はてなキーワード: 自己言及とは
二週目見たので。
特撮の白倉プロデューサーはメタネタを作品に取り入れることが多いんだけど、ライダー・戦隊映画の「スーパーヒーロー戦記」なんか、敵が「お前らネタ切れでモチーフ被りまくりのオワコンじゃねえか!」なんて台詞を吐くんだよね。
シンエヴァでも、(しばらく観てないのでうろ覚えだけど)シンジと綾波の会話中、「使徒、襲来」から「シン・エヴァンゲリオン」までのタイトルが「作中のスクリーンに」流れる。
どちらも、作中のキャラではなく観客に向けた表現であり、またシリーズのファンでないと伝わらないネタでもある。
「すずめの戸締まり」も3.11をメタ的に、観客を意識して作られた映画なんじゃないかな?みたいな。
文系は作者の気持ちを考えてろ、なんて言葉があるけど、昔は作品にゃ「作者の意図」ってのがあって、それを読み取るのが正しい読み方なのだ、って学校でも教えられてた。
でも後から、「文章を読んで書いた奴の気持ちなんか分かるわけねーだろ」「それをどう読み取ったか、読んで何を考えたかが大事だろ」的な考えが出てきて、作者ではなく読者を主体として考えるべきじゃね?みたいになって、そんで、多様な考え方を尊重しようみたいな話に繋がったり繋がらなかったり。
まぁそんな感じで、被災した人もしなかった人も、311を経験した人なら色々考えるし語りたくなるよね、的な?
☆タイムリープと予定論
タイムリープものとしてみた時、あのシーンは実はこういう場面だったんだ!って気持ちよさは薄い。(自分が観た中だと、平成ジェネレーションズフォーエバーのネタばらしが一番気持ち良かった)
で、先のことは全部決まってる、ってやつね。最初ちょっと引っ掛かったんだよ。仮に扉が閉じるの失敗して震災起きちゃったとしても、結果は決まってるからしょうがなかった、ってことにならね?みたいな。
ただ、幼すずめにとってというより、現すずめが言うことに意味があったのかな、とも考えたり。現すずめにとっての先の未来は不確定なんだし。
雑多な感想
全体的に、「間」を大事にしてるっつーか、日常描写に尺割いて丁寧に撮ってるなーという印象。世界観説明はセリフで軽くすませて、子守りシーンはしっかり描写する、みたいな。それが不満な人もいるだろうけど、個人的にはそこが良かった。娯楽としての面白さって、つまりはセックス&バイオレンスなわけで。盛れば盛るほど下品で楽しい作品にできる。ヒロインとのキスシーンなんて大抵の映画にノルマのように入ってるけど、すずめのそれは上品で、個人的にはちょうどいい。
ダイジンの草太に対する認識というか、すずめから草太への好意に気付いてたのか無頓着だったのか、気にしながら見たがいまいち分からず。ただ自分の方が愛されてると勘違いしてるのはビンビンに伝わってくる。哀しい。
親子喧嘩のウチの子じゃない、自転車の仲直りもダイジンは見てたんだよな。で、色々考えて、結局自分はすずめの子にはなれない、と悟ったんやな…
二週目だとダイジンのヘイトチャージクソ猫っぷりが違う意味で面白い
初見の時、ダイジンは要石に戻る覚悟決めて車に乗ったんだなと思ってたがそうでもなかった
サダイジンは抑え切れずに抜けてしまったのか、ダイジンが抜いたって感じでもないよな~?
草太さんの記憶、バンクじゃん!ダイナミック回想じゃん!とかいらんことを考えた。
初見時、エンドロールで稔君が迎えに来てるの気付いてなかった。フェードアウトしたのかと…
書いてから読み直したら、メタフィクションと震災なんも関係あらへんやん!俺は何が言いたかったんだ?
視聴者の存在を認識してるみたいなメタ発言と、フィクションの自己言及としてのメタフィクションを混同してたんだろうか…?
