はてなキーワード: 自尊とは
自分の身の安全が確保された以上の欲求は全部承認欲求がらみだからじゃない?
マズローの欲求階層の自尊欲求以上は全部承認欲求がらみだと思う。
自己実現欲求もべらぼうにハードル高いが、できたらものすごい称賛されるようなことのためにほかの欲求抑えられるようにみえる。
けど、他人の受け入れられない俺を認めて認めてというのはうざいのは元増田のいう通り。
適度な刺激は快楽とつながっている。
けど、刺激ばかりでは疲労するのよね。
facebookの次があるとしたらその選択だろうけどなぁ。どうやるんだろ。それこそ脳のスキャンとかしてとかいうことになるかなぁ?
画面の前にいる人の疲労や好みの状況をスキャンして、その状態に会うコンテンツを自動的により分けるとか?
でも、商売でやろうとすると、自分のものを売り出すために広告を出してくれ!ってやつを相手にしないとならないわけだし、それは受け手の意向をある程度無視しないとできない。
他人からの好意に鈍感というよりは、牽制といったほうが正確だとおもう。ニュアンス的に。
一言で言い表せないような、玉虫色で、微妙な位置にある感情なので、自分の表現力ではそれを言い表すには足りてないとは思う。
今までの人生で自尊感情が育ってこなかった、成功体験が乏しかったため、ちょっとした「どうせ俺なんて」がデフォになっている。
自尊、謙遜、卑下、謙虚、職務能力の自己評価、犯罪に対し過剰に警戒する社会、非モテとして迫害されてきた高校大学、そういうった社会的・個人的・人生経験的なミクロとマクロが入り混じった結果、そうなっている。
(いや職務能力自体はそれなりに高いと自他共に評価されてるんですけどね(イキリ))
それらが入り混じった結果、「中の下」くらいの自意識になっている。
仮に自分が誰かに好意を抱かれたとしても、それを正確に把握することはできないだろう。この犯罪に対する高度警戒社会だ。犯罪者になりたくない。冤罪をふっかけてきているのかも知れない。自分自身にも犯罪に対する警戒はある。
恋愛市場から降りる人たちの理由に「犯罪に巻き込まれたくない」「犯罪者にされたくないし、犯罪を犯してしまいたくない」といったのも、潜在的に大きいんじゃないかと思っている。
自民党外交の基本路線は 「対米完全追従路線(属国化)」または 「対米依存&自尊路線(ポチ化)」の二択でずっときた。この二択、結局「日米安保」はいずれの場合も前提なんだよね。でも、それが前提である限り日本はいかなる「戦略」も持ち得ないし「自立」はできない。ずっとそれでいくのか、将来的にもう少しマシな状態への移行を考えるのか、選択の余地はその二つしかねーだろっていうのがつまり「自民党」なわけで。
もし、そんなのイヤだ!日本は「自立外交」に踏み出し、正しい意味での「国際協調」を考える必要がある……というなら、日米安保以外の安全保障体制を独自に構築しなちゃならない。そしてその場合、まず憲法の改訂は必須となるし(別なる安全保障体制がイコール日本一国での再軍備を意味するわけではないが、日米安保を否定した上で米軍プレゼンスの代替を考えるのに、自衛隊の状態を現状かそれ以下にすることは不可能だろうしその位置づけも変えざるを得ない)、これまで積み上げてきたのとは全く違う「外交」、「経済」の世界を作り上げて行かなくてはならなくなる。経済の面でも、アメリカ頼りの状況から離脱しなくてはならない。
そしてそれは、米中に二極化する世界に強烈な第三極を誕生させ、世界大戦にもつながりかねない流動的な局面を作り出すことにもなるだろう。日本がもっと小国であったうちならば、そこまで大きな問題にはならなかっただろうが、この不自然な政体のまま現在のように経済その他のパワーだけが巨大になってしまったため、どうしようもなくなっている。
現在の世界で、日本が本気でアメリカから「独立」したら……これはちょっとしたホラーだよ。GDP世界三位の国が、極東で、アメリカ・中国のコントロールを離れて、ロシア・北朝鮮・韓国その他東アジアの国々と新しい「関係」を結ぼうとする。イランや北朝鮮どころではない、世界にとってのマジな「脅威」だ。
鳩は、一応壮大な見通しをもってコレやろうとしたんだと思うが、(もしそれができれば、もちろんそれは「米軍基地」を「沖縄」から放り出すことにつながる)結論から言うとそれはもう現実的には全然無理なチャレンジだったわけだ。影響力を利用しようとした中国には警戒され、アメリカからの横やりはもちろん、そもそもその見通しを共有できない官僚も全力でその足引っ張るしかない。下手したら世界を破滅させかねないわけだから。ただ、鳩の頭の中ではこれを「平和的に実現することは可能なんじゃないか」という見通しもあったと思うわけだ。相当ぶっ飛んではいても、アイデアや方向性自体は間違いなく「自民党の二択」に対するオルタナティブなわけで、これを揶揄したり100%否定するのが本当に日本のためにいいことなのか俺はちょっと疑ってる。
少なくとも、鳩が100年後の教科書にどう書かれるかは、まだ未知数だと思う。
この条約が締結される頃の東アジア世界は、近代的国際法を掲げながら、実際には弱肉強食を旨とする西欧列強が浸透してくる時期にあたる。当時朝鮮は清の冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかしそのような朝鮮にも1860年代以降国際化の波(外圧)が押し寄せ、海上から西欧諸国が訪れるようになる。朝鮮と西欧列強との出会いは、概ね芳しいものではなかった。たとえば1866年にはフランス軍がキリスト教徒虐殺事件(丙寅迫害)の報復として軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮の江華島を攻撃・占領する丙寅洋擾が発生し、1871年にはアメリカ合衆国もジェネラル・シャーマン号事件(1866年発生)の報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮の江華島に攻撃・占領を行っている(辛未洋擾)。丙寅洋擾と辛未洋擾は朝鮮と通商を行うための侵略であったが却って斥和碑を建てるなど攘夷につながった。
当時朝鮮の政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である。清朝から西欧列強の情報を得ていた大院君は、断固として鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の非道を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策を積極的に推し進めたことから分かるように、大院君は中華思想的発想の持ち主であり、その点から西欧諸国を夷狄視していたことも理由の一つである。その強い姿勢は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建てたことに窺うことができる。このように当時の朝鮮では攘夷熱が高まっていた。
また朝鮮では、文禄・慶長の役時に、中国が朝鮮を守ったため、今回も中国が朝鮮を守ってくれるに違いないという立場であり、小島毅は「中国は東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮の認識ですから、親分である中国に自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]。
他方、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはやく開国し明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず、自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月に明治政府が樹立するとすぐに書契、すなわち国書を対馬藩の宗氏を介し送った。江戸時代を通じて、朝鮮との関係は宗氏を通じ行われてきたためである。しかし国書の中に「皇」や「奉勅」といったことばが使用されていたために、朝鮮側は受け取りを拒否した。近代的な国際関係樹立は、はなから躓いたといえよう。
この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因である。日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から、条約に基礎づけられた関係へと、日朝関係を変化させることを企図したのであるが、一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との関係を位置づけようとしていた。前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」ということばは中国の王朝にのみ許されたことばであって、日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は捉えたのである。
