はてなキーワード: 積極性とは
アイドルやりたくない系アイドルには、他にも双葉杏がいるのだが、杏は「とにかく働きたくないがやれば出来る天才系」であり、星井美希から完全にやる気を奪ったようなキャラとして描かれているのに対し、森久保は小心で自信がない故にアイドルをやりたくない、荒木比奈からなけなしの積極性を奪ったようなキャラとして描かれており、びびりまくりの仕草、泳ぎまくりの目、語尾「ですけど…」、決め台詞「むーりぃー」など、味のある言動が可愛らしいアイドルであり、眼鏡さえかけていれば荒木比奈にも比肩し得ただろう逸材である。
台詞などは以下のページを参照のこと。
アラサーまで生きてきて、ところどころで感じさせられること。
それは、刺激のない人生なんてゴメンだって人が思ってた以上にすごく多いこと。
機会さえあれば不倫してやろうと思ってる人が多すぎる。
居酒屋をハシゴしていい歳してゲロ吐いて倒れている人間が多すぎる。
おれは普通の感覚をもった人間だと自信をもっていえるが、刺激が欲しいと思うことはほぼない。
ただ、積極性がないだけといえばそうなんだけど、そもそも何か起こしたいという欲求すら湧いてこない。
平穏でいいじゃん。なんで変化を欲しがるかね。
女にも多分それで見切られたと思う。
楽しいし、性格もあうしケンカもないけど、なんか続けていけないと思ったと言われた。自分でもわかんないけどって泣きながら言われた。
結局、飢えた動物のように生きてる人が輝いて見えるんだろうね。
事実関係や科学的根拠を度外視していい人のおすすめを購入したりする。それがゴミでも。
コミュニケーションツールとなりえる機能を重視して道具を好む。意味もなく過度な装飾を施した物を積極的に選択する。
コミュニケーションとは情報発信の積極性だけではない。独自性をもつことで自己のアイコンを確立させることでレスポンスを高めるのもその一つだ。
それを踏まえて不細工の話。
社会機能として救済措置による権利と機会の平等性を図るものがある。福祉などがそれ。
足がないのに就職して家庭が持て保険にも入り娯楽を楽しめる人がいるのはその機能のため。
五体満足なのに路上で寝泊まりし風呂は月に一回食事はカップラーメンな人もいる。
いわゆる健常と比較して健常に足らぬとされている人が平等である一例。
一人ひとりが税金を納め、それを調節管理しそれぞれの権利を保護することで機会の再分配の結果平等となる。
もちろんその逆で機会を奪ったり権利を侵害すると社会的に除外対象となる。
不細工の話にもどすと、美人の獲得したいものを権利を侵害したり機会をうばったりしないかぎり不細工でも美人とおなじように生きていくことはできる。
美人が獲得したい異性を不細工が横領したり強奪したりしようとした場合「この不細工の分際で!」と実際に不細工かどうかは別として排除しようとされる。
売れ行きのよい外見的または社会的に評価の高い異性は早く売れてまた競り落とされる価格も高い。
それが小さい人間にもいずれは異性を獲得できるという権利は平等にあり、機会は平等にある。
もしかこれが一夫多妻制または一妻多夫制ならば機会を奪われるということになるだろう。
貧乏でも苦労せず楽しみがある生活を選択できるように、毎日化粧前には人目から逃げて隠れて完全フルメイクでドレス姿でなくてはならない日常を過ごす必要のない生活も選択できる。
またいくら美人であっても人の権利と機会を侵害してくるような人間は「不細工」と罵られ、社会的な関係とはコミュニケーションそのものなので女の間での「かわいい」は必ずしも外見の評価のみではない可能性もある。
以上のことから、女の「かわいい」は社会的実質的価値の見いだせるものが多いと思われるが、女の言う不細工は社会的な機能構造を無視、というかその社会性の価値を推し量らないものという「利己的な女の思考方法」があるのだろう。
「かわいい」は牽制と恩恵の充足を認めさせるための発言となって、「不細工」が不足と喪失を示す利用方法という、社会機能性と逆の表現方法になっている。
女の無意味なかわいい装飾などが一体社会の何に貢献しているのかといわれそうだが、同じ商品でもかわいい装飾をつけるだけで競争力がつけられる市場というのは社会的に高機能だ。
また物質消費の多いのもかわいい、きれいのための商品が圧倒的に力を持つ。それがわからないという人にはそういう話は基本的にむいてないし説明の余地もない。
つまりは、男目線からみて不細工だわかなしいと言ってひがんでいる人間をみると、不細工でも生きていられるこの世界がどれほど寛容か思い知れよこのブス、と思うわけなのである。
そのブスというのは、いかに自分がブスであるかという自己評価から権利を捨て機会を放棄していることを垂れ流す姿はもうすでに有害であり、その害を駆除するために社会がどれほど寛容にあるかを知れと言いたくなるのだ。
ブスが攻撃されていると思っているのはそういうことだろうし、ブスといわれるのはそういうことだろう。
ちなみに、ここでの女と男は身体的な構造での性別ではなく主に性格的、対象となる一対の相反する状態に性別という表現を使用したもので身体的または精神的に男性または女性である方を総じてその総数を断定するものではありません。
12時間以上寝た
昨日の夜6時半から今朝8時くらいまで寝た
途中で何度か起きたけどそのまま寝続けた
でもさすがに眠りが浅くなったせいか最後らへんは夢をよく見た
ドームみたいなところでオタクのイベントやっててそこに行ってる夢
グッズとかおもちゃとかがすげーたくさんあった
でもそれ以上に人がすごい多かった
会場でるときもすごい大騒ぎでそれに乗じてPCエンジンのでっかい箱を一生懸命持ち逃げしようとしてた
周りからつっつかれてもけして手放さなかったけどなぜかわからん
世代的にはずれてるはずなのに
主催者っぽい人に、こんだけ集まるなら毎年やってもいいんじゃないですかっつったら、
その人が、さすがに100億かかるのは毎回できないねーと行っていた
俺の根本には学校生活がほんとにこびりついててどうしようもないなと改めて思った
いつまでも黄金の学校生活の頃ばかり夢に見て、つらい大人の現実から目をそらしてばっかり
あと夢の最後らへんでやたら眠かった
高校のとき初めて女子で気兼ねなく話せた背の高い子がいたんだけど、
なぜかその子が教卓の前で腰振りながらスカートをまくりあげてふざけてて、
途中まではチャイナドレスみたいってくらいだったんだけど、
途中から後ろ向いてすごいスカートまくり上げだしてあわやお尻も見えかけるくらいまでなって、
おいおいやりすぎだろって思ったのを覚えてる
あと初めて歯が抜ける夢みた
正確には一本抜けて一本折れた
調べたら
前歯(中切歯・側切歯・犬歯)
前歯は夢主の顔や攻撃性を表す。つまり積極性や意欲が失われることを表す。
夢主の社会的なポジションや周囲からの評判が下がったり、精神的に打ちのめされたり、発言権がなくなる。
下の歯
だってさ
すげーマジビンゴ
告白するところまで行ったんだったら、一つ成長じゃん。
だってさ、世の中には、異性の気持ちを理解する努力もせず、相手に好かれるための努力もせず
「どうせ俺が告白してもキモがられるから」って最初から諦めてるやつとか
振られた途端に、それまでの自分の気持ちを棚上げして、相手のことを悪く言うやつとか
いくらでもいるんだから。
そんな低レベルなやつに比べたら、元増田はずっと先を行ってるよ。
次のためのアドバイスになるか分からんが、いくつか言えそうなことを。
■世の中は「リア充」「非リア」の二つではなく「中間」が大半。
世の中の大半は、その中間の人たちだよ。
そう言う「努力したり積極性を持たなければ、彼女いない歴=年齢になっててもおかしくなかった」
ぐらいのやつが、相当数いる。
告白したら百発百中とか女から言い寄られるとかの真正リア充を除けば皆、お前と同じように失敗を重ねて来てるんだよ。
そうやって場数を踏む中で、過去の失敗から学んで、異性の気持ちを少しずつ理解して
やっと異性から好きになってもらえるもんなんだよ。
例えばさ、お前の身近にいるリア充だって、仕事で失敗したり、誰かに悪く言われたりしたらヘコむだろ?
