はてなキーワード: 背理法とは
あーあ。
あのね、まずあなたが「pが素数のときp^4+14は素数でないこと」をはじめに「示した」わけですよ。
それに対して、私は「まったく同じロジックで、間違いであることが明らかな『pが素数のときp^2+4は素数でないこと』」を示したわけです。
つまり、あなたのロジックは間違ってますよ。と言ってるんです。
それ背理法とは言えないよ、証明になってないよ、と。わかりまちゅか?
あなたがはじめの「背理法()」で示したのは、「q=p^a+b(pは素数)の時、pとbが互いに素でないならばqは素数ではない」という、ごく当たり前の話でしかないんですよ。
「pが素数のときp^4+14は素数でないこと」を示せていないんです。
https://www.ajimatics.com/entry/2021/03/22/174633
これについていたブコメ
id:versatile 「実数の中には、「2乗して0になる数」というのは0しかありません」の証明ってどうやるの?
メタブを見に行ったら、そういう数が存在した場合は逆数をとると矛盾が引き起こせるよっていうスマートな背理法が書かれてたんだけど、これはかなり危うい議論に見える。
というのも、その議論は0でない実数は必ず逆数が取れるよねっていう前提を所与のものとして扱っているわけで、じゃあその「0でない実数は必ず逆数がとれる」って命題はどうやって証明するのという話になる。
そんなの当たり前の話じゃないかと感じられるかもしれないが、我々の証明しようとしている「二乗して0になる数は0以外にない」という命題も同程度には当たり前のことであって、つまりこれは当たり前から当たり前を示す、基礎論的なところの問題なのである。
こういう議論では、話の土台が何より重要で、よく知られた性質の中でもどれは使っていいのか、どれは使ってはいけないのか良く整理してから始めなければいけない。
なぜなら証明済みの性質を贅沢に使って基礎的な部分を証明してしまうと、その元の議論のほうの前提に実は今証明している命題が間接的に入っているんだよということになりかねない。
だから、「当たり前のものを示す時」には、議論が「逆流」しないか十分気にする必要がある。
で今回の問題が具体的にどう引っかかっているかと言うと、実数には有理数という土台があって、有理数は整数という土台から作られている。
ここでもし、「二乗すると0になる0でない数a」が【整数の中に】含まれていると、有理数上で、(1/a)*(1/a)の答えが定義できなくなってしまう。
そうなるとそもそも有理数上の掛け算の定義が壊れているということなので、実数の構成どころの話じゃない。
つまりこの掲題の疑問は有理数に掛け算構造を与える際にこそ気にすべき問題なのである。
逆数という概念は掛け算の成立後にようやく有効になる話であって、その前段階にあるはずのこの疑問に対して逆数の性質を使ってしまうのは若干論点先取というか、真芯を外している回答のように思う。
もちろん実数の話であるからには土台にある有理数の基本的な性質は所与のものであるという考え方も間違いではないけれど、それはこの疑問の「心」が見えていないんじゃないかな。
で実際どうやって証明すべきかというと、まずは上述のように【整数で】この性質を示すべき。
もっと言うと整数の土台には自然数(ここでは0を含む)があるので自然数上で非0×非0が非0になることを示す。
そうして得られた性質を整数、有理数、実数へと順々に拡張していく。こういう流れになる。
自然数上での証明は、0でない自然数には前者関数Preが適用できることを用いて、
a*b=a*Pre(b)+a≧a>0
という感じで示せる。(もちろんもっと厳密にやるけどね)
整数は自然数のコピーを貼り合わせてできている。自然数上での非0×非0=非0という性質から、整数上でも容易にそれが示される。
有理数は整数の分子分母のペアに約分という同一視を入れてできている。ここでも整数上の非0×非0=非0の性質を簡単に有理数上に拡張できる。
最後に実数は、有理数の無限数列を極限の考え方で同一視してできるので、有理数上の性質をうまく実数上にも持ってくることができる。
概要だけざっくりだけどこれを組み立てれば疑問への回答になると思う。
(道筋だけ最後まで立てられることがわかったら途端に興味を失うやつ)
【追記】
文章が長ったらしくて申し訳ないけど、やっぱ伝わってないね…。
前半部は、「当たり前のことを証明する時には当たり前の前提を無批判に使っちゃいけない」ってことを言ったつもり。
ブコメで貰ってる「両辺をaで割って〜」っていうようなのも、実は割り算の存在が無意識に前提とされているけど、零因子があるかないかっていうのは【割り算の構成のためにこそ】必要な話なんだ。
だから「割り算というものが存在する」って無邪気に考えることすらもこういう問題では危険だよと言いたかった。
《 追記 》
★ のことが間違っていることは、現実のデータを見ればわかる。次のようになっている。
後者の具体的な例は、政府(官庁)、日産自動車、資生堂などが挙げられる。これらの組織では、女性差別解消という方針があり、実際に女性管理職が多い。
仮に ★ のことが正しいとしたら、これらの組織でも、女性は自ら管理職になりたがらないので、女性管理職の比率は少ないはずだ。しかし、そうなってはいない。現実に矛盾。ゆえに、背理法により、★ のことは正しくない。
この話は公表データがあるにも関わらず、これまでプロの労働経済学者も導き出すことが出来ていない重要な指摘だ。
女性が昇進しないのは、女性に意欲がないからだ、という意見が人気を集めている。ショーンKY という人が主張して、はてなブックマークでは賛同する意見が多数のスターを集めている。
https://togetter.com/li/1659464
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1659464
これを見ると、はてなーがいかに女性差別主義者だらけであるかが、よくわかる。(漫画の問題でフェミニストを毛嫌いするのもそうだし、女性の労働環境をひどい状況にしておくのもそうだ。
――
話の要点を示そう。
ショーンKY という人が主張していることは、こうだ。
具体的には、こうだ。
「女性が所得や昇進で恵まれないのは、女性自身がそれを選択しているからであって、企業の側のせいではない。女性に意欲がないのが根本原因なのだから、女性が意欲をもてばいくらでも所得や昇進を得ることができる」
そのことを示すために、こう説明している。
・ 女性は昇進を打診されても断ることが多い。
これは何を言っているか、よくわかりにくいが、次のように反論していると考えると、わかりやすい。
・ 女性は昇進を打診されても断ることが多い。
← 女性が長時間労働ができないのは、福祉政策のせいではない。
以上のように、既存の意見に反論する形になっている。そうして、冒頭の ★ の結論を得ている。
――
しかし、 ★ の主張がおかしいことは、直感的にわかる。「長時間労働をしてもいいし、保育に金を払ってもいい」と思う女性はいるが、実際にはなかなか昇進できない。
では、ショーンKY という人の主張は、どこが誤りなのか?
