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はてなキーワード: 自由主義者とは

2023-01-31

ルールルールから従え」派の悲鳴が耳に快い

マスク着ける着けない問題で、マスク着けない派の人たちに対して「ルールルールから従え」って言ってきてたマスク強要派の人たちが上げる悲鳴が耳に快い。

今更になって「マスク着けるのは自由でしょ!」とか言い出してるのとか最高。別に誰も着けるのを禁止はしてないし着けたいやつは好きにすりゃいいと思うが、いつも言ってた「決まったルールには従え!」っていうお得意の呪文はどこ行ったんだ? 総理大臣が決めたマスク着用ルールだぞ、従えよ。

他人にさんざん「マスク着用は義務!」とかいってマスク強要してきた連中が「マスク着用は自由!」とかピーピー喚いてるのマジで恥とかそういう感情がないのかな? って思うわ。

少なくとも俺は一度も花粉症のやつやすっぴんを隠したいやつやその他色んな理由マスク着けたいやつに対して「マスク外せ」なんて言ったことないけど、俺の事情も聞かずに「マスク着けろ」って言ってきたやつは何人もいたからな。あいつらが少数派になって同調圧力でしぶしぶマスク外すようになったら大爆笑だな~~~~~同調圧力他人を脅す者は自分同調圧力で脅されるんだって理解できるといいな~~~~~~。ごめん嘘。マスク着用の自由を奪いたくはない。着けたい人は好きに着けてればいいと思う。人それぞれ色んな事情があるだろうし。でも、これが以徳報怨でものすごく寛大な申し出であることを理解した上で、二度と他人マスク着用を強要しない寛容な人間になってくれよな。自由主義者との約束だぞ!

2023-01-29

暇空茜氏と青識亜論氏のスタンス違いについて

 2022年の秋頃からツイッター上で大きな話題となっている暇空茜氏を中心とした一般社団法人Colaboの騒動と従来の青識亜論氏を主体にしたツイフェミvs.表自の違いをざっくり考えた。

 筆者は平等主義者であり、自由主義者である。長々と自語りするのも無駄なので、この二点から私は第一から第三波までのフェミニズムを支持するフェミニストであると主張する。

 特に私は極まった自由主義者ゆえ、刑罰というペナルティを承諾するならば犯罪と呼ばれる行為を行うことさえも他者には拘束しようのない自由だと宣うこともある。それを前提に、表現の自由権利として保障されるべき事柄だと指標する表現の自由戦士と揶揄される側の人間でもある。

 余談だが権利自由概念あくま他者権利比較均衡の上で与えられる。その点では「見たくないものを見ない権利」などと言う他者自由を踏み躙ってまで主張される特権志向は、自由主義者故に唾棄する。公共の場においてプライバシー保護希薄にならざるを得ず、受忍範囲は当然ながら広くなる。この前提を拒否してツイッター上でキャンセルカルチャーを繰り返す輩……ツイフェミジェンダークレーマー揶揄される輩が第四波フェミニストを名乗るであれば、ツイフェミの主張する第四波フェミニズムは否定する。ツイフェミの主張では狭量な自己を中心として、異なる意見女性には名誉男性レッテルを貼って阻害することを良しとする。これは歴代フェミニズムで獲得された平等自由侵害する行為である。故に、歴代フェミニズムを志向する以上はツイフェミの語る第四波フェミニズムとは対立する立場を取らざるを得ない。

 加えて、この様にインターネット上でフェミニズムを志向する行為自体は、第四波フェミニズムにあたる。つまり私は派閥違いの第四波フェミニストでもあるのだと主張できる。

 閑話休題。私というn=1の話ではあるが、フェミニズムは本来表現の自由衝動する様な概念ではないと言うのが分かって貰えると思う。

 しかし、colabo騒動以前からツイフェミ表現の自由戦士の対立構造と衝突はツイッター上で日常的に起きている見せ物であった。

 この衝突は互いに様々な思想勢力が入り混じる有象無象を「ツイッターフェミニズムを語る人たち」と「表現の自由を守る人たち」という極めて大雑把な括りでまとめて、互いに見当違いの場所を殴り合うというものである

 ただし、ツイフェミも表自も強固な思想共同体ではない。それどころかフェミニズムの皮を被ったミサンドリスト表現の自由に見せかけて女を殴るミソジニストが混ざり込んでるのだ。当然、人によってツイフェミ表現の自由戦士の定義認識が異なる。

 

 さて、colabo騒動以前からこの界隈で主に絶えず旗頭を担って来たのが青識亜論氏だ。他にも何人も主要人物は居るが、本件では割愛する。

 青識亜論氏はVS.ツイフェミという点では知らぬ人は居ないだろうと思う。当人対話志向しており、石川優実氏との対談なども行った人物だ。

 石川優実氏の概要も省略するが、「kutoo という素晴らしい活動を行ったが、ミサンドリスト的な発言やkutooの活動でも味方となり得る革靴を強要された男性対象じゃないと述べて対立構造を作り、フェミニズム特有上下関係から来る意固地な態度で忠言を拒否していた人物」と私個人認識している。そして、上記の点から石川優実氏を第四波フェミニスト兼ミサンドリスト評価するならば、女性自由否定しない青識亜論氏は表現の自由主義者フェミニストと評価出来るはずだ。

