はてなキーワード: 自由民主とは
政治を語るなら「政策1は最高。2は駄作。うーん両方に関わってる政治家Aは当たり外れ大きい人なんだなぁ」みたいな映画批評みたいな形になるべき。政策にIDをつけて、政治家はタグの1つと位置付けるべき。
ほとんどの政治家は2つ以上の政策を出している。(以降ここでは、立案、実施した政策とか諸々の活動の成果物を政策と呼んでしまう。)一方で政策の方には沢山の人が関わって完成したものなんだから、データの持ち方的にも政策に着目すべきだろう。
政治を批判したい時に政治家を批判すると、しばしば、そいつの政策に全部批判が飛んでいく。ほとんどの政治家は利益になることと損になること両方やってる(誰の視点から見ても)。
絶対おかしいよな。やっぱり「政治家Aの政策1は最高、政治家Aの政策2はクソ」って批判の仕方をするべきだよな。
なんでこうなってないか。みんな個々の政策なんか気にしたこともない。せいぜい中身よくわかんないけどインフルエンサーが解説したのを信じこんだり。
こんなのどうだろう。インフルエンサーに代わってAIで政策を評価するんだ。ここでいうAIはキッチンにあるフードミキサーみたいな便利道具で政策にくっついてる属性(関わった政治家、成立年度とか)を全部ぶち込むと2次元くらいの特徴量、一種の「値」を出してくれる。それをもとにグラフに書いたり分類したりなんなりする。
で、自分に得になる政策を選んでって「値」を信仰するんだ。あるいは「値」をもとに政策を四象限に割り振って、その象限を盲信してもいい。人間が適当にぶちこんでAIがあやふやに放り出した「値」を神と崇めろ。
文字通りの凶弾に斃れた最長任期の元首相に死体撃ちするのも、正当な自由民主主義的活動が四十九日の喪に服すのもおかしいだろ。
「リベラルでもなんでもない自分を考える」を書いた増田という者である。
選挙権を持ってから、地方選挙でも国政選挙でも、自分はほぼ一貫して共産党に投票し続けてきた。来月の参議院選挙でも選挙区と比例代表制の両方で共産党に投票する予定だ。
選挙期間中に選挙公報が届けられると、いちおう各政党の政策をチェックして投票している。共産党の政策パッケージは少なくとも保守ではないと思って、投票というかたちで政治行動してきた。
そこで昨日の投稿に所感を綴ったところ、自分が中世的な保守人間であるという論評を含めて、さまざまなコメントが寄せられ、面白かった。
だれかがコメントを寄せていたように、自由民主主義とは、さまざまな勢力が自己利益を実現するためのせめぎ合いが常態だと自分は考えている。
つまり、論争が続いていることが、民主主義が健全に機能している証拠だと考えている。
なので、さまざまな「マイノリティ」が自己利益の実現を目指して主張をするのは、まことにもっともなことだと思っている。
あなたが意見を表明する自由を私は侵害はしないが、あなたのその意見を私が受けいれるかどうかは全く別の話だといっているだけだ。
あなた自身の意見に私が耳を貸さないからと言って、真理に反する者、正義に反するものとしてあなたが私を非難するのなら、私はますますあなたの意見に耳を貸さないだろう、といっているだけだ。
ましてや、あなたのたんなる意見に過ぎないものに私を従わせようとして、力づくで服従させようとするなら、私は絶対に従わないだろうといっているだけだ。
意見を表明するならどうぞ。それはあなたの自由なので。私はその自由を侵害しない。
だが、あなたの意見に私が同調して行動するかどうかは別の話だ。
なぜなら、私はあなたではないので。
「リベラルでもなんでもない自分を考える」を読んで、この記事は保守政党がクラウドソーシングで発注したものだと断定し、何事かを成し遂げたと思っている人が見られた。
また、「夜道に気をつけろや」的な脅迫めいたコメントを残した人もいた。
このようなことをする人は、自分がリベラルだと思っているのだろうか。とても面白いのでお伺いしてみたい。
もともと人口政策とか疫学的政策とかは、「共同体全体の利益のために、個人の自由を一定程度制約する」っていう全体主義的な性質を内包せざるを得ない。
自由民主主義国家であっても、ここに一切の政策的介入をせず、すべて個人の選択に委ねる、ということはほとんどないけど、とはいえ個人の自由に直接に強力に介入することもできないし、すべきでない。
だから、基本的には国民の自由意志と選択に任せつつ、行政側では色々なインセンティブや逆インセンティブを提示して、国家が考える好ましい状態に国民を誘導する。
人口維持でいえば、育児費用を負担したり、教育費を無償化したり、非課税限度額を調整したりする。
