はてなキーワード: 竈門とは
答え:「ある」 ただし、間接的に
『企業vtuberは女性による自己実現ではない』のは当たり前です。企業Vtuberは企業が創作した架空のキャラクターなので、自己も自我もありません。なのでキャラクターが男性だろうが女性だろうが自己実現のしようがありません。まずは現実と創作の区別をつけましょう。それとも、架空のキャラクターにも人権があって〜みたいな電波な話をしたいのかな。君、ワクチンを打つと5Gに繋がるとか信じてそうね
当たり前のことですが、架空のキャラクター、浦島太郎とかかぐや姫には人権はありませんし、自己も自我もありません。しかし、十全な人格・人権を有する自然人とキャラクターの間というのは、そんなにはっきり見分けられるのでしょうか?
たとえば、架空のキャラクターであっても、竈門炭治郎や両津勘吉になると、著作権者の著作人格権があるので、取り扱い方によっては著作者の人格を害する可能性はあります。これらのキャラクターの画像を勝手に修正したり、風俗店の看板に使えば、著作人格権の侵害になるでしょう。
次に、芸能人について考えましょう。例えば、所ジョージはある種のキャラクターであり、芳賀隆之氏ではありません。しかし、「所ジョージは実は犯罪者だ!」と公言すれば、間違いなく名誉棄損になり、民事では芳賀隆之氏(またはその代理人)から訴状が届くことになります。
もう少し考えてみましょう。NHK教育で放送されていた「つくってあそぼ」の主役の「ワクワクさん」というキャラクターのことは皆さんもご存知でしょう。タレントの久保田雅人氏が演じるワクワクさんは、明らかに番組のために創作されたキャラクターです。しかし、実際のところ、久保田雅人氏のタレント活動は「ワクワクさん」としてのものがほとんどであり、「タレント久保田雅人」と「ワクワクさん」に対して、どこまで別の存在だと言い切ることができるのかは判然としません。
別の例を見てみましょう、パペットマペットという芸人、あるいはコンビがいます。これは、実際に操作しているのは、後ろの黒子ですが、表に出ているキャラクターは「うし」と「かえる」です。この、本名も顔もわからない黒子にとって「うし」と「かえる」は単なるキャラクターなのでしょうか? 黒子と「うし」や「かえる」は人格的に密接な繋がりがあり、「うし」や「かえる」を否定することは、黒子の人格を否定していると判断される可能性は十分にあります。
ここで、VTuberを見てみましょう。多くのVTuberは中の人とキャラクターの間に密接な人格的つながりがあります。VTuberは、セリフのあるお芝居ではなく、シナリオの無いトークライブやゲーム実況といった、本人の人格が反映されたタレントとしての活動が中心であり、キャラクターと言うよりは、3Dの着ぐるみを着たタレントと言うべき存在です。
このように考えると、自己も自我も人権もある中の人の人格を反映させたVTuberというのは、間接的に自己も自我も人権もあると言えるのです。
竈門炭治郎は嗅覚が、我妻善逸は聴覚が、嘴平伊之助は触覚が優れているが、この3つの感覚の組み合わせについて書かれた文章を、何処かで読んだ記憶が有った。それが判明したのでメモしておく。
男と女の愛の語らいは、昔から夜中に行なうのが一般的であった。言い換えれば、愛とは、第一次的に視覚に依存するものではなく、香り(嗅覚)や声・物音(聴覚)あるいは肌触り(触覚)のなかから豊かに創り出されるイメージの、想像力による夢幻の世界における営みであった。そして、日本的女性美の一つは、この視覚的な隔離から発生しているともいえよう。『堤中納言物語』の「虫愛づる姫君」のなかに「鬼と女とは人に見えぬぞよき」とあるが、この言葉が苦しまぎれに吐かれた言葉にせよ、実に見事に女の美のあり方を、愛のあり方を示唆している。
=引用ここまで=
小松和彦『神々の精神史』「屍愛譚をめぐってーーー伊弉諾・伊弉冉の冥界譚を中心に」より
念の為に言うと、作者のネタ元がこの本・論文であると断定しようというのではない。
私が門外漢だから詳しく知らなかっただけで、国文学の世界では、それに明るい人たちにとって「夜の世界と嗅覚・聴覚・触覚の結び付き」という認識が共有されているらしく、そのことを私が上の本で知ったというだけの話である。
『鬼滅の刃』の作者は、和の文学や文化をかなり学んだと推測される(コメントの数々を読むと、非常に活字に親しんでいるように推測される)ので「夜と3つの感覚の関係」も何らかの文献などで学んでいたのだろう。
たとえば、「私は優しい人間だ。何故なら私がそう思うから」というのは通用しない。他人に対して優しくない行動を繰り返していれば他人から「優しくない人」と決めつけられる。