本気で好きになった異性に振られたらヘコむのなんて当たり前じゃん。
そうやって、レアケースの真正リア充を仮想敵にしても、意味ないよ。
落ち込む時は誰かと比べずに、気が済むまで落ち込めばいいんだよ。
見た目もコミュ力も努力でいくらでも改善できるから、努力しよう。
世の中には、自分は異性の優劣を見た目で付けてるくせに、異性には自分の見た目で優劣をつけられたくないって言う
二重人格みたいなやつがいるけど、好きな異性に振り向いてもらうために見た目を変える努力するのって
何も恥ずかしいことじゃないから。
コミュ力だって、相手を理解しようと努力することで自ずと付いてくる。
異性がどんな会話を楽しいと思うのか、どんなデートが嬉しいのか、何をされたらイヤなのか。
相手を知ろうとすることで、必然的に自分の行動・言動も変わるし、結果的に思いやりや優しさに繋がる。
■粘着するな
一回振られた相手に付きまとうのは絶対にやめとけよ。
「振って距離が離れたことで、相手の大切さに改めて気付く」とか絶対に無いからな。
一回振られたやつが二回目以降に成功するパターンなんて、滅多にないから。
とにかくお前はよくやったよ。
次に誰かを好きになった時は、上手くいくように頑張れよ。
韓日市民団体、軍慰安婦の解決策の提案…'法的責任'に柔軟性 (Naver翻訳)
'政府賠償'求めるものの、'法的責任の認定'は明示的要求しない
(東京=連合ニュース)、チョウ・ジュンヒョン特派員=軍慰安婦問題の解決に向けた韓日両国政府間の交渉が停滞状態となる中、韓日市民団体が論争の核心である日本政府の'法的責任'認定と関連した創意的な折衷案を盛り込んだ解決策を提示した。
軍慰安婦問題の解決に努力してきた韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)など、韓日市民団体関係者と被害者であるキム・ボクドンさんなどが23日、東京で開かれたシンポジウムで提示した同法案は、まず4項目の'事実'と、その責任を認めることを日本政府に要求する。
4項目は'日本軍が軍の施設として慰安所を立案・設置して、管理・統制した事実'、'女性たちが本人の意思に反して'慰安婦・性奴隷'になって慰安所などで強制的な状況に置かれた事実'、'被害が甚大、現在もその被害が続いているという事実'、'当時の国内法および国際法に反する重大な人権侵害だったという事実'などだ。
これをもとに'覆せない明確かつ公式的な方法で謝罪すること'、'謝罪の証として被害者に賠償すること'、'日本政府の保有資料の全面公開などを通じた真相究明'、'学校教育や社会教育科の追悼事業の実施など再発防止措置'などを日本政府に要求する。
この案は、まず、日本政府の'賠償'を要求することで、1990年代日本側の解決策として推進されたアジア女性基金と差別化した。 アジア女性基金は民間募金の形を取った上、基金の性格を賠償と明確に規定していないという点で、多数の韓国、台湾の被害者からそっぽを向かれた。
ただ、市民団体案は違法性の認定を前提としている賠償を求めるものの、日本政府の'法的責任の認定'を要求事項に明示的に含めなかったという点で、日本政府が収容できるようにハードルを下げたような印象を与える。
軍慰安婦問題は1965年の日韓請求権協定によって'完全に、最終的に解決された'は立場を繰り返してきた日本政府は、韓国側の要求事項のうち'法的責任の認定'に最もひどいアレルギー反応を見せてきた。
戦後賠償に対する'パンドラの箱'を開くことになるという認識のためだった。
結局、今回の市民団体の提案は双方の立場が一番厳しく当たる法的責任の認定問題で被害者側と日本政府がそれぞれ立場に解釈できる曖昧性を持った折衷案であるわけだ。
提案に参加したヤンジンジャ'日本軍慰安婦問題の解決、全国行動(日本の市民団体)'共同代表は"法的責任の認定が必要ないというわけではない"と前提した後、"加害国が過去、軍がどんな仕事をしたかどうかについて具体的に認めるならば、それ自体が法的責任を認めたこと"とし、"賠償という言葉に(法的責任が)集約されている"と紹介した。
挺対協のユン・ミヒャン常任代表も"法的責任の内容を提言(要求事項)に放しておきたと理解できる"と説明した。
昨年6月、日本軍慰安婦問題アジア連帯会議で初めて設けられた同方案は何より被害者側の声を代弁する挺対協が同意した案という点で関心を集めている。
日本側関係者は、軍慰安婦問題解決協議に積極性を示さない背景の一つとして'政府間で合意が行われても、挺対協が拒否すれば白紙化される'は認識を表明してきたという点で、挺対協の同意は交渉を進行中である韓日両国政府に示唆するところが少なくないそうだ。
この対策について、アジア女性基金に関与した和田春樹(和田春樹)東京大学名誉教授は"軍慰安婦問題解決の基礎になる案だと思う"、"朴槿恵大統領と安倍晋三(安倍晋三)首相の首脳会談前に両国がこの解決策によって行動すればいい"と話した。 (取材補助:岩井リナの通信員)
23日、日本東京の参議院議員会館で'軍慰安婦問題の解決可能である'いうテーマでシンポジウムが開催された。 右から和田春樹(和田春樹)東京大学名誉教授、尹美香(ユン・ミヒャン)韓国挺身隊問題対策協議会常任代表、軍慰安婦被害者であるキム・ボクドンさん、ヤンジンジャ日本軍慰安婦問題の解決、全国行動共同代表、林博史(林博史)関東学院(關東學院)大学教授。
帰省して棚を整理してたら中学生の頃の通信簿とかテストの成績とかが出てきて、
閉鎖的な学校と相対評価制の内申点(通信簿)に苦しめられた中学思い出がよみがえったので書く。
当時は1学年30人ちょっとの田舎の公立中学校で、俺のような途中加入のよそ者以外は基本的に全員が保育所~中学までずっと一緒、
田舎では起こりがちなことだけど、後にサラっと東大・京大に行くような子から、ちょっと学習障害のある子まで全部いっしょくたな感じの教室だった。
俺の学年はたまたま勉強が得意な人と苦手な人ではっきりと二極化していて、人数分布が平均点を挟んで上と下にきれいに山が二つできているような状態だった。
学年全体の平均点は55点ぐらいだけど、30人のうち上位15人に絞ると平均点は88点!みたいなこともあった。
そんな状況だったけど、最初に書いた通り当時その地域は内申点の付け方が相対評価制だったので、
10段階評価で、1学年内で10が付くのは1人だけ、9も1人だけ、8が2人、5位以下は問答無用で7以下がつくというシビアさだった。
同じ学区のもう少し大きい中学校で同じテストの点なら、間違いなく9か10、みたいな生徒にも頻繁に7や8がつけられていた。
その結果クラス内には、テストの結果だけ見ると志望する高校どころかさらにワンランク上の高校でも余裕で合格圏内なのに、
内申点が志望校の基準とされる点にはだいぶ足りず、学校側は前例に則って内申点を基準にして進路を指導するので、志望校のランクを実力から大幅に落とさせられる人が続出していた。
(三者面談で教師がOKを出さないと受験が許可されない風習があった。)
ちょうど自分達の2学年下からは制度が変わって内申点が絶対評価制になっていたのもあって、余計に制度に対する恨みの声が強く渦巻いていた。
これに関しては何人もの同級生が、将来的な進路を割と歪められたんじゃないかと今でも思っている。
そして、これもまたありがちなことに、教科担当教師の覚えがめでたいかどうかで内申点が上下する傾向もかなりあった。
前述の通りテストの点数が拮抗していたので、「授業態度」「積極性」みたいな部分に対する先生のさじ加減で簡単に順位が入れ替わる感じだ。
ひどい教師は「この子は親が教師だから」みたいな理由で日常的に謎の加点をしているフシすらあった。
俺はというと、1年生の時点で
「入学してきた中に一人だけ知らない顔がいる、見慣れない転校生め、チビのくせに生意気だ」と複数の上級生に一方的に目を付けられてしつこく絡まれていた。
けれどその内容が
・掲示されている俺の写真を傷つける
・持ち物をちょっとだけ移動させて隠す
といった程度の幼稚かつしょうもない嫌がらせばかりで、大して実害がなかったので全て無視して放っておいたにも関わらず、
俺が黙っていても目撃した同級生がまた素朴で素直で心根の優しい子たちばかりで、
何かあるとすぐに先生に報告していたので、しょっちゅう事情聴取の為に職員室に呼び出されていた。
