はてなキーワード: 絶対的とは
ちょっと母親の借金癖や精神状態が似てる状況であったのでアドバイスにはならないけど、私の事を書いておきます。
その前に、あなたの状況はよく頑張っているし誇っていいです。
母親の心配や自分より大変な人が居ると言っておりますが苦労は人と比べるものではなく、絶対的なものなので
自分は苦労している、頑張っていると思って自分を大切にしてください。
現在は借金もできず、お金を貸さないので使えなくなっただけ。貯金できてない。
本人は浪費していると思っていないし、生きているならこれぐらい使うのが当たり前とか思っており
この考えは変わらないので変える労力を何か他に使った方がマシ。
ただ、家計状況は最低限把握するため(闇金防止の為)家計簿を付けるようにするのも1年ぐらいかかりました。
現在は月に1度家計簿チェックしていますがここに行くまでにレシート全部取らせて代わりに書いたり、毎日書いているか?
と聞いたりと結構大変でした。
それでも余った金はすぐになくなるので浪費はなくなっていないです。
部屋も片づけができず、たぶん、そういうのが苦手なのでもうあきらめています。無駄です。
お金が無いとなったら米渡したり、食品渡したりをしています。現物支給です。
電気ガス水道は今のところ止まっていないので何とかしているようです。
年金が少ないので将来は生活保護の上、老人ホームに入れとは伝えていますし、そのつもりです。
まだまだ書きたいことはありますが、あまり長くても見づらいのでここまでにします。
男の自分が社会人になった後、数社で受けたハラスメント一覧をまとめる。
社内で出来婚報告してた同期の△△君が先に昇進した際に言われたこと。
無計画に出来婚するような男が、果たしてマネジメント勤まると思っていたのだろうか?
なお、反論した場合「そんな言い訳ばかりだと永遠に彼女できないよ?」というカウンターアタックを食らう模様。
言われたときは「?」となったが、いざ終業まで待ってたら役職者の吞みに連行され、役職者(と飲み屋のねーちゃん)の前で一発芸をさせられたという。
「大丈夫、君はモテるよ」と訳の分からない励ましを受け、終電までおっさん達の酒(と粗相)に付き合わされる。
何がヤバいって↑のセリフを女性社員もいる前で役職者が普通に言ってたという。
どうやら俺と他の女性社員をくっ付けようと上司なりに画策したようである。(上司に言ってないけど俺は彼女持ち)
余計なお世話じゃ。
何が言いてぇんだこのオヤジは…?要は分りづらいと言いたかったらしい。
会社でのセクハラを相談した友人(と思っていた相手)から言われたセリフ。
関係あるか?なんでもかんでも男らしさに結び付けるのやめろやカス。その後絶縁。
おそらく、女性が受けるセクハラとは異なり、男のセクハラは直接的な性欲を向けられる類のものではない。(勿論そういうものもあるだろうが)
寧ろ「男性的魅力の欠如」を叩き棒とした人格否定が主なやり口なのではないかと思う。
つまり「モテないから○○が出来ない」のような根拠のない否定。
あるいは、「○○が出来ないからモテない」のような、現状否定と男性的魅力の否定のサイクルによって人格を否定し続ける。
憐れ被害者はその否定のサイクルによって永遠に追い詰められ、自信を喪失していく。
ただ、何となくヤバいな、と初対面で直感的に感じる相手は結構いた。で、結構な割合で実際にセクハラをしてきた。
言語化は難しいが、経験則的に以下のようなタイプは近寄らない方がいい気がする。
このタイプは苦労と努力によって現在を勝ち取ってきたという自負があるため、ナチュラルにマウントを取りたがる。
また、顔によってか努力してか、女を手に入れたという実績もある場合、男性的魅力によるマウントを取る可能性がある。
チー牛であるにも関わらず結婚できてしまったという故の選民意識を肥大させているパターンをよく見る。
このタイプは非モテ層に対しての造詣も深いのと、そもそもチー牛故デリカシーが欠如しているため執拗なマウントを取る可能性がある。
言わずもがな。このタイプは「男性的魅力」を絶対的なものとして信仰しているパターンが多く、セクハラとアドバイスの違いを理解できない場合が多い。
この手のタイプは相当厄介である。不都合な指摘を受けても「そんなんだからモテないんだよ」の一言を言えば済むと考えているため、建設的な議論は不可能と考えた方がよい。
金銭的に依存してる内は、親の意に沿わないことを要望するのは甘えなんですよね。
親世代の厳しい書き込みからはそう読み取れるし、少なくとも私はそう思って、学生時代は極端で古風で過干渉な親の下、従順に過ごしてきた。別に納得していたわけでも、割り切れていたわけでもない。言いつけの多くは世間様と乖離していたように思うが、反発すると衣食住やインフラを盾にとって蓋をしようとするので議論ができなかっただけだ。反抗期を自分で押し殺し、不満を熟成させた結果、こんなところでしんどさを噴出させている今の私がある。
子育て中の上司らがおおらかで柔軟に考えている様子を見ると、就職し自立した今も、よその子に対して妬みを覚える。
一方、親を要領よくあしらえず、言うことを聞きすぎた私が馬鹿を見ただけとも思う(子が多少好き勝手しても、結局見離せないのが親なんだな、という周囲の例を見ているとなおさら)。
いつまでも親はいない。この先、自分を導いてくれるのは他人。誰であれ他人と協力し合って生きていかねばならない。
そうもっともらしく説いたのは、ほかでもない親なのだが、ならば一般的な交友関係に支障がない程度には周囲と足並みを揃えさせてくれよ、と思うのは過ぎた願いだったのだろうか。
親だからといって絶対的に正しくないことは承知の上で、それでも立てるべきと従ってきた。リベラルな世の中では、不満を口にしようものなら自己責任と責められる。真面目であることはここまで報われないものかとびっくりする。
わかってますよ。アラサーにもなって理屈捏ねて、他責思考で悲観するのって精神的に幼いよね。過去は忘れて自分の人生を生きなよって言うんでしょ。
でも、私が成熟していくための段取りを邪魔したのは誰なの。抑圧されなければ、もう少し気を抜いて生きられたら、よその子に混ざって屈託なく楽しめたら、こんなに捻くれることもなかったかもしれない。生きづらくなかったかもしれない。
どうしてもそう思って病んでしまう。割り切るには失った時間が長すぎる気がするから。皆んなが当たり前に得てきた経験値が無いことが、自信を喪失させる。呪いを解くのは簡単ではない。
愛情は免罪符じゃないと思う。飼い殺しにしかならないこともある。間違った努力はどんなに頑張っても間違っている。うちはうち、も行き過ぎては無知による罪になる。分かり合えない親子は存在する。大の大人が夜な夜な一人泣いてしまうほど、相手の存在がストレッサーにしかならないことも。一緒に過ごすと常に緊張を強いられることも。こういう不満も言っちゃいけないと思ってたよ。罰当たりで、親不孝だと自分を嗜めていた。ずっと。
離れて暮らしているので、親に会うのは年に数回ほどだ。この先もなるべく親の顔を見ない毎日を望んでいる。病や不慮の事故で自活ができなくなるのが一番怖い。介護問題だって今から恐怖だ。介護疲れの心中は偶にニュースになるが、責任感の強さにむしろ感心する。私だったら、親を見捨てて自分だけ死ぬ。
学生のうちは親に従え、っていうじゃない。
だったら、将来的に親ガチャ失敗ってことで逆に切り捨てられても、それはそれでしょうがないよね?