 青識亜論氏をわざわざフェミニストと評価したのには意味がある。このツイフェミ論争は、フェミニズムという文化に対して正の効果を持つからだ。より正しくは「やばい言動を繰り返すツイフェミの主張を、このままにして良いのか。フェミニズムとは何ぞや?」と啓蒙する効果くらいは期待出来る。フェミニズムは第一からまり、大きな女性差別を解体してきた。そして現在社会生活上での個人的な女性差別を対象とする。故に社会運動的なフェミニズムよりも個々人が、フェミニズムについて知見と理解を持つことの方が現代社会ではより重要になるのだ。

 第四波フェミニスト同士の衝突と考えた時に、彼らのレスバは無関心の徒に対して、フェミニズムに関する啓蒙役割を強く持てる。

しかし、彼の果たせる役割はそれだけだ。

 現在colabo騒動で中核を担う暇空茜氏は、青識亜論氏を酷く嫌悪している。一方で青識亜論氏は和解点を探るべきだと宣いもする。

 まず第一に、これはフェミニズム闘争ではない。フェミニズムを冠した利権疑惑と、用途不明で消えた税金に対して説明を求めるものであり、訴訟なのだ

 暇空茜氏にとっては動機こそミサンドリストへの反感であるしかし、彼個人女性嫌悪する男たちと表自界隈の次の旗頭 ポスト青識亜論になるつもりははいだろう。何なら表自界隈が好む対話……ではなく、レスバと副次的啓蒙にも訴訟には何のプラス効果もない。

 暇空茜氏がブロックを繰り返しているのを見ても、どちらかと言うとその主旨は訴訟目的純化に見える。表自界隈の様に多層化してしまえば、どこかで誰かが失言をして揚げ足を取られる。その点では暇空茜氏の行動は効率的なのだ

 総括しよう。表現の自由フェミニズムは本来であれば対立する概念ではない。しかし、男性嫌悪女性嫌悪が絡むと当然対立する。対立した状態で異性への嫌悪やそれに由来する特権意識を表に出せば、それらの意識を持たない人たちには殴られる。

 従来の青識亜論氏が旗頭を務めた表自界隈とツイフェミ界隈は、こうして1人一派の人々が集まって出来たものだ。問題への意識は共有するが、それを実行する力には欠ける集団である集団が入り乱れてツイッター上で殴り合いをしてるのだ。仮にレスバに勝っても報酬で得られるのは顕示欲くらいのプロレスごっこである社会に対する影響はフェミニズムに対する啓蒙の一点につきる。

 一方で暇空茜氏の訴訟は、日常的な指摘や話題を風化させないための騒ぎ方などはあるが裁判役所が動かなければ進展がない。勿論、話が進めば面白くなるだろうが、観客としては時間単位での動きがレスバより少ない分、口プロレスよりも熱くなれない。しかし、訴訟内容を考えれば、NPO活動を見直す現実的な働きかけを有し、言うまでもなく税金用途NPO活動女性福祉に関する啓蒙レスバと比較にならないだろう。

 私個人は両者とも好きではないし、ツイフェミは一緒くたに女性嫌悪だと騒ぐだろうが、暇空茜氏と青識亜論氏のスタンスは見事に異なっている。

 そして、暇空茜氏が強く支持されると言うのは、ツイフェミ女性に対する社会の関わり方が変わる一つの潮目なのではないかと思い、今後の趨勢を見守りたい。

2023-01-11

anond:20230111131740

そうだよ。もともとの自由主義者リベラル勢力)はウヨだよ小さい政府日本でいうと維新

日本リベラリズムは、左翼ソ連崩壊によって居場所がなくなった結果

「俺らってリベラル派じゃね?」って言い出したのが始まり

2022-12-21

菜食主義が正しいと仮定するなら皆に広めるのが当然だが、仮定が正しい保証はないってことだろ

増田イマイチ俺にはわかりにくかったわ。

俺の理解は、「ヴィーガン菜食主義が正しいという仮定の上で生きてるから、その仮定に沿って世の中に菜食主義を広める方が当たり前である。だが仮定絶対に正しいと証明されているわけではない」ってことと近い。

