はてなキーワード: 若狭とは
「東京都政に専念する。当初からそのつもり」って言うなら、国政にいろいろ口出して前面に出てくるのおかしくない?
「新しい野党を作るぞ!」と思ったら勝手に仕切られて「若狭や細野は子分。リーダーでもなんでもありません」みたいなイメージになっちゃった
これで小池が出ないとなると、細野や若狭が党を仕切ろうとしても「なんだ、小池の子分が意気がってるぞ」くらいにしか映らない
頑張り甲斐がないし、「希望の党=リーダー不在の烏合の衆」扱いになるんじゃないかな
小池は党の代表になるべきじゃなかったし、口を出すにしても前に出るべきではなかった
若狭や細野や玄蕃というが作る、しがらみのない新鮮な政党・・・みたいな路線にしておけば若狭も細野も玄蕃も生き生きやれただろうになあ
完全にサークルクラッシャーでしょ
野党サーの姫だわ
はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。
『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。
僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああいう教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである。
ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである。日本民族がいかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的な価値観を元に記述せざるをえなくなる。
客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。
いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。
クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。
例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています。
平清盛が後白河法皇を幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団や中央の貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇の皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏の源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。
これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団が挙兵して、ついに内乱は全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。
平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。
しかし、畿内・西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏は北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国に都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼・義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係の説明が詰め込まれています。
まず、平清盛が後白河天皇を幽閉したこと、安徳天皇を即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています。
当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています。
次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団や中央の貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王と源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています。
これはまさしく因果関係に言及しているわけです。
このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価や因果関係がしっかりと述べられているのです。
そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。
なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています。
治承・寿永の乱は、一般には源氏と平氏の戦いといわれている。しかし歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏と平氏の勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王の挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃・近江・河内の源氏、若狭・越前・加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏らである。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである。
彼らの動向をまとめあげ、武家の棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲・源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。
教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。
他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。
【参考文献】
(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)
伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏の根拠地・鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦、千葉、上総氏などの有力な東国武士と主従関係を結んで御家人とし
頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います。
三浦、千葉、上総という武士の名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏の名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦のときに唐突に登場します。)
[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政・裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元・三善康信が就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島で平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦で平氏を滅ぼした。
[]は引用者註。
この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。
鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています。
北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦いで平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国の地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原(神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇と対立したので、法皇は同年、頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経はさらに平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏一門を滅ぼした。
この教科書は歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。
上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏が都落ちに安徳天皇を伴ったことも言及なし。
というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります。
鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍に面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。
