はてなキーワード: 腎臓とは
断定は出来ないけど、95%、がん、だそうです。
それはそれはびっくりしたよね。
仕事中にメールで知らされたときは文字通りゾッとして、目の前が真っ暗になったよね。
わたしは夫がいなくなったら生きていけない。
夫と出会ってからずっと夫が大好きで、多少の諍いはあっても日々が大好きで満ちていて、夫を大好きなまま一緒にシワシワになって、いつかは夫の腕の中で生を終えると疑いもなく過ごしていたから。
どんな顔をして家に帰ればいいんだろう。
1番不安なのは夫のはずで、わたしが泣いたりしたらいけないのではないか。
などと思いながらおりましたが、いざ帰ってみれば夫は普段通り犬と遊んでいたので、少し潤む目を気取られないように普段通り振る舞えたと思います。
家に帰ったあと夫から詳しく話を聞くと、腫瘍のサイズから見てステージ1の中の1番低めの分類。切除してしまえばこれきりの手術になるでしょう。と言われた、とのこと。
がん、って強いワードだなと思ったよね。
そんなことが新年あけてすぐの1月2日に起こりまして、あけましておめでとうとか言っている雰囲気でもなかったのですが、状況をきちんと理解していくうちに落ち着いてきました。
つぎの木曜日に手術です。
ドクターは大学教授ということもあってか、かなり説明が上手くて、2時間ぐらいかけて基本的な事から現在の事象へ掘り下げて説明をしてくれました。
取り得る策を全て挙げてくれたのちのディスカッションをもとに、プランAはロボット手術にて部分切除、腫瘍が膀胱に触っていて部分切除が難しいようであればプランBの全摘出、出血した場合はプランCの開腹手術、みたいな予定です。プランDまであったのですが忘れました。
色々とざーっと落ち着きはしましたが、こういう局面に遭遇するとそれぞれの人々の人間性やその人の人生の優先順位などがよくも悪くもあけすけに見えてしまうものです。
いまとても、夫の母に幻滅しています。
夫の母にとっては、どうやら息子の手術及び健康よりもご自身の面子の方が、全く比較にならないレベルで優先順位が高いようです。
おそらく今後、夫の母との付き合いは大きく変化する事と思います。
あまり夫の前ではあらわにしないように努めていますが、わたしとしては軽蔑に近い気持ちを抱いています。
という事を記しておこうという増田です。
我が家の猫。
最近は老齢のためか耳も目も悪くなっており呼びかけても気付かない様な状態だった。
失禁もあった。
脚が悪いので歩くのも大変で、それでも一生懸命トイレに行っていた。
一昨日は猫ベッドの中でお漏らしした。
昨日は摂食が不能となってしまったため慌てて病院に連れて行った。
すると。
「糖尿」
とのことだった。
糖尿…まさかの糖尿。
元々ストルバイト結晶持ちなので療法食を食べている。その為、飲水は多かった。
心臓も萎縮しており、それも心配だったが直ぐどうこうなるようなものではなかった。
急激に悪化したのか。
獣医には「このままだと今晩が山です」と言われた。
大泣きしながら入院を頼んだ。
私は毎日老人を見ているが、
「もう食欲も無くて食べたがらない老人の口に無理矢理ドロドロの食事をねじ込んだりエンシュアを飲ませたり…
自分が老いた時、そんなこと絶対されたくない。ましてや胃瘻だの経鼻瘻だの腸瘻だの冗談じゃあない」
と思っている。
そんな風に思うのに、こうして猫が死にかけると「自然な死」を選ばせてやれない。
今彼の脳は機能しておらず、痛くもなんともない。
このまま死ねば苦しむこともない。
それでも。
撫でればゴロゴロと頼りなく喉を鳴らす。
伸びない舌で水を飲む。
そんな状態でもまだ生きててくれてる。
そこに生きて在る。
生きて傍に居て欲しい。
そう思ってしまう。
本当に申し訳ない。
が、猫と別れる選択肢は無い。すくなくとも個人的には絶対それはやめた方がいいと思う。