「ある人が正義原理に基づいた規範的主張をする」ってのは、「ある人が○○が正義だという『仮定』の上で議論を進める」ってのと近い。

そんで、議論での『仮定』ってのは、『とりあえず設定する前提』ってのと近い。

「ある事柄が本当に真実証明されていないが、とりあえず真実だとした上で議論を進める」ってこと。

ヴィーガンは、菜食主義が正しいという仮定の上で人生を生きている。

資本主義者も資本主義が正しいと仮定して生きてるし、自由主義者自由が正しいと仮定して生きてるし、キリスト教徒仏教ともそれぞれの宗教が正しいと仮定して生きてるいる。

人はみな、自分人生観や価値観道徳観を持っていて、それが正しいと仮定しているからその考え方をしている。

ある人の価値観はその人にとって正しいのだから、善く生きようとすれば自分の正しい価値観世界中に広めようとする方が当然だ。

そうしないのは、善く生きようとするのは面倒くさいという怠惰のためか、既に自分の正しいと信じる価値観が世の中に広まってるから行動する必要がないからのどっちかだ。

から、勤勉なヴィーガンは正しいと信じる菜食主義を広めようとする方が誠実だし、勤勉な肉食主義者は正しいと信じる肉食主義を広めようとする(というかすでに広がってるから守る)方が誠実だし、勤勉な自由主義者は正しいと信じる自由主義を広めようとする方が誠実だ。

他人生き方に口を出すべきでないという人も、「他人生き方に口を出すべきでないという生き方」を広めようとしている。

しかし、我々がそれぞれ持っている正しさは仮定しかないのだから絶対に正しいというわけではない。

そして神ではない我々には、何が絶対に正しいかを解き明かすことはできない。

延々と議論をして意見をぶつけ合ってその中でちょっとでも正しそうな方向に向かうしかない。

議論対立を厭うのは知的怠惰である。……が、現実的には、宥和や共生というのは知的怠惰からの方が生まれやすいのかもしれない。

anond:20221219173109

2022-12-12

anond:20221212004335

別にそこは個人単位ならどうでも良くね?

と言うか、自由主義強要する自由主義者って存在自体矛盾してて怖い

2022-12-07

アナキストけがリベラルを名乗れ

ずっと「リベラル」という言葉の使われ方に違和感ある。

他人自由を認めない奴が「自由主義者」っておかしいだろ。

全ての権力権威否定し、啓蒙を許さな社会を目指す者のみがリベラルを名乗れ。

2022-11-24

anond:20221124113018

人権尊重憲法法律条約レベル規定されているのですが?

それをクソくらえで踏みつける我々は自由主義者だと言われたら

かにそうかもしれませんね

 

少なくともサッカーの結果よりも、人権のほうが我々の普段生活に深く関わってくるし

国際レベルでみても黄色人種被差別側なので、日本人人権問題

訴えるのは理があると思うのですが、「発狂」呼ばわりですか

まあ何を大事に想うかは人それぞれですが

日本法治国家なので、発狂認定誹謗中傷で訴えられるというリスクを忘れずに

anond:20221124112655

左が「この思想を全国民ぶっ叩くべし、叩かない奴は異常者だ」 という異様な全体主義

右とされている人は実際にはただの自由主義者

ってことはもうバレてるから

違うって言いたいなら全体主義止めてくれればいいんだけど止める気ないでしょ?

2022-11-03

自由を憎む自由主義者

リベラルって自由尊重してるはずなのに

表現の自由揶揄してる時点で矛盾してるよな

2022-10-13

anond:20221013232945

自由主義者っていった意味でのリベラルか。その点は納得。

でも日本左派(特にブクマカ)は基本的にはその定義におけるソーシャルじゃね? 福祉重視で、アメリカ型の自己責任論は嫌うでしょ。なのに保険証保有しない自由(現在ユニバーサルヘルスケア観点から誤った姿、皆が保険証を持ち保険診療受診できる世界が目指すべきもの、とされている)を擁護した高木浩光同調しているの矛盾してね?

2022-10-12

子育て世帯優遇への独身30代男性お気持ち

脳内でだいたい5:4.4:0.5:0.1くらいの配分

2022-09-05

anond:20220905211502

フリーライダー結婚・子作りを個人自由にした自由主義者の人でしょ?

あてがえわないほうがフリーライダーだよね?

2022-08-23

追記あり】一部夫婦別姓推進論者の邪悪

一部とは言ったけど、はてなでは大半と言っても良いかもしれない。

夫婦別姓関係ブコメとか見てるとだいたい上位コメは「保守ガー」「家父長制ガー」みたいなコメで埋まっているけど、こういう風にまともな議論を避け、自分意見の異なる相手に対して何か「時代錯誤邪悪存在」というレッテルを貼ることで主張をキャンセルしようとする姿は心底醜悪邪悪に見えるわ。

最近は、統一教会話題を引っ張って「壺ガー」とか盛り上がっていて、本当に目に余る。

この前の自民意向が現れた設問内容で問題になった世論調査は論外にしても、夫婦別姓の賛成者はだいたい六割いくかいかないか、かなり賛同者多めの調査結果でも7割、逆に低めだと4割くらいだよ。

そんな中でじゃあすぐに保守がどうとか言い出す人達は、残り4割程度の人々は皆、自民保守派のような旧態依然とした価値観思想を持ち、あるいは何かよから宗教と繋がっているかもしれないと本気で思っているの?

子供苗字問題とか夫婦別姓デメリットなんてググれば即座に出てくるレベルだが、それらを重視して反対している人々は「異様な家族観押し付けてくるクズ共」と扱って良いって風に考えているの?