征韓論を唱えた西郷隆盛。ただし江華島事件及びその後の日朝修好条規締結に対して義に悖ると批判していた。
1868年以来、何度か日本からの国書がもたらされたが、日朝双方の思惑の違いから両国の関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題を背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心を抱いたことも一因である。また釜山においては日朝両国の官僚同士が険悪となっていた。長崎の出島のごとき釜山の倭館に限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権を取り上げて外交を一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬が生じたのである。釜山の倭館は朝鮮側が日本、特に対馬藩の使節や商人を饗応するために設けた施設であったが、明治政府は対馬藩から外交権を取り上げ、朝鮮との交渉に乗り出そうとした。その際、倭館をも朝鮮側の承諾無しに接収し日本公館としたことから事態が悪化したのである。結果、必要物資の供給及び密貿易の停止が朝鮮側から宣言される事態となった。
日本側も単に国書を送りつけるだけだったわけではない。版籍奉還という日本国内の難問を無事に乗り越えた1870年、朝鮮との国交交渉を有利にするため、冊封体制の頂点に立つ清朝と対等の条約、日清修好条規を締結した。これにより冊封体制の維持を理由に国交交渉を忌避する朝鮮を、交渉のテーブルに着くように促したのである。
1873年に対外強硬派の大院君が失脚し、王妃閔妃一派が権力を握っても、日朝関係は容易に好転しなかった。転機が訪れたのは、翌年日清間の抗争に発展した台湾出兵である。この時、日本が朝鮮に出兵する可能性を清朝より知らされた朝鮮側では、李裕元や朴珪寿を中心に日本からの国書を受理すべしという声が高まった。李・朴は対馬藩のもたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊を意味するに過ぎず、朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した。これにより朝鮮側の対日姿勢がやや軟化した。
国交交渉再開の気運が高まり、1875年に交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚が交渉のテーブルに着いたが、やはり書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じた。この他森山の洋服着用など欧米スタイルを貫こうとする姿勢に朝鮮側が嫌悪感を示したことで交渉ははかばかしくなかった。交渉の停滞に業を煮やした森山は4月には砲艦外交を行うことを日本政府に上申した[3]が、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍の砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月に派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目で示威活動を展開した。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。
詳細は「江華島事件」を参照
9月20日、首都漢城に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島の要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器、旗章、楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件は朝鮮側が日本海軍所属の軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ[4]、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。
明治政府のお雇い外国人ボアソナードは、事件を処理するために派遣される使節への訓令について、以下を決して朝鮮に譲歩すべきではないと具申した。
またこれらが満たされない場合、軍事行動も含む強硬な外交姿勢を採ることをも併せて意見している。これらの意見はほとんど変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さらに朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強の干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである。
さらにボアソナードのいう軍事行動も含む強硬な外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦や兵士の護衛がつき、威圧効果を朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山縣有朋が山口県下関に入り、広島・熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのである。さらにいえば、日本の砲艦外交的姿勢は無論朝鮮の屈服を促すものであったが、同時に日本国内の「征韓論」を唱える不平士族の溜飲を下げることも狙ったものであった。
ただこのように軍事的高圧な姿勢を表面上見せながら、当時の日本は軍費の負担という点からいって、戦争が好ましいとは考えていなかった。また戦争の発生がロシアや清朝の介入を許すきっかけになるかもしれず、その点からも極力戦争は避ける考えであった。
以上をまとめると日本側の交渉の基本姿勢は、以下の二点に集約される。
砲艦外交を最大限推し進めながら、実際には戦争をできるだけ回避すること。
江華島事件の問罪を前面に押し出しながら、実質的には条約を締結し、両国の懸案で長年解決しなかった近代的な国際関係を樹立すること。
また対朝鮮政策は、実質的には朝鮮の宗主国である対清朝政策でもあり、清朝の干渉をなくすべく事前に清朝の大官たちと折衝を重ねることも日本は行っている。19世紀、欧米列強のアジア侵略に対抗するため、清朝は朝鮮やベトナム、琉球などの冊封国を保護国化あるいは併合することによって皇帝を中心としたアジアの伝統的な国際関係をそのまま近代的国際関係へと移行させて清の地位と影響力を保持しようとし、冊封国に対して保護国化、モンゴル、チベット、新疆などの保護国に対しては植民地化を強めようとしていた。
この時期の東アジアは、日中朝そして西欧列強の間における複雑な絡み合いが相互作用する場が形成されつつあった。日朝間の国交交渉再開もその結果としてもたらされたものであると同時に、また別の歴史事象の原因でもあったのである。
七夕が終わってちょうど一ヶ月と一日。
先月初旬に竹を処分したが、吊された短冊は毎年、一枚残らず熟読している。
愚かな凡俗どもが愚かな願いを書き連ねた短冊が、見ていて面白く無いはずがないよね!
というか、ケータイ変換のせいかゆとり教育のせいか知らないが、やたら漢字の間違いやら送り仮名の間違いやらが近年とみに増えてきたように思う。
人に見られるところに吊すんだから短冊書く時くらい気合い入れて間違えないように書け。
今年笑った短冊。
“仕事が美味く行き、今年中に彼氏がでるきますうに ○○○○(女性名)”
美味くて。東西新聞社にでも勤めてんのかお前は。
……うん、順調も漢字で書けなかった上に彼氏にどうして欲しいのかもうまく表現しきれないようでは、願いはかなわないと思うよ。
“俺と4匹の犬達が、健康に天命を全うできますように ○○○○(男性名)”
うん、言いたいことはわかる。
無事に健康に怪我無く一生を終えられますように、って言いたいんだよね?
残念。
「天寿」なんだ。
天命て。どんな使命だよと。
「俺と4匹の犬」は、一体どんな天命を背負わされているのですか?
一体どんな天命を全うしなければいけませんか?
もし仮にできなければファルシのルシにされてコクーンでパージですか?
俺「——行くぞ」
犬1「えぇ、いよいよですわね…」
犬2「遂に…か」
犬3「腕が鳴るわね…」
犬4「あ、虫だ!ねぇ見て虫がカナブン運んでる!」
追記:
はいはいー馬鹿なブコメ共に有難くも聖職者様がご返信を下さるお時間だよー!