コロナ対策でいえば、強制ではないけど、ワクチン政策を強力に推進したり、マスク着用の要請をしたり、営業停止した飲食店に金銭的な援助をしたりする。
ここで重要なのは、あくまで「第一義には国民自身の福祉のために」「国民自身の選択に任せつつ」やる、という基本姿勢。ここを見誤って「国家のために」を前に出しすぎてしまうと、人口政策や防疫政策はしだいに全体主義的な色合いを帯びていくことになる。だから戦後の日本は、基本的にそういうメッセージは出してこなかった。「個人の自由意志」「個人の利益」「国家・社会の利益」の3つの要素を見極めながら、自由民主主義国家で許されるギリギリのラインを攻めるような慎重さでこうした問題にあたってきたと思う。それが時には少子化対策の不充分さや的外れさ、コロナ対策の煮え切らなさの一因にもつながっていたのかもしれないけど、ともかくそういう原則は大事にしてきた。
吉村知事の表現は、そういう意味では不用意に「国家のために」を前に出しすぎていたと思う。為政者が人口政策について「リターン」「投資」「効果」という言葉を使うとき、国民は国家の維持存続と運営に必要な駒なり投資商品のように見立てられている。国が利害の主体で、国民はそのために操作される客体という構図。この物言いは、先の一線を少し踏み越えてしまっているところがあって、増田が批判してるブコメもそこに違和感を感じたんだろうと思った。
自分は、維新という政党は基本的に「一方では改革と言ってカネをけちり、もう一方では商都としての返り咲きを目指して怪しげな案件にド派手にbetする(IR、大阪発ワクチンなどなど)ことで支持を得てきた」政党だと思っていて、正直、人口や国防といった国政レベルのグランドデザインについてはまだまだ党内の議論が熟成されてないと思っている。出産育児についても、例のケチケチ感覚を敷衍して「貧乏人が子どもをたくさん生んでも意味がない」「育児支援は甘え」とか言いそうだなと思っていたので。
ワテはあんな時に投げる金が神様に本気で祈ってる奴を救う時に効果を発揮したらええなぁと思うだけやで
まぁ現代は金自体にちゃんと効力があって金が集まったところがたまに慈善事業とか社会福祉とかに金を使うんやからそれでええんやと思うわ
その上で死のうが死ぬまいが神様が処理するんやのうて、火葬場やら特殊清掃の人達が上手いこと頑張ってくれるんやな
日本人はみんなツンデレやからそうやって人間が作り上げた神である社会に対してアレもダメじゃないコレもダメじゃないと言うけど
なんだかんだ美味しい水は啜ってるんや、その言葉を本気にしてしまってこの社会という神様には甘えられる場所が無いと断じてしまうのが結構な頻度で現れとるけど
それでも昔はその符号の下に様々なことをやってもらったんやからそりゃ形式上でも感謝はするわな
今の社会はみんな人権というものが生まれてしまってダニノミ並みに役に立たなくなった奴等でも社会という神の名の下に人間扱いさせてもろうとるせいで、よくわかっとらんねんな
こうやって日本語喋れんのも不満を欠けるのも社会の教え、社会の規律の名の下にやっとるだけよ
それが宗教国家に代わって神様の道理で大量虐殺されてないだけなんや
今は自由民主主義、もしくは平和主義って神様に従っとるだけなんや
その権能は今ここにあるものが全てや
人間は20点くらい失敗する生き物だからそれ前提動くシステムだと思っている
95点目指しちゃったもんだから受験が大変だし、部活はブラックだし、残業だし
それでイノベーションは起きない
欧米に比べると失敗に非寛容だよね
でもじゃあ受験戦争やめたらどうなるっておれはさらに没落していくとおもうよ
いま中国が必死にゼロコロナとかいって100点をもってこない人民をいたぶっている教育ママみたいなことをやっているが
社会主義においてママは95点じゃ許さないの、100点を持ってこいとしばかれる
改革開放で表面上は市場経済の論理を受け入れたかに見えた中国だが
ドラッグはあふれ、殺人事件は日本の数十倍、公教育は崩壊している
まともな掛け算もできない大人があふれているのに
アメリカの大学院にいけば頭のいい奴はみんな留学生/移民だってことがわかる
この60点の国の現状と、大学の100点留学生がとんでもないパワーをもたらすんだよ
ふつうだと大学が崩壊してまともな人材は育たないが、アメリカの一流移民でハイテク産業は
結果的にアメリカは寛容でありながらハイテクも維持できる国家になった
普通両立できないんだよね
移民だらけだ
AMDの社長も、nvidiaの社長も、googleの社長も、みんな移民だ