だとしたらバカしか言いようがない。

あるいは確信犯としてやっている卑怯者か。

適当に今のはてブの人気記事にあった夫婦別姓関係記事の上位コメから引っ張ってきたけど

統一教会問題がこれだけ騒ぎになったので、夫婦別姓などのリベラル制度を進めやす環境になったといえるのでは。ヘタに反対すると統一教会関係者と思われそうだし

これとかもう邪悪権化でしょ。

統一教会騒動を利用して夫婦別姓反対派の口を塞ぐことができるじゃん! と堂々と言っているわけだ。

クズ野郎すぎない?

(一応、俺個人立場を明示しておくと、そもそも別姓・同姓どちらもメリットデメリットあって必ずどちらかだけが正しいと言えるモノでもないし、賛成者が多いなら政府はそれに合わせるべきなんじゃない? くらいには思っている。ただ俺個人として別姓制度は嫌だなと思っているし、少数派だからって反対の声をあげることは悪いことだとは思っていない)



追記

はてブの方を見ていたら、昨夜書いた自分増田が人気記事に出ていて驚いた。

ただ、それよりも驚いたのは

そんな中でじゃあすぐに保守がどうとか言い出す人達は、残り4割程度の人々は皆、自民保守派のような旧態依然とした価値観思想を持ち、あるいは何かよから宗教と繋がっているかもしれないと本気で思っているの?

子供苗字問題とか夫婦別姓デメリットなんてググれば即座に出てくるレベルだが、それらを重視して反対している人々は「異様な家族観押し付けてくるクズ共」と扱って良いって風に考えているの?

という俺の問いに対して、直接言葉にしなくても「そうだよ、世の中には少なくない数の夫婦別姓反対論者がいるけど、そいつらは皆、歪な価値観を持つクズ共だよ」と堂々と肯定するようなコメを残している人が少なくない数いて、なんかもう自分とは感覚が違い過ぎてビビったわ。

うんまあ、そこまで真っ向から言われると「それはもう認識の違いだよね」以上のことは言えないや。

俺は全く賛同しないし、一般的価値観を持ったフツーの夫婦別姓反対論者はいくらでもいると思うけど。


あと、今回の俺の言いたかたことは『夫婦別姓賛否』より『議論に対する誠実性』の話なので、その観点ブコメに対して気になった点で

inmysoul 選択制って言ってるんだから好きにすりゃいいんだよ。何で「俺が反対だから国民同姓にしろ」って思うのかが謎なだけ。君は同姓にできるんだよ。

この手の「選択制だから良いだろ」って意見は間違ってはいないけど、手放しに賛同して良い意見ではないと思う。

貴方強制するわけではないんだから良いだろう」という理屈肯定するならば、ブコメにもあるがまず近いところで当然、重婚はアリになるだろう。

(近親婚もという意見もあったが子供遺伝リスクを考えると、これは生まれてくる子供権利問題になってくるので、ちょっと違う話題に思う)

名前自己決定権の話なら、変更の自由とか使用文字自由も国に制限されず、「その名前を使うのは貴方ではなく私なんだから黙っていろ」が成立し得るか?

あるいは、自己決定権を国に侵されるべきではないという考えをより広範な社会分野に当てはめれば、例えば、「俺は障害になったら野垂れ死ぬから、私の社会保障費を障碍者福祉に使わせない」みたいな自己決定尊重も十分、延長線上として考えられるようになってくると思う。

まあ、程度による線引きもあるし一足飛びにそこまでいかなくても良いかもしれないが、ただそれでも「選択制だから良いだろ」という考えはあらゆる社会分野に関してかなり覚悟のいるラディカルな自由主義方向に舵を切る思想だということの自覚必要になる主張だよ。

そういう覚悟が決まってる人が「選択制だから良いだろ」って主張するのは(賛否は別として)主張としては完全に正当だと思うけどさ。

ただ、とてもそんな覚悟があるようには見えず、夫婦別姓反対論者の反論をかわすためだけに軽々しく「選択制だから良いだろ」って言うのは、議論における主張としてはどう考えても不誠実だよ。

そして、ブコメにはそうとしか見えない人がたくさんいた(中には本物の覚悟ある自由主義者も見受けられたが)。

社会制度というマクロ目線での影響などについても考慮した上で、やはり夫婦別姓問題ないという主張するなら全然問題ないんだが、選択制の三文字ゴリ押すのは(覚悟ある自由主義者でない限りは)馬鹿卑怯者のやり方。