実際はハイコンテクストってのが近いのかしらん?
う~ん。しかし、作中で3月11日に発生した震災と、現実の3.11は別の話だよね?要石も閉じ師も現実には存在しないし、みたいなことは考えてた気もする
人は自らを或る属性を持つ集団に属させて、その集団同士で勝ち負けを争い合うのが大好きだ。
肉体的スポーツに限らず、デジタル、アナログ問わずのテーブルゲームや手遊び、東西、紅白、善悪正邪、二元論的対立でなくとも、プロアマ問わず複数からなるチーム対抗戦、地域、国家、思想、就労組織、親類一族、家、出身校、同一校内でも学級、学科、部活、委員、学内地域、血液型、星座、誕生日、好きな食べ物、フェティッシュの方向性、何のファンか誰推しか何沼にハマっているかに至るまで己を自らカテゴライズして、そのカテゴリ同士で優劣を決めるのが好きで好きでしかたがない。
自分で戦えない場合は時に相手の罵倒をも織り交ぜながら贔屓への応援支援。味方の勝利は己の勝利、実効的な行為は何一つせずとも馬鹿騒ぎ。負けてしまえば最悪の場合、殺人事件にまで発展する始末。争いは嫌だという場合も、嫌だという主旨でそうでない連中と争うことになる。『「長話はダメだ」という長広舌をふるう』ようなものだ。言葉とは斯くも自己言及的で――まあ、それは今更なのでいいだろう。
何にしろ、単に自分対他者よりも所属或いは肩入れする集団間での抗争が特に好まれる傾向にある、と言っていい。個人で戦うよりも楽だからというのは勿論のこと、責任は分散しつつ比較的安全圏から敵を攻撃できるからだ。
本気で対決せずとも二項の対立状況自体を面白がる風潮というのもある。無責任だったり判官贔屓だったり、要するに他人の軋轢に首を突っ込むというか、頼まれもしないのに乗っかっていく、むしろ煽っていくという状況がよくあるのは知っているだろう。
例えば、競合する商品やサービスを担う二社があったとして、そのどちらか一方のみを支持し、もう一方は徹底的に根絶する。そういう流れを見たことはないだろうか。その場合、どっちも買えば良いとかどっちも楽しめば良いとか、そういう一般的な思考は敢えて除外される。まあ、中には真剣な『アンチ』『信者』もいるんだろうが、別に両方同時に手を出していけない法はない。
つまり、好き好んで仲違いし自らを持ち上げて相手をこき下ろし、朗報悲報だのと立場によって逆転するニュースをラベリングしてひたすらにマウントの取り合い、自陣営に勧誘する事もなく、互いに罵倒し合うさまをこそ楽しんでいるとしか思えない。
現実的には、個人の資産や費用の限界による購買制限、つまり、どちらかしか選択できないという事情もあろうが、そうであったとしても選択できなかった方を貶める事で自尊心を保つ行為にしては少々度が過ぎていると感じやしないか。
詰まるところやはり『優劣をつけること』が主たる目的であって、エコノミックなパイの奪い合いというよりもこれらは、自分が正しく相手が間違っている事の確認、証明、『相手を攻撃できればなんでもいい』という事なのだろう、実際は。その『なんでもいい』部分に、同族集団というものがもっともらしい大義名分をもたらしてくれるという訳だ。なにしろ実利は無関係、というか寧ろ機会の損失という意味では損している訳で。まあ、対立状況を面白がる人間はそもそも外部の野次馬であって、失うものは最初から無かったりもするものだけれど。責任の分散どろこか、そんなものは無いと思ってるからこその、というべきか。要するに、自分自身が戦うということは絶対条件ではないって事さ。優劣を付けるのと勝敗を決するのとは、似て非なるものだからね。
誤解無きよう言っておくが、それ自体が駄目だと言ってるわけではない。人はどうやらそういう風にできている、という説明解説なのである。