――
「日本における女性差別は、米国における(往時の)黒人差別と同様だ。建前の上では、差別などは存在しないことになっているが、現実には見えない差別が残っているので、黒人や女性のための枠がもともと小さく絞られている」
なるほど、枠に入った黒人や女性については、かなり恵まれた条件が用意されている。しかしながら、現実には、枠そのものがごく小さな枠であるにすぎないのだ。だから、「枠のなかでは優遇されている」というふうにいくら主張しても、「もともと枠には入れないであぶれてしまう大多数」については何の意味もないのだ。
具体的には、こうだ。
日本の女性労働者の正社員枠は、もともと限られた量でしかない。東証の一部上場の大会社の新入社員でも、男女半々になることは少なく、たいていは男性の新入社員が大幅に多い。
そのせいで、あぶれた女性は、非正規社員や派遣社員になるしかない。そして、いったんこういうふうになった女性には、もはや昇進のチャンスなどは決して訪れない。「昇進を打診されて断る」のではなく、「初めから打診されるチャンスがない」のだ。
こういう状況が大部分なのに、「昇進を打診されて断る」という事例(枠内の事例)を持ちだしても、枠外の女性たちには何の意味もないのだ。
また、「欧米でも管理職は長時間労働だ」というが、それに当てはまるのは、重役クラスだけだろう。主任とか課長ぐらいだったら、長時間労働などはしない人が多いはずだ。せいぜい週に 10時間の残業ぐらいだろうから、そのくらいなら難なくこなせる人が多い。一方、日本では週に 20時間ぐらいの残業もざらだ。こうなると、ワーキング・マザーにはきわめて厳しくなる。
というわけで、重役クラスと、下級管理職とを、混同するべきではない。日本の女性労働者は、下級管理職にすらなれないことが多いのだが、そこを失念している。
また、米国では保育に多額の金がかかるというが、うまく解決策がある。ナニーと呼ばれる住み込みのベビーシッター(メキシコの移民など)を利用することができるのだ。
つまり、米国の(高所得の)女性労働者は、やる気があるからやれるのではなく、安価な移民労働者がいるから、やれるのだ。
ひるがえって、安価な移民労働者がいない日本において、「女性が働かないのは、女性にやる気がないからだ」と主張するような冒頭の意見 ★ は、てんで見当違いであるわけだ。
この点では、「日本の女性労働者がうまく働けないのは、日本の保育環境が劣っているからだ。ゆえに保育環境を改善したい」というふうに述べた安倍首相の方が、はるかに妥当である。
ショーンKY という人は、安倍首相よりもはるかに企業寄りであって、ほとんど女性差別主義者というのに近い。
――
以前のことだが、「保育園落ちた日本死ね」というふうに絶叫を上げた女性がいる。これに対して、ショーンKY という人はこう唱えるのだろう。
「あなたがうまく行かないのは、あなたには働く意欲がないからだ。すぐに辞職したがるし、昇進を打診されても拒むし、長時間労働も拒むし、多額の保育費を自腹で払う気もない。すべてはあなた自身の責任だ」
と。
「妊娠して辞職したのは、自分の都合ではなく、出産退職を会社に強いられたからだ。昇進の打診なんて、失業中なので、ありえない。今は、短時間労働でなく正社員になりたいのだが、保育園に落ちたので、就職できない。長時間労働を拒んでいるわけではなく、そもそも正社員になれない。金がないので、高額のベビーシッターも雇えない。また、低額のナニー(外国人労働者)もいない」
結局、ショーンKY という人の意見は、いかにももっともらしいのだが、現実から懸け離れた机上の空論であるに等しい。彼の主張は、要するに、こういう感じだ。
「パンがなければ、お菓子を食べればいいでしょ? お菓子を食べない本人が悪いのよ。アメリカの女性は、みんなお菓子を食べているわ」
しかし日本の労働者は、お菓子などはないのだ。もちろん、パンもない。そこで、「パンをくれ」と言っている。なのに、「パンがなければ、お菓子を食べればいいのよ」なんて言うショーンKY という人の意見は、あまりにも現実離れをしているというしかない。
「昇進を打診されたか断るな」と彼はいう。しかし日本の女性労働者の大部分は、昇進を打診されるどころか、非正規の派遣社員なのだ。こういう女性たちに向かって、「昇進を打診されたか断るな」というのは、「パンがなければ、お菓子を食べればいいのよ」というのも同然で、あまりにも現実から懸け離れているというしかない。
枠には入れない女性が大部分なのに、枠のなかだけの話をしても無意味なのである。
――
《 追記 》
★ のことが間違っていることは、現実のデータを見ればわかる。次のようになっている。
後者の具体的な例は、政府(官庁)、日産自動車、資生堂などが挙げられる。これらの組織では、女性差別解消という方針があり、実際に女性管理職が多い。
仮に ★ のことが正しいとしたら、これらの組織でも、女性は自ら管理職になりたがらないので、女性管理職の比率は少ないはずだ。しかし、そうなってはいない。現実に矛盾。ゆえに、背理法により、★ のことは正しくない。
参考記事
https://www.news24.jp/articles/2020/01/22/07582968.html
そんなことはありません。下記を参照。
アメリカでは基本的に「産前休暇」がありません。また、産後も「3ヶ月以内」で『職場復帰』するワーキングママが7割を超え、最短ケースでは「2週間」での職場復帰いう場合も!