2022-08-20

自由主義者はどうやって政治的もの回避してきたか

自由主義は、政治やその舵取りをする国家と相性が悪いとされている。

何らかの対立が極度に達すると政治闘争に発展し、それには物理闘争暴力)の可能性を内包しているからだ。

そして国家には、その闘争正当化し、命じることができる交戦権がある。

暴力は、自由による競争個人財産侵害するため、自由主義者としては回避したい。

から自由主義者は、政治国家に対して自由の妨げになるようなものは扱わないでほしいと思っている。

また、特定思想宗教などに肩入れすると自由にも偏りができるため、それも批判対象によくしている。

だが、政治対立から逃れながら社会を維持し続けるなんて無理がないだろうか。

そこで自由主義者はあらゆる問題を「非政治化」する。

経済的だったり、倫理的だったり、個人的だったり、つまり政治的ではない何らかの領域」に押し込める。

戦争は損得の問題にしたり、信仰個人問題にしたりする。

これで政治的な問題言及されても、「これはそーいう問題ではなく、こーいう問題だ」というロジック回避できるわけだ。

はてブコメントでも、似たようなロジックを使う人はちょくちょく見かけるから何となく分かる。

ただ物事ってのは往々にして多側面的であるため、都合の悪い指摘を回避するために多用しすぎると詭弁になりやすい。

シュミットとかも「政治的なもの回避するために、結局は闘争に加担していないか」といった様なことを指摘している。

(まあシュミットが嫌っているのは自由主義のものではなく、政治闘争に加担していながら政治否定する姿勢のほうらしいけど)

ざっくり文献を読み漁った限りでは、こんな感じの解釈だけど、これをどうまとめればいいか

2022-08-15

anond:20220815150135

自虐史観を持った日本人左翼反日

統一教会こそが反日でしょ。

左翼共産党系思想の持主+自由主義者個人人権重視派)

なので、統一教会反共思想や家父長制重視主義と相容れない。

日本統一教会にいい様に金を吸い上げられた理由は、自虐史観ではなく、家庭の資産を流用する権限があるのに自分思考する訓練が不足している専業主婦存在

オレオレ詐欺と同じ。

2022-08-09

清水晶子先生の講演を読んで見る (1) 「学問の自由」の定義ってなんだろう

前置きの前置き

この文書で何が批判されているか知りたいだけの人は、一番下の節「まとめ」までジャンプ

前置き

清水先生の講演についてここ一週間くらい悪口Twitterで書いてた江口先生に、それブログに纏めてよと言ったら気が乗らないと断られてしまったので

代わりにそれっぽいものを書いてみる練習

具体的には江口先生

うまい人びとは、前に書いた辞書定義約定定義明確化定義理論定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます

と最新のブログで書かれているのを、清水先生の講演を題材に自分なりにスケッチしてみる。

続き、というか中間にあたるのだが「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセルカルチャーってなんだろう」を書くかは未定。

まり、この記事は書き起こしで言う「Part1 〜学問の自由とその濫用〜 」の検討が中心だが

最後の方で全体を対象にする前に他のPartの検討を書くべきところ、途中で力尽きている。

とはいえだいたいPart1の検討とほぼ同じものを繰り返すだけ


前提

を先に見ていることが前提。

特に江口先生ブログに書かれている5つの定義

説明はほぼ書かないので、分からなければブログを参照するように。



学問の自由辞書定義

まず、清水先生スライド提示するのが

1998年 国際大学協会(IAU)声明学問の自由大学自治社会的責任」による定義です。

学術コミュニティ構成員、すなわち、研究者教員学生が、倫理的規則国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部から圧力を受けることなく、学術活動を追求する自由