だけどそれで回ってるんだからすごいと思う
それで掛け算もできない高卒は子供バンバン生むから少子化の心配もない
アメリカは外国が育てた高等教育の上澄みを移民という形でとれるわけ
そら発展するよ
全体的によくわからん。
意識高い系はなるべく早く死んでください。
SDGsを推進するのは意識高い系?国連も世界銀行も日本政府も国際金融機関も全部消滅すべきってこと?アナーキーだなあ。。
先延ばしなのは確かだけど、なんで「腐った」?できなかったら改めて目標設定するしかないと思うんだけど。全部目標通りに達成されないと許せない潔癖系?
んー、まあねえ。MDGs達成にあたって、2000年代のブームは大きかったと思うけど、SDGsって成長率があまり必要じゃないものばかりだと思う。
ついでに歴史絡みで言うと西側自由主義陣営が東側に対する精神性の優越を喧伝するために達成してきた成果こそがMDGsに先駆けてあり、そうした古き良き資本主義・自由民主主義の果実を破壊したのが敵対者亡き後に台頭してきた新自由主義なのも踏まえたうえで、それが中国というキメラを生み出してしまったことの反省と総括もなしに先に進めるなどとは思わないでください。
確かに中国のプーさんはヒトラー越えを狙っているのかみたいな大悪人ルートだし、自由民主主義的なトピックがSDGsに入っていないのは中国の圧力じゃないかと思うが、最近は再分配頑張りだしたよね?毛沢東とか考えると、中国が暴走しているのは西側の責任、みたいなのは、白人の影響力を過大に見てるんじゃないかね。中国はでかい国だし、自分の都合で動くだろう。
「新自由主義」って何を指しているのが具体的によくわからないんだよね。国際金融資本が利益だけを求めて世界中を荒らしまわる的な話だったら、本文で書いたように国際金融資本の利益至上主義はすでに変わって、社会的責任を考えるようになってるよ。
https://toyokeizai.net/articles/-/414929?display=b
まず、私は自分が大別すれば「左翼」かつ「リベラル」の立場にあることを自覚している。左翼の定義やリベラルの定義の困難さ、特に現在の日本で「リベラル」が「左翼」の言い換えのように使われて混乱が生じていることは十分承知しているが、そのあたりに触れるといくら前置きをしても足りなくなるので、要するにここを見るような人間たちがイメージする「左翼」であり「リベラル」であると考えてもらえばいい。ただし、左翼かつリベラル、というように私はこの両者は区別している。区別した上でどちらでもあるということだ。参考までに、最近やってみた下記サイトのポリティカルコンパスでは、
https://www.idrlabs.com/jp/political-coordinates/test.php
という結果だった。これを見てもわかるように「左派」と「自由主義」(リベラル)は別軸である。混同している人は気をつけてほしい。
そういう一人の人間として、件のイシグロ氏の発言への感想や疑問を書いてみる。
まず、社会制度の大枠を議論したり決定したりする際に、感情より科学的なデータやエビデンスが重視されるべきだというイシグロ氏の意見には私も異論がない。陰謀論やフェイクニュース、似非科学や歴史改竄に代表されるような事実軽視は、それが誰によるものであれ批判したいと思う。私は左派だが、左派の中にこの種の問題がないとも言わない。
たとえば近年では、日本共産党などがHPVワクチン副反応被害者の立場に寄り添うあまり、反ワクチン的な言説を許してしまっている(自分で言わないとしても、運動内部のそういう言説をはっきり否定しない)ことを歯がゆく思っている。誤解している人もいるようだが、日本共産党は本来はワクチンに否定的ではない。HPVワクチンについても、むしろ導入を行政に要求したりしてきた。しかし副反応被害を訴える声が上がり、裁判になってその原告を支援する立場となると、原告側の科学的根拠が弱い言説に対しても必要以上に寛容になっているように見える。それが被害を訴える原告の「感情」を優先したためなのか、あるいは裁判や運動を進める上での利害を計算したためなのかはわからない。そのあたりは人によっても違うだろう。しかし現在出ている科学的検証の結果が原告側に有利ではない以上、主張はデータを軽視しつつ苦痛の強調など感情に訴えるものになりやすい。イシグロ氏が言う「科学的エビデンスより感情が優先される」問題として私が連想したのはこのような例だ。