>maturi
>増田地獄|キティちゃん七夕短冊かと思ったら違った 2014/08/09CommentsAdd Star不適切なブックマークを通報する
ハイハイ、三下のキャンキャン吠える声は本当にやかましいねえ。
お前ら糞ブックマーカーごときが聖職者様に物を言うこそおこがましい。
批判論評しかできないゴミは無価値なんだから無生産者らしく立場をわきまえて大人しくしていないとね!神主さんとの約束だぞ!
>mobile_neko
>寿命の意味で天命って使うよな。と思ったらトラバで指摘されて顔真っ赤にながら反論していて吹
A:ハイハイお馬鹿さん、ツリーの下の方もよく読んでから糞ブコメは付けましょうねー。
強調と伏せ。書く事と書かないで置くべき事。
人様のエントリを偉そうに大上段から批判するだけなら誰にでもできるけど、文章力が伴わないと大変ですねー。
文章の書き方をもっとお勉強しましょうねー。無生産者なら無生産者らしく謙虚に大人しくしていないと、それこそ天命が来ちゃうよぉ?
意志や評価を先取りされて、それを取り消すよう働きかけるには無茶な方法を用いるしかなく、またその方法はメリットよりデメリットが大きいために採用できず、先取りされたままにしておかざるを得ない、そういう状況がありますよね、ということを言いたかったのです。
今思い返すと、文献云々のくだりは必要なかった気がします。似たような実験がすでになされていて、「ダブルバインド」みたいな名称でも付けられているかも、と思って付記したのです。
(あなたへ返信する文章を考えている間に具体例をひとつ思いついたので、ここに書かせていただきます。もちろん読まなくても結構です。)
鈴木さんが街を歩いているとき、前を行っていた人がボールペンを落とします。鈴木さんはそのボールペンを以前文房具店で見ており、高価ではないことを知っていますが、そのデザインは鈴木さんの好みのど真ん中です。もろもろの理由で必要以上の出費を避けていた鈴木さんは、ずっと欲しかったものが目の前に現れて、心のゆらぎを感じます。落とし主はボールペンを落としたことに気づいていません。しかし鈴木さんは自尊の心の導きにより、落とし主にボールペンを返すべく声をかけます。落とし主は落し物を「拾ってくれた」鈴木さんに感謝の意を伝え、去っていきます。
この感謝に鈴木さんの自尊の心はダメージを受けました。終始鈴木さんは落とし主のためを思って行動したのではなかったからです。落とし主は鈴木さんの心中を知らず、ただ持ち物を拾ってくれたいい人だと認識したでしょう。ここで鈴木さんの意志(あるいは評価)は先取りされています。鈴木さんが心の痛みを取り除くために当初の企図を打ち明けたとしても、落とし主は鈴木さんに対する認識を「ペンを拾ってくれたなんだかよくわからないけど正直ないい人」と改めるだけで、鈴木さんがいい人であることは変わりません。この先取りされた意志(評価)を覆すためには、例えば追いかけていって熱弁をふるうという方法がありますが、それを行なった鈴木さんが手にするのは「変な人」というレッテルと疲労感でしょう。やる意義はあまりないです。鈴木さんにできることは、何も言わずその場を立ち去ることくらいです。
すみません、今の時点ではこのようにしか書けませんでした。私が言っているのが「こういうことってありますよね」ということであり、あなたが問うているのが「こういうこととは抽象的に言ってどういうことなのか」ということであることはわかっているのですが、私は文章作成能力と抽象化能力が致命的に未熟なようです。本当に申し訳ありません。
なにかご指摘、文句等ございましたらまたトラックバックください。
法律を順守する事、遵法精神を高める、学校の規則を順守する事、社会の道徳を守る事。
科学技術を愛すること、勤勉である事、率先して行動する事、探究心を持つ事、積極的に社会活動に貢献する事。
命を大切にする事、安全に注意する事、身体を鍛える事、清潔感を持つ事。
自分を愛する事、自信を持って強くなる事、健康的な生活習慣でいる事。
積極的に活動する事、贅沢しない事、自分のことは自分でする事。
親孝行する事、先生や先輩を尊敬する事、相手に礼儀正しくする事。
団体を愛する事、みんな団結する事、お互いに助け合う事、他人を気遣う気持ちを持つ事。
嘘はつかない事、有言実行する事、間違いを反省する心を持つ事、責任感を持つ事。
おれはとあるFラン大学の、そして社会的には劣等的ともいえる学生だ。
そんな、社会にとって、かえって邪魔となるような知識を蓄えてきた。
むしろそれがかえって劣等学生の自我形成の役割も果たしているといっていいだろう。
「イレギュラーな自分カッコイイ!」みたいなクソな田舎根性ははたしてどう機能するのだろうか。
自分自身それが役に立ったわけで、いわゆるゲットーマインドでメイクマネー的な意識が常に潜在下にあった。
これだけは言っておきたい。とある劣等学生でも人脈と戦略である程度自分のテリトリーを形成できる。
ただし「人脈」と「戦略」には重くて厚い意味が込められている。この意味を自分自身でみつけ、社会に出ろ。
常に文章や人物の背景をよめ。その膨大な背景への配慮こそが分厚い人生を形作るかどうか決まると俺は思う。
今回のソラノート事件にしてもそうだ。背景掴めてるか否かでどう評価するのかが決定的に変わってくる。
とある上司の「○○もと」のもとは「基」だぞ。そんな背景読みで大丈夫か。
劣等学生たち、がんばってくれ。ほなさいなら。
雇用の流動化が必要だというと、「人々の不安が増す」とか「モチベーションが下がって生産性が落ちる」いった批判がよくある。たしかに会社という繭にくるんで、すべての人をやさしく守ることができれば理想だろう。戦後の一時期には、それが実現したと錯覚された時代もあった。しかし残念ながら、もはやそういうユートピアは失われたのだ。
今われわれが直面しているのは、福沢諭吉以来の「個の自立」という問題である。『福翁自伝』などを読むと、100年以上前の本なのに不思議に単純明快でわかりやすい。本書は、その「新しさ」をハイエクなどオーストリア学派のリバタリアンに重ねて解釈したものだ(絶版)。
ハイエクは福沢の死んだ年に生まれたので、福沢が影響を受けるはずはないが、両者には共通点がある。それは若いとき、ヒュームやミルなどの古典的自由主義の影響を強く受けたことだ。そしてハイエクにとって社会主義との闘いが個人の自由への信頼を生んだように、福沢の場合も「門閥制度は親の敵」という儒教的秩序との闘いが生涯のテーマだった。