これは明らかに 辞書定義 ですね。

人びとがその言葉をどう使っているか国語辞典の載っているような形で説明している。

そして次に清水先生は、

一般的には、〜〜、というふうに考えることができる。」

「従来はそして一般的には、〜〜、というふうに理解されています。」

自分言葉でも「学問の自由」を定義します。

世間一般用法という文脈なわけですから、当然、スライド引用の言い換えに相当する語釈が、聴衆には予期される、

同じく 辞書定義 が与えられようとしているもの解釈されます

実際に与えられた定義を見てみましょう。

ある種の公の定義であるIAU声明に対する言い換えとして、清水先生による定義を読んでみると一つ気にかかるところがあります

IAU声明では「外部から圧力」となっているところが、

と非常に具体的な形になっています

世間一般用法として紹介される割には、議論のあり得るところで

「こういうのは多数派も少数派もない、学問独立って話なんですが、多数派から圧力特に抵抗しにくいので」

というふうに説明するほうが世間認識とあっているように思える。

とはいえ、ここまでならば、代表的な「外部から圧力」を並べただけ、ただの例示ゆえに言い換えの範疇であり、辞書定義のままだと受け取ることもできる。

学問の自由」の濫用としての「学問の自由侵害」への説得的定義

次に清水先生は「学問の自由」の濫用の話を始めます

ただ、ここで私が書きにくくて困ってしまうのが、清水先生が「具体的に」何を批判されているのかさっぱりわからないことです。詳しくは後の節でも取り扱います

今は、とりあえず定義の話をしましょう。

現代の誰かが主張している「学問の自由侵害」とは、〜〜だ」と、清水先生定義していると読める箇所を、少し文言修正の上、抜き出します。

見事にすべて 説得的定義 ですね。江口先生ブログで挙がっている

中絶とは、罪のない子供の容赦ない殺人である

中絶とは、女性を望まない負担から解放する安全外科処置である

などと同じ形式となっている。

ただ、読みながら何を論じているのかわからなくなって辛くなってしまうのは、

中絶の例ならば、中絶辞書定義 は共有されているという前提のもとで、 説得的定義 を用いているのに対し、

清水先生は、この文脈での「学問の自由侵害」とは 辞書定義 学問の自由侵害とは全く異なるものだと論じていることです。


(下の2節は「どう論じているのか」という細かいレトリック解説なので

批判の要点が掴みたいだけの忙しい人は飛ばしても良い。

どう辛いのかについては、「批判対象曖昧さ、具体性の欠如」でページ内検索してジャンプ。)


辞書定義明確化定義として使用することを目的とした約定定義へのすり替え

最初の節辞書定義から

これらは学問の自由侵害定義として読むことができるものであり、

先に導入された説得的定義社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立て」とは対義の関係にある。よって等号で結ばれることはありえない。

ゆえに、「従来から論じられてきた一般的な節(辞書定義)」学問の自由ではない、という論証。

しかし、これはIAU声明にはなく清水先生が付け加えた箇所のはずですね。

先程はただの例示と見ればという限定をつけて辞書定義と認めました。

逆に言えば、「そうでなかったら学問の自由でない」というふうに使うならば、もはや例示ではなく、清水先生独自見解です。

すなわち、この時点で辞書定義として導入された学問の自由という概念

学問の自由を〜と私は定義します!」という約定定義へとすり替えられているのです。

一旦まとめると、

「よくわからないものを」「なんか悪そうに定義して(説得的定義)」、

「その悪そうな要素にぴったり当てはまらない要素を、一般的定義の中に紛れこませる(定義すり替え)」

これが清水先生レトリックです。

定義を縦横に駆使するレトリック

付け加えていえば、ここですり替えられた約定定義根拠

学問の自由とは

「力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、 研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのもの

という説得的定義の導入も行っています

まさに、

うまい人びとは、前に書いた辞書定義約定定義明確化定義理論定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます

のものですね。

じゃあ、5つの分類の最後理論定義はどうか、

憲法23条保障する学問の自由

この一節は憲法学理論を援用しているため、少し強引ですが理論定義を示したものとも言えるでしょう。

実際、この定義根拠に「学問の自由侵害」を「なんか悪そうに定義した」説得的定義に対し

これは日本国憲法保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。

否定しています

なぜかけ離れているのかというのは詳しく述べられていませんが、

要は憲法学理論憲法原則としては国家権力監督するものであり、私人間効力の議論私人相互に大きな権力差がある場合の話である」という話でしょう。

権力差をどう捉えるか、例えば「学界から事実上キャンセルできたというのは、権力差があったといえるのではないか」というのが憲法上の論点になるわけですが、

そこを 説得的定義 から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図でクリアするわけです。

批判対象曖昧さ、具体性の欠如

ここまでいろんな種類の定義を用いたレトリックが使われてきましたが、

正直なところ、説得的定義から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図を用いた時点で

直感的にはそれは学問の自由ではないでしょうという話になります

ゆえに最も問題になるのは、そう定義されるのが具体的になんなのかです。


清水先生は「こういった言説が具体的にどう現れてきたのかご説明したい」と30分近く説明してくださっているのですが、

書き起こしを全文検索してもらえればわかるのですが「学問の自由」を直接的に濫用している例として挙げられているといえるのは、

Horowitzによる、Academic Bill of Rights (ABOR) のみです。

ほか間接的な繋がりとしては「ポリティカル・コレクトネス」「キャンセルカルチャー」の事例が話されているのですが

これも抽象的な定義操作時間を割いていて、具体的な文脈はほぼない。学問の自由とどう関係するかも全くと言っていいほど書かれない。

詳しくはそれぞれをどう定義しているのか、という点を検討する必要がありますが、

これは別の記事「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセルカルチャーってなんだろう」に譲り、

記事「(1) 学問の自由ってなんだろう」では、直接的な例、ABORに絞ります

議論余地はない」ほど明らかなものだけ議論される

清水先生はABORを曲解して参照しているのではないか、という指摘もあるのですが、

とりあえずここは論点にせず、清水先生解説をそのまま採用します。

ABORの主張は、

ナチス政治哲学擁護であるとか、あるいは進化論否定であるとか、 そういうもの学術的に正当な主張の一つとして教えるべき」

「実際にそういうような授業になっているかどうかを、 授業内容を調査する仕組みっていうのを大学は作るべき」

学問の自由とはそういった環境で成立する。

ぶっとんでますよね。これ肯定する自由主義者いるんですか?

ナチス肯定論文を学問の自由擁護することはできない(マルコ・ポーロ事件)」じゃないですよ?