元々は生存競争、捕食被食、繁殖する為に異性を取り合う等、勝つことが悦びであるという根本的な反応だろう。知恵により食物連鎖から仮初めとはいえ脱し、生存率も他に比べて高い水準を保てるようになった人にとって、その悦びを得る為の代替行為を欲するのは自然な事だ。闘争を避けること、つまり逃走が生存維持に繋がるならそれも勝ちの一種ではあるが、さっきも言った様に勝敗自体はどうやら人々にとってはさほど意味が無いようなのだ。そういう意味で、主として一人用ゲームというのは、プレイヤーが気持ちよくなる為の都合の良い仮想的を設定し、そしてそれはあくまで倒される前提、つまり攻略可能な範囲での接待と気づかれないギリギリの強さでの抵抗をし、最後に負ける事を定められた存在を配する事により悦びを得る為の疑似戦闘として非常に有用、と言うかまあ、人気な訳だ。
ただ、先に一人用と断ったように、対人戦特化型は全く別の話になるし、一人用でも高難易度特化のものはあるのだが、それはハードルが高く門戸が狭い事によって、他の奴等には出来ない事を出来る自分、というより強い優越感に浸れるという付加価値があるが故に、一定数の指示を得ている状況であり、誰でも簡単にクリアできる爽快さは、そういう人間にとっては悦びどころか、……まあ、あくまでも攻略をなせる腕があればの話だが、寧ろ無粋でつまらないものだろう。
当然、ストレス発散の為に結果としての悦びを求める者達にとっては、悦びを得る為に苦行をこなさねばならぬそれは、ゲームの為にゲームをしているという、全くもって本末転倒な思考回路なのだ。
決してそんな事はないんだが、それこそ属する集団が違うという事だ。
そして大事な事だが、『或る集団に「属する」』事は、戦う大義名分――通るか通らぬかは兎も角――を得られると共に、自分が何らかの役に立つと思い込める格好の機会でもあるのだ。特に、普通のコミュニティに馴染めない人間にとって、それは蠱惑的なのだ。
現実社会では必要とされない自分が、疑似コミュニティにおいては貢献する事が出来る。……まあ敢えて疑似としたが、要するに社会と直接には繋がっていないと言う事だ。
そして上の人間、主催は、そういう心情を利用する事が多い。現実では得られなかった役割を与え、達成感という報酬で縛り、更なる貢献……否、献身を自ら進んで行うよう巧妙に仕向ける。直接的な強制はせずとも良い訳で、自覚のない都合よき駒として、一層離れられなくしていく。無論、普通のコミュニティとてそういうものではあるのだが、マイナスを経験した後での逃げ道として用意された幸福だから、同じ分のプラスだとしたらマイナス分で絶対値は増えている、依存が強まってもおかしくない。
実際、例えばオンラインゲームにおける共闘のように、自らの役割がハッキリとしていてかつ効果に即時性があり目に見えて貢献度が分かるようなパーティプレイは、少なくとも勝っている間は、それはそれは愉しい。自らの貢献、味方との連携、互いを求め、そして求められる関係作戦立案そして実行。結果敵が倒されるのだ、自己の承認と敵の殲滅が同時に得られる。脳汁が止まらないって奴だ。つまりね、組織だった戦闘というのは、悦びを最も実感出来るシチュエーションなのだ。
その通り、厄介な事に、物理的集団戦闘行為が、その悦楽を最も得やすいんだよ。
さっき言った様に、集団を主催する人間はそれを利用するし、強烈な快楽故に強制すら不要だ。
論戦については、『双方がルールに則って』戦う前提ありきだ。そもそも言葉というのは真理でないと、今までも何度も言ってきた。言葉が通じない相手とは論を戦わせられないのだから。ある動物の威嚇行為が、人から見れば愛らしいファニーな行動に見えるように、概念での戦いは言語をはじめとした共通ルールの確固とした共が大の大前提だ。
逆に言えば、ルール厳守を徹底するなら、言語は強い武器たり得るという事でもある。