それは現実だけではなく、創作においてもそうなのだが、現実とは違い、創作物の登場人物の性格はたいていまず最初に作者が設定する。設定がまずあって、それからその登場人物の優しさを表現する小さいエピソードの積み重ねにより、登場人物のその性格を証明してゆくのだ。
ところが、プロアマ問わずに登場人物の性格を「この人は優しい人なの。何故なら私が優しいと決めたから」とでもいうような、設定とは異なる人物像を書いて平気な作家がけっこういる。
私がとくに気になるのは、地の文が主人公の一人称モノローグになっている物語で、主人公の性格設定・他の登場人物からの主人公の人物評が地の文から読み取れる主人公の人物像と大きくかけ離れている場合である。
よくあるのが、主人公が何らかのポジティブな性格を有していると、作者も物語のその他の登場人物も認めているが、主人公のモノローグが糞ひねくれていて物事や他人を酷く意地悪で斜に構えた態度で見てはネガティブジャッジを繰り返している、というもの。
それは、根は腐れているが表面的にはいい人そうに見えるキャラクターだというのとは違っている。糞ひねくれた地の文に引き摺られるように、言動もやはり糞ひねくれており、しかし何か物語が動くポイントで形だけ良いことっぽいこと(これも深く考えてみるとなかなか怪しい)をしているだけなのだ。
物語を書くとき、登場人物の人物描写をするときというのは哲学の時間だと私は思う。優しいとは何か、意地悪であるとは何か、残酷だというのは何か。そういうことを突き詰めて考える時間だ。
と、思うんだけど、世の中には設定と実際の性格がちぐはぐの登場人物を書いて平気な作家はいくらでもいるし、そこらへんを一々つつく読者も滅多にいないので、「このキャラは優しいんです!」と言い切ったもん勝ちなのかな。
ちなみに私は、『鬼滅の刃』の竈門炭治郎の「頭が固い」という性格と、鬼舞辻無惨の身勝手ワガママな性格が、徹底的に首尾一貫としていてすごく良かったと思う。
でもどうにもトイレに立つタイミングがなくて、お昼休みまで我慢してた。
もちろん、昼飯を食べる前にトイレに向かったがあいにくと満室だったし、まだ余裕はあった。
なので、とりあえず昼飯を先に済ませてからトイレに行こうと思ったわけだ。時間の有効活用な。
竈門炭治郎では無理。
で、今、食後なんだけど。立てない。
立つわけには行かない。
今は無理。
ここで過去の増田になるわけにはいかず、気を紛らすために書いている。
立ち上がるには、レジで店員さんを呼んでお会計をしてトイレに向かうくらいの余裕がもてるくらいの時間を確保する必要がある。
でも波が引かない。
なんだよこの波。
第何波なの?大難破しそう。
油断してたら痛い目見るよ。
リバウンドの波はお前が思ってる以上に強力だ。
はやく、はやかく、はやか
はやくひけ
行けそうだ
また会おう
15:03:52
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/tcg/1613218507/669
669 名前:名無しプレイヤー@手札いっぱい。 (ワッチョイ 465e-HsWm [89.187.161.201 [上級国民]])[sage] 投稿日:2021/02/16(火) 15:03:52.79 ID:7+fy/If/0
15:04:31
https://twitter.com/TDNKZHT/status/1361557046810710018
15:13:33
http://twitter.com/reisen_DM/status/1361559323768352769
レイ @reisen_DM
スプラで勝てない人はぜひ使ってほしい。
まずね、ブキがかっこいい。キングスマンですよ。小学生の頃にチャンバラごっこ。今なら竈門炭治郎。そんな憧れのブキ。
思わず、キングスマンっぽい黒傘買った。3000円した。後悔はしていない。
ゲームの攻撃の組み合わせもイカす。傘を開きながら散弾銃を発射する姿。トラップという心くすぐるサブ。スーパーマンのようなチャクチ。
でもね、弱い。メインはキル速最低。サブは攻撃系ではないし、スペシャルはただジャンプするだけだのキル集の素材だの言われてる。
巷では最弱ブキだとか、いるだけで迷惑とか言われ、戦犯になると
フレンド申請→ブロックのコンボを決められてへこむ。やめろ、俺だってつらいんだ。わざとじゃない。
そんなマイナーブキでも使ってて楽しい。それ以外にも立ち回りの勉強になるのではないかと思うことがある。
:スパイガジェットは一人でキルをするのが得意ではない。常に心の中では味方に「助さん格さん やっておしまい。」っておもってる。