この件で一応私の意見を言っておくと、副反応を訴える人にはなるべく広く補償を適用しつつ、HPVワクチン自体は普及を進めるべきだと思っている。副反応裁判の原告団体については、補償の範囲を広げる運動としては支持するが、同時にHPVワクチンの勧奨再開に反対したり、さらには反ワクチン的な主張をする人物が混じっているのが支持できない。また便宜的に日本共産党の名前を出したが、私は共産党員ではなく関係も薄い。共産党に限らずHPVワクチン訴訟原告を支援する左派系政党や団体に共通する問題として挙げた。
しかし多くの部分で、私はイシグロ氏の発言に同意できず疑問を感じる。そもそも現状認識が私とは大きく違うように思うからだ。たとえば次のような部分だ。
"小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。リベラル側の人たちはこれまでも本や芸術などを通じて主張を行ってきましたが、そうでない人たちが同じようにすることは、多くの人にとって不快なものかもしれません。
しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です。
リベラル側の人が理解しないといけないのは、ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許ではなく、誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけないということです。"
ここは私には非常に疑問が湧くところだ。何よりわからないのは、いったいいつどこの世界で「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」になったのかということだ。
イシグロ氏が住むイギリスのどこかにはそういう特殊な場所もあるのだろうか。まあおそらく、イシグロ氏が属するコミュニティの大半が教養ある「リベラル」で、そこでは「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」はほとんど目につかず、その声が抑圧され死に瀕しているかのように錯覚してしまったのだろう。しかしイシグロ氏自身が言っているように、アメリカでは半数近くの人が一時的にであれトランプを支持し、イギリスではブレグジット派が不正ではない投票で多数を占めてしまったのだ。「リベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声」は十分に力を持ち、各国の舵取りに影響を与えている。
語ることがリベラルの専売特許に見える世界とは、イシグロ氏を取り巻く知的で文学芸術を愛する少数のインテリの世界のことでしかないだろう。イシグロ氏もそれを自覚はしているようで、だからこそ「縦の旅行」というようなことを言う。しかしその狭いインテリ業界での経験を一般化し、世界全体がそうなっているかのように語ることこそがまさにインテリの傲慢であり、相変わらずその狭さに無自覚な発言だとは気づいているのだろうか。
イシグロ氏と違い、私は左翼でありリベラルである自分のような立場が日本社会で主流になり、語る権利を独占しているなどと錯覚できたことは一瞬たりともない。たしかに近い考えを持つ人の集まる場所というものはある。しかしそういう場に足を運びながら、その場を一歩踏み出せば「世間」は全く違うのだと常に意識している。「縦の旅行」などするまでもなく、日本社会で「普通に」暮らせば、全くリベラルでない人、左翼を蛇蝎の如く嫌っている人、そもそもそういう言葉も、そういう違いがあることも知らない人などに電柱並みの頻度で出会うのである。
たとえば私は天皇制は廃止すべきだと考えているが、世論調査では天皇制に反対する人はずっと一割を切っている。周囲の人間をランダムに選べば十人中九人以上はこの点で私と考えが違うわけである。まあ日常生活でいきなり天皇制の話をする機会は少ないが、先日の代替わりだの改元だのの騒ぎの時には、自分が少数派であることをあらためて意識させられた。特に天皇の問題については、過去に右翼の襲撃のような直接的暴力による脅迫があり、言論の自由が大きく損なわれたことを知っておくべきだろう。「じゃあこっちはどうなんだ」をあまり振り回したくはないが、ポリティカルコレクトネスなどによる言論の不自由を懸念するのであれば、日本社会にはびこる天皇をめぐる言論の不自由にも一通りの知識と関心は持ってほしいと思う。