まあ、普通に暮らしている分には、我々は言語という呪文が通じる世界にいるので、その威力は人を生かすも殺すも出来るレベルであり、あくまで言葉が通じる場でなら、用いて戦闘行為は可能さ。
そもそも属性集団の属性に言語によって分けられたものがある以上、強い悦楽が物理戦闘に限るわけでは無いのだが、実際問題、同じ社会にいながら『言葉が通じない』相手が結構いるものなのだ。
どちらが良いとか悪いとかではない、勿論優越でもない、君が何処に属しようと、どういう戦闘を愉しもうとするかは僕がどういう言うことではない。
斜め上の話だったわ
それなら初めから「増田が男だと仮定すると増田の言ってることは矛盾するんだけど?」と言うべきだし、私に対して「自己言及」という言葉を出すだけで己の話す内容を察することを強要して、それが出来なければ「学がない」とか言う必要性は無いと思う
あのね、論理ってのは現実にあてはめなくても成り立つからこそ論理なの
A君のりんご100個とB君のりんご100個を合わせたらいくつか?は頭の中だけで答を出せるんだから「A君が本当にりんごを100個持ってるかどうかはどうやって確かめるんですか?」とか考えなくていいの
で、自己言及っていう言葉だけで通じないのは単に君に学がないだけなんだけど、もうちょっと説明すると
「クレタ人が『すべてのクレタ人は嘘つきである』と主張したら、その「嘘つきである」という主張を言った人も嘘つきであることになっちゃってわけわからなくなる」
「でもクレタ人じゃない人が『すべてのクレタ人は嘘つきである』と主張するぶんには他人事なので矛盾しない」
っていうのが自己言及の例
(念のためだが論理の話なので、現実のクレタ人がどうであるかは全く関係ない。日本人でも火星人でもなんでもかまわない)
元増田が言ってることを要約すれば「(すべての)A(男)はxである。なお私はxではない」になるけれど
このとき元増田が非A(女)であるならば、元増田は非Aについては何も語っていないので、論理的には矛盾はない
(念のためだが元増田が本当に女かどうかはどうでもいいし、本当にすべての男がxかどうかも今は気にする必要はない。単に仮説として問題ないという話)
ところが元増田がA(男)だとすると、そのまま適用したら「Aはxである」という命題がいきなり誤りになってしまうから
それを解消するために「なお私はAでありながら非xという例外である」という主張を付け加えなきゃいけなくなって、すると「では例外とは何なのか」という未決定事項が生まれてしまって、もはや単体では命題として成立しなくなってしまうわけ
「例外とは私ただ一人である」くらいにはっきり言うつもりならとりあえず論理的には成立するけど、まさか本気でそんなこと言うつもりもないだろうしね
で、「わかったわかった、要するに君が本当に言いたかったことは『すべての男は』じゃなくて『多くの男は』なんだよね」
「でも多いか少ないかは論理じゃなくて感覚の話になるね。1000人に1人を多いと感じる人もいるし、過半数じゃないと多いとは言えないと感じる人もいるし」
「でも100億人に1人だったら最大で地球に1人しかいないわけだから、さすがにそれは全然多くないよね。つまりソースによっても変わってくるね」
って話になって、ここではじめて論理を離れて現実の話に降りてくるわけ
でもこんな遠回りをしなきゃいけない時点で「そもそも元の疑問の立て方がまずかったよね」ってことになるわけ
わかったかな
先に断っておくと,今から私は極めて(藤本タツキ氏に対して)無神経なことを書くつもりであり,その点については先に謝罪しておく.ごめんなさい.じゃあなぜわざわざ書くのかといえば,既に以下のようなコメントがネットに散見される状況ならまあ書いてしまってもいいかと思ったから.