そういうことが続いていたので他に問題らしい問題がない平和な学校内では目立っていて、入学早々に職員室内で問題児認定されていたらしく、
「校内唯一のいじめのターゲットになるからには被害者にも相応の原因があるのではないか?」(転校生で物珍しかっただけだと思う)
「部活動でも上級生との間にトラブルを起こしている」(絡んでくる上級生のうち数人が部活の先輩だった)
「校内トラブルについて指導すると、反論したり納得のいっていない様子であることが多い」(俺の趣味がレゴブロックであることを教師にとやかく言われる筋合いなんかねーよ)
「いじめられても泣きも怯えもしない、校内で自分だけがいじめられているのに萎縮・反省している様子がまったく見られない」
「増田くんと話していると、感情の欠落した異常なモンスターと話しているような気持ちになる、なにか精神的に異常があるのでは?」
「上級生とトラブルを起こす頻度が他と比べて突出して高い、すなわち問題行動の多い生徒であり、他の子に悪い影響があるのではないかと危惧している」
と、クソ担任からハッキリと上記のようなことを最初の面談で言われて、ブチ切れた母親が反論したことで、
「学校や教師に反論したり反抗的な態度を取る、問題のある家庭」
として親子ともども学校側から致命的なまでに嫌われてしまった俺の内申点は、上級生がいなくなっていじめがなくなった3年生になってもそりゃもう見るも無残な様子だった。
特にひどかったのが、生徒指導担当で部活の顧問もしていた教師が担当していた理科で、
日ごろから妙にキツく当たられたり、「授業」で忘れ物をするとなぜか「部活」を辞めるかどうするか選べ!とか怒鳴られたりして、
別にやりたくもないのに人数が少ないので強制的に何かの運動部に入らされていただけだったので、
「え、辞めていいなら辞めたいんですけど、いいんですか?」って返事したらどつき倒されたりするっていう調子で目を付けられていた。
当然テストが割と良くても7以上の成績はまったくつく気配がなくて、3年2学期、内申点として提出する最後の学期に、
定期テストは中間で96点(2位)、期末で98点(1位)を取って、今回はさすがに9か10が付くと思っていたら、通信簿を見ると「6」がついていた。
ちなみに、中間90点(4位)、期末89点(7位)だった親友のD君は、その時「8」がついていた。
さすがにこのときはあまりにも納得がいかない、と教師に確認しに行ったが、
「ほら見ろコレ、増田は宿題2回も忘れてる!Dは1回だけ!そういうことや!以上!」と追い出されたので、
宿題1回分+授業態度でこの逆転現象が起こったのだと判明した。どう考えても普通じゃない……と思う。
その後、他の子とも成績を見せ合っていたら、テストの点に対して不自然にその教科でいい成績をもらっている子がいて、
要するに、低めの内申点でいける高校を受験する生徒の内申は適当に理由を付けてガクッと下げておいて、
少し背伸びして受験すると三者面談で(親が)ゴネた(親が教師の子は、進路相談時に多少無理がきいたそうだ)生徒の内申を、
その学校の必要ラインとされるあたりまで上げるための順位操作的な工作が行われたのだろう、ということが容易に想像がついた。
あまりにも露骨に手心を加えているとしか思えない成績に嫌気がさして、見返してやりたくなったので、
もう内申点としての意味はない最後の三学期、過去に例がないほど熱心に勉強して、提出物を全て出した上でテストで98点(1位)と100点(1位)のスコアを出して、
「今回は宿題全部出してますよね?」と事前に念押ししてみたら、最後の最後に理科で初めて「10」が通信簿に並んだ。
という思い出深い「10」のハンコを見て色々と思いだしたので書いてみた次第。
こういうの、今は知らないけど一昔前は結構よくあったことなんじゃないかなあ。
ちなみに「お宅の子は精神異常者じゃないんですか?」とか親に言いたれやがったクソ担任は今もどこかで教師をしているらしいし、
理科の教師に至っては生徒指導の実績が評価されて出世し、母校が廃校になって統合された後の中学校の教頭をやっているらしい。
噂に聞く限りでは、現場にいない分直接的な害は当時より少ないみたいだけど、
相変わらずいろんな不幸をまき散らしているらしく、ほんの少し都会寄りで「先生の言うことは絶対」なんて思ってない地域の父兄や生徒からの評判はすこぶる悪いようだ。
これはあるかもなあ…。
積極性のある性格の女の子キャラって、少女漫画だとほぼ当て馬・敵役で、
君に届けの爽子ちゃんや、NARUTOのヒナタのようなキャラの方が、
攻める女は共感出来ないし嫌い、っていうのが大半なのかな。
「女にやられる男は情けなく感じて魅力がない」
確かに、最初からのび太みたいな情けないキャラが受けでも萌えないね。
ハーレム系ライトノベルのヘタレ男主人公がオロオロしながら受けてても萎えるし。
BLには、プライドがあって能力もあって、男らしくあろうとしている男キャラが
受けだったりリバだったりっていう作品があるんだよね。
PDについてはこちらを参照:http://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_personality.html
有名なのは境界性人格障害や自己愛性人格障害、いわゆるサイコパスといわれる反社会性人格障害あたりだが、ある程度は治療と投薬によって行動や認識の歪みが改善されるといわれている。
最初は,問題が患者自身にあるということをわからせるよう努力すべきある。もう1つの原則として,人格障害の治療には長い時間がかかるということが挙げられる。通常,長期の精神療法または同じような人々とのエンカウンターによって繰り返し直面化を行うことで,自身の防衛,信念,および不適応的な行動パターンを本人に気づかせることが必要である。
(中略)
対人関係上の問題,すなわち依存性,不信感,傲慢,操作的態度などを変えるには通常1年以上を要する。対人関係の変化をもたらすかなめは個人精神療法で,これは患者が自身の対人関係における問題の原因を理解するのに役立つ。セラピストは患者の思考と行動パターンの望ましくない結果を繰り返し指摘する必要があり,ときには患者の行動に制限を設ける必要がある。このような療法は演技性,依存性,受動-攻撃性人格障害の患者にとって不可欠である。一部の人格障害(例,自己愛性や強迫性のタイプ)では,態度,予想,信念が精神的にどのように体系化されているかということが関係しており,このような患者に対しては,通常3年以上の精神分析が勧められる。
引用:http://merckmanual.jp/mmpej/sec15/ch201/ch201a.html
要は彼らの出してくるストロークに反応せず、犬や猫をしつけるように「だめ」「よくない」と突っぱねることが大事だ。もともと対人関係のコントロールは下手でないはずなので、ある程度行動が矯正され、認識の歪みが是正されれば彼らはさして害のある人ではない。メンヘラには絶対接触するなみたいなことがネットではよくいわれているが、そういう分断処理をするくらいならおかしいことにはNGと出していったほうがよほど建設的だ。そしてそういうことをする人がいないまま年月ばかり重ねると、ますますパターンが硬直化するので手が付けられなくなる。
なのだが、PDの人々だってもちろん人間だし、目の前の箱だって使えるので、人の同情を引く方法については常に研究を重ねている。彼らにとって今一番「アツい」ツールはモラルハラスメントに被害者という立場らしい。
本当のモラルハラスメントの被害者とモラルハラスメント被害者を装う人格障害者の違いは
というあたりで判別が付けられる。
例としてこれを見ることにする。
http://anond.hatelabo.jp/20150527070630
魚拓はこちら:http://megalodon.jp/2015-0527-1210-33/anond.hatelabo.jp/20150527070630
話の内容をまとめると