「自由民主主義」の社会を享受してきたと語るイシグロ氏は、部屋で文章を書くだけでなく、デモに参加し、街頭で語ったりビラを撒いたりしたことがあるのだろうか。それは自由民主主義を維持するための不可欠な活動の一つなのだが。やってみるとわかるが、街頭では温かく応援してくれる人だけでなく、口汚く罵ってくる人にも出会う。私の知人の中には、突然殴りかかられてけがをした人さえいた。手渡したビラを一目見るなり舌打ちして破り捨てる人もいる。私たちはその断片を拾う。それでも受け取ってくれるだけましとも言え、多くの人は避けるように通り過ぎていく。「自分とは違う世界がある」どころか、周囲の人の大半は自分とは違う考えだが、それでも少数者として声を上げていくことは無意味ではないはずだ、と私は自由民主主義社会で日々自分に言い聞かせている。
日本で左翼をやっていると、自分が投票した候補者が当選することも少ない。民族的、性的、その他さまざまなマイノリティの権利擁護運動に関わっていると、そもそも多数決に任せれば無視されるのが当然、そういう世界でいかに存在を認識させ、主張を届けるかというのがあらゆる活動の第一歩になる。言うまでもない前提だ。
上記のイシグロ氏の発言で何度読んでもわからないのは、「多様性」についてわざわざ「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく」と言っていることだ。これは何なのだろう。イシグロ氏はここで、「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」と「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」をあえて対立させ、前者より後者の多様性が重要であるように言う。前者の多様性と同時に、それに加えて後者の多様性も、というならまだわかる。しかし、少なくとも多数決投票で勝利したことのあるような「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人」の声を「さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人」の声より優先して聞こうというような提案が現状の「多様性」をどれだけ高めるというのだろうか。
また、「トランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語る」という記述を読んで私が疑問に感じるのは、これはいったい誰が、どの立場から語るのだろうか、ということだ。翻訳の問題などもあるのかもしれないが、これを読むと、その人々の世界を外の人間が「誠実に」語ることのように読める。たとえばイシグロ氏のような作家がブレグジット支持者の内面世界を誠実に想像して描くというようなことなのだろうか。
しかしそれは、その傍で言われている「誰もが語る権利」と矛盾する。「語る権利」と言う時、マイノリティの運動の中などでは特に、当事者が自ら語ることを重視する。当事者の心中を非当事者が想像して代弁することは推奨されず、場合によっては本人の言葉を奪う行為として非難される。トランプ支持者やブレグジット支持者にしても、たとえばイシグロ氏のようにもともと思想的立場の違う作家がいかにも理解ありげに、「あなたはこんなふうに思っているのでしょう」とばかりにその思いを代弁したら多くは反発するのではないか。だから原則としては、その声に耳を傾けたいなら、非リベラルと言われる人々に語る場を保障し、自ら直接語ってもらうのが正しい。
その上でイシグロ氏は、そうして語る場を提供して耳を傾けた時に飛び出してくる言葉が、「○○○人はゴキブリ、この国から出ていけ」や「同性愛者は天罰を受けて死ね」だったり、静かな口調で確信に満ちて語られる「あなたがたは皆ディープステートに洗脳されているのです、ぜひこの資料を見てください」だったりした時にどういう反応をすべきか、どこまで現実感をもって考えているのだろう。この発言が単なる綺麗事に見え、それゆえ面白くないのはこのあたりの現実に何も触れていないからだ。
イシグロ氏は「誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と言うが、これは理想論、原則としては全くその通りである。しかし現在問題になっているのは、その「誰もが語る権利」を尊重した結果次々と湧き出してくる陰謀論やヘイトスピーチへの対処を現実的にどうするかということなのではないか。先日話題になったツイッター社のトランプアカウント凍結なども、この原則と現実の間で行われた苦渋の選択だった。こういうリベラルの原則と現実とのジレンマは、「寛容は不寛容に対して寛容になるべきか」といった形で長く議論されてきたテーマでもある。それで言えば、トランプ陰謀論支持者に向き合いつつ、あえて寛容の原則に立とうと語る下の記事の方に私は感銘を受けた。