アメリカの働く母親の場合、産後から復帰までの平均的な期間は10週間です。7割を超えるワーキングママが3ヶ月以内で職場復帰をしていることになります。
「もし A ならば B のはずだ、だが B ではない。だから A は間違いだ」
もし 組織的に戦士を育てさせて闘わせる なら、戦士は 子どもである必要がない はずだ。
だがエヴァや鬼滅では 子ども である 。だから 組織的に戦士を育てさせて闘わせる のは間違いだ。
合理性やリアリティを問う質問だが、前提の誤りを否定するための文で、限定された疑義は “組織的に戦士を育てさせて闘わせるように設定したクリエイター側” に向いていると言うことになる。
流行りの複数の作品を並べて問うていることから、文脈は「組織にとっての必要性」ではなく「作家にとっての必要性」にあると読める。前者のオタク的設定問題に限定して聞きたいなら、複数の作品を並べるような誤解を生む余計な付記をせずに、端的に個別の作品について
「ネルフのチルドレンはどうして子どもの必要があるんだろう?」
みたいに問えばいい。
そしてそれはググれば解りそうなことだ。ツイートで問いかける意味はない。「私が疑問なのは」のような表現はシンプルに自分がわからない状況ではなく、世間に問いかける構文としてよく使われている。ワザワザその表現を選択したことから、ツイ主の意図は最初から設定した作家側に物申すことだと考えるのが最も合理的に思える。
国語的なミスは「育てさせて」を「育てて」と書き誤ったことのみ。
… 以上が俺の推理だが、ツイートの短い文章からでは別の解釈も十分あり得ると思うし、誤読も表現の手抜かりもさほどのミスとは思えず、なんと言うかごく些細なことで国語力を判定して見下すしょーもないムーブに思える。
単に一般的に通りの良い用語を使っただけだろう。背理法で否定するつもりの題材はどのようなものであってもいい。本気でそれを推進する気がないのは明らかだから。
ホッテントリで話題に入れること自体が差別主義を助長させる… って言うつもりなら、杞憂だと指摘しておこう。それほどまでに人間の理性が信用できないものならば、義務教育のカリキュラムに「差別」を加えるべきだ。
元増田は「選択肢が増えるだけ」と主張する彼らの論法の弱さを指摘している。
短い文章なのでもう一度読み直してほしい。
彼らは具体的にデメリットの少なさを述べることはせず、選択してもしなくてもいいから問題ないでしょ? のように自由の側面を持ってゴリ押ししてくる。そういう力技的態度への批判だろう。
より厳密には「フェミニズムの論理的な誤りを認めない事が可能である」の方が正しい。
もし、そこから元増田の論理を導けるなら、「フェミニズムの論理的な誤りを認める事が可能ならば、必然的に誤りを認める」ことになってしまう。詳しく説明しよう。
以下、「フェミニズムの論理的な誤りを認めない事が可能である」ならば「フェミニズムの論理的な誤りを認める事が可能でない」が成立すると仮定する。
命題 p を「フェミニズムの論理的な誤りを認める」とすると、
◇¬p → ¬◇p
が成立する。対偶もまた真なので
◇p → ¬◇¬p
公理 ¬◇¬p = ◽︎p より
◇p → ◽︎p
したがって、「フェミニズムの論理的な誤りを認める事が可能ならば、フェミニズムの論理的な誤りを必然的に認める」が成立する。
さて、元増田で省略されている主語は、"フェミニストは" だと思う。そうすると、
フェミニストは誤りを認められるなら必ず認めるとなってしまうのだが、フェミニストはそれほど誠実な集団という事でよろしいか。さもなくば背理法により元増田の主張「フェミニズムの論理的な誤りを認める事が可能でない」は成立しない。論理的な誤りである。
背理法で考えてみよう
尚、フェミニズム批判への反論は↓のブコメの人気コメントより抽出する(従ってこれらの反論は全て実在するものであり、多くの場合支持されるものである)
https://anond.hatelabo.jp/20200808160355
https://anond.hatelabo.jp/20200722170240
①その誤りを指摘する人が居た場合:
①ー1:その指摘はランサーズにより委託された文章であると反論する
→指摘の論理的な正誤に関係無く、ランサーズによる委託であれば誤りである、従ってフェミニズムは無謬である
→根拠は無くともフェミニズムに論理的な疑義を提示するものは反フェミである
→指摘の論理的な正誤に関係無く、反フェミの主張は誤りである、従ってフェミニズムは無謬である
①ー3:反フェミも誤っており、またフェミニスト達より暴力的だと主張する
→反フェミが誤っているならば、フェミニズムは誤っていないという事である、従ってフェミニズムは無謬である
①ー4:論理的に誤っているのはフェミニストの一部であると主張する
→あくまで誤っているのは一部のフェミニストだけであり、また研究者や活動家はそうした誤りを指摘する責任は無い、従ってフェミニズムは無謬である
→代表者でなければフェミニズムの論理的な誤りを指摘する事は出来ない、従ってフェミニズムは無謬である
②その誤りを指摘する人が居ない場合:
→誤りを指摘するものが居ないという事は誤りは存在しない、従ってフェミニズムは無謬である
⇒すべての可能性について、「フェミニズムは無謬である」を導く事が出来た。これは前提(フェミニズムに論理的な誤りがたった1つでもあったとする)と矛盾する
さて、この様にしてフェミニズムに論理的な誤りが無い事を証明できた
もっとも、論理的な思考能力がある人なら分かると思うが、上記は正確には「フェミニズムの論理的な誤りを認める事は不可能である」の方が正しい
そしてこうした論理的に無敵である、論理的な誤りを指摘する事が出来ない命題の身分は、論理的に考えられる人であれば当然理解出来るだろう
IT分野に詳しい人が多いはてなであればこう表現した方が分かり易いかも知れない
仮にフェミニズムに論理的な誤りがあったとして、それを見付ける事は出来ない
何故ならフェミニズムには①ー1~5の様な、バグの発見を妨げるコードが内蔵されているからである
これらのコードはバグを発見するテストを実行した際、「指摘はランサーズによる委託です」「指摘者は反フェミです」「反フェミも誤っています」といったダミーのエラーを出力し、バグを隠蔽する
当然ながら、こうしたバグ隠蔽コードは①ー1~5の他にも大量にある
例えば先日のananのSEX特集の件で、それらが環境型セクハラではないのか(同じ条件を満たす2つの事象の片方は環境型セクハラに認定し、片方は認定しないフェミニズムには論理的な誤りが有るのではないか)という疑義に対し
フェミニストの一部は「不快だと思う男性がananに対して声を挙げればいい」と応答した
これもまた、フェミニズム内部のバグを発見するテストを「ananへの抗議」へとすり替え、バグの発見を回避するコードである
「指摘者は自分は不快だと思っていないがフェミニズムを叩きたいが為にこうした疑義を出す」等のエラーを出し、フェミニズムの論理的な正誤は問題から外される
フェミニストによる他の応答も多くは、フェミニズムの論理的な誤りの検討に踏み込まない(あるいは、踏み込むのを防ぐ)ものだった
フェミニズム内部にはこうしたコードが大量に存在し、フェミニスト達はこうしたテクニックに非常に長けている
anond:20200609071250 はそのように書くべきだ。
何故なら、彼が(彼女が?)「子供を性的にみる内心の自由はない」と主張するための根拠として示される以下の事柄は、「子供を性的にみる」かどうかに拘わらず、すべての内心の自由に該当する事柄だからだ。
憲法19条で保障されている内心の自由は、国家が内心に干渉することを禁じる規定で、私人間では適用されない(三菱樹脂事件最高裁判決)
従って、「内心の自由は私人間では適用されない」事が或る内心の自由(子供を性的にみる内心の自由)が無い事の根拠になるならば、
「内心の自由は私人間では適用されない」事はこの世のありとあらゆる内心の自由が無い事の根拠にならなければならない。
これがいくら可笑しな主張に見えても、論理的に考えればそうなる。
では何故そうなるのか?選択肢は2つ。「直観と反していても「あらゆる内心の自由は無い」は真である」か、「前提が偽である(背理法)」か、どちらかだ。
その後の文は数値は出るものの結局は抽象論に終始していて余り意味が無い(ついでに言えば、増田に付いたブコメも同様)、そもそもあなた達は、具体的にどうしたいのだろうか?