子は親を選べないけれど、愛想をつかす自由くらいはありますし。
もし同じようなことで悩んでいる学生さんがいたら、子供の内は別に聞き分けなんて良くなくていいよと言いたい。この手の悩みは無数にあると思うけど、ここにも知恵袋にもある厳しい言葉はただの建前なので。
人の顔色読んでたら我は通せないし損をするっぽいよ、この世界は。何やかんや既成事実を作れる奴が強い。まあ、偉そうに言ってる私は何の責任も負わない、他人でしかないんだけどさ。
短命の理由として健康に絶対的な自負があるので体調不良が生じても病院に行きたがらない
高齢者の死亡は圧倒的に癌なわけで
これの発見が遅れる、見つかった時には終わってる
若い頃に体調管理を無視してきた連中は60過ぎて本格的にガタ来たら恐怖しかねぇのよ
んですぐに病院に駆け込む
このパータンを何人も見てきたw
差異派でリベラルフェミニズムで男女同権主義で事実に基づくフェミニズムが欲しい。
男女差を認めるというと、すぐ女性を家庭に閉じ込めたいタイプの人が騒ぐけど、経済力を強制的に手放させる人はDV気質だと思う。
私はXでネオリブのピルとのつきあい方さんの話すフェミニズムがいいなと思った。
女性嫌悪も男性嫌悪もなく、性嫌悪もない、先天的な男らしさや女らしさを否定もしない、かといって押し付けもしない主張が素敵。
表現の自由派でもある。
他にも女性の特性を活かし、評価されるようにしていくための案も良かった。
他にもピルつきさんの提唱するフェミニズムで気に入ったものがあるのだけど、長くなっちゃうので。
結局のところ、今のフェミニズム(主流はラディカルフェミニズムらしい)を支持できないのよね。
今のカバーはブラック企業もびっくりAKBもびっくりの魑魅魍魎の企業となった。
ごく一部の人間が会社を私物化し私欲を貪るあまりに歯止めが効かなくなった。
具体的に言うと、タレントであるさくらみこと夫の経営企画部の某幹部社員による会社の私物化。
この幹部社員は妻であるさくらみこの望みを聞いてこの自分の女を人気下位から上に
上げるためにあらゆる手段を使った。
企画を通したり却下したり案件を融通できる立場なので、全体イベントのメインに
起用したり、こいつの配信だけ毎回のように運営主導の企画だらけ。
当時絶対的な人気を誇っていた3期生を潰すためにすぐに火消しすれば丸く収まった
今思えば、3期生人気が存在する限りホロライブのTOPは未来永劫変わらないというのが理由であったのだろう。
それから星街すいせい、戌神ころねなどの人気メンバーとカップリングを繰り返し、
同接BOTによる視聴数水増しや歌動画などの再生数購入を繰り返し、全体イベント、運動会、年末年始企画
通常のメンバーにはありえない新衣装LIVEや告知LIVEなどありとあらゆるところで起用したことで
今では完全にさくらみこをTOPタレントにまで地位を上げることに成功した。
本人は完全に得意満面で、ホロライブを自分の思うがままにすることを決意している。
幹部社員は妻であるさくらみこに大量の案件などを投入することで実質自分の財布を潤している。
また会社のカネで一緒に国内、海外旅行するなど完全に半会社的行為であり会社の私物化である。
また、さくらみこの欲は際限がなく、自分にとって邪魔である存在、自分よりも登録者や再生数、人気が
対抗派閥として宝鐘マリンを中心とする、今まで通り仲良くやっていきたいという一派も全て自分に
ひれ伏させなければ気がすまない。信じられないほどの邪悪さだが事実である。
さくらみこに加担するのはそれまで案件を仕切ってきた白上フブキ、会社に弱みを握られ従うしかない
星街すいせい、さくらみこに性癖が近く自分さえ良ければ良い夏色まつり、自身も会社のチーフマネージャー
とほぼ事実婚状態の大神ミオ、その周辺の取り巻きであり消極的参加の大空スバルなど。
今後は全てさくらみこに媚びへつらう人間以外は事実上の追放をされる。
何しろこの会社は一方的な契約解除の前例が何度も有り、もはや権限を持つ人間の胸先三寸である。
さくらみこはグループに入る前はニコ生、FC2、dlsite等で性的な活動をしており、それを売り物にしていた。
湊あくあは谷郷社長と親しい関係に有り、自分が初期のホロライブに貢献してきたとの自負があるので、
さくらみこの企画よりも数字の出る企画はすべて潰される。やりたいことはできない。
夜空メルのように一方的な言いがかりにより契約解除を突きつけられ、”それまでの貢献に免じて”解雇ではなく卒業とすることにされた。
今後はさくらみこにとって最後に残ったグループが追放に追い込まれるだろう。
幹部社員を軽蔑し嫌悪している人間も多いが、自分もタレントと性的な関係になり、おこぼれを頂こうという
時価総額1000億弱の上場企業とは思えない。そもそもマトモな一流企業から出てきた経営幹部もいない。
一時期の某日本一のエンターティメント企業のような伏魔殿である。
さくらみこと経営企画の幹部社員を排除しない限り、この企業はますます邪悪に堕落し、最終的には崩壊するだろう。
また、この経営幹部はとさくらみこ裏では谷郷社長をバカにし、そのうち会長にさせて社長になると公然と発言している。
表ではいい顔をし、裏で他人の邪魔をし、蹴落とし、自分だけが全てを牛耳ろうとする。
勿論、一定階層以上の社員やタレントはこの事を知っている。知ったうえで何もしようとしない。
企画、案件を握るというのはこの会社ではそれほど大きな権力なのだ。
問題は、それほど大きな権力を想像を絶する邪悪な人間に握られたことだ。
この会社はもう救いようがない所まで来ている。
今のカバーはブラック企業もびっくりAKBもびっくりの魑魅魍魎の企業となった。