おれは一年と少し前、19年一緒にいた猫を亡くした。
自分の至らないところで、その猫にはつらい状況も一杯味わわせてしまった。いまでも悔やんでも悔やみきれない感情がある。
でもただひとつ。
飼う時に心に決めた
「ずっと一緒に居る」
それだけは貫き通せた。それが唯一救いになっている。
なぜそう心に決めたかというと、子供の頃、同居していた叔母が可愛がっていた猫がいたんだ。
叔母見つけて連れてきて、叔母が飼った。
その猫も叔母に一番懐いてて、他の家族とはさほどだったんだ。
その猫は寂しそうだったよ。いつも叔母の部屋にあったクローゼットのなかで寝てた。
叔母が家にくると嬉しそうにくっついてた。
動物の毛がよくないとかなんかで聞いたみたいで、高齢出産だった叔母は異常に過敏になった。
猫が近づくと、叫び声をあげて「来ないで!」って逃げてまわった。
おれはまだ子供で、友達と遊んだり、そんなことばっかりで頭がいっぱいだった。でもその猫が亡くなった時、大好きだった叔母に避けられ、看取ってももらえずで(急だったからだが)もし次に猫を飼うことがあれば、何があってもずっと一緒にいるんだと決めたんだ。
一年少し前に亡くなったその猫は、晩年は腎臓を患った。病気について、必死に色々調べた。そこら中におしっこを垂らして(腎機能が低下すると、水を飲む量が増えて、おしっこがぽたぽたと垂れたりする)毎日のように寝床の掃除をした。
一緒にいるのは綺麗で楽しいことだけじゃない。けれど、毎日していた、寝床に敷いたタオルの洗濯やトイレ掃除。これが出来なくなったときの喪失感はとてつもなかった。
19年の間には、何度か引っ越し等環境の変化で、猫と離れるかどうかの危機もあった。
けど、おれにはその選択肢はなかった。
そのお陰でおれはそういう大切な喪失感も噛み締めることができた。
もちろん、嫁と子供が絡む話だ。そう簡単な問題じゃないのもわかる。
けれど、ずっと一緒に居ると決めて飼ったのなら、その猫と別れる選択肢だけは選んで欲しくない。
絶対後悔する。
どちらを選んでも後悔はあるかもしれないが、その後悔だけはして欲しくないな。同じ猫好きとして。
それに旦那にとって大事なものを奪う選択肢を提示してくる嫁に一度折れたら、この先折れ続けることにもなると思う。
猫と別れた後悔が、後々いろいろな形で尾をひく可能性もあると思う。
最後に、10歳の猫にとって、1年は人間で言う4年なんだ。猫は1年で4歳分年をとるんだ。
例えば実家に預けるとかになったとして、月に一度会いに行っても、猫にとっては4ヶ月。
そんな速度でお前のその猫は時間を刻んでいくんだ。
その時間、出来ればずっと一緒にいてやってほしいなぁ……
去年の今頃祖母が亡くなった。
友人達と都内の居酒屋チェーンで行けもしない旅行の計画話をのんべりしていると母から「祖母が病院に運ばれた。すぐ帰ってきてほしい。」との連絡があった。
電話があった時点でもうだいぶ飲んでいたし、店から運ばれた病院まで結構な距離があったのでちょっと気の抜けた返事をしたら、めったに声を荒げない母親から恐ろしい勢いで怒られたので、本当にただ事ではないなのだと分かった。
酔いもどこかへ行ってしまった。私の腎臓はこんな時だけまともに働く。
祖母は痴呆がかなり進んでおり、「痴呆症」で検索すると出てくる症状の7.8割をクリアしていた。そして同棲している我々家族はみな疲弊していた。
病院へ向かうタクシーの中で「これはもう前と同じ祖母に会うことはできないのかもな」と痴呆の初期症状が出てきた時と同じことを考えていた。薄情な孫だった。
祖母と私はどうにも性分が似ているようで、祖母本来の性格も痴呆からくる性格も一切合切馬が合わず、喧嘩ばかりしていた。
常に祖母にイライラしてレス&ラップバトルをし続ける日々だった。無論泥仕合である。