児童性愛者であることが判明した人物は直ちに強制的な”治療”と”隔離”を受ける社会へと現在の社会を変えたいのか(「子供を性的にみる内心の自由はない」という強い表現が有意味である為には、その位しなければ成り立たない=そこまでしないなら「子供を性的にみる内心の自由はない」を成立させられない、と思うのだが)
あるいは児童型のラブドールの製造を規制したいのか、それとも児童性愛者に罵声を浴びせても正義である社会にしたいのか、イラストや虚構も含めて児童の性を思わせる表現(直接的でない場合も含めて)を規制したいのだろうか?
なんというか、具体的に何をやるのかを伏せて、「子供を性的にみる内心の自由はない」などと曖昧な事を主張して印象を上へ下へ動かしてみたところで、実際的には何も言っている事には成らないのではないかと思うのだが、どうなのだろう?
・報道されてる人たち全員が“ワクチンの”重い副作用が起こってるのではない。
・HPVワクチン副作用だと言われてる人たち全員が本当にHPVワクチンの副作用を患ってるわけではない
は言えても
とは言えないはずだと私は考えている。
極限的に考えて、副作用が出てない集団と比べてほとんど0%の割合だとしてもそれは、統計的なマクロな視点の話であって、個々人に視点を当てたミクロな視点の話ではない。つまり、副作用がゼロ人ということとは結びつかない。
・HPVワクチン副作用が起こった人数は地球でゼロ人という個を指したものではなくて、母集団から統計して、副作用はそれほど起こっていないはず
ということであると考える。
科学は証明されなかったらその時点ではなかったこととするという体制をとっている。アイデアは無限にそこらへんに転がってるからだ。於保方さん事件がわかりやすいが、発明の案を出した人ではなく、発明を証明までできた人が評価される仕組みを現代科学界ではとっている。
つまり、今科学で証明されていることというのは、「HPVワクチン特有の副作用がある」ことが証明できなかったという事実から「副作用は(ほとんど)ないはず」という事実を導いたことであって、「副作用がなかった」証明をしたわけではない。背理法的な導き方だ。
言葉の揚げ足取るようで悪いが「HPVワクチンで副作用が起こることはない」とまで完全に言い切ってしまっているのは非科学的であると思う。
科学を盾にしてるのだから、様々な背景や前提を取っ払って必要な修飾まで捨てた文章を使わないで欲しい。とてもデリケートな話題であるということを胸に刻んで言葉の端々まで気を使っていただきたい。
あと、副作用の証明というのはわかりやすいバイオマーカーがあるわけではなく、患者のワクチンを打った前後の状況(社会的背景も含めて)、ワクチンを打った時の反応などを総合的に加味して診断されているものであり、副作用と診断する体系的な指針があったとしてもかなり不確かさを含んでしまうものであると言えよう。
100%それが正しいなんて言える段階まで医学は進歩していないと思う。
ここまで何が言いたいのかというと、
・マクロ視点的にHPVワクチンはほとんどないと科学的に締められたのは間違ってるとは言えないだろう
・ただ、それはマクロな話であって、ミクロにゼロ人だと言ってるわけではないから病院に行った全員が副作用被害者な可能性はないとしても、目の前の患者一個人を100%副作用がないとまで断言できるものではないはずだ。
100%副作用がないと断言できない、つまり100%副作用があるとは誰も一患者に対して断言できないということは、万一副作用が(本当に)起こってしまっている人は極めて不利な立場に立たされてしまうのだけど、このことを認識してない推進派が多いと感じる。
つまり、本当に副作用を受けた人は完全ゼロとは言えないはずなのに、副作用が集団的にほとんどないという方針が打ち出されると、副作用を受けた人が副作用被害だと認定されて補償される可能性はゼロに近くなる。
そもそも、その方針が打ち出されなかったとしても補償を受けられるほどの証拠を証明するのが難しいが、逆に証明を求めている側も補償が受けられない証明をしているわけではなく背理法的に導いているだけだ。
だからワクチンの補償ってかなり不確定だし、制度として現行あっても信用できるものじゃない。だから安心して受けられるっていうものじゃない。
もし、HPVワクチン接種を推し進めるなら、この完全に片側が不利な状況をきちんと把握した上で、自身の行動がマイノリティを無視しているがマジョリティにとっては利益になるものだという現実をきちんと認識して、活動してほしいと思う。
わたしは、この非対称性についてはどうしようもないと思っており、ただどうしようもないからといってそれを完全に無視されるのには怒りを覚える。
どうしようもないけど、統計的にはこっちの方が多くの人を救えるからということでワクチン摂取を推し進めるのに反対はしないが、そのどうしようもなさと向き合おうとせず認識すらしないのはどうかと思う。(もしかして認識しながら公共の福祉のために黙ってる?それはある意味肝座ってるわ…)
被害者は一言どうしようもないだけでは終わらせられないから自分たちのことを主張するのは当然だ。
わたしは思うのだが、HPVワクチン副作用だと言われてる人たちが副作用が原因でないというなら、その本当の原因をつきとめ症状を治してあげたら良いと思う。
その症状が、副作用か副作用じゃないかに関わらず治療は適切にされるべきだ。ただ、これを適切にできる医者は、ほとんどいないだろう。これも副作用被害者が大きく声をあげる一因になっていると思う。
こういった人たちをきちんと救う方向へはま動かず、ワクチン推進を推し進めてたら副作用被害者(だと思っている)の人たちはそりゃ反対する。ガン無視と同じだものね。副作用被害ないっていうなら困ってる人たちが副作用被害でないならないなりに治療を受けられるような活動も並行しないと正直都合いいなと思う。
副作用被害者の一部の集団に新種の自己免疫疾患かもしれない結果が出ている。
まだまだ、医学は進歩途中であり、すべてがわかっているわけではないはずだ。それをきちんと認識してほしい。(だからもちろんこの新種の自己免疫が副作用由来かどうかも本当に体に悪影響を及ぼしてるかもなにもかもまだ断言できるものではないという前提である)