"「トランプの陰謀論」が今なお5000万人を魅了するワケ。『白人ナショナリズム』著者、渡辺靖に訊く"
https://finders.me/articles.php?id=2529
私はリベラルだが、この問題についてはここまではっきりと「寛容」に立つとは言い切れない。ヘイトスピーチ規制にも慎重派でありつつ、現実的にやむを得ないとも思っている。各国の法規制の方針を見ても、それぞれの背景に基づく大きな違いがある。現時点で何が妥当か判断しにくい難しい問題なのだ。「私たちはお互いに耳を傾けなければいけない」と書斎で言い放つだけでいいならそんなに楽なことはない。
また、いくつかのブコメが触れていたが、たとえばトランプ支持者が陰謀論を信じるのはそもそもイシグロ氏が言うような「感情優先」のせいなのかというのも疑わしい。選挙の敗北を認めたくないという感情が陰謀論を信じさせているのだ、というのはあくまでも外からの解釈で、本当に信じている人にとっては陰謀論は「事実」そのものだ。実際、陰謀論を広めている人はしばしば「まずは事実を知ってください」と言う。誤情報にさらされ、修正機会がないまま信じ込んでしまうという現象は特に感情がからまなくも起きる。平凡な思想を感情的に主張する人もいれば、陰謀論を冷静に信じる人もいるのだ。トランプ支持のような現象を「感情優先」として批判するのは、陰謀論やフェイクニュースのような誤情報の浸透をどう制御していくかという問題に対してあまり有効でないように思う。
ちなみに、トランプ支持者やブレグジット支持者に向き合ってその声を聞こうとした研究や取材はすでに数多く行われていて、下の記事のように日本の記者によるものさえある。
"トランプ支持者はなぜ熱狂的に支持しているの? とにかく彼らに会い続けた記者が、これからも語り合う理由"
https://www.nhk.or.jp/d-navi/note/article/20210208.html
イシグロ氏が自宅でなぜリベラルは非リベラルの声を聞かないのかとぼんやり嘆いている間にも、実際にトランプ支持者の家を訪ねて話を聞こうとしているリベラル寄りの人間は山ほどいるのだ。イシグロ氏は「リベラルが」ではなく「自分が」ご近所の非リベラルの声さえ聞いてこなかった、と言うべきだろう。主語を大きくしすぎてはいけない。
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「(内心で)嫌う自由」と「(偏見に基づいて)嫌いだと口にする自由」は全く別のことだよ。
もとの文章には偏見にもとづいているとは書いてありません。「マイノリティを嫌いになるのは偏見でしかない」とmuchonovさんも偏見に基づいているのではありませんか?「増田さんの嫌いは偏見だ」と根拠のない前提をおけば、増田さんに対して、偏見を口にするなとmuchonovさんは言えますが、増田さんの心には届かないでしょう。
増田は「私の自由は規制されている、私を規制するな」と主張するけど、「偏見にもとづいてマイノリティを嫌いだと公言する自由をよこせ」というのは「彼らを黙らせる自由、彼らを抑圧する自由をよこせ」と言っているのと同じなんだ。
なぜ同じなのでしょう?誰かひとりからでも嫌われているなら、彼らは黙らなければいけない、という掟があるのですか?
容姿に恵まれない、知性に欠ける、収入が乏しいなど、人は簡単に嫌われますが、これらに関して嫌いを公言するのも、muchonovさんにとってはダメなんですか?
で、自由民主主義社会の価値観のなかでどちらが優先されるべき自由かと言えば、〈誰かを公に差別する自由、嫌いと表明する自由〉よりも、〈誰かが(他者の同じ権利を侵害しない限り)自分自身として存在できる自由、本来のかたちで生存する自由〉のほうだ。
差別と嫌いと表明することは、違いませんか?
muchonovさんはあるコメントで
ここ重要。批判≠規制>「左翼やリベラル派の中で、最近、「問題だと思われる表現」に対して、それを批判していくことと、表現を規制することが混同されてしまう傾向が出てきていて、正直かなり気になっていました」
と書いています。「嫌い」は批判と同じように規制ではありません。増田さんは嫌いだから規制しよう(規制する社会にしよう)とは書いていません。この重要な点をmuchonovさんは無視して、嫌いと規制を混同していないでしょうか?