ごく一部の人間が会社を私物化し私欲を貪るあまりに歯止めが効かなくなった。
具体的に言うと、タレントであるさくらみこと夫の経営企画部の某幹部社員による会社の私物化。
この幹部社員は妻であるさくらみこの望みを聞いてこの自分の女を人気下位から上に
上げるためにあらゆる手段を使った。
企画を通したり却下したり案件を融通できる立場なので、全体イベントのメインに
起用したり、こいつの配信だけ毎回のように運営主導の企画だらけ。
当時絶対的な人気を誇っていた3期生を潰すためにすぐに火消しすれば丸く収まった
今思えば、3期生人気が存在する限りホロライブのTOPは未来永劫変わらないというのが理由であったのだろう。
それから星街すいせい、戌神ころねなどの人気メンバーとカップリングを繰り返し、
同接BOTによる視聴数水増しや歌動画などの再生数購入を繰り返し、全体イベント、運動会、年末年始企画
通常のメンバーにはありえない新衣装LIVEや告知LIVEなどありとあらゆるところで起用したことで
今では完全にさくらみこをTOPタレントにまで地位を上げることに成功した。
本人は完全に得意満面で、ホロライブを自分の思うがままにすることを決意している。
幹部社員は妻であるさくらみこに大量の案件などを投入することで実質自分の財布を潤している。
また会社のカネで一緒に国内、海外旅行するなど完全に半会社的行為であり会社の私物化である。
また、さくらみこの欲は際限がなく、自分にとって邪魔である存在、自分よりも登録者や再生数、人気が
対抗派閥として宝鐘マリンを中心とする、今まで通り仲良くやっていきたいという一派も全て自分に
ひれ伏させなければ気がすまない。信じられないほどの邪悪さだが事実である。
さくらみこに加担するのはそれまで案件を仕切ってきた白上フブキ、会社に弱みを握られ従うしかない
星街すいせい、さくらみこに性癖が近く自分さえ良ければ良い夏色まつり、自身も会社のチーフマネージャー
とほぼ事実婚状態の大神ミオ、その周辺の取り巻きであり消極的参加の大空スバルなど。
今後は全てさくらみこに媚びへつらう人間以外は事実上の追放をされる。
何しろこの会社は一方的な契約解除の前例が何度も有り、もはや権限を持つ人間の胸先三寸である。
さくらみこはグループに入る前はニコ生、FC2、dlsite等で性的な活動をしており、それを売り物にしていた。
湊あくあは谷郷社長と親しい関係に有り、自分が初期のホロライブに貢献してきたとの自負があるので、
さくらみこの企画よりも数字の出る企画はすべて潰される。やりたいことはできない。
夜空メルのように一方的な言いがかりにより契約解除を突きつけられ、”それまでの貢献に免じて”解雇ではなく卒業とすることにされた。
今後はさくらみこにとって最後に残ったグループが追放に追い込まれるだろう。
幹部社員を軽蔑し嫌悪している人間も多いが、自分もタレントと性的な関係になり、おこぼれを頂こうという
時価総額1000億弱の上場企業とは思えない。そもそもマトモな一流企業から出てきた経営幹部もいない。
一時期の某日本一のエンターティメント企業のような伏魔殿である。
さくらみこと経営企画の幹部社員を排除しない限り、この企業はますます邪悪に堕落し、最終的には崩壊するだろう。
また、この経営幹部はとさくらみこ裏では谷郷社長をバカにし、そのうち会長にさせて社長になると公然と発言している。
表ではいい顔をし、裏で他人の邪魔をし、蹴落とし、自分だけが全てを牛耳ろうとする。
勿論、一定階層以上の社員やタレントはこの事を知っている。知ったうえで何もしようとしない。
企画、案件を握るというのはこの会社ではそれほど大きな権力なのだ。
問題は、それほど大きな権力を想像を絶する邪悪な人間に握られたことだ。
この会社はもう救いようがない所まで来ている。
「SEXーバトル」なるゲームジャンルがあると聞き、DLサイトで人気の体験版を10個ほど落としたのだが、どれも非常につまらない。
カードローグのような超高速っぷりまではいかずともせめて普通のRPGと同じぐらいのテンポは欲しい。
ADVとRPGをモッサリUIで同時にやるようなゲームばかりで苦痛でさえある。
昔ながらのRPGに「敗北したらエロシーン1 勝ったらエロシーン2」という要素をつけたものばかりだ。
多少のゲージ管理要素はあれどやっていることはレベルを上げてバイキルトとルカニをかけて物理で殴るだけである。
表向きはローグライト風・カードバトル・TDなど多様なジャンルがあるように見えるが、結局はどれもレベルを上げて殴るだけであり奥行きがない。
昔のFLASHエロゲーでよくあった「睡眠薬を持った相手が起きないようにちょっとずつイカせる」の方がずっとマシなレベルで、リスクとリターンの概念が薄い。
ゲーム内の葛藤は「わざと負けてエロシーンを見るか、それともここはちゃんと勝って後からわざと負けに来るか」ぐらいであり、攻略しているという気分にはとてもなれない。
「チンコを思いっきり挿れたら俺もイッてしまうかも知れないが、ケツアナに力を込めることでイク前にイカせられる可能性に賭ける!」という感じの駆け引きを俺は求めていたのだ。
それはまるでSEKIROやブシドーブレードの如き、ギリギリの鍔迫り合いの中で、精子をかけながらの対話を楽しみたかった。
だが俺の求めるゲームはどこにもない。
令和にもなってFCレベルのRPGをやるような脳死人間でも攻略できるようにと虚勢を繰り返され、エロRPGはただレベルを上げることだけを攻略とする時間浪費装置と化した。
こんなのを有難がるのは時間が余ってしょうがない生活保護受給者ぐらいではないのか?