過去有名な自己免疫疾患である多発性硬化症や今は認められているその他の病気がヒステリー扱いされていた歴史があったことなどを踏まえて、今一度自分の行動を振り返ってほしい。
自分のわからないことを患者が悪いとしてなすりつけるのではなく、己の限界を認識し、わからないことはわからないときちんと言ってほしい。
自分のわからないことを心因性などとさも原因が分かったように言うのではなく、現在自分のところでできる検査では原因が見つかりませんでしたとただ起こった事実だけを言えばいい。
科学的基準と照らし合わせて患者に心因性って診断つけてる人っているの?原因が見つからなかった→心因性っていう自分が世界の全てをわかってます的飛躍的論理の医者それなりにいない??
科学を盾にするのはいいが、盾にするならするなりに論理を通してください。大事な前提や修飾を省いたバズりやすい文章で人を惹きつけるようなことはしないでください。
あとこれは個人的な意見だけどワクチンって体質的にワクチン無理な人除いて全員に受けさせることによって集団を守るってものだと思うから、個人の選択や責任をそこにそんなに問わず、起こったリスクもコストのうちだと精算できるくらいの仕組みでいてほしいと思います。個人個人の治療の選択に関しては患者に多少の責任があっても、できるだけ多くの人が打った方が効果が出て更に進学や渡航の際に聞かれる類のものは個人責じゃないっしょー
「青目が1人以上いること」
だけではないよ。
「村人全員が「青目が1人以上いること」を知っていること」
も与えているよ。さらに言えば、
「村人全員が「村人全員が「青目が1人いること」を知っていること」を知っていること」
も与えているよ。
実のところ、この問題を解くにあたり必要な、旅人が与えた真の情報は、
「村人全員が「村人全員が……「村人全員が「青目が1人以上いること」を知っていること」……を知っていること」を知っていること」
100人だとあまりに長くなるので5人くらいで考えてみよう。5人でも100人でも本質は変わらないはずだよ。
「村人全員が「村人全員が「村人全員が「村人全員が「青目が1人以上いること」を知っていること」を知っていること」を知っていること」を知っていること」
となる。
「村人全員が「村人全員が「村人全員が「青目が2人以上いること」を知っていること」を知っていること」を知っていること」
にアップデートされるよ。入れ子が1個減って、代わりに青目の人数が1増えたね。
なぜそうなるかというと、
「村人全員が「青目が1人以上いること」を知っていること」+「昨日、離脱者がいなかったこと」
「青目が2人以上いること」
これは簡単な背理法で、青目が1人しかいないとすると、その青目の人本人が周りの状況を見て、「ああ、俺なんだ」と気付けるからだね。
3日目には
「村人全員が「村人全員が「青目が3人以上いること」を知っていること」を知っていること」
4日目には
「村人全員が「青目が4人以上いること」を知っていること」
5日目には
「青目が5人以上いること」
がわかり、村人は全部で5人なので自分含む全員が確実に青目だと分かって、村から出て行く、ということになる。
【追記】
本題とは何の関係もないけど、この問題、「吸血鬼の目のパズル」にしたら面白かったんじゃないかと思うよ。
それかなんか吸血鬼の弱点で閉ざされた場所という設定にして、赤目の吸血鬼はちょっとでも弱点に触れたら完全消滅するけど、青目ならそれに耐えて逃げられる。
(『本書の概要』で述べるとおり専門的すぎるため省略)
●『人口過剰』
p.176 人格影響説…非同一性問題→非人格的総計説、非人格的平均説…新たな理論Xを求める。
p.181 非人格的総計説は…とにかく人間を増やすべきだという「いとわしい結論」と、まだ存在しない人間を対象とする誤った前提を否定できる。ただし、人口のサイズに対するガイドラインはなくなる。非人格的平均説は…人間の出生に条件を付ける「単純な追加の問題」を否定できる。…非人格説は幸福の最大の総量/平均値ではなく、不幸の最小の総量/平均値を目指すべきだ。よって、理想的な人口はゼロだ。
●『段階的絶滅』
p.191 高齢化。とくに一部が「最後の人類」となることはQOLを大幅に低下させる。
p.194 現存の人々のQOLを良くするために新たに生命を作ってもよいか。また、その条件は。
p.195 総計的人格影響説、平均的人格影響説…不幸から見た場合、平均説は明らかに誤り(QOLが悪い人生が60億あるより、120億ある方が悪い)。総計説なら部分的に許される。
p.198 平均説・総計説とも功利主義に対するのと同じ批判を受けうる。→権利・義務論:厳格な説ならすべての子作りは許されない。厳格でない説なら部分的に許される。
●『絶滅』
p.202 小惑星の衝突といった外的な脅威、持続不可能な消費、環境破壊、疫病、核兵器、生物兵器。
p.204 ①皆殺し②「最後の人類」への害悪③人間がいないという状態…①は明らかに悪い。②は最後の世代の方が、最後から2番目の世代より、未来への願望・欲望が絶たれるという点で害悪が大きい。ただし、これは絶滅が早いほどにいいという議論と矛盾しない。③道徳的主体や理性的思考者がいなくなり、多様性もなくなる。それらの受益者はいないし、「永遠の相のもとで」価値があるか不明だ。
○第7章『結論』
p.210 「道徳台帳」という功利主義の理論を退けるピーター・シンガー。「失望主義(反失望主義」を退けるニルス・ホルタッグ。
p.211 そもそも反直観的だというのは判断材料として有力ではない。…この結論(反出生主義)が反直観的という理由で否定し、背理法的に非対称性を退ける。…快楽の不在は悪で、苦痛の不在は「悪くはない」と見做すことはできない。さらに、支配的な直観は①他人に害悪を与えることを子作りに限って度外視している、②出産を奨励する直観は心理学的に歪められている、という問題がある。