SAS(無呼吸症候群)は寝ている本人はわからないので基本的に家族やパートナーに対しても問診をおこなって、疑いがある場合は検査をする。ただし検査は自宅で寝ている時に呼吸などのチェックを行うものであり、この増田が言うとおりいびきの音が録音されていて無呼吸と思われるなら、入院して同じように睡眠時のデータを取る。問診で録音があるにも関わらずSASではないといわれたなら単にいびきがうるさいだけ。いびき改善にマウスピースを使用することはあるが、別にデータの改竄をする必要はない。また他の病院でマウスピースを作らせるというのも意味不明。おそらくこれはなにかを隠したいための嘘と思われる
メンタルがやばいのに同棲は開始し、しかも自分は仕事をやめたが、安定していないので同棲は解消できないというのはおかしい。自分勝手な理論である。
どういう成り行きで同棲することになったかは知らないが、ただでなくても面倒な引っ越し以外のもろもろ(特に同棲の場合は契約も面倒だし)を丸投げされたら普通は嫌になる。そこでやっぱり同棲はやめましょうと本来相手はいうべきだが…
また夜勤明けの休みの日にわざわざ引っ越し日を設定すればそれは機嫌が悪くなるだろう。夜勤がある仕事なら日中いない日もあるわけだが増田がわざわざそれを選ばずに最悪な日を選択したのは、他者が感情を持っていることを理解できていないためだと思われる。面接の準備もして実家に帰っているのでさして緊急事態ではないようだから、二時過ぎに親の家に帰るというのはわりと非常識である。親子だから許されるというのもあるが…
また、
自分の母親は最近再婚して、同棲前に顔合わせしたんだけど、その時も借りてきた猫のように相手がおとなしく、相手の紹介や両親との会話にまったく積極性が感じられなかった。
出会って一ヶ月の彼女の母親の再婚相手に対して積極的に行く理由は特にない。
またこの他全体を通して、「母親に対していい顔をしたい」「自分が怖いのでやりたくない」「相手が可哀想=自分に迷惑をかけられたくない」「迷惑をかけそう=自分が恥をかきそう」と言い換えられるところを見ても、この人の世界には自分と母親しかいないと思われる。
相手がどんな調子で詰ったのかはわからないし、実際怖かったのかもしれないが、増田も怒鳴り返しているようだし、電話したり翌日の準備をして出る程度の余裕はあるらしい。とはいえここは相手の様子がなんとも言えないので実際にかなり恐ろしかった可能性はある。が、その後のストーカー化して殺人事件に発展しそうというのは飛躍である。
全体を読めばわかるが、引っ越しの丸投げ、夜勤明け日を知っていながらの引っ越し、同棲するにもかかわらず勝手に仕事をやめ解消には応じない、自分は病院に行かないが相手のいびきに関しては病院に行く、夜中に蹴飛ばす(これはわりとお互いさま)、などなど散々相手を煽っていくスタイルである。適当なところで手を切らない相手も相手だが、過労寝不足の状態で声を荒らげずにいられたら、相当の聖人である。
この増田の場合、妙に母親の顔色を伺うところがあるのでおそらく母子の問題があるのだろうが、それはそれとしてこれのブコメのようにモラハラ被害者かわいそうというスタンスをとると、この手の増田は増長してますます人格障害がひどくなる。たとえブコメであっても、むしろネットだからこそ、しっかりと矛盾点を指摘していったほうが、同情を寄せるより本人のためだと思う。
うっすらとしたフラグだと、これはフラグだという自信が持てなくてスルーしてしまい、
あからさまに口説かれる、ゴリゴリ来られる場合しかフラグを育てられなくて交際に繋がらないのだけど、
これまで付き合った人全員、ボダっ気があるというか、年齢不相応な構ってちゃんというか、精神が不安定な人だった。
彼女が絶え間なく居る。浮気はしないが、関係がダメになりそうになると次の好きな女を作る。女友達もたくさん。
コミュ力が高いというより顔色を伺う。自尊心が低い。過去の暗い話を良くする。営業職で、飲み会でははしゃぐが、根は暗い。
精神が健康な人(承認欲求過剰でない人)と付き合おうと思ったら、うっすらとしたフラグを嗅ぎ取って、
ある程度は自分も積極性を持たなきゃいけないのかもしれないな。
健康な人はそこまで恋愛に餓えてないもんな。渇望がないから積極性にも欠ける。
ChieOsanai よほど変なコミュニティにいるのか、よほど増田が鈍いのか、よほど増田がブs………あ、ごめん。なんでもない。今の忘れて。
学校や、仕事で知り合う営業職の人で、変なコミュニティで知り合ってはいないと思うんだけど…。趣味では男と知り合わない。
あと私自身も学生時代はカフェ店員などの接客バイト中心で、今は営業職、とんでもないブスだったら回されない仕事だと思う…。
ボダって言っても、大量服薬するとか、手首切るレベルの本物ではないと思う。
自己憐憫っぽい物言いがすごく多くて、演劇くさい喋り方をするというか。デートは演出してくれるけど、私はそういうのあまり必要としてない。
愚痴っぽい。女々しい。最初はわかりやすい好意の表現に引っ張られて付き合うけど、根暗さに辟易して突き放すように別れるパターン。
好意の「表現」はオーバーだけど、実際は自分に酔ってるだけで、自分にしか関心が無いのが見え見え。別に自分に酔うのはいいけど。
あと清潔さや、容姿に気を遣うのは長所だと思う。でも性格が……根が本当に暗くて……愚痴聞くのがしんどくて付き合ってられない。
すぐ泣くのも鬱陶しい。女々しい以外に形容しようがない。うざい。重い。それがボダっぽいと感じる。
それそれ。追えない。そもそも、追いたくなるほど好きになる人も居ない。
言いたいことはよーくわかる。
ぼくも研究室配属の時、同じ学科の人たちがこんな研究をしだいだのなんだのと言っているのを尻目に一切迷うことなく一番楽な研究室に決めていたし、授業の一環で講演みたいなものを聴きに行かされた時も、どこぞの会社の役員の
「社会で活躍する研究者となるためには積極性がなければ云々」みたいな話を、「社会に洗脳されるとこんなことを本気で言うようになってしまうものなのか~」と思っていたぐらいだ。つまりはぼくも、仕事が面白かろうがつまらなかろうがそんなことはどうでもよくて、生活に困らないぐらいの給料が楽に稼げればそれでいい、と考えているということだ。まあ今時、こんな人間は石を投げれば当たるほど大勢いるとは思うけど。
だけれどもいざこの時期になると、そんなやる気のないことばかり言ってもいられなくなってきた。なにしろあと一年で大学を卒業してしまうのに、その頃もし職がなければ収入もない、収入がなければ死んでしまう。そういう非常にシンプルでかつ、容赦のない理屈が世の中には存在する。だからその自分の話す志望理由だとか自己PRだとかいうものが所詮おためごかしにすぎないとわかっていたとしても、やるしかない。有吉弘行がマイナビのCMで「やるしかないから、やるしかない」と言っていたけれど、身も蓋もないこの言葉はおそらく事実そのものだ。もちろんぼくは今も依然として向上心があり、リーダーシップがとれて、皆から人望がある人間なんて唾棄すべき存在だしクソくらえだと思っている。だがそれはそれとして、就活なんて“入社してからも続く、面白くもなんともない仕事”と性質は違うものの同じだと考えて、割り切った方が間違いなく得だ。どうしてもそれがイヤなのなら、頑なに夢を語らず内定のないまま卒業しても良いと思うけど、おそらくそれだと自分の思い描いている“普通”の暮らしとは程遠い生活になると思う。実際、その“普通”の暮らしを送ることができない人間は世の中にけっこうな数いて、もはやそれはぼくたちにとって決して他人事ではなくなっている。だから、我慢して夢を語ることと、自分の思い描いた暮らしを享受すること。その二つを天秤にかけて、好きな方を選択すればいいと思う。その結果はあくまでも自分の責任で、上手くいこうがそうでなかろうが、その結果は誰のせいにもできない。
就活というものはある意味、イニシエーションの儀式なのだと思う。
学生時代、人は誰でも自分のことを内心で特別な存在だと思っているが、その多くは取るに足らない凡人にすぎない。今まで特別だと思っていた自分という人間が、ありふれた存在であるということを知り、また自分の思っていた“普通”の生活を維持するのは思いの外大変だということを知り、人は通過儀礼を経て成長するのだと思う。しかし、人によってはその挫折に耐えきれないこともある。就活というシステムが若者にとって良いシステムなのか悪いシステムなのかはぼくにはよくわからないけれど、システム自体を変えることができないぼくたちは、ほどほどに頑張るしかない。
自分が愛される側か?