(しかし“猛者”である祖母は、数分経つと喧嘩もその原因も何もかも忘れて「財布がない、誰かに盗まれたのかもしれない。」と深刻そうな顔で、3分前にしてきたのと同じ内容の相談を私に持ち掛けてきていた。)
だとしても祖母危篤にこんなに心動かされない自分に、祖母の危篤そのものと同じくらいショックを受けた。小4の時に飼っていたチビ(ジャンガリアンハムスター)の死の方が悲しく喪失感が大きかった。
あと15分ほどで病院につく、というところで母から「たった今亡くなりました。穏やかな顔です。」と短いメールが届いた。
毎日の仕事や家事に加え、祖母の介護で疲弊しギスギスしていた家族は心の余裕を取り戻し、家族の会話は祖母以外の話題が増えて家は昔のような居心地のいい空間となった。
特に祖母に一番心を砕いていた母は、かなり肩の荷が下りたようで、もともと多忙だった仕事の合間に楽しんでいた唯一の趣味にもかけられる時間が増え、比例して笑顔も増えた。
姉も在宅業務の合間に祖母の昼食や身の回りの世話をする必要がなくなり仕事に専念し始め、父も祖母の通院の足のために気を遣いながら会社を休まなくてもよくなった。
末子の私も祖母の遊び相手・話し相手という名の喧嘩稼業の看板を下ろし、平日の夜と土日の時間を完全に自分のために使えるようになった。(あと関係あるのか分からないが慢性鼻炎も治った。なんで?)
今年の夏には私の持ち込み企画として家族全員(4人と一匹)で那須高原へ旅行にも行けた。
家に残してきた祖母とその面倒を見る家族のことを考えて申し訳ない気持ちになることも、連れてきた祖母がどこかへ言ってしまわないか気を張ってみている必要も無いというのは、こんなに楽で楽しいものだったのかと悲しくなった。
夏の那須高原は猛暑や我々の苦労など素知らぬ顔で気持ちの良い風が吹いて、地面に木漏れ日が落ちていた。その中を走る我が家の犬も必要以上におやつを与える人間がいなくなり、3kg以上やせて草原が似合うボディになった。お前元はそんな感じだったのか。
昨年急に自由になってしまった私は来年、海外留学を控えている。
皮肉にも社会人になった後も、祖母の介護で実家住まいだったので、お金を使う暇も機会もなかったのが幸いした。
今までできなかった分、勉強してスキルを身につけてバンバン稼いで旅行に行きまくってやるわい!と意気込み荷物を整理している私に「やっぱりおばあちゃんに似てるね」と母が古いアルバムを見せてきた。
中には祖母が友人や亡き祖父と共に国内外、様々な場所を旅してきた古い写真が大量に挟まっていた。
最後のページにヨーロッパの古城の前でほほ笑む若い祖母の写真があった。
痴呆が始まる前の祖母も、私も、外へ出て新しいものを見聞きするのが好きだった。
もうじき一周忌なので気持ちの整理をつけるために書き出したら結構な量になったので、ここに載せて祖母(と私の精神の)供養とさせていただきます。
猫が死んだ。飼ってた猫。まだ若くて5歳だったのに。病気が悪化して急に永眠してしまった、今日は木曜日だけど、1週間前はどこも変わりなくて、ほんとにいきなり「体調わるい?」って思って病院行って注射して薬もらってからすぐだった。
あと「10年は生きるね」なんて、1週間前は言っていたのに。
朝、母親に聞いた時は驚いて駆け寄ったけど、涙なんてぜんぜん出なかった。もう既に固くなっちゃった亡骸を目の前に号泣するのかと思ったけど、込み上げて来たのは悲しみより恐怖だった。
1週間前まで変わりなく生きてた生き物がこんなすぐいなくなるなんて怖くて怖くてたまらなくて、1週間後には家族も、友達もみんな死んじゃうのかもと思ったら吐き気が込み上げて来て無理だった。
悲しみよりも胃と心臓が痛くて、恐怖でパニックになりそうだった、誰かに抱きしめてもらいたいって思ってた、ずっと。