確かに需要が我が心中にあり、俺の中にさえあるならクリエイティブで想像力豊かな人々の中には絶対的なライフワークでさえありえるはずだ。
差別について議論するなら、以下のような内容は「文系」的には常識なので、わざわざ「賢い僕が発見したよ!」みたいに主張されると萎える。
・そもそも人間の思考(言語の構造)自体が、何かと何かを分けてグルーピングすることによってしか成立しないので、あらゆる区別を差別と呼ぶなら、極論すれば(たとえばニワトリをニワトリ、女性を女性と呼ぶことまで含めて)全ては「差別」であり、それが不当であるか否かは「程度問題」である。
・従って、通常は「世間的に見て『不当』と判断するもの」を「差別」と呼ぶことになっており、そのため一般的な用語としての「差別」という語には、「不当なものである」という含意がある。(従って自民党の付け加えは無意味であり、逆に余計な含意をもってしまうので有害ですらある。)
・図示するとこんな感じ。( /数字/ は その語の使い分けにおける境界線を指す。たとえば⑴は「A混沌(と呼ばれるもの)」と「B区別(と呼ばれるもの)」の間の境界線を意味している。)
ただし、何者も区別しない「A混沌」については、何も思考することができない、言語以前の領域なので、思考し論じる対象にならない。
通常ここに明確な境界線があると考えている人が多いがそれは誤解である。確かに、「時代や文化が変わっても、明白(に見える根拠)があり、人為が働かない(ように見える)弁別がある」違いというものはあるため、たとえば液体と固体、水と氷を分けることは明白に「B区別」であり人為が関与しないかに見えるのも事実だが、たとえば水と湯を分ける境界線が日本語と英語で異なり、色の弁別が言語によって曖昧であるように、「認識」が関与する限りそこに見いだされた「差」は人為的なものであり、人の「価値観(すなわち偏見)」から自由になることはない。その意味で「B区別」と「Cグレー」の差も所詮「程度問題」である。スポーツにおける男女分け、のように、かつては「B区別」と考えられていたものが、ジェンダー論の発展や女性の地位向上など諸々の状況から、「本当に合理的な区別であるか」が問い直されている、などの例は、「B区別」から「Cグレー」ではないかという議論が起きている例であり、逆に、近代以前は大人と一緒くたにされていた「子ども」を取り出して教育の機会を与え、社会で保護しようという風に変化したのは、「Cグレー」から「B区別」へと変化した例である。
ここを明確に区分できるというのは、いわゆる「ためにする」差別議論を行う人の大きな誤解である。この境界線は決して「明確に区分・定義」はできず日々揺らいでおり、またその状態がもっとも健全な状態である。あくまで、どこで線引きをすることが社会の安定と発展のために寄与するのか、を主眼として、「D差別(明らかに行ってはならない区分け)」なのか「Cグレー(判断がつきにくい、不当に見えるが法的な規制も行き届かない)」の判断は、常に慎重に検討される必要がある。その際、社会が全体主義的(全体の幸福のために少数の犠牲は許容される)なのか民主主義的(少数の意見も他の意見と同等に重視される)なのか、によっても当然判断は異なることになる。また、Cと判断されたからオッケーではない、というのも重要な点であって、その判断が妥当かどうか、いま必要で重要な問題かどうか、判断時点からの状況変化、対象が曖昧でないかどうか、など、不断の議論が欠かせない。
さて、それを踏まえて話を牛角に戻そう。
サービス業における女性優遇キャンペーンの是非、いわゆる「レディスデー」問題は、男女という一見明確な「B区別」に依拠しているように見えても、その区分の合理性自体が「程度問題」に過ぎないこと、また、「女性の受けるサービス料金は男性が負担させられているのでは」という疑念が拭えないことなどから、「Cグレー」であると判断されるが、ではそれを「D差別(明確に是正すべき不当な行為)」と判断すべきか否かについては、行き過ぎと感じる人も多いのが現状かと思う。そのことは、牛角に限らず、多くの「レディスデー」キャンペーンを実施する店舗で、逆に男性から忌避されるなどの大きな営業上の不利益が出ていないことからも了解される。そもそも、映画にせよ焼き肉にせよ、提供者も多いことから、忌避するにしても他の選択肢があるわけで、ぶっちゃけ「大多数の人にとってはどうでもいい」問題に属する。では、なぜ「差別だ」と騒ぐ人がいるのか。
話が変わるように感じるかもしれないが、類似の例として、一部の広告を取り上げて「女性差別だ」と騒ぐ事例を考えたい。企業が営利目的でやっていることで、それ自体が積極的な被害を引き起こし法的に規制する必要があるとまでは多くの人が認識しない(つまりDではないがC)ものだが、これについても「差別だ」と騒ぐ人がいる。これは、何も学問的に見て明確にCとDを峻別してDだと判断できる、という話をしているわけではなく(もしそう信じている人がいるとしたら、それは相当に×××)、騒ぐことそれ自体によって人々の気分を醸成し、結果として社会状況自体を変化させようという社会運動(一種のデモ、まさにデモンストレーションという意味で。)の一種なのだ。誤解されているが、今日フェミニズムと呼ばれているものの多くはこの「デモ」であって「学問」ではない。(※)だから、騒ぐ人たちはおおむね一般常識とは異なることを主張する(常識的なことをデモで声高に述べる意味はない)が、その人たちが声高に述べることが「正しい」と証明されているわけではないし、その人たちも積極的にそれが「正しい」ことを証明したりはしない(証明できるならデモより論文で書く)。騒ぎになることこそ、デモの狙いなのだ。つまり、これに顔を真っ赤にして反論しようとするのは無意味というよりむしろデモ側の応援をしているのと同じである。従って、意見に賛成できない場合も、デモ自体はスルーして別のところで意見表明なり社会行動をするなりした方がよいと思う。