https://twitter.com/imaitetsuya/status/1416946323043979267?s=21
『ルックバック』、すごく面白くてすごい作品だったんだけど、あの事件をこうやってすばらしいエンタメに昇華することやその世界に共振して祈りや救いのような気持ちに包まれること、になんというかすごい恐ろしさのようなものも感じる気持ちもあってうまく考えがまとまらない。すごく面白くはあった
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/shonenjumpplus.com/episode/3269754496401369355
masa_bob どんなに才能があったとしても2年前の実在の事件にDon't Look Back In Angerと言って公表する権利があるのかが気になったことはブコメしておく
world24 ”Don't look back in anger”は遺族しか言えない言葉だと思うけど。なんか事件が読者には「エモさを強調するもの」として消費されちゃってるな。
端的に言ってしまえば,藤本タツキ先生はその事件の「遺族」だったんではないの,という話である.それがどこまで文字通りの意味でそうだったのか私は知らないし特に知りたいとも思わないが,マンガの描かれ方からして私はそう読み取った.
この作品に倫理的な危うさを感じてしまう人が一定数出てきてしまうのは理解できる.作者情報ゼロで読んでいたら私もそう感じていたと思う.そのような目線で読むと,この作品はまるで読者に対して「事件からもう二年も経ったんだし,うじうじしてねーで前向こうぜ」と語りかけているようではないか.何様のつもりだ.
でも,このマンガのタイトルは『ドントルックバック』ではないのだ.作者はルックバックしているのである.作者自身の過去を.
このマンガは,作者自身のリアルな経歴に対する自己言及の量が度を越している.ちょっとした遊び心のあるセルフパロディといった次元で片付けられるものではない.
登場人物の名称「藤野」+「京本」=「藤本」.京本の大学は明らかに作者の出身大学だし,『シャークキック』は明らかに『チェンソーマン』である.
https://twitter.com/12_Popo_36/status/1416781566928244742
って考察があったけど
だから,私はこのマンガを藤本タツキ先生の自伝だと思って読んだ.おそらく先生は,あの事件で自分の中のおよそ半分くらいを奪われたのだと思う(藤本の「本」=京本).それがどこまで文字通りの意味なのか,藤本先生に「では君は当事者なのか」と踏み絵を迫るが如く問い詰めることは,それこそとんでもなく無神経な行為となるので私は望まない.先生がこのような形で自分の思いを弔うことを選択したのだから,ドヤドヤと首を突っ込む権利はこちらにはないと思う.
では仮に当事者だったら許されるのかとか,事件に対する関係性を濁したままで許されるのかとか,ああいったトラウマ的な事象を表現として扱う際の手つきとしていかがなのか,とかいった問題は,私は詳しくないのでここでは触れられない.こーいう問題系ってホロコーストの表象不可能性に関して『シンドラーのリスト』や『ショア』と絡めてめちゃくちゃ論じられてきた話でしょ.誰か詳しい人論じてくれ.
ともかく,このマンガは藤本タツキ先生の極めて私的な回顧録かつ決意表明であって,それ以上の何かは特に込められていないのではなかろうか.
https://tomoko.fanbox.cc/posts/2500517
つまり『ルックバック』という作品はそのまま藤本タツキ先生のメメント・モっている状況、葛藤を描いたもので……ラストシーンは「充分にメメント・モったのでここからはやっていきをやります」というお話なんだと思った。
↑この記事には概ね同意するが,特に読者が「べき」を感じる必要性はないと思う.何か規範的なものを論じているわけではなくて,藤本タツキ先生の「やっていきますうおお」という日記が半ばフィクショナルな漫画作品として結実したものに過ぎない.そのマンガ的技巧の卓越さに驚嘆しようが,あまりの圧倒的な才能の発露に心を折られようが自由では.
メタ的なことばっかり書いてきたが,以上を踏まえての私なりの『ルックバック』に対する感想はシンプルである.
『チェンソーマン』で一番好きなのはアキくんです.高校編楽しみに待ってます.