しろ、何が相手だろうと自由である肯定する、過激自由論者ほど否定する内容です。

大学ナチス擁護を正当な主張の一つとして教えるべき」、自由でもなんでもないじゃないですか

まとめると、

最終的には、そして本質的には、清水先生は「学問の自由」について議論余地のないことしか言っていません。

じゃあなんで議論になるのか。

清水先生立場からすれば、「学問の自由」の濫用だと当然問題視しているであろう例が

ある意味辞書定義のように暗黙に共有されているからです。

千田有紀と呉座勇一

清水先生にとって非常に身近な例であるはずのそれは2例あります

このちょうどいい2人については講演では全く触れない。

特に後者の呉座先生については質疑応答で「学問の自由」を求めている人として名前が挙がったにもかかわらず、

ちょっとからない」「詳しくない」「法律専門家ではない」「裁判をはっきりきちんと見ているわけではない」「労働争議であって学問の自由ではないんじゃないかなぁ」

との返事。

「そうです。呉座さんの事例こそが私が批判した「学問の自由」の濫用です」ではなく「詳しくない」。

訴訟原告の1人であるからには詳しくないわけはないのですが、文字通り解釈するならば

この「学問の自由」の濫用批判において、呉座先生の事例は検討すらされていない、ということになる。


たこの回答の続きとして、呉座のことを言っているわけではないという注釈付きで、「学問の自由では擁護できない」例が出されました。

理論物理学者の性暴力学問の自由擁護することはできない」

何を当たり前の話をしているのでしょうか。関係ありますか?

せめて多少は「学問の自由」と文脈がつながるように「酷いセクハラパワハラを長年犯してきた超一流哲学者大学から追放されたことを、学問の自由擁護はできない(ジョン・サール事件)」くらいにしましょうよ。

まとめ

文脈がわかるくらい解説をつける具体的な例については、当たり前を超えてもはや関係のない例しかさない。

それでいて、批判対象に対して一般に共有されるような辞書定義には触れないで、

何を批判しているのかも厳密には不明確なまま、説得的定義に対する抽象的な定義操作を元に議論を行う。

暗黙の辞書定義説得的定義の関連は、聴衆が勝手勘違いしてくれることに任せる。

これが、学問の自由についての、清水先生の講演の構造です。

2022-07-19

anond:20220719184559

明確なリベラル定義がないとかくだらん議論でただの言葉遊びリベラル政治的に穏健な革新をめざす自由主義者以外何者でもない。つまりテロ肯定民主主義否定する連中はリベラルでもなんでもない。

2022-07-18

わたしはこれまで、中国人在日朝鮮人創価学会員、はてまた統一協会信者ではないかなど、さまざまなネット上での憶測を寄せられてきました。自由主義者として、自らの信教や人種民族的出自などについて解答と踏み絵を迫る言説には与しません。ですので聞いても無駄ですのでどうぞご放念ください。

https://twitter.com/lullymiura/status/1548859088741642241

いや、「中国人認定・「在日朝鮮人認定と、「創価学会員」認定・「統一協会信者認定を同列に扱うのはおかしいだろ。

例えば、「ナチ認定・「オウム認定されたとしても、この自称国際政治学者は同じこと言うんだろうか。

問題となっているのは、カルト宗教政治癒着によって、大勢被害者が出ていることだろうに。

そうしたカルト宗教信者であることを否定しないってのは、もうそうだと言われても仕方ないのでは。

2022-07-02

anond:20220702142927

近年でも例えば中国共産党によるゲーム規制という名の当局から圧力は、基準曖昧で結局のところ年配の党員たちが考える正義のようなふわふわした概念による裁量的な制裁にほかならず、そういった不透明ものが絶大な影響力をもって蔓延ることで業界自体が萎縮し明確で建設的な筋道が示されないままゲーム会社への新規ライセンス発行が止まる(ゲーム製作販売免許制であるということ自体非自由主義国家の異様さを示す重大な注目点だが)ことで数万社が倒産したという事態に陥っていることを思うと、リバタリアンいや自由主義者が訴える「裁量よりルール」の重要性が分かることだろう

自分はヴァに釣られてきただけの横増なので公共の福祉なんたらの話はまったく追っていないが

その公共の福祉というのはひょっとして中国共産党圧力をかけているような「同性愛者や男の娘みたいな性的倒錯ゲームで描くな、偉人女体化するな」みたいな、頭が時代に追いつけない為政者偏屈にすぎない、過剰反応にすぎないものになっていく危険性を孕んでいないかよく考えてほしい。公共の福祉という題目で、価値観自然な変化を阻害していないか商業文化的交流障害点を老人たちが作り出して若者の足を引っ張っていないか。変化を恐れすぎることは人類にとってマイナスの側面が強いということが想像できる人とできない人がいることは仕方がないのかもしれないが、恐怖に支配されず本当に排斥するに値するものなのかを冷静に考えられる人が増えて欲しい。

2022-07-01

自由」の意味が変わったんだよ

昔は「国家権力によって国民が抑圧されないこと」が「自由」だった。

から昔の自由主義者は国家権力を小さくしようとしていた。

でも今は「社会的強者によって弱者が抑圧されないこと」が「自由」なんだよ。

から今の自由主義者は「国家権力によって社会的強者規制すべきだ」と考えているわけ。

わかる?

