はてなキーワード: 芭蕉とは
♪夏がくれば思い出す 遥かな尾瀬…ってやつね
アレの二番で
本当に嫌いなんだよなあ
だせえんだよ 「夢見て匂っている」って何?そんな日本語は日本語と認めねえよ
マジでクソすぎる
一番の「夢見て咲いている」も別に好きじゃないが、まあ流せる メロディとのハマりもちゃんとしてるしね
「匂っている」はダメだあ なんかキモいんだよな 加齢臭がすごい ダサいの
お婆さんが心を込めて自作した絵本の朗読会参加者ゼロ!みたいな情景が一瞬で頭をよぎってすげえ不快なわけ
やめてくださる?
本当になんなんだよ まだしも「香っている」とかの方がマシなんだよな いや多分水芭蕉の匂いには「香る」より「匂う」のほうが合うんだろうけど
それはそれとして嫌いだ
嫌なんだよ あの部分歌うの嫌で音楽の時間に習った当時も「匂っている」の部分だけ歌ってなかったからな
…○○さんも政治から外交、安全保障まで幅広い分野にわたって、切れ味鋭い評論活動を進めておられますが、その基礎となっているのは源氏物語をはじめとした古典から現代文学まで、日本人の核となる精神文化に対する深い洞察である、そう確信しています。「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」。以前、対談の折に新保先生から教えていただいた松尾芭蕉の言葉です。
「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」というのはどう考えても「保守の精神」とやらを追い求めることじゃねえよ。
そもそもこの言葉の意味は、古人がかつて求めた跡(保守)を求めるな、古人が求めた理由や背景を理解して古人が今生きていたらどう判断するだろうかを考えろ(時代に合わせて変化せよ)ってことだよ。形を真似るな心を真似ろってことだ。ちなみに、この言葉は芭蕉自身が引用として使っていて、おおもとを言ったのは空海だよ。「書亦古意ニ擬スルヲ以テ善シト為シ、古跡ニ似ルヲ以テ巧ト為サズ(性霊集)」。書道というのは、古跡(昔の大家の書)に「似る」のをもって「巧み」とは言わない、古意(昔の大家が考えたこと)に「擬する」(大家の気持ちになったつもりになる)のを「善」とする、という意味だ。それを「風雅」にも通じるね、ってやったのが芭蕉の趣旨だ。芸術の創作における風雅なんて、前の人のやったことをただ真似してもただの猿真似だからな。
書と風雅は同じではないが、この点では通じるところもあるかもしれない。芭蕉が言ったのはその程度のことだ。決して世の中の永遠の真理について述べたわけではないし、そもそも「政治」なんて全く畑違いのところにこの言葉が適用できるのかどうかも分からない。なのに何が「示唆に富む」だ。古典を自分の都合のいいように解釈したり正直意味が分かってない人間が使う決まり文句だ。古典引用して僕ちゃん格好いい、って思ったか? 残念、馬鹿を晒しただけだ。だいたい、直前の別の人を褒めた文章で
わが国の悠久の歴史や伝統、文化に裏打ちされた価値観は、世の中がいかに変転しようとも揺らぐことはありません。そうした中で伝統的な価値観に立脚し、真の日本人の精神を復活させる
この発言のどこに「古人の求めたるところを求め」る姿勢があるんだよ。ひたすら「古人の跡」万歳万歳じゃねーか! その時点でこの記事上げてる「メディア」のレベルが知れるわ。
「日本人の核となる精神文化」を欠片も知らず理解もせず、こんな人間に得意げに「教えていただきました!」みたいに褒められるとかホント罰ゲームとしか言いようがねえ。その点は受賞者に同情する。まあ自業自得だけどな。それから、我が国の宰相におかれては、こんな阿呆丸出しの文章を平気で得意げに掲載する程度の自称「マスメディア」に担ぎ上げられて舞い上がっておられて本当に可哀想だ。その程度の人間しか応援もしてくれず周りにもいてくれない、その程度の人間としての能力しか持ち合わせておられないことに同情を禁じ得ない。心ある人には完全に見限られているってことだな。親父はもう少し賢かったのだから、母親がダメだったんだろう。まあ勉強から逃げ回っているとこういう人間になるといういい見本だからせいぜい恥を晒してくれれば少しは世間への教育にいいかもしれない。