加害者の描かれ方について苦言を呈するコメントに対して,「そもそもこのマンガはそういうテーマを扱う話ではないのだからその指摘は的外れ」という指摘もちょっと的外れだと思っている.まだ二年しか経ってないんだぜ.今の段階で,そもそも遺族に加害者側へ多少の同情をするよう強要できるのか?
どうしてBL同人で受け役になった男は、言動が女っぽくきゃわゆく描かれるのがメジャーなのか。
それは、腐女子の中には女体嫌いの女好きがかなり多いからなんだろうな。
女体は見たくないが、女の子みたいに照れたりキュンとしたりする言動は好きだし、そんなかわいい存在が男女恋愛のテンプレをなぞって女役として愛されたり挿入されたりしてるのが好き、という多くの腐女子のホンネが、受けを女の子っぽくするのだ。
ケンコバは自分のことを女体は好きだが女嫌いと称したけど、その反対だな。
(ちなみに、ミソジニー男を叩く時に「女体好きの女嫌い」を使う人が多いけど、ケンコバの自己言及が元だと知らない人が多そう)。
ケンコバは他者である女についての好き嫌いだったけど、腐女子の「女体嫌いの女好き」は自己嫌悪が混じってくるのでグチャグチャしてるんだよな。
物語には女キャラが少ない方が嬉しいけど、現実の女性アイドルは好きですみたいな腐女子は、女体全般ではなく自分の女体への嫌悪がデカい故とも考えられる。
リアルのアイドルの女体は感情移入しづらいのであくまで他人の存在と感じやすいが、物語の女体は自分を重ねて読んでしまいやすい、だから物語で女キャラが目立ったり性に絡むと苦痛、という心理だな。
自分の女の体は嫌いだしそれを思い出させられるのも嫌だけど、女性的な振る舞いをする存在はかわいくて好き、男女恋愛テンプレに則った交際やセックスが好き。
そして受けちゃんを女化したうえで自己投影することで、自分の女体は脱ぎ捨てつつ、女性的人格を承認され、女性っぽく愛されてる気持ちになれる。
浅ましく感じる人もいそうだけど、別に悪いことじゃあないよなコレ。過剰に浅ましく感じる人は、自分の女的欲望を憎んで抑圧してるから解放した方がいい。
ただし、男役女役の恋愛テンプレが大好きなくせに、表面的な肉体が男キャラのBLを好んでるってだけで「腐女子はジェンダーフリーだ、先進的リベラルだ、マイノリティに理解がある」みたいな態度を取る腐女子はよくない。
自分の女体嫌いと女好きの欲望不一致を無理矢理解消してるだけじゃねーかっての。
世間一般の男女恋愛に馴染めなかった私たちって異端だよねフフ、みたく悦に入ってんじゃないよ。女体嫌いという意味では少数派だけど男女恋愛規範好きという意味では多数派だから、思ってるほど異端じゃねーよ。
オメガバースなんかも「男役、女役は完全固定! 世界設定として覆らないことにします! だけど女体は嫌いなので、体は男同士でもアルファとオメガという性別を加えておきます! 女体を見ることなく男女恋愛テンプレに則った話をどんどん書こう!」って欲望発散に便利だからあんだけ流行ってる。
オメガバは悪くないが、オメガバがセンス・オブ・ジェンダー賞の大賞もらったのは流石にガバガバよって感じだ。
BLもオメガバも、ムリヤリ大義名分を持ったり社会運動に繋げずに、真面目に快楽エンタメとしてやってけってね。(真っ当にリベラル思想からやってるタイプのBLだったら、それをかかげるのは正しい)
ちなみに、「女体好きだが女は嫌いなケンコバ」の反対としては「男体好きだが男は嫌い」も考えられる。
こっち方向だとミサンドリー腐ェミっぽさが強くなる。
もちろん、腐ェミと非フェミ腐女子はパッキリ別れるわけじゃない。
「女体嫌いだが女好き」という、自己肉体嫌悪と、かわいく優しく柔らかい人格への好意に関心が強ければ、イチャつきメス化恋愛作品を楽しむ腐女子っぽい活動が多くなる。