自分が愛す側か?
どんな状態で結婚生活を続けていくのが幸せだろうか? 何が正解か?
(よくある飲み屋の話のネタで聞き飽きた、が、あえて聞きたい気分だ)
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岡田将生に似た、唇の薄い整った顔立ちと、光をよく反射する目。
笑顔が素敵だった。
なにより一緒にいて楽しく、安心する。
話も合う。出身地が近く心地が良い。
そして体の相性もぴったり合う。小さいし早漏だがぴったりだ。
これ以上の人は居ないと思った。
珍しく積極性に、毎週末ご飯に誘う。
彼も毎週美味しい店へ連れていってくれる。
でも、つきあっていたようで付き合ってはないような関係。
セックスはするが、キスはされたことない。遊びか?と思いもしたが
誕生日も彼女ではないとやらないだろうと思うほど盛大に祝ってくれ、
祝日もほぼ予定をあけてくれていた。
遊びとは思えない。しかし、付き合おうという話も出ずにいた
そんな付き合いを1年半続けたあと、一緒にすもう、ということに。
同棲をはじめる。
最初、一緒に寝ることを拒まれ、違和感を感じていたが、徐々に一緒に寝るようになる。
その後1年で子供を授かった。
私はこんな嬉しいことはない、と震えていた。
結婚しよう!とはならず、迷っていた。
話し合いの結果、入籍。
入籍の際、彼は、私をそんなに好きになれてはないんだ、と告白する。
私は戸惑い、ショックながらも、それを受け入れて、家庭を築いていくことを決心した。
入籍を決意し、私と家庭を築いていきたいという彼にも感謝した。
将来的には持ち家がほしいよなと二人であれこれ待ち望んでいたら
その三ヶ月後、流産をする。
悲しかった。
子供が亡くなったことがうけいれられなかったが
このまま、また二人目もいつか作ろうか、という余裕も出てきた。
前向きに二人の稼ぎをすこしでも増やして、
俺は、本当はお前を愛していないんだ。
手を繋ぐのを拒むのも
キスしたくないのも、それは恥ずかしいから、キスが苦手だからではないんだ
お前がそうやって寄り添ってきたりキスしてくると、
何でそんなんするの?!嫌だ、という気持ちになる。
俺からすると、嫌なことを我慢してやるんだ。
自分に置き換えて考えてみろ。触られて、ん?!っと眉間に皺寄せるような相手にキスできるか?
しかし一緒には居れる。お前と一緒に居たい、でなくて、一緒に居れる。
そんな気持ちからお前を好きになりたいと、ずっと努力してきた。意地を張ってるわけではない。好きになれたらどんなに幸せに過ごせることか。でもできない、ってのは辛いものだ。たまにスキンシップをするのは、やらないと、悲しむと思ってなんだ。
そんな関係で、今後うまくやっていけるかよく考えてくれ
俺が結婚式が乗り気でないのは、みんなの前で、
心から愛を誓いお前を守ることなんてことが言えるわけないからだ。そんなもの嘘になってしまうから、やりたくないんだ。そんなものはやる意味なんてないんだ。おめでとうと、言われてもそれに関して全く何も思わないから、複雑な気持ちになる。
確かに、今後どう気持ちが変化していくかわからない。だけどそこに賭けて過ごすことは大事なのか?と。
俺は離婚はしたいと思ってる訳でないが、離婚した方が良いと思う。
しかし、お前が一番したいようにしてほしいから、一緒にいたいなら、いる。よく考えろ。
子供も、好きだから欲しいけど、お前と作ろうって気分になれないんだ。
妹にキスができないように。
私は、言った。
あなたが結婚式をしたいと思える気持ちを持てるまで待つし、子供も待つ。
状況によって人の考えなんて変わっていくから、今はまだ諦めずに待たせてほしい
もし作れなかったらどうするかって?それは、あなたのせいじゃないわ、私が決めたことだから責めないし、しかたがない。その時はその時だ。閉経してようがなんだろうが。
離婚をしたら、もうあなたとは終わってしまう、まだ未来をみたい。こんなに好きになった気持ちを捨たくはない。
あなたの為に、離婚したほうがいいならする。私の気持ちに併せる?ならば、続けていきたい。
キスやスキンシップは、相手からされるまでは、もう簡単にねだったりしないように心に誓った、。
わたしがもっと抱き締めてほしいといって寂しい雰囲気を出してしまうと、彼も悲しんでいたのだ。
明日も明るく元気でいつも通りでいよう。
(冷静になると、夫に惚れすぎて気持ちが悪いレベルだし、夫からも、そのポジティブさが気持ち悪い、お前がなんの駆け引きもなく純粋にアプローチしてきてのめり込み過ぎな所に好きになれない原因があるのかも、と。)
(夫は、所謂生理的に合わないと私に対して感じているが、どうなっていくのか?なにも変わらないのか?)
わたしが、なにを我慢しても優先したいことは、彼と子供をまた作り家族を作ることだ。
彼の子供を幸せな家庭で育てることだ。彼はそれで幸せだろうか?
何があっても側で支えて、見守っていきたい。
彼が今後、本気に好きになった相手と不倫関係になる可能性はあるだろう
そうなったら、それまで付き合ってくれた夫に感謝して私たちは終わらせるべきなのだろう。
心からは祝福はできなさそうだが。
しかしそこで相手に子供なんてできてしまってたら、私は立ち上がれなさそうだ。
寂しくて悲しくて、でも泣けなくて、涙も出てこない今、
体をくっつけて横でスヤスヤ寝ている夫と、これから愛情を育む可能性と時間を持てるのならば、
この一秒が、この鼓動が、とても愛しくて幸せに感じる。
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平凡な会社の営業なんだが、最近は出世したい売り上げたいとかでなくて
夫とこうしていきたい、子供とこうしたい、が原動力だったから。
昨日珍しく抱き締めてくれたのだけど、好きな人から抱き締められると
寂しくても悲しくても、それだけで力がわいてくる感じだ。
今まで三人ほど真剣におつきあいしてきたが、こんな感じは、はじめてだ。
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追記
別に世の中は間違ってないと思うけど、友達になりたいな、と思った人が携帯持ってなくて困ったことがある。
結局友達にはなれなかったんだけど。
携帯ない当時を想像すれば、定期的に会える関係でいるか、定期的に連絡や逢瀬を重ねる積極性がなければ友達なんてあり得なかったはずだ。
1度あってフィーリングが会えば連絡先交換→連絡という現在はある意味特殊だ。
友達を増やす方法として、もう一つは友達のハードルを下げること。(1度あったら友達ってテンション)
年寄りの大物で異常にコミュニケーションのハードルが低い人がいる。俺の会社の社長はそれだ。
もちろん上っ面の建前で言っていることはわかってるし、ちょっとあきれる部分もある。
しかし月日を重ね使い続けたその言葉は何故か説得力があったりするし、交友関係は広いように見える。(社長なら当たり前か)
それを踏まえて言えば、メディアが普及したらコミュニケーションのハードルは逆に上がっていると言える。
「友達は選ぶもの」という考えが一般的になった。本音は言いやすくなったけど、建前は言いにくくなった。
結果、建前でつながる友達関係は減ったし、本音を言える友達は作れない。
(元投稿の方はコミュニケーションのハードルを更に上げようとしている。きっと苦しい人生が待っているに違いない。)
元投稿の方が言いたいのは、本音を話せる友達が欲しいってことなんだろう。
そのために建前の関係になりそうな友達はいらない、とのことなんだろう。
しかし本音で話せる友達を作るためには、建前でつながる友達も必要なのだ。
そんな俺も笑っていられない。よくよく思い返せば、去年増えた友達は皆無なのだ。ここ数年でも両手で数えられるだろう。
忘年会で昔からの友達と会って、ふいに自分の中の劣等感とか自己肯定感の欠落に気づいた。
一人は女で、結婚して専業主婦。つい先日妊娠したことがわかって、その席で彼女の妊娠を祝った。