福沢以来、丸山眞男や大塚久雄に至るまで、個の自立は日本の知識人の見果てぬ夢だった。しかし今われわれの見ているのは、福沢が生涯をかけて闘った封建的秩序が自壊し、ゾンビ化した状態である。そこに出てきたのは自立した個人ではなく、帰属する集団を失って自殺する失業者と、家族にも見捨てられた「消えた老人」だ。雇用が流動化すると、こうしたストレスはさらに増えるだろう。
本書も指摘するように、福沢のいう「情愛」を排除して論理のみによって人々が結びつく社会は、彼のような強靱な知性の持ち主でなければ耐えられない。テイラーのような北米の人々が近代に築き上げた人工的コミュニティが崩壊して個人主義が強まることを危惧するのとは逆に、日本では近代以前から継承してきた「強い中間集団」が有効性を失う一方、人々は北米型の「強い個人」にはなれないのだ。
しかし福沢以外の道はあるのだろうか。北一輝は個人主義を超克する国家社会主義を提唱し、日本浪漫派は近代的自我を否定して「近代の超克」の道をさぐったが、それは破滅への道だった。戦後の日本的コーポラティズムの意外な成功は、欧米的な個人主義を経なくても繁栄できる「東アジアモデル」を示したように見えたが、それも幻想だった。
いま日本の陥っている袋小路を脱却する道は、おそらく福沢のいう「独立自尊」しかないだろう。われわれは市場経済によって得た富を捨てることができないからだ。そして組織を守ることによって個人を守るのではなく、古い組織を淘汰して社会によって個人を守るシステムに変えるしかない。福沢は、今なお新しいのである。
多分俺はその「実はアスペかもしれない人」とやらなんだけど、「実はxxかもしれない人」なんていくらでもいるよ。例えば、
以下に当てはまる人は「実は妄想性人格障害かもしれない」
1. 猜疑心:十分な根拠も無く、他人が自分を不当に扱っている・傷つけている・だましていると疑う
2. 友人や仲間の貞節や信頼性に対し、不当な疑いを持ち続ける
3. 情報が自分に不利なように用いられる、という根拠の無い恐怖のために、他人を信頼するのに躊躇する
4. 善意からの発言や行動に対し、自分を卑しめたり恐怖に陥れるような意味あいがないか探る
5. 執拗に恨みを持つ:自分が受けた無礼、負傷、侮辱などを許さない
以下に当てはまる人は「実は反社会性人格障害かもしれない」
1. 法にかなう行動という点で社会的規範に適合しないこと。これは逮捕の原因になる行為をくり返し行なうことで示される。
2. 人をだます傾向。これは自分の利益や快楽のために嘘をつくこと、偽名を使うこと、または人をだますことをくり返すことによって示される。
3. 衝動性、または将来の計画をたてられないこと。
4. 易怒性および攻撃性、これは身体的なけんかまたは暴行をくり返すことによって示される。
5. 自分または他人の安全を考えない向こう見ず。
6. 一貫して無責任であること。これは仕事を安定して続けられない、または経済的な義務を果たさない、ということをくり返すことによって示される。
7. 良心の呵責の欠如。これは他人を傷つけたり、いじめたり、または他人の物を盗んだりしたことに無関心であったり、それを正当化したりすることによって示される。
以下に当てはまる人は「実は演技性人格障害かもしれない」
1. 自分が注目の的になっていない状況では楽しくない。
2. 他人との交流は、しばしば不適切なほどに性的に誘惑的または挑発的な行動によって特徴づけられる。
4. 自分への関心を引くために絶えず身体的外見を用いる。
5. 過度に印象的だが内容の詳細がない話し方をする。
7. 被暗示的、つまり他人または環境の影響を受けやすい。
8. 対人関係を実際以上に親密なものとみなす。
以下に当てはまる人は「実は回避性人格障害かもしれない」
1. 非難、反対意見、排除を怖れるあまり、人との接触の多い職業活動を避けようとする
2. 自分が好かれていると確信しないかぎり、人との交流をもとうとしない
3. 自尊感情が非常に低く、恥をかいたり、笑われたり、排除されたりすることを怖れるあまり、親密な関係づくりを控えようとする
4. 社会的状況のもとでは、「非難されはしないか」「排除されはしないか」という心配にいつも心を奪われている
5. 「自分なんかは(相手に)ふさわしくない」との思いから、人との出会いにおいても交流を控えてしまう
6. 自分は社会人として不適格である、魅力に欠ける人間である、他の人よりも劣っている、などと考えている
7. 新しく何かを始めることは「恥ずかしい思いをしてしまうかもしれない」ので、そのようなリスクを取ることを極端に嫌がる
1. 他者からの過剰のアドバイスがなければ、物事を決定できない。
2. 責任を負うために、他者を必要とする。
3. 他者の賛同を失うことを恐れ、反対意見を述べることができない。(この恐怖は、現実的な評価を超えたものである)
4. 自ら物事を開始することができない (これは自信の無さに起因する)
6. 自らを保護することができないという肥大化した恐怖により、精神不安または無力感を覚える。
以下に当てはまる人は「実は自己愛性人格障害かもしれない」
1. 自己の重要性に関する誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)
2. 限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
3. 自分が"特別"であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。
4. 過剰な称賛を求める。
5. 特権意識、つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。
6. 人間関係で相手を不当に利用する。つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
7. 共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気付こうとしない。
8. しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
9. 尊大で傲慢な行動、または態度。
多くの人が、多少なりともどれかに当てはまってると思うのだが、いかがだろうか?