p.214 背理法的に非対称性を論じることができると見做せば、我々より悪い人生を送る人々に、我々の直観を同様に反直観的と非難されることになる。
●『楽観主義者への応答』
p.215 楽観/悲観主義には事実、価値判断の2つについてがある。無論、反出生主義はどちらも悲観主義だ。
p.216 反出生主義の楽観主義的転回=避けられない絶滅を良いことだと考える。他の人々にとっては悲観主義的だ。
p.217 楽観主義者は悲観主義を苛立たしく思い、非難する。出生は「覆水盆に返らず」で、自分を憐れまず、いかに自分が恵まれているか考え、人生をフル活用し、喜びを感じ、前向きに考えなければならない…①人を元気付けるというだけでは正当とは言えない。②自己を憐れむことなく自らの存在を悔やむことはできる。何より、反出生主義はまだ生まれてこない子供のためのもので利他的だ。盆からこぼれてもいなければ、こぼれる必要もない。③自分の人生に満足すべきだという意味を読みとって「いかに自分が恵まれているか考える」ことは、自分に都合のいいように解釈することを必然的に伴い、そうしろという命令には全く説得力がない。反出生主義は苦痛の拡散をせず、なおかつ自分の人生をより悪くなくすことができる。④楽観主義は苦痛に対する妥当な否定ではなく、ただの無関心でしかない。明るい方向がつねに正しいというのは、ただの無根拠なイデオロギーだ。自己欺瞞を回避できれば、集中して取り組まなければならないのは、おおむね希望より逆境だ。彼らは幸せかもしれないが、だからといって正しいわけではない。
●『死と自殺』
p.220 存在してしまうということはつねに害悪だという見解は、死が存在しつづけるより良いということや、自殺がつねに望ましいということを意味しない。存在するものは存在しつづけることに様々な利害関心を持ちえて、人生を続けるに値しないほどの害悪は、それらの利害関心を無効化するほどでなければならない。
p.221 実際、存在することの害悪の大きな1つは死ぬこと(不死ではないこと)だ。
p.221 エピキュリアン:死は死ぬものにとって悪くない。死が来た時点でその主体は存在せず、よって死は経験できない。…①すべての条件が同じなら、長い人生は短い人生よりいい。②死んだ人間の願いは尊重すべきだ(もし死は害悪でないのなら、死後生じることで害悪ないことはない)。何より、③殺人はその犠牲者を害するという直観に反する。
p.222 ①存在することが害悪だと考えるひとさえ、同意なくその人を殺すのはその人を不当に扱っていると考える。②予防原則:エピキュリアンの見解が間違っていた場合、深刻な害悪がもたらされるが、反出生主義が間違っていても、害悪がもたらされることはない。
p.223 生前の非存在と死後の非存在は非対称的だ。人に歴史は個人の歴史から構成される。
p.223 「生前の」人物から奪うというのは…害されるのが「生前の」人物なら過去への因果関係が生じているという議論…死が害する瞬間は「つねに」または「永遠に」だ(例:「最後から2番目の大統領」は「つねに」、「永遠に」そうだ)。…デイヴィッド・スーツ「それは「純粋に関係的な」点において惨めであるということで、彼が害されているということは言えない」。
p.225 ともあれ、反出生主義はエピキュリアンを意味しない。エピキュリアン:死は害でも益でもない。→エピキュリアンの見解を退けるとすれば①死はつねに害悪である。②つねに利益である。③害悪である場合も利益である場合もある。…①②は明らかに間違い。反出生主義は③で、QOLの評価と、それが存在しつづけるのをやめるべきときの基準は、自己決定の原理によるべきだ。しかし、一般的な見解より合理的な自殺に寛容なことは確かだ。実際、西洋の文化のほとんどを含む多くの文化に合理的な自殺への大きな偏見がある。
p.228 一旦、誰かが存在してしまい、その人への愛着が形成されると、自殺は苦痛を引き起こす。せいぜい子供のいない人生の苦痛を比較することで和らげるだけだ。さらに、周辺の人への害が増えることがあり得る。
p.229 旧約聖書でヨブは生れてきたことを悔い、エレミヤはさらに堕胎してくれなかったことを恨んでいる。タルムードはヒレル主義とシャマイ主義の論争で、人類は作られない方が良かったという後者に軍配を上げている。
p.231 反出生主義は人間好きによるものだ。しかし、人類は自分からは絶滅せず、多数の苦痛が生まれつづけるだろう。これこそ、人間嫌いが反出生主義に達しない理由だ。…人々は反出生主義も子作りをやめることも受けいれないだろう。それが人間好きに由来するとは考えにくい。それは人間に対する悪意ではなくとも、存在してしまうことへの害悪への、自己欺瞞的な無関心によって行われている。
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○第1章『序論』
p.10 子供を産むことの決断には様々な理由があるだろうが、そこに存在することになる子供の利害が含まれているはずはない。
●『誰がそんなに幸運なのか?』
p.12 「生はあまりにも酷い。生まれてしまわない方がよかっただろう。誰がそんなに幸運なのか?」(ユダヤ人の格言)
「決して誕生しないことは、死ぬ運命にある人間にとっては最善の事柄だろう。しかし、このことは十万人のなかの一人の人間にだってほとんど生じない」(フロイトのジョーク)…「非同一性問題」→私たちはたしかに非存在がよりよい状態にあるとは言えない。しかし、存在するものについては、存在することは当人たちにとって悪いことだと言える。「これは哲学的なゲームでも冗談でもない」
p.15 生殖をするカップルは、苦しみを生みだす氷山の頂点にいる。遺伝的な起源の責任。=デレク・パーフィット「起源説」
p.16 反出生主義の偏見…子供嫌い、子供を持つことによる自由と財産の制限
p.17 出生の偏見…子供をもたないことは利己的で未発達→①子供は別の人間なのだから、子供をもつ動機は利己的でしかありえない。②(1)子供をもつことはしばしば不注意の結果でしかない。(2)生殖の衝動は原始的なものである。