教科書の中では唯一、桐原書店だけが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。
(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍に面接して」という説明も省かれています)
["新恩給与"についての註]
土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。
これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!
所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世の土地支配の構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います。
なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています。
職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園の場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。
この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。
しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会と文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています。
地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益の意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利。
これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配の構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?
せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。
さて、桐原書店の教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています。
幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権を意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近衛大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。
Aについては南北朝時代の武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨・甲斐善光寺蔵)。
とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。
網野善彦の著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います。
他の教科書には載ってませんが、ピンポイントで東大入試に出題されました。
源氏と鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏の氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮(八幡宮の前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。
鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍の教科書だけです。
上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉と経済流通」というのも掲載されています。
東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉の都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います。
こののち、後白河法皇は義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令を希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。
頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています。
あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷の命令を無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。
それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇・朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。
両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます。
関西にある政権が東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ。
平氏は安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力を回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門の壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。
この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス。
都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。
どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています。
ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西の教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇や平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)
例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国の武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とあります。さらに西国の御家人が東国の御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書の関西中心っぽい史観は独特です。
アニメ版とは別物ですね。
日常系作品にちょいとホラー要素を加えたのがアニメ版だとすれば、原作コミックはほとんどホラーです。
それと、ただ怖いだけじゃなくて、批評性の高い意欲作です。
日常系とか空気系と呼ばれる作品群をハッキリと否定しています。
エヴァ旧劇なら庵野がオタクたちのことを「気持ち悪い」と言ったのと同じです。
まどマギ劇場版新編なら、ラストで「自分勝手にルールを破るのって、悪いことじゃないかな」とまどかに言わせ、ほむらが創った心地よい虚偽の日常を批判しているのに相当します。
学校を出ること(卒業)、あるいはそのまま学校に残り続けること、どちらかです。
"巡ヶ丘"学院という名前と場所そのものが、終わらない、居心地の良い、都合の良い、フィクションの中にしか存在しない日常のメタファーです。
最終的に、学園生活部のメンツは卒業すること(現実を直視すること)を選びます。
とりわけ丈槍由紀の成長は顕著で、ハッキリと夢想に別れを告げ、夢想で彼女を守っていた周囲に感謝の意を示します。
と、ここまでが1~5巻までの概要です。
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で言えば、ハリアーで友引町を脱出するところです。
エヴァ旧劇なら他者(アスカ)を望み、LCLから人間の姿に戻るところです。
ただ、揺り戻しがあるのですね。
嘘でも良い、安心できる妄想の繭に守られていたいという願望が再び頭をもたげてきます。
1~5巻では由紀が繭の中に逃避していたのですが、今度は若狭悠里が繭の中に潜り込み、由紀と同じ道をなぞってしまいます。
セカイ系の隆盛後、日常系が流行り、まどマギで一旦は日常から脱出したのですが、また日常に戻った漫画・アニメの消費者自身なのです、悠里は。
一度は他者を望んだものの、やっぱり怖くてアスカの首を締めたシンジ君そのものです。
デビほむが創った新しい世界を半ば受け入れてしまう、まどか以外の魔法少女たちとも似ています。
7巻以降はどうなるんでしょうかね。
おそらく日常と現実の間を振り子のように揺れ、最後は曖昧な位置で静止して終わるのではないでしょうか。
『うる星~』は友引町から脱出できたかどうか分からないまま幕を引きました。
エヴァ旧劇でも、新しい世界でシンジとアスカが共生できるかは未知数なまま終劇を迎えます。