どれもアスペっぽい人と同様、こんな性格だと他人に迷惑かけたり、他人とうまくやっていけなかったりするよ。
あなた自身や、あなたの周りに、いかに「実は人格障害かもしれない」人が多いかを考えると、実はアスペっぽい人診断がいかに胡散臭いかが分かるはず。
ていうかICD-10にせよDSM-IVにせよ医者が使うための専門書であって素人が心理テストみたいに自己診断するという使い方は目的ではない。特にDSM-IVなんかはそのことが明記されている。
診断用のチェックリストも専門書の使い方を知らない人が作った、信用するには当たらないもの。
そこから急に、彼女から力を込めて指を絡ませて恋人つなぎに移行。一瞬びっくりしたけど、振り払うのもおかしいし、周囲の目を盗んでしばらくぎゅーって握ってた。
それって、その女が元増田を好きって訳じゃないよ。その女が自分が愛されてる実感を手軽に味わいたいだけのこと。しかも、手をつなぐだけで、成功すれば大もうけ、失敗しても自分は傷つかないという、受け身だから超安全な愛情確認ゲーム。そういう追いかけられたいだけの恋愛を、より簡単確実に実感するための相手には、未婚者より既婚者のほうがいいから、不倫を仕掛けてくるんだよ。元増田が未婚者なら見向きもされないと思う。
女から既婚者にアプローチをしたときに、相手にされなくても、「家庭があるから私に手を出せないだけで、私自身に魅力がないわけではない」って言い訳ができるし、実際に手を出してきたら、「ちょっと手を握っただけで、相手が本気になっちゃっただけなんだから、私は悪くない」と言い訳ができる。(不倫発覚後の慰謝料の問題は別として、あくまで自分の中での罪悪感)
未婚者相手じゃ、失敗時にはダメージもあるし、成功時にはそれなりに自分からも相手に愛情を注がなきゃいけないから、面倒だしね。親からの無償の愛を、恋人にも求めてる感じなのかもね。
しかも、既婚者が手を出すんだから、「既婚者が家庭をなげうってまで、手を出すほど自分に魅力がある」と確認or妄想できるし、何より「他の女に勝つ」という女にとって至極の悦びが味わえるw
男は男で、こういう女にのめり込んで家庭も人生も崩壊させる奴もいるし、こういう女を逆手にとって喰いまくる奴もいる。前者の男と不倫する女は自分の魅力を確認し、後者の男と不倫する女は自分の魅力を妄想する。いずれも「他の女に勝つ」という極上の悦びは味わえる。まあ、不倫にのめり込む男やまんまと喰われる女が感じてるのは、ただの幻覚だけどなw 世の中には不倫に限らず、幻覚でもいいから一時の悦びを得たい人はいるよね。風俗でも麻薬でもアルコールでもタバコでも。
元増田が、自尊欲求満足のための女のオナニー道具になってでも一発ヤリたいというなら、やっちゃえばいいんじゃないかな。人間としては失格だけど、いいダッチハズバンドにはなれるよ。
the cove
ttp://tamesue.cocolog-nifty.com/samurai/2010/03/the-cove.html
愚行権という言葉を以前聞いて、これはなるほど世界に広げたい言葉だと思った事があります。言い換えれば寛容です。人が自分にとって愚かな行為をしているとしたとしても、自分に危害が加えられない以上、それを許容するという考えです。
アメリカは比較的、愚行権の範囲が広い国です。どこで誰が何をしていても、そして主張していても基本的には許されます。グラウンドキャニオンにも柵がほとんどありません。死ぬのも生きるのも、自分でどうぞ。基本姿勢はこれであります。
転じて日本は、愚行権の範囲が狭い国です。どこで誰が何かをするのは、人々に取って他人事ではありません。人は人前でどう振る舞うべきかを意識します。人々はなるべく全体として統一感を大切にしようとします。和をもって尊しとなすであります。
しかし、国の中で起きている事と、外で起きている事は大きく違います。
アメリカはひとたび海を跨げば、愚行権の狭い国に転じます。許せないものは許せない。正義は世界で只一つ。大げさに言うとそういう姿勢で外交を行っている国です。というより、国の原則的なあり方は暴力装置あってこそだと固く意識している国です。
日本はひとたび海を跨げば、愚行権の範囲のきわめて広い国になります。大方の事は許し、寛容の精神をもって接します。まあまあ、そんなに力まなくても。みんな違ってみんないい。基本的な外交姿勢はこうでしょう。切れるといくとこまでいってしまいますが、そうなるまでは寛容の国であります。
文化と正義の狭間です。例えば人食文化をもつ民族を世界は許すのか。女性蔑視、部族間で女性、子供を売り買いする文化を愚行権の範囲とするのか。幼い頃から首に輪っかをつけて首を伸ばす文化は、人権侵害に値しないのか。global warmingは?
文化は時に、他の文化の琴線に触れます。どうしても許せないものに触れた時、人はそこに介入し争いが起きます。
アメリカは人々に自分自身を持ちなさいと教育します。そして主張し、自分らしく生きなさいと教えます。正しい事は自らが決めるのです。
人生は豊かになります。独立自尊の精神が育まれます。しかし、何か信じ込んだものがあるとそこに暴走する癖もあります。他人の声や、客観的な視点は欠けがちなのが西洋文化です。そしていったん何かを信じると、愚行権の一切合切は正義の名の下に遠くに消し飛びます。
人様が何を食べるかなんて、ほっておけばいい事。私はそう思いますが、アメリカ人の一部はそう思っていないのでしょう。イルカは食べちゃいけません。そう、おっしゃった神様がアメリカのどこかにいるのかもしれません。
食わずには生きておられぬのが生き物です。そしてまた、生き物に順列はなく、万物は今一瞬姿をこの形にしているだけで、所詮はDNAの只の運び舟です。生きとし生けるものの業であります。
グラウンドで時々、肩に力が入って前に進んでいないアメリカ人を見ます。
肩や脚を気にせずにぼんやりと全体を眺める。そうすれば全ては繋がっていて、どこが大事でもどこが不必要でも無い事に気付きます。動きとはそういうもの、肝心なのは大きな流れに逆らって歪めてしまわぬ事です。
ネットを通じて誰かにコンタクトをとる際のモチベーションは自分の場合は怒りであることが多い。他人のブログのコメント欄や Wikipedia などに思わず下らない書き込みをしてしまうのは、そのコンテンツについてやりきれない怒りを感じた時が非常に多い。怒りの対象は端的にいえばバカなコンテンツ。この場合のバカな、というのは無責任で軽薄で有害かつその害悪に無自覚な - つまり誤解をおそれずにいえば悪意なき疑似科学喧伝者みたいな(?) - という意味。無論ネタである場合はどうでもいい。実生活で見かける「バカ」にはかなり寛容だという自覚はあるが、ネットではそれ自体愚かなことだと分かってはいてもなぜか怒ってしまう。多分そのコンテンツを書いている人間を一目見ればどうでもよくなってしまう感情なのだろうが。「やり場のない怒り」というのはやり場がないから「怒り」とならざるを得ない何か別種の情動が根幹にあるのではないかとも思うのだが、だとすればそれは何だろうか。分からないが、とりあえず「もやもや」とするのだ。