そのため、常に仲間がどこにいるか把握してなければいけない。また、自分ではキルできないので感謝の心でいっぱいです。いつもありがとう。
・トラップで敵の位置を把握、共有することで味方との連携がスムーズ
例えば、コンブトラックのガチエリアで相手が裏とりする左右の通路にトラップを置くことで、自分が把握できるだけではなく、
全員との情報共有ができる。自分が駆け付ける意識も芽生える。(自分がキルできるとは言ってない。)
メインでのキル速が遅すぎるので、メインだけで倒そうと思わない。思えない。トラップの爆風ダメージやチャクチ、最強の召喚獣"味方"でキル速を疑似的に上げる。
鬼滅の刃やエヴァンゲリオンで私が持つ疑問は、組織的に「戦士」を育てて闘わせるのなら、戦士が子どもである必要がないのでは?というところ。子どもが闘う必要性がないように思う。
と友人に話したら、「エヴァは知らんけど、鬼滅は少年ジャンプで連載してたからでは?」と言われて話が終わった。— 麦ふみ (@fumfummugichan) January 16, 2021
この前の鬼滅とエヴァのツイートの反応から学ぶ事がいくつかあった。
反応で1番多かったのは、物語の設定について説明するコメントだったけれども、そもそもフィクション内の設定について疑問を持っているわけではなく、なぜそのような設定で物語を描いたのかの部分に私の疑問があった。— 麦ふみ (@fumfummugichan) January 23, 2021
「フィクション内の設定について疑問を持っているわけではなく、なぜそのような設定(戦士が子ども)で物語を描いたのか」が疑問ということなのでそこに絞って回答する。
当初の碇シンジはファザコンでありエヴァに乗ることからも逃げていたが、他者と接する内に成長し、父親に認められるためではなく自分がどうしたいかという意志に基づいて行動するようになる。それは子どもが大人になるということであり、エヴァンゲリオンという物語はアクション要素とわけわからん用語の羅列を除けばおよそそういうイニシエーションを描くことで成立している。
また同時に、碇シンジの周囲にいる大人たちは大人に見えて対して大人ではないということも並行して描かれる。ゲンドウをはじめとしてその誰もが未成熟で、言ってしまえば幼稚な欲望に振り回されている。子どもが大人になる物語でありつつ、周囲の大人もだましだまし大人をやってるにすぎないという身も蓋もなさがエヴァという物語でもある(そもそも人類補完計画からして他者が怖いから同化しようという幼稚な思想の産物であるし)。
鬼滅は複数の要素によって成立しているので一言ではまとまらないのだがひとつ特徴的な要素を挙げるとすると「継承」になろう。竈門家は木こりの家系だが、呼吸の始祖と関わりがあったため、竈門炭治郎は父祖から「日の呼吸」を受け継いでいる。それと同じように鱗滝左近次からは鬼殺隊の一員として戦うための基礎と水の呼吸を、煉獄杏寿郎からは心構えを受け継いだ。そうやって受け継ぐ度に炭治郎は肉体的にも精神的にも練り上げられ強くなっていく。これが大人主人公であれば受け継ぐことができないのでそういった成長を描けない。
この「大人主人公だと受け継ぐことができない」は歴代ジャンプで大人だった主人公を補助線にするとわかりやすい。北斗の拳のケンシロウ、シティーハンターの冴羽獠、るろうに剣心の緋村剣心。いずれも道を極めし者であり、子どもが大人に教えてもらうような形で何かを受け継いだり成長したりすることはできない。彼らの場合は肉体的にも精神的にも練達しているがどこか欠けたところがあって、その恢復が物語の主軸となる(ことが多い)。このように子ども主人公と大人主人公では描ける物語が違うのである。
鬼滅に話を戻すと、炭治郎たちの敵である鬼舞辻無惨は自らを天災になぞらえる怪物であり1人の人間どころか1つの時代ですら手に余る。ゆえに産屋敷家は何世代にも亘って呼吸の使い手を育ててきた。鬼舞辻無惨という怪物を倒したのは過去から現在、現在から未来へと連綿と受け継がれてきた呼吸や想いであり、炭治郎たちはその連なりの終端にいただけにすぎない。つまり鬼滅は天災のような存在と、それと戦う先人から技や心構えを受け継ぎし少年少女の物語だと言える。
ちなみに大正という時代設定も、人の命が現代よりはるかに軽かったがゆえに鬼殺隊のような人権無視甚だしい組織が描きやすかったというのもあろうが、大正で勝ち得た平和を現代で当たり前のように享受するラストシーンを描きたかったからという面もあるだろう。それが当たり前であればあるほど忘れがちだけど、その当たり前を勝ち取るためにかつて戦った人たちがいるのだ。
話を簡単にまとめると、子どもが大人になる過程でしか描けない物語があって、鬼滅もエヴァもそういうタイプの物語だ、ということ。以上。