(うねめのつえつき)
四日市市の『杖衝坂』のすぐ近くにある和菓子店、菊屋本店が製造する看板商品の最中。
大納言小豆の粒あんがたっぷり、やわらかいお餅(求肥)も入り、食感・食べ応えのある一品です。
銘菓「采女の杖衝」は、そのままでも、お湯をかけてもおいしくいただけます。
常連のお客さんの間で広まったという『お湯かけ』は、最中にお湯をかけ、お塩をひとつまみ。ぜんざい風にいただきます。
東海道でも屈指の難所に数えられた「杖衝坂」は、東征を終えた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が負傷した足を引きずり、
剣を杖の代わりにして坂を登られた故事にもとづいて名付けられたといいます。
ちなみに三重県の由来もこのときの日本武尊が、「吾が足は三重の勾がりの如くして甚だ疲れたり(足が三重に曲がるほど
後年、芭蕉もこの難所にて馬の鞍もろともに転落。その折に詠んだ句が、「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」。
2.22猫の日に、けものフレンズEDを含むみゆはんのメジャーデビューCDがプレス・リリースされた。
それに先立つ2.20に、奇跡的な確率を超えて発券された同一番号BIGの問題に関するプレスリリースが出された。
BIGの投票内容(発番)につきまして(2017.02.20)
http://www.toto-dream.com/press/20170220.html
日ごろからスポーツくじtoto・BIGをご愛顧くださり誠にありがとうございます。
合縁 奇縁 一期一会 袖すり合うも多生の縁
さて、先般インターネット上に『楽天totoサイトにおいて、お客様が第909回BIGを複数回購入した際に、5口分の投票内容が一致していた券面があった。』という事例が掲載されておりました。
この事象につきまして、日本スポーツ振興センター及び『楽天totoサイト』を運営している楽天株式会社において事実確認を行ったところ、実際に販売されていたことを確認いたしました。
また、コンピューターが投票内容(「1」「2」「0」)を発番する際の仕組みにおいて、重複した投票内容の出現はあり得るものであり、
必ず僕らまたどこかで 出会いを果たすだろう
かけがえない 僕と似た君へ
とびっきりの長いお説教は短めにして
どうだろうか、偶然と言うにはあまりにもできすぎている。
しかしニホンザルもランダムタイプで芭蕉の句を詠むのだという。
http://kyoko-np.net/2017022101.html
我々は何故このような文章ができあがったのか究明するため、栃木県に向かった。
「ふわああぁ!いらっしゃぁい!よぉこそぉ↑ジャパリカフェへ~!どうぞどうぞ!ゆっぐりしてってぇ!いやま゛っ↓てたよぉ!やっとお客さんが来てくれたゆぉ!嬉しいなあ!ねえなんにぃのんむぅ 色々あるよぉ、これね、紅茶って言うんだってぇハ↓カセに教えてもらったンの!ここからお湯が出るからそれを使ってにぇ!」
なぜJPOPがこうも似たものばかりになってしまったのかと言えば、抽象的で主観的な歌詞しか描けなかったからである。
これは例えれば、何か感動的な物事があったとき、すごい、すごいを連呼することしかできない中学生のような主観的描写と言い換えることもできる。
もちろんこれでは何がすごいのか分からないし、想いの強さがすごいとか、切なさがすごいとか「抽象的な」付け足しをしても、それは相変わらずその人の主観であるので、聞いてる側からすれば、「ふーん、へー」で終わってしまう物事である。
作詞家の目的は売れるものを書くことであり、別に共感などいらないからこうなってしまうわけだが、では共感を呼べる真正な伝える技術とはいったいどのようなものだろうか。