p.19 全体主義者の政治団体は軍事的な理由で生殖を奨励する。民主主義国家も、つねに生殖を支持する層が勢力の大半を占めている。…あらゆる国家は移民より生殖により人口が構成されている方が正当化される。
●『本書の概要』
●『読者への指針』
●『存在してしまうことが害悪であるということがあり得るか?』
p.27 「非同一性問題」「未来の個人のパラドックス」…(ex)遺伝性の障碍
p.29 非存在は存在と比較できないため、存在することがしないことよりも「より悪い」と言うことはできない。…存在の害悪は単に「悪い」というだけで十分だ。
…誰かが死んだ方がマシだと考えるとき、自分の状態が良くなると考えるわけではない。存在しなくなる方が良いほど人生が悪いものである可能性と同じく、はじめから存在しない方がいいほど人生が悪いものである可能性はある。
p.31 誰かが存在していることとしないことを比較するのは、2つの状態を比較するのではなく、まったく別の事態を比較することだ。…障碍が耐えがたいにしろ人生を生きるに値しないものにするほどではない場合は、そうでない場合より難しいと考えられている。=生きるに値する人生において、存在するよりしない方がいいというのは矛盾だ。→これは「生きるに値する人生」という表現の多義性が原因だ。
p.32 「生きるに値する人生」は実際には「生き続けるに価する人生」だ。だが、問題は今はまだない人生であり、これに「生きるに値する人生」という表現を使うことはできない。「始めるに値する人生」を始めない方がいいというのは矛盾だ。
p.34 道徳的な問題に関わる意味で、人が存在するようになる過程は長く、段階的だ。
p.40 非存在に苦痛がないことはいいことだと言える。可能性において存在する誰かの利害で判断することができる。我々は、自分たちについて存在しなければよかったのにと仮定することができる。
p.42 人々を幸福にする積極的な義務があると考えている人でも、幸福な人々を存在させる積極的な義務があると考える人はほとんどいない。
p.44 非対称性は思考実験「遠く離れた(異国の住民の)苦痛と、無人の場所(無人島・火星)」(…非対称的な判断)で実証できる。
p.46 積極的な功利主義者は幸福を増加させようとする。そこにも①人々を幸福にすること、②幸福な人々を生みだすこと、の違いがある。①は倫理の要請だと言える。しかし、②を倫理の要請だとすると、個人の価値は幸福の価値から派生することになり、人々を幸福を生みだす手段だと見なすことになる。
p.52 つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力をもつ人を比較すれば、存在しないことの利点がつねに勝ることは明らかだ。回復するのは手段的な善であり、内在的な善ではない…という批判は成立しない。実在する人物について善がないことに「奪われていない」という判断ができるのは手段的な善のみだ。この区分は意味がない。
p.54 楽観主義者の快楽と苦痛の費用対効果分析…は「存在しない」場合との比較でなされていなく、無意味だ。…快楽に苦痛の2倍以上の値がある場合、「存在する」ことの費用対効果分析は成立する。しかし、QOLを決定する快楽・苦痛の割合、苦痛の下限の問題がある。何より、思考実験「つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力をもつ人」はつねに相対的に前者が勝る。
・『別の非対称性』
p.59 シフリン:より大きな害悪を防ぐために小さな害悪をもたらすことはいい。しかし(純粋な)利益をもたらすために害悪をもたらすことは悪い。よって、生殖は悪い。存在が利益をもたらすとしても、あらかじめその存在の承諾を得ることは不可能だ。また、その仮想上の承諾を想定することもできない。…①存在しなければ害悪を被らない。②存在することの害悪は耐えがたいものでありえる。③人生という害悪を逃れるには大きな代償を支払わなければならない。④仮想上の承諾はその個人の人格を無視している。…そもそも、出生が利益をもつことはない。
p.63 出生された人物の権利を生殖が侵害するということは、その権利を請負う人間はその時点で存在していないためにありえない…という議論は生殖の特別な特徴を無視している。害悪を被り「得る」ということで、特別な権利を認めるべきだ。なぜなら、存在しない権利がないということはありえない。…自律していない存在(=子供)にはより大きな利益をもたらすために害悪を与えていいというパターナリズム的な議論…は、子供とまだ生まれていない子供は異なり、出生は絶対に悪いということで否定できる。
p.64 フェーイゲ「反失望主義(antifrustrationism)」:選好が充足した場合も選好がない場合も等しくいい。悪いのは選好が充足しない場合だけだ。よって、出生は悪い。
p.68 自らの人生を楽しんでいるという理由で、存在してしまったことを良いことだと考える…もし存在してしまわなかったら、その楽しみを逃す人はいない。しかし、存在してしまわなかったことで、苦しみがなくなるのは良いことだ。
p.69 存在して良かったかどうかを間違うはずがないと考える…存在してしまった当人の存在が良い/悪いということは、存在してしまったことが幸福/不幸ということと同じではない。
p.72 人生の良さと悪さの差は、順番、強度・頻度、人生の長さ、閾値、で人生の質とは変わってくる。
p.75 ①ポリアンナ効果:楽観主義。人生の質を改善するらしく思われる要因のほとんどは、人生の質の自己判断にあまり影響を与えていない(例:体の各症状に対する自分の健康状態への判断がほぼ一致するのに、幸福への判断とはあまり一致しない)。②適応。③比較:幸福の自己判断は、実際は相対的な指標による。
●『人生の質に関する三つの見解のどれをとっても人生はうまくいかない理由』
・『快楽説』
p.81 人間は人生の大部分をマイナスの精神状態で過ごす…空腹、渇き、便意・尿意、疲労、ストレス、暑さ・寒さ。前述の3つの心理学的効果で無視されているだけ。さらに…持病・加齢:痛み・苦しみ、眠気、挫折感。災厄:アレルギー、頭痛、挫折感、苛立ち、痒み、寒気、生理痛・閉経後の火照り、吐き気、低血糖、発作、罪悪感、恥、退屈、悲しみ、憂鬱、孤独、無力感、喪失感、その他、被害感情全般。