例えば Wikipedia は、内容は酷いがいずれ段々よくなってゆくだろう、という期待をベースにして、つまり最終的に平均的な善意に依存しつつ動いているプロジェクトだ、と理解できないことはない。その Wikipedia でどうしようもない誤謬を訂正した後、あるいはどうしようもない権利侵害をどうにか正常化した後、ふと「自分はこの編集を善意からやっているのだろうか」と疑問に思う。むしろ動機の重心は、そのバカな内容を書いた編集者をそういった言説の空間から排除したいという「怒り」のようなものだ。それはまったくもって善意ではない。自分は「貢献」ではなく、地獄への道をせっせと整備している人間にそういった迂遠な方法で何らかの啓示を与えたいだけなのだと思う。啓示とは大げさかも知れないが、自覚とか自尊とか責任とかいうものはそうやってしか与えられないという気もしてしまう。
あるいは、下らない会社が下らない翻訳者を雇って運営している下らない「ブログメディア」の数々。書店で週刊誌を眺めて怒るというのはまったく正気の沙汰ではないが、インターネットはそれさえ可能にしてしまったようだ。例えばアルバイトで雇われている「翻訳者」がひとつの記事で受け取る報酬はいくらだろう、と考えてしまう。よくて数千円くらいのものだろうか。何回か見ていると、どうやら編集体制は実態がなく、単純な誤植もそのまま掲載される上、指摘されても訂正されることはほとんどないということが分かってくる。中には留学経験のある者もいるが、彼(彼女)を含めて20代のアルバイトが量産する「記事」はあまりに酷い。もうどういっていいか分からないくらいに酷い。だがそれはいい。誰にでもミスはあって、あとは誠実さと人生観の問題だ。では自分は何に「もやもや」とするのかと言えば、そういった「執筆者」を端金で使い捨てながら企業体を回している経営者の立場なのかも知れない。実名と不自由な日本語をセットで垂れ流している執筆者に文句をいうのはお節介というものだろう。
それで? というわけだが、どうなれば自分は満足なんだろうかと考えてみると、やはりそういう対象に何らかの啓示を与えたいのだと思う。何かに気づいているフリをして欲しいのだと。さもなければ、殺せるものならば殺してしまいたいと思う。だがこういった情動も、彼らの顔を見れば忘れてしまうようなものだろう。バカは死ねばいい。あるいは、死ぬほど恥じ入ればいい。何に恥じるべきかを知ればいい。自分はそう思いながら「もやもや」としているのかも知れない、と思う。コンタクトをとった後はどうなのか? 経験からすれば、大抵の場合は無視されるか、あるいは非常に丁寧に対応してもらうかのいずれかになる。それで満足か? と言われれば、どんな対応が帰ってこようと満足したことはない。
インターネットは他人になどつながっていないのではないか、と思う。そこにあるのは自分の欲望の蠢きに過ぎない。しかも誰にとっても、その欲望はどれひとつとして自分のものではない。
▲無言のまま安保条約の質が変わっている
日米安保条約の改定をめぐって60年に全学連などのデモが吹き荒れ岸内閣が退陣にいたった。あれから半世紀になる。
60年アンポ反対運動は攘夷的な国民的ムードが背景にあり、当時のシチュエーションは反米だった。運動に参加した殆どの人は条約を精密に読んでいなかった。ゼンガクレンは情念と正義感で動いた
70年アンポは前年までに反戦運動が下火となり、赤軍派と三島事件という両極の政治事件で終わった。この間、高度経済成長と東京五輪によりナショナリズムは体制側に収奪された。
爾来、日米安保条約の自動延長が継続され、80年アンポは政治争乱もなく、むしろフォード元大統領らを招いた日米シンポジウムが東京で開催された。筆者は当該シンポジウムの広報担当だったため会場のホテルに一週間ほど泊まり込んだ。中川一郎、末次一郎氏らと夜遅くまで懇談した。駐日米国大使はマンスフィールドだった。不思議に親和力をもった人だった。
やがて政治の季節は去り、全学連政治各派は分裂を繰り返し、左翼は「サヨク」になり、過激派は三島由紀夫の割腹に衝撃を受け、一部は転向し、体制派はすっかり米国の執事のごとくになった。その後、国際情勢の緊張とともに防衛論議は本格化したが、「日米安保はこれからどうなる」という肝腎の議論がない。
ところが日米安保条約は無言のうちに運用が変質し事実上、改編されている。「条約」ではない、これは「同盟」である。
たとえば事前協議の対象とされるのに、沖縄の海兵隊も横須賀の空母も日本に相談なくイラクなどの戦場へ出て行った。集団安全保障議論も海外派兵議論も沸騰しないまま自衛隊は「国際貢献」と言われてカンボジア、イラク、モザンビーク、ゴラン高原、そしてソマリアへ出動している。日本ではなく米国が勝手に解釈を変えているのだ。
しかし日本国内の防衛議論は専門的に走り過ぎ、国民から遊離している。マニアックは兵器の性能を論じたり、次世代航空機を論じたり。しかし法の改正という議論には滅多にお目にかかれない。
歴史開闢以来、同盟が半世紀以上つづいた例はきわめて少ない。例外は英米同盟くらいだろう。日英同盟は短命だったし、日ソ不可侵条約はもっと短命だった。
しかし確実にくる宿命がある。それはいずれ日米同盟が終わりを迎えるという確固たる近未来のシナリオである。なぜなら東西冷戦が終わってソ連が崩壊し十五に分裂し、ユーゴは連邦が瓦解して六つの国にばらけ、NATOは反ソ軍事同盟から性格を変えて東方に拡大してイランを囲み、東側は上海シックス(中ロ+中央アジア四カ国)に収斂された。そして昨日の敵は今日の友、日本の頭越しに米中のG2時代がやってきた。
米軍はグアム以東へ防衛戦を下げ、北朝鮮の核実験には曖昧な態度で終始し、拉致問題を含めて日本の期待を裏切るかたちとなった。台湾海峡を中国海軍が扼することになれば米空母の防衛力が劇的に減殺される。日本の尖閣諸島は危機に瀕し、やがては沖縄をめぐる日中の攻防も予測される。
しかしワシントンから見ると経済の凋落と軍事力の衰退は現実であり、従来の米韓、米日、米印、米豪の安保体制を維持するものの、日本の防衛貢献が足りないという認識である。今後、いかに改編すべきか、日米同盟半世紀を閲して本格的議論が始まるだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20090617044849
元増田の彼女さんは、まだまだ修正の余地があると思う。なぜなら「反省して泣いてる」から。変わろうという気持ちがあるのなら、どこかで変われるはず。元増田が手助けするための知識になりそうなことを紹介しとくね。
「自尊感情」
http://homepage3.nifty.com/selfesteem/sectheory.htm
このページの特に「傷ついた子供」を参照のこと。ただし、ここにも書いてあるけど、周りは理解を深めることが出来るだけで、どうしてやることも出来ない。本人がなんとかしようと思わないと。いわゆる、馬を水場に連れていくことは出来るが、水を飲ませることは出来ないってこと。
「交流分析」