「男体好きだが男嫌い」という、男の肉体への好意と男の人格への憎しみが強ければ、腐ェミとしての活動が多くなる。
ということで元増田のこの疑問の答えもわかることでしょう。
なんで自分に自信満々な筋骨隆々ガハハな男が、突然内股になって下げ眉困り顔で頬赤らめて生娘みたいな貞操観念の鈍感男になって「ふぇっ?」とか声あげて攻め「可愛い…っ!」ってなんのよ
受けの皮を被ったそいつは誰なんだ
https://anond.hatelabo.jp/20210201211448
一枚の切り取り画像をみなで寄ってたかって論評していて、誰も引用元の本を読んでいないようなので、前後を引いてみよう。
古市 上野さんは、社会学者であると同時にジェンダー研究者でもありますが、その2つの間で葛藤はないんですか。
古市 社会学者というのは、それが社会科学である以上、中立的に物事を見るっていう視点が必要だと思うんです。一方でジェンダー研究者としての上野さんは、「社会はこうなるべきだ」という社会運動家の意識も入っているんじゃないですか。
古市 でも、経験的な現実にもとづいて何かを研究結果として導き出すわけじゃないですか。そういう行為と、ある方向に社会を誘導する行為は衝突しないんですか。
上野 正しい戦略を立てるには、自分が戦うべき対象を正確に理解しないと間違ったことをやるのよ。おまけに効率も悪くなる。
私はね、『家父長制と資本制』という本を書いた時に、それがつくづくわかりました。家父長制も資本制も、私が嫌いな二つの敵。それを分析したら、どこが弱点なのかがはっきり理解できた。
社会学者(科学・公平・中立)とジェンダー研究者(社会運動家・嫌い・誘導)は、上野の中では相反も矛盾もしておらず、葛藤はないのである。それは社会学の定義に起因するものだろう。
上野 そもそも社会学というものは、自己言及的な学問。つまり、自分の言説そのものが現実の一部を構成していくという言説活動ですから、そこは戦略的に考えますよ。これはどういうことかというと、社会を外部から「客観的」に観察することはできない、なぜなら誰しも社会の一員であり、社会の内側から見える範囲を照らしていくことしかできない。しかも照らすことによって、社会自体が変わってしまうこともある、というものです。
だから、社会学的に何かを調査・分析する、ということは、社会に対し自分が超然として観察者の立場に立つのではなく(そんなことはできない)、自分は社会の一員であり、自分がどうやって社会を見ているのか、ということを自問自答しながら進んでいくものなのです。
この自問自答から全力で逃走しているのが、「社会学」をヒステリックに叩く人々の実態なのではと私は考えています。なぜ逃げるのかといえば、自分はこう思う、と表明すると、時に間違えることもあるかもしれないし、バカにされたりもするかもしれません。そういったリスクから逃げているのです。
「社会学」叩きをする人々は、やたら人の意見表明を「お気持ち」と、まるで無意味であるかのように攻撃します。それは、実は碌な意見もない自身の空虚を糊塗するために、人を攻撃しているのです。それが誤りであることを指摘した学問こそ、フェミニズムでした。「個人的なことは政治的なこと」という。
だからそういった人々は、「客観的」とか「科学的」といった概念に逃げ込みます。個人的なことは問題ではない、客観的・科学的でなければならないのだ! ですが、社会科学や人文学では、先の図のように、「客観的」というのは成り立たないのです。自分が何者であるかを問い直し続けないといけません。
社会学という学問についての前提が違うから、議論が成り立っていないように思える。
※引用元は古市憲寿『古市くん、社科学を学び直しなさい!!』(2016) pp.73-74 p.76