これを踏まえて、もう少し具体的に書く。「たわわ」や「宇崎ちゃん」を批判したフェミニストの狙いは激しい批判を巻き起こすことであり、それは社会運動として一定成功した。では「牛角」批判をする人は、男権主義者として失われた権利を獲得するため戦略的な意図でデモを行っているのだろうか、それとも、論理的に「レデイスデーはDであると証明できる」と考えて証明しようとしている人なのか、あるいは単に「この件で女性相手に憂さ晴らししたい」というルサンチマンに過ぎないのか。私は、そのいずれであってもこれは無意味な行動だと言いたい。
「たわわ」も「宇崎ちゃん」も、それらが女性差別「的」かと言えばそう論じることはもちろん可能だろうが、それを「D差別だ」などと言い切れば社会的には表現規制を強め過ぎる無意味・有害な主張であると思うし、それ以前に指摘し是正すべき有害で明確に「D差別」な女性差別が世の中にあふれているのだから(風俗業、芸能界などにおける性的搾取などはその典型だ)運動論としても拙劣だと思っているが、それらが激しい反応を引き起こしたという一点では運動論として評価することも可能かと思うし、その結果が女性の地位向上にわずかでもつながったのなら全く無意味とまでは言えないと思うが、「牛角・レディスデー」問題については、まず男権主義をこれ以上社会で伸張させることにはおそらく社会的合意は得られないだろうし、論理的証明は上で述べたようにほぼ不可能であり無意味でもあるし、ルサンチマンならそのエネルギーはもう少し建設的なことに使用した方がよいと思っているので、運動論としても学問的な意味でも、また俗論としても、とるべきところのない議論だなあと思っている。
仮に、真剣にいわゆる「弱者男性」問題を憂えているのなら、男権主義の伸張という方向でそれが解決されることはもう無い(過去一時的にあった「男というだけで威張ってるオッサン」があふれる社会に戻したい、などという主張は、当の男性からのものも含めて今後社会的合意を得ることはできないだろう。可能になるとすれば、そういう一派を集めてたとえばイスラム教勢力と結託し革命を起こして政権を奪取するくらいしかないだろう。)ので、機会平等社会の下で結果平等をいかに実現するかを考えるしかなく、つまり一種のアファーマティブアクションでしか対処方法がない。なので、そのためにはまずいわゆる「弱者男性」とそのルサンチマンを可視化し、それを救う方策を具体的に検討するのが近道だと思う。将来的には、たとえばVR空間へのアクセス権やアンドロイドの配布などが現実的な解かもしれない。いずれにせよ、牛角が女性サービスするかどうかなんて、それらに比べればおおよそ「どうでもいい」話で、議論したところで現実の弱者男性は一つも救われず、差別に関する社会的認識や理解など1ミリも深まらないし、一瞬の憂さ晴らしにしてはただの焼肉屋に迷惑がすぎるので、さっさと辞めた方がいいと思う。
※…もう少し丁寧に言うなら、主に「社会運動」を企図した活動であって、多くの人に認められうるような論理に基づき常識を解体・構築する「学問」的活動とはまた異なるところに主眼がある、ということ。後者は観測対象を描写・分析・記述するものだが、前者は積極的に観測対象を変化させることを目的としている。なお、社会学者の中には、学問の存在価値は現実を変革し社会運動となることにこそあると主張する人もいるが、その場合も、分析・記述に十分な力があるなら、それは自然と社会の常識を解体・再構築するであろう、という意味であり、観測対象の描写・分析・記述が"いい加減"であっても社会を変革できればいーや、という意味ではないと思う。
あらゆる階級の「負け犬」が集まっており、当事者たちは共通項が「その階級の相対的負け犬」ではなく「絶対的底辺階級」だと思っているため「底辺の現実」を巡って喧嘩しているイメージ
数学の世界には無限の可能性が広がっている。無数のパターンやそれらに隠された法則。
三人の応用数学者が、自分の全霊魂を賭けてある難問に挑んでいる。
ドミニク・シュタイナーはベルリンの研究室で、論理的な一連の方程式を前にしていた。彼は数学が絶対的な真理を解き明かすものであり、そこには一切の曖昧さが許されないと信じていた。数式は純粋であり、その解は厳密でなければならない。
その日、彼のデスクに届いた論文は、アレクサンドラ・イワノフからのものだった。彼女はロシアの数学者で、非線形ダイナミクスを用いた社会変革のモデルを研究している。ドミニクはその論文に目を通し、数式の整合性や論理性を冷静に評価した。
パリでの国際数学会議で、ドミニクは自身の研究成果を発表した。壇上に立ち、彼は無駄のない言葉で論理の精緻さを示す数式の力を説明した。彼の発表は冷静であり、数学的な厳密さに基づいていた。聴衆は静かに耳を傾け、数学の普遍性に魅了されているようだった。
発表が終わると、アレクサンドラ・イワノフが手を挙げた。彼女は冷静に質問を始めた。
「シュタイナー教授、あなたの理論は数理的に整合していますが、社会の複雑な相互作用を完全に捉えているでしょうか?非線形ダイナミクスを適用することで、社会変革の予測可能性が高まると考えられませんか?」
ドミニクは一瞬考え、冷静に答えた。
「イワノフ教授、非線形方程式は確かに複雑系の挙動を捉えるには有効かもしれませんが、その安定性が保証されていない場合、結果は信頼できません。数学の役割は、ランダム性を排除し、真理を探求することです。過剰に変数を導入することで、モデルの頑健性が失われるリスクがあります。」