http://www.ops.dti.ne.jp/~iwh/kokoro/ta.htm
こちらは関わり方が書いてあるので、相手の自我状態がわかれば、刺激しないような対応の仕方もわかるかも知れない。
元増田の彼女さんみたいな人は、愛された経験がなく(まー、つまり私だ)、愛してると言われるたびに否定したくなるんで、言葉より行動のほうが大事かも。セックスをするわけではないときも、日常的に肌を触れ合わせて、優しく丁寧に体を扱ってやっていると、(大事にされている)ということがダイレクトに伝わって、そのうち落ち着いてくるかも知れない。
がんば。
http://anond.hatelabo.jp/20090615232800
核は拡散し、ブレトンウッド体制は崩壊し、世界の危機は深化する
▲目を覆いたくなる米国の衰退、核拡散防止条約体制は風前の灯火
ブレトンウッド体制は世銀・IMFを主柱として米ドル基軸の通貨体制である。
詳しくは拙著を参照いただくとして、1971年にニクソンが金兌換停止を宣言して以来、ドルは徐々に紙屑化し、08年のウォール街の大不況入り以後は、米ドル基軸への根底的疑惑が、とりわけ新興工業国家群を中心に拡がった。
真っ正面からブレトンウッド体制に中国が挑み始め、BRICSs(ブラジル、露西亜、印度、中国)サミットでは、ドルに変わる新通貨体制を模索し始める。
当面、中国とロシアはSDR債を購入することによって、ドル代替通貨の位置を目指す。この動きに米国債の金利が跳ね上あり、猛烈なインフレ懸念が拡がる。
日本はこれほどのドル危機にあっても感受性が鈍いのか、一貫した揺るがぬ姿勢でドルを守る側になる。日米同盟が絶対不変の原則と幻覚症状にあるのと同様に柔軟な思考能力が奪われている。
もちろん戦略的発想は苦手である。
米国の力の衰退は顕著になった。
世界の危機は深化し、おそらく「イラクの西」は、今後イランを背景とするシーア派の統治区域となり、アフガニスタンは「タリバニスタン」となり、パキスタンは無政府状態に陥るだろう。
中東全域は混乱のちまたとなるだろう。
もっとも危険な状況は目の前、パキスタンが開発しストックする核兵器は60発から100発。開発資金の胴元はサウジアラビアであり、当然だが、核兵器の一部はサウジアラビアへ移転するだろう。もしイランが核武装をしたら間違いなくそうなる。
ザルダリ大統領と軍部との調整が円滑にいっておらず、パキスタン軍の独走に歯止めをかけられるほどの政治力はない。この点で陸軍参謀総長出身だったムシャラフ前大統領とは違う。
軍のトップ以外、パキスタンは核兵器の隠匿場所を知らないという説が有力で、米国としては、ここでパキスタンの保護国ともいえる中国と胴元のサウジアラビアとの協力が必要となる。
突拍子もない考えかもしれないが、パキスタンが無政府状態に陥った場合、米中の軍事共同作戦が展開され、核兵器保護隔離作戦を展開するというシナリオも考えられるのではないのか。
▲日本の核の選択は?
北朝鮮の核保有は米中露をやきもきさせたが韓国は平気な態度である。
なぜなら韓国人の感覚では北の「同胞」が保有する核兵器は韓国が保有したと同義であり、いずれ日本攻撃用につかえると踏んでいるからだ。
数百億円を投じて国家をあげたシステムを組み、すべての公務員が給料を10%返上して、大国民運動を起こさない限り、もはや独自の核開発は不可能と考えられるので、発想を転換する必要がある。
そもそも日本人の優秀な理工系学生はアメリカに頭脳流出したか、国内にあっても宇宙工学の職場より「金融工学」を目指した。
いま、原子炉、ロケットに携わる日本人エンジニアらは核武装拒否反応をしめす人が多く、この有様では開発に乗り出せないだろう。ちょうど正しい歴史教科書を、短絡反応する現場教師のように。
そこで国益のためにも、日本は核弾頭をパキスタンから買うという選択肢を考慮しなければなるまい。或いはインドから買うのもアイディアだろう。交換条件は従来の援助と引き替えるのだ。さいわい両国とも日本の技術と資本を必要としており、バーターの条件は整っている。
また日本は7000億ドル近い米国債を保有しているが、いずれこれは徳政令か、米国のデフォルトで(GMがそうしたように)、紙屑となる可能性があり、それならば米国から担保を留保する必要があるだろう。
拙著でも何回か指摘したように、佐世保、横須賀に寄港中の空母、原潜などを差し押さえる選択肢が残る。
もちろん核兵器付きである。衰退一途の米国軍部とあうんの呼吸が必要だろうが。。
戦後の日本はふぬけ状態、とても中国や北朝鮮と戦争できる態勢にはない。
戦略兵器を保有できなかった日本には戦争能力が備わっていない。攻撃兵器がない。地雷を保有せず、今度はクラスター爆弾を廃棄する。こういう国会議決をする日本の議員というのは安全保障のイロハさえ分からない手合いが多い。
独立国家とはとても言えないが、いまはそのことを論じている紙幅はない。
日本が望んだのではなく、安保条約の片務性と歴代米国政権の明確な意思からである。
米国のアジャンダを付与され、その範囲内での防衛思考しかできなくなった自衛隊高官。日本には防衛戦略がないのである。
次期戦闘機をめぐって米国国防長官のゲーツはF22の開発を止めるので、つぎはF35にするから、日本の防衛ジェット機後継は、これだと一方的に言った。
なんとかF22で合意ができつつあった自衛隊も驚いた。MX構想のときもそうだが、つねに米国の移り気によって日本の防衛が振り回される。そんなことに驚くこと自体が植民地根性である。
日本には戦略兵器と核兵器を与えないというのが、米国の占領政策の延長線上にある世界戦略である。だから空母、原潜、空中給油機、ICBM、駆逐艦の保有が事実上禁止されている。
日本の自衛隊にないのは核兵器ばかりではない。攻撃兵器がない。長距離ミサイルどころか、空母も長距離爆撃機も原子力潜水艦も保有しないから、戦略的防衛計画を立案することは基本的に困難である。
自衛隊のすべての装備は米空母をまもる戦術的防衛の分担でしかないのである。
日本の謳う「専守防衛」というキレイゴトの標語が日本の政治の看板にもなり、非核三原則とか、GDP1%以内とか、憲法にも書かれていない制約を受け、手も足も出ない「軍隊」なのである。
孫子がいみじくも指摘したように「攻撃こそが最大の防御」であるにも関わらず。
日本の自衛隊に戦術兵器こそ多少はあるものの、充足率がわるいうえ、戦場兵器となると弾薬がない。
実弾による火力演習は年に一度、全国の部隊から弾薬をかき集めて行わなければならない。
機関銃も不足し、手投げ弾も少なく、要は24万という表向きの「兵力」がサラリーマン化して、徐々に愛国心に乏しくなっていることも問題だろう。
かくて在日米軍を補完するだけが目的だったのが自衛隊だから、独自の戦力となると、はなはだ心許ない戦力しか保有せず、イージス艦六隻体制などと言っても、自衛隊の実力とは米空母を取り巻く守護兵力ではないか。
MD(ミサイル防衛)などと絵空事のために日本の血税が投じられようとしてきた。
自衛隊は対米依存というメンタリティを辞めるべきだろうが、すでに親米根性の染みついた組織にそれが出来るだろうか?