・『欲求充足説』
p.84 精神状態について判断を間違うことはなくとも、欲求については間違うことがありうる(単に快楽を追求している場合は除く)。…欲求は当然、満たされていない時間の方が長い。また、欲求が満たされるのは一時的で、そもそも、欲求が満たされないことも多い。現状維持の欲求さえ、実現は不可能だ(老い、死)。
p.86 マズロー「つねに新たな欲求が生じる」。イングルハート「人間が永遠の幸福を得ることができるなら、何ら行動しなくなる」。マズローは人間はおおむね幸福で、不満足は病的状態だと言うが、ショーペンハウアーは不幸こそ人生の当然の状態だと言う。
p.88 欲求の充足までに困難があった方が、あるいは充足の過程そのものが良いという議論…は明らかに不条理だ。
p.92 「客観的リスト」は「永遠の相のもとに」ではなく「人間の相のもとに」構成されている。…40歳で死ぬことが不幸だとして、90歳でそうでないのは何故か? 「色んな芝生に生えている草を数えることに人生を捧げている男」(ロールズ)の人生は無意味だが、その視点と人類の視点は大差ない。
p.93 人生の質は「人間の相のもとに」判断すべきである、あるいは、具体的な背景に応じて判断すべきであるという議論…は明らかに不条理だ。
p.98 害悪に満ちた人生を、①すでに存在している人のためでなく、②功利主義的な目的でなく(また、そうであっても)、生みだすことはできない。人生の質の判断は当てにならず、よって、人生を続けるに値するかは別論だ。
●『子作り』
・『子作りの義務はない』
p.103 子作りの義務…①射程:子供を(1)何人か、(2)できる限りたくさん、持つ。②正当化の理由:(1)存在させられる人々の利害関心、(2)その他(他者の利害関心、功利性、信仰、等)。…存在させられる人々の利害関心によれば、子作りの義務はあり得ない。それ以外の理由ならあり得るが、それにしても相当に疑わしい。とくにできる限りたくさんの子供を持つべきだという場合は。
p.105 生殖衝動、子作りへの関心…「性交への関心」「親になることへの関心」と「子作りへの関心」を分ける。前2者に子作りは必要ない。
p.107 他者の関心…両親、部族・民族、国家。しかし、こうした他者の利益を適えることは、それによる当人の利益を適えることと表裏一体だ。
p.109 子作りへの関心は…これまでの議論から権利を制限されるべきだ。
p.113 子供を持つべきでない道徳的義務があるなら、子供を持つ道徳的権利はあり得ない。よって、子供を作る権利は(愚行権を含む)法的権利だ。
p.114 法的権利は道徳的義務と対立する場合、そうした方が良いという仮説を必要とする条件付きのものとなる。そして、阻却可能条件(子供を作るべきでない)がつねに適合する場合、その法的権利は妥当ではない。
p.115 政府が子供を持つべきでない道徳的義務を認めると、施策としてあり得るのは①権利を与えず自由放任する、②禁止する、のどちらか。①は権利を与えず容認するというのは矛盾で、いずれも積極的な②を包含する。②はその道徳的代償が子作りの禁止による利益を上回ることはないと思われる…非最大化主義的非帰結主義者の見解。
・『子どもを作る権利を意見の相違があるということに根拠付ける』
p.116 法的権利とその正当化にはこのことだけで十分だ。危害原理の必要条件:ある行為が害悪であるかどうか意見の相違がある場合は、危害原理の射程の外にある(例:人工妊娠中絶)。…ただし、奴隷制のように、ある行為が害悪か議論の余地があるだけでは許されないものもある。
p.118 危害原理の例外となる意見の相違は妥当/無条件のどちらか。奴隷制やアパルトヘイトは明らかに妥当ではない。
p.120 少なくとも反出生主義が最も優れた反論と比較して十分に検討されるまでは、妥当な判断のできる理性的な人々によって、意見を妥当に違えることができるかは結論付けられない。
p.121 少なくともリベラルな社会において子供を作る法的権利が撤回されるのには長い時間がかかり、そのときにはその意見は広く認められているだろう。それまで、新しい人間を存在させてはならない道徳的義務を認めつつ、子供を作る法的権利を認めることはできる。…実際、テイサックス病やハンチントン病のような遺伝性の病気、エイズのような感染病など、他の場面では許されないほどの害悪を与えることが、子供を作る場面では容認されている。
p.123 障碍…障碍は社会に構成されたもので、実際には障害(disability)ではなく不能(inability)だ。また、障碍の出生前診断は政治的に悪いメッセージとなるという「表出主義者」の議論…障碍が不能ということは、「より悪い」ということを否定するものではない。健常者と同じQOLを持つ障碍者も、さらなる障碍についてはQOLを低く見積もる。また、反出生主義はむしろ平等主義だ。
p.132 ロングフルライフ…訴訟は①子供を持つ法的権利に関する妥当な意見の相違。②QOLの評価は個人的なものだ(とくに現在のロングフルライフ訴訟は代理人によることが多い)。もし判例ができれば、もうQOLの評価は個人に独特なものではない。の2点の課題がある。
p.135 セックスは子作りの目的でなされる場合のみ道徳的に容認されるという多くの反論がある見解(オーラル・アナルセックス、レイプ、不倫、不妊症)を、反出生主義は「性倫理の反生殖的見解」として完全に退ける。
・『誕生の悲劇と婦人科学(gynaecology)の道徳』…『悲劇の誕生』と『道徳の系譜(genealogy)のもじり。
p.140 1人の子供を救うために新たに子供を持つという場合は…(a)自分たちの関心(interest)を満たすため、(b)今存在する子供に弟妹を与えるため、(c)家族、部族、民族、種族を大きくするため、(d)何の理由もない、という場合よりはるかに良い。これらは、他人を手段として扱ってはならないというカンティアンの命題によりいっそう当てはまる。