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【西郷菊次郎に関する史料の発掘と基礎的な分析を行い、その前半生における経歴の空白部分の解明を試みた。特に海外所蔵の新史料の検討により、横浜居留地での生活実態や、ジョンズ・ホプキンス大学での留学時代と恋愛、新納家との養子縁組、台湾淡水・基隆での近代水道事業の実施など、これまで知られていなかった彼の来歴の一端をうかがうことができた。さらに、京都市長時代の邸宅が、聖護院門跡内の「北殿」であったことを史料から裏付けた。 】
人文地理学や地誌学で業績ある同志社大学の佐野静代教授による新報告。
西郷菊次郎に関する新資料や知見を分析されている。
新渡戸稲造と西郷菊次郎との関係など、今まで知られていなかった事実を史料から明らかにされている。
昨今、大河ドラマ「西郷どん」でも、西郷菊次郎は注目の的である。
西郷菊次郎の子ども時代は、注目の役者今井悠貴が演じ、またナレーションの西田敏行が市長時代の菊次郎を演じる演出でも話題になった。
今までその来歴の詳細が不明な部分の多かった西郷菊次郎であるが、この研究は西郷菊次郎について知る第一歩となるだろう。
近現代史や明治維新、西郷隆盛について興味がある皆様には必読であると思われる。
]]>目次 [非表示]
1 日本の天台宗
1.1 天台密教(台密)
1.2 四宗兼学
1.3 止観行
1.4 所依
1.5 主要寺院(寺格)
1.5.1 天台宗(山門派)
1.5.1.1 総本山
1.5.1.2 門跡寺院
1.5.1.3 大本山
1.5.1.4 別格本山
1.5.1.5 その他の寺院
1.5.2 天台寺門宗
1.5.3 天台真盛宗
1.6 その他天台系宗派
1.6.1 天台宗系新宗教
1.7 教育機関
1.7.1 大学
1.7.2 天台宗系中学校・高等学校
1.7.3 養成機関
2 中国の天台宗
3 韓国の天台宗
4 社会運動
5 脚注・出典
6 関連項目
7 外部リンク
日本の天台宗[編集]
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
天台密教(台密)[編集]
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。
四宗兼学[編集]
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
止観行[編集]
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。
所依[編集]
法華経
涅槃経
大品経
大智度論
主要寺院(寺格)[編集]
天台宗(山門派)[編集]
総本山[編集]
比叡山延暦寺(滋賀県大津市)
門跡寺院[編集]
滋賀院(大津市)
妙法院(京都市東山区)
魚山三千院(京都市左京区)
青蓮院(京都市東山区)
曼殊院(京都市左京区)
毘沙門堂(京都市山科区)
大本山[編集]
関山中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町)
日光山輪王寺(栃木県日光市)
東叡山寛永寺(東京都台東区)
定額山善光寺大勧進(長野県長野市)
別格本山[編集]
毛越寺(岩手県西磐井郡平泉町)
瑞国海岸山観音寺(宮城県気仙沼市)
正覚山蓮前院安楽寺(茨城県常総市)
星野山中院(埼玉県川越市)
狭山山不動寺(埼玉県所沢市)
大鱗山雲洞院天龍寺(埼玉県飯能市)
浮岳山昌楽院深大寺(東京都調布市)
北向山常楽寺(長野県上田市)
宝積山光前寺(長野県駒ヶ根市)
龍谷山水間寺(大阪府貝塚市)
書写山圓教寺(兵庫県姫路市)
大山寺(鳥取県大山町)
契山大興善寺(佐賀県基山町)
六郷満山両子寺(大分県国東市)
その他の寺院[編集]
谷汲山観音寺(北海道河東郡音更町)
青柳山談義堂院龍蔵寺(群馬県前橋市)
星野山喜多院(埼玉県川越市)
谷汲山華厳寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町)
清香山寂光院(京都市左京区)
根本山神峯山寺(大阪府高槻市)
三身山太山寺(兵庫県神戸市)
補陀落山長尾寺(香川県さぬき市)
清水山観世音寺(福岡県太宰府市)
金海山大恩教寺釈迦院(熊本県八代市)
阿蘇山西巌殿寺(熊本県阿蘇市)
福王寺(熊本県山都町、宮司兼豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である)
天台寺門宗[編集]
総本山 長等山園城寺(三井寺)(滋賀県大津市)
天台真盛宗[編集]
総本山 戒光山西教寺(滋賀県大津市)
その他天台系宗派[編集]
聖観音宗
浅草寺(東京都台東区)
和宗
四天王寺
本山修験宗(寺門派系)
聖護院(京都市左京区)
金峯山修験本宗
金峯山寺(奈良県吉野郡吉野町)
浄土真宗遣迎院派
遣迎院(京都市北区)
妙見宗
本瀧寺(大阪府豊能郡能勢町)
粉河観音宗
粉河寺(和歌山県紀の川市粉河)
善峰観音宗
善峰寺(京都府京都市西京区)
天台宗系新宗教[編集]
念法眞教
孝道教団
鞍馬弘教
教育機関[編集]
大学[編集]
大正大学
天台宗系中学校・高等学校[編集]
比叡山中学校・高等学校
駒込中学校・高等学校
養成機関[編集]
叡山学院
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