それは具体的に、客観的に描き、読者に想像させるという書き方である。誰も別に君の主観など見たくはないのだ。
具体例を挙げてみよう。
「古池や、蛙飛びこむ水の音」
この有名な芭蕉の句は、5,7,5のたった17文字に、恐ろしいほど怜悧なテクニックが凝縮されている。
気付いただろうか。この句には主観もなく、音を表すワードしかないのに、それが逆に寒々しいまでの静寂と寂寥感を伝えているのである。
もし芭蕉が主観でもって、「いやーこの辺マジ静か、ちょー静かで寂しい」と言ったら、これほどの静寂は決して伝わらなかったであろう。
蛙が水に飛び込むという、普通なら聞き逃してしまうほどの小さな音以外何も聞こえない空間、つまり圧倒的に静寂で孤独な空間、これを客観的描写で読者に想像させえたから、この句は不朽の名作となったのである。
この手の話は好きなのでちょいと(だけ)考えてみた。国語学/国文の卒論のネタにでも。
で、元増田に1点だけ答えるとすると「良み(がある)」は、語幹と「み」の付き方は文法上は間違っていないのであり得ると思います。でも気持ち悪みがある。
元増田の「そもそも、『さ』(『良さ』、『行きたさ』)からして俺はちょっと嫌だった」はわかる気がする。形容詞は自分の、いまここ、このときの感じ方を場に放り投げるもの。それが「さ」によって、せっかくの、いまここ、このときの俺の新鮮な感じ方が第三者化、対象化、抽象化される。それを自らいうかね云々という。きもみ。
絶滅危惧種のホッキョクグマとかアフリカの大型ネコ科動物とか北米のオオカミとか、
こないだも日本でカワウソが絶滅種扱いになったって言うし、やべーなーと思ってたけど、
両生類も実は100年以内にすべて絶滅する可能性があるらしくて地味にこっちの方がやばいんじゃないかと思うようになったの。
人間以外の哺乳類全部が100年以内に絶滅するなんてことになったら一大事だろう。
それが蛙だのイモリだのきもい動物だから皆関心を持たないのだろうか。
蛙が絶滅するってよく考えたら大変なことじゃないだろうか。
誰が田んぼの害虫を食べてくれるのだろう。私たちは農薬まみれの米を食べるのか?
蚊とかハエとかも食べるから、人間はこれらの虫々に一層悩むかもしれないな。
あの夜の蛙の大合唱も聞こえてこなくなるよ?
未来の子供たちは「かーえーるのうーたーがー」「ゲロゲロゲロゲロぐわっぐわっぐわ」とか聞かせてあげても、
その愉快さとか美しさが理解できないんだよ?
「古池やかはづ飛び込む水の音」とか芭蕉の句を国語の時間に教えてあげても、その風情が理解できないんだよ?
私は子供のころサンリオの「けろけろけろっぴ」が大好きでけろっぴグッズで体中埋め尽くした時期もあった。
それが過去の動物になって、未来の子供たちにけろっぴグッズを見せてもあの蛙のデフオルメの見事さを理解できないんだよ?
イギリス人がフランス人に「frog eater」「frog」って言ってからかうエスニックジョークもなくなるんだよ?
蛙って食べたらおいしいのかしら、本場フランスで蛙料理に挑戦してみましょー!!
うーん、味はささみみたいでなかなか美味しいですよ♪なんていうゲテモノ料理紀行番組も、ひとつネタが減るんだよ?
世の中にはこんなグロい色の蛙がいるとかこんなでかい蛙がいるとかこんな毒を持つ蛙がいるとか2ちゃんで騒ぐことも少なくなるし、
ネタになったとしても既に絶滅してたらあまり盛り上がらないよ?
「セックスしてる姿って実際蛙がはいつくばってるみたいな格好だし、そんなきれいなもんじゃないんだよ」とか、
性に目覚めて好奇心いっぱいの中学生とかに譬えて見せることも難しくなるんだよ?
哺乳類は話題になり易いけど、蛙はあまり人の関心を集めないから、哺乳類以上にやばい。
両生類はきもいと思うし触れないし自分の目の前に出てこないでほしいけど、絶滅されたらすごい世界が不便になるしつまらなくなる。
蛙助けなきゃ。