ろくに泣かないまま、ただ呆然として半分くらい見ないふりをして埋葬した。
切り替えは上手くできた方だと思った。
何度も何度も朝起きるとその時のことを考えて、体調が悪くなった時、どうにかできなかったのか、なんていつまでも引きずって暗い気持ちになるくらいなら今まで過ごして来た5年間に感謝した方がいいだろうと思った。
で、今日、愛猫の写真をアルバムにするために写真を整理していたら、ふと、喉がやけに乾くことに気付いた。尿意の回数もよく考えたら増えてるかも。
ネットで調べなくてもいいのに調べた、一番上に大きな病名が出て来た。
でも客観的な自分もそこにはいて、項目は当てはまってないものもあるし、%的には他の原因のが高いし病院での検査も受けてない段階。冷静になれば「なんだこいつ、なにあせってんだ、不安なら検査うけてそれから考えれば?」とも思う。でもその逆張りも恐ろしかった、フラグに聞こえて背後から漠然とした不安の波が大きいやつが襲って来る。怖くて怖くてたまらなくなってネットの記事を見漁った。喉が乾くのは何時間もネットに噛り付いてるからだし、尿意の起こるのもトイレ行っちゃダメだと意識をしてるから。でも過食、と書いてあればお腹が空くのも怖くて、不安で、パニックだった。胃が痛い、ずっと。
乗り越えられたと思っていたのに、全然だ。猫の病気も腎臓で亡くなったおばあちゃんも腎臓だった、死があまりにも近く感じて怖くてたまらない。
1週間前までほんとに元気だったのに。
こんなことになる?いきなりガクッと精神が不安定になってしまって仕事も手につかない。
いや実は完治してないんですけどね。
私の場合早期発見だったので、1/3? か1/4くらいしか細胞が駄目になってなくて、一旦炎症が止まったので一安心なようです。
寛解(=このまま(治療をやめ)治る可能性もありますが、再発する可能性もあります。 再発しないように、治療の継続や定期的な検査が必要です・・・って言う意味だって、「完治 寛解 違い」でググって一番上に書いてありました)なのです。
なので完治とかね~~~し!エアプ乙!って同病のひとにお気持ち爆撃されたら嫌だな~~~と思いつつ、
私もこの病気になるまで寛解なんて知らんかったし・・・と思って、
以上説明文おわり。
社会人一年目でこの病気になって合計で2ヶ月ちょっと休職までしたので、
寛解して感慨深くて2年くらいを振り返ってこんなのを書いちゃいました。
以下備忘録なので長いぞ!
他部署の部長からBBQに誘われたり、同期みんなで金曜の夜から夜行バスに乗って富士急に行ったり、毎日面白おかしく過ごしてた。
上からも下からも出せるもの全部出し切ったころだった気がする。
何の気なしにトイレの中を見たら、メチャクチャ濁った赤茶色のおしっこが出ていたのが初期症状だった。
ゲロと下痢と発熱で朦朧とした頭では、アレ?いつの間にかウンコも出してたっけ?とか思って普通に尻を拭いて流し終わったんですが、
いやわたしうんこ出してねーわと思って、絶対母親に報告しとかなあかんと思ってフウフウ言いながらリビングまで這って出て行った。
※なんでもかんでも報告するくらい母親と仲良かったので
※わざわざそのためだけにマスクまでつけた
私はせんせいあのねくらいの軽~~い気持ちだったし、言うこと言えたしまた寝ようと思ってたんだけど、
母親がほっとかなくて、一日スマホとにらめっこして「茶色 尿 高熱」とかで検索してくれていたらしい。
私はチラッとググって、
「熱が出たら尿が色濃くなるときあるらしいし大丈夫だって~!」
とか軽い気持ちでいたんだけど、そのころには必死のパッチで調べてくれていた母親は「コーラ色(赤茶じゃなくてそう表すそう)の尿はどうやらIgA腎症という病気の唯一の自覚症状だという記事を調べて怯えて泣きながら大学病院まで尿検査と血液検査をしに連れて行ってくれた。