から表現の自由」っていうのは

弱者攻撃する表現政府規制すること」という意味になったの。

これがわかってないと「リベラルのくせに表現規制を目指すのか」とかトンチンカンなことを言い出すようになる。

そんな批判じゃリベラルには効かないよ。

2022-06-20

薩長因縁昭和平成史(1)

序文

本稿は戦前天皇インナーサークルとしての宮中グループに焦点をあてながら、昭和平成史を読み解くことを目的としている。宮中グループ宮中側近グループなどとも呼ばれ、これまで定義としてあいまいさを残してきた。本稿では宮中グループ宮中側近にいた政・官・軍を含めたエリート集団位置付け、これまで一括りに論じられることが多かったこグループ牧野伸顕中心の「薩摩宮中グループ」と木戸幸一中心の「長州宮中グループ」に切り離し、対比している点を特徴としている。薩摩宮中グループ皇室との関係においては貞明皇后秩父宮夫妻、高松宮との結びつきが強く、昭和天皇の母君である貞明皇后インナーサークルとも言える。また、彼らは英米エスタブリッシュメント戦前から深く結び付き、親英米派として国際協調を重視した自由主義者であり、英米から穏健派と呼ばれた勢力である。このため皇室英米有力者との仲介者として宮中外交を支えた。英米との接触の中で宗教的感化を受けてクリスチャン人脈を多く抱えていたことも特徴としてあげられる。その歴史的な背景はザビエル来航450周年を記念して建立された「ザビエル薩摩人の像」(鹿児島市ザビエル公園)が象徴している。これに対して長州宮中グループ昭和天皇インナーサークルとして昭和戦争を主導した勢力である岸信介松岡洋右仲介者に陸軍統制派と手を握りながら戦時体制を築いた。単独主導主義的な強硬派と見なされることも多いが、アジアの開放を掲げた理想主義者としての側面もある。戦前から靖国神社が彼らの拠り所となってきたことは、靖国神社にある長州出身近代日本陸軍創設者大村益次郎銅像が見事に物語っている。かつては「薩の海軍、長の陸軍」という言葉もあった。地政学的に見れば前者は海洋勢力後者大陸勢力となるだろう、また、明治期に医学を教えたドイツ人医師・エルヴィン・ベルツは、日本人薩摩型と長州型に分類し、それらが異なる二系統先住民に由来するとしながら、薩摩型はマレーなどの東南アジアから長州型は「満州」や朝鮮半島などの東アジア北部から移住した先住民の血を色濃く残していると考えていたことも興味深い(『DNAから見た日本人斉藤成也・筑摩書房)。前者は縄文人後者弥生人の特徴を残しているのだろうか。大陸から渡来人によって縄文人日本列島南北周縁に分散したと考えることもできるだろう。本稿では明治維新の内乱過程賊軍汚名を着せられた武士階級出身者やその子孫が数多く登場する。薩長藩閥によって立身出世が阻まれながらも、佐幕派賊軍汚名を晴らすべく、ある者は語学力を身につける過程クリスチャンとなって薩摩宮中グループに接近し、ある者は軍部を率いて長州宮中グループと手を握り、またある者は共産主義に傾斜していった。特に陸軍悲劇は、勝てば官軍東京裁判で再び汚名を着せられたことだろう。しかし、勝てば官軍は世の常であり、その最たる例が靖国神社の原点にあることを再びここで取り上げる。日本の敗北は長州宮中グループの敗北も意味した。薩摩宮中グループ戦時下において悲しいほどに非力であったが、戦後英米から選ばれし穏健派エリート集団として勝ち残ることになる。薩長明暗を分けたのは情報力の差である。これは未来永劫語り継ぐべき重要な教訓である戦後薩摩宮中グループの流れを受け継いだ吉田茂は、元祖「反ソ・反共」として、「経済優先、日米安保重視、軽武装改憲先延ばし」の吉田ドクトリンを掲げて保守本流を築いていった。この吉田カトリックとして本流らしい最期を迎えた。この吉田一派をポツダム体制派と見なし、反吉田旋風を巻き起こしながら、見事に復活したのが長州宮中グループを受け継いだ岸信介である。岸も賊軍汚名を晴らすかのように国際政治舞台に復帰する。元祖「反ソ・反共」に対抗して、統一教会などと「勝共」を掲げたが、所詮保守傍流に追いやられた。平成時代になって「政治優先、対米自立、再軍備自主憲法制定」を柱とする岸ドクトリンたすき掛けリレー小泉純一郎によって再スタートする。そして今、第一走者の小泉純一郎から第二走者の安倍晋三へと受け継がれた。安倍の背後にはさらに強力な第三の男も控えている。この3名すべてが岸及び岸の同志につながる家系である

岸の血を引き継ぐ長州8人目の安倍晋三首相からこの物語を始めたい。

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