「そのリスクは承知していますが、社会変革は非線形な過程であり、そこにこそ数学の力を発揮する余地があると考えます。複雑系の理論に基づくシミュレーションによって、より現実に即したモデルが構築できるのではないでしょうか?」
ドミニクは彼女の意見に静かに耳を傾けた後、言葉を選びながら答えた。
「社会変革が非線形であるという見解は理解できますが、モデルの複雑性を高めることが必ずしも精度の向上を意味するわけではありません。安定した予測を行うためには、シンプルで確定的なモデルが必要です。」
「シュタイナー教授、イワノフ教授、両方のアプローチにはそれぞれの強みがありますが、私は数学的美学の観点から異なる提案をさせていただきます。リーマン幾何や複素解析の観点から、数式が持つ内在的な対称性やエレガンスは、解が収束するかどうかの指標となる可能性があります。特に、複素平面上での調和関数の性質を用いることで、社会変革のような複雑なシステムでも、特定のパターンや法則が見出せるかもしれません。」
「タカハシ教授、あなたの視点は興味深いものです。調和関数の性質が社会変革にどのように適用できるのか、具体的な数理モデルを提示していただけますか?」
「例えば、調和関数を用いたポテンシャル理論に基づくモデルは、複雑系の中でも安定した解を導き出せる可能性があります。リーマン面上での解析を通じて、社会的変革の潜在的なエネルギーを視覚化し、それがどのように発展するかを追跡することができます。エネルギーの収束点が見えるなら、それが社会の安定点を示すかもしれません。」
「そのアプローチは確かに興味深いですが、実際の社会では多数の変数が絡み合い、単純なポテンシャル理論だけでは捉えきれない動きもあります。その点を考慮すると、複雑系のシミュレーションとの併用が必要ではないでしょうか?」
「もちろんです。私が提案するのは、調和関数を基盤とした解析が複雑系のシミュレーションと補完し合う可能性です。単独のアプローチでは見落とされがちなパターンや収束性を明確にするための道具として捉えていただければと思います。」
三人は、お互いに目配せをすると別れを惜しむかのようににこやかに近付き合い、お互い談笑しながら出口へと歩みを進めた。
一方その日のパリは過去にないほどの快晴で、会議場の外ではどういうわけか、太陽の下で穏やかにほほえむ人々で溢れ返っていた。
生命保険以外でも禁止、というか、あらゆる商品・サービスで禁止されている。
「そもそも平均寿命が違うのに保険料が同じだとしたら、そっちの方が差別では?」などの話はとっくに検討済み(この禁止自体、十年以上前の話。)で、
「死亡リスクは性別以外の要素でも推計できるんだから、保険料の差をつけたけりゃそっちでつけろ」というのがEUの裁判所さまの結論。
なので、メタい原理から降ろしてくる形で言えば、「商品・サービスの価格・料金には、客ごとの差をつけて良い属性といけない属性とがある。性別は後者である。」という感じだろうか。
自身の容姿が好印象を与えることが、人生においてプラスの作用を齎していたかもしれないと今更気づいた話。
自身の容姿を良いと捉えるナルシシズム的発言が多々あることを承知の上で読んでください。
きっかけは、Xで見かけた女性活躍に関するポストだった気がする。詳細は覚えていないが、「女性活躍などで台頭し意見を述べる女性は見目が華やかなことが多い。それは、意見を聞いてもらえる・発言しやすい土台があったからではないか」といった内容だった。
これには心当たりがある。仕事柄、社会で一定程度の地位を獲得している女性と出会うことが多いが、同性として魅力的だと感じることが多かったからだ。
勿論、皆優秀であり努力も重ねられている人々で、容姿のお陰で登り詰めたと言いたいわけではない。
ただ傾向としてそういったことはあるかもしれないとは思った。
一方、自分自身のこと。
振り返ると、褒められることは比較的多い方ではあった(そのほとんどは世辞、というかコミュニケーションの一環だとは思う)。ただ幸か不幸か、そうした褒めを糧に優れた容姿を持つ女性といった自意識を持ち、自分を磨くということをしてこなかった。
卑屈に受け流していたわけではない。褒められればその時は嬉しいので素直に反応したり、人が多い場では困惑し流したりしていた。いずれもその場限りの反応だった。
メイクやファッションは好きだし、自身で鏡を見て「今日は盛れている」と気分が上がることもあったが、なぜかそれと他者評価は結び付かず、すべてが自身の中の絶対評価で完結していたように思う。
それは私が子どもの頃からオタクであったからかもしれない。今でこそ市民権を獲得し、オタクと非オタの垣根は随分なくなったものの、当時のオタクは隠れるべき存在でありどこか恥ずかしいことと捉える風潮があった。
日陰のものである、日陰の人格を内包している、という感覚が女性性を意識する自意識の育成を阻んでいたのかもしれない。
そんな状態であった自分が自己を顧みたのは、先述のXのポストを見た時に、以前オタク友達に言われたことを思い出したからだ。
オタクは隠すものと述べたが、自分はそうではなかった。隠すことがあまり得意ではなかったので、非オタの友人の前ではわざわざ話題を持ち出さないだけで隠してはいなかった。
そうしたことを友人に伝えたら「それは隠さなくても立場が揺らがない容姿や自信があったからでは」と言われた(親しい友人であり、糾弾されたわけではない。あくまで一意見である)。
そして、「それはあなただから言えるんだよ」といったようなことを言われたことは、この時、この友人からだけではなかったことを思い出した。
