笑う。こちらがしかめ面をすれば相手も渋面になる。
邑井操
世界は巨大な鏡だ。
それはあなたの全てを映し出してくれる。
もしあなたが愛情と友情に溢れ、有能であるならば、世界はあなたの全てを叶えてくれる。
トマス・ドライヤー
馬鹿は見たくないと言うなら、
まず自分の鏡を壊さなければならない
フランソワ・ラブレー
くだらない質問には答えぬがよい。
ろくな答えのできないものには、問いかけぬがよい。
くだらない話には耳をかさぬがよい。
あげ足をとるような相手とは議論せぬがよい。
道をふんで訪れるものとだけ交際して、礼儀しらずは相手にせぬことだ。
荀子
争気ある者とは与(とも)に弁ずる勿れ。
荀子
やたらに人と争い競う性質の者とは
事の是非を語り合うことはしないほうがよい。