ところが日本人が戦後一方的に「恋した」米国がとうに心変わりを示し、日本防衛への熱意がうせ、つまり日本の対米期待に対応できるはずの米国の、北の核実験、拉致問題への姿勢をみても、すでに存在していない空気がある。
アメリカの国家の性格(国体と言っても良いが)が、劇的に変質し、リバイアサンから普通の国家に変貌していく過程に於いて、従来のNATOへの関与を弱め、米韓、米日、米印、米豪条約のあり方の再検討を迫られる。
米軍は世界のプレゼンスをやめて、米国内に引きこもれと主張したのはパット・ブキャナンだった。嘗ての米国を代表した右派の声が、これからはオバマの左派の声に変わっていくだろう。
米国は負担に耐えかねてアジアの防衛を「新同盟国」の中国にゆだねる選択も考慮することになるだろうし、現実に台湾問題は投げやりになった。
なるほど。
人間の人間らしさがないと思っているので(嫉妬した上で何かの行動を起こすという強さ)、
嫉妬は確かに怖いこともあるけど、嫉妬という感情を大事にしてほしいし、大事にしたいものだと思う。
嫉妬した後の行動はよく考えなきゃならんけど。
努力するか、あきらめるか、相手を貶めようとするか、
それによって嫉妬という感情に対する印象も
いざ過去をふりかえって見ると
嫉妬と自己嫌悪は、その感情を抱いた後にとる行動はよく似てるけど、
怒りの対象がどちらに向かうか、という点が違うんだろうな。
ほとんどの人は、自尊心が傷ついた時に、
嫉妬と自己嫌悪が混ざった感情を抱くのだろうなと思うけど。
いや、時系列的に、嫉妬→自己嫌悪→行動という場合もあるか。心理学はようわからん。
http://sankei.jp.msn.com/life/education/090311/edc0903110113000-n1.htm
話題ががずれてるとは思うんだけど、
これもさ、なにかきっかけがあって「自分が嫌い」だったりすると思うんだ。
あと自分を律しすぎるというか、理想の自分像を追い求めすぎるからだったりとか。
成績はじめ色々なことを他人と比べた結果、事実自分はだめだなぁとか思ったりとか。
あとは、自分が嫌いだというのがカッコイイと思っているとか・・・(それはないか)
自分が嫌いな理由は多分人それぞれあって、
なんで自分のことが嫌いなのか、ということがわからないと、
かなり、ひとりひとりにあった教育をしていかないといけないんじゃないかと思う。
ケースバイケースというか。
ひとつの教室で同じこと教えても個人の心の奥底にはアプローチできない。
***************************************
アフガニスタン攻略の当初、米国が引っ張り出してきたのがカルザイだった。
国連大使、アフガニスタン外務次官の顔を持つカルザイは、民族衣装をまとい、米国の代理人のごとく、或いは自由民主の使者、大げさに言えば“希望の星”として世界政治に登場した。
カルザイをこの日のために育ててきたのはCIA筋と言って良いかもしれない。
米国に事実上の亡命時代、カルザイはカリフォルニアのメジャー「ユノカル」の顧問として食いつなぎ、しかもユノカルは当時、トルクメニスタンのガスをアフガニスタンを経由してパキスタンの港までパイプラインを敷設するプロジェクトを進めていた。
カルザイ政権が誕生するや、このプロジェクトはすぐに成立、参加国の署名式をすませた。
そして、この1580キロのガス運搬ルートに着目し、ユノカルへの買収をかけたのが中国CNOOC(中国海洋石油)だった。
ブッシュ政権はCNOOCによるユノカル買収を回避させるため、コノコと合併させた。
しかし、ブッシュ大統領が簡単に制圧できると考えたアフガニスタンは泥沼だった。
嘗て英軍はアフガン征伐に向い、殲滅され、ロシアはアフガンで失敗した。アフガニスタンは強悍な部族が伝統的に収めてきた土地である。
アルカィーダをテロリストと決めつけた米軍は911直後から大規模な空爆。
米軍の制空権の下で北部同盟(マスード派)とウズベキスタンに逃げていた部族(ドスタム将軍)との連合がタリバンを南へ追いやった。
そしてカルザイ政権が成立し、まがりなりの七年間が経過した。
▲カルザイ政権の腐敗は目を覆いたくなる
「より良い状況が、カルザイ治世下で、単に「よい」だけの状態となり、それがやや悪くなり、より悪くなり、いまや最悪の状況が現出した」(アブドラ元外相)。
NATOと米軍は数万の軍隊を投入したが、タリバンは逆に勢力を回復した。連合軍はかろうじてカブールの治安を掌握しているに過ぎず、西側の援助は、いったい何処へ消えたのか?
麻薬は撲滅されず、アフガン政府軍は弱体、警察は役に立たず、そしてカルザイ政権の腐敗は目に余るようになった。
バイデン上院議員(現副大統領)は昨年、カブールを訪問した際に大統領官邸の大理石を敷き詰めた宮殿のようなダイニングルームに招かれ、ほかの二人の米国上院議員らと食事を執った。
バイデンは「汚職はなんとかならないのか」とカルザイを問い詰めた。カルザイは答えた。
バイデンら三人の上院議員はナプキンを投げすて「食事会は終わった」と45分で席を蹴った。爾来、この政治家のカルザイへの不信感、不快感は根強く、これはヒラリーに伝播している。
ヒラリーはいまや国務長官。「あの国は麻薬に汚染されている」と発言している。
オバマ大統領も「カルザイは信頼出来ないし、かれのやっている統治は効果をあげていない」と発言している(この三人の発言はIHI,3月10日付け)。
カルザイは、しかし「米国の傀儡」を離れて独自の道を歩もうとしているのではないのか。
どの国にも独立自尊の精神はあるだろう。あれほど米国の傀儡として登場し、西側をこまめに回ってカネをかき集めながら、カブールの治安もままならない境遇に陥れたのも、カルザイの無能によるものではあるが、カルザイ一人の責任ではなく、これはたぶんアフガニスタンの民が内包する長老支配という「伝統」の所為ではないか。
カルザイの任期は五月まで。もちろんカルザイは再選を目指し選挙準備に余念がない。
アブドラ元外相とアシュラフ・ガニ元財務相が5月20日の大統領選挙に対抗馬として立候補する。
「デモクラシー」なるものはイスラム世界では適応が難しい。その通用しにくいシステムを維持し、それが民主化だというポーズを維持して西側の援助をさらに期待する。それ以外、この国におけるまつりごとは成立しまい。
だからオバマ政権はブッシュとの違いを見せるため、ブッシュが肩入れしすぎたカルザイを、[CHANGE]しようとたくらんでいるわけである。
「カルザイ政権はよくやっている。タリバン政権下ではふたつしかなかった大学が17に増え、600万の子供が学校へ通い、女性も学校へ行けるようになり、当時なかった軍と警察をカルザイ政権は保持している。」
だが、首都のカブールを離れると、アフガニスタンは「タリバニスタン」である。
嘗てバングラデシュ独立戦争で、突如「英雄」として登場したラーマン大統領は直後から一族の腐敗が絶えず、一年か貳年後に、暗殺された。
なぜかカルザイの不評を聞いて、そのことを思いだした。