私は昨今の自己責任を強調する風潮には反対であり、マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』なども共感を覚えながら読んだ。機会は均等ではなく、どのような環境に生まれるかといった運による要素も考慮しなくては、能力不足は努力不足=自己責任といった風潮が加速する。
こうした思想を持つ自分にとって、容姿という運による要素に対し無自覚でいるのは問題なのではないかと今更思い至った。
美醜の価値観は時間や場所により変動するものであり、絶対的な価値があるとは思わない。ただたまたまその場所では良しとされる傾向があるのではないかと思う。
それが優位に働いてきたかもしれないと気づくことは、ナルシシズムという悪性の萌芽であると同時に、「運良く、要領よくやってきたから」と考ええいた自分への驕りを見直す機会でもあった。自分が運だと思っていたものでさえ、更なる運により齎された可能性があるのだ。
とはいえ容姿に関する話題は非常に繊細であり、この話を人にすれば不快にさせることは理解している。だからこれは匿名で投稿することにする。
もしかしたらこの問題を突き詰めると自身も人も不快にさせる可能性があるとわかっていたので、これまでの人生で自覚的にならないようにしていた可能性さえあると気づく。
自身の発言はどこに立脚しているのか、無自覚の驕りはないかを疑うことは、してもし過ぎることはないのかもしれない。
最後に、これまで無遠慮な発言をしてしまっていた人々には申し訳なくなる。自己責任主義のようになりたくないと思っていたが、近い傾向が自分の中にもあった。多分まだ沢山あるのだと思う。自戒。
まず「論理的だ」と自称する人が多用するのは他者を批判し、無知であるかのように見せかける戦略である。
彼らは議論の場で冷静かつ理路整然とした態度をとり相手の感情や状況を無視して、自分の主張を押し通そうとする。
その結果相手は不快感を覚え、自分の意見が無価値であると感じることが多い。
こうした行為は論理的思考とは無縁であり、むしろ他者を傷つけることで自分の優位性を示そうとする性格の悪さを反映している。
さらに「論理的だ」と自称する人は自分の感情を抑圧し、他者に対しても感情を無視するよう強要することがある。
感情を論理の敵として扱いすべての問題を冷徹に解決しようとする。
しかし人間関係や社会的な問題は感情が大きく関与しているものであり、それを無視することは現実を無視することに等しい。
感情を排除した論理はただの冷酷な行為の正当化に過ぎず、その背後には他者への共感や理解を欠く性格の悪さが潜んでいる。
また、彼らは自分の論理が絶対的な正義であると信じて疑わないことが多い。
この信念に基づいて他者の意見や価値観を否定し、自分の考えを押し付ける。
論理は本来柔軟であり異なる視点や価値観を取り入れて成長するものだが、彼らにとって論理は自己中心的な道具であり、他者を支配するための手段に過ぎない。
このような態度は単なる性格の悪さから来るものであり、真の論理的思考とはかけ離れている。
彼らの行動は、他者を批判し、感情を無視し、自分の意見を押し付けることである。
論理的であることを誇示する前に他者への共感や理解を持つことがより重要であることは、言うまでもない。
「論理的だ」と自称する人々がしばしば使用する誤謬は、古代ギリシャのソフィストたちが用いた技巧と驚くほど似ている。
ソフィストたちは論理的に見える議論を構築することで相手を説得し、勝利を収めることを目的としていたが、その手法はしばしば実質的な真実や倫理を無視し表面的な論理だけに依存していた。
現代においても、「論理的だ」と自称する人々が同様の手法を用いることが多い。
彼らは、自己の主張を支持するために論理的誤謬を巧妙に組み込むことがある。
たとえば、相手の主張を歪曲して攻撃する「藁人形論法」や、証拠や論理に欠けた結論を出す「滑り坂論」などがその一例である。これらの誤謬は表面的には論理的に見えるが、実際には正確な推論ではない。
ソフィストたちのように、これらの自称「論理的」な人々は、自分の議論を正当化するために論理を武器として使う。
しかし、彼らの目的は真実の探求ではなく、相手を打ち負かし、自分が優位に立つことにある。これは、ソフィストたちが依拠していた「エリスティケー(eristiké)」と呼ばれる、勝利を目的とした議論の技術と非常に似ている。
さらに、彼らは自らの主張を絶対視し、他者の反論を無視したり、軽視したりする傾向がある。これは、ソフィストたちが自らの知識を絶対的なものとして売り込み、他者を教え導く存在として振る舞っていたこととも重なる。このような態度は、論理的な思考というよりは、むしろ権威主義的であり、自己中心的な性格の表れと言える。
しかし、ソフィストたちの手法が古代ギリシャの知的活動において一部の人々にとって有用であったように、現代においてもこれらの誤謬的な議論は一見効果的に見えることがある。
それでも、こうした誤謬に依存することは、最終的には自分自身を欺くことに繋がる。論理的であると自称するならば、その論理が真に正確で公正であることを確認することが重要であり、それを怠れば単にソフィスト的な詭弁に過ぎなくなる。
結局、「論理的だ」と自称する人々が使用する誤謬は、古代のソフィストたちと同様、見かけ上の論理に過ぎず、真の意味での論理的思考とは大きく異なるものである。彼らが追求すべきは、他者を打ち負かすことではなく、真実を明らかにするための誠実で公正な議論であるべきだ。
「論理的だ」と自称する者たちが用いる詭弁に対する対策は、まるで闇の魔術に対する防衛術を学ぶかのように慎重であるべきだ。