もう一人は男で、そこそこの企業に勤めていたが企業体質に問題があって、先日、公務員試験に合格し転職予定、ってことを聞かされ祝った。
俺は、2011年の氷河期世代で一度就職に失敗し、ほうほうの体でなんとか小さい公益法人に入った人間。特に今後の明るい話はない。
そんな近況を報告しあった時、昔からの長い付き合いだった二人に対して劣等感を、はじめて、明確に意識した。
なんというか、彼と彼女には落ち着きが出てきた。自分の出してきた成果、これまでの人生に対して屈託がなくなった。
昔は、この3人はどこかしら自信に欠けたところがあって、いやしい話や、汚い部分、ネガティブな部分も話せていた。
人間の弱々しくて卑しい部分を共有できる貴重な関係お互いに弱みを見せられる関係だった、と思う。
それぞれに順調に人生を歩んでいく2人がまぶしいと感じた。
俺が昔の感覚で、皮肉や斜に構えたことを言うと、苦笑されたりそれは違うと正論を返されたりした。
男のほうが特に変化(と俺が勝手に思ってるだけかな)が顕著で「俺はうだうだ言ってばかりで行動しなきゃダメだってわかったから!」というような発言が増えた。
俺に対する当てこすりもそれなりに入ってるんじゃないかと思う。気のせいだと思いたいけど。
昔、何度も二人で一晩中、人生の不安だとか、自分はこういうところがダメだよなとか、そんなことを語り合ったそいつが
俺を引き合いに出すようにそんな正論を真顔で言うようになるなんて。
世間一般的には、彼らは大人として順調に成長したのであって、それはきっと正しいことで、喜ばしいことなんだと思う。
大事な友人が大過なくそこそこに順調な人生を送って、そういった境地に到れることを嬉しく思う気持ちも、祝いたい気持ちもある。
そうすべきだとも思うし、現にそうした。
でも、一方で、ネガティブで卑屈な俺の本性の部分は、言いようもなく寂しさを感じた。
俺はあんな風に、自分のしてきたことを胸を張って発表したりできない。
羨ましくて惨めな気持ちになる。そう感じる自分の品性は実は特別に下劣なものだったのだと思えてくる。
「自分は努力してこういうことを達成した」という自信のある人が心底、とてつもなく苦手だと、この歳になってようやく気づかされた。
自分にも成功体験くらいはある。就活では散々苦労したけれど、最終的にはそこそこおカタい所に行き着くこともできた。
少なくとも客観的な事実としていくらか「これを成し遂げた」といえる記憶はあるんだ。
でも、その事実に対して胸を張ることができない。達成したという自信を持つことができない。
単なる事実関係の比較の問題じゃあなく、問題はもっと根本の、俺の価値観、感受性の歪みにあるんじゃないかと思う。
俺はどうやら、いわゆる「自尊感情」とか「自己肯定感」みたいなものが欠けていて、そこからくる劣等感や不信感に苛まれているんじゃないか。
常に自信や意欲に欠けていて、特に他人と関わることや意見を表明することへの積極性が乏しい。
自分に自信が持てなくて卑屈になり、世の中がとにかく生き苦しい。
これはもしかして、ネットでよく見かける生きづらいって症状なんじゃないかなと思って、なんとなく整理の意味も込めて、あと吐き出したくて文章にしてみた。
28のいい歳の大人が言ってていいことじゃないよなとも思うんだけど。
2014/1/1 全文が正しく表示されていないことに気づいたため修正した。遅ればせながら指摘に感謝したい。
才能のあるワナビは己の思うがまま書き連ねればそれで問題ない。一次落ちなど経験することも無く、一発で新人賞を取ったり、取れなくても編集者が連絡してきたりして遅かれ早かれデビューに至り、そしてワナビに向けたラノベ創作論を書いたりする。私はこうやってプロとして本を書いてます、どうぞ参考にしてください。
これが意味するところは、才能のあるワナビは他人の書いた創作技術本を読んで必死にトレースしたりなどしなかった、という非情な現実である。ノウハウ本を欲するのはいつだって才能のないワナビで、そして才能の無いワナビは今日も選考落ちの通知を見て顔を覆うのである。○○先生の本に書いてある通りにやったのにどうしてダメなんだろうか。何がダメなんだろうか。
スティーブン・キングがプロットなど不要だと言う一方でディーン・クーンツはプロットの無い作品など糞だと断じる。大塚がまずキャラから作れと言う一方で冲方は世界から作らないようでは話にならないと言う。
ラノベに限らず小説創作技術本はそれぞれの主張がまるでバラバラであり、まとまりがない。もっともこの手の本は意識の高いサラリーマンがこよなく愛する成功体験本と同じカテゴリである。ゆえに真面目に考える必要は無いとするのも一理あるだろう。
実のところ彼らは単に表現が違うだけで、最終的に同じことを述べてるのではないだろうか。
手順が違うだけで、結局同じことをしているのではないだろうか。
もしそうだとすれば重要なのは手順ではなく最終的にどういう状態であるかにあり、その状態がいずれの作家も共通しているのであれば、それこそが欠かすべきではない要素ではないのか。
大沢は「技術は教えられるが、才能は教えられない」という。だがヒックスは「モノを書くことでの才能の問題は、相当に過大評価されて」いるとして、「それはやっていくことで獲得」できるものだと言う。
Hard work beats talent when talent doesn't work hard.
Tim Notke
本稿は個別の手順というより、最終的にどういった状態を目指しているのか、という観点でラノベ創作技術本の各説を整理し、俯瞰する。筆者はワナビではなく、単なる興味本位でこの整理を行ったに過ぎない。しかし才能が無いことを自覚し、それでもなお努力によってこれを覆そうというワナビにとって、本稿がより効率的な努力を実現する上での一助となれば幸いである。
本稿ではラノベを「ラノベの主要レーベルの新人賞に向けてワナビが執筆する、新人賞を取りうる内容の小説」と定義し、本質的なラノベの定義へは踏み込まない。このことからカテゴリエラーをめぐる問題はこのラノベの本質的定義の限界を探ることと同義であり、本稿では割愛する。
本稿執筆にあたり参考とした文献を下記に記載する。
まだ参照すべき文献は多くあるが、ひとまず本稿執筆にあたっては上記で一区切りとした。
ラノベ作家は商業主義であらねばならない、と五代/榊は明言し、飯田はキャッシュフローを生む作品こそが素晴らしい作品なのだという。実際、ラノベ新人賞は商業的に売れるラノベの発掘を目的としているのであって、ワナビの承認欲求を満たすためにあるわけではない。
新城はラノベの読者の多くは男子中高生であり、すなわち「毎月のお小遣いが限られている学生」であるとする。飯田はさらにラノベの読者はアニメや漫画、ニコニコ動画を好むオタクであるとする。そしてラノベは彼らの限られた小遣いの使い道として選択される商品でなければならない。榎本も西谷も水島も、いずれも同様に読者が誰かを意識しろと主張する。
ところでワナビが書いた新人賞用のラノベの読者は、中高生ではない。
新人賞の下読みの多くは大学生のバイトであり(あるいは主婦や新人編集者)、選考するのはプロの作家であり、プロの編集者である。いずれにせよ選考過程に中高生は存在しない。
読者が誰かを考えるべき、という指摘はもっともだが、プロの作家とワナビでは立場が違う。ワナビはラノベレーベルで勤めるサラリーマン編集者が想像する『中高生』にウケるラノベを書かなければならない。榎本は現実の中高生とふれあい彼らの考え方を理解しろと言うが、本当にそんなことをすれば事案待ったなしのワナビは少なからずいるだろうし、現実の中高生には圧倒的にウケるが20代30代の編集者には全く理解できないものがあったとすれば、それは間違いなく一次落ちである。
行頭は一段空けましょう、といった小説執筆上のお作法ができていなかったからといって間違いなく多くの中高生は気にしない。しかしプロは気にする。そうした基礎的作法の欠如は中高生云々の前にまず彼らに不快感を生じさせる、という点を理解しておく必要があるだろう(応募に際してはあらすじを付すようにという指示に対して小説の煽り文や序文を付けるといった無理解なども根は同じだろう)。