し、その後数値が悪くて一週間検査入院して腎生検とか言う苦行をした。
結果としては母親の言うとおりで、国家の難病指定のうちのひとつだったそれが私の病名であるわけだ。
癌みたいにステージで分かれていて、ステージによれば透析治療をしないといけなくなるらしいから結構なかなか大それた病気だ。
やっかいなのは痛みも何もないため、私みたいに血尿を出して気づくか、もしくは本当に腎臓が駄目になるまで気づかないこと。
なのですぐさま入院することになり、この病気によくある治療法で「扁摘パルス」というものを行うことになった。
まず耳鼻科に行って扁桃腺を摘出しましょう(1週間+自宅療養一週間)
そして腎臓内科に3週間入院し、ステロイドを体に入れて腎臓の炎症を抑えましょう。
というのがその治療法なのだけど、何で腎臓にのどが関係あるの?っておもうでしょ。
私も思った。し、これで予後がよくならなければ今度は鼻うがいとかもしてみないといけないらしい。
なに?なんで?と思うでしょ。
まぁ細かい話はググってほしいんですけども、
要は鼻とか喉にいて普段は外からのウイルスから身体を守るIgAという抗体が、熱や炎症を出したときにちょっとおかしくなってしまい、
その状態で血液に乗って腎臓までやってきて、腎臓の細胞をウイルスだと思って一生懸命攻撃し始めちゃう病気らしいです。
※これは
明らかに分かってなさそうな馬鹿顔をしていた私にメチャクチャ噛み砕いて教えてくれた結果なので多少違っていても怒らないでください。
なのでIgAが増えすぎるとよくないらしくて、そこで扁摘パルス治療という、その抗体の巣になっている扁桃腺を摘出しちゃえ~&炎症を抑えるためにステロイドだ~という治療法が出てくるのである。
なるほど、そっちのほうだったか。
ってことは一生R-1ヨーグルトは食っちゃ駄目なのか?
それはよく分からない 知ってる人教えてほしいです。
yahoo知恵袋とかでもIgAとかで調べてもR-1ヨーグルトの話は出てこないし・・・。
まぁ細かい病気や治療の話は専門家に聞くとして、入院なんですけどこれがまぁ~~~~~痩せた。ほんとに。6kg痩せたわ。
塩分と高たんぱくが大敵なので、もちろん間食無しで戦時中?みたいなご飯を食うわけだし、そりゃそうよね。
しかもおやつが食べられないしwifiも勿論ないので楽しみといえば院内図書館と3回のご飯とシャワーのみ。
ちなみに、ステロイドの前の扁桃腺摘出手術はそもそも喉の膜を取るわけなので瘡蓋ができてもずっと喉が痛ェ~~のでご飯が食えない。
しかも食えても銀のトレーにバナナドン!リンゴカン!って投げ入れられて動物園のサルの方がまともなもん食ってたなってくらい劣悪な環境だったので、ステロイドのために入院した大学病院のご飯が泣くほど美味かった。
しゃばしゃばしたカレーでも3日前から献立表見てカレーだ~~!って心躍らせていたのはたぶんあの広い病院内でも私くらいじゃないかしら
※お母さんにためしに一口食わせたらウワ・・・カワイソウ・・・ってまた泣かれたのでたぶん病院飯はマズイです
そのあと副作用で全然満腹にならなくて8kg太ったので、ダイエットのためだけにもう一回3週間入院したいなと思えるくらいだった。
まぁ病院や治療の思い出もいっぱいあるのだけれど、結果として私は「早期発見」のため運がよく、「扁摘パルスという治療法が驚くほど身体に合」って、「会社の理解があって」治療に専念できて、かつ、実家暮らしのためにもともと「無茶な食生活ではなかった」というラッキーが重なって無事寛解と相成った。
正直母親と過ごしてなかったら血尿がでてても病院に行っていなかったし、そもそも食生活が乱れまくっていたので早い段階でもっと悪いステージに進んでいたのではないだろうか。
家族のサポートがあってこそだったな~運がよかったな~と思っている。