彼らの誤謬的な論法は表面的には魅力的で説得力があるように見えるが、正しい知識と洞察を持って対処すれば、その魔術は容易に無効化される。
まず論理的誤謬を見破るための知識を身につけることが重要である。相手が「藁人形論法」や「滑り坂論」のような誤謬を用いている場合それを即座に認識し、その不正確さを冷静に指摘することが防衛の第一歩となる。
これは、まるで闇の呪文を逆に唱えて無効化するかのような行為だ。
次に、感情や倫理を無視されないように自分の立場を守ることが肝要だ。論理は冷徹であるべきだと信じる彼らに対して、感情や倫理もまた論理の一部であり、それを排除することの危険性を指摘することが重要である。これは、闇の魔術の冷たさを温かな光で照らし出す行為に他ならない。
さらに、議論の目的を見失わないことが必要だ。相手がソフィスト的な手法で自分の論理を押し通そうとする際、こちらも勝利を求めるのではなく、真実や理解の追求を目指すことが求められる。これは、防衛術の究極の形であり、闇の魔術を無力化する最も強力な手段となるだろう。
こうした防衛術を身につけることでその魔術に惑わされることなく健全な議論を続けることができる。罪を憎んで人を憎まずとも言うか。
論理は武器にも盾にもなり得るが、その使い方次第で人を傷つけることも守ることもできる。
冷たさと強さを兼ね備えたスリザリンの特質を持つ者は時にその論理を自己中心的に用いるかもしれない。だが、真に賢い者は論理の裏にある温かな光を見失うことがない。
我々が目指すべきは感情と理性が調和した真の論理的思考である。
しかしこれはスリザリンに向けたスリザリンからのメッセージである。
闇を学ぶとき、我々もまた闇に飲まれかねないことに注意しなければならない。我々は、気を付けなければならない。我々は、心を忘れてはならない。
おわかりかな?
知識を獲得することは傲慢さに比例する。この関係性は、人間の心理と社会的な側面から説明することができる。
知識を蓄えれば蓄えるほど、人は自分が他者よりも優れているという感覚を強めていく。これは直接的に傲慢さの増加につながる。
多くの社会において、知識は力と同義である。知識が増えるにつれて社会的地位が向上し、それに伴って傲慢さも増していく。
皮肉なことに、知識が増えるほど、自分の考えが絶対的に正しいという思い込みが強くなる。これにより、他者の意見を軽視したり、新しい考えを受け入れにくくなったりする。
知識が豊富になればなるほど、知識の少ない人々に対する寛容さが失われていく。これは傲慢さの一形態と言える。
知識の蓄積は自信につながるが、それが自己過信となり、傲慢な態度として表れる。
非常に残念な頭をされていますね。
まず、前提
早食いは行儀が悪い
ここがまず間違い。行儀がよい/悪いに絶対的な基準はない。当てはめる価値観で決まる。
攻撃してるとは言わないが相手はすでに自身の考え方を表明している。
やめてほしいと思うことは自由だが、自身の考え方を表明しているにも関わらずしつこく変えさせようとするのはモラハラと言える。
相手の価値観を尊重していないことを全く棚上げした上で自分の価値観を押し付けようとしている。身勝手極まりない。
全くそんなことは書かれていない。「美味しい」と言われたことがほとんどないことの理由を味に無頓着と決めつけているだけでメシマズの可能性があり得るという指摘をされている
学歴、職歴、コンペの成績、フォロワーの数、収入、友人がいるかどうか、ファッションセンスはどうか、等。
社会が作り上げたクソな評価軸を脳内から取り払わない限り、幸せになれない。
社会との接点を作ると、どうしても社会の評価軸が無意識のうちに取り込まれてしまうだろう。
だから、まずは「評価することをやめる」ことから始めなければならない。
もちろん、仕事が過酷すぎるというケースでは転職を考える必要はある。
ただ、「上を上を」と求めすぎると、自分の持っていないものに執着してしまうことになりかねない。
「成功」の定義を見直す必要がある。成功とは、絶対的なものではなく、相対的なものである。
「少ないものに満足する」という精神を身につけることができれば、一つの成功と言える。
他人との比較は全くの無意味である。自分の価値は、他人と比べることで決まるものではない。
日常の中で、何気ない瞬間を楽しむことが、心の豊かさにつながる。
例えば、趣味をやること、美味しい食事、好きな音楽を聴くこと。そうした小さな幸せを大切にすることが重要である
人類には歴史や科学があるんで…正義というのは緻密な意味を持っているので…
翻訳ミスして変な独自解釈作ってる日本人と違って、世の中の人々は集合知を築き続けて巨人の肩に乗ってるので
知的レベルが違いすぎて会話が成立しない好例
どうも最近ではリベラルやフェミニストの人達にも「正義の暴走」なる言葉を使う人達がいるようで、危険だなーと思っている。
「『正義』の暴走」と、「正義」の方を鉤括弧付きで語るならまだしも、そういう留保すらなしに「正義の暴走」とか言っちゃえる神経が理解出来ない。
それって「正義」という言葉を単にその個人や集団の信念程度の意味で用いているよね?そうじゃなくて、もっと人権や社会福祉を前提に置いた規範的な概念なのが「正義」でしょう。
「正義」じゃなくて、「思想信条の暴走」とでも言うならば分かるんだが。
「正義の暴走」の例として、ナチスや文革、赤狩りを挙げている人がいたけれど、いやそれらは「正義」ではなく明確に「悪」じゃん
どんな思想信条の下に行っていようが暴力や虐殺は絶対的に「悪」であるという、最低限のコンセンサスすらない人達が用いるおかしな言葉が「正義の暴走」。