まどマギ新編でも、ほむらは「いずれあなた(まどか)は、私の敵になるかもね」と言っています。
縮小再生産で似たような作品ばかり作っていて良いのかという反問です。
唯たち4人はしきりに「高校を卒業しても、今までのような毎日が続くかな?」と自分たちに問いかけ続けます。
もちろんずっとクローズドな学校生活(がっこうぐらし!)が続くわけはなく、社会に対してある程度開放的であらざるを得ない大学編けいおん!はすぐ打ち切りになりました。映像化もされていません。
まんがタイムきららは自ら日常系の潮流を作り、その流行に乗りつつも、自分たちがまずい方向に進んでいることが分かっているのでしょう。
ワタミをおとすために、自民党比例候補の誰に投票すればいいか考えてみた。(文中敬称略です)
まずはこちらをお読みください。
http://anond.hatelabo.jp/20130706230309
「自民の」
「当選確実ではない(本来ワタミ氏より票を持っていないであろう)が落選確実でもない(当落線上になりえないわけでもない)候補」
をピックアップするために、当選確実そうな人から除外していきます。
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◎山田俊男、2007年は舛添氏の次点、今回はトップ当選だと思う、農協組織票持ち。
◎ヒゲ隊長、知名度&自衛隊組織票?前回(2007年)は25万票。
◎佐藤のぶあき、元官僚組織票?&ヒゲ隊長の名前間違え?前回22万7千票。
この方たちは上位当選でしょうからワタミを落としたかったら入れるのは止めたほうが良さそうです。
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◯衛藤晟一、郵政復帰組、地元九州から追い出されて当選、前回20万2千票。
上位当選とはいかないものも、当選安全圏だと予想。ワタミを落としたいなら入れないほうが無難。
この方たちと同じくらいにワタミの個人名が書かれたらおとすのは不可能と断じていいかも (´・ω・`)
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組織票で議員を生み出した事がある実績がある、組織の後押しがありそうな人。(15~20万票ぐらい集められるんじゃないか?と予想)
▲宮本しゅうじ、前全国商工会青年部連合会会長でいわゆるJC票?
ワタミをおとすためにおしあげたほうがいいのか、それなりに票が入りそうだから入れないほうがいいのか、なんとも言えません (´・ω・`)
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組織票はなんとも言えず、そこそこ知名度あって当落線上なんじゃないか?と予想する人達。
△大江康弘、前回民主党でなんとか当選、幸福実現党入りしたり出て自民党会派に合流したりという人。
△渡邉美樹、ワタミグループの組織票???彼がどんな人かわかってない人の知名度。(この位置は希望的観測かなり含む)
ワタミをおとすために支援したほうがいいと思われます。(当然、佐竹、大江、そのだ)
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佐々木洋平、全日本猟友会の組織票持ち、猟友会約10万人で後押しが必要そう。
木村よしお、衆議院議員7期務めたベテランだが、全国区の知名度が足らず前回8万票。
木村りゅうじ、日本介護支援専門員協会前会長で組織票がありそうだが、会員数4万5千。
よねさかともあき、日本臨床衛生検査技師会副会長で組織票が有りそうだが、約5万。
伊藤ようすけ、50音順で上の方、作家・タレントながら知名度イマイチ、はてなのエントリーで紹介される。
若狭勝、弁護士、誰?調べたらテレビにコメンテーターで出てた人なのね。
ここの皆さんは組織票があるものの当選ラインには厳しそうな数だったり、知名度もいまいち足りなそうな人達で、
ワタミを落とす可能性を上げるなら、ランダムに投票することでその可能性を上げられそうな候補者です。
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残るは当選の芽が無さそうなのでワタミの順位をおとすために入れてしまったら死に票になりそうな人達。
畦元しょうご、日本放射線技師連盟理事で組織票がありそうだが、会員数不明であまり多くなさそう。
北村 つねお、元産経新聞政治部長、産経新聞の組織票?あまり多くなさそう。
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なお、この当落予想は素人がざっくり調べて予想したものなので、選挙結果と予想が大いに違う結果になる候補者もいるだろうと思います。
結言にもう一度、
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△佐竹雅昭
△大江康弘
△そのだ 修光
木村よしお
木村りゅうじ
よねさかともあき
伊藤ようすけ
若狭勝
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この中の人達からランダムで投票することで、ワタミの落選の可能性を高めることができる、と愚考します。
朝日新聞の別冊版にある人生相談コーナーに男子中学生が性の悩みを打ち明けたところ、回答者が「熟女とのセックス」を勧めたことが問題になっている。「18歳未満に性行為を助長する言動は法律違反となる可能性もある」と専門家。お堅い朝日にしては過激な表現も目立つだけに波紋を広げそうだ。
《ぼくの悩みは性欲が強すぎて、今年受験だというのに、エッチなことばかり考えて勉強が手に付かないことです》
こんな15歳の男子中学生の相談が、8日付朝日新聞に折り込まれた別冊版「be」の人生相談コーナー「悩みのるつぼ」に掲載された。少年は《毎日、自分で処理はしているのですが、どうしても本物の女の子の体に触れてみたくてたまりません》と悩みを打ち明けた。
なんとも過激な質問。だが、回答はそれをさらに上回るものだった。
回答者は東京大名誉教授の社会学者、上野千鶴子氏(64)。上野氏は従来の「スポーツで汗をかいて性欲を発散」といった紋切り型の答えは避け、《セックスって何か、知りたければ方法があります》と次のような解決策を提示したのだ。
《知らないことは知っているひとに教えてもらうに限ります。経験豊富な熟女に、土下座してでもよいから、やらせてください、とお願いしてみてください》
熟女ブームもあり、しゃれっ気も多少交えて回答したのかもしれないが、ネット上などでは騒ぎが巻き起こった。ツイッター上では「男子中学生に語る内容ではない」などの声が相次ぎ、一部のテレビ番組でも話題に取り上げられた。
上野氏は《(熟女の)ご指導に従って十分な経験を積んだら、ほんとうに好きな女の子に、お願いしましょうね。コンドームの準備は忘れずに》と回答を締めくくっているが、これが「法律違反」になる可能性もある。元東京地検特捜部副部長の若狭勝弁護士は「18歳未満に性行為を助長することは、児童福祉法違反に該当する可能性がある」と語る。同法では「児童に淫行をさせる行為」を禁じており、「新聞がこうした内容を載せるのは、児童福祉法違反を助長、教唆することにもなる」というのだ。
夕刊フジの取材に対し、朝日新聞社広報部は、「性に関する深刻な悩みに対して、男女の機微について語りつつ、『相手のいやがることは決してしないこと』などと相談者に冷静な対応を促したものと考えています」とコメント。上野氏は、朝日が示した見解について「その通りじゃないですか」としつつ、「取材に応じている時間がない」と話している。
成人と未成年のセックスは否定するのに中学生に熟女とセックスしろと進めるなんて頭がおかしすぎる
それともこの上野千鶴子という人は未成年と成人のセックスに対して反対の立場をとっていないからこういうことが言えるんだろうか
今回の事故についていろいろ調べたところ、心配ないことがわかってきた。
日本の原発の地図を見ると、大都市から距離を置いて配置されている。
近いように見えるけど、若狭湾から京都大阪、女川から仙台は50kmはある。
人口の少ない田舎なら退避命令を出してもいいや、という発想で作られている。
原発建設で町が潤って産業が栄え、人口が増える、ということは想定されていない。
「俺の住んでいるとこは原発に近いけど、都会だよ?」と思う人がいるかもしれないが、
それはつまりその地域は重要ではなく、見捨ててもいいということだ。
福島県の市長がテレビで怒っているのは「ここまでくるとは聞いてないぞ」ということだろう。
やっぱ原発ってだめじゃん。
徳島と鳥取も三重も福井も、イマイチ分からない部分はあるのだが、
・三重
南方だと熊野とかは(和歌山県の)新宮や(奈良の)吉野郡一帯と
・福井
っつっても、いわゆる嶺南地域(敦賀以西の若狭湾沿岸地域)が、
・鳥取
# 元R29沿線住人
鳥取に出た方が早い。
・徳島
ダイレクトなつながりはないし、せいぜい淡路島と鳴門海峡大橋で
つながってるぐらいの印象しかないけど、
なにせ岡山に出るより大阪に出た方が近い上に便利な土地柄だし、
徳島県を放送エリアとする民放が少ない上に、地理的事情で関西広域圏の
だから、四国の一環というよりは関西広域連合の方が近い肌感覚。
・岡山
その上の津山??英田郡??佐用郡??旧宍粟郡ラインの交流とかもあるから、
遠いようで近いけどパッとしない間柄。
・岐阜(西部)
滋賀県も中日新聞エリアだし、大垣・本巣エリアと滋賀湖西エリアは近い関係。
木曽エリアや木曽三川下流エリアを考えると、やっぱり愛知-岐阜-三重の中部圏の気もする。
中途半端な間柄。