最終的なラノベに至るまでの執筆上の段階や要素は論者の数だけ存在する。例えばキングによるアイディア、原稿の2段階、クーンツを始めとするアイディア、プロット、原稿の3段階、冲方による能書き、種書き、骨書き、筋書き、肉書き、皮書きの6段階などがある。
本稿では「アイディア」「プロット」「原稿」の3段階を用いて各説を俯瞰する。この各段階は「アイディア」が最初であるという点を除けば、随時行き来することがいずれの説においても許容される。一度「プロット」に移行したら「アイディア」へ戻ってはならないなどと主張されることはないし、「原稿」の完成に至ってから再度「アイディア」の段階に戻る作家も存在する。
一方で、これらの「段階」はそれぞれ独立しているわけではないことに注意する必要がある。いずれもその前段階の上に構築されている。つまり、あるワナビが「プロット」に問題があると認識したとしても、その前段階に問題がある可能性は否定できない。これは感想や選評においても言えることであり、問題点の指摘がまったく的外れでなかったとしても、その問題を引き起こしているそもそもの原因は何なのか、という点を突き詰めなければ、根本的な問題はいつまでたっても解消されないままだと言えよう。
以下、それぞれの段階についての各論に入る。
「アイディア」とは筒井がいうところの「妄想」であり、単語、キーワード、フレーズ、断片的な会話や場面など様々なものであり、その創作で用いるかもしれないし、用いないかもしれないネタである。
冲方は「アイディア」を3段階に分けており、まず主題を考え(これを能書きと称する)、次にそこから様々な雑多なアイディアを連想し(種書き)、今回はこのあたりのアイディアを使おう、と決めて整理する(骨書き)という。
しかし実際には冲方自身、これらを行きつ戻りつして執筆を進めていくとしており、「骨書き」の段階からは後戻りしないと固定しているわけでもないことから、本稿では参考として紹介するに留める。
この「アイディア」の種類についてもいくつかの主張があり、例えば冲方は主題、世界、人物、物語、文体の5種であるとするし、榎本はキャラクター、世界設定、ストーリーの3種としている。分類それ自体が意味を持つものではないが、それぞれが独自の用語を用いて自説を主張している状態では整理のしようもないため、本稿では「主題」「世界」「登場人物」の3種に分けて整理する。
本稿では主題とテーマは同一の概念とみなすが、主題とは、そのラノベ創作において根幹となるアイディアのことである。冲方や大塚はこの主題を根として木構造状に各アイディアが繋がっていることを主張する。
主題を確定するタイミングについて冲方は真っ先に考えるとするし、大塚は作成した主人公像の要素を深化させそこから主題を抽出するとしている。榎本はプロット作成の段階で必須としていることからそれ以前に考えておかねばならない。西谷は執筆段階で突如として「物語の核」を意識する、と述べるが、この「物語の核」が主題とみなせるのであれば、プロット後に主題を決めてもいいということになるだろう。
このように主題をいつ考えるかは説によって大きな差があるが、結果としてラノベ創作において「主題」が必要不可欠だと多くの作家が述べていることに変わりはない。
繰り返しになるが、全てのアイディアの共通の祖先として「主題」は位置付けられる。従って本稿の分類で言うならば「世界」や「登場人物」は必ずこの主題と関係する要素を持たねばならない。言い方を変えれば、「主題」はアイディアとアイディアの共通要素として機能するため、ワナビ本人は主題として位置づけたが、それが「世界」や「登場人物」に関係していないのであればそれは「主題」ではない。
この「主題」があることの意義について、「読者は「設定資料集」を読みたいのではなく、「物語」を求めている」という榎本の指摘、また「「細部」には主題が宿る「細部」とそうでない「細部」があります。そしてあなた方の小説がしばしば欠いているのは「主題の宿る細部」なのです」という大塚の指摘を踏まえるなら、読者が「物語」と捉えるか「設定資料集」と捉えるかは「主題」の有無次第だ、ということになるだろう。
設定資料集が好きな人が存在することは事実であるが、彼らは設定資料集ならなんでも好きなわけではなく、特定の物語を好んだことで、その物語のより詳細な背景情報を知ることを好んでいるに過ぎない。興味のない物語の設定資料集など誰も目を通してくれはしない。
このように「主題」は重要な要素であると考えるが、その表現方法に関して榎本は主題を台詞や地の文で語ると胡散臭く、説得力が無くなるとしているし、クーンツは主題で読者を説教してはならないと注意を促している。台詞や地の文での表現を避けるとなれば、多くの場合登場人物の行動、またそれによって引き起こされた出来事によって表現されることになると考えられる。
本稿では会話文の主体になりうるものを形作る上で用いられる情報(名前、性格や容姿、口調など)の総体を「登場人物」と定義する。「キャラ」「キャラクター」とこれを区別するものもあるが、特筆の無い限り本稿ではまとめて「登場人物」とみなす。
一方で、登場人物以外の全ての設定を本稿では「世界」と定義する。具体的には魔法の有無などの自然法則、身分制のような社会構造、もしくは携帯電話の無い世界といった現代社会との差分もまた「世界」である。
いずれを先に考えるかについては諸説ある。例えば冲方や水島は世界が先だとするし、大塚や西谷は登場人物からだとする。榎本のように特に順序には言及しないものもある。
しかしながら冲方と大塚の「世界」と「登場人物」が揃った状態についての言及は非常に似通っている。
冲方は「人物たちの性格や言動や行動の全般は、結局のところ、大半が、世界と時代に左右されたもの」と言い、このような世界だからこそ、そこに登場するこの人物はこのような設定になるのだ、という必然性を要求する。
大塚もまた登場人物の個性については「キャラクターが所属する「世界」の物の見方の価値観に由来するもの」があるとしており、その人物の設定は彼の存在する世界の設定から必然的に生じたこのような価値観に由来するのだ、という必然性を要求する。どちらの側から見るかの違いだけで、冲方も大塚も目指している状態は同じだと言っていいだろう。
ワナビの「世界」について「リアリティが自分の身の回り3mくらいしかない」「おまえの世界には学校とコンビニと自宅しか存在していないのか」と五代/榊は批判し、リアリティには細部の設定が必要不可欠だ、という立場をとっている。一方で「登場人物」の細部情報への批判としては「異能力の内容だけやたら細かい」にもかかわらず「話に全然関係ない」としており、両者をまとめると「主題」の宿る細部こそが必要不可欠であり、それ以外の細部の設定は不要だとする大塚説とほぼ同一と言っていいだろう。
冲方は「そのテーマが内在する世界を、しっかり構築することができるようにならなきゃ話にならない」と世界における主題を重く位置づけた上で「実際にその世界について書かなくても、少なくとも自分は知っていたいし知らないと駄目」と細部の設定の充実に言及する。
その一方で登場人物については、冲方はそれが主題に関係しないのであれば「性別や年齢をあとから決める」とする。水島も登場人物はプロット上の必要性が出てから作れと述べ、最初に長大なキャラ表を作るというワナビにありがちな行為を繰り返し否定する。ヒックスは事前定義表に基づいて穴埋めで作られた登場人物を「組み立てられた登場人物」と表し、そして「最良の脚本には、組み立てられた登場人物は存在していない」と断じる。
だがこれらは登場人物に細部の設定が必要ない、という意味にはなりえない。例えばクーンツはプロットをまず作ることを前提とした上で、リアリティを持った人物描写のためには、登場人物に関しても細部設定が必要だとして、身長、体重、体型、年齢といった肉体的特徴、声や話し方、動作や仕草など多岐に渡る項目の設定を列挙している。