このコメントでmuchonovさんは
自分はチキ氏と逆で、他大の院から成城大学大学院の博士課程に行きました
と書いています。大学院で学問を修めたのであれば、自分の主張に便利な前提や置き換えを使わず説明し、自分が重要と考える点を踏まえたほうが良いのではないでしょうか?
増田の文章の中では、直結させちゃいけないこと、混ぜちゃいけないことが色々と混ざって、飛躍した結論を導いてるけど、社会的少数派を「(内心で)嫌う自由」と「(偏見に基づいて)嫌いだと口にする自由」は全く別のことだよ。
まず、女性的男性について。「男性なのにクネクネしていたり、男性なのに女性みたいな服装をしたりしているのはどうしても受け入れられない」。非典型的なジェンダー表現・所作を身に付けた男性がゲイだとは限らないし、ゲイがみんなそうしてるとも限らないけど、まあとにかく増田はそれを気持ち悪い、受け入れられないと思っている。で、それが「わたしが彼らを嫌いだということも認められるべきだ」と繋がる。主観として何かを気持ち悪い、受けいられないと「思う」ことと、他人(その中には当然、LGBTの人達もいるかもしれない)に向けて彼らを嫌いだと「言う」ことは全然別だ。
次に、アフリカ系の男性について。「わたしは正直に黒人男性が怖い。体も大きいし、意思の読み取れない表情も怖い。黒人男性を怖がる自由はわたしにのこされているのだろうか」。それが偏見に基づいている感情だとしても、増田が何かを怖いと感じること自体を規制する方法はない。その意味で増田は「黒人男性を怖がる自由」を持っている。でも、「黒人男性は体も大きいし、意思の読み取れない表情も怖いから、彼らが嫌いだ」と公に「言う」ことは、それとは次元の違う話だ。
「思うこと」と「言うこと」は全く違う効果を持つ。特にマジョリティがマイノリティに対しての嫌悪や恐怖を公に「言う」ことが当然のように許されたら、増田の言う「差別のない世界」=「誰もが当たり前に存在して、誰もが当たり前に自分に正直でいられる世界」は成り立たない。社会的多数派が少数派を「クネクネしてて気持ち悪い」とか「表情から意志を読み取れない」から「嫌い」だと公言するのは「私たちはあなたたちがこの社会の中で当たり前に存在することを許さない」という価値観の表明で、それは彼らに対する抑圧に直結する。
増田がそういうことを公言し、それを誰もが咎めず暗黙裏に合意するような社会空間では、たとえば本当は女性的な所作・表現も交えつつ生活したい男性(繰り返すけど、それがゲイとは限らない)は、本来自分がそうしたいと思っている振る舞いを抑制したり、(ゲイやMtFTSGなら)セクシュアリティや性自認を隠さなければならなくなるだろう。これは明らかに「誰もが当たり前に自分に正直でいられる世界」じゃない。
増田は内心で思っていることを「言わない、言えない」という状態が著しい自由の制約だと感じているのかもしれないけど、世の中には「自分が何者なのか隠さない」という自由すら持っていない人達がいっぱいいる。増田は「私の自由は規制されている、私を規制するな」と主張するけど、「偏見にもとづいてマイノリティを嫌いだと公言する自由をよこせ」というのは「彼らを黙らせる自由、彼らを抑圧する自由をよこせ」と言っているのと同じなんだ。で、自由民主主義社会の価値観のなかでどちらが優先されるべき自由かと言えば、〈誰かを公に差別する自由、嫌いと表明する自由〉よりも、〈誰かが(他者の同じ権利を侵害しない限り)自分自身として存在できる自由、本来のかたちで生存する自由〉のほうだ。
だから増田は、社会的少数派を偏見に基づいて「嫌いだ」と口にする自由は制約される(ヘイトスピーチ法/条例に抵触する範囲では法的に制約されるし、そうした見解を批判する立場からの言論によって---増田が「周囲から総攻撃を食らった」ように---社会的に制約されることもある)けど、彼らを内心で嫌う自由はある。マジョリティに100%保障されたその自由を、存分に享受してほしい。それって、すごい特権だと思わないか? だってマイノリティにはさまざまな社会的抑圧や差別によって、内心ですら自分自身を100%受容・肯定することがままならない人達もたくさんいるんだぜ。