「登場人物」であれ「世界」であれ、リアリティは細かな設定によって得られるものだ、という点はいずれの主張とも矛盾しない。その細部の設定が「主題」と関係する場合は最初に考えるべきとする見解はあるが、関係しない場合、それがとりわけ「登場人物」の細部設定の場合、これを最初に考えることは多くの見解で明示的に否定されている、ということになる。
これとは相反する主張として、西谷はまず人物設定から始めるべきだとする。「積極性」「肉体的な強さ(美しさ)」「いざというときのリーダーシップ」「やさしさ」「辛抱強さ」「頭の良さ」で点数をつけてチャートを作成するのが良いとして、さらには性格、趣味、髪の色からメイクの仕方、ブラジャーの形状までを設定例として挙げており、そこには「主題」との関係性への言及はない。
ところが西谷は実際の作例において仮置きの主人公を用意するに留めており、チャートについては一切触れず、細かな設定も一切用意しない。まず最初に「世界」と「主題」に取り掛かり、「企画を練り上げる段階で、主人公を変えてしまう」「主人公を引き立てる脇役は、書いている途中で思いつく」とすら述べる。
最終的なこの作例が実際の西谷の手順なのだとすればその手法はむしろ冲方寄りである。 Permalink | 記事への反応(5) | 20:41
働いている時は「無職」という単語にどうしようもなく惹かれていた。
「さっさと無職になってこんな社畜生活からおさらばしたい・・・」
そんな欲求にとりつかれていた。
無職の日常は最初は快適だったものの数ヶ月過ぎると不安しか残らなかった。
「将来に対する不安」
「周囲の目」
「無為に日々を過ごす事への罪悪感」
諸々。
働いている間はそんな不安は感じないのだ。ブラック企業に勤めていても、とりあえずは目の前の仕事を片付けることに集中してしまえばなんにも考えられなくなる。働いているので、無為に日々を過ごしている・・・なんてことも考えない。
仕事から開放されて少し時間が経った頃に不安は突如として現れて、私の胸を苦しめている。嫌なことばかり思い浮かぶ。自分を卑下するような言葉やあまったれた自己便宜的な文句を壁にぶつけては精神の安定を計る。
幸か不幸か、家族がいる私は皿洗いするなり、昼飯を用意するなり(弁当を買ってきたりインスタント麺にお湯を注ぐ程度)、部屋の掃除をしたりして、「何もしていない不安」から逃れている。いちおう他人の役には立っているのだ、という行動をする。
すると胸がやや軽くなる。ほんの少し スッ とする。
また私は働き出すだろう。またブラック企業に勤めてしまうかもしれない。もしかしたらアルバイトやパート、契約社員、派遣になるかもしれない。まだ分からない。でもいつかは働く。生きるのには金が必要だ。
だから今日の午前中、「楽してお金を得るには」と鬱々と考えた。
単純労働はだめだ。そうだ頭を使おう。人間には脳みそという素晴らしいものがあるのだから、頭を使って楽して金儲けだ! アンケートに答えてせこせこポイント貯めて換金なんてやってられるか! さくっとAndroidアプリでも作って一儲けすることに考えを割いたほうがよっぽどいい!!
私は「Android アプリ 儲け」とGoogle先生にお伺いを立てた。
結果は散々だった。
私は考えを方向転換させ、ブログで高収入!時代はアフィリエイトだよね!!
またしても現実は厳しい。
どうやら楽して儲けるのは難しいことのようだった。(そらそうだ)
私はPixivを徘徊した。自分のブックマークを眺めてはクリックし、しばしにやにやする。そこでとある作品に行く着く。
以前面白く読んでブックマークしておいた作品だ。書籍化されているらしい。
そうだ結婚だ!!
何度目かの閃きが頭に走り、しばし作品を読みフンフンと考えた。
積極性と自発的行動が求められるのは考えるまでもなくわたしは無理だと決断を下した。
見知らぬ人間と連絡を取り合い、食事し談笑するなんてハードルが高すぎる。
今、その工程をこなす自分を想像してみたが、その後のセックス的相性はどうなるんだろうとかしょうもないことしか考えつかない! 煩悩を直ちに消し去ってしまいたい。落ち着こう。
セックス、そんなものは一次的欲求を満たすだけの、ただそれだけの行為だ。他人と裸ん坊でベッドインせずともオナニーすれば性欲はひとまずどうにかなる。
まず性欲から離れよう。
今の私には「婚活」は無理だった。
アフィリエイトブログも、Androidアプリで一発大儲けも無理だ。そもそもプログラミングのプの字も知らない。
「なにこれ。意味分かんない」と頭の悪い女子高生の口調を真似るのが関の山だ。
親の脛をかじることだけはしたくない。
私は働かねばならない。
働くことは良い事だと思う。肉体を動かし汗をかく。お客様に「ありがとうございました!」と笑顔を向けつつ爽やかに言う・・・仕事を終えて家に着く頃には心地よい疲労感に包まれているはずだ。・・・心地よくなくとも疲労感はあるはずだ。
そんな日の夜はきっと寝やすい。無職で引きこもってセコセコとしょうもないワードを検索してはのたうち回る日の夜よりは寝やすいはずだ。
だから働くことは良いことだ。
どうせ長居もできず、耐え切れなくなったら逃げるようにやめるだけ。
そうして履歴書に汚点として刻まれるのだ。
そうなってはいけない。そうなりたくない!!
今はまだいい。金はある。働かないでいい。
でも、まだ、まだ働かなくていい。考えなくていい。
ちょっとは考えなくてはならないが、本腰入れなくていい。
まだ大丈夫だ。
自分の職場での体験を元にして言う。過剰な一般化乙、と叩かれるだろうけど言う。
出来る奴に(ばかり)仕事を頼んではいけない ←タイトルよりちょっと日和った。
理由は簡単だ。皆がそれをやると、出来る奴がいずれ潰れるか辞めるからだ。
バイトや転勤などで10以上の職場を見てきたが、まあ本当に頼りになるような出来る奴は、一つの場所に何人もいない。
一つの部署に10人いるとしたら、間違いなく頼もしいのは1人かせいぜい2人、まあ普通ってのが6人くらい。
2人くらいはイケてなくて、ときどき1人くらいヤバいほど駄目なのが混ざる感じかと思う。
自分もそうだが、複雑で責任重大な仕事ほど、部署に1,2人しかいない出来る奴に頼みたくなる。
実際、そうするのが短期的には最適解に違いない。
「相手にとって負担かも」という考えが頭を掠めない訳ではないが、自分も切羽詰まってるので「仕方ない」の一言でそれは片付けてしまう。
出来る奴の方が適宜仕事を断ればいいのだが、それをしない人当たりの良さや積極性が、往々にして「出来る奴」の条件に含まれる。
あるいは、そういう性格による経験値の高さが「出来る奴」を作るのかもしれない。
断ったりする人は「腕は良くても人格が駄目」という評価になる。
結果として一部の人間に仕事が集中し、出来る奴の負担は増える一方。よくあることだ。増田でそういうタイプ(推測)が愚痴っているのも見る。
で、5~10年くらいのスパンでみると、そういう人が「出来る奴」であり続けることは稀だと思っている。
断り方を学び「腕は良くても人格は駄目」評価の人間になるのが一番マシで、それ以外だと燃え尽きて楽な仕事に転職したり、鬱になったり体を壊したりする。
稀に変わらないまま生き残った場合は、業績の結果として出世し、今度はブラック職場生産マシーンになる。そう、すき屋やワタミのような。
いずれのパターンも長期的に見て社会の得とは言えないし、個人の幸福という観点からもよろしくない。
だから出来る奴に仕事を頼む回数は、最低限にしなくてはならない。短期的にはそれが悪手であっても。
特に、「他の奴でも出来なくはないけど、彼が一番気持ちよく引き受けてくれる」というような理由で頼むのは、本当によくない。
他の奴で出来る仕事は他の奴に頼むべきだ。でないと、何のために他の奴がいるのか。
そりゃあ、頼む側としては気持ち良い反応をしてくれる上に仕事のクオリティも高い方に行きたくなるのは分かる。
大いに分かるが、そこは我慢しなければならないのだ。
上司が全部仕事を割り振るタイプの職場なら良いのだが、他部署から頼まれて引き受けた人がやる、みたいなタスク分配の甘い職場も多い。
この話は、